『ハーフ・ア・チャンス』~娘の父親として ジャン・ポールとともに③-②~

【<『ハーフ・ア・チャンス』~娘の父親として ジャン・ポールとともに③-①~>から続く】

 さて、次に、『ボルサリーノ』以後、『ハーフ・ア・チャンス』までのアランとジャン・ポールの作品を少し振り返ってみましょう。

 まず、ジャン・ポールですが、『ジャン・ポール・ベルモンドの恐怖に襲われた街』(1975年)などのノースタントの「アクション映画」は、初期の『リオの男』(1963年)以来、一貫していました。そして、『ベルモンドの怪盗二十面相』(1975年)などの「アクション・コメディ」や『ラ・スクムーン』(1972年)、『パリ警視J』(1983年)などの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品において、その本領を発揮して人気を博していったことは今更、コメントなど必要ないかもしれません。

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 また、『薔薇のスタビスキー』で、往年の「ヌーヴェル・ヴァーグ」左岸派の映画作家のアラン・レネと組むなど、彼の原点に立ち返った代表作も生み出しています。

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 このように様々な作風の作品で器用に、そして自然に演じることを得意としていた彼でも『Joywuses Paques(ソフィー・マルソー/恋にくちづけ)』(1984年)でのソフィー・マルソーとのロマンスは、不自然極まりない設定だったと私は感じました。はっきり言って実にみっともない中年オヤジの恋愛だったと思います。

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 一方、アランは、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品において、早くから実に多くの作品で「父性」をテーマとして追求していきます。なお、ほとんどの作品で、彼の寵愛を受ける対象は娘ではなく息子でした。『ビッグ・ガン』(1973年)、『ル・ジタン』(1975年)、『ブーメランのように』(1976年)、そして、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品ではありませんが、『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)、『Le passage』(1986年)・・・。

 息子は、父親にとって同志であり、後継者であり、何より自分の分身です。息子の悩みや苦しみなど手に取るようにわかります。初めて息子の机の引き出しから見つけたエッチ本やPCの履歴に残されたエッチ動画を母親が理解することは恐らく不可能でしょう。そこには嫌悪と不安しか発生しません。しかし、父親には同性であるが故の何とも言えない仲間意識がこの時期に芽生えるものなのです。

 恋に破れてしょげ返っている我が息子の情けない涙を理解することもたやすいことでしょう。父親としての息子への真の役割は、この段階で発生します。

 あくまで私見ですが、父親の存在など、息子にとって、初めてオナニーを覚える年齢からで十分だと考えています。男の子は、それまで母子家庭であっても全く問題無く育つのです。少し淋しい考え方ですし極論ではありますが、誤解を恐れずはっきり申し上げれば、小学校の運動会や学芸会などは父親の出番ではないと、私は思っています。
 また、サラリーマンとして単身赴任の辞令を断る時期は、息子が幼い時期ではありません。父親としての単身赴任への拒否や解消は息子の思春期以降なのです。この時期から父親と息子は最も自然な素晴らしい関係を構築していくことが可能になるからです。

 しかしながら、男親にとっての娘の存在、これは息子との関係とは全く異なります。最も難しく、最もデリケートで、そして最も男の人生で歓びと心配に溢れてくるせつなくて、美しいものであると私は思っています。

 娘への愛情は、息子に対する父性の感情とは根本的に異なる精神環境になります。
 残念なことに、ある時期以降、娘が父親を侮蔑し嫌悪することは一般的です。息子とは全くの逆で・・・この時期が娘の思春期であること、そして、彼女たちの父親は例外無く、この地獄を経験します。

 娘に何を話しかけてもまともな返事をしてくれない家庭での極寒の身の置かれ方が訪れるのです。不潔なものを見るような怜悧な表情、その厳しい視線のなかで毎日を過ごすことになります。
 もちろん、入浴は娘の後でなければなりませんし、トイレで大をするときは娘がいないときを見計らわなくてはなりません。風呂上りに下着姿で居間をうろうろ歩くことは論外ですし、おならやゲップは言うまでもないでしょう。挙句の果てに洗濯については、

「お母さん、お父さんの洗濯物と一緒に私のを洗わないでよ」

 これらは99.9%以上の「娘の父親」として経験する重い苦悩ばかりの時期なのです。


 さて、映画の話題に戻りましょう。
 アラン・ドロンは、ある時期から共演者として非常に違和感を伴う女優を選ぶことが多くなったように感じています。
 それは、『友よ静かに死ね』(1977年)のニコール・カルファンあたりからでしょうか?ジャン・ポールの『Joywuses Paques』のソフィー・マルソーに負けず劣らず、実に不自然な相手のように私には見えてしまうのです(賛否両論があるとは思いますが・・・)。
 『Le choc』(1982年)のカトリーヌ・ドヌーブか、せめて『Notre histoire』(1984年)のナタリー・バイあたりでやめときゃいいのに・・・
 『Le toubib』(1979年)のヴェロニク・ジャノット、『危険なささやき』(1981年)や『Le battant』(1983年)のアンヌ・パリロー、『Parole de flic』(1985年)のフィオナ・ゲラン・・・。

 これらの作品でのジャン・ポールとアランは、「父親」のくせに「男」なのです。私には世の母親やその娘達の声が聞こえてくるようにまで思います。

「まあ、ほんとに、いやらしいわね。」

 これらのジャン・ポールやアランの作品でのロマンスは、思春期の娘にとって最も嫌悪する若い女性へのオスとしての性欲が垣間見えてしまう典型的な、そして最もみっともない父親のラブ・ストーリーだったと言えましょう。
 このような場合、日本では思春期を迎えたほとんどの女の子が、顔をしかめてこう言うでしょう。

「うわあ、お父さん、キモ~い。」

 本当に情けない話です。

 でも、さすが、賢明なジャン・ポールとアランです。そうこうしているうちに、彼らは少しずつ気づいていきます。

 まず、ジャン・ポールは、『ライオンと呼ばれた男』(1988年)で父性に目覚めるきっかけをつかんだように思うのですが、ここでもまだ、家族、特に娘からこれほど愛されているにも関わらず、そして、彼もまた家族を心底愛しているのですが、男のロマンを優先してしまい、残念なことにその距離感を縮めることができないままだったのでした。
 その後、『レ・ミゼラブル~輝く光の中で~』(1995年)の出演において、ようやく彼は娘との距離感をつかむことができたように思います。ヴィクトル・ユーゴー原作のあの有名な主人公ジャン・バルジャンからの孤児コゼット(=サロメ・ジマン)への深い愛情は言わずもがなでしょう。
 この2作品は最も女性にデリケートなクロード・ルルーシュ監督が演出した作品ですから、このあたりでジャン・ポールが娘への父性に目覚めていったことは間違いないでしょう。

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 次に、アランですが、1990年、彼にはオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメンとの間にアヌーシュカという最愛の娘が誕生します。ただでさえ、子煩悩な彼はこの娘の誕生に狂喜乱舞したことと思います。その影響が大きかったのでしょう。その2年後に製作した『カサノバ最後の恋』(1992年)では、過去の自分とロミーとの初恋の現実に向き合い、新たな女性観を持つことに到達することができたように思います。
 なにぶん、アランの場合は、ジャン・ポールと異なって、かなり好戦的で屈折したプロセスを経ているとは思いますけれど・・・。

 いずれにしても、彼らはこれらの作品で自己の女性観を締めくくり「娘の父親」としての「父性の歓びを得る権利」を獲得し得る土台を築けたのではなかろうかと私は考えているところなのです。

 そして、ようやく『ハーフ・ア・チャンス』で、彼らが巡り会ったものの中に、従来から演じてきたギャングスターや殺し屋、強盗、刑事などが主役である「フレンチ・フィルム・ノワール」作品とは大きく異なるテーマがあったのです。それは<男の人生にとって女性とは如何なる存在なのか?>という本質的な問いかけでした。いよいよ彼らの気づきが、この作品によって大きく開花することになります。

 その「女性」なるもの。

 そう、それが「娘」という最も崇高な存在でした。
 その素晴らしい女性である「娘」に受け入れてもらえる父親としての在り方、その歓び。これは本当に何物にも代えがたい男としての人生最大の至福のときだったでしょう。
 「娘」という存在を機軸にして父性に目覚めた男として・・・その最大の歓びを感受できた結果が、『ボルサリーノ』以来、28年ぶりに『ハーフ・ア・チャンス』でのジャン・ポールとアランの共通の成果だったのはないでしょうか?彼らはヴァネッサ・パラディという素晴らしい逸材を娘役に迎え、彼女との父娘関係のファクターを通して新たな友情を発見することができたのだと思います。

 二人の父親は、最愛の娘を命がけで守り、彼女が自信を持って生きていけるように一見不可能なことにも果敢に挑戦していきます。どんな危険に直面しても彼女のために勇敢に闘い、彼女にとって温かく落ち着いた存在でありたいと必死に努力します。
 一方で、いつも、彼女が一番好きなものを理解しようとし、その目線に立って一緒に楽しみ、どんな大事な仕事よりもそれらを優先します。いつも彼女に真剣に接し、母娘・妻とは異なる新たな=父娘=の世界を創ることを至福の歓びとするのです。

 娘のバネッサの満足そうな様子、父親であるジャン・ポールとアランの戸惑いながらも幸福そうな表情・・・。
 観ている観客も心が締め付けられるような歓びを彼らとともに共有することになります。

 ですから、娘に恋人が出来たりすることは過去のどんな失恋よりもつらいことなのです。
 もし、彼女が他の男性を愛してしまったら・・・父親にとって娘の存在しない生活なんて全くの無意味となります。淋しくて、哀しくて、もう楽しいことなんて、この先に何にも無くなってしまうような気がしてしまいます。

 もしかしたら、アランは、この『ハーフ・ア・チャンス』の出演でそんなことに気づき、俳優業を引退する決意を固めたのかもしれません。きっと、映画なんかに出ているより、娘のアヌーシュカと少しでも一緒の時間を過ごしたいと考えたでしょう。
 彼にとっては、過去のロミーやナタリー、ミレーユ、ロザリーとの愛を失った経験より、アヌーシュカとのお別れの方が何倍もつらいことだと・・・そんな淋しく哀しい予感が訪れた、そんな結論から「俳優からの引退」に至ったように私には感じられるのでした。




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by Tom5k | 2017-12-31 03:42 | ハーフ・ア・チャンス | Trackback(1) | Comments(4)

『ハーフ・ア・チャンス』~娘の父親として ジャン・ポールとともに③-①~

 アラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドが共演し、パトリス・ルコントが監督した『ハーフ・ア・チャンス』の映画製作のことを私が知ったのは、1998(平成10年)7月13日(月)付け北海道新聞(夕刊)の記事による情報でした。早いもので、もう20年も前のことになります。
 いやあ!本当に驚きました。

 日本で人気が低迷してからのアラン・ドロンにも、少ない情報ながら私はいつも注意深く関心を傾けていたのですが、

『私刑警察』(1988年)で、アラン・ドロンが出演・製作してきた作品の作風とは全く異なる「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品で活躍していたラウール・クタールを撮影監督に迎えたときも、

 『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)でジャン・リュック・ゴダール監督の作品で主演したときも、
『ヌーヴェルヴァーグ』①~ゴダールが撮ったアラン・ドロン~

 『カサノヴァ最後の恋』(1992年)で、かつて若かりし頃の「ロミーとアラン」の現実に向き合い、

 『百一夜』(1992年)でアニエス・ヴァルダのフランス映画史の批判的総括をゴダールとともに受けたことも・・・。

 そして、いよいよ、往年のライバルでもあった盟友、ジャン・ポールとの共演作品『ハーフ・ア・チャンス』への出演、しかも、この作品で引退するなどと宣言したのですから・・・私としては、1988年以降のアラン・ドロンの動静には驚いてしまうことばかり・・・でした。

 最近では、2018年に向けて、パトリス・ルコント監督、ジュリエット・ビノッシュとの共演作品を最後に、とうとう「キャリアの引退」を宣言・公表したのです。「もう年を重ねた。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」とのことだそうです。
 それにしても、アラン・ドロンの引退宣言は、私の知る限りこれで3度目です。初めは『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)の撮影中?撮影後?・・・1975年頃でしょうか?・・・2度目が『ハーフ・ア・チャンス』の頃・・・1998年頃です。

 恐らく、その都度ご本人は本当に引退するつもりで、このような宣言をしていたのだとは思いますが、本気でそのキャリアに終止符を打つなら、別に「引退」というものをわざわざ宣言することもない・・・のではないでしょうか?今回も、わざわざ~人生の終わりではないが~などと、逃げ道を残しているように私には感じられるのです。

 何故って?
 だって、引退するなら、宣言するまでもなく、映画出演のオファーを単に断り続ければいいだけですから(笑)。
 もちろん、もうかなりのご高齢ですから、結果的に「キャリアの終わり」になるかもしれませんけれど・・・。正直、健康状態が維持できて、気に入ったオファーが来れば、また映画出演を引き受けるのではないかとも察してしまい、私はあまり淋しい気持ちにならないのです。

 とにかく、話題作りの天賦の才能とその一本の作品に本気で取り組む気概などから、このような引退宣言(引退の決意)になってしまうものなのだと、ファンとしては理解するべきでしょう。

 さて、この『ハーフ・ア・チャンス』でのジャン・ポールとの共演。
 デビュー間もない二人が『黙って抱いて』(1957年)で共演した後、全く異なる映画体系で活躍することになっていったにも関わらず、その後はともに「フレンチ・フィルム・ノワール」の作品へと接点が近づいていったこと。これは本当に不思議なことです。
 そもそも、ジャン・ポールの出世作となった『勝手にしやがれ』(1959年)は、ジャン・リュック・ゴダールが1940年代の「フィルム・ノワール」で中心的活躍をしたハンフリー・ボガードにオマージュを捧げた作品でしたし、アラン・ドロンのデビュー作である『Quand la Femme s'en Mele』(1957年)は、いわゆる「パパの映画」の体系の映画作家であったイヴ・アレグレ監督での、しかも典型的な「フレンチ・フィルム・ノワール」でした。
 彼らには、既にデビュー当時の出発点から共通項が存在していたのです。

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 アランの側から見たとき、彼がジャン・ポールと共演する動機は、私なりの視点で【『ボルサリーノ』②~「詩(心理)的レアリスム」の伝統をジャン・ポールとともに①~】の記事に掲載したところではあるのですが、キャラクターは全く異なるものの、二人とも「フレンチ・フィルム・ノワール」作品に出演してきたことから共通点があったことも事実であるわけですし、やはり『ボルサリーノ』での共演は結果的には必然だったとも思うのです。

 ジャン・ポールとアランは、ともに『ボルサリーノ』(1969年)まで、
 「フレンチ・フィルム・ノワール」の代表的スター俳優、ジャン・ギャバンとの共演作品(『冬の猿』(1962年)、『地下室のメロディー』(1962年)、『シシリアン』(1969年))があり、

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 その「フレンチ・フィルム・ノワール」を徹底的に洗練させたジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品(『モラン神父』(1961年)、『L'aîné des ferchaux』(1962年)、『いぬ』(1963年)、『サムライ』(1967年))に出演し、

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An Honorable Young Man (L'aine Des Ferchaux)

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 フランスのセリ・ノワール叢書の原作や映画作品のシナリオ、後に自ら「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を監督していったジョゼ・ジョヴァンニの作品(『墓場なき野郎ども』(1960年)、『勝負をつけろ』(1961年)、『冒険者たち』(1967年))に巡り会い、

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 更に、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品(『オー!』(1968年)、『さらば友よ』(1968年)、『ジェフ』(1969年))に出演し続けていきました。

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 そして、いよいよ、彼らは『黙って抱いて』から10年あまりを経て、「フレンチ・フィルム・ノワール」記念碑的作品である『ボルサリーノ』に到達するのです。
 この久しぶりの共演まで、彼らや彼らとともに映画を製作していった周辺の映画人はもとより、世界中の彼らのファンすら気づかないうちに、とうのむかしからアクターとしての一致点が発生していたとも考えられるでしょうし、その一致点は徐々に熟成していったとも言えましょう。
 もちろん、人気全盛期の彼らは、映画の一般的な諸作品評においては演ずるキャラクターが全く異なるものとして評されていました。それは、彼らの共通項としての「フレンチ・フィルム・ノワール」作品への出演においてさえ同様でした。

 ジャン・ポールは、
【型破りの性格を、独特の個性で演じていた。(-中略-)暗黒街にあって、つねに八方破れ、組織からはみだしてしまうギャングに、おもしろい味をだしている。】」
 一方、アランは、
【(-略)例のマルコヴィッチ事件がおこったのち、ドロンは、ひとまわりスケールを大きくしたようだ。むろん、私生活でも暗黒街人種であることの風格だ。(略-)】
【参考 『世界の映画作家18 犯罪・暗黒映画の名手たち/ジョン・ヒューストン ドン・シーゲル ジャン・ピェール・メルヴィル 「ギャング映画のスター史 筈見有弘」』キネマ旬報社、1973年】などと評されていたのです。

 このことについては、『ボルサリーノ』での二人の主人公フランソワ・カペラとロック・シフレディの役作りに対するスター・キャラクターのコメントとしても納得できるものですし、今更、言わずもがなでしょう。

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by Tom5k | 2017-12-31 03:22 | ハーフ・ア・チャンス | Trackback(1) | Comments(0)

『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-②~

【<『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-①~>から続く】

【>ミシェル・ボワロン監督の『お嬢さん、お手やわらかに!』を若い頃、見た記憶があります。
>アラン・ドロン
商業的には大ヒットした作品だ。この映画で顔を覚えてもらったんだね。ミレーヌ・ドモンジョと共演した。ブリジット・バルドー、ジャクリーヌ・ササールやパスカル・プティと共にもう一人のフランス映画のスターだった。それからピエール・ガスパール・ユイの『恋ひとすじに』に出た。『若者のすべて』に起用してもらう前、撮影現場にヴィスコンティが私を見に来たんだ。『お嬢さん、お手やわらかに!』を見たルネ・クレマンも私を覚えてくれた。全くもって凄い年月だった・・・】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2(インタヴュー和訳)」


 自国フランスで当時のトップアイドルだった三人の女優パスカル・プティ、ジャクリーヌ・ササール、ミレーヌ・ドモンジョとの共演作品『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)、西ドイツの超人気アイドルであったロミー・シュナイダーとの共演作品『恋ひとすじに』(1958年)、国際的にもアイドルとして人気のあったフランソワーズ・アルヌールとの共演作品『学生たちの道』(1959年)、当時売り出し中のブリジット・バルドーとの共演作品『素晴らしき恋人たち(第4話「アニェス」)』(1961年)など・・・。
 その後、フランス国内においては、いわゆる「「ヌーヴェル・ヴァーグ」の敵陣」であったルネ・クレマン監督、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、クリスチャン・ジャック監督・・・そう!正に「シネマ・ドゥ・パパ」の作品群・・・『太陽がいっぱい』、『生きる歓び』(1961年)、『危険がいっぱい』(1963年)、『フランス式十戒』(1962年)、『黒いチューリップ』(1963年)への出演で脚光を浴びていくことになるのです。

 この時期の旧世代、フランス映画の良質の伝統・・・シネマ・ドゥ・パパ・・・「詩(心理)的レアリスム」の映画作家たちは、前述したように少なからず「ヌーヴェル・ヴァーグ」を意識した映画制作を行っていたわけですが、これは山田宏一氏のような侮蔑的な総括ではなく、逆にその手法が功を奏して、新しい「詩(心理)的レアリスム」の体系を再編し、高度化させていった各映画ジャンルにおける発展的時代だったとは考えられないでしょうか!?
 剣戟映画『黒いチューリップ』にしても、ジェラール・フィリップやジャン・マレエの時代の作品より、一段とスケールが大きくなったように思いますし、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『殺意の瞬間』(1956年)や『悪魔のようなあなた』(1967年)、ルネ・クレマンの『雨の訪問者』(1969年)『狼は天使の匂い』(1972年)などを観ても、多くの旧世代の映画作家たちのリアルでサスペンスフルな展開は、クールで現代的なノワールの源流を新たに作り出したように思うのです。これらのエンターテイメントは、決して「ヌーヴェル・ヴァーグ」には創り出せなかった映画潮流であると考えています。

 そんななか、『太陽がいっぱい』を撮影したルネ・クレマンは、監督としてのアラン・ドロンへの評価で「ありえないような行動を引き受ける集中力と理解力の才能があった」と絶賛しています。

【>当初、アラン・ドロンはグリーンリーフを演じるハズだったのですか?
>ルネ・クレマン(-略)ドロンはまだスターではなかったし、プロデューサーの気をひけるほどの仕事をした訳でもなかったんだ。グリーンリーフを誰が演じるかで騒いでいた時、ドロンのエージェントだったジョルジュ・ボームが私に連絡をして来たんだ。(訳注:英語版翻訳には、これはクレマンの記憶違いで、当時のエージェントはオルガ・オルスティグ)ミシェル・ボワロンの「お嬢さん、お手やわらかに!」を見に行った。ドロンは特別光っていたとも、目立ったとも思わなかったが、ある意味、関心を魅かれた何かがあった。ジョルジュ・ボームがアランを連れて私に会いに来たんだ。彼がアランとロネの役を交換するというアイデアを考えたんだ、二人の俳優に合わせてね。ロネがグリーンリーフで、ドロンがリプリーの方がいいと言うのが私たちにも明らかになったね。それからアランはどんどんリプリーになっていった、言われた事を文字通り試していったんだ。彼には驚くような集中力と聞くことが上手い。こちらの言う事をあれほど受け入れる事が出来る俳優は、監督には本当に好都合だ。既に知っていることを理解するだけでも、何人の俳優にできるか?この感受性のお陰で、さきほど話をした事柄が可能になったわけだ。自分が求めていた真実を目の当たりにして。私にはいつもドロンがいてくれ、ありえないような行動を引き受けてくれた、そんな風にあり得ないと思えることがドラマを前進させていけるんだ。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2015/10/23 「ルネ・クレマンが語る「太陽がいっぱい」その6(インタヴュー和訳)」

 さすが、このようなルネ・クレマンの言動には、巨匠の巨匠たる所以が感じられます。

「ある意味、関心を魅かれた何かがあった」

 このとき恐らく、ルネ・クレマンは「アラン・ドロン」という大スターを発見したのだと思います。

 そして、後期「ネオ・リアリズモ」のイタリア映画の作品群『若者のすべて』(1960年)、『山猫』(1962年)、『太陽はひとりぼっち』(1961年)など、ルキノ・ヴィスコンティ監督やミケランジェロ・アントニオーニ監督などの作品に出演し、俳優としての資質がいよいよ磨かれていったのです。
 イタリア映画界での彼の活躍も映画史的なレベルで非常に高いものとして評価されています。

【この映画以後ドロンは一躍、国際的なスターとなって、劇場側が歓迎するぺてん師やギャング役を演じる映画に次々と出演した。したがってロッコを演ずる彼を見ていない人には、ヴィスコンティの厳しい指導に耐えて彼がこの役で演じ切った、ほとんど輝くばかりの愚直さと、悲哀と、しんの強さを想像するのはむずかしいかもしれない。】
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 (1982年)

平凡社



 アイドル女優との共演作品から、フランスやイタリアのヨーロッパ映画界の全盛期に活躍した巨匠たちの作品への出演・・・このことを異なる視点によって彼のキャリアを総括すると、それはアイドル路線からの脱皮、そして、衰退する時代の「シネマ・ドゥ・パパ(「詩(心理)的レアリスム」)」の作品群への出演、「ネオ・リアリズモ」終焉期における活躍・・・だったのです。
 それは、つまり「ヌーヴェル・ヴァーグ」の新しいスター俳優としてセンセーショナルな活躍をしていったジャン・ポール・ベルモンドの革新性と全く相反する保守・伝統・・・旧時代の映画スターの在り方から、その資質を磨かれていったプロセスだったのです。

 そして、その後に人気全盛期を迎えた頃、彼はデビュー当時の自分自身を次のように語っています。

【正直にいって、ぼくは最初のころ、いい監督が俳優を創りあげる、とは信じていなかった。傲慢にもぼくは自分の個性と才能とを混同していた。つまりぼくには才能があると思いこんでいたのだが、それは実は個性にすぎなかった。優れた監督、たとえばクレマンやヴィスコンティに使われて、ぼくは自分が何者でもないことを思い知らされた。が、同時に、もしかしたらぼくは、彼らによって“俳優”になれるんじゃないか、とも思いはじめたんだ。】
【シネアルバム⑥ アラン・ドロン 孤独と背徳のバラード「アラン・ドロン バイオグラフィー 南俊子」 芳賀書店(1972年)】

 これは、ゴダールと出会ったときのジャン・ポールの言葉とは対照的です。元来、舞台俳優としての基本的なメソッドを身に着けていたジャン・ポールと異なり、アランはそもそも好き放題、自由に奔放に生きてきた不良、チンピラだったわけですが、映画界に入って旧世代の映画の文法に忠実な巨匠である多くの映画作家たちに巡り会うことができて、初めて映画俳優としての自覚に目覚めたのでしょう。そのとき、自分の未来への大きな希望と感動が生まれたことがわかります。
 一方、舞台でデビューし、映画では端役で数本をこなしていただけのジャン・ポールの魅力を見出したジャン・リュック・ゴダールは、ただひたすら映画への情熱だけで無軌道で自由な表現を求めていった映画作家だったわけです。そして、やはり、その彼に巡り会ったときのジャン・ポールの言葉も彼の大きな感動を伝えるものでした。再掲して旧世代の映画作家たちと巡り会ったときのアラン・ドロンの発言と比較してみましょう。

【これまでいっしょに仕事をした監督のなかでは、文句なしに、ゴダールといちばん気が合った。(-中略-)『勝手にしやがれ』は俺にとって最初の映画的冒険だった。(-中略-)俺は映画というものを知らなかったんだ。あたりまえの、古くさい映画の見かたをしていた。そんなときに、突然、すばらしい自由を発見したんだ。その後も、あれほどすばらしい自由な撮影をしたことはない。『勝手にしやがれ』は全篇隠しキャメラで撮影された。録音機もなし、なにもなしだ。俺たちはブールヴァール・デ・ジタリアンにいた。キャメラマンのラウール・クタールは小さな郵便車のなかに隠れて、小さな穴から撮影していた。すばらしかったね。これこそ、ほんとうのシネマ・ヴェリテだった。(略-)】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 この二人、この先どんな素晴らしいスター俳優になるのか本当に楽しみです(笑)。

 そして、彼らはその後、『黙って抱いて』以来13年ぶり※に共演した『ボルサリーノ』(1970年)によって世界的な大ブレイクを起こすわけですが、この『ボルサリーノ』に辿り着くまでの経緯は、【『ボルサリーノ』②~「詩(心理)的レアリスム」の伝統をジャン・ポールとともに①~】の記事として、私なりの見解を掲載してあります。
※その間に同作品でともに出演しているものは二本ありますが、『素晴らしき恋人たち』(1961年)はオムニバスの別挿話の作品、『パリは燃えているか』(1965年)はオールスター・キャストの作品です。

 ジャン・ポールとアランが世界に向けて大活躍する人気スターに成長していったことに想いを馳せ、その歩んだ軌跡を辿り、ようやくデビュー間もない頃の若くて貧しい無名の彼らに巡り会うことができました。『黙って抱いて』に登場するのは、幼く心細い、おぼつかない足取りの誰にもある青銅の時代・・・青春まっ只中にいたジャン・ポールとアランだったのです。映し出されている二人の未来への無限の可能性によって、この作品は珠玉の輝きを放っています。ここで活き活きと活躍している若い二人を観ていると、全身から湧き上がってくる彼らのエネルギーも映し出されているような気がします。歩み出そうとする方向に何が待ちかまえているかなんて考えもせず、みなぎる若さにまかせて力強くその道程を切り開いていったジャン・ポールとアラン。

 ゴダール、クレマン、ヴィスコンティに出会う前の彼らの青春の彷徨が映し出されている『黙って抱いて』は、これから険しくても輝かしいジャン・ポールとアランの成功への道程にスタートアップした記念碑的作品として、何度でも鑑賞したくなる青春の可能性がいっぱいの作品なのです。



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by Tom5k | 2017-09-12 22:25 | 黙って抱いて | Trackback | Comments(1)

『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-①~

 アラン・ドロンは、最近(本年5月7日付けで)、パトリス・ルコント監督の作品(2018年公開予定)への映画と舞台作品にそれぞれ出演してから引退する意向を公的に発表しました。

 そんな折、アラン・ドロンの生涯の盟友でありライバルであったジャン・ポール・ベルモンドとの共演作品『黙って抱いて』(1957年)が、いよいよDVD化され、8月に発売されたので、早速購入しました。アラン・ドロンのデビュー作品『Quandla Femme s'en Mele』(1957年)を監督したイヴ・アレグレの兄マルク・アレグレが監督です。残念ながら、主演はアランとジャン・ポールではなく、ミレーヌ・ドモンジョ、アンリ・ヴィダル主演の作品ですが、私としてはアラン・ドロンが出演している作品であるにも関わらず、未見の作品でしたから今回、記念すべき初観賞となりました。

 アランは、デビュー作品『Quandla Femme s'en Mele』に引き続き2本目の映画出演、ジャン・ポールも端役数本に映画出演した後この作品に出演しました。アランもジャン・ポールも20代前半です。予想していたよりは二人とも出番が多くて驚きましたし、何より、二人とも本当に初々しく、作品中の活躍ぶりには眩しいくらいの存在感がありました。
 それにしても、1957年に製作された『Quand la Femme s'en Mele』や『黙って抱いて』は、もう60年も前の作品になるんですね。本当に感慨深いものがあります。

 さて、アランとジャン・ポール、この二人が『黙って抱いて』に出演した後の1960年代、その活躍ぶりには本当に凄まじいものがあります。少なくても1970年代中盤まではスターとしての全盛期を国際的に担っていたのではないでしょうか。更に、1970年代後半にジェラール・ドパルデューが出現するまでは、ヨーロッパの映画体系をこの二人で食い尽くしてしまったようにまで思います。

 そして、私がこの二人の存在を凄いと感じるのは、単に映画スターとして人気があったのみならず、全く異なる映画体系においての各々の映画史的な活躍ぶりなのです。

 まずは、ジャン・ポールなのですが、彼は『黙って抱いて』に出演した後、マルセル・カルネ監督の『危険な曲がり角』(1958年)に端役で出演した後、「ヌーヴェル・ヴァーグ」気鋭の映画作家となっていったジャン・リュック・ゴダール監督の『シャルロットと彼女のジュール』(1958年)、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』(1959年)で本格的な映画出演を果たします。いよいよ、世界の映画潮流を変革していった「ヌーヴェル・ヴァーグ」に邂逅したのです。
 そして、1959年、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』により、とうとう映画史上に名前を残す大スターとなりました。

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 なお、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』には、当初、ジャン・クロード・ブリアリが出演する予定であったようなのですが、彼が脊椎カリエスを患っていて代役が見つからずにいたときに、クロード・シャブロル監督がプロデューサーのアキム兄弟に「まだ無名のひとりの若い俳優」を思いきって起用したいと提案しました。それがジャン・ポール・ベルモンドだったのです。

 ジャン・ポールが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の大スターになったきっかけは、もちろん、『勝手にしやがれ』への出演によるものでしたが、初めはジャン・リュック・ゴダール監督のほうから映画出演のアプローチをしていったようです。

【(-略)たまたまサンジェルマン・デ・プレで俺はゴダールと知り合った。もっとも、カフェ・ド・フロールのテラスで黒いサングラスの男に、俺のうちに来ていっしょに映画を撮らないか、と声をかけてきたときには、こいつはホモだと思ったもんだよ。その前に『黙って抱いて』で共演した女優のアンヌ・コレットから、あんたと知り合いになりたがっている男の子がいるわよって言われて、チラッと紹介されたことがあったんだが、うさんくさい男だと思った。いつも無精ひげでサンジェルマン・デ・プレをうろつきまわって、俺のことをジロジロながめていたヤツだった。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (ちくま文庫)(1992年)

山田 宏一 / 筑摩書房



 当初のこのようなジャン・リュック・ゴダールへの悪印象はともあれ、ジャン・ポールは『勝手にしやがれ』の主役に抜擢されました。もちろん、ジャン・ポール自身が「生涯の一本」と述懐している『気狂いピエロ』(1965年)はもちろん、初期のゴダール作品である『シャルロットと彼女のジュール』、『女は女である』(1961年)もジャン・ポールが出演している作品です。
 なお、エリック・ロメール監督が1950~51年に制作した短編映画作品で、その後ジャン・リュック・ゴダール監督が続編として制作していった『シャルロット』シリーズでシャルロットを演じたのが、『黙って抱いて』で、彼の恋人役で共演していたアンヌ・コレットでした。このことにも不思議な因縁めいたものを感じてしまいます。

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アンナ・カリーナ,ジャン = クロード・ブリアリ,ジャン = ポール・ベルモンド/角川書店

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【(-略)彼は本当に長編映画を撮ることになり、約束どおり俺を主役に起用してくれたんだ。それが『勝手にしやがれ』だったわけだけれども、俺は感激した。当時、俺みたいなかけだしの俳優にこんなすばらしいチャンスをあたえてくれる監督はほかにいなかっただろうからね。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 また、カイエ・デュ・シネマ誌で最も先鋭的で、いわゆる※フランス映画の良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」への攻撃的な映画批評を常時発表し続け、後に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表的映画作家となるフランソワ・トリュフォーは『勝手にしやがれ』の制作中、ジャン・ポール・ベルモンドについて、次のような印象を持っていたそうです。(※フランソワ・トリュフォーの皮肉った「シネマ・ドゥ・パパ」の映画作品)

【トリュフォーは『勝手にしやがれ』の撮影現場をのぞいたり、ラッシュ試写を見に行ったりしたが、なんだか「すべてがうまくいっていないような」印象をうけた-「ジーン・セバーグは全然ゴダールを信用しておらず、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールも、ゴダールのやりかたがさっぱりわからん、と言った。ただ、ジャン・ポール・ベルモンドだけがゴダールを信頼していた。彼だけがゴダールのやりかたを理解していた」 トリュフォーは『勝手にしやがれ』のベルモンドを見た瞬間に、「間違いなく彼こそフランス映画の最も優れた俳優になるだろう」と確信した。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 ジャン・ポールにしても、『勝手にしやがれ』を撮影したときの印象を次のように振り返っています。

【これまでいっしょに仕事をした監督のなかでは、文句なしに、ゴダールといちばん気が合った。ふだんはそんなにつきあっているわけじゃないんだが、撮影に入ったとたんに、ピッタリと呼吸があうんだ。『勝手にしやがれ』は俺にとって最初の映画的冒険だった。それまで俺が出た映画といえば『危険な曲がり角』や『黙って抱いて』とか、ほんのチョイ役ばかりだった。俺は映画というものを知らなかったんだ。あたりまえの、古くさい映画の見かたをしていた。そんなときに、突然、すばらしい自由を発見したんだ。その後も、あれほどすばらしい自由な撮影をしたことはない。『勝手にしやがれ』は全篇隠しキャメラで撮影された。録音機もなし、なにもなしだ。俺たちはブールヴァール・デ・ジタリアンにいた。キャメラマンのラウール・クタールは小さな郵便車のなかに隠れて、小さな穴から撮影していた。すばらしかったね。これこそ、ほんとうのシネマ・ヴェリテだった。(略-)】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 このようにして、ジャン・ポールは、盟友であり、ライバルであったアラン・ドロンとは全く異なる最先鋭の映画芸術「ヌーヴェル・ヴァーグ」の騎手として国民的かつ世界的な大スターとなっていったのでした。

 一方、アラン・ドロンのこれから歩んでいく映画体系は、ジャン・ポールとは全く逆のベクトルに向いていたことは周知の事実です。アラン・ドロンは、盟友、そしてライバルとなるジャン・ポール・ベルモンドが脚光を浴びていく、新しい映画芸術の潮流であった「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」作品とは、全く異なる在り方で国際スターとしての地位を確立していきました。

【>アラン・ドロン(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 ただ、この時期に旧世代のフランス映画の良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」、いわゆるシネマ・ドゥ・パパは、どのように変わって存在していったのか?ここに焦点を当てなければ、アラン・ドロンの原点は理解できないと私は考えているのです。


【ヌーヴェル・ヴァーグは、「シネマ・ド・パパ」とトリュフォーが呼んだ古いフランス映画に対するたたかいでもあったが、『勝手にしやがれ』の無手勝流のスタイルは、ヌーヴェル・ヴァーグの敵陣ある「シネマ・ド・パパ」に対して決定的な打撃をあたえることになった。マルセル・カルネは『広場』で(もっとも、カルネは『勝手にしやがれ』のまえに『危険な曲がり角』を撮ってフランスの「青春群像」を描いていたが)、ルネ・クレマンはポール・ジェコーフの脚本とアンリ・ドカエのキャメラによる『太陽がいっぱい』で、ジュリアン・デュヴィヴィエはジャン・ピエール・レオー主演の『並木道』で、アンリ・ドコワンは『やさしく激しく』で、それぞれ、「無軌道な若者の行動を描いた」彼らの『勝手にしやがれ』を作ってヌーヴェル・ヴァーグのスタイルを気取ってみせたのだった。】

【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

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 そうなのです!現在においてさえ、アラン・ドロンの出演した代表作品『太陽がいっぱい』(1959年)の映画史的評価では、この程度の総括しかされていないのです。

所詮、『太陽がいっぱい』は、

【彼ら(シネマ・ドゥ・パパ)の『勝手にしやがれ』】
であり、

【ヌーヴェル・ヴァーグのスタイルを気取ってみせた】
だけの作品だと言うのです。

 ですから、私はくやしくて、くやしくて、その「アンチ・ヌーヴェル・ヴァーグ」の視点からこのブログ【時代の情景】を立ち上げ(それだけのためでもありませんけれど)、延々と
<「詩(心理)的レアリスム」(シネマ・ドゥ・パパ)作品=フランスにおけるアラン・ドロン関連作品>
を擁護する記事をアップし続けているわけです。もう12年にもなりましょうか・・・!

 さて、話は少し逸れてしまいましたが、フランス映画の革新・刷新の時代に、アラン・ドロンがシネマ・ドゥ・パパの作品に入っていく前、まずは国際的なアイドル女優たちとの共演路線で売り出していく時期があります。

【<『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-②~>に続く】
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by Tom5k | 2017-09-07 23:31 | 黙って抱いて | Trackback | Comments(0)

『ボルサリーノ』②~「詩(心理)的レアリスム」の伝統をジャン・ポールとともに①~

 アラン・ドロンにとっては、盟友、そしてライバル、長期間にわたって敵対関係でもあったジャン・ポール・ベルモンド。彼らは、ほぼ同世代、同時期のデビューであるとともに、双方とも国際的な超人気スター俳優であったことなど、多くの共通点がありますが、個性においては全く異なる者同志でもあります。
 ジャン・ポール・ベルモンドは、デビュー当時から、この『ボルサリーノ』でのアラン・ドロンとの共演までの間に数多くの「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品に出演してきました。
 ジャン・リュック・ゴダール監督の『シャルロットと彼女のジュール』(1957年)、『勝手にしやがれ』(1959年)、『女は女である』(1961年)、『気狂いピエロ』(1965年)、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』(1959年)、ルイ・マル監督の『パリの大泥棒』(1967年)、フランソワ・トリュフォー監督の『暗くなるまでこの恋を』(1969年)、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の『いぬ』(1963年)等々。
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 アラン・ドロンがイタリアでの「ネオ・リアリズモ」や自国フランスの「詩(心理)的レアリスム」などの旧時代の体系の作品を中心に出演してきたこととは対照的に、彼は新時代の「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品でスター俳優としての位置を確立しました。

 ところが、驚くことに、1965年に出演したジャン・リュック・ゴダール監督との代表作品である『気狂いピエロ』の出演後、ジャン・ポール・ベルモンドは「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言してしまったのだそうです。更に、ジャン・リュック・ゴダール監督もまた、1970年に「商業主義の映画を嫌う」と表明し、最も使いたくない俳優のひとりとしてジャン・ポール・ベルモンドを挙げたと言います。残念なことに彼らの信頼関係はここで破綻することになってしまったようです。

 このような観点で考えると、わたしは、彼が1966年にルネ・クレマン監督のオールスターキャストのドキュメンタリー作品『パリは燃えているか』に出演したことが思い浮かんできました。
 ルネ・クレマン監督は、作品のシナリオにジャン・オーランシュとピエール・ボストのコンビを多用していた演出家であり、はっきりと「ヌーヴェル・ヴァーグ」傾向の演出家とは異なる映画作家と言えるのです。
 それどころか「ヌーヴェル・ヴァーグ」の演出家が、徹底的に批判した脚本家コンビを使用していたことが理由で、『居酒屋』や『禁じられた遊び』に対する評価がフランス国内では賛否両論の評価を持つ結果となってしまい、現在でもそれは払拭されていません。
禁じられた遊び/居酒屋
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 また、ジャン・ポール・ベルモンドはフランス人の大好きなコメディ・アクションの作品で多数の傑作に出演し、純粋な娯楽・商業映画としての主演も非常に多い俳優です。このことはジャン・リュック・ゴダール監督の“商業映画作品の否定”の考え方とも相容れなく拡がってしまったようです。
 ジャン・リュック・ゴダール監督は、彼のこれらの実績である“ジャン・ポール・ベルモンドの長所”とも言える多面性と器用さを、無節操であると解釈したのかもしれません。

 また、わたしは、アラン・ドロンが本当の意味で敵対意識を持っていたのは、スターとしてのライバルであったジャン・ポール・ベルモンドではなく、実は自分の師匠たちを、批判し攻撃していたジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどのカイエ派の評論家、映画作家たちだったのではないかと考えることがあります。そうでなければ、この『ボルサリーノ』での自分の共演者として、ジャン・ポール・ベルモンドに出演交渉をするはずがありません。
(※残念ながら映画撮影後日、プライドの高すぎた二人は決裂してしまい、何カ年もの間、友好を深めることが出来なくなってしまいましたが・・・。)

 この作品を誕生させた4年前の1966年、『パリは燃えているか』で、両者が顔を合わせたこともあり、彼が『いぬ』(1963年)でのシリアスな「フレンチ・フィルム・ノワール」作品や『タヒチの男』(1966年)、『大頭脳』(1968年)などのコメディ・アクション作品への出演経験を持ち、シリアスな内容と明るい喜劇的な要素が盛り込まれた『ボルサリーノ』の主人公フランソワに最も適した俳優でありました。この作品での彼らの共演の最大の成果は、アラン・ドロンが演じたもう一人の主人公でクールで冷静なロックと好対照をなす名コンビを誕生させることができたことでしょう。
 まして、彼が人気やギャラの点では自分よりも上位に位置していた当時において、自分と共演すれば、世界的なヒット作品になることは間違いないとの確信に至り、この企画・共演に賛同を得られるはずだと考えたような気もするのです。
大頭脳
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 名プロデューサーともいえるアラン・ドロンの才覚において、「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品への対抗戦略として、前述したジャン・ポール・ベルモンドとジャン・リュック・ゴダール監督との確執がこの時期にあったことを利用した、極端に言えば“ジャン・ポール・ベルモンドの「ヌーヴェル・ヴァーグ」からの引き抜き戦術”の側面もあったのかもしれません。
 この作品は「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の要素が欠片ほどにも見当たらず、むしろ「詩(心理)的レアリスム」作品としての要素が特徴付けられていることが、それを証明しています。

 例えば、「詩(心理)的レアリスム」作品としての特徴に挙げられるシナリオ重視の要素、脚本家の選定において、それが非常に目立っています。
 まず、1930年代のトーキー映画の初期、ルネ・クレール監督の作品から始まっていった「詩(心理)的レアリスム」の時代よりも前の1920年代、クロード・オータン・ララ、ルネ・クレール、ジャン・グレミヨンたちとともに「アヴァンギャルド」の作品で映画の詩学を目指していたルイス・ブニュエル監督の『小間使の日記』、『昼顔』、『銀河』で、脚本を担当していたジャン・クロード・カリエールを起用していること。彼は「ドイツ・ニュージャーマン・シネマ」の旗手フォルカー・シュレンドルフ監督の『ブリキの太鼓』、『スワンの恋』、『魔王』など、文芸作品の多くを手がけています。しかも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」系統のルイ・マル監督の『パリの大泥棒』、『ビバ!マリア』のシナリオまで担当しており、実に器用で多彩なライターです。
小間使の日記
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昼顔
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銀河
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ビバ、マリア
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ブリキの太鼓
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魔王
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 更に、フランスで最も権威ある文学賞のひとつであるゴンクール賞『神のあわれみ』の著者である文学者ジャン・コー、マルセル・オフュルス監督の『バナナの皮』やジョゼ・ジョヴァンニ監督の『皆殺しのシンフォニー』、『墓場なき野郎ども』やアラン・カヴァリエ監督などの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の多くを手がけた、演出家でもあるクロード・ソーテをシナリオの担当に加えました。
墓場なき野郎ども





 ジャック・フェデール監督(マルセル・カルネ助監督)の『外人部隊』(1933年)やジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『我等の仲間』(1936年)の脚本シャルル・スパーク(『女が事件にからむ時』)
 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『望郷』(1937年)の脚本アンリ・ジャンソン(『フランス式十戒』、『黒いチューリップ』)
 マルセル・カルネ監督の『霧の波止場』(1938年)の脚本ジャック・プレヴェール(『素晴らしき恋人たち』)
たちの描いた古き良き時代のシナリオを重視したクラシック作品として、「詩(心理)的レアリスム」を再生・復活させるねらいがあったことは明らかだと思います。
 これらは「詩(心理)的レアリスム」の戦後第2世代であるクロード・オータン・ララ監督やジャン・ドラノワ監督、そしてクリスチャン・ジャック監督、ルネ・クレマン監督等々、ジャン・オーランシュとピエール・ボストの脚本家コンビ(『学生たちの道』)に引き継がれていきますが、『ボルサリーノ』のシナリオ担当者の選定には、このような過去の「詩(心理)的レアリスム」の文学的特徴と、そのなかでも特にノワール的色調を持ったこれらの作品群をモデルにしたのではないかと思うのです。
※注~(  )内はアラン・ドロン出演作品

 ジャック・ドレー監督の演出と、ジャン・クロード・カリエール、ジャン・コー、クロード・ソーテの脚本には、古き良きフランス映画の良質の伝統が感じられます。そして、その伝統的な凝ったセリフやキザな言い回しは、アラン・ドロン演ずるロック・シフレディとジャン・ポール・ベルモンド演ずるフランソワ・カペラの別れのラストシーンに集約されています。

 フランソワは、マルセイユを出てニースに行くことをロックに告げます。しかし、ロックはそれを納得できません。
 二人の寂寞の感情がスクリーン全面から痛いほどよく伝わってきます。

>ロック
なぜ、行く
>フランソワ
俺たちのためだ
>ロック
わからん
>フランソワ
簡単さ 俺たちはボレロを殺し“ダンサー”とマレロも殺した とめどがない、いつかは俺たちも殺し合いになる だからだ、そうなれば、俺が先に手を出す 他に道はない 分かるだろ
>ロック
もし俺が出ると言ったら?
>フランソワ
君が
>ロック
今行く
>フランソワ
コインだ、負けた方が行く、いいな?
>ロック
よし
>フランソワ
どっちだ
>ロック


 コインを投げて出たのは表でした。

>フランソワ
俺の負けだ

 ロックはコインを奪い、両方とも表であることを見破ります。

>フランソワ
知ってたか
>ロック
インチキをな、だが今日は見逃せん
>フランソワ
元気でな、つきが消えたよ

 ロックを置いて外に歩いていくフランソワ、淋しそうなロックの表情をクローズアップで映しだします。
 そのときでした。ロックとの決別を決意し外に出ていたフランソワに銃撃が襲いかかったのです。
 驚いてフランソワに駆け寄り、彼を抱え上げるロック。

>フランソワ
ロック、つきが・・・消えちまった

フランソワはこう言い残して死んでいきます。

=その後、ロックがどうなったか誰もしらない=


 ロックがフランソワを抱きかかえ、途方に暮れるラストシーンのストップ・ショットに挿入されるこのテロップから、「詩(心理)的レアリスム」諸作品の“シナリオを優先した文学性”と同一の傾向を感じるのはわたしだけでしょうか?


 助演している女優もまた、旧世代の作品を想起させる大きな要素です。特にカトリーヌ・ルーヴェル演ずるローラが、この作品の素晴らしさを更に高めています。1930年代のマルセイユの夜の酒場で生きる女性らしい優しさと強さを、その時代的雰囲気をもって演じていました。
 その女性らしい優しさは、フランソワのジネットに対する浮気心を、すべて許すことのできる包容力に現れていました。

>忘れられない? ジネットと本気で所帯を?

と優しくフランソワを優しく慰める天使のようなローラ。

 そのキャラクターには、かつてカイエ派のフランソワ・トリュフォーが、フランス映画の良質の伝統として、最も忌むべき系譜であると糾弾していったジャック・フェデール監督&脚本家シャルル・スパークのコンビで撮った『外人部隊』や『ミモザ館』、マルセル・カルネ監督&脚本家ジャック・プレヴェールの『ジェニーの家』などでのフランソワーズ・ロゼーを思い出すことでしょう。
外人部隊






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 そして、ジネットを演じたナタリー・ドロンにそっくりなニコール・カルファンも「詩(心理)的レアリスム」の諸作品での悲劇の女性たちに極めて近いキャラクターです。マルセル・カルネ監督の『霧の波止場』のミッシェル・モルガンやジャン・ギャバンが最も可愛いがっていたマルチーヌ・キャロルや、マリー・ベル、ダニエル・ダリュー、ディタ・パーロ、ミレーユ・バラン等々。

 コリンヌ・マルシャン演ずるリナルディ夫人やフランソワーズ・クリストフ演ずるエスカルゲル夫人も同様に、古き良き時代の気っ風のいい女たちでした。

 彼女たちは決して、ジーン・セバーグ、ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブ、アンナ・カリーナ以降の女優ではないのです。それは戦前のフランス映画黄金期からタイム・スリップして来たクラシック・キャラクターそのものだったのではないでしょうか?

 カットごとに変わるロックとフランソワのコートやスーツ、仲間達との海水浴での水着姿、映画のタイトルにもなっている「ボルサリーノ」の帽子(これは19世紀からの歴史を持つイタリアのミラノ郊外の帽子メーカーであるボルサリーノ社の社名です。題名に相応しく、あらゆるシーンでこれが登場します)。“ダンサー”のミュージック・ホール、そこでのレビューでの踊り子達にも30年代の雰囲気が満開です。出演者達のレトロ・ファッションを担当したのは『バーバレラ』、『世にも怪奇な物語(第一話「黒馬の哭く館」)』のジャック・フォントレーでした。
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 作品の時代背景は、アラン・ドロンが最も尊敬するジャン・ギャバンの活躍していたフランス映画全盛時代の1930年代です。
 この作品は、二つの世界大戦に挟まれたつかの間の平和な時代、人々の生活が技術革新により、華やかに変化し庶民の娯楽や文化も現代風に変化していった、新時代の港町マルセイユを舞台にした「フレンチ・フィルム・ノワール」として描かれているのです。
 『霧の波止場』(1938年)、『曳き船』(1940年)、『夜霧の港』(1942年)、『港のマリー』(1949年)など、ジャン・ギャバン主演のフランス映画作品の舞台には、港町での人々の生活を、「陰の人生」としてのノワール的色調によって、美しく描いている作品が多数あります。
 この『ボルサリーノ』作品中でも、ロックとフランソワの顧問弁護士リナルディの選挙の後、二人が丘から見るマルセイユ港の美しさには目を見はるものがありました。
曳き船【字幕版】





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 1968年、アラン・ドロンは、自ら世紀の大スキャンダルの渦中にいたマルコヴィッチ殺害事件に開き直り、主人公が完全犯罪を遂行するストーリーで『太陽が知っている』を制作し、強烈な印象を残しました。俳優生命を絶たれるかもしれなかったこの時代に、最も自分を理解してくれたジャック・ドレー監督と脚本家のジャン・クロード・カリエール。彼らの協力があってこそ、この作品を完成させることができたとまで言っても言い過ぎではないと思います。
 彼らが、この『ボルサリーノ』という野心作においても、アデル・プロダクションの意図する作風に同調し、スタッフとして作品制作に携わっていったことは、アラン・ドロンをどれだけ勇気づけ、この後の人気スターと名優、そして名プロデューサーとしての生き方に大きな影響を与えていったことでしょう。二人は、以後もアデル・プロダクションの作品の多くに携わっていくことになるのです。

 古き良き時代のダンディズムを貫きながらも、運命に抗うことが出来ずに挫折する二人の若いギャングたち、出口のないヤクザの世界を舞台としながらも良き仲間達に囲まれて生きることの出来た1930年代、クロ-ド・ボランのクラシック、美術・衣裳の時代的風俗。

 『ボルサリーノ』公開当時、フランス映画のオールド・ファンたちには、ルネ・クレール、ジャック・フェデール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネたちの演出を、今、目の当たりにしているような美しくポエジックな、そして懐かしい現実感に陶酔することが出来たのではないでしょうか?
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by Tom5k | 2006-08-25 00:37 | ボルサリーノ(2) | Trackback(3) | Comments(11)