『危険がいっぱい』②~『続・禁じられた遊び』ポーレットのその後~

 ルネ・クレマン監督については、これまでも多くのブログ仲間たちと意見交換をしてきて、たいへん充実した記事を多くアップすることができたと思っています。特に、『寄り道カフェ』のシュエットさん、それから『新・豆酢館』の豆酢さんなど、インテリ女性映画ファンとの対話は、わたしにとって実に安心感を得ることができるものでした。

 戦前・戦中派世代としての彼の作品には、第二次世界大戦ヨーロッパ戦線において、ナチス・ドイツによるパリ占領、レジスタンス運動と連合軍によるその解放による歓喜までの経緯が映像としての優れたリアリズム表現として極められています。
 これは『鉄路の闘い』(1945年)、『海の牙』(1946年)、『パリは燃えているか』(1965年)など、フランスの「ネオ・リアリズモ」と呼称された典型的なレジスタンス映画の傑作群において特に顕著に表現されています。

鉄路の闘い

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海の牙

マルセル・ダリオ / アイ・ヴィー・シー



 しかしながら、そこに映画作家ルネ・クレマンの楽天主義が見て取れてしまうことも、わたしの正直な感想なのです。
 第二次世界大戦後のインドシナ戦線やアルジェリア問題を抱えたフランス国家としての国民の意識、特に良識派の左翼映画人にとって、ルネ・クレマン監督のメッセージは理解し難かったことでしょう。1966年から始まったストラスブール大学の学生運動から、パリのナンテール大学へと波及していった学生の大学民主化要求からベトナム戦争反対を唱えていったパリ5月革命への影響力からの視点で見れば、『パリは燃えているか』は、戦後の矛盾を抱えたフランス共和党やアメリカ合衆国への単なる迎合であると誤解されて受け取られても仕方がなかったかもしれません。

【私はいかなる党にも属していないし、いかなる政治家にもくみしない。だからといって私が政治的に無関心な人間だというわけではない。なぜなら、もし私が政治を無視していようと、どっちみち、政治のほうで我々を無視してはくれないのだから。(略-)
(ルネ・クレマン 談)】
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】
海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)
田山 力哉 / / ダヴィッド社





 彼は、『太陽がいっぱい』(1959年)よりも以前の作品で、初期のレジスタンス映画や反戦映画が、フランス国家・国民の誇りによって、フランス共和国を解放し、戦争の悲劇を払拭したこと、それがフランス国民の歓喜となっていったこと、すなわちフランス革命以降の第三共和政のファシズムに対する勝利であったとの見解を、フランス共産党までをも含めた統一戦線の魅力に反映させて映画を創作していたと、わたしは解釈しています。

 しかし、彼は第二次世界戦後の間もなくの頃、自国の共和の精神が現代におけるある種の矛盾、それまで歓喜していた戦後の平和が幻想であることにも気づいていったのではないかと、豆酢さんとのコメント交換によって仮説を立てたことがあります。
 そのことは、『太陽がいっぱい』で、アラン・ドロンという現代の社会矛盾そのものを体現しているような青年俳優に巡り会ったことからも、更に大きく膨れ上がっていったのではないかと推察してしまうのです。

 戦後の凶悪な犯罪事件、現実にこれだけ奇異な犯罪が増加してきたことの、どこにどんな原因があるのか?そんなことに作家主義「ヌーヴェル・ヴァーグ」と異なる視点、また彼らの出現以降の新時代を踏まえて、現代劇、特に「サスペンス」という系統に入りこんでいったのではなかろうかと、豆酢さんと考えたのです。
 これらの体系は、社会から疎外された人物たちに主役を務めさせる題材として、社会問題を最も比喩し易かったものではないでしょうか?そんなところも、ルネ・クレマンが映画作家として、「サスペンス」の分野に傾倒した一因のように思うのです。
 日本でも、社会派推理作家の松本清張の推理小説などには、当時の社会問題を背景にしている作品が多く、その映画化された霧プロダクション製作の『点と線』、『霧の旗』、『砂の器』、『疑惑』、『鬼畜』、『わるいやつら』などは、その典型的な特徴を持つものです。

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 ルネ・クレマン監督においては、それが『太陽がいっぱい』から始まり、『危険がいっぱい』(1964年)、『雨の訪問者』(1969年)、『パリは霧にぬれて』(1971年)、『狼は天使の匂い』(1972年)、『危険なめぐり逢い』(1975年)などと継続していったとも考えられるのです。

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 彼の創作活動にとって、自身の精神分析医としての前歴、そして戦後の挫折感、「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動の台頭、これらが彼の後年撮り続けていった「サスペンス」作品郡の大きな動機付けになっていたことは豆酢さんと一致した意見でした。かつ、アラン・ドロンとの出会い・・・アラン・ドロンにとってのルネ・クレマンとの出会いの世評における注目度、そのような一般論以上に、ルネ・クレマン自身にとって大きな出来事だったアラン・ドロンとの出会い・・・これも大きな要素だったとも考えられます。

 また、1960年代以降、彼の映画的な意味での変化として、登場人物への感情移入の描写、主観描写を多用していったのは、アラン・ドロンを出演させた作品からのようにも思います。観客の主観に任せ切る突き放した客観描写は元来から多用していなかったとはいえ、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン、フェイ・ダナウェイ、ジャン・ルイ・トランティニャンなどを使う作品では、いよいよ影を潜め、世評では商業主義に堕落したと言われる所以となっていったようにも感じます。
 これを透徹したリアリズム描写への衰え、芸術家の堕落として批判するのか、あるいは新しい時代への挑戦と捉えるのかは、意見の分かれるところであるかもしれません。

 彼がそのような矛盾と邂逅していくよりも以前の1951年の作品『禁じられた遊び』は、戦争で家族を亡くしてしまった幼い少女の悲劇を反戦思想に立脚した視点で描写し、その美しい映像表現やプロットから「映画詩」と評せられた傑出した歴史的反戦映画となりました。
 また、その素晴らしいメッセージは、映像、ストーリー、脚本、俳優の演技、音楽、カメラ・ワーク、美術、編集、すべての映画的要素において優れて表現されており、国際的にアカデミックな高評価を得ることになります。

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 しかしながら、映画評論家の淀川長治、わたしのブログ仲間のシュエットさんも評しているのですが、この作品は、反戦思想のみならず男女の恋愛をも描いたものであるという視点からの意見もあります。
 名子役のふたり、ブリジット・フォッセーが演じた主人公の少女ポーレットと、彼女が迷い込んだ農家の末息子、ジョルジュ・プージュリー演ずるミシェルとの間に芽生えた淡く幼い恋愛を描いていることに着目した批評なのです。
 シュエットさんにおいては、反戦映画であることは確かであると捉えながら、ふたりの子どもを通して戦争・反戦というものが浮かび上がるよりも、戦争の悲劇があったから、ふたりの幼い恋が浮かび上がってくるそうなのです。年齢的に性的な意識は無いにしても、ふたりにとっては、これが初恋、幼い恋の物語であると解釈されていて、彼らにとって戦争の悲劇はこの映画の後から始まることを余韻として感じ取られたとのことです。

 わたしとしては、この作品でのポ-レットの描かれ方なのですが、あどけない少女であると同時に、どうしても、いわゆる「女」が見え隠れしてしまうのも確かです。これは言葉・文章として「セクシュアル・ハラスメント」にならないように表現することが難しいのですが、わたしが感じ入るところは、あれだけミシェルを夢中にさせてしまうエネルギーをポーレットが持っていることの凄さなのです。
 女性でも男性でも人間は、マイナスの要因でメンタル的に縮小傾向にあるとき、異性を惹きつけるパワーを持つことは良くあることのように思います。ポーレットが両親を亡くし、ひとりきりになってしまったそのときに、ミシェルという優しい男の子に巡り合ってしまったこと、これは現実的な男女の恋愛でも珍しいことではありません。
 また、わたしは、主人公のミシェルが、ポーレットが望むがまま、神聖な教会の十字架を盗んでしまう行為に、いわゆる「男」としての弱さを感じます。幼いふたりの真に美しい友情を表現することのみで映画のプロットを組み立てるのであれば、彼が兄としての立場でポーレットを戒めるシーンや倫理的に彼が悩むシーンを撮ったとしても、反戦テーマから外れることはなかったように思います。

 このような美しい反戦詩としての映画作品において、わたしとしては大人の男女のセクシュアルな側面を当てはめることに自己嫌悪するところではあるのですが、こんな不謹慎な視点もわたしの正直な感想のひとつなのです。

 さて、そんなところから、わたしは『危険がいっぱい』で、ジェ-ン・フォンダが演じた主人公メリンダが浮かび上がってきます。何度この作品を見ても、わたしにはこのメリンダが『禁じられた遊び』のポーレットの成長した姿に見えてしまうのです。

 彼女は、教会が設置している救済院を訪問する偽の慈善活動家であるローラ・オルブライトが演ずるバーバラとともに生活し、行動を共にしています。
 そして、メリンダ(=ポーレット)が、アラン・ドロン演ずるマルクに、午後からのスケジュールで児童養護施設に訪問する予定を説明するシークエンスに、
「児童養護施設か おれたち二人にふさわしい」
とのマルクのセリフがあります。

 メリンダを演じたジェーン・フォンダは1937年生まれ、『禁じられた遊び』の背景となる時代は1940年です。彼らが育ったとする当時の児童養護施設の子どもたちのほとんどは戦災による孤児だったと推察できます。

 『禁じられた遊び』でのポーレットは、神様への信仰や祈り方を初恋の男の子であったミシェルから教えられ、死んでしまった愛犬ジョッグの埋葬から、両親の死を理解していきます。
 ポーレットにとって、迷い込んだ農家ドレ家は、父や母の死を実感しながらも大好きなミシェルの献身で、その空白感を癒していくことができそうな場所でした。
 しかし、ようやくその生活にも慣れ満足感を覚え始めたころに、戦災孤児を収容する児童養護施設に引きとられてしまうことになり、ママとミシェルのイリュージョンを追って赤十字の戦災難民収容施設の雑踏を駆け抜けていく幕切れで物語は終わるのです。

 幼稚園に入園するかしないかの幼い少女に最も必要な生活環境、その最低限の両親の愛情を喪失せざるを得ない状況の下で健全な成長を経ることなど、どのみち不可能なことです。このような心の空隙を背負った少女は、どのような成長過程を辿るでしょうか。

 両親の死というトラウマと満たされない心の空白とを背負って生きていかざるを得なかった彼女は、ようやく母の代わりとなる従姉の偽慈善活動家のバーバラと巡り合い、大好きだったミシェルに教えてもらった信仰の仕事に携わっていったのでしょうか。
 それは敬虔な宗教家のそれとは異なるものだったかもしれませんが、信仰も祈りもメリンダ(=ポーレット)の生活には、絶対的に不可欠なものとなっていたのでしょう。
 何故ならば、後に彼女に不足していたもの、どうしても充足できていなかったもの、それは幼いころに失った父や母と同等に大切に想ってきた大好きなミシェルであり、その彼との想い出が、神様への信仰や祈りであり、十字架というアイテムであったからなのです。

 そこに現れたのが、マルクです。
 彼は、純朴な農家の息子とは縁遠く、自分に対してはミシェルのようには優しくはありませんし、しかも暴力団に追われている「いかさまカード師」でしたが、利発な若者であり腕白でどこか愛嬌のある魅力的な青年です。
 メリンダとマルクが登場するシークエンスのみに注視すれば、わたしには『禁じられた遊び』のポーレットとミシェルの関係の逆の設定の焼き直しのようにも感じるのです。迷い込んだポーレットはマルクとなり、迷い子を受け入れて愛してしまうミシェルがメリンダとなっているわけです。『危険がいっぱい』が『禁じられた遊び』と異なるのは、時代の変遷に伴う人間の成長後の結末、それが映画作家ルネ・クレマン監督のメッセージの変化であると思うわけです。

 可哀想なポーレットは、愛犬ジョッグの死体の埋葬をミシェルから教えてもらい、モグラやねずみなどの動物の死体でたくさんのお墓を建てます。彼女は美しい十字架に魅せられて、それらの墓を十字架で飾り立てたいと願い、ミシェルは霊柩車や村の共同墓地の十字架を盗んでしまうのですが、その彼の行為のすべては彼女が父母の死の空白感を埋めようとする潜在意識を代弁したものであったのかもしれません。

 メリンダ(=ポーレット)のトラウマは、その喪失感とその空隙を埋めることが出来なかった挫折感にあったのでしょう。
 大好きだったミシェルとの別れ・・・。
 マルクがバーバラと愛し合ってしまったことを知ったときのメリンダ(=ポーレット)の涙は、幼いころにミシェルから引き離されて、ママを想い出し、泣きながら戦災難民の収容施設を駆け抜けたときの涙と同じものだったとわたしは解釈しています。
 
 そのように考えると、この「サスペンス」劇『危険がいっぱい』での小悪魔メリンダ(=ポーレット)の画策、最後には監禁・拘束までしてマルクに執着してしまったことも、少しは理解できるような気もしてきます。
 実のところ本当に恐ろしいことは、女性の執念や魔性の性質そのものではなく、女性を疎外してしまう社会状況にあると、わたしには思えてくるのです。

 現在のわたしにとって『危険がいっぱい』は、必ず『禁じられた遊び』と同時に観るように心がけており、主人公のポーレットとメリンダを同時に理解することが、これらの作品のテーマを理解するうえで最も有意義なことになってしまいました。戦争の悲惨と戦後復興における社会矛盾の闇は、決して断続しているものではありません。原因と結果でピタリと当てはまる継続された様式の変遷でしかないのです。


【(-略)人間は政治的な旗印によってではなく、その行為によってこそ政治的な判断が下されるのだ。そして私の行為とは私の映画だ。私の政治的立場は私の映画を見て判断して頂こう。それに今や映画をつくること自体が政治的行為ではないのかね。たとえば『禁じられた遊び』で私は子供たちの不幸の責任者である大人たちに告発している。こういうことが政治に参加することになるかどうか知らないが、少なくとも私が考えていることを表現することにはなるだろう。
(ルネ・クレマン 談)】
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年」】

海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)

田山 力哉 / ダヴィッド社





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by Tom5k | 2010-10-10 23:32 | 危険がいっぱい(2)