『アラン・ドロンについて』⑥~アラン・ドロンの二重自我 その2 伝統的キャラクター・アクター その2~

 アラン・ドロンの二重(面)性に眼をつけたのは旧世代だけではありません。新世代「ヌーヴェル・ヴァ-グ」の作家のひとりであったルイ・マル監督も、彼の二重(面)性を描きました。
 また、実はわたしとしては、アラン・ドロンが最もアラン・ドロンらしいと思うのが、『世にも怪奇な物語』の第二話「影を殺した男」のドッペルゲンガー、ウィリアム・ウィルソンなのです。

 何故、ルイ・マルがアラン・ドロンとの仕事を引き受けたのか、というたいへん興味深い疑問も湧き上がって来るところではありますが、あらゆる意味から、結果的にはこの第二話「影を殺した男」は素晴らしい成功を収めたといえましょう。
 ルイ・マル自身もこの《分身》というストーリーの核となっているテーマに非常に興味をもって臨んだとのことです。
 それだけヨーロッパ映画においては、自身の内面を統一しきれないときのもう一人の自分自身の存在の必要性、つまり《分身》というテ-マが多くの観客を惹きつける妖しい魅力を放っていたのかもしれません。

 このウィリアム・ウィルソンという主人公のキャラクターについては、ジャン・リュック・ゴダール監督も常に引用・言及しています。

【たとえば、『気狂いピエロ』について語る際に、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」と題された短編小説に言及し、この名前ないし偽名をめぐる小説としても興味深いテクストが示す、生身の人物とその双生児的な分身としての影像との関係から、ウィルソン=映画作家という視点を提出するとき(「わがピエロ」、一九六五年)にも明瞭に示される。】

 ジャン・リュック・ゴダール監督が映画を語るとき、映画が現実世界を視覚に置換させるものとして、現実世界の翻訳によって成り立つこと、つまり映画の世界が観衆側の世界であることに最もこだわっているように思います。その言及は、作家の側の生気をフィルムに吸収させてでも、それを現実世界に還元させるものとして定義しているのです。

【『気狂いピエロ』において、「人生を撮影したとわたしが確信した瞬間、まさにそのためにわたしは人生を取り逃してしまったのです。」(「わがピエロ」)】

(【 】内、引用は『現代思想 総特集 ゴダールの神話 不在の神秘/神秘の不在 松浦寿夫』青土社、1995年10月臨時増刊)
ゴダールの神話
/ 青土社






 ゴダール監督の映画作家たることの意義にまで例えているこのウィリアム・ウィルソンの例示から考えても、アラン・ドロンがゴダールの同志ルイ・マルの演出において、『影を殺した男』でウィリアム・ウィルソンに扮した実績が、『ヌーヴェルヴァーグ』制作にあたってのこだわりのひとつとなっていたことは想像に難くありません。

 それに加えて思い出されるのは、『気狂いピエロ』でジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公フェルディナンと、アンナ・カリーナが演ずるマリアンヌの逃亡中の会話に、エドガー・アラン・ポー原作の小説「ウィリアム・ウィルソン」に触れる印象深いセリフです。

「彼は幽霊を見て殺そうと追いかけた 目的を果たしたら 死んだのは彼自身で 残ったのは幽霊だった」
気狂いピエロ
/ ハピネット・ピクチャーズ





William Wilson
Edgar Allan Poe / Amazon Press






 『世にも怪奇な物語』については、どのブログ記事を読んでもフェデリコ・フェリーニの第三話「悪魔の首飾り」を絶賛しており、それは現在、一般的な評価となっているように思います。
 しかしながら、映画のテーマにしても、アラン・ドロンの名演にしても、成熟したアラン・ドロンのファン、もしくは映画ファンなら、間違いなくこの第二話「影を殺した男」を客観的な意味において最も高く評価するはずです。

 ウィリアム・ウィルソンは、フランケンシュタイン、ドラキュラ、ジキルとハイド、ターザン、ゾロ、オペラ座の怪人、怪盗ルパン、カシモド・・・などと肩を並べるほど魅力的で典型的なキャラクターであるように思います。特に現代においては、それは益々意味深いテーマとなってきていることは、現実世界の生活実感においても感じることが可能なほどです。
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 その魅力ある、そして現代的テーマの典型であるような主人公ウィリアム・ウィルソンをアラン・ドロンが演じたのです。しかもこれ以上のはまり役がないほど、彼はこの主人公と同化していたように思います。
 この作品に限っては、エドガー・アラン・ポー原作の古典でありながらも、アラン・ドロン以上のウィリアム・ウィルソンを演じることのできる俳優は、今後、もう現れないのではないだろうか、とまで思ってしまいます。

 フランケン・シュタイン=ボリス・カーロフ、ターザン=ジョニー・ワイズミュラー、ドラキュラ=ベラ・ルゴシもしくはクリスト・ファー・リー、ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー・・・等々。
 それ以上のはまり役はないとまで言えるスター俳優のキャラクターへの同化と同様に、わたしとしては、アラン・ドロンが演じた強烈な個性の主人公たち、トム・リプリー、ロッコ・パロンディ、そして、私見でしかありませんが、ジェフ・コステロをも凌駕するキャラクターであったようにまで思うわけです。

 しかも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」体系の手法を持つルイ・マル監督が、エドガー・アラン・ポーの原作を演出したものです。フランソワ・トリュフォーの古典への回帰(この回帰主義に関わっては賛否の両論がありますが)を先駆けていたようにも思います。


 そして、わたしのなかに、さらに浮かび上がってくる作品がアラン・ジェシュア監督の『ショック療法』です。
 どうみてもこれは現代版ドラキュラもしくはヴァンパイアであり、いわゆるB級ホラー作品なわけですが、わたしとしては、できれば著作権など買い取って、ブラム・ストーカーの原作、カール・テオドア・ドライヤー監督の『吸血鬼(ヴァンパイヤ)』やF・W・ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』、トッド・ブラウニング監督の『魔人ドラキュラ』などを新古典としてリメイクして欲しかったように思っています。
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 ひとり古城に住み、美女の生き血を求め深夜の街を徘徊する美男の伯爵、耽美的で魅力的なアラン・ドロンのドラキュラ伯爵を観たかったファンは、わたしだけではないはずです。
 ジャン・ギャバンがヘルシング教授となって、ドロンのドラキュラを退治するなど、わたしの勝手な想像力は留まるところを知りません。
 監督としては、ドロンの渡米前ならば、ジュリアン・デュヴィヴィエに演出してもらいたかったです。強い倫理観で勧善懲悪のテーマとなりながらも、神と悪魔の矛盾や民衆の賢さや愚かさなどに、詩情をあふれさせながらの大作となったように思います。

 アラン・ドロンの人気が全盛期の70年代なら、フランシス・フォード・コッポラ監督、もしくはスティーブン・スピルヴァーグ監督に演出してもらいたかった。
 まだ、商業娯楽に埋没する以前の「アメリカン・ニューシネマ」時代の精神で撮って欲しい。《疎外される緊張感》や《追われる恐怖》などを主題に新しい発想において、クラシック作品を復活させて欲しかったです。

 ジョセフ・ロージー監督のコスチュ-ム・プレイも観てみたいように思います。たいへん恐い作品になったのではないでしょうか?ブルジョア家庭の令嬢の血を求め、その一族が虐げられていた貧困な農民たちに八つ裂きにされていく、というようなサディスティックで恐ろしい前衛作品になったでしょう。

 80~90年代なら、フォルカー・シュレンドルフの演出で、ドイツ表現主義で描いていた吸血鬼(ヴァンパイア)を、ニュージャーマン・シネマのリアリズムで復活させてほしかった。ヴェルナー・ヘルツォークよりも風刺の効いたエレガントなドラキュラもドロンに似合うように思います。
 また、パトリス・ルコント監督なんか、どうでしょう。詩情豊かでロマンティック、かつシュールな作品となったかもしれません。
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 さて、この『ショック療法』でも、いつも通りにアラン・ドロンの二重(面)性は、最大級のうさんくささを発露させています。しかも、それはやはり魅力的なわけです。
 ブルジョアジーたちの若さや美しさへのこだわりこそ醜悪で、しかもその底辺には貧しき若者たちの犠牲があるという現代社会の縮図のようなエステ・サロンの院内を舞台としており、ブルジョアジーの欲求を最大限に利用し、弱者を犠牲にして成り立つビジネス社会、現代の引き裂かれた社会でのアラン・ドロンの二重(面)性が、それらを暗喩するように描かれています。

 そして、アニー・ジラルド演ずるエレ-ヌを乗せたセスナ機での遊覧飛行で、アラン・ドロンが演じた二重人格の主人公ドクター・デヴィレが本音を漏らすシークエンスに、わたしにとっての非常に印象深いセリフがありました。

「この国は何もかも中途半端で嫌いだ 文明と文化のゆりかご 一度は逃げた アマゾンの奥地へね だけどなじめなかった いやでも同国人ばかり固まるのさ 堕落のかぎりだ」

 当時の現実のアラン・ドロンのやりきれない想いが言葉になっているような気がしてならないのです。アイデンティティを引き裂かざるを得なかった哀しい男の居直りが垣間見える瞬間であったように思われ、わたしとしては実にリアルな説得力を感じ、アラン・ドロンが自身の内部に何故、二重(面)性を持つに至ってしまったかのヒントが隠されているようにも考えてしまいます。

 さらには、『ヌーヴェルヴァーグ』でアラン・ドロンの演じた主人公の超越、ロジェ・レノックスからリシャール・レノックスに超越した理由が、このドクター・デヴィレのセリフにあるようにも感じ取れるのです。


 そして、古典・クラシックの王道であるジョンストン・マッカレー原作「怪傑ゾロ」を映画化した『アラン・ドロンのゾロ』です。
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 この企画も意外なように見えながら、アラン・ドロンという個性としては典型的な作品であったようにも思います。
 この作品も、やはりキャラクターの二重(面)性、すなわち「主人公の《分身》」というテーマを扱っていることから、アラン・ドロンにおいての特に重要な作品として位置づけられると考えます。

 正義の義賊を演じていてもやはり、常に謎を秘めた魅力を発散させており、しかもこの怪傑ゾロというキャラクターには、存在しないはずのもの、すなわち民衆の願望ともいえる存在が、そこに実在しうるという、極めて魅力的な「不在性の神秘」が露呈されていると感じるわけです。

 『ヌーヴェルヴァーグ』で主人公リシャール・レノックス登場のシーンに、このゾロの初見参のシークエンスをオーバー・ラップさせたのはわたしだけでしょうか?

 「この人を見よ」という、このニーチェの言葉とともに登場するリシャール・レノックス。

 現代において神は死に絶え、力への意志のみしか生存(実存)しえない、そうまさに超人化することだけが現代人の生き方となるというニーチェの思想を象徴させているシークエンスには、怪傑ゾロが開拓宣教師フランシスコを救済することで民衆を解放するという実践を、現代社会に置換させたものだったとしか、わたしには思えませんでした。


「伝統的なキャラクター・アクターとして、かつ二面性に魅力を発露させていたアラン・ドロンは、あらゆるジャンルの映画においても、どんな監督から起用されても、特に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家、ジャン・リュック・ゴダール監督の演出においてさえも、その一貫性を貫いた。」

と未来における俳優史に評価されることは想像に難くないことです。
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by Tom5k | 2007-07-21 02:09 | アラン・ドロンについて(12)

『アラン・ドロンについて』⑤~伝統的キャラクター・アクター、二重自我の魅力 オカピーさんとの対話~

映画の良心というキャッチ・フレーズがピタリとはまる、わたしのブロ友のプロフェッサー・オカピーさんをお招きして?アラン・ドロンの本質的な魅力をさぐってみました。

実は、過去に何度もわたしの話題にお付き合いしていただいたこと、これが何とも有意義なコメント集になっていましたので、オカピーさんのご了承も得られ今回の更新記事としました。


2005年12月29日
オカピーさん
ルネ・クレマンは素晴らしいですね。基本的にタイトな作風で無駄がない。それは初期のドキュメンタリー・タッチの作風が晩年まで続いたということなのでしょう。彼のベスト5は、「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」「居酒屋」「海の牙」「しのび逢い」辺りと思います。
 アラン・ドロンもお好きなようですね。実は私も大好きで、演技者としてもっと評価されるべきと思っています。かつてアルセーヌ・ルパンに夢中になった私としては若い頃「黒いチューリップ」で颯爽としたところを披露した彼にルパンを演じてもらいたかったところです。「太陽がいっぱい」「冒険者たち」「若者のすべて」「サムライ」「山猫」あたりが贔屓作品です。


トム(Tom5k)
オカピーさんの嗜好は、クレマンにしても、ドロンにしても王道ですね。
アラン・ドロンは『世にも怪奇な物語』のウィリアム・ウィルソン、勧善懲悪の『怪傑ゾロ』、『黒いチューリップ』、多くの「フィルム・ノワール」作品のギャングや殺し屋などの伝統的なキャラクターがよく似合います。
戦前のクラッシック映画を70年代に復活させた俳優なのではないでしょうか?

2006年4月2~4日
>『山猫』のドロンこそ私のアルセーヌ・ルパンのイメージ
とのこと。
わたくしも以前から、ドロンがアルセーヌ・ルパンを演じたらピッタリだと以前から思っていました。
彼はクラシック、つまり古典がよく似合う俳優だと思いますので、『ルパン』以外にも『ドラキュラ』や『ジキルとハイド』などの古典の名作に、もっと出演して欲しかったと思っています。
最も演じて欲しかったのは『吸血鬼ドラキュラ』です。

ところで、最近、色々なブログでオカピーさんのコメントに出会います。わたくしの映画の嗜好と似ているのでしょうか?
非常に愉快です。
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オカピーさん
トムさん、こんにちは。
用心棒さんジューベさんのところでお会いしましたね。基本的に古い映画をとても大切にしている方たちばかり。映画に対する愛情と探究心が深く、文章も大変うまい。おかげで自分が<井の中の蛙>であったことを思い知らされました。

ルパンを演ずるにはやや陰もある貴族の末裔的な雰囲気が重要だと思うのですが、ロマン・デュリス(先般の「ルパン」でのルパン役)では散文的でお話になりません。尤も未見ですけど。
『ゾロ』は展開は荒かったですが、ドロンは良かったなあ。『黒いチューリップ』は最近観ていませんが、結構好きですね。
ルパン
ロマン・デュリス / / 角川エンタテインメント







トム(Tom5k)
>オカピーさん、夜中に失礼します。
うかつだったのですが、ジャック・ベッケル監督の『怪盗ルパン(LES AVENTURES D'ARSENE LUPIN)』があったのを忘れておりました。未見ですが、いつか観たいと思っております。残念ながらDVDもビデオも販売されていないようです。
しかし、かのベッケル監督ですから、期待できそうな気がしており、DVD化を強く期待しています。
Les Aventures D Arsene Lupin
Maurice Leblanc / / Hachette





かつて『ベルモンドの怪盗二十面相』というルパンのパロディ作品が公開されたときのことを思い出しました。わたしは、オカピーさんと同様にドロンにルパンを演じて欲しかったので、ライバルのベルモンドに先をこされたような気がして(作品は、本来のルパンのイメージとは全く異なるドジな泥棒のコメディでしたけれど)、くやしい気持ちになっていたことを思い出します。
オカピーさんはドロンのルパンが実現していたら、監督は誰が理想ですか?
わたしは、なんと言ってもジュリアン・デュヴィヴィエ監督に演出して欲しかったです。


オカピーさん
トムさん、こんばんは。
ベッケルの『怪盗ルパン』は私も観ていません。ベッケルはタッチの良い監督ですので、確かに期待できますね。ルパンはイメージが出来ているので、怖い感じもしますが。
『ベルモンドの怪盗二十面相』・・・そんな映画もありましたね。ベルモンドとは古い付き合いのフィリップ・ド・ブロカが監督でしたが、全く記憶に残っていないところを見ると、大したことはなかったのでしょうか。

古典的なムードを出せ、洒落っ気があり、流れるような文体を誇るデュヴィヴィエで文句なし。スリラーにも実績がありますし。


2006年5月31日~6月2日
トム(Tom5k)
オカピーさん、TB・コメントどうもでした。
(『仁義』について)キャスティングが豪華すぎて、焦点がぼやけたのかもしれませんね。わたしはブールヴィルの警視を単純に主役にすべきだったのかなとも思っています。まあ、それはメルヴィル監督も気がついていて、次作『リスボン特急』での刑事の孤独にテーマを絞った理由なのだろうと感じています。
それから、『仁義』の後、メルヴィル監督はドロンでルパンを撮る企画を立てていたそうです。実現していれば、独特のルパンものになったでしょうね。


オカピーさん
トムさん、こちらこそコメント有難うございました。
なるほど、ブールヴィルを主人公に据えてもっと短くすれば、純文学的な方向で上手く作れたかもしれませんね。トムさんのご意見を借りれば、性善説・性悪説の対比が主題として。
そうですか。ドロンのルパンは夢ですから実現して欲しかったなあ。でも、演出がメルヴィルでは相当重くなったでしょうね。あれから考えましたが、演出者として、『黒いチューリップ』を撮ったクリスチャン=ジャック辺りでも上手く作れたかもしれませんね。


トム(Tom5k)
オカピーさん、あんまり、うれしいことを言ってくれるので、連続の書き込みをしてしまいます。
もうまさにクリスチャン・ジャック監督のドロンのルパン、今すぐに見たくなってしまいましたよ。実現したら最高でしたでしょうね。
日仏合作『黄金仮面(明智小五郎VSルパン)』で三船の明智と再共演や、英(もしくは米)仏合作『ルパンVSホームズ』でテレンス・ヤング監督のブロンソンのホームズとの一騎打ちとかなんていうのも面白いかもしれませんね。
ブロンソンは『雨の訪問者』の印象で、ホームズが浮かびました。
考えただけでワクワクしてきますよ。
では、また。
雨の訪問者(字幕スーパー)
チャールズ・ブロンソン / / コロムビアミュージックエンタテインメント







オカピーさん
トムさん、返事が送れてすみません。
三船の明智は良さそうですね。多分天地茂より良い(笑)。
ブロンソンはちょっと英国臭がないかなあ(※注)、という印象です。テレンス・ヤングは良いかもですね。
今となっては全てが夢の夢。
「雨の訪問者」ですか。懐かしいですね。当時絶好調だったフランシス・レイの音楽が耳にこびりついていますよ。「パリのめぐり逢い」「個人教授」「ある愛の詩」・・・良い仕事をしました。レイのサントラ主題曲集なんてないかしら。
フランシス・レイ作品集
オムニバス / / ビクターエンタテインメント
※ オカピーさん、ここにありましたよ。でも、これサントラかな?トム(Tom5k)



※注
その後、ブロンソンのホームズ役を何人かの友人に話してみましたが、揃ってホームズ役は合わないとのブーイング意見でした(笑)。トム(Tom5k)



2007年4月21~27日
トム(Tom5k)
(『復讐のビッグガン』について)こっこれは、珍しい作品を取り上げましたね。
わたしとしても、ほとんど無関心な作品だったんですが・・・。
17・8年前に一度観たきりです。ファンとして失格ですけど、ただ注視すべきは、おっしゃるとおり
>ピエロ姿のドロン
このシークエンスには、確かに感じるものがありますよ。いずれ整理して記事にはしたいと思っています。やっぱオカピーさん、鋭いですなあ。
最近、何十回目でしょうか、豆酢さんも好きなロージー監督の『パリの灯は遠く』を観ました。何十回観ても素晴らしいものは素晴らしいです。
ではでは。


オカピーさん
トムさん
>ピエロ姿のドロン
深く検討すれば、『黒いチューリップ』とは同じであり逆でもある、人間の仮面性といったところに行き着くところではありますよね。
『パリの灯は遠く』は不条理な悲劇でしたね。色々複雑な思いを抱いた作品ですが、実は30年前に一度しか観ていないです。すみません。


トム(Tom5k)
(『黒いチューリップ』について)待ってました、オカピーさん!(笑)
二重人格や一人二役はアラン・ドロンの右に出る者はいないとまで思っていますよ。恐らくですが、ドロン自身もそういった役柄にかなりの陶酔感を持っていたのではないかな?
>冒険ものの三大設定
やっぱり、クリスチャン・ジャック監督なんかは、フランス映画の最後のクラシック作品の作り手だけあって、セオリー・基本が見事ですよね。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品も好きですけど(本当に大好きです)、戦前から戦後60年代始めくらいまでのフランス映画は最高です。
吉永小百合さんもリアル・タイムで見ていたらしく、絶賛されていた記憶があります。アニエス・ヴァルダ監督も『百一夜』で強調していたように思いますし、女性ファンが多い作品だと思います。
こころの日記 (1969年)
吉永 小百合 / / 講談社





>彼のアルセーヌ・ルパン
最近、ジョニー・トー監督のノワール作品にドロンが出演するらしいとの情報がありますが、老ルパンの役なら、まだ期待できるかも。わたしとしては、ルコントかベッソンあたりで制作してほしいですね。
ああ、またなんかカルネやクレール、デュヴィヴィエ、フェデールなんか見たくなってきちゃった。


オカピーさん
トムさん、こんばんは。
本当にドロンの二役には痺れますよねえ。
また大物はこういう役を一度はやりたがりますね、プロデューサーや監督に求められるまでもなく。

ヌーヴェルヴァーグ以降の作家が小手先というわけではないですが、それ以前の作家は、フランスに限らず、小手先ではなく本当に基本を大事に作っていますね。

>老ルパン
そう言えば『ハーフ・ア・チャンス』では、初老の怪盗紳士役を楽しそうにやっていました。
ベッソンは劇画的になりすぎる傾向があるので、私は文芸色のあるルコントで観たいです(笑)。


最近なかなかお邪魔できずにすみません。
今ピークで、へーへー言っております。

私の読書の幅も益々広がって文学では物足りず、思想・哲学も守備範囲にしようかと思っております。「社会契約論」も読んでみたいですねえ。昔の記憶を辿ると、「民約論」とも言いましたね。ルソーは興味深い著書が多いですよね。「エミール」「告白録」「新エロイーズ」など。
人間不平等起原論 社会契約論
ルソー 小林 善彦 井上 幸治 / 中央公論新社






エミール
ルソー / / 岩波書店





それはさておき、(『黒いチューリップ』について)ドロンの二役が最高でした。結局はドロンのために作られた作品ということに尽きますよね。
この時代の彼で、ルパン・シリーズの傑作「カリオストロ伯爵夫人」をクリスチャン・ジャックで作ったら永久保存版になっただろうなあ。さあ伯爵夫人は誰にさせましょうか?稀代の悪女です。同時代の女優なら、ジャンヌ・モロー? 80年代に入って貫禄の出てきたカトリーヌ・ドヌーヴでも良いかなあ。
済みません。妄想の世界に入ってしまいました。


トム(Tom5k)
>オカピーさん
おおっ!ジャン・ジャック・ルソーを、ですかっ!日本人は、民主国家になった段階でここが不足しているがために、本来の意味での近代国家に成りきれていないのだと思いますよ。多くの人が、江戸末期から明治初期にかけてルソーを読むべきだったはずです。わたしは今からでも遅くないと思いますよ。本当に素晴らしいですね。
『エミール』は、この八方ふさがりの時代に益々の必読書とも思います。日本の教育が、今行き詰まっているのも『エミール』を読まないからだっ!

すみません、取り乱してしまいました。
さて、
>ドロンの二役・・・
ふ~む。いやまったく、絶品ですよ。彼の分裂人間はっ!
むしろ、分裂してないドロンなんて、クリープを入れないコーヒーのようなもんです(例えが少し古かったでしょうか?)。

クリスチャン・ジャックのドロン=ルパンは、以前、オカピーさんの企画で最も優れたルパン企画であると興奮させていただいた記憶がありますが、カリオストロ伯爵夫人ですか?
こっこれは、また興奮しそうだ!
>ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーヴ
おおっ魅惑のジョセフィーヌ!
素晴らしいっ!
しかし、わたしからすると新しすぎます。あえて「ヌーヴェル・ヴァーグ」の女優は無視しましょう。
クラシックの正統で考えればジーナ・ロロブリジダ、もしくはフランソワーズ・アルヌール、世代を考えなければ、マルチーヌ・キャロル、ヴィヴィアンヌ・ロマンスあたりかなあ。マリー・ベルでも素敵な伯爵夫人になりそうっ!
やばっ、美輪明宏が浮かんできちゃった。

ガニマール警部は難しいですよ。トランティニャンやギャバンだとルパンを撃ち殺してしまいそうだ(笑)。
では、また。


オカピーさん
おおっ、お付き合い戴き有難うございます。

>カリオストロ伯爵夫人
マルチーヌ・キャロルは私も考えましたが、やや色気過多? フランソワーズ・アルヌールは全盛期では若すぎる?
ロロブリジダは大変イメージに近いですが、惜しむらくはイタリア人。まあこの際譲っちまいますか(笑)。

美輪明宏・・・却下(当たり前)。「黒とかげ」ではないんですから(爆)。

>ガニマール警部
イメージとは違いますが、ドロンと縁のあるリノ・ヴァンチュラ。この人を考えたら他の人が全く思い浮かばなくなってしまった(笑)。ルイ・ジューヴェも刑事役の実績ありますが、老けすぎ?

幻想映画館・・・楽しいですね。クラリスや乳母も考えないと(笑)。


トム(Tom5k)
オカピーさん、ようやく仕事も一段落と思いきや、今までの数倍の量の業務に襲いかかられましたよ。愚痴ですが参りましたよ。
さて、幻想映画館ですが、考えて観ることが出来ないというのが、残念ですが、いろんな企画を立てられそうですね。考えついた監督や俳優の違った個性にも気付かされます。
用心棒さんが、G×G対決のシナリオを記事にしていましたが、あれも面白かったです。
こういう企画も、たまにはいいかもしれません。
ではでは



いつも、アラン・ドロンが伝統的な俳優、そしてスターであること、彼の二面性が魅力的であることなどを基本に楽しくお話しさせていただいています。
オカピーさん、いつもドロン談義にお付き合いいただき、ありがとう。
トム(Tom5k)
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by Tom5k | 2007-07-14 18:28 | アラン・ドロンについて(12)

『アラン・ドロンについて』④~アラン・ドロンの二重自我 その1 想起するルネ・クレマンとの師弟関係~

 ジャン・リュック・ゴダール監督の『ヌーヴェルヴァーグ』という作品では、主演しているアラン・ドロンの人格の二重構造が描かれています。

 そして、彼の出演している多くの傑作の中でも、その引き裂かれた人格を演じている作品が、特に魅力的であるようにも思います。
 また、ジャン・リュック・ゴダール監督にしても、それがこの作品を手がけていった動機のひとつでもあったようにも思います。

【長い間私はドロンと一緒に映画を作ることを望んでいた。そしてこの『ヌーヴェルヴァーグ』で、彼の役 -私には彼以外の俳優はあり得なかった- を見付けたのだった。例えば、彼には彼自身に対して、また他人との関係に於いて、《アラン・ドロン》であると同時にかつての《アラン・ドロン》でありえるのだ。それ故、彼はこの二重の役柄を演じることが出来たのである。(ジャン・リュック・ゴダール)】
【引用 『newFLIX vol.4 SEP.1990(小特集『ヌーヴェルヴァーグ』)】

 このことは、『ヌーヴェルヴァーグ』という作品を、さらにはアラン・ドロンを主演させた作品を突きつめていくうえで、特に重要な懸案の事項であるといえましょう。

 映画作品でのアラン・ドロンの分裂、すなわち二重性は、どの作品から、誰の演出作品から始まっていったのでしょうか?


 最後の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠と呼ばれているルネ・クレマン監督は、アラン・ドロンのその二重性を最初に見抜き、その人格の分裂を統一させ成長させました。わたしとしては、彼らの師弟関係には、そんな側面もあったように思うわけです。

 では、アラン・ドロンはルネ・クレマンの下(もと)で、一体どのように成長を遂げていったのでしょうか?

 ルネ・クレマン監督はアラン・ドロンを、まず彼の出世作ともなった『太陽がいっぱい』で、モーリス・ロネが演じた大金持ちの友人フィリップ・グリンリーフに対して、短絡的な同一視から殺人犯人となってしまう主人公トム・リプリー役で起用します。
 貧困で惨めな主人公トムが、この現代ブルジョア青年フィリップに憧憬してしまったことを犯罪動機としたのです。「女」や「自由」、「品位」や「知性」さえも、金があれば全部手に入る、真面目に働かなくたって、あらゆる欲望がすべて手に入る。
 主人公トム・リプリーは、彼のその所有をすべて自分の手に入れたかった、いや彼はフィリップ自身になりたかったのでしょう。
 実に屈折して、歪んだ在り方であっても、映画評論家の淀川長治氏が言っていたとおり、トムはフィリップを愛してしまっていたのではないでしょうか?!

「ああ、おれはフィリップになりたい。金も女も自由も全てが欲しい!」

 しかし、あの衝撃的なラスト・シークエンスでもわかるように、クレマン監督はドロンに、

「どんなに苦しい思いをしていたとしても、ひとの命を奪って野心を果たすこと、すなわち犯罪に手をそめて自分を確立しても、それは偽物にすぎない、いつかは見破られてしまい、結局は最も悲惨な眼に会うだろう。」

と厳しく戒めているように、わたしには見えるのです。


 次にルネ・クレマン監督は、『生きる歓び』で、やはり貧困ではあるけれど、今度は、素直に淋しさを認め、お金よりも家族の愛情や純粋な恋を求める好青年ユリスを彼に演じさせます。しかし明るくて健康的なキャラクターであるとはいえ彼をまだ、自分に確信を持てずに何か他の物差しで自分を測り、他人への変身願望を主軸にしてしまう主人公として演じさせています。
 やはりまだ、彼は分裂せざるを得ないのです。

 つい背伸びをしてアナーキストの英雄カンポサントになろうとしてしまった主人公ユリス、このことがテロリズムという現代的なテーマを先取りして、大騒動を呼び起こしてしまうコメディ作品でした。

 ことが重大事になるに従って、カンポサントという人格を保とうとしながら、必死にテロリズムをくい止めようと奔走するユリスでしたが、最後には背伸びをしていた彼よりも素性の知れてしまった本当のユリスのほうが、暖かくバルバラ・ラス演ずるフランカに恋の対象として受け入れられる結果となります。

 このような結末でもわかるように、クレマン監督はドロンに、

「本当の自分を素直に表現することが、本当の愛情を手に入れることの必要条件なのだ。」

と彼を諭しているように、わたしには見えるのでした。


 次の『危険がいっぱい』では、ようやくアラン・ドロンの人格を統一させました。
 しかし彼に演じさせたマルクという主人公は、いかさまカード師で若い詐欺師の役です。マルクはいつも、いい加減に好きなことばかりやっている奔放な青年です。
 いくら正直な自分で生きていていたとしても、そして好青年のキャラクターではあっても、これでは正常な日常を地道に営めるわけがありません。
 そして、最後にはジェーン・フォンダ演ずる小悪魔メリンダに自由を奪われ、彼女の手元に囲い込まれてしまいます。素直にそして自分を偽ることなく正直に生きた結果、確かにメリンダに愛されたマークではありましたが、このような恐ろしい結末が用意されていたのです。

 この恐ろしいラスト・シークエンスを用意した師匠のクレマン監督の真意は?

 わたしは、何の裏付けもないチンピラのままでいながら、調子に乗って必要以上の野心、ハリウッド作品での成功願望を持ってしまった愛弟子アラン・ドロンに、すでにそこでの失敗を、はっきりとした裏付けをもって厳しく批判していたように思っています。

 実際にはどうだったのでしょうか?


 そして、いよいよ二人にとっての最後の作品になったハリウッド作品『パリは燃えているか』です。ここでは遂に、アラン・ドロンの人格の統一を完成させ、自国フランス共和国の祖国を守るレジスタンスの闘士、社会的に非常に重要な人物としての役割(柄)を与えています。
 また、ルネ・クレマン監督自身にとっても久しぶりの彼の原点、リアリズム作品の集大成であるレジスタンス映画です。『鉄路の闘い』や『海の牙』以来の熱い想いで撮った作品だったのではないでしょうか?
鉄路の闘い
/ ビデオメーカー





海の牙
マルセル・ダリオ / / アイ・ヴィー・シー





 彼にとっては、この作品はフランス国内のみでナチス・ドイツとの闘いを描いていた過去の実績から、同盟国、連合軍アメリカ合衆国との友情により、ハリウッド作品として飛躍させようとした大胆な野心作であったようにも思います。
 ナチス・ドイツの占領下、自由フランス軍を扇動した共和党のドゴール、彼の信奉者である現実のアラン・ドロンを投影しているようなレジスタンス運動の幕僚デルマス。このデルマスは、後の実生活のリアルなアラン・ドロンそのもののような錯覚すら想起させます。

 もし、この作品を撮っていたときにヨーロッパで大戦が起こったとしたら、アラン・ドロンはデルマスと同じ行動や言動を執ったのではのではないでしょうか!?

 とうとうアラン・ドロンは人格の統一、それも確たる思想・信条までを持つまでの立派なアイデンティティを確立するに至ることができました。


 『パリは燃えているか』では、フランス人のナチス抵抗運動の統一戦線は、握手を求めるナチス・ドイツのコルティッツ将軍に向け、それを拒否し
「レジスタンスは寄り合い所帯で確執も多い、しかし、今のフランスの敵は唯一ナチスのみだ。」
と言い放ちます。
 そして内部に矛盾を抱えながらも自由フランス軍・統一労働戦線レジスタンスは、フランス人にとってのただひとつの敵、ファシズムの象徴ナチス・ドイツに勝利するのです。


 ここでのルネ・クレマン監督は、アラン・ドロンに

「いくら自分の内部に多くの矛盾を抱えていても、決して自分を分裂させてはいけない。しっかりとした自分を持って勇敢に生きて行きなさい。もう、わたしが君に伝えることは何もない。さあ、自分で自分の道を歩んで行きなさい。」

と優しく語りかけているように思うのです。


 ハリウッド作品で大成することができなかったアラン・ドロンですが、帰仏後に『冒険者たち』や『サムライ』から会心作を生み出し続け、マルコヴィッチ殺害事件を乗り切って全盛期を迎えていった契機は、師匠ルネ・クレマンのこれらの素晴らしい教えの数々があったからではないかと、わたしは勝手な想像をしてしまい、感動で涙さえ流してしまうことを厭いません。


「『ヌーヴェルヴァーグ』ですごいと思うのは、ゴダールのような左翼とドロンのような右翼とが、互いに衝突しあうこともなく、一緒に仕事をすることができたということです。」
フィリップ・ガレルの言葉が思い出されます。


 わたしには、ゴダールとドロンが『ヌーヴェルヴァーグ』での共作に至った本質的な根拠が、クレマンとドロンの師弟関係の最後の作品であるこの『パリは燃えているか』に隠されているような気がしてならないのです。
 この素晴らしい師弟関係にゴダール監督は、密かに感動していたのではないでしょうか?

 クレマン&ドロンの作品は、映画史に燦然と輝くべきなのです。
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by Tom5k | 2007-07-08 20:28 | アラン・ドロンについて(12)

『ヌーヴェルヴァーグ』⑤~ゴダール&ドロンの作品って!?~

 今から17、8年も前になりましょうか。『ヌーヴェルヴァーグ』の製作発表のニュースを映画雑誌で読んだとき、わたしは周囲の人間たちにそれを伝えました。あんまりにも驚いてしまったからです。

 まずは親しかった友人のひとりに・・・。

 彼の読書傾向はジョン・アップダイクやJ.D.サリンジャー、テネシー・ウィリアムズ・・・、SF小説はフィリップ・K・ディック、レイ ブラッドベリ・・・、推理小説はレイモンド・チャンドラー・・・。
 現代思想においては、ジャン・ポール・サルトルは古く(奴にとっては)・・・、彼は、ミッシェル・フーコーやレヴィ・ストロース、アルチュセール、ラカンなどの構造主義の信奉者でありました。
走れウサギ
ジョン・アップダイク / / 白水社





ライ麦畑でつかまえて
J.D.サリンジャー / / 白水社






欲望という名の電車
テネシー ウィリアムズ / / 慧文社





20世紀SF〈2〉1950年代―初めの終わり (河出文庫)
レイ ブラッドベリ / / 河出書房新社





かわいい女
レイモンド・チャンドラー / / 東京創元社





サルトルと構造主義 (1968年)
/ 竹内書店





 映画の嗜好は、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジャン・リュック・ゴダール、ヴィム・ヴェンダースの作品、『パリ・テキサス』や『蜘蛛女のキス』等々・・・「ネオ・リアリズモ」や「ヌーヴェル・ヴァーグ」、「ニュージャーマン・シネマ」等々・・・。
ヴィム・ヴェンダースセレクション
ヴィム・ヴェンダース / / 東北新社





蜘蛛女のキス
/ ビクターエンタテインメント





 いわゆるインテリ嗜好の「知」的な人間ではありましたが、長く古本屋などでフリー・アルバイターなどをしながら、生活の苦労も充分に知っていた友人でした。まあ、わたしなどは、「似非のインテリ」などとよく彼をからかったりもしていましたが・・・。

「今度、ゴダールの映画にアラン・ドロンを使うんだってよ。」
 その友人は、わたしのこの貴重な情報を聞いて
「なんだって今頃、ゴダールはドロンを使うんだあ?はは。」
と嘲るように‘にやり’と笑いました。
 やっぱり、奴のインテリジェンスは偽物だ、とあらためて確信したものです(笑)。


 わたしの母親や父親は、50年代後半から60年代初めに青春時代をおくった世代です。アラン・ドロンともほぼ同世代で、美空ひばりや江利チエミ、フランク永井などが大好き、オードリー・ヘップバーンやエリザベス・テーラー、モンゴメリー・クリフト、アンソニー・パーキンスなんかが出ている華やかな洋画が大好きで、『陽のあたる場所』、『帰らざる河』、『昼下がりの情事』や、『スリ』、『刑事』、『道』などを観て、ハリウッド作品とイタリア映画などヨーロッパの作品(「ネオ・リアリズモ」などという映画用語はもちろんわかっていなし、わかろうともしない)の区別を「THE END」と「FINE(FIN)」くらいでしかつけておらず、映画を見終わったその足でダンスホールに通っていたという、本当にいい加減で尊敬できない世代です。
陽のあたる場所
モンゴメリー・クリフト / / パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン





マリリン・モンロー・ダイヤモンド・アルバム
マリリン・モンロー / / 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン





オードリー・ヘプバーン DVD-BOX
オードリー・ヘプバーン / / パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン





スリ
マルタン・ラサール / / アイ・ヴィー・シー





刑事
ピエトロ・ジェルミ / / アミューズソフトエンタテインメント






/ アイ・ヴィー・シー





 ジャン・ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』ではなく、アラン・ドロンの『サムライ』というように、わかる範囲でしかものの解釈ができない(する気もない)人間です。

「あっ、そうそう三船敏郎が出てたっけねえ。」

(おれ、もう話ししない)。


 その母親に
「今度、アラン・ドロンが有名な映画監督(ゴダールと言っても誰で何のことか、どうせわかりませんから)の映画に出るんだとさ。」
「へぇ~、まだ映画出てるんだねえ。」
「二重人格の役なんだと。」
「ピッタリだね。」

「・・・・・・」

(案外わかってるよな、おふくろも)。

 少し見直した次第でありました。

 これらが、わたしの周辺でのインテリの映画ファンと、一般的な普通のおばさんの典型的な『ヌーヴェルヴァーグ』という作品の予想でした。

 ここでもアラン・ドロンは、インテリには侮蔑され、庶民には愛され理解されている、スターでありヒーローであることが証明されているのではないかと思われます。

「ヒーローないしヒロインの精神を体現した肉体の美は、それを讃美する人々の民族的、階級的イデオロギーと憧憬とを正確に表現する。われわれは他人の顔の表情を読むように、その美を読みとることに習熟しなければならない。人々に好ましく思われる美は、ある社会層の欲求を、政治綱領以上によくあらわしている。」
【『映画の理論(第二十四章 ヒーロー、美、スターおよびグレタ・ガルボの場合)』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】

 彼は決して“ファッション・モデル”などではなく、映画作品での、そう銀幕での庶民の大スター、そして現代(60~70年代)を象徴していたヒーローなのです。


 さて、わたしはと言うと、ジャン・リュック・ゴダール監督がアラン・ドロンを使って映画を撮るということ、そしてアラン・ドロンがジャン・リュック・ゴダール監督の作品に主演すること、二人の間に何が起こったのか、フランスの映画界に何が起こっているのか、興味は尽きず、そして歓喜と驚愕に打ち震えました。

 何よりアラン・ドロンの演ずる役が、一人二役もしくは二重人格なのです。彼の最も特徴的な個性によって、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のゴダールが演出する作品。しかもタイトルが『ヌーヴェルヴァーグ』・・・。

 これは奇跡であります。

 しかし、ゴダールにとってアラン・ドロンを使うということは、批判していたかつての同志フランソワ・トリュフォーと同様に典型的な商業映画を撮ってしまうことになってしまいます。
 そして、アラン・ドロンにとっても、常に名優とか、演技者であるとかの建前に埋没せずに、庶民のヒーロー、もしくはスターであることを貫いてきた過去を、否定することになりかねない恐れが強くあったわけです。

 この二人のコンビネーションは、彼らにとってのメリットよりもデメリットの方が大きいことは明らかで、お互いが余程の覚悟をしない限り、一緒に映画を撮ることなどできなかったように察するところであったわけです。


 また、実際の問題として前述した誤解が先行したり、すでに彼らは人気の全盛期を過ぎてしまっており、一部のマニアでしかない「ゴダール信奉者」や「アラン・ドロンファン」にはもちろん、一般的な映画ファンにとっても興味を持てない作品になってしまったような気もします。
 そして、それは今だに、なお現在でも払拭されておらず、大袈裟に言えば意味不明な作品として、そのまま放置され続けているように思うわけです。


 例えば、
 ジャイアント馬場とアントニオ猪木は相闘わずして、プロレス人生を終えました。
激録 馬場と猪木〈第8巻〉競り合う両雄、分裂の萌芽
原 康史 / / 東京スポーツ新聞社





 ゴジラとガメラも共演したことがないし、今後も共演しないでしょう。(用心棒さんのブログでは共演していますが・・・
『ガメラ対ゴジラ 地球破壊計画』(200Ⅹ)第一部 太平洋の脅威
『ガメラ対ゴジラ 地球破壊計画』(200Ⅹ)第二部 G1とG2
『ガメラ対ゴジラ』(200Ⅹ)第三部 地球降伏命令
『ガメラ対ゴジラ』(200Ⅹ)第四部 地球最大の作戦)。
 これらは世の中の「禁じ手」であります。このようなタブーをゴダールとドロンの二人はあっさり破ってしまったのです(用心棒さんもですが・・・(笑))。


 いずれにしても、彼らはもうすでに一緒に作品を撮ってしまったのです。
 そして驚くことに、この作品に理解を示している映画ブログの記事がありました。
chouchouさんのブログ「映画の宝石箱★美しき菫色の刻に愛を込めて」の(2007.05.08 ジャン=リュック・ゴダールが語るアラン・ドロン主演の『ヌーヴェルヴァーグ』の記事)

 ほんとうに、この記事を見付けたとき、わたしはうれしさのあまり椅子からころげおちました。
 chouchouさんは、上記のわたしの友人や母親を大きく凌駕し、GG対決を記事にした用心棒さんと同等のレベルではないかと考えるわけです(笑)。
 冗談はさておき、このように、ジャン・リュック・ゴダールとアラン・ドロンのこの作品『ヌーヴェルヴァーグ』は、少数ではあっても、すでに映画ファンの記憶に刻まれてしまっているのです。


 そして、いずれ間違いなく、この作品は映画史に残ってしまうのです。

「彼ら(ゴダール&ドロン)は、言う「我々の性格をもってしたら、完成した作品は、ろくでもない代物か、芸術的傑作かのどちらかだろうね。」」
【引用 『newFLIX vol.4 SEP.1990(小特集『ヌーヴェルヴァーグ』)】
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by Tom5k | 2007-07-07 23:46 | ヌーヴェルヴァーグ(6)