『若者のすべて』②~オリーブの樹が繁る月が明るい虹の故郷(くに)~

 映画評論家のベラ・バラージュによれば、「対象が観者と無関係に、それ自身にもっている客観的な観相である。(-中略-)その輪郭が観者の視覚によって、つまり画面の遠近法によって規程される観相である。両者はまったくひとつに統一されて画面にあらわれるので、よく訓練された目だけが、これらの構成要素を識別できる。」
として、観る側の作品主人公への精神的同一化が起こるとしています。
【引用~ 『映画の理論』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】
映画の理論
ベラ バラージュ Bela Balazs 佐々木 基一 / 學藝書林






 つまり、ある対象の本来備わっている姿と、映像技術などによっての表現力とが、観客を映画そのもに同化させるわけなのです。

 ルキノ・ヴィスコンティ監督がアラン・ドロンを初めて観たときに、当時の彼が原案を練っていた『若者のすべて』の主人公ロッコに会えたと驚愕したそうです。それほどまでに、アラン・ドロンとロッコ・パロンディには共通のキャラクターが存在していたということなのでしょう。

 しかし、アラン・ドロンが、『若者のすべて』のロッコ・パロンディのようなイノセントなキャラクターを演じたことは数少なく、彼の後年のファンにおいては、この作品で演じたロッコ・パロンディに違和感を憶えるという意見も少なくありません。

 更に興味深いのは、イタリアのトリノの労働組合でテキストとして使用されたこの作品に対する最も多かった感想が、主人公ロッコ・パロンディに対する批判の集中であったことです。
「トリノでは『若者のすべて』をテキストに、労働者たちの討論会が行われた。そこで一様にロッコへの非難が集中したという。ロッコはシモーネに暴力をふるわれっぱなしで我慢がならない、あるいは、ナディアに対してロッコは曖昧なことを言い、ごまかしている・・・」
【引用~『退廃の美しさに彩られた孤独の肖像 ヴィスコンティ集成』フィルム・アート社、1981年】

「この映画以後ドロンは一躍、国際的なスターとなって、劇場側が歓迎するぺてん師やギャング役を演じる映画に次々と出演した。したがってロッコを演ずる彼を見ていない人には、ヴィスコンティの厳しい指導に耐えて彼がこの役で演じ切った、ほとんど輝くばかりの愚直さと、悲哀と、しんの強さを想像するのはむずかしいかもしれない。」
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 (1982年)

平凡社



 これらのことから、アラン・ドロンが演じたロッコ・パロンディのキャラクターには、「主人公への精神的同一化」が起こりえない一側面があることは、否定しきれないように思います。

 何故なのでしょうか?

 マックス・カルティエール演ずる四男のチーロが、ラスト・シークエンスで言っています。
「ロッコは聖者だ。でもわれわれの住んでいる世界には、ロッコのような聖者のいる場所はないんだ。」

 ルキノ・ヴィスコンティ監督はトリノの労働者たちのロッコへの批判に対して、
「ロッコは兄シモーネに対して罪悪感を持っている。このことは忘れたくない。彼は自分が悪いことをしていると確信しているのだ。」
と答えたそうです。
【引用~『退廃の美しさに彩られた孤独の肖像 ヴィスコンティ集成』フィルム・アート社、1981年】
ヴィスコンティ集成―退廃の美しさに彩られた孤独の肖像
/ フィルムアート社




 ロッコは、宗教(イタリアの場合はカトリック)からも解放されていません。レナート・サルヴァトーリが演じている兄シモーネに対する彼の罪悪感は、そんなところからも生まれているのではないでしょうか?

「神様を悪く言うのは、おやめよ。」
 カティナ・パクシノウ演ずる母親ロザリアに対してのロッコの絶叫です。

 逆に、人間というのは罪悪感にさいなまれると、多かれ少なかれロッコのように聖人化することもあるのかもしれません・・・。

「(-略-)ジョヴァンニ・テストーリの『ギルファ橋』の三つの短編から材料を採り入れることにした。(-中略-)当時は新人作家で-恩寵と個人の救済の問題にとり憑かれたカソリック教徒として、その強固な宗教的分別を社会的問題に当てはめて文章を書いていた。」
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】


 また、この作品はドストエフスキーの「白痴」をモチーフにした作品であることから、その主人公ムイシュキン公爵がモデルのひとつであったとも言われています。
白痴 (上・下巻)
ドストエフスキー 木村 浩 / 新潮社





「(-略-)ドストエフスキーの『白痴』のなかで「白痴的」なムイシュキン公爵の性格のりりしさに関する部分や、ムイシュキン、ロゴージン、ナスターシャの入り組んだ人間関係、ロゴージンのナスターシャ殺害に至る経緯などの部分にも影響を受けた。」
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

 労働者たちの批判、現代の標準的な映画ファンの印象、チーロのセリフ、キャラクターのモデルなどからも理解できるように、ロッコのキャラクターは、資本主義的生産様式を採っている現代の社会には、存在し得ないものだと言えましょう。恐らくそれは、現代では生きながらえることの出来なかった過去の封建社会にのみ存在したものなのかもしれません。
 わたしは20世紀初頭の実存主義哲学者ニーチェの、あの有名な「神は死んだ」という言葉を思い出してしまいました。
ツァラトゥストラはこう言った 上・下 岩波文庫 青 639
ニーチェ / / 岩波書店





 もっと突き詰めれば、アラン・ドロンが18、19世紀に存在していたと仮定するならば、彼はロッコ・パロンディと同一の個性であったような気もするのです。
 いずれにしても、この現代社会に生きる我々が、『若者のすべて』を何度観ても、映画スターであるアラン・ドロンに感情移入することは可能であっても、主人公ロッコ・パロンディに対してのそれは不可能なことなのかもしれません。


 ただ唯一、彼に感情移入できるシークエンスが、ボクシングの祝勝会での展開においてのみ、表現されていたようには思います。恐らく、ロッコが現代の矛盾を背負うことにようやく慣れてきたことからなのだろうと思いました。同時に、この段階での聖人ロッコの精神環境は、既にボロ雑巾のようにズタズタに引き裂かれていたはずです(このシークエンスの後には更なる悲劇が待ちかまえているわけですが・・・)。
 だからこそ、我々現代人がようやく理解できるキャラクターへと変貌しつつあるようにも感じるわけです。

 故郷への想いがロッコの口から出ます。
「いつかは、今すぐにでないにしても、俺は故郷(くに)へ帰りたいんだ・・・でも帰れるかどうかはわからないが・・・。とても無理だろう。俺には・・・でも俺たちのうちのひとりは、故郷(くに)へ帰らなくちゃいけない・・・ルーカ、おまえかもしれない。
忘れるなよルーカ、あれが俺たちの故郷(くに)だ・・・オリーブの樹が繁り、月が明るすぎて気が変になるくらいの土地だ・・・虹の故郷(くに)だ。」
 ロッコは、ロッコ・ヴィドラッツ演ずる末っ子のルーカに故郷への想いを託しているのです。
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

《オリーブの樹が繁る月が明るい虹の故郷(くに)》
 なんてノスタルジーを想い起こさせるセリフなのでしょう。

 故郷に心を残して、いつかは帰れることを一番望んでいるロッコ。わたしはとても心が痛いのです。彼の願いは、現代の多くの人々の共感を得ることのできる言葉ではないでしょうか?誰もが、ロッコの故郷に帰りたい気持ちを良く理解できるように思います。生産手段を持たない者たちはどんな形態であれ、故郷を奪われていきます。
 そして、その故郷と言われる場所にずっと居住していた者ですら、時代というものに故郷が奪われていかざるを得ないように思うのです。
 現代社会においては、故郷など思い出のなかにしか残らないものなのかもしれません。そして、ロッコの想いも虚構でしかないのです。


 それにしても、貴族出身であるにも関わらず、ルキノ・ヴィスコンティ監督は、どうして無産階級の様子をこんなに上手に演出することが出来るのでしょうか?

 彼は戦時中には、ファシスト政権の監視下におかれながらも、「反ファシスト被害者救済委員会」というレジスタンス運動に身を投じていた闘士であったそうです。1944年にはファシスト警察に逮捕されます。しかし彼は拷問と獄中の酷い生活で飢餓状態におかれていたにも関わらず、仲間を売るようなことはせず、むしろ非常に傲岸な貴族の威厳をちらつかせて、警官たちを見下した態度を取っていたそうです。
 それが原因となってファシストたちの怒りを買い、銃殺刑を宣告されてしまいます。連合軍によるローマ解放の前日に脱出に成功しなければ、ヴィスコンティは銃殺され、その後の功績は生まれなかったことになります。
【参考~『海外の映画作家たち 創作の秘密』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】

 戦後、イタリアの映画人によって、戦争の悲惨を徹底的に暴き出していった「ネオ・リアリズモ」の映画潮流は、ルキノ・ヴィスコンティだけではなく、ロベルト・ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ピトロ・ジェルミ、ルイジ・ザンパ、ジュゼッペ・デ・サンティス、アルベルト・ラットゥアーダ等々、多くの映画人も一般民衆とともにファシズムと闘った体験を持ったことで、形づくられていった体系であったのでしょう。

 これらの経験が彼の才能の一部になっているとはいうものの、映画を観る側の生活実感までを掘り起こせる演出力は、確たる思想・信条の裏付けを土台として、映画制作への想像力と情熱に全力を傾けていたからこそ実現できたのだと思います。このことは、敢えて言うまでもないことなのかもしれませんが、凄いことだと思います。

 彼の「ネオ・リアリズモ」の特徴が最も典型的で、卓越した集大成として描かれているのが、『揺れる大地-海の挿話-』と、この『若者のすべて』であることは一般的な見解です。
 現在でも根本的に解決されていないイタリアの南北問題に、いち早くメスを入れていた19世紀後半のヴェリズモ(真実主義)という文学運動の代表的作家ジョヴァンニ・ヴェルガは、イタリア南部における慣習や生活、人々の感性までをもルポルタージュしていきました。
 この『若者のすべて』や『揺れる大地』も、彼がジョヴァンニ・ヴェルガの『マラヴォーリア家の人びと』から着想を得たものだそうです。
マラヴォリヤ家の人びと
ジョヴァンニ ヴェルガ / / みすず書房




 そして、彼は『揺れる大地-海の挿話-』の制作に関わって、
「私のテーマは『シチリアのプロレタリアよ、団結せよ』ということにあった」
と語っており、
揺れる大地 海の挿話
/ 紀伊國屋書店





 『若者のすべて』が公序良俗に反する部分があるとして、イタリア検察当局が裁判に訴えたときにも、彼は法廷において、自身の思想がイタリア共産党の創始者であるグラムシの思想と一致すると明言したそうです。
【参考~(『海外の映画作家たち 創作の秘密』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年)(『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年)】
海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)
田山 力哉 / / ダヴィッド社




ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 (1982年)
/ 平凡社





 ルキノ・ヴィスコンティは、「赤い公爵」と呼ばれていたように、貴族階級であったにも関わらず、自身が共産主義者であることを明言していたのでした。

 思えば自分の祖先である貴族を滅びさせた者たちは、新興のブルジョアジーでした。
 新興のブルジョアジーに対する憎しみは、彼の潜在意識にすり込まれたものであったのかもしれません。
 彼らへの侮蔑と復讐願望は、『山猫』でのドン・カルジェロや『地獄に堕ちた勇者ども』への新興ブルジョアジーの没落・崩壊などの描き方によく表されています。
地獄に堕ちた勇者ども
ダーク・ボガード / / ワーナー・ホーム・ビデオ





 そういう意味では、ルキノ・ヴィスコンティにとっての敵(ブルジョアジー)の敵(ブルジョアジーを敵としている無産階級、すなわち未熟練労働者)は味方であったのかもしれません。未熟練労働者に対する親近感や愛情、限りない優しい感情が発生していった理由は、そこにあったのではないでしょうか?
 そして、そのように考えていくと、まさにそういった無産階級をシンボライズしているようなキャラクターであるアラン・ドロンという俳優を寵愛した彼の感情を、非常によく理解することができるような気がするのです。



 ロッコは、スピロス・フォーカス演ずる兄ヴィンチェンツォに語りかけます。
「憶えているかい、ヴィンチェ兄さん・・・憶えているかい、棟梁が家を建て始める時のことを・・・いちばんはじめに来かかった通行人の影に向かって石を投げたっけね」

 ルーカが不思議そうに聞き返します。
「どうして?」

 母親のロザリアは涙を流しています。

「家をがっちりと建てるためには、犠牲がなければならないからさ」
とロッコ。

 悲しい比喩です。
 チーロのクローズアップの視線を追うカメラで、シモーネのボクサー時代の写真にパンするショットに、彼が現代社会の「犠牲」のシンボルであることが表現されています。

 わたしの世代は、親の世代が日本の高度成長を担った世代です。身近な親戚や親の知り合いを探せば、シモーネほどではないにしても、ばくちが好きだったり、女性にはまったりして、家庭がうまくいかなくなったり、身を持ち崩したりした者が必ず存在するはずです。
 そういう意味では、わたくしはシモーネに対して同情的にならざるを得ません。現代では多かれ少なかれ、シモーネのような人間が創り出されてしまうものであるような気もするからです。

 シモーネが、チーロに罵倒されるシークエンスでは、彼が末っ子のルーカを、思わず抱きしめてしまうシーンがあります。そのときのシモーネの悲しそうな表情を、わたしは忘れてはならないと思うのです。
 彼のキャラクターは、本人の責任と社会の責任の両面から考えていくと、実に微妙な人間であるような気がしてしまうのでした。


 また日本の映画作家においても、明治期の日本の女工哀史、山本薩夫監督の『あゝ野麦峠』、山田洋二監督の『息子』『学校』、今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』、浦山桐郎監督の『キューポラのある街』なども、わたくしの好きな作品ですが、これらはまるで『若者のすべて』と共通のモチーフによって制作されているようにも思います。
息子
三國連太郎 / / 松竹





学校
西田敏行 / / 松竹





にっぽん昆虫記
左幸子 / / ジェネオン エンタテインメント





キューポラのある街
吉永小百合 / / 日活





 そして、今井正、黒澤明、大島渚、熊井啓、新藤兼人・・・・らの作品群。
 エイゼンシュタインが「現代の芸術である映画芸術においては、必ず資本主義を描いていなければならない」と主張していたことを思い出します。

 『若者のすべて』は誰もが、あらゆる多くの映画作品のうちでも極めて優れたドラマ性を見出すことが容易な作品です。ベラ・バラージュが論述しているように、「ドラマトゥルギーとしての古典、すなわち人間観が劇的な境遇のなかで変化し没落破滅していく過程を描きながらも、実はそれらが成長し、高揚していく様子に転換されていく要素」が表現されているからなのかもしれません。

 わたしたちが今、自国に《美しい国》を望むことと同様に、いつの日にかパロンディ一家が《オリーブの樹が繁る月が明るい虹の故郷(くに)》を、取り戻せることを願わずにはいられないのです。
美しい国へ
安倍 晋三 / / 文藝春秋






美しい日本の私―その序説
川端 康成 / / 講談社






【映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい。 (ジャン・ルノワール)】
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by Tom5k | 2007-03-13 01:13 | 若者のすべて(3)