時代の情景 ~アラン・ドロンについて~
2023-04-16T00:26:15+09:00
Tom5k
映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること
Excite Blog
『黒いチューリップ』③~「アラン・ドロン」沿革史:渡米まで~
http://zidai.exblog.jp/29010212/
2020-05-17T18:37:00+09:00
2022-12-18T20:27:18+09:00
2020-05-17T18:37:29+09:00
Tom5k
黒いチューリップ(3)
確かに、1960年代のフランス映画においての「剣戟映画」は、それを得意としていたジェラール・フィリップの死後(1959年)、ジャン・マレーやジェラール・バレーなどを主演させて多くの作品が量産されていましたが、アラン・ドロンの渡米前の出演作品の傾向に、このような「剣戟映画」に出演する要素が見当たらないのです。
例えば、ジャン・ギャバンと共演する直近に、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の作品に出演していたこと、そして、そのすぐ後に、追い詰められた逃亡者、行きずりの美しいロマンス、そして「死の美学」・・・などのテーマで悲劇のヒーローを演じていることなど・・・。
このような必然性のある流れが見付けられないのです。
そんなことから、実に根拠の不十分な私の勝手な思い込みも手伝っているのですが、彼が初めて主演した『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)以降、渡米するまでの出演作品の傾向を踏まえた沿革、体系化を試みてみました。
かなり不確かな体系付けなのですが、アラン・ドロンの『黒いチューリップ』出演の根拠を探すために便宜的に策定してみようと考えたのです。
<「アイドル映画」期>
『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)
『恋ひとすじに』(1958年)
『学生たちの道』(1959年)
『素晴らしき恋人たち』(1961年)
『生きる歓び』(1961年)【「ルネ・クレマン」期:再掲】
<「ルネ・クレマン」期>
『太陽がいっぱい』(1959年)
『生きる歓び』(1961年)【「アイドル映画」期:再掲】
『危険がいっぱい』(1963年)
<後期「ネオ・リアリズモ」期>
『若者のすべて』(1960年)
『太陽はひとりぼっち』(1961年)
『山猫』(1962年)
<「デュヴィヴィエ=ギャバン」期>
『フランス式十戒』(1962年)
『地下室のメロディー』(1962年)
『さすらいの狼』(1964年)
※ 前述したように『さすらいの狼』は、戦前のジュリアン・デュヴィヴィエとジャン・ギャバンの名コンビの作品群と同作風だと考えました。
そして、『黒いチューリップ』は、どこにどのように位置付ければいいのでしょう???
例えば、
<「デュヴィヴィエ・ギャバン」期>及び「ルネ・クレマン」期を自国フランス映画の時期に一元化して、<「パパの映画」期(末期「詩的レアリスム」期)>
にする体系も考えられなくはないと思うのですが、『黒いチューリップ』だけが、フランス革命期を時代設定としたエンターテインメント「剣戟映画」であり、他の作品とあまりにもかけ離れた傾向を持つ作品であることが気にかかります。
そんなことから、次に考えたのが、
<「コスチューム・プレイ映画」期(「歴史・文芸映画」期)>
の体系です。
ここでは、『恋ひとすじに』、『素晴らしき恋人たち』、『山猫』と同体系にしてみたのですが、各々の作品傾向があまりにも異なり過ぎたものになってしまいました。
では、
<「アイドル映画」期>
に入れてしまってはどうでしょうか?
ただ、これも、若干、無理な体系付けのような気がしてしまいます。
確かに、この頃のアラン・ドロンは、まだ「アイドル」ではあったかもしれません。しかしながら、彼は既に出演した作品で幾人もの映画史的レベルの巨匠の演技指導を受けていましたし、国際的なスターとしての要件も備えて、自国フランスのみならず、他国の大スター達とも互角の共演を果たすところまで演技のメソッドを身に付けていました。
そういった意味で、『危険がいっぱい』、『地下室のメロディー』などや『黒いチューリップ』は、「アイドル映画」ではありませんし、アラン・ドロンも「アイドル」としての時代を脱皮しようとしていたと考えてしまうのです。
最後に考えたのが、
<「二重性向キャラクター」自国フランスでの発見期>
として、『太陽がいっぱい』、『生きる歓び』と同体系にすることでした。
これは、私としては、説得力のある作品傾向の位置付けだとは思ったのですが、この体系を「期」として体系付ける意味を見い出せなかったのです。
アラン・ドロンの二重性向のキャラクターは、大スター「アラン・ドロン」だけが持つ素晴らしい特徴であり、演技者として、また、超一流のスター俳優として、生涯に亘って「アラン・ドロン」であることの証に外ならないものだからです。
このように、私としては『黒いチューリップ』(1963年)だけが、彼の初期の出演作品の沿革に体系付けられなかったのです。
ところで、アラン・ドロンは1964年に『黄色いロールス・ロイス』によって、アメリカ映画界に進出し、以後、1966年の『テキサス』まで五作品に出演しました。
彼が渡米した背景には、当時の自国フランスでの革命的な映画潮流「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品が彼の出演作品に全く縁が無かったこと、つまり、彼が旧時代の映画体系のスター俳優だったことから、水と油ほどの異なる「新しい波」の作品と相容れず、フランス映画界で思うように活躍が出来なかった事情があったと考えられます。このことは既に定説となっており、その最も大きな動機のひとつとして挙げられるでしょう。
そして、彼のその決断には、もうひとつ・・・『山猫』(1962年)でのバート・ランカスターとの共演もきっかけになっていたのではないかと、現在の私は思っています。このことは、従来から想像していた以上に大きな原因だったと考えるようになりました。
何度も繰り返すことになりますが、アラン・ドロンは、『山猫』で共演したハリウッドのスター俳優、バート・ランカスターをジャン・ギャバンと同じように尊敬していました。
バート・ランカスターが育った家庭は貧しかったようで、少年時代からアルバイトの収入で家計を助けていました。また、青年期にサーカス団での空中ブランコのプレーヤーとして活躍していたことは有名な逸話ですが、その興行中に負傷し退団することになってしまい、その後はモデルやウェイターなど、フリー・アルバイターとして生活していたそうです。そして、第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に入隊し慰問団に所属していました。
また、映画デビュー当時には、『殺人者』(1946年)、『裏切りの街角』(1949年)などの「フィルム・ノワール」作品への出演から始まり、『真紅の盗賊』(1950年)、『怪傑ダルド』(1952年)などの冒険活劇に主演して人気を博していきますが、べテラン期には、『山猫』や『家族の肖像』(1974年)などでの円熟した名演により、イタリア映画界の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督にさえ一目置かれていった人物です。
彼は、ハリウッドの人気アクション・スターであるに留まらず、高いインテリジェンスを備えたヨーロッパの映画芸術でも通用する演技者でもあったのです。
アラン・ドロンは、バート・ランカスターの映画界に入る以前の経歴と過去の自分の苦労とを重ね合わせ、映画デビューした以降の彼の出演作品の傾向やキャラクターなどから、自分の映画スターとしての未来像を模索していたのではないでしょうか?
そんなことも含め、この偉大なハリウッド・スターに対して、「尊敬する俳優」とまで公言していたのでしょう。
これらの理由から、前述した「アラン・ドロン」出演映画史としての沿革に、少し大胆にあらたな項目を加えることを試みました。
<「バート・ランカスターとの邂逅」期>
『山猫』(1962年)【後期「ネオ・リアリズモ」期:再掲】
『黒いチューリップ』(1963年)
『黄色いロールスロイス』(1964年)~『テキサス』(1966年)
バート・ランカスターは、俳優になる以前、子供の頃から、ルドルフ・ヴァレンティノやダグラス・フェアバンクスの冒険活劇が大好きで、フレッド・ニブロが監督して、ダグラス・フェアバンクスがゾロに扮した『奇傑ゾロ』(1920年)の大ファンだったといいますし、若い頃には自らも痛快な冒険活劇で大活躍するヒーローを颯爽と演じてもいます。
最近の私は、アラン・ドロンが渡米していた期間の五作品も含め、『黒いチューリップ』を<「バート・ランカスターとの邂逅」期>の作品として考えて、ようやく納得できる体系をイメージ出来たように思えるのです。
アラン・ドロンは、自国フランス国内で製作・出演した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を初め、「詩的レアリスム」の作風などでモデルにしていたジャン・ギャバンに加え、国際規模のスター俳優として、アメリカ映画のエンターテインメント性と国際的に通用するインテリジェンスの両側面から映画製作・出演に邁進するための基礎・基本をバート・ランカスターから学んでいったに違いありません。
【ベルモンドは人気スターで、ドロンはスターそのものである。2人は警官やならず者だったのだ。(-中略-)一方はほとんどフランス国内にとどまり、もう一方はかなりの国際派で、イタリア人の貴公子の役や、アメリカ西部の殺し屋の役や、コンコルドのパイロットの役も、ごく自然に似合う俳優だ。】
【引用 『フランス恋愛映画のカリスマ監督 パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー』ジャック・ジメール著、計良道子訳、共同通信社、1999年】
驚くなかれ、フランスの作家、映画評論家であるジャック・ジメールは、その著作でのアラン・ドロンに関する記述に、『山猫』、『レッド・サン』(1971年)、『エアポート’80』(1979年)を何気なく例示しているのです。
人気・実力全盛期のアラン・ドロンの国際スターとしてのキャラクターの成熟は、バート・ランカスターによってもたらされたものだと、もはや私は疑うことが出来なくなってしまいました。
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『エアポート’80』②~驚くべきアラン・ドロンのエアポート・シリーズへの出演~
http://zidai.exblog.jp/28979543/
2020-05-10T16:02:00+09:00
2023-04-16T00:26:15+09:00
2020-05-10T16:02:02+09:00
Tom5k
エアポート’80(2)
そして、それらの作品は恐らく、彼がジャン・ギャバンとともに尊敬するバート・ランカスターに大きな影響を受けて出演した作品だったとの私の考えは、【『レッド・サン』③~ 尊敬するバート・ランカスター、そして、アメリカ映画へのこだわり ~】に掲載したとおりです。
そして、最近の私にとっては、たくさんの想い出がこの三作品にもあったことを思い返すようになりました。
アラン・ドロンのことを知ったばかりの小学生の頃、彼が三船敏郎とチャールズ・ブロンソンを敵役にした西部の悪漢として『レッド・サン』に出演していたことは、テレビの映画特集などを見たことで知っていましたが、アラン・ドロンのファンになってからは、西部劇のジャンルに日本人の三船敏郎が出演していること、その共演が不思議なことでした。
なお、アラン・ドロンは日本でたいへん人気のあったスター俳優だったので、三船敏郎との共演は、映画ファンに留まらず日本人全体にとっても非常にセンセーショナルな出来事だったと思います。
現在の私としては、三船敏郎の出演については彼が国際的な俳優であったこと、西部劇の舞台設定については、大政奉還後の廃刀令前の時代設定において、日米友好の使節団として派遣された武士・サムライであることなどから、まだ納得出来なくはありません。
しかし、アラン・ドロンは、フランス人として出演しているわけではありませんし、ヨーロッパのダンディズムを体現していたスター俳優だったわけですから、このような典型的な西部劇の悪漢として出演していたことは現在においても非常に不思議なわけです。
もちろん、それ以前の『テキサス』(1966年)も西部劇ですが、彼の若い頃の渡米時代の作品ですから、アメリカ映画であれば西部劇であろうと戦争映画であろうと、それはあり得るわけです。むしろ出演作品のジャンルよりもアメリカ映画に出演していた時代があったことに驚くべきであると考えています。
そして、『アラン・ドロンのゾロ』です。
私が小学4~6年生の頃には、『暗黒街のふたり』(1973年)を従姉家族が観に行ったことや、『個人生活』も伯母・伯父夫婦が結婚記念日に観に行ったこと、『アラン・ドロンのゾロ』の撮影中にこの作品の完成をもって映画俳優を引退すると宣言したことなど、我が家庭でもアラン・ドロンやその公開作品の話題が多くなっていました。
また、その頃は、『ボルサリーノ2』(1974年)や『愛人関係』(1974年)公開の宣伝広告が新聞紙面によく掲載されていたので、子供ながらに彼のスター俳優としてのイメージが、ダーバンのCMやテレビ放送されていた出演作品とともに私の中に定着していきました。
しかし、私は、まだ、ジョンストンマッカレーが創作した「怪傑ゾロ」自体のキャラクターを知りませんでしたので、映画雑誌などのアラン・ドロンの仮面姿の写真を初めて見たときには、
> あれ?この映画、新作かあ???
でも、前にテレビでやってたよなあ?確か・・・。※ 『世にも怪奇な物語 第二話 影を殺した男』じゃないのかな???
(※ 私のクラスにも『黒いチューリップ』と勘違いしていた女子がいました。)
そんなことから、アラン・ドロンが演じた主人公に二重人格のキャラクターが多いことを知ったのもこの頃でした。
なお、彼が「ゾロ」を演じることについては、私よりも、むしろ父親が驚いていました。
>父親
何いぃ???アラン・ドロンが「ゾロ」~???・・・そりゃないべぇ~!
「ゾロ」はなあ、おまえ!タイロン・パワーとかよ。
>トム(Tom5k)
へぇ~「ゾロ」って有名なんだ?
他の俳優で誰がいた?
>父親
ん?んん?・・・そうだな?・・・おう!エロール・フリンよ!
「嘘」です!
エロール・フリンは「ゾロ」を演じていません。その他、ノー・コメント・・・ということで。
『フリック・ストーリー』(1975年)公開以後、アラン・ドロンの作品は必ず映画館に足を運んでいた私は、既に高校2年生になっていました。
ある時、映画雑誌「スクリーン」や「ロードショー」を立ち読みしていると、アラン・ドロンのパイロット姿とシルヴィア・クリステルのスチュワーデス(キャビンアテンダントあるいは客室乗務員)姿の写真による『エアポート’80』のPR記事が掲載されていたのです。
このときは、本当に驚きました。アラン・ドロンの次の出演作品が、あの人気パニック映画シリーズなんて・・・しかも、主役の機長を演じるなんて、あり得ない!
既に当時の私は、
> アラン・ドロンのことなら何でも来い!おれは、「アラン・ドロン」博士だぞ!
と自他ともに認めるわきまえの無い時期であったにも関わらず、彼がこのシリーズに出演するなどとは考えたこともありませんでした。
『アラン・ドロンのゾロ』も、そのキャラクターを演じることは、当時の常識から意外だったわけですが、イタリア資本と提携したヨーロッパの作品でしたし、当時は愛息アントニーにせがまれて出演したと、本人の上手な言い逃れ(現在の私は、これがアラン・ドロンのてらいないファンへの言い訳だったと考えていますが、どうなんでしょうか?)によって出演理由が発信されていましたから、まだ納得出来ないわけではありませんでした。
しかし、エアポート・シリーズについては、純粋なアメリカ映画、ユニバーサル社の人気パニック映画のシリーズです。
本当に「ぶったまげる」とは、このことです。
当然、「この作品のこの登場人物はアラン・ドロンで行こう!」と考える・・・企画・立案する製作者サイド、つまり業界の仕掛け人は存在するのでしょうが、少なくてもそのオファーを受けて出演する意思を固める俳優本人にとっても、そのストーリー・プロットや演じるキャラクターなどを勘案した演じるための強い意欲が、映画出演を承諾するための必須要件となると思います。
ですから、そのときの出演動機、特に演ずるための経験やモデルが、どこかに存在しているはずなのです。
恐らく、アラン・ドロンは『レッド・サン』において、『ヴェラクルス』(1954年)の素晴らしい悪役ジョー・エリンを演じたバート・ランカスターをモデルとし、『アラン・ドロンのゾロ』においても『怪傑ダルド』(1950年)や『真紅の盗賊』(1952年)などの冒険活劇で大活躍しているバート・ランカスターからの影響や刺激を受けて出演したに違いありません。『真紅の盗賊』での聾唖の部下が活躍する人物設定も『アラン・ドロンのゾロ』と似ています。
今回は言わずもがな、この『エアポート’80』も、『大空港』に出演したバート・ランカスターの影響だったと、現在の私は察しているわけなのです。
そんなことから、最近、『大空港』のDVDを久しぶりにレンタルし鑑賞しました。
むかしは、よくテレビ放映されていましたし、レンタルビデオ(DVD・BD)の時代になってからも何度も繰り返しレンタルして鑑賞してきた愛着のある作品ですが、今回の鑑賞でその素晴らしさを再発見し驚いています。
この作品は、高い知的水準を要して鑑賞する芸術作品ではありませんが、現代劇として娯楽性を追求した視覚的に強い印象を与える大掛かりなスペクタクルとしてはもちろん、様々な社会生活を営んでいる当時の典型的な人物を配置することによってアメリカ社会を反映させた群像劇として、しっかりとしたストーリー・プロットで構成されている映画作品だったのです。
しかも、グランド・ホテル方式によるスターシステムを活用した贅沢なオールスター・キャストで構成されています。
これらのことについては、私のブログの盟友オカピーさんも絶賛しています。
【(-略)積雪で飛行機が立ち往生する事態が終盤のパニック場面におけるサスペンスを大いに盛り立てることになるし、この部分で「グランド・ホテル」形式に則って航空関係者の相関図が頗る簡潔にして鮮やかに説明される。このスムーズな流れがあるが故に中盤以降にわかに高まるサスペンスが大いに機能することになるのである。
(-中略-)
カットの切り替えの代わりに当時流行っていた分割画面を有効に使い切れ味に貢献しているのも印象に残る。空港警備関係者を集合させるところで四隅が徐々に埋まっていくところなど特にゴキゲン。】
【プロフェッサー・オカピーの部屋「大空港」のブログ記事】
こうした素晴らしいディザスター・パニック映画の作品で、その中枢の人物像を堂々と演じたバート・ランカスターは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1962年)において、イタリア統一時代のシチリアにおける改革期の統治者として苦悩したサリーナ公爵の演技を彷彿させます。このサリーナ公爵が、もし現代に生きたなら『大空港』のメル・ベイカースフェルド空港長のような人物として活躍するのではないでしょうか?
この主人公のキャラクターにも、『山猫』でバート・ランカスターと共演したアラン・ドロンは、大きな刺激を受けたよう思います。
ところで、1970年初頭のアメリカは、1960年代の「公民権運動」を経て、1960年代後期以降の「ベトナム戦争」反戦運動の真只中であり、映画ファンの若返りとともに映画界全体が革新的な作風による「アメリカン・ニューシネマ」の時代を迎えていました。この『大空港』は、それとは異なるアメリカ映画元来の大作主義として製作されたと聞きますが、やはりその時代の影響を少なからず受けていたようにも感じられるのです。
特に、現在のアメリカ映画のスペクタクル作品とは異なり、登場人物の生活実態が何気なくリアルに表現されているのです。
航空機爆破の犯行を実行してしまうヴァン・へフリン演ずる失業中の建設技術者ゲレーロとモーリン・ステイプルトンが演ずる妻イネーズの居所であるアパート、イネーズが細々と経営するカフェの描写などに対して、メル・ベイカースフェルド空港長の家族の優雅な暮らしぶりの様子は、家族との電話の応答シーンでのマルチ画面により映し出されており、この当時のアメリカの格差社会が正確に描写されていたように思いました。
航空機の空港発着による騒音公害に対する市民運動の表現も斬新だったと思います。テレビ局の撮影が終わればデモ隊が引き上げることを想定した空港側の対応など、市民運動や空港管理当局の悪い意味でのしたたかな現実が描かれていました。なお、危機発生時の緊急対応においては市民側の要求を否定しなければならないメル・ベイカースフェルド空港長の空港経営者側の役員との口論には強いリアリティがありました。
もちろん『大空港』は、グランド・ホテル方式の群像劇、アンサンブル・プレイとしても秀逸な作品です。特に第一線で活躍する登場人物たちのそれぞれの夫婦間の問題を職業的視点で象徴的に対比させていたことには驚きました。
まずは、メル・ベイカースフェルド空港長、ディーン・マーチン演ずるヴァーノン・デマレスト機長などのエリート層職員のそれぞれの夫婦間の様子が、緊急時の航空事故の緊迫感の中でのアンサンブル・プレイとして描写されています。
ダナ・ウィンター演ずるメル・ベイカースフェルドの妻シンディの権威主義や仕事への無理解と家庭を顧みない夫の仕事一徹主義による夫婦関係の崩壊、その影響によるメルとジーン・セバーグが演ずる空港職員ターニャ・リヴィングストンとの恋愛関係、そして、ジャクリーン・ビセット演ずる客室乗務員グエン・メイフェンとの無責任な不倫関係が、彼女の妊娠をきっかけとして本物の愛情へと変遷するヴァ―ノンの心理描写の変遷、更に、取り残されてしまうバーバラ・ヘイル演ずるその妻サラの様子など、二組の夫婦関係と不倫関係が実に多様な視点によって分かり易く丁寧に描写されていました。
逆に、それらと対象的なのがジョージ・ケネディが演ずる空港整備のベテラン技術者のジョー・パトローニの家庭環境です。ホワイト・カラー・エリートの空港長やパイロットの崩壊に向かっている夫婦関係と対立させて、新婚時代のように仲の良い夫婦として描かれているのです。
私は、ジョー・パトローニ夫妻のこの設定から、テネシー・ウィリアムスの戯曲『欲望という名の電車』の主人公、肉体労働者のスタンリー・コワルスキーとステラの夫婦関係を想起してしまいました。プティ・ブルジョワの家庭の在り方に、現場労働者のような幸福を構築することの難しさを風刺していたように感じてしまったのです。
更に、この作品では最も悲惨な夫婦として設定されているのですが、航空機の一部を爆破してしまった失業中の建設技術者ゲレーロと妻イネーズの深い信頼関係にも訴えかけてくるものがありました。
これら四組のそれぞれの夫婦の人生模様を同時間的に交差させるストーリー・プロットの背景は、登場人物たちの階級的差異による社会矛盾を映画的手法で表していたように私には思えました。
また、ゲレーロの航空機爆破の犯行動機には、戦場体験によるPTSDによる労働者の失業実態が遠因となっていることにも説得力がありました。実際の戦場での体験により発症してしまったPTSDが、航空機事故の起因となってしまった不幸の連鎖を、この作品では間接的に表現しています。
そして、孫の顔が見たくて航空機への無銭搭乗を繰り返している名女優へレン・ヘイズが演じる老婦人エイダ・クォンセットのユーモアある人物設定も着目に値します。彼女の言動や行動は、この作品では寛容なユーモアにより描写されており、実に微笑ましいのですが、夫を亡くした年金生活者が遠隔地に居住している子供夫婦に会いに行くための高額な航空料金のことを含め、彼女を通じて多忙な現代社会から孤立しがちな高齢者の在り方を社会的課題として描いていたようにも感じました。
これらの登場人物に設定されている生活の背景は、この時代ならではのアメリカ映画の特徴かもしれません。
オカピーさんのコラムのとおり、このようなアソロジーとしての群像劇を丁寧に描写することによって、『大空港』は、観る側の登場人物への感情移入と後半部の緊張感を醸成することに成功しているわけです。
また、登場人物のそれぞれの業務へのプロ意識とそれらの確執や協力の描き方にも関心するものがあります。
パイロット・客室乗務員の対応、除雪作業を含めた航空整備士の知識と技術はもとより、ベテラン税関職員の不正搭乗者への洞察なども素晴らしかったですし、ベイカースフェルド空港長の危機管理の判断が的確だとはいえ、市民運動に対する航空会社役員の考え方も日常の航空機の運航のみを考えれば有効な空港管理の手法として選択肢のひとつではあります。
それにしても、主人公メル・ベイカースフェルドの空港責任者としての業務は、たいへん大きな職責を伴うもので、私は観ていて辛くなってしまいました。
航空機発着の空港の安全管理、パイロットや空港整備士など専門職員との調整、乗客へのサービスの提供や入国管理に関わる不正摘発、一般市民からの苦情処理、現場を理解しない空港管理会社の役員との折衝・・・なお、映画では描写されていませんでしたが、空港の施設設備の保守・点検、各種業務での職員の労務管理、委託している民間企業との契約上の業務処理の管理や指導、各航空会社間の調整など・・・このような内部管理事務の責任を一手に引き受け、そんな中での突発的な危機対応は大なり小なり日常的に発生しうるわけですから、メル・ベイカースフェルドの管理職員としての日々の疲労は生半可なものではないでしょう。
また、空港管理業務に関わらず、一般社会においての一般職・総合職としての管理職員は、その主担当業務のみならず、専門職員の強いプライドには日頃から手を焼いてしまうと思うのですが、日常業務にも危機発生時の対応にも、必ず彼らの豊富な経験と知識による業務管理が必要になります。
この作品でも、パイロットや空港整備士が専門職としての視野の狭さ、プライドの高さ(これらは、その職業の高度な専門性によるものだと思いますが)から、ときに暴走した業務遂行に走ってしまいがちであることも描写されています。
もちろん、『大空港』では、彼らの経験値による判断や高度な職業的スキルによる業務遂行によって、結果として乗客の命を守る崇高な使命を全うし、航空機事故の危機対応に貢献していく過程により構成されています。 しかし、ここで忘れてならないことは、その彼らの素晴らしい航空機の運航管理、空港施設の整備などへの業績は、空港責任者としての管理職員の大胆かつ繊細で的確な調整能力や労務管理能力により引き出されていることなのです。
この視点で考えれば、いわゆる「シビリアン・コントロール(文民統制)」は、軍隊(日本においては自衛隊)においてのみに適用されるシステムではなく、あらゆる社会的組織の総合職と専門職の関わりにおいても適用されるべきシステムであるのかもしれません。
そんな意味からも、この作品は現実的な社会制度の在り方を映画的に提示していると思いますし、危機対応の基礎・基本をリアルに描写した優れたディザスター・パニック映画だと言えましょう。
映画の製作や出演以外のビジネスにも精通していたアラン・ドロンにとっても、『大空港』は強く興味が喚起される作品だったのではないでしょうか?
そもそも、彼の過去の作品から考えても、オールスター・キャストのオムニバス形式の作品や群像劇としての大作への出演は、最も得意とするところだったと思います。
オムニバス形式の作品は、『素晴らしき恋人たち』(1961年)、『フランス式十戒』(1962年)、『黄色いロールスロイス』(1964年)、『世にも怪奇な物語』(1967年)、アンサンブル・キャストの作品としては、『名誉と栄光のためでなく』(1965年)、『パリは燃えているか』(1965年)、『仁義』(1970年)などの豊富な経験があるからです。
そして何より、敬愛するバート・ランカスターの素晴らしさが、斬新なディザスター・パニック映画としてのスペクタクルにより、アメリカ映画において全面開花しているわけですから、彼にとっての映画的興味・関心は尽きなかったと察します。
そんなことを考えると、アラン・ドロンが『エアポート’80』への出演オファーを最大の歓びをもって引き受けたことは、まずは間違いないでしょう。
ただ、残念なことに『エアポート’80』は、興行的に成功には至らず、このシリーズでは最も低い評価しか受けていない作品でもあります。
それでも私は、敢えてこの作品の魅力を【『エアポート’80』~「グランドホテル方式」、その「モニュメンタリティ」としての映画様式~】の記事として掲載しました。
私は、『エアポート’80』製作当時に、フランス国家の記念碑的オブジェとも考えられていた超音速航空機コンコルドの美しい雄姿を、フランスの国際スターであったアラン・ドロン、シルヴィア・クリステルとの対比で捉えたフィリップ・ラスロップのカメラはエアポート・シリーズ随一を誇るべきだと考えています。
ハリウッドが、近代的で美しいコンコルド機にシンボライズするため、この二人のフランスのスター俳優を招聘したことに加え、まだ冷戦の最中であったとはいえ、アメリカを始め西側主要国が、翌年にボイコットしてしまうにも関わらず、モスクワ・オリンピック参加選手を登場人物に据えたモスクワへの親善運航のプロットを改変せずに完成させたことは、アメリカにおける極端な政治的判断を超えた映画制作の心意気であったのではないでしょうか?!
ですから私は、この作品を世界供給して公開できた意義は非常に大きかったと思うのです。
冒頭、パリ、エッフェル塔を中心に映し出し、そのスクリーン下部、セーヌ川のグルネル橋のたもとに位置する「自由の女神」像と併せたフレーミングから始まるファースト・ショットは、ハリウッド映画界からのフランス国家への友好・称賛を意図して、アラン・ドロン演ずるポール・メルトラン機長とジョージ・ケネディ演ずるパトローニ機長との協働・連携関係の設定を象徴させていたと考えられます。
これらの表現は映画としては断片的であり、その完成度としては不十分だったかもしれませんが、アラン・ドロンとしては、シリーズ第一作『大空港』で描かれていた群像劇を国際友好の規模にまで拡張したスケールで製作されたこの作品への出演には充足感を得られたのではないでしょうか!?
もちろん、それにもまして、敬愛するバート・ランカスターの主演で始まったこのシリーズに出演できたことのみをとっても、彼の満足感を充たさせるのには十分な作品だったはずだと私は考えてしまうのです。
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『暗黒街のふたり』③~ジャン・ギャバンの歩行、その映画的ジェスチャー~
http://zidai.exblog.jp/28966920/
2020-05-02T17:06:00+09:00
2021-06-06T11:14:48+09:00
2020-05-02T17:06:35+09:00
Tom5k
暗黒街のふたり(3)
近所に居酒屋があり、そこの親爺(当時でも既に60歳代後半、70歳近くだったと思います)が、若い頃からジャン・ギャバンのファンだったと、町内会のイベントのときに自慢げに話題にしていた記憶が残っているのです。何せ、むかしのことなので詳細には憶えていないのですが、確か、その親爺は、お気に入りの彼の作品が『狂恋』(1946年)だと話していたように記憶しています。「伝説のロマンス」の相手だったマレーネ・ディートリッヒとの共演作品です。
確かに、今、想い出すと、白いブレザーを着こなし、スカーフを巻いて外出したり、年齢の割りには小粋で気障な親爺でした。
最近、久しぶりに、『暗黒街のふたり』(1973年)のBDを観たのですが、私自身、年齢のためなのか、どちらかと云うと、アラン・ドロンではなくジャン・ギャバンの視点による作品鑑賞になってしまいました。
敢えて、『暗黒街のふたり』の焦点をジャン・ギャバンに絞って考えてみると、この作品は、もしかしたら、過去の彼の作品の集大成としての意味も持ち得ているかもしれないなどと考えてしまいました。
それにしても、ジョゼ・ジョバンニは、映画監督としてのキャリアから考えても、この二大スターを主役にして、このような作品をよく手懸けたものだと思います。しかも、彼のキャラクターをこれほど鮮明にする演技表現を、よく引き出せたものです。 とにかくジャン・ギャバンの魅力は万人が認めるところだと私は考えていますが、そもそも、最も魅力あるそのイメージとはどのようなものだったのでしょうか?
『暗黒街のふたり』から想起すれば、自分より年若い大切な者の死、自分がそれを救い出すことが出来なかった無力感や哀しみ、孤独、そして、その気持ちをそのまま表してしまうことが無意味で見苦しいことなども、わかりすぎるほどわかっていること。その表現力は絶品です。
そんなことから、私にとって、彼が主演していた作品で、その典型的なイメージによる印象深い作品を挙げるとすれば、それはまず、ジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』(1953年)でのギャングのボス、マックスです。 抗争相手の新興ギャング組織に囲われてしまったルネ・ダリ―扮する足手まといで出来の悪い弟分リトン。その弟分を救い出すために、『地下室のメロディー』のプロットと同様に、苦労して強奪した金塊を失ってしまいます。
むかしから可愛がってきた弟分を決して見捨てず、金塊を犠牲にしてまで救い出したものの、その甲斐も無くリトンは敵の凶弾に倒れて死んでしまうのですが、その死に直面したときのマックスの孤独と哀しみ・・・この切ない男性的心情を美しい哀愁にまで高めて表現したラスト・シークエンスは、もう今さら云わずもがなかもしれません。
そして、彼が初めてアンリ・ヴェルヌイユ監督と邂逅した『ヘッドライト』(1955年)です。この作品は『暗黒街のふたり』と同様にファースト・シーンのモノローグからのフラッシュ・バックにより構成されています。
物語はジャン・ギャバン扮する主人公、定期便のトラック運転手ジャン・ビヤールが、休憩場所として使用しているドライブ・イン&モーテルで仮眠しようとしているところから始まります。このショットから、ジャンがフランソワ―ズ・アルヌール扮する女給クロチルドとの哀しい恋を振り返る形で本編に繋がっていくのですが、その想い出はクロチルドとの恋の逃避行の最中の彼女の死で幕を閉じるのです。
ジャンが休憩を終えて、トラックに乗り込もうとするとき、ピエール・モンディ扮する旧知の友人、同業の運転手でもあるピエロと久しぶりに出会う挿話がラスト・シークエンスとなっています。
別れていた妻と寄りを戻したこと、今でも勝手気ままな子供達に手を焼いていることなど、今の生活が、むかしと変わらない暮らしぶりであることを話すのですが・・・ピエロと別れ車中に乗り込んだ後、その走り去っていくトラックを固定カメラで後方から捉えるラスト・ショットが素晴らしいのです。
ドライブ・イン&モーテルを背にして未舗装道路を走り去るトラック、そこに砂埃が舞っている情景へのFINのロゴのクローズアップ、映画を観た者は誰もがこの物語を観終わった余韻の中で、クロチルドとの恋を失っている現在のジャンの侘しい姿に哀惜の情感による感情移入をしてしまうのです。
孤独で哀愁に満ちたキャラクターである典型的な後期の「ジャン・ギャバン」像は、彼が『現金に手を出すな』の初老のギャングのボスや『ヘッドライト』のトラック運転手を演じたことにより確立されたと私は思っています。『暗黒街のふたり』で彼が演じた保護観察官ジェルマンのキャラクターは、この二作品で大切な弟分や恋人を亡くした主人公の哀しみや愁いを、更に深めたものだったのではないでしょうか?
また、『首輪のない犬』(1955年)で、彼は不良少年の自立支援施設で働くジュリアン・ラミイ判事を演じましたが、これは『暗黒街のふたり』の前日譚ではないかとまで思ってしまいます。法治社会としての正義に失望する保護観察官ジェルマンの義憤にかられた心情表現は、この作品のラミイ判事の役柄を更に昇華させた表現だったと思います。
ところで、ハンガリーの映画理論家のベラ・バラージュは、歩行ほどその主人公の無意識の動作を表現しているジェスチャーはないと主張しました。
【(-略)歩行こそもっとも表現力に富む、特殊な映画的ジェスチュアなのである。
歩行ほど性格的な表現動作はない。ほかに理由があるかもしれぬが、主な理由は、それが無意識の表現動作だという点にある。(-中略-)歩行のもつ表現力をあますところなく利用することのできるものは、映画を措いてほかにない。
(-中略-)主人公の足どりが、おのずと告白となり、どんな場合にもほとんど独白に近い役割を果たすからである。その足取りは、いま起こった事件にたいして彼がどのようにして反応したかを事件の現場における彼を見せるよりもはるかによく、はるかに正確に表現する。】
【『映画の理論』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】
私は、以前からジャン・ギャバンの歩く姿の素晴らしさについて触れてみたいと常々考えていました。
ジャン・ルノワール監督の『どん底』(1936年)のラスト・シークエンスは、希望に満ち溢れたショットとなっています。
この作品はロシア文学者のマクシム・ゴーリキーの戯曲が原作ですが、巨匠ジャン・ルノワールによって、ジャン・ギャバン扮するこそ泥ぺペルとルイー・ジューベ扮する男爵との友情、そして、ジュニー・アストル扮するナターシャとの恋愛を基軸にした構成に改変されおり、社会の「どん底」に生きている人間が、最後に希望を回復して生きていく結末も原作と大きく異なっています。
宿の主人を死なせてしまった事件の刑期を終えたぺペルは、ナスターシャとともに貧民宿を引き払って旅に出るのですが、このラスト・シークエンスには、ぺペルとナスターシャが手を繋ぎ、幸せそうに笑顔で歩く姿が正面から映し出されているのです。ズーム・アウトでカメラを引きながらのロング・ショットと併せて、スクリーン内部で映像フレームを縮小させながら、最後にFINのロゴを表して締め括るのですが、映画を観終わった者を温かい気持ちに引き込む素晴らしい撮影テクニックです。天才映画作家ジャン・ルノワールならではの高等な映像技巧であると言えましょう。
ジュニー・アストルの手を取って歩き続けるジャン・ギャバンは、まだ、苦渋と哀愁に満ちたジャン・ギャバンではありません。貧困であっても、前途に大きく希望に満ちている若い若いジャン・ギャバンなのです。
そして、彼との往年の名コンビ、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『望郷』(1936年)です。
これは若い頃の彼のひたむきさが最もよく表現された作品です。彼が演ずるのは、パリの強盗団のボス、ぺペ・ル・モコです。彼は複雑に交差した道路、急斜面の坂道、不衛生な路地、数万人もの多人種の犯罪者や貧民に紛れて、アルジェリアの首都アルジェの旧市街地カスバで、当局の監視をかいくぐりながら逃亡生活を送っています。カスバは犯罪者が身を隠すのには最も都合の良い迷宮の市街地として描写されています。しかし、逃亡のために、ここから少しでも港に近付けば、そこでは官憲が常に眼を光らせて逮捕のチャンスを狙っているのです。
それでも、ミレーユ・バランが扮する美貌のパリ・ジェンヌ、ギャビーに夢中になってしまったぺぺ・ル・モコは、恋と望郷の激情に駆られ、彼女が乗るフランス渡航の客船に乗船するため、リーヌ・ノロが扮するカスバの女イネスを振り切って波止場へと急いでしまうのでした。
シングルのスーツに身を包み、ソフト・ハットを斜に被りノーネクタイでスカーフを巻いたパリの伊達男、ぺぺ・ル・モコが波止場に向かって歩くその姿をジュリアン・デュヴィヴィエ監督は素晴らしい撮影技術を駆使して映像化しました。
ミディアムのクローズ・アップにより、その歩く姿を前方、後方からカスバの街や海波のうねりを背景にしたスクリーン・プロセスによってポエジックに表現したのです。私のブログの盟友オカピーさんも絶賛していましたが、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、純真な男のパッションを一途に演じるジャン・ギャバンの最も美しい姿を写し撮りました。
【プロフェッサー・オカピーの部屋「望郷」のブログ記事】
ヴァンサン・スコットのBGMも実にドラマティックです。ぺぺ・ル・モコのパリへの郷愁とギャビーへの波打つような激しい恋の想いを彼の歩く姿のリズムに活き活きと照応させているのです。
我々、観る側は彼の心象風景を耳で観ながら眼で聴くことが出来るのです。
戦後の作品になりますが、『殺人鬼に罠をかけろ』(1957年)を観ると、アラン・ドロンが、『燃えつきた納屋』(1973年)や『フリック・ストーリー』(1975年)をプロデュースして主演したくなったことが理解出来るような気がします。
彼は、この作品で素晴らしいキャラクターと邂逅しました。ジョルジュ・シムノンが創作した主人公のメグレ警視が、あまりにも彼そのもののキャラクターなのです。ほとんど、役作りをしなくて済んだのではないかと思ってしまうほどです。
映画史的には、「フレンチ・フィルム・ノワール」の体系に在る作品か否かに議論の余地が在るところかもしれませんが、彼のメグレ警視シリーズは戦前のフランス映画の「詩(心理)的レアリスム」の映画体系によって確立されたペシミスティックな美学を戦後の「フレンチ・フィルム・ノワール」によって主人公のキャラクターに反映させた象徴的なシリーズ作品であったと、私は考えています。もっと評価されるべきではないでしょうか?
リュシエンヌ・ボガエル扮する母親の溺愛によって、性的にも人格的にも正常でなくなってしまい何人もの殺害を犯したジャン・ドザイが扮する異常犯罪者マルセル、その夫に愛情を持っているが故に、アニー・ジラルド扮する妻イヴォンヌは殺人事件を起こしてしまいます。夫の犯罪を庇った殺害なのですが、メグレ警視は豊富な捜査経験からの明晰な判断、聡明な人間性によって、母親とマザー・コンプレックスの息子の親子関係や正常ではない夫婦関係の中から真犯人を見抜いていきます。
そして、いよいよマルセルを追い詰め逮捕に到り、ようやく事件が落着します。
この後のラスト・シーンでのメグレ警視の歩く姿は、ポール・ミスラキのBGM、ルイ・パージュのカメラ・アイ、そしてジャン・ギャバンの好演などによる素晴らしい映像によって表現されています。
難事件を解決した彼の様子は、よれたスーツと緩んだネクタイの姿に表わされ、その疲労を隠そうともせず、すぐに帰路に向かうため事件の起こった現場を離れようとしています。
そこに駆け寄る部下、
>警視 どうしました
メグレ警視の様子に戸惑いながら、上司に気を使って公用車の手配について、
>ルカを? 車を回します?
彼は部下の言葉を無視して、空を見上げながら、
>おや 降ってくるぞ
歩き出すメグレ警視を呆然と見送り、降ってくる雨に空を見上げ、軒下に移って雨宿りをする部下
難しい仕事をようやく片付け安堵しながらも、事件の異常性に鬱屈した虚無を感じながら、傘も差さずに、激しい土砂降りの雨を受けて歩くメグレ警視・・・。
彼の歩く姿を、ミディアムのクロ-ズ・アップのショットで写し撮り、ポール・ミラスキの情感あふれる音楽とともに、フェード・アウトして、FINのロゴ・・・やはり、この作品も観る者に素晴らしい余韻を残します。
このラスト・ショットの歩行と人間的な表情は、他のどんな優れた俳優の演技も追随を許さないでしょう。
失望の連続である現代の犯罪現場、とはいっても絶望に絶望しきることも許されない警察官の仕事・・・このやりきれない苦渋と哀感を持つ人物像を表現できるスター俳優がジャン・ギャバンをおいて外にいたでしょうか?
そして、アラン・ドロンと初めて共演したアンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディー』(1963年)、そのファースト・シーンです。
ミッシェル・マーニュのジャジーで軽快なテンポの音楽と斬新なタイトル・バックからのオープニングですが、出所して自宅に向かって歩く老ギャング、シャルルを演ずるジャン・ギャバンの姿とモノローグは実にお洒落で格好良いです。そして、このトレンチ・コート姿の老ギャングの歩く姿によって、オープニングからこの作品の全てが表現されています。
出所して帰宅する列車中でのサラリーマンや労働者たちの世間話を聞いた後、あくせく働いてローンでバカンスの旅行をする小市民たちへの軽蔑、駅舎を出てから、近代化の波に流された高層マンション群が隣立する住宅街を歩きながら持つ、時代に取り残されてしまった憤懣やるせなさ・・・こんな生き方や環境で、残りの人生を送るなんて下らない!
老ギャング、シャルルの歩く姿には、一世一代の大仕事で大儲けをしようとする野心を秘めた心情がすべて凝縮し表現されていました。
『どん底』では、愛し合う恋人と希望に満ちた人生の再スタートを、『望郷』では、パリの香しさを美しい女に投影した一途な情熱を、『殺人鬼に罠をかけろ』では、異常者による殺害事件の犯罪捜査から現代社会のやりきれなさを、『地下室のメロディー』では、一世一代の大仕事に挑む老ギャングの野心を、その歩く姿によって内面の情緒的心情を鮮明に投影し表現してきたジャン・ギャバン。
そして、『現金に手を出すな』や『ヘッドライト』で戦後の第二全盛期の「ジャン・ギャバン」像を確立し、『首輪のない犬』での社会正義に目覚めたジャン・ギャバンは、『暗黒街のふたり』でも、ジャン・ジャック・タルベスの絶妙なカメラ・ワークとジョゼ・ジョヴァンニの脚本による素晴らしいモノローグ、そして、フィリップ・サルドの哀しく美しい音楽と相俟って最高の魅力を発揮しています。
ファースト・シーン、人影のない寂れた街角、張り紙がはがれかけている薄汚れた壁に沿って、保護観察官ジェルマンに扮したジャン・ギャバンは歩いています。
そこからのフラッシュ・バックで、彼が通勤電車から降り古い駅舎を出て、ギロチンを常設している刑務所の塀に沿って歩くショットに繋がれます。この高いコンクリート塀に刑務所内の犯罪者と一般社会の断絶を象徴させ、一般社会側で生きながらも犯罪者の更生を信じるジェルマンの保護観察官としての立ち位置が示されるのです。犯罪を犯してしまった者の更生を信じて、彼らに寄り添おうとしながらも、その境界線を乗り越えられずに、ぎりぎりの断絶の境目で働いている保護観察官としての彼の生き方をシンボライズしているのでしょう。
『暗黒街のふたり』では、気の滅入るような無力感、義憤や失望を感じている保護観察官ジェルマンの様相が投影されているにも関わらず、その悲劇的な風情が最も美しく映像表現されています。
そして、アラン・ドロン扮するジーノが処刑されたカットからのラスト・ショット、ジェルマンが冒頭と同じ道を歩いている姿からフェイド・アウトするとき、我々、観る側はその眼と耳、視覚と聴覚を用いた映画鑑賞によって、ジェルマンと一緒に歩いていたことを自覚します。彼とともにジーノへの哀惜の情感を喚起されてしまうからです。
― この塀のなかに、ギロチンがある。ひとりのジーノを殺したあの人殺し機械が・・・ ―
誤解を恐れずに、はっきり申し上げましょう。
この作品は、アラン・ドロンが主演している映画とは思えません。全篇に亘ってジャン・ギャバンの独壇場なのです。
プロデューサーとしてのアラン・ドロンでさえも、この作品を過去のジャン・ギャバンの出演作品へのオマージュのために製作したのではないかと考えてしまいます。もしかしたら、彼はこの作品が最後の共演作品になると無意識に予感していたのかもしれません。
そんなことからも、アラン・ドロンは自分のお気に入りの作品のなかの一本に、初めて共演した『地下室のメロディー』でもなく、華やかな豪華キャストの『シシリアン』でもない、この哀しく美しい『暗黒街のふたり』を選んだのではないでしょうか?
取りとめもなく、そんなことを考えながら『暗黒街のふたり』を鑑賞したとき、冒頭でのジャン・ギャバンの歩く姿を観ただけで、私は哀しくて淋しくて涙が止めどなく溢れてしまったのです。
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『暗黒街のふたり』②~アラン・ドロンとジャン・ギャバンのコンビに出会った時の想い出~
http://zidai.exblog.jp/28962129/
2020-04-29T17:17:00+09:00
2020-05-03T23:25:00+09:00
2020-04-29T17:17:13+09:00
Tom5k
暗黒街のふたり(3)
劇場公開時に従姉家族(従姉、伯母、伯父)がリアル・タイムで観に行ったと聞いていたのですが、私はまだ、アラン・ドロンのファンになる前でしたので、何であんなスケベでいやらしい俳優の映画を家族で観に行くのだろうか?と不思議に思ってしまい、そのことを理解することが出来ませんでした。
何故ならば・・・
私は小学4年生、テレビ放映で初めてアラン・ドロンの作品を知ったばかりの頃・・・
『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男』(1967年)では、サディストのようなヒールそのもののキャラクターでのアラン・ドロンでしたし、『悪魔のようなあなた』(1967年)では、外人部隊から帰還した記憶喪失のアラン・ドロンが美しい妻のセンタ・バーガーに夢中になる美魔女絡みのサスペンス作品だったことなど・・・。 また、私がアラン・ドロンの出演作品を全篇通して鑑賞していたのは、テレビ放映されていたこの二作品のみでしたが、『あの胸にもういちど』(1967年)のラスト・シーンでのマリアンヌ・フェイスフルとのベッド・シーンと、我が国の大スターだった三船敏郎に銃を向け、ベビーフェイス・キャラクターのチャールズ・ブロンソンに撃ち殺される『レッド・サン』(1971年)でのラスト・シーンをテレビの映画特集で観たことがありました。
当時、小学4年生ですから・・・アラン・ドロンが、スケベでいやらしい嫌悪すべきキャラクターの俳優であるという印象を持ったことは無理も無かったことだと自分でも思っています。
ちなみに、このとき私は、三船敏郎やチャールズ・ブロンソンは知っていたのですが、何故か、ジャン・ギャバンというフランスの大スターのことは全く知りませんでした。『暗黒街のふたり』でアラン・ドロンと共演していることすらわかっていなかったのです。恐らく、テレビのCMなどに全く出ていなかったことなど、テレビで取り上げられることが少なかったからだと思います。
初めてジャン・ギャバンを知ったのは、私が最も全く尊敬していない父親との会話からでした。小学5年生の頃のことです。この頃の私は、『冒険者たち』(1966年)のテレビ放映を観て、大嫌いだったアラン・ドロンを、ようやく好きになりかけていた時期でした。
>トム(Tom5k)
アラン・ドロンとコンビを組んでいた俳優っているのかな?
>父親
ん?・・・ジャ~ン・ギャ~バ~ン!・・・だべぇ。
良い俳優だあ~ それに比べて、アラン・ドロンなぁんて、あんなの・・・
貫禄無いんだ、あんなの。ぶっはははっ!
この会話については、ノー・コメントということで・・・。
また、この後にタイミング良く、『シシリアン』(1969年)や『ヘッドライト』(1955年)のテレビ放映もあり、これも父親の愚にもつかない呟き感想を聞きながら観た記憶があります。
『シシリアン』では、ヴィットリオ(ジャン・ギャバン)の旧友のイタリアのギャングのボス、トニー(アメディオ・ナザーリ)が、殺し屋サルテ(アラン・ドロン)の隠れ家であるアパルトマンを訪問するシークエンスで、寝ていたサルテがドアチャイムに驚いて飛び起きるシーンを観ながら、
>父親
こういう商売やってると、神経休まる暇無いなっ! 絶対、熟睡できないわ!
うわっははは!
また、吹き替えの無いNHKの名画特集だったと記憶しているのですが、『ヘッドライト』が放映されたとき、放映後の解説で1955年の作品であると説明されていたことを聞いた父親が、
>ほぅ~!!そうか!
ということは、ギャバンは50歳くらいか?ほぅ~!!
また、ジャン・ギャバンが演じていた長距離トラックの運転手ジャン・ビヤールが、確かトラックの整備をしていたシークエンスだったでしょうか?運送車両トラックに装着している運行記録機を確認しているショットだったと思いますが、
>父親
あっ!タコグラフ使ってるな!
これらの父親の言葉が、何故か印象に残っています。
ヘッドライト HDリマスター版 ジャン・ギャバン/フランソワーズ・アルヌール [DVD]株式会社アネック
また、やはり同じ頃のことだったと思うんですが、伯母、従姉の家に母親と一緒に遊びに行ったとき、丁度、『地下室のメロディー』(1962年)がテレビ放映されていたことがあり、これも私にとっては懐かしい想い出になっています。
当時、中学生だった従姉は熱狂的なアラン・ドロンのファンだったので、
>きゃあ! かっこいい! うわあ! かっこいい!
と、ギャアギャア!わめき散らしながらテレビを観ており、せっかく訪問した私をうんざりさせていました・・・。
そして、このときは伯母も一緒にテレビを観ていて、あの有名なラスト・シーンで、
>伯母
あっ!あのお札、一枚だけヒラヒラしてる!
>母親
いやあ、もったいないねぇ あっはっはっ!
などと、実に他愛のない映画鑑賞をしていました。
当時のテレビでの映画鑑賞は、どこの家庭でも、概ねこのようなものだったのではないでしょうか?
そんな洋画のテレビ放映が華やかし時代でしたし、『冒険者たち』のテレビ放映を観たりしているうちに、私はすっかりアラン・ドロンのファンになっていきました。そして、既に『シシリアン』や『地下室のメロディー』でのジャン・ギャバンとの素晴らしいコンビのことも知っていましたから、まだ、テレビ放映されていなかった『暗黒街のふたり』に興味を持ち、どんな映画だったのかを従姉から根堀り葉堀り聞き出したことも記憶に残っています。
>従姉
いやあ、アラン・ドロン、本当に可哀想だった!最期なんて観てられなかったわ。
>トム(Tom5k)
え~、そうなの。ストーリーは?どんな内容だった?
>従姉
う~ん、アラン・ドロンは強盗の前科があって、刑期を終えて更生しようと頑張るの。
でも、もう、ほんとに憎たらしい刑事がアラン・ドロンに付きまとってさ・・・
彼、我慢しきれなくなって、その刑事を殺しちゃうんだけど、殺されてざまあ見ろよねぇ~。
>トム(Tom5k)
へぇ~。
>従姉
それで、ジャン・ギャバンがね、保護司でさ。
アラン・ドロンの面倒みて、必死になって彼を庇うんだけど、裁判でも全然ダメなの。
で、結局、死刑になっちゃうんだわ。
フランスって、今でも ※ ギロチンで死刑にするんだって。残酷よねぇ。
>トム(Tom5k)
えっ!ギロチン?え~!
※ フランスの死刑廃止は1981年(ミッテラン政権)、憲法明記が2006年(シラク政権、憲法改正時に法文明記)ですので、この作品公開時の昭和49(1974)年には、死刑制度が存続しており、その執行には、まだギロチンが使用されていました。
>従姉
そのとき最期にね、ジャン・ギャバンとアラン・ドロンが眼を合わせるの。 あそこの場面はほんと、可哀想だったあ。
でも、奥さん死んで、すぐ新しい恋人出来ちゃうって!
なんだか、腹立った。
>トム(Tom5k)
早くテレビでやってくれないかなあ?
従姉の説明だけでは、よくストーリーが理解できず、とはいえ、この会話から『暗黒街のふたり』への好奇心が強く喚起されたものですから、テレビ放映を待ち切れず、当時まだ、書店の店頭に並んでいた原作本『暗黒街のふたり』(ジョゼ・ジョヴァンニ原作(山崎龍 訳 二見書房))を購入して読んでみることにしました。小学6年生、もしかしたら中学生になっていたでしょうか?
まず、私は、主人公ジーノとその妻ソフィーが保護司ジェルマン一家と行楽に行き、その帰宅途中の交通事故でソフィーが亡くなる箇所を読み、おもわず涙を流してしまいました。
本当にジーノは何て不幸なのでしょうか!せっかく、強盗団の昔の仲間とも縁を切って一生懸命に働こうと頑張っていたのに・・・。
最もつらくて悲しいジーノの処刑場面での保護司ジェルマンとの眼と眼での感情交換は、原作ではより具体的に言葉で描写されているのですが、今でも、ちょっと辛すぎて、私はここではその詳細な内容を記すことが出来ません。
また、それ以外にも印象に残った部分があります。
ジェルマンの娘エヴリーヌのジーノへの気持ちです。ジーノが、新しい恋人ルーシーを連れてジェルマン宅を訪問し団欒を経て、帰宅した後のエヴリーヌと弟のフレデリックとの会話がとても印象的だったのです。
>エヴリーヌ
わたしには、できないわ・・・いくらジーノが好きでも、ルーシーのようにはできないわ。
彼女にはなぜできるの
>フレデリック
それはね、姉さん、ルーシーとあんたと、愛し方がちがうんだよ
私は女性が、他の女性と同じ男性を好きになることがあったとき、男性の気持ちや行動なども含めて、相手への愛情の持ち方が大きく異なってしまう理由を、これほど鮮明に説明されている恋愛の指南に巡り合ったことは未だにありません。この会話は子供ながらに非常に強く私の気持ちに入り込みました。
この小説から、大好きな異性を単に大好きなだけでは、相手との関係を構築することが出来ないということを教えてもらったような気がするのです。
残念なことに、映画作品の『暗黒街のふたり』では、日本での字幕表示の省略なのか、そもそも映画化するときの脚本にこのダイアローグが無かったのか、いずれにしても、現在のBD(DVD)では、ここまでの姉弟の会話は確認することができません。
映画においても、このような描写があってこそ、登場人物の一人ひとりの行動や会話、そのキャラクターが活き活きと映像表現できるとも私は想うのですが・・・残念だと思うと同時に、原作本を読んでおいて本当に良かったとも思っています。
それはそうと、丁度、この頃、ジョゼ・ジョヴァンニ監督で、アラン・ドロンがロマ族の犯罪者を演じた『ル・ジタン』(1975年)を、やはり、従姉、伯母夫婦と映画館に観に行きましたし、クラスメートの友人と『ブーメランのように』(1977年)の試写会を観に行ったことも素敵な想い出になっています(それに、完成した作品へのジョゼ・ジョヴァンニのロベール・アンリコ監督やアンリ・ヴェルヌイユ監督への不満は大きかったようですが、『冒険者たち』の原作・脚本や『シシリアン』の脚本も彼のものでした)。
ですから、この頃にはもう私は、アラン・ドロンの出演映画といえば、ジョゼ・ジョバンニが監督するものだと勝手に印象付けていたほどです。
『暗黒街のふたり』のテレビ放映時の記憶は詳細には無いのですが、後年、ビデオやDVD(BD)で何度も鑑賞していても、初めてテレビ放映されたときの主人公ジーノが断頭台の露へと消えるラスト・シークエンスは、さすがに強烈でショッキングだったことは憶えています。
そして、当時の私は、映画でそんなジーノを演じたアラン・ドロンにとても強い魅力を感じました。また、ジャン・ギャバンがアラン・ドロンと共演することに加え、こんなに強くヒューマ二ズムを訴える作品で、保護司ジェルマンを演じたことに、この作品の不思議な魅力を感じていたことも記憶に残っています。
ジャン・ギャバンとアラン・ドロンのコンビは、素晴らしく、そして、ジョゼ・ジョヴァンニ監督の原作・脚本と演出は最高だと考えていました。
既にテレビ放映されていた二人の共演作品であったアンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディー』や『シシリアン』のようなエンターテインメント作品も素晴らしい作品だと思っていましたが、社会の矛盾を摘発するようなヒューマニズムをテーマにしたジョゼ・ジョヴァン二監督のこの作品に触れ、当時の私は子供ながらに強く感動していたのだと思います。
テレビを観終わって床に就き・・・
ああ、『暗黒街のふたり』・・・良い映画だったなあ!アラン・ドロンとジャン・ギャバン、最高だよ・・・
と、感動に浸って就寝したような記憶もあるのです・・・ああぁ、おれって本当に幸せ・・・。
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『ボルサリーノ2』②~「再生」と「復活」、「ヌーヴェル・ヴァーグ」との闘いと「共生」~【改訂】
http://zidai.exblog.jp/8891044/
2020-03-21T23:05:00+09:00
2020-04-18T15:27:51+09:00
2008-11-04T01:41:27+09:00
Tom5k
ボルサリーノ2(2)
この作品を『ボルサリーノ』の単なる続編として解釈することは、私には出来なくなっています。
非常に突飛な深読みなのかもしれませんが、まず、この作品でリカルド・クッチョーラが扮した敵役のボスであるボルポーネが、わたしには、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のジャン・リュック・ゴダールに見えてしまって仕方がないのです(実際には、ボルポーネ役の設定はナチスに共鳴する極右で、ゴダールはソ連の映画監督ジガ・ヴェルトフを師事していた左翼だったのですが・・・)。
更に、これも、あまりにも勝手な関連付けなのですが、前作『ボルサリーノ』でジャン・ポール・ベルモンドが演じたフランソワ・カペラの葬儀も「ヌーヴェル・ヴァーグ」、すなわちジャン・リュック・ゴダールやクロード・シャブロルのもとから離れてしまった彼に対するアラン・ドロン特有のシニカルな表現だったように感じてしまうのです。
気狂いピエロ
/ ハピネット・ピクチャーズ
二重の鍵
/ ジェネオン エンタテインメント
一般的に言われているように、当時の彼らの過剰なライバル意識をアデル・プロダクション特有のユーモアの表現として皮肉ったものなのか・・・?
ジャン・ポール・ベルモンドがゴダールと決別したこと、すなわち、彼の「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品でのスター俳優からの離反を象徴させたものだったのか・・・?
『気狂いピエロ』(1965年)以降、ジャン・リュック・ゴダールと決裂してしまった彼に、アラン・ドロンが、フランス映画界での同志として、『ボルサリーノ』での共演を呼びかけ、そしてそれに呼応したベルモンドであったにも関わらず・・・その道が閉ざされてしまったことに対しての惜別の意味を持たせたものなのか・・・?
作品冒頭の「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の申し子でもあったジャン・ポール・ベルモンドが演じたフランソワ・カペラの葬儀、その彼の復讐劇としたプロット、カペラの死後、アラン・ドロンの扮するロック・シフレディが仕切っていたマルセイユに新たな勢力として新興してくるマフィア組織、ボルポーネ・ファミリーの台頭・・・など。
これらのことを考え合わせれば、わたしには、フランス映画界における「ヌーヴェル・ヴァーグ」という映画潮流を、この作品のマフィア組織に象徴させていたとしか思えなくなってしまうのです。
そのボルポーネ・ファミリーの組織にアルコール漬けにされ、マルセイユを追い出されてしまった主人公ロック・シフレディには、1960年代に「ヌーヴェル・ヴァーグ」が席捲したことによって、フランス映画界に居場所を無くし、ハリウッド進出を目指した結果、その野心も頓挫せざるを得なかったアラン・ドロン自身の姿や、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派に徹底的に批判された師匠ルネ・クレマンや敬愛するクロード・オータン・ララ、その源流であるジュリアン・デュヴィヴィエなど、旧フランス映画界の巨匠たちの姿が象徴的に描き出されているようにまで考えてしまうのです。
そして、この作品のテーマ曲としてBGMで流されている有名なクロード・ボランのテーマ曲も、挿入歌であるシャンソン「Chanson Lola(ミッシェル・バックの歌う「ボルサリーノ2」のテーマ曲)」も、「ヌーヴェル・ヴァーグ」が生み出したシネ・ジャズではありません。
それは、ジュリアン・デュヴィヴィエやルネ・クレールの時代、フランス映画の古き良き時代の「詩(心理)的レアリスム」の作品で流れていた時代的なテーマ曲であり、音楽のジャンルで言えば実にフランス的な「シャンソン」なのです。
このことは、ロジェ・ヴァデム監督の『大運河』(1959年)でのMJQや、ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(1958年)でのマイルス・デイヴィスなどのモダン・ジャズの起用、ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーがオマージュを捧げていた「アメリカン・ハード・ボイルド」を映画化したジャジーな夜の世界である「フィルム・ノワール」などに、アラン・ドロンは強い対抗意識を燃やし、そのポエジックなBGMや挿入歌を現代(1970年代)の「フレンチ・フィルム・ノワール」において、「再生」、そして「復活」させようとしていたように、私には見えてしまうのです。
大運河
フランソワーズ・アルヌール / / アイ・ヴィー・シー
死刑台のエレベーター(完全版)
マイルス・デイビス ピエール・ミシェロ ルネ・ユルトルジュ バルネ・ウィラン ケニー・クラーク / ユニバーサルクラシック
更に、ロック・シフレディの故郷マルセイユの奪還に備えて、長期の療養期間を経てアルコール中毒から見事に立ち直っていくロック・シフレディの姿も、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派によって破壊しつくされた旧フランス映画「詩(心理)的レアリスム」の復権を目指すアデル・プロダクションの経営者、アラン・ドロン自身の姿になぞらえるようにも思えます。
もしからしたら、この『ボルサリーノ2』は、彼自身が意識するしないに関わらず、彼が映画界に活躍の場を見出した若い頃から持っていた「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派への怨恨の潜在意識を徹底的にスクリーンに放出させている作品なのかもしれません。
ところで、ロジェ・ヴァディム監督、ブリジット・バルドー主演の『素直な悪女』(1956年)やジャン・リュック・ゴダールの諸作品の製作者として有名なフランスの国際プロデューサー、ラウール・レヴィは、クリスチャン・ジャック監督、アラン・ドロン、アンソニー・クイン主演予定で超大作の冒険活劇『マルコ・ポーロ』を企画していました。
残念ながら、制作なかばにして資金不足のために撮影中断を余儀無くされてしまったこの70ミリの超大作は、その後、1964年、ドニス・ド・ラ・パテリエール監督、ホルスト・ブッフホルツ主演で完成させたものの、興行的には大失敗に終わります。
また、アラン・ドロンがジョセフ・ロージー監督と出会ったリアリズムの傑作前衛作品『暗殺者のメロディ』(1972年)も、その当時にアラン・ドロンとジョセフ・ロージー監督を念頭においていたか否かは不明ですが、ラウール・レヴィが製作を企画していた作品だったそうです。
『マルコ・ポーロ』の失敗で破産し、その後は日の目を浴びることの無かったラウール・レヴィは、とうとう1966年に自殺してしまいますが、その死後、1969年の作品である『ボルサリーノ』にアラン・ドロンとの共同製作者として名を連ねています(『ボルサリーノ』ニ作品ともに冒頭のタイトル・バックにRaoul J. Lévyは表記されています)。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」の悲劇のプロデューサー、ラウール・レヴィ。
実際には、ラウール・レヴィの映画製作による作品に一度も出演できなかったアラン・ドロンでしたが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のプロデューサーと呼称されていたにも関わらず、「詩(心理)的レアリスム」の映画作家及びスター俳優を分け隔てることのなかった彼に対して、アラン・ドロンが特別の敬意をはらっていたことには頷ける理由があります。
だからこそ、自らが製作・主演し、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のスターであったジャン・ポール・ベルモンドと共演した『ボルサリーノ』によって、彼へのオマージュを捧げたのではないかとも察するわけなのです。
このようなフランス映画界での彼らの関係は、その分析だけでブログ記事が何ページにも及んでしまいそうですし、現在のところ、そのことについては、あまりにも情報が不足していますので、ここではその詳細な分析はしませんが、わたしの好奇心が実に強く刺激されるところであります。
話題を『ボルサリーノ2』に戻しましょう。
この作品の主人公ロック・シフレディを演ずることで始まった「再生」と「復活」のテーマは、その後のアラン・ドロンの俳優業や、映画製作者としての重要なキー・ワードとして、セザール賞男優賞を受賞したベルトラン・ブリエ監督の『真夜中のミラージュ』(1984年)や、フランス映画界の奇跡の作品(と私は考えています)、ジャン・リュック・ゴダール監督の演出で撮った『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)での愛の「再生」と「復活」のテーマへと引き継がれていくことになります。
【>アラン・ドロン
(略~)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(~略)】
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」】
【今でも監督たちとの出逢いを求めていますか?
>アラン・ドロン
ああ。だからゴダールとも映画を撮ったんだ!この経験をしたかったし、彼に会いたかった。彼に言われるままにしたよ、自分の性格を出したら、映画は完成しなかっただろう!(~略)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/25 「回想するアラン・ドロン:その8(インタヴュー和訳)」】
また、アラン・ドロンは、『ヌーヴェルヴァーグ』を撮る直前に、この作品への布石ともいえるスタッフを選定して映画を製作しました。
『私刑警察』(1984年)です。
ここで彼は、いよいよジャン・リュック・ゴダールの秘蔵っ子カメラマン、ラウール・クタールを自作の撮影監督として迎え入れたのです。「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映像でのアクション・ノワール作品の制作、これもフランス映画史の奇跡的事件だったといえるのではないでしょうか!?
そして、映画生誕100周年の記念映画『百一夜』(1995年)で、「ヌーヴェル・ヴァーグ」左岸派のアニエス・ヴァルダ監督からジャン・リュック・ゴダール監督との対比で描写される演出を受けた後、『ハーフ・ア・チャンス』(1998年)で、ライバルでもあり盟友であったジャン・ポール・ベルモンドと再共演していくことになるのです。
このように考えていくと、『ボルサリーノ2』から始まったアラン・ドロンにとっての「再生」と「復活」のテーマは、皮肉なことに、最終的には「ヌーヴェル・ヴァーグ」と彼との「共生」へと帰着していったと総括することができるような気もしてきます。
ジャン・リュック・ゴダールや「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派を比喩させたマフィアのボス、ボルポーネを殺害し、このマフィア組織を壊滅させた映画での怨恨と反骨の結末とは全く異なるものとなったアラン・ドロン映画史実としての結果は、当時の彼には想像もつかなかったことだったように思います。
もちろん、ジャン・リュック・ゴダールやラウール・クタール、アニエス・ヴァルダ、ジャン・ポール・ベルモンド・・・更には没後の『ボルサリーノ』の製作でアデル・プロダクションが敬意を表したラウール・レヴィにとっても、それは同様のことだったはずです。
そんなことに想いを馳せたとき、この作品を観るたびに受けるアラン・ドロンの映画人としての凝縮された深いテーマへの感動は、いつもわたしを勇気づけてくれるものとなっているのです。
それにしても、何とドラマティックな『ボルサリーノ2』なのでしょう!]]>
『ボルサリーノ2』①~アメリカ映画への再挑戦~【改訂】
http://zidai.exblog.jp/28902123/
2020-03-21T22:57:00+09:00
2020-04-29T17:56:59+09:00
2020-03-21T22:57:58+09:00
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ボルサリーノ2(2)
現金に手を出すな
/ アイ・ヴィ・シー
男の争い
/ 紀伊國屋書店
これは、第二次世界大戦後にフランスで流行った「セリ・ノワール(暗黒小説)」と呼ばれる犯罪小説の映画化を主流としたものであり、1940年代のハリウッドの「フィルム・ノワール」作品での「ファム・ファタル」、すなわち、強烈なキャラクターを備えた「悪女」をあまり登場させず、主題としては「男同士の友情と裏切り」を特徴としたものでした。
また、「フレンチ・フィルム・ノワール」は、前述したようにハリウッドのいわゆる1930年代の「ギャングスター映画」のジャンルを、フランス映画特有のノワール的傾向に加工している趣きもあり、1940年代から50年代にハリウッドで量産された「フィルム・ノワール」とは若干異なる範囲として定義できるようにも思います。
逆に、ハリウッドでは、『深夜の告白』(1944年)、『サンセット大通り』(1950年)、『ガス燈』(1944年)などの「サスペンス映画」の体系も含めて、「フィルム・ノワール」と総称されることもあるようですが、フランス映画では「サスペンス作品」は別の体系になっており、例えばルネ・クレマン監督の『危険がいっぱい』(1964年)やジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『殺意の瞬間』(1956年)などは、「フレンチ・フィルム・ノワール」の体系には位置づけられることはないようです。
サンセット大通り スペシャル・コレクターズ・エディション
ウィリアム・ホールデン / / パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
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殺意の瞬間
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そのような映画的背景から考えたとき、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派が絶賛していた「フィルム・ノワール」作品は、ハリウッドでの1930年代の「ギャングスター映画」の体系に位置づけられるものではなく、1940年代以降の「ファム・ファタル」が登場するやレイモンド・チャンドラーやダシール・ハメットなどの探偵小説など、その多くは私立探偵を主人公とした「ハード・ボイルド」小説を映画化した作品がほとんどでした。
ハメットとチャンドラーの私立探偵
ロバート・B. パーカー / / 早川書房
アラン・ドロンのアデル・プロダクションが放った『ボルサリーノ2』(1974年)は、前作『ボルサリーノ』(1969年)と同様、どちらかというとハリウッドの1930年代の「ギャングスター映画」と同傾向の作品ですが、前述したようにフランスでは「フレンチ・フィルム・ノワール」作品として位置づけられていますし、更に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の嗜好とは全く異なる旧時代のフランス映画のノスタルジーを備えています。
アデル・プロダクションの映画には、フランス映画の伝統を世界に発出するために、「ギャングスター映画」や1970年代に全盛期を迎えていた「マフィア映画」などの傾向を持たせ、ハリウッド市場での世界配給を視野に入れながら、したたかにプロデュ―スしていった作品が多かったと私には思えるのです。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」と相容れなかったアラン・ドロンのぎりぎりの闘いがここに現れています。
このことは、『ボルサリーノ2』でのアメリカを目指して出航するラスト・シークエンス、ロック・シフレディと部下フェルナンとの会話にも顕著に表されていたように感じました。
>フェルナン
後悔しませんか?
>ロック
しないさ
>フェルナン
アメリカはでかい国ですよ 知人もいないでしょ
>ロック
いるさ
周知のとおり、前作『ボルサリーノ』は世界配給に向けて、ハリウッドのパラマウント映画に版権譲渡した経緯のある作品でした。
>『ボルサリーノ』は相当儲かったのではないですか?
>アラン・ドロン
大金がかかった作品だった、完成させるためにはパラマウントとの契約上、私の版権を譲渡せざるを得なかった。当時持ってた絵画も抵当に入れたよ。こんな事は普段は言わないがね。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」】
ところで、彼が『ボルサリーノ2』のすぐ後に撮った『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)は、若い頃に撮った「詩(心理)的レアリスム」の名匠クリスチャン・ジャック監督による剣劇映画『黒いチューリップ』(1964年)と同体系に位置づけられ、再現させた作品とまで考えることも可能でしょう。
そして、『アラン・ドロンのゾロ』は、フランス・イタリア資本の合作映画として製作された作品ですが、ジョンストン・マッカレーの原作からも、それまで映画化された作品から推察しても、恐らく当時の映画化への著作権はハリウッドにあったと考えられます。
この作品においても、『ボルサリーノ』二作品と同様に、フランス映画の旧時代のスタイルとハリウッド作品のエンターテインメントとの同一化により彼の国際スターとしての性向と相俟って素晴らしい実績を残しました。
しかし、このような事例は一朝一夕に成しえるものではありませんし、彼の作品がすべて成功したものばかりとも限りません。
そもそも、アラン・ドロンは自国フランスにおいては、国際規模の映画における歴史的革命を成就させた映画潮流「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品に排除されてしまった旧時代の「詩(心理)的レアリスム」作品で活躍していたスター俳優だったわけですから、その映画史的な時代の潮流によって、フランス国内での飛躍には若い頃から限界が存在していたのです。
それでも、いや、だからこそ、野心家だったアラン・ドロンは『黄色いロールスロイス』(1964年)の出演によってアメリカ映画にデビューしましたたし、『テキサス』(1966年)を最後に帰仏した後でさえ、本格的な映画製作のため『ジェフ』(1968年)をワーナーブラザーズ社からプロデュースし、アデル・プロダクションを立ち上げて『ボルサリーノ』をパラマウント社に版権譲渡までして世界配給したのでしょう。
アラン・ドロンは、自国のフランス映画界でのスター俳優としての存在に安定した居場所を確保することが出来ませんでした・・・だからこそ、国際俳優・プロデューサーとして、アメリカ映画のマーケットにこだわらざるを得なかったのでしょう。彼のスター人生は、自国フランス映画を基軸としていた同時代のライバル、ジャン・ルイ・トランティニャンやジャン・ポール・ベルモンドとは異なり、特にアメリカを基軸にして生きなければならい宿命を背負わざるを得ないものだったのかもしれません。
こういった彼の悔しい想いは、後年の1996年4月、パリのシネマテークでアラン・ドロン出演作品の回顧上映が企画された時のシネマテーク主催のロング・インタビューにおいても垣間見ることが出来ます。
【>アラン・ドロン
(-中略)・・・批評もいいが、でもそれは公正であるべきだろう。イライラしたジャーナリストがこんな事を言ったこともある:「フランス映画界にドロンは存在しない」私はフランス映画界に自分の居場所があると思っていたのにね。それは私とは別に存在しているものだ。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/1 「回想するアラン・ドロン:その1(インタヴュー和訳)」】
このような述懐からも、『ボルサリーノ2』の主人公であるロック・シフレディの作品中の「再生」と「復活」のプロットには、伝統的な旧フランス映画作品への彼の強い想いや願いが表現されていると私は考えます。つまり、ジュリアン・デュヴィヴィエ、クリスチャン・ジャック、そして、ルネ・クレマン・・・自国フランス映画界において、「詩(心理)的レアリスム」の巨匠に育てられたアラン・ドロン自身の「再生」と「復活」の決意をも暗示させているように想えるのです。
彼の作品のエンターテインメント性向にアメリカ映画の影響が顕著であることが、若い頃から憧憬していたバート・ランスターの影響によるものであったこと、特に、渡米後、帰仏してからの『ボルサリーノ2』や『アラン・ドロンのゾロ』の前年、『スコルピオ』(1973年)で共演した以降の作品については、【『レッド・サン』③~尊敬するバート・ランカスター、そして、アメリカ映画へのこだわり~】の記事でも触れました。
繰り返しになりますが、『ボルサリーノ2』や『アラン・ドロンのゾロ』を撮った5年後には、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1963年)や前述した『スコルピオ』で共演した最も敬愛するバート・ランカスター、渡米時代の「フィルム・ノワール」作品である『泥棒を消せ』(1964年)で共演したヴァン・ヘフリン、西部劇コメディ『テキサス』(1966年)で共演したディーン・マーティン、そして、恐らくアラン・ドロンが最も大きくこだわっていた憎き「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の旗手であったフランソワ・トリュフォーが、アメリカでの評価を強く意識して制作した『アメリカの夜』(1973年)に主演したジャクリーン・ビセット、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1959年)でジャン・ポール・ベルモンドとセンセーショナルな共演を果たしたジーン・セバーグ・・・
映画に愛をこめて アメリカの夜 特別版
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・・・彼らが共演した人気パニック映画シリーズ第一作『大空港』(1970年)、そのユニバーサル映画のシリーズ第四作目の『エアポート’80』(1979年)に『エマニエル夫人』(1974年)で「ソフト・ポルノ映画」の市民権を国際的に獲得させたフランスのセクシー女優、シルヴィア・クリステルと共に出演することになるのです。
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エマニエル夫人 無修正版 [DVD]東北新社
このようなアラン・ドロンの映画製作や出演の作品傾向から考えると、自国フランス映画での憎きライバルがジャン・リュック・ゴダールであり、ライバルであるとともに友人、同志であったのが、ジャン・ポール・ベルモンド、そして、「詩(心理)的レアリスム」や「フレンチ・フィルム・ノワール」などの作品でのヒーローのモデルがジャン・ギャバンであり、国際スターとしてのモデルがバート・ランカスターだったことなどは実に納得できることであり、私には本当に良く理解できることなのです。
残念なことに『エアポート’80』は、映画的に成功した作品とまではいえませんでした(私は大好きな作品なのですが・・・)。
それでも、これらのアラン・ドロンの積極的な挑戦、それが具体的に『ボルサリーノ2』でのフェルナンとの会話での強い意志として表現されていることには、いつも万感胸に迫ってしまい、精一杯の声援を贈りたくなるのです。
頑張れ!アラン・ドロン!負けるな!アラン・ドロン! と・・・。]]>
『レッド・サン』③~ 尊敬するバート・ランカスター、そして、アメリカ映画へのこだわり ~
http://zidai.exblog.jp/28796097/
2020-01-11T22:07:00+09:00
2022-03-19T16:17:42+09:00
2020-01-11T22:07:23+09:00
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レッド・サン(3)
アラン・ドロンの場合、特に彼は映画においても舞台においても演技の勉強をする機会を持たず、映画出演で出会ったルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ジャン・ピエール・メルヴィル、ジョセフ・ロージーなどの超一流の映画監督に俳優としての個性や演技に磨きをかけられてきたスター俳優でした。自国フランスの映画スターにおいては「詩(心理)的レアリズム」や「フレンチ・フィルム・ノワール」の大スター、ジャン・ギャバンの存在、そして共演が学習そのものだったと考えられます。
アラン・ドロンが尊敬し、その後を追いモデルにしていたスター俳優がジャン・ギャバンであることはファンでなくても、彼の出演作品の傾向から言わずもがなですが、フランス映画の潮流とは全く異なるアメリカ映画を基調にした傾向もその特徴でした。国際派と言われるアラン・ドロンですが、アメリカ進出を試みた実績はもちろん、自国フランスの作品にも常にその傾向が垣間見られます。
また、そのような視点で考えるとき、意外なことに彼が最も尊敬していたジャン・ギャバンの影響を受けていないと感じる作品も少なくないのです。
彼が渡米した時期に出演した作品は、失敗作であるとの評価ばかりで、マイケル・ゴードンが監督しディーン・マーチンと共演した『テキサス』(1966年)を最後に帰仏することになってしまいました。
それにも関わらず、帰仏後も『さらば友よ』(1968年)で、アメリカのアクション・スター、チャールズ・ブロンソンと共演し、自社アデル・プロダクション創立第一作『ジェフ』(1968年)をワーナー・ブラザースのアメリカ映画として製作しました。その後の『シシリアン』(1969年)は20世紀フォックス、『ボルサリーノ』(1969年)はパラマウントがプロデュースした作品です。この頃、アラン・ドロンが最も大きく影響を受けていたジャン・ピエール・メルヴィル監督もアメリカ映画にこだわり続けていた監督でした。
結果的には素晴らしい作品も多いのですが、割り切りの速いアラン・ドロンにしては、アメリカ映画への未練を感じざるを得ない傾向が顕著に出ているように私は思ってしまうのです。
さて、前述した作品群は自国フランスが舞台背景のものばかりですから、いわゆるフランス映画として認識できる作品ではありましたが、その後、アラン・ドロンは自国では通常製作されることのなかった「西部劇」に出演します。
『レッド・サン』(1971年)です。
ハリウッドでも活躍していたチャールズ・ブロンソンやウルスラ・アンドレスとの共演はもとより、監督のテレンス・ヤングはアメリカ映画も多く撮っていましたし、アメリカのテッド・リッチモンドがヨーロッパのロベール・ドルフマンとともにプロデュースし、パラマウント映画から世界配給した作品でもあることから、ヨーロッパ資本、ロケ地がスペインであるとはいえ、イタリア製西部劇「マカロニ・ウェスタン」などと異なり、アメリカ映画の典型的な西部劇の特徴も備えています。
このオファーはアラン・ドロンにとっては、確かに魅力的だったと思います。チャールズ・ブロンソンとの『さらば友よ』以来の再共演、日本の大監督である黒澤明の秘蔵っ子、三船敏郎との初共演・・・。
そもそも何故彼は、失敗作の多かったアメリカ映画へのこだわりを断ち切ることが出来なかったのか?もちろん、人気沸騰したものの、イタリアでの「ネオ・リアリズモ」や自国フランスでの「詩的レアリスム」作品の衰退、彼の個性と全く相容れない「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品が席巻していた1960年代中半期にヨーロッパを発ち渡米したことには納得できる動機がありますし、当然のことながら映画産業の国際的役割を果たしているのはアメリカ映画ではあります。
しかしながら、帰仏後の自国において、アラン・ドロンにはモデルとできるジャン・ギャバンの存在があり、フランス映画『冒険者たち』(1966年)で見事に復帰できましたし、更にジャン・ピエール・メルヴィルとの邂逅もあったわけですから、アメリカ進出の失敗を踏まえれば、そろそろフランス映画特有のキャラクターで自国の映画制作に邁進する心持ちの方が自然だったように思います?
そんなことを想像したとき、私は、アラン・ドロンがアメリカ映画の傾向にこだわり続けていた理由のひとつに、ジャン・ギャバンと同様に尊敬していたハリウッドのスター俳優であったバート・ランカスターの影響が意外に大きかったのではないかと考えるようになりました。
アラン・ドロンはルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1962年)でバート・ランカスターと初めて邂逅しました。この作品は『地下室のメロディー』(1962年)より前に撮られており、最も影響を受けたジャン・ギャバンよりも一作品早くバート・ランカスターと共演していたのです。
そして、現在においてはアラン・ドロンのはまり役と私は思っていますが、当時の彼の出演作品の流れからは若干、唐突感のある典型的な剣戟映画『黒いチューリップ』(1964年)に出演します。
私は、アラン・ドロンがこのオファーを受けた動機の一つにジェラール・フィリップやジャン・マレーなど、自国フランスの偉大な先人たちの実績を踏まえて出演したと考えていたのですが、彼らから直接に影響を受ける機会が無かったことを鑑みたとき、それだけが理由だったわけではないとも思えます。
また、『恋ひとすじ』(1959年)のピエール・ガスパール・ユイ監督は剣劇映画を得意としていた映画監督でしたが、やはり、アラン・ドロンが彼からそれほど多くの影響を受けていたようにも考え難いのです。
アラン・ドロンの剣戟・冒険活劇への出演動機に最も大きな影響を与えたのは、一体、誰だったのでしょうか?
私は、ここで、その人物こそ『山猫』で共演を果たしたバート・ランカスターだったのではないだろうか?と考えるようになりました。
彼は、少年時代、ダグラス・フェアバンクスの剣戟・冒険活劇、特に『奇傑ゾロ』(1920年)に熱中して育ったそうですし、若い頃に撮った『怪傑ダルド』(1950年)や『真紅の盗賊』(1952年)という冒険活劇の代表作品がありました。何より彼はアメリカ映画での大スターであったのです。
そんなことからも、『黒いチューリップ』への出演のきっかけはもとより、アラン・ドロンの渡米への動機として、『山猫』での彼との共演、そこからの映画スターとしての彼への憧憬などが大きく影響を及ぼしていたと考えるようになりました。
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更に偶然と思えないのが、後年、アラン・ドロンが『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)に主演した実績です。
この当時のアラン・ドロンは、まさに映画スターとしての人気全盛期で、一連の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品、日本の紳士服メーカーのレナウンのダーバンのCM、人気歌手ダリダとのコラボレーションでの『あまい囁き』、『愛人関係』(1974年)や『個人生活』(1974年)などアダルト系ラブ・ロマンスの映画作品などにより人気を博していた時期でした。彼のファンは、ヨーロッパ特有のエレガンスでアダルトな品性に対して、スター「アラン・ドロン」としてのイメージを持っていたように思います。そして、彼自身もその期待に沿うように、そのダンディズムを体現し続けていました。
ですから、『アラン・ドロンのゾロ』のような少年・少女向けの剣戟・活劇映画への出演には大きな違和感があったのです。
【ゾロでの待ち時間にしびれを切らして、堪忍袋の緒が切れたドロンは言った。
-ぼくはもう役者をやめる。四十面して、いつまでもこんなことしていられるか!】
【引用 『孤独がぼくの友だち アラン・ドロン』 ユミ・ゴヴァース著 新書館(1975年)】
当時の日本でも、この引退宣言の騒動が映画雑誌などで伝えられていたことを思い出します。何故、彼はこれほどまで苦労して自らのスターとしての安定的なイメージを壊すような作品に出演したのでしょうか?
当時、12歳だった愛息アンソニーの強い要望に応えた有名な逸話、スター俳優としての行き詰まりやマンネリを打ち破ることに挑戦していたこと、ヨーロッパ映画には、子供から大人まで家族ぐるみで楽しめる大ロマン、大冒険といった、夢多き時代の大らかな映画が足りないと考えていたことなど・・・。
説得力のある理由はすでに一般的ですが、私はもう一つ大きな理由があったと考えています。
それは、この剣戟・冒険活劇に出演する前年に、アメリカ映画の『スコルピオ』(1973年)に出演し、しかも、バート・ランカスターと再共演している経緯なのです。このことから、『アラン・ドロンのゾロ』への出演には、『山猫』でのバート・ランカスターとの初共演から『黒いチューリップ』出演への流れと同様の動機づけがあったように考えてしまうのです。
更にジョンストン・マッカレー原作の『怪傑ゾロ』は、ダグラス・フェアバンクスやタイロン・パワーなどハリウッド・スターが演じたキャラクターでしたし、ウォルト・ディズニーのTVシリーズやスティーブン・スピルバーグのプロデュース作品として人気を得た典型的なアメリカの剣劇映画なわけです。
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『レッド・サン』に話題を戻しましょう。
この作品を撮るまでに彼が製作・出演した作品にアメリカ映画の影響が大きかったことは間違いのないことだと思いますが、やはりフランス映画の特徴を備えた作品ではありました。
しかし、この『レッド・サン』は、あまりにもアメリカ的な作品であり、ここで、アラン・ドロンが西部劇での悪漢を演じることは、いくら彼が器用で芸域の広いスター俳優であったとはいえ、やはり経験の不足は否めなかったのではないでしょうか?
それにも関わらず、出来上がった『レッド・サン』での西部の悪漢ゴーシェの素晴らしい演技!まさに超一流の映画スターとは、アラン・ドロンのことだといえましょう。
この作品と『黒いチューリップ』は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品を撮り続けたフランス映画の巨匠アニエス・ヴァルダ監督が映画生誕100年を記念して撮った『百一夜』(1995年)でのアラン・ドロン登場のシークエンスでも取り上げているほどです。
私は、年明け早々にロバート・アルドリッチ監督、ゲーリー・クーパー, バート・ランカスター主演の『ヴェラクルス』(1954年)のDVDを購入し鑑賞しました。この作品はバート・ランカスターがアメリカの映画プロデューサーのハロルド・ヘクトやジェームズ・ヒルとともに立ち上げていた映画制作会社「ヘクト・ヒル・ランカスター」による製作で、彼自身がゲーリー・クーパーと共演した作品です。
ヴェラクルス [DVD]ゲーリー・クーパー,バート・ランカスター,デニーズ・ダーセル/20世紀 フォックス ホーム エンターテイメントundefined
驚くことに、この作品でバート・ランカスターが演じた西部の荒くれガンマン、ジョー・エリンという魅力的な主人公は、『レッド・サン』のゴーシェと非常に似通ったキャラクターなのです。私は、このジョー・エリンが『レッド・サン』でアラン・ドロンが演じたゴーシェのオリジナルだと確信しています。
ジョ―・エリンは左利きではありませんが、彼の銃さばきは『レッド・サン』のゴーシェと非常に似通っています。ジョーもゴーシェも銃の使用後に、グリップを裏側から正面に向けホルスターに収めるのです。
二人のキャラクターもそっくりです。
バート・ランカスターが演じた主人公ジョー・エリンは、大金に目がくらみ仲間を平然と裏切り、最後にはベビーフェイスの主人公ゲーリー・クーパー演ずる南北戦争で敗残した南軍の将校ベン・トレーンに撃たれて犬死ともいえる最期を迎えます。
『レッド・サン』のゴーシェもチャールズ・ブロンソン演ずるリンクを裏切り、強奪した大金をせしめ、その在りかを隠すため誰も信用せず自らの仲間までも狙撃します。ラスト・シークエンスでは、黒田重兵衛を倒してしまい、愛すべきヒーロー、リンクの銃に倒されてしまいます。
相手への太々しい品の無いにやけた表情や、黒ずくめのワイルドな出で立ちなども含めて、最期の野垂れ死にの様相もそっくりなのです。
もちろん、「映画」というものには、異なる(リメイクでは無い)作品ではあってもこのようなキャラクターの類似性は多くあります。アラン・ドロンの作品では、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が『サムライ』の主人公ジェフ・コステロを、フランク・タトル監督の『This Gun for Hire』(1942年)でアラン・ラッドが演じた殺し屋レイヴンをモデルにしていたことは有名な逸話です。
This Gun for Hire / [DVD] [Import]Alan Ladd,Veronica Lake/Universal Studios
そんなことからも、私には『ヴェラクルス』でバート・ランカスターが演じたジョー・エリンが、『レッド・サン』での悪漢ゴーシェであるとしか思えなくなっています。そして、アラン・ドロンは、この『レッド・サン』のゴーシェを演じるに当たって、『ヴェラクルス』を参考にして演技していたと確信せざるを得なくなりました。ゴーシェの役作りの素晴らしさの要因のひとつがこんなところにも存在していたと考えると、私はアラン・ドロンのファンとして何か誇らしい気持ちになってしまいます。
更に、彼は、『アラン・ドロンのゾロ』を撮った後に、そういった意味で驚くべき作品に出演しています。
バート・ランカスターと共演した『スコルピオ』以来、6年ぶりの純粋なアメリカ映画、エアポート・シリーズ第四作『エアポート’80』(1979年)です。そして、このシリーズの第一作『大空港』(1970年)の主演がバート・ランカスターでした。
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やはり、「剣戟・冒険活劇映画」から「フィルム・ノワール」まで、そして「西部劇」や「ディザスター(パニック)映画」など、これほど幅広い活躍が出来るハリウッドのアクション・スター、バート・ランカスターこそ、アラン・ドロンが最も敬愛し大きく影響を受けたスター俳優であったのかもしれません。
視点を変えて考えると、アラン・ドロンのスター俳優としてのキャラクターはジャン・ギャバンよりも、むしろバート・ランカスターからの影響が大きかった場合もあったのかもしれません。
失敗経験だったアメリカ進出・・・にも関わらず、常にアメリカ映画を意識していたアラン・ドロン・・・その要因の一つがバート・ランカスターへの憧憬だったと考えたとき、失敗・成功を超越する彼の映画制作への情熱の一端を理解できたように私は感じるのです。
そして、1994年、彼の駆け出しの頃からの師匠だったルネ・クレマン監督、そして、最も敬愛していたバート・ランカスターは、遂に逝去してしまいます。
彼らの死後、アラン・ドロンは一度も主演作品を撮らずに、とうとう『ハーフ・ア・チャンス』(1998年)の出演を最後に引退宣言してしまいました。彼はもう、自分が慕ってきた映画監督も先輩俳優も存在しない映画界へのモチベーションを見失ってしまったのかもしれません。
そんな風に考えると、アラン・ドロンの孤独な心情が、私にも少しは理解できるような気もしてくるのです。
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『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカへの野心② ~【改訂】
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2019-10-27T13:53:00+09:00
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2017-01-14T17:39:05+09:00
Tom5k
地下室のメロディー(5)
まず、『面の皮をはげ』でのジャン・ギャバンですが、この作品では過去にジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネが演出した脱走兵や前科者など、逃亡者の典型的なキャラクターからの脱皮が試みられています。
犯罪者である過去があり、それをひた隠しにしている主人公の設定までは同様なのですが、彼は現在でもギャング組織のボスとして君臨し、キャバレー、カジノ、映画館の経営者など、実業家としての地位を築くことにも成功しています。更に、資産家の妻を持ち、過去に決別した仲間の息子を引き取り弁護士として立派に育てあげています。
ジャン・ギャバンがこのような分裂した人格の主人公を演じていることは珍しいのではないでしょうか?
しかし、敵方のギャングとの抗争がメディアの恰好の的となって、隠していた自分の過去が世間に明るみになり、これが原因となって、現在の地位・名誉に加え、大切な家族すら失い、そして、最期には警察の銃弾を受け非業の死を迎えてしまうのです。
この主人公の設定及びそのプロットは、ジョゼ・ジョヴァンニ監督がアラン・ドロンを主演にした『ブーメランのように』(1976年)に、あまりにも似通っており、私は本当に驚いてしまいました。ジョゼ・ジョヴァンニは、この作品からかなり大きな影響を受けていたのではないでしょうか?
次に、『Leur dernière nuit(彼らの最後の夜)』ですが、この作品では、後半から戦前から得意としていた追われる逃亡者の役柄を踏襲したものとなっており、非業の死を迎える悲劇のヒーローと過去を持つ美しいヒロインとのロマンスを基本としています。
今回、ヒロインを演じるのはマドレーヌ・ロバンソンです。私としては、アラン・ドロンが、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の作品に初めて出演したオム二バス『フランス式十戒』(1962年)の口うるさい母親役のイメージが強かったのですが、この作品ではドラッグに溺れていた過去を持ち、心に闇を抱えている美しい魅力的なヒロインを演じています。
私は、『生きる歓び』(1961年)での母性の優しさ、美しさを備えた革命家の妻、『山猫』(1962年)での世間知らずで滑稽な初老の貴族などを演じたリナ・モレリにも驚いていたのですが、一流の女優というのは、全く異なる個性を自然に演じることが出来るプロフェッショナルだということをこの作品のマドレーヌ・ロバンソンからも大きく感じました。
この作品でジャン・ギャバンが演じているのはギャング団のボスですが、表向きは図書館司書長という地味な職業に就いています。過去のヒーロー像の原点に回帰しつつ、やはり、『面の皮をはげ』のように二面性を持つ犯罪組織の首領役にキャラクターを転換させています。
また、この作品で私が最も印象に強かったのは、ジャン・ギャバンが銀行強盗の逃走中に衝突事故で逮捕されたときの護送車からの逃走シークエンスです。護送車が信号停止中にその床板を剥がしたハッチ状の空間から脱走するプロットとなっており、『シシリアン』(1969年)冒頭でのアラン・ドロンの護送車からの脱走と全く同様の描写なのです。まさか、『シシリアン』のこのシークエンスが16年前の『Leur dernière nuit(彼らの最後の夜)』の焼き直しだったとは、全く想像もしていなかったので本当に驚きました。
そして、やはり最後には、警察の追跡に遂に力尽きた逃亡者の哀しい末路が用意されており、彼が十八番にしていた非業の死には、情緒漂う港町の波止場が舞台に選ばれていました。
この作品は、マドレーヌ・ロバンソンという魅惑的で素晴らしい女優を相手役に迎え、ラブ・ロマンスの要素をテーマにしながらも「フレンチ・フィルム・ノワール」の傾向を多分に含んでおり、『現金に手を出すな』の原型の一つとして、そして、アラン・ドロンやリノ・バンチュラと共演した『シシリアン』にまで繋がっていく隠れた逸品なのです。そして、やはりアラン・ドロンが、ジャン・ギャバンの後を追っていたスター俳優だったとリアルに実感できたことは、私には非常に感慨深いことでした。
このように、『面の皮をはげ』と『Leur dernière nuit(彼らの最後の夜)』の二作品のジャン・ギャバンは、第二全盛期を迎える『現金に手を出すな』以降の「フレンチ・フィルム・ノワール」で演じ続けた犯罪組織のボスとしての在り方に辿り着くことに成功しています。
人生での成功や飛躍などは一朝一夕に突然出現するものではありません。むしろスランプ期などにきらりと光る端緒やきっかけとなるものがあり、その原石のようなものに磨きをかけていくことが、成功や飛躍への第一歩なのだと、そんなことにあらためて気づかされる二作品でした。
>ジャン・ギャバン
私は35歳くらいの時、戦争に行って、帰って来た頃はまだ若かったのに、髪が白かった。これはコンプレックスだった。そして、その当時の映画では悲しい役ばかりやっていた。私はもっとよくなろうと思っていた。肉体的にも精神的にも人生が刻まれなくては・・・と。そして、すごいチャンスが‘‘現金に手を出すな”(53)でやってきた。(略-)
【『Jean Gabin わがジャン・ギャバン』銀河協会編、英知出版 昭和52年6月25日】
Jean Gabin―わがジャン・ギャバン (1977年)銀河協会(編集)/英知出版
フランス映画 ジャン・ギャバンの世界 全3巻 DVD30枚組(収納BOX)セットジャン・ギャバン,ミレーユ・バラン,ルイ・ジューヴェ,アイダ・ルピノ,ピエール・フレネー/コスミック出版
ジャン・ギャバンは、このニ作品により自分自身の戦前・戦後の各全盛期の橋渡しをするとともに、実業家・知識階級として犯罪者の首領であることを覆い隠した二面性を持った主人公のキャラクターを演じ、戦後世代の後継者とも言えるアラン・ドロンへの映画史的バトン・タッチのきっかけとなる非常に重要な作品を生み出したようにも思うわけです。
そして、1953年の『現金に手を出すな』から、1962年の『地下室のメロディー』までの10年間にジャン・ギャバンは、多くの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品、例えば、『その顔をかせ』(1954年)、『筋金を入れろ』(同年)、『赤い灯をつけるな』(1957年)、『Le cave se rebiffe(親分は反抗する)』(1961年)などでギャング組織のボスを演じ続け、そのキャラクターは大スターの風格とともに定着していきました。筋金を入れろ(字幕スーパー版) [VHS]東映ビデオ
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>当時の作品を何本か再見したんですね、そこで『地下室のメロディー』の話をしたいのですが、ギャバンと共演しています。彼はあなたの共演者であり、同時に師匠でもあった:役者と演じる人物の間である種伝わるものを感じます。
>アラン・ドロン
『地下室のメロディー』の頃は、ギャバンは元気一杯だったよ。彼は常にボスで素晴らしい役者だった。彼とは共通点があった。彼同様、私も昔軍人で、船員だったんだ。私同様、ギャバンは最初は役者じゃなかった。ミュージック・ホールやカフェ・コンセール以外は、同じ道を歩んで来てた。ギャバンはフォリー・ベルジェールの階段を(キャバレー)でミスタンゲットの後ろで降りていた、するとある日役者をやってみないかと勧められた。ちょっと修理工をしてたアラン・ラッドやサーカス出身のランカスターみたいなものだね。これが正に役者ってものだ。
【引用 takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2」(インタヴュー和訳)」カイエ・ドュ・シネマ501号掲載】
このような「フレンチ・フィルム・ノワール」の大スター、ジャン・ギャバンと共演したことによって、「アラン・ドロン」キャラクターの基礎工事が実践され、『地下室のメロディー』が、彼の将来への飛躍のための作品になったのだと考えることができます。
そして、アラン・ドロンは、この後、戦前のフランス映画の黄金時代を体系づけていた「詩(心理)的レアリスム」、その第二世代の代表であったクリスチャン・ジャック監督の「剣戟映画」の体系にある『黒いチューリップ』(1963年)に主演します。
フランスにおける「剣戟映画」の全盛期は1950年代から1960年代初頭でしたが、ジェラール・フィリップ主演、クリスチャン・ジャック監督『花咲ける騎士道』(1952年)、ジョルジュ・マルシャル主演、アンドレ・ユヌベル監督『三銃士』(1953年)などから、ジャン・マレーの時代にその全盛期を担っていきます。
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ジョルジュ・ランパン監督『城が落ちない』(1957年)、アンドレ・ユヌベル監督『城塞の決闘』(1959年)、『快傑キャピタン』(1960年)、ピエール・ガスパール=ユイ監督『キャプテン・フラカスの華麗な冒険』(1961年)、アンリ・ドコワン監督『鉄仮面』(1962年)などがありました。
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しかし、その後の「剣戟映画」が、映画史的な意味での位置づけにさして重要なポジションを占めることができなかった結果を鑑みれば、当時からこの映画体系に映画ファンの安定した需要があったものとも思えません。目先の効くアラン・ドロンには、そんなことを敏感に感じ取ることができていたのかもしれません。
また、1962年に製作を開始したクリスチャン・ジャック監督、アンソニー・クイン共演の「冒険活劇」の超大作『マルコ・ポーロ』の企画も、ドニス・ド・ラ・パテリエール監督、ホルスト・ブッフホルツ主演に交代してしまいました。
この作品の製作者は、ブリジット・バルドー主演『素直な悪女』(1956年)を初め、ロジェ・ヴァデム監督の作品やマルグリット・デュラス原作、ピーター・ブルック監督の『雨のしのび逢い』などをプロデュースしたラウール・レヴィでしたが、彼はアメリカ・ナイズされた「ヌーヴェル・ヴァーグ」のプローデューサーとして活躍していた人物でした。
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当時のアラン・ドロンは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派に批判されていた映画作家だったクリスチャン・ジャックのもと、『太陽がいっぱい』で、ルネ・クレマン監督がポール・ジェコブの脚本やアンリ・ドカエのカメラ、共演のモーリス・ロネを取り込んだように、ラウール・レヴィの作品に出演することによって新時代を席巻していた「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品に対する勝算に野心を持っていたのかもしれません。
アラン・ドロンは、このような実績を持つラウール・レヴィとの企画を果たすことができず、大きなショックを受けたのではないでしょうか?
彼が、「剣戟」や「冒険活劇」の映画スターとして活路を見出せなかったことは、やむを得ないことだったかもしれません?
また、『危険がいっぱい』(1963年)で、三本目となるルネ・クレマン監督も同じく旧世代の映画作家でしたし、ルイ・マルの助監督として育成された若手のアラン・カヴァリエ監督による『さすらいの狼』(1964年)も戦前の「詩(心理)的リアリスム」の作風による作品でした。この公開に関わっても、アルジェリア問題による検閲等が厳しく財政的な大きな痛手もこうむってしまいます。
ここでもう一度この時期の作品の中で、ハリウッドでも通用する要素を持ち、「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品に勝算を持つ企画を再考したとき、やはり、ジャン・ギャバンと共演した『地下室のメロディー』が浮かび上がってくるのです。
この作品は、カラーバージョンがアメリカ公開用として制作され評価も高く世界中で大ヒットしまた。
それもそのはず、1950年代以降のアメリカ映画では、現金や宝石の強奪をストーリー・プロットとして扱った作品が盛んに量産されていました。
ジョン・ヒューストン監督、マリリン・モンロー出演『アスファルト・ジャングル』(1950年)から始まり、スタンリー・キューブリック監督『現金に体を張れ』(1956年)、ハリー・べラフォンテ主演『拳銃の報酬』(1959年)、ルイス・マイルストン監督、フランク・シナトラ一家総出演『オーシャンと十一人の仲間』(1960年)などはハリウッド映画史においては重要な「フィルム・ノワール」の名作品です。
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アラン・ドロンが当時の現状を打破するために、『地下室のメロディー』を跳躍台にして、アメリカ映画への野心を現実的なものにしようと考えたことも無理はありません。まして、『地下室のメロディー』は、初めて彼が世界市場(ロシア、ブラジル、日本)への配給権を取得した作品でした。
>当時、神話は全てアメリカからやって来ていた。
>アラン・ドロン
その通り。僕らにはバルドーしかいなかった。あちらさんにはエヴァ・ガードナー、リタ・ヘイワース、それからマリリン・モンローが少し遅れてやって来た・・・そう、スターたちは大西洋の向こう側だった。
【引用 takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2」(インタヴュー和訳)」カイエ・ドュ・シネマ501号掲載】
残念ながら、アラン・ドロンのアメリカでの人気は、結果的に芳しいものにはならず、キャリアのうえで充分な成功を収めることは出来ませんでしたが、後年のジョゼ・ジョヴァンニ監督との三部作の原点とも考えられる作風の『泥棒を消せ』(1964年)に主演することができました。
いずれにしても、アラン・ドロンが代表作『サムライ』以降の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品での人気全盛期を迎える序章として大きな影響力を持った作品が、次の四作品だったとは思います。
・ 彼の銀幕デビュー作品、『Quand la Femme s'en Mele』
・ ジャン・ギャバンとの共演作品、『地下室のメロディー』
・ 念願だった自社プロダクションによる製作作品、『さすらいの狼』
・ アメリカでの野心作、『泥棒を消せ』
そして、この中でも、最も成功し未来への展望を持てた作品が『地下室のメロディー』だったわけです。
『地下室のメロディー』では、ジャン・ギャバン演ずるシャルルの妻ジネット(ヴィヴィアンヌ・ロマンス)やアラン・ドロンが演ずるフランシスの恋人ブリジット(カルラ・マルリエ)などの女性は重要な登場人物としておらず、また、カジノの現金強奪は、シャルルとフランシス、その兄モーリス・ビローが扮するルイが協力し合って計画し実行しますが、ルイが現金強盗に嫌気が差し現金強奪後は彼らの元から離れていきます。
これらの人物構成のプロットは、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の伝統的特徴である「男同士の友情と裏切り」が緩和され、「男同士の協力と離反」となっていますが、この体系を充分に準用した設定だったと思います。
加えて、シャルルとフランシスが落ち合うビリヤード場、カジノの夜の情景、ナイトクラブ、ダンスホールの舞台裏、エレベーター昇降路・送風ダクト内・車のヘッドライト、煙草・酒・鏡・サングラスなど、オリジナル・バージョンではモノクロームを基調として光と影のコントラストで描写した舞台や小道具も、この作品のノワール的特徴だと言えましょう。
後年、ここでのジャン・ギャバンとの邂逅から、『シシリアン』(1969年)、『暗黒街のふたり』(1973年)が生み出され大きなヒットを記録していくことになります。
また、1967年の『サムライ』以降の多くの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品、例えばジャン・ピエール・メルヴィル、ジョゼ・ジョヴァンニやジャック・ドレーが演出した作品など、いわゆる多くの「アラン・ドロン」キャラクターへの確立には、上記四作品への主演の経験が大きかったでのでしょうし、取り分け、この『地下室のメロディー』でのジャン・ギャバンとの共演が不可欠であったと私は考えているのです。
【ギャバンも多くを教えてくれました
30~40年遅れて私は彼の後を追いかけたんです(アラン・ドロン)】
【『アラン・ドロン ラストメッセージ 映画、人生・・・そして孤独』について(2019年 09月 07日)平成30年9月22日(土)10:30NHK BSプレミアム】
【(-略)全く異質な人間が、ある一作の中で、すれちがった。栄光のバトンを手渡し、ひとりはそのバトンをもって、夢中でかけ出す。明日という日へ向って-。】
【スクリーン1963年11月号「ギャバン対ドロン」秦早穂子】
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『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカへの野心① ~【改訂】
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地下室のメロディー(5)
アラン・ドロンは、その後、ルネ・クレマンやルキノ・ヴィスコンティなど、名巨匠たちの作品に主演した後、ミッシェル・ボワロン監督の三作品目、『素晴らしき恋人たち 第4話「アニュス」』(1961年)に主演します。ロジェ・ヴァデム監督に見出され脚光を浴びていたブリジット・バルドーと共演した若い恋人同士の悲恋のコスチューム・プレイでしたが、やはり前二作品と同様のアイドル系ジャンルの作品でした。
ロミー・シュナイダーとの婚約にまで発展することになった『恋ひとすじに』(1958年)は、戦前のドイツで映画芸術の先端であった「ドイツ表現主義」の体系にあったマックス・オフュルス監督、マグダ・シュナイデル主演のオリジナル作品『恋愛三昧』のリメイクです。 この作品の製作国は西ドイツであり、アラン・ドロンが国際的スターになるきっかけにはなりましたが、どちらかと言えば、マグダ・シュナイデルの愛娘、『プリンセス・シシー』シリーズで人気絶頂期にあったロミー・シュナイダーが主演であり、戦前のオリジナルのような芸術大作とは異なる彼女に焦点を当てたアイドル映画でした。
エリザベート ~ロミー・シュナイダーのプリンセス・シシー~ HDリマスター版 [DVD]Happinet(SB)(D)
ようやく、アラン・ドロンがその持ち前の陰影の濃い犯罪者としての人物像を初めて演じた作品は、『太陽がいっぱい』(1959年)ですが、この作品を監督したルネ・クレマンへの当時の評価には、新たに台頭していた「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸派の旧世代の伝統的作風への批判が当然のことながら存在し、それに加えて、やはりアラン・ドロンを主演にした『生きる歓び』(1961年)も含め、演出家としての力の限界を指摘された批評も存在していました。
【「クレマンが『太陽がいっぱい』で見せてくれたのは、地中海のすばらしい陽の光と、エレガントな色彩撮影と、見当ちがいのディテールと、ショッキングなラスト・シーンだった。」
ロイ・アームズが、『海の壁』の後に作られた『太陽がいっぱい』(59)について、こんな批評をしている。
『太陽がいっぱい』、その後の『生きる歓び』(61)とともに、押しよせる“ヌーヴェル・ヴァーグ”に対抗してクレマンが作ったスタイリッシュな作品であった。二本とも、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の作品から出てきたアンリ・ドカエに撮影をまかせたのだが、ドカエのカメラは、若い世代の心理をうつしとり得ず、ドラマの構造だけを美しく捉え得たにとどまった。クレマンは、現代の若い世代の心理を活写できるような作家ではなかったのである。彼は、巧みなストーリー・テラーとして、その後の作家活動を続けるようになった。】
【映画評論 1974年3月号(「ルネ・クレマン研究 クレマンの作品系譜をたどる」高沢瑛一)】
更に、当時のイタリア社会に現れた社会問題をリアリズム描写で創出し続けた「ネオ・リアリズモ」の作品群も第二次世界大戦後から1950年代の隆盛から変遷をたどりながら、その全盛期を終焉させていきます。そこから様々な試行錯誤が行われていくのですが、その傾向はアラン・ドロンの国際的スターとしての出発点であったイタリア映画の『若者のすべて』(1960年)、『太陽はひとりぼっち』(1961年)、『山猫』(1962年)に顕著に現われています。
そして、ミケランジェロ・アントニオーニについて、アラン・ドロンは次のように後述しています。
>アラン・ドロン
ブリエの現場は本当に素晴らしかったね。ロージー以来、私はブリエのような人を待っていたんだ。他の監督たちに侮蔑的に聞こえて欲しくはないけどね。でも私にはヴィスコンティ、クレマンがいて、アントニオーニは偶然だがね・・・
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18「回想するアラン・ドロン:その6」(インタヴュー和訳)」】
ミケランジェロ・アントニオーニは、それまでの映画制作での決まりごとを全て否定し、反ドラマ(反ストーリー)の構成により映画のテーマを提示する斬新な手法を取っていた映画作家でした。彼は自らの作品を「内的ネオ・リアリズモ」と定義づけ、映画史的にも「ネオ・リアリズモ」以降の流れを組む映画作家として体系づけられています。
しかし残念なことに、彼との出会いを「偶然」としているアラン・ドロンのこのような発言には、当時の自身のキャリアを「内的ネオ・リアリズモ」に投入していこうとしていた意欲は感じられません。
また、ルキノ・ヴィスコンティにおいては、彼自身の「ネオ・リアリズモ」作品の集大成として、アラン・ドロンを主演にした『若者のすべて』(1960年)を演出しました。この作品は1960年度ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞を受賞しましたが、イタリア国内の南北地域格差へのあまりにリアルな描写に、撮影中から公開後まで当局とのトラブルが絶えなかったそうです。特に、主人公ナディアへの暴行や刺殺のシークエンスは、公序良俗に反するといった理由から音声のみのシークエンスとして公開するようイタリア政府からの検閲を受けました。ちなみに、日本で公開されたときの上映時間も大幅に短縮された1時間58分でした。
そして、第16回カンヌ国際映画祭グランプリ(パルム・ドール)を受賞した『山猫』も、彼のそのキャリアの新時代として、貴族社会の崩壊をリアリズムによって描いた新しい試みであったにも関わらず、その世界配給は20世紀フォックスによる40分に及ぶ短縮版を基軸としてしまいました。
このようなことから、ルキノ・ヴィスコンティ監督による二本のアラン・ドロン主演作品は、公開当時には、その真価を世評に正確に反映させることが難しかったと考えられます。
これらの事情を鑑みれば、アラン・ドロンが、その後のイタリア映画界で活躍していくためのモチベーションを高めることは難しかったと察することができます。
次に、自国フランス映画での「アラン・ドロン」はどうだったでしょうか?
彼は、ルネ・クレマン監督の演出作品の外に、1962年に戦前のフランス映画の黄金時代を体系付けていた「詩(心理)的レアリスム」の代表格だったジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒第6話「汝、父母をうやまうべし、汝、偽証するなかれ」』への出演を果たします。
しかし、ジュリアン・デュヴィヴィエは、1950年代中盤から、フランソワ・トリュフォーを初めとした映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」によって、徹底的に批判されていった映画作家でもありました。
1950年代終盤からの自国フランス映画界は、ロジェ・ヴァデム、ルイ・マル、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダール、エリック・ロメール、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ジャック・ドゥミなどの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちが席巻する時代を迎えていたのです。
>アラン・ドロン
(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-)
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」】
1960年代の初め、若手の映画人気俳優として大反響を惹起していった新世代の国際スター「アラン・ドロン」には、このような状況もあったわけです。自国フランスのみならず、西ドイツやイタリアでの作品に主演し、国際的に人気の絶頂を迎えていたとは言え、アラン・ドロンに焦燥があったことは否めません。
そして、そんな先行きの不安を想定し得る状況にあって、彼がようやく巡り会うことができた作品が、アンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディー』(1962年)だったのです。共演者は言わずもがな、「フレンチ・フィルム・ノワール」の大御所、ジャン・ギャバンです。
【 戦前から戦後を通して、フランス映画界でのナンバー・ワンはいつもジャン・ギャバンであった。今もである。水草稼業にもにて、人気のうつりかわりの激しい俳優世界で、これは稀有のことだといわなくちゃなるまい。もっともフランス人の性へきの中には、大変保守的なもの-伝統を愛するというか、古いものをなつかしむといった傾向があるからかもしれないが、大げさにいえばシネマがトーキーになってからはまずはジャン・ギャバンというのが、彼らの固定観念になってしまった。フランス映画の危機が叫ばれる昨今においても、ナンバー・ワンはギャバンである。ナンバー・ワンというより、別格なのである。(略-)】
【(-略)人間だれしも、お世辞にはよわいとみえて、いつも無愛想なギャバンが、いたれりつくせりのドロンの奉仕ぶりに、うん、仲々いいところのある青年だといったとか。ドロンのほしかったのは、正に、ギャバンのこのお墨附きだったのである。(略-)】
【スクリーン1963年11月号「ギャバン対ドロン」秦早穂子】
『地下室のメロディー』が公開された1963年当時の日本の映画雑誌には、このようなジャン・ギャバンに対するアラン・ドロン評が掲載されていました。ファンとしては、あまり愉快な内容とは思いませんが、残念ながら的を得た評価であったかもしれません。
ところで、ジャン・ギャバンが、どんなに別格の存在だったとしても、彼が映画俳優として若い頃から一貫して、それを維持し続けることができていたわけではありません。『現金に手を出すな』(1953年)により、戦後に第二全盛期を迎えるジャン・ギャバンに至るまでには、かなり長期間に渉ってのスランプの期間もあったのです。
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これは、1941年にナチス・ドイツのフランス占領時によって彼が渡米した頃から始まったものだったと考えられますが、それを克服するまでには10年もの年数を要しました。これには、様々な要因があったと思いますが、私は主に次のことが大きかったと考えています。
◯ 40代という彼の年齢とそれまでの「ジャン・ギャバン」キャラクターとの間のギャップが大きくなってしまったこと。
脱走兵や前科者が官憲に追い詰められ、最期に非業の死を迎える悲劇のヒーローとしてのスタイルによった行きずりの美しいロマンスは、40代の彼には既にそぐわないものになっていました。
この傾向は、戦前からの名コンビ、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督との『逃亡者』(1943年)、当時の新進気鋭のルネ・クレマン監督との『鉄格子の彼方』(1948年)などの作品において顕著になっていました。
◯ 戦時下におけるアメリカへの亡命時代、ハリウッドでの映画制作の手法が彼のキャリアとは合わなかったこと。
『夜霧の港』(1942年)への出演ではアーチ・メイヨ監督とのトラブルが絶えず、当時、同様にアメリカに亡命していたドイツの名匠フリッツ・ラングが最後に演出に関わり、ようやく完成させた作品だったそうです。
◯ まだ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の批判にさらされる前時代ではあったものの、戦前から彼の作品を最も多く演出していた「詩(心理)的リアリスム」世代のジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネには、全盛期と比較して既にその演出力に衰えが現れていたこと。
『地の果てを行く』(1935年)、『望郷』(1936年)や『霧の波止場』(1938年)に愛着のあるファンにとって、亡命時代の『逃亡者』や帰仏後の『港のマリー』(1949年)は、ジャン・ギャバンと往年の巨匠とのコンビネーションに時代の節目を感じてしまう作品になってしまったのではないでしょうか。
◯ ジャン・ギャバンの盟友のひとりであり、フランス映画界においては、別格の映画作家であったジャン・ルノワールはアメリカで市民権を得たことによりハリウッドから帰仏しなかったこと、その後も、インドやイタリアで映画を制作していたこと。
ようやく彼らが久しぶりに組んだ『フレンチ・カンカン』でしたが、ジャン・ルノワールのフランス映画界への復帰は『現金に手を出すな』の翌年1954年、戦後9年も経っていました。
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ジャン・ギャバンが、この代表作品にたどり着くまでには、このように多くの困難な時代が存在していましたが、彼が突然長い不調期を脱して、唐突に『現金に手を出すな』に巡り会ったとは信じられません。
私はスランプの時代を単なる不調期と考えることは短絡だと思いますし、むしろそういった時期だからこそ、次のステップへと飛躍するため、映画スターとして熟成していく過程で、その素晴らしい端緒が現れているはずだと考えてしまいます。「ダイヤモンドの原石」のような作品がどこかに埋もれているはずだと・・・。
その意味で、私が強く関心を喚起される作品は、レーモン・ラミ監督の『面の皮をはげ』(1947年)とジョルジュ・ラコンブ監督の『Leur dernière nuit(彼らの最後の夜)』(1953年)なのです。どちらも非常に地味な作品ではあるのですが、私には、この二作品に代表作品『現金に手を出すな』以降の全盛期の諸要素の多くが凝縮されているように感じられるのです。
【<『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカへの野心② ~>に続く】
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『お嬢さん、お手やわらかに!』~アラン・ドロンの日本デビュー:記念すべき日 1959年4月23日~
http://zidai.exblog.jp/28612139/
2019-10-20T01:57:00+09:00
2020-05-09T12:29:37+09:00
2019-10-06T19:01:15+09:00
Tom5k
お嬢さん、お手やわらかに!
このときは、高校受験のための冬季講習のあった時期だったと記憶していますが、この放映を観たいがため、塾をさぼって自宅でテレビにかじりついて観ていたことが懐かしく想い出されます。今考えると母親もよく何も言わずに塾を休むことを咎めなかったものです。私のアラン・ドロンのファン熱を一定程度、理解してくれていたのかもしれません。どうせ、無理に講習を受けさせても部屋にテレビを持っていた友人のところに行って塾をサボると察して諦めていたのでしょう。
また、いつもアラン・ドロンを小馬鹿にすることの多かった父親は、何故かその日は自宅にいませんでした。恐らく出張か飲み会で外出していたのだと思います。もちろん、在宅して、いつものように一緒にテレビの映画放映を観ていたとしても、「なんくせ」をつけながら私を挑発することばかり言うに決まっていましたから、母親と彼の映画を観ることが出来たことは幸いだったかもしれません。
わたしが映像として記憶にあるシーンは、まずは、そう、
アラン・ドロン登場のファースト・シーンです。ニコニコ笑いながら革ジャン姿で若い人達が集っているパーティに現れる場面です。
それから囚人服を着たミレーヌ・ドモンジョとパスカル・プティが、アラン・ドロンとジャクリ-ヌ・ササールの結婚式を刑務所の床掃除をしながら笑顔で祝っているラスト・シーン。
映像として憶えているシークエンスはほとんどないものの、コメディ作品でありながら彼女たち3人がアラン・ドロンを殺そうとする物騒な内容だったことも覚えていました。
何せ40年以上も前に観た作品ですから細部はほとんど記憶に残っていませんでした。
また、共演した女優3人もアイドルの域を脱皮できず、その後、大女優として開花しきれなかった女優ばかりでしたし、監督したミシェル・ボワロンも超一流の映画作家として映画史的な位置付けで活躍したわけではなかったので、現在まで映画作品としても大きな関心を持ち切れなかったことも私の正直な気持ちです。更に、レンタル・ビデオの時代になっても、ソフト化されていなかった作品でしたので、中学生の初鑑賞以来、一度も再見する機会を持ち得なかった作品だったのです。
しかし、この『お嬢さん、お手やわらかに!』は、彼のスター俳優として初めての主演作品であり大きく観客動員できた出世作品でもあり、アラン・ドロンのファンとしては実は最も着目すべき彼の出演作品の一本でもあるのです。
そうであるにも関わらず、今までこの作品に着目しなかった私は、「アラン・ドロン」ファンとして実に怠慢だったと、最近になって大いに反省し自己批判しているところであります。
というわけで、日本では現在まで一度もソフト化されたことも無い作品でしたので本当に驚いたのですが、2019年2月21日、いよいよ、この『お嬢さん、お手やわらかに!』のDVD及びブルーレイディスクが発売されることになったこと(それにしても、パスカル・プティが、DVD・ブルーレイのパッケージ表紙の写真に写っていないのは、私としては非常に残念でした)を機に、早速、ブルーレイを購入し約40年ぶりに再見しました。
そして、その反省から、あらためて、この作品の価値を掘り下げて考えてみたくなったのです。
まず、敢えて賛否両論を覚悟のうえで、アラン・ドロンのスター俳優としての沿革を一般化し、かつ、その客観的な理由(下記に【参考】として記載)を含めて、代表作品と呼べる作品は?・・・つまり、『お嬢さん、お手やわらかに!』を他のアラン・ドロンの出演してきたその代表作品と並列することによって、どれだけ重要な作品なのかを検証すべきと考えたのです。
アラン・ドロンというスター俳優を全く知らない人たち(特に今の若い人)に、「アラン・ドロン出演映画」の典型的、象徴的な作品を紹介すると仮定し、彼の映画が製作された当時の話題性なども含め、それらを列挙してみると彼の映画俳優としての出演履歴がわかりやすくなると思いました。
『太陽がいっぱい』(1959年)
アラン・ドロンが、その時代の貧富の格差における現代青年の矛盾と魅力を彼自身のキャラクターで象徴的に演じ大ヒットした作品。そして、絶対的なアラン・ドロンの代表作品です。
【参考】
・この作品と『若者のすべて』、『サムライ』は言わずもがなでしょう。なお、ほとんどの人がアラン・ドロンの話題になるときの第一声で『太陽がいっぱい』を口にします。
『若者のすべて』(1960年)
イタリア国内の南北格差などの社会矛盾を「ネオ・リアリズモ」作品体系において、一般受けするスター俳優「アラン・ドロン」の個性を才能にまで高め、スターシステムを使って、日本公開時は短縮版であったにも関わらず大ヒットさせることに成功した作品。
【参考】
・「ミニシアターに観に行ったわよ。本当にあの映画のアラン・ドロン、優しくてねえ。でも、あんまり、優しすぎちゃうと・・・。」(知り合いの図書館司書の女性(68歳) )。※注 昭和57年頃、地元にミニシアターがあったときに完全版が公開されました。
・ヴェネツィア映画祭審査員特別賞(現・銀獅子 審査員大賞)。
『太陽はひとりぼっち』(1961年)
「ネオ・リアリズモ」を「内的ネオ・リアリズモ」の体系として発展させたセンセーショナルな作品。かなり高い知的レベルを必要とするアンチ・ドラマトゥルギーの構成による作品であるにも関わらず、当時の日本で大ヒットした作品。
【参考】
・「あれ、証券マンになった映画、あのアランドロンは本当にきれいだったあ。うっとりして観てたわ。」(同級生の女子(55歳))。
・カンヌ映画祭審査員特別賞(現・グランプリ)。
『山猫』(1962年)
イタリアの共和制への移行期を歴史的宿命として、貴族階級の終焉を全編絵画のような美しい映像により再現し、イタリア文化庁がフィルム修復に国家事業として取り組んだ芸術作品。初公開時の20世紀フォックスの短縮版ではなくイタリア完全版が評価されている。
【参考】
・「やっぱり、アラン・ドロン、素敵だよね~。今でも『山猫』のブルーレイ、何回も観てるよ。」(従姉(58歳))。
・カンヌ映画祭グランプリ(現・パルム・ドール)。
『地下室のメロディー』(1962年)
フランスの大スター、ジャン・ギャバンと初共演した「ギャング映画」で、その巧みなストーリー・プロットと2大スターの共演により世界的に大ヒットした娯楽作品。
【参考】
・「アラン・ドロンとジャン・ギャバンは本当にかっこ良かったよ。」(おふくろ(82歳))。
・「あいつ(アラン・ドロンのこと)の映画にしては珍しく面白かったわ。ジャン・ギャバンが良かったな。うわっはっはっは!」(いつも、アラン・ドロンを小ばかにしているおやじ(82歳))
・「きゃあ!かっこいい!うわあ!かっこいい!」(従姉(58歳)が中学生の頃)。
『冒険者たち』(1966年)
黄金の1970年代に向けた戦後世代の象徴的なテーマを女性ヒロインを中心に美しいロケ地(アフリカのコンゴの海域)で描写した哀しく美しい青春賛歌。当時の若い世代の映画ファンの獲得に成功し大ヒットした。団塊の世代の間では『太陽がいっぱい』と並ぶ彼の代表作品。
【参考】
・「アラン・ドロンは好青年でしょう。特に『冒険者たち』なんて、哀しくてロマンティックだったわ。」(知り合いの女性(68歳))。
・「素敵な映画だったわ。私は『ある愛の詩』や『卒業』より好き。」(知り合いの女性(65歳)))。
『サムライ』(1967年)
1950年代に勃興した「フレンチ・フィルム・ノワール」のテーマであった「男の友情と規範」とは若干異なる独自のテーマを持ち、スタイリッシュで洗練された映像表現に発展させた作品。アラン・ドロンにとっては、この作品以降「暗黒街に生きる孤独で冷徹な主人公」のキャラクターを決定づけた作品。
【参考】
・「いやあ、すごいんだよ。もの凄い数の鍵束もってて車盗むんだわ。警察に尾行されてるときなんか、地下鉄のドア閉まる寸前でぱっと逃げるんだよ。彼の部屋の小鳥がね、羽ばたつかせてピーピー鳴いて、部屋に殺し屋が隠れてること教えようとするの。最後なんて、黒人のピアニストをピストルで狙ったところで撃ち殺されちゃうんだけど、彼のピストルに弾入ってないのさ。『太陽がいっぱい』よりアラン・ドロンらしかったんじゃないかい?」(おふくろ(82歳))。
『さらば友よ』(1968年)
娯楽アクションに徹した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品。その後、ハリウッドでドル箱スターとなるチャールズ・ブロンソンと共演し大ヒットした作品。
【参考】
・「最初の場面から画面に引き付けられたわ。あいつら、最初からお互いに相手のこと気になってしょうがなかったんだろうな。男ってそういうもんなんだ。『太陽がいっぱい』より、『さらば友よ』の方が良かったんでないか?」(知り合いの男性(70歳))。
『ボルサリーノ』(1969年)
自社アデル・プロダクションにより製作し、フランス国内での盟友ジャン・ポール・ベルモンドと共演し世界中で大ヒットした作品。
【参考】
・「アラン・ドロンの映画で有名なのは『ボルサリーノ』と『ゾロ』だよ。私、高校のとき、友達がアラン・ドロンのこと好きで『ボルサリーノ』と『ゾロ』を観に付き合わされたも・・・。」(「アラン・ドロン」のファンではない女性(60歳))。
※注:ジャン・ポール・ベルモンドが出ていたとのことなので、当時公開されていた『ボルサリーノ2』ではないと思われます。当時(75年頃)再上映されていたか、そのときに『ボルサリーノ2』と並映されていたか・・・ではないでしょうか。
『仁義』(1970年)
珍しく、日本よりもフランスで大ヒットした典型的な「フレンチ・フィルム・ノワール」作品。公開当時よりも後年において高い評価を受けており、特に「香港ノワール」作品の演出で活躍したジョン・ウーやジョニー・トーが大きな影響を受けた作品。
【参考】
・ネット上の各種映画サイトでの「フィルム・ノワール」の話題に必ず例示される作品。
『レッド・サン』(1971年)
この作品での共演から続いた三船敏郎との交友関係は、日本のファンにとって最も嬉しいエピソードであり、既に国際的に活躍していたチャールズ・ブロンソン、アーシュラ・アンドレスとの「西部劇」での共演なども含めて、公開当時、最も話題性に富んでいた作品。
【参考】
・「おおっ!三船敏郎と共演した西部劇な!」(多くの同級生、その他、多くの知り合い(50台男性に最も多い反応))。
・「それにしても、この映画のアラン・ドロンって、他の映画と違ってさ、ほんとに悪そうな顔してるんだよな。」(トム(Tom5k))
「だから、超一流の俳優ってことなのさ。」(アラン・ドロンと縁のない世代の青年(28歳)が中学生のとき)。
『高校教師』(1972年)
ルキノ・ヴィスコンティ監督の影響を大きく受けていたヴァレリオ・ズルニーニ監督の演出で、アラン・ドロンが、落ちぶれ無気力になったブルジョア中年男性の高校教師を演じ、早熟な女子高生との不倫ロマンスを知的に演じ、予想以上に多くの女性ファンに受け入れられ大ヒットした作品。
【参考】
・「あんた、アラン・ドロンはね、ああいうだらしない男やってもいいのよ。母性本能くすぐるタイプなんだわ。」(伯母(88才))。
『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)
ハリウッド映画での典型的な痛快娯楽作品の題材だった剣戟映画「ゾロ」をイタリア、ティタヌス社で製作し、アラン・ドロン自らの二重性向のキャラクターを古典的題材の活用から大ヒットさせた作品。
【参考】
・『ボルサリーノ』と同。
・「あのゾロやってた人、素敵・・・」(アラン・ドロンを知らなかった同級生の女子(55歳)中学生のとき)。
『パリの灯は遠く』(1976年)
日本では当たらなかったけれども、アラン・ドロンの生涯を通じての一世一代の名演技で、現代社会の不条理を戦時中のナチズムによるユダヤ人問題をテーマに象徴させた第一級の社会派作品。映画史上の大傑作として評価されている。
【参考】
・セザール賞受賞(作品賞、監督賞、美術賞)。
『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』(1984年)
残念ながら、日本では公開されなかったものの、美しい音楽やシュールな映像表現によって、夫婦間の葛藤と愛情、特に夫婦愛の再生をテーマにした作品。アラン・ドロンの出演作品としては珠玉の一本としての魅力を放っており、彼がこの作品でセザール男優賞を受賞していることからも見過ごせない作品。
【参考】
・セザール賞受賞(男優賞)。
『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)
「ヌーヴェル・ヴァーグ」のジャン・リュック・ゴダール監督が「パパの映画」の俳優と蔑んでいたアラン・ドロンを主演にして、彼のためのプロットを組んで制作した作品。公開当時は各種映画雑誌で特集された話題作品。
【参考】
・公開当時の会話
「今度、アラン・ドロンが有名な映画監督の映画に出るんだとさ。」(トム(Tom5k))
「へぇ~、まだ映画出てるんだねえ。」(おふくろ)
「二重人格の役なんだと。」(トム(Tom5k)
「ピッタリだね。」(おふくろ)。
『ハーフ・ア・チャンス』(1998年)
パトリス・ルコント監督で、久しぶりにジャン・ポール・ベルモンドとコンビを組み、二人が気鋭のバネッサ・パラディと共演した作品。当時、アラン・ドロンの引退作品と銘打ち話題となった作品。
【参考】
・アラン・ドロンが出演した最後の映画作品。
※注:その後、『Astérix aux Jeux Olympiques』に出演、映画復帰している。
それにしても、掲載した上記【参考】欄は、「アラン・ドロンのスター俳優としての沿革を一般化し、かつ、その「客観的な理由」」になっているのでしょうか?(笑)
好き嫌いは別として、これらがアラン・ドロン入門編の映画作品として列挙されるべき作品と考えているところです(※注:私としては、ロミー・シュナイダーと初共演した『恋ひとすじに』(1958年)、クリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』(1964年)、ルネ・クレマン監督のオールスター・キャストでの『パリは燃えているか』、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『悪魔のようなあなた』(1967年)、ルイ・マル監督の『世にも怪奇な物語(第二話 影を殺した男)』(1968年)、ジョゼ・ジョヴァンニ監督の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品やピエール・グラニエ・ドフェール監督の『帰らざる夜明け』(1971年)や『個人生活』(1974年)、フォルカ―・シュレンドルフ監督の『スワンの恋』(1984年)などは迷いに迷ったのですが、今回は涙を呑んで思い切って外すことにしました。)。
そして、最近の私としては、上記の作品と並んで、この『お嬢さん、お手やわらかに!』をアラン・ドロン出演の代表作品としてまず初めに挙げられるべき作品、と定義付けたいと考えているのです。
>ミシェル・ボワロン監督の『お嬢さん、お手やわらかに!』を若い頃、見た記憶があります。
>アラン・ドロン
商業的には大ヒットした作品だ。この映画で顔を覚えてもらったんだね。ミレーヌ・ドモンジョと共演した。ブリジット・バルドー、ジャクリーヌ・ササールやパスカル・プティと共にもう一人のフランス映画のスターだった。それからピエール・ガスパール・ユイの『恋ひとすじに』に出た。『若者のすべて』に起用してもらう前、撮影現場にヴィスコンティが私を見に来たんだ。『お嬢さん、お手やわらかに!』を見たルネ・クレマンも私を覚えてくれた。全くもって凄い年月だった・・・
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/4「回想するアラン・ドロン:その2」(インタヴュー和訳)」】
全くもって凄いです。ほんと!
更に、私としては、共演者のアイドル女優のそうそうたる面々も凄いと感じています。ミレーヌ・ドモンジョ、パスカル・プティ、ジャクリーヌ・ササール。その後、大女優として開花できなかったとはいえ、当時は3人とも国際的な人気を博していました。
アラン・ドロンは、この作品から、『太陽がいっぱい』や『若者のすべて』を経てもなお、基本的には共演者たちも含めて、アイドル路線の映画を主戦場としたスター俳優でした。共演のアイドル女優の面々は凄いです。
『恋ひとすじ』(1958年)では、西ドイツの国民的アイドル、ロミー・シュナイダー、『学生たちの道』(1959年)では、旧時代的フランス国内のトップ・アイドル、フランソワーズ・アルヌール、忘れてならないのは、映画出演の第9作目『素晴らしき恋人たち(第二話 アニュス)』(1961年)で、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の新興アイドルのブリジット・バルドーとまで共演、ルネ・クレマン監督の『危険がいっぱい』(1963年)でさえ、ハリウッド出身の当時はまだアイドルだったジェーン・フォンダと共演しているのです。アメリカに渡ってからも、『黄色いロールスロイス』(1964年)でのシャーリー・マックレーン、『泥棒を消せ』(1964年)でのアン・マーグレット・・・あまりにも凄すぎ・・・また、トップ・アイドルとまでは言えないにしろ、『生きる歓び』(1961年)でのバルバラ・バス、『黒いチューリップ』(1963年)でのヴィルナ・リージ、『太陽がいっぱい』でさえ、デビューしたばかりのシャンソン歌手、マリー・ラフォレと共演しています。
忘れてた!『冒険者たち』のジョアンナ・シムカス !
しかし、単一の作品に、これだけスケールの大きなアイドル女優を3人も使った作品はこの『お嬢さん、お手やわらかに!』だけでしょう。いわゆるアイドル・オールスター映画といっていいのではないでしょうか?
【参考】
・「おお!おっほっほっ!『お嬢さん、お手やわらかに!』な!観た、観た・・・パスカル・プティ、ジャクリ―ヌ・ササ-ルと出てたな。確かなあ、マリリン・モンローも出てなかったか?・・・ミレーヌ・ドモンジョ?・・・そうだったかあ?・・・確か、母さんと観に行ったわ。」(おやじ(82歳)が22歳の頃のことです。)
完全に他の映画とごちゃまぜになっています。
多分、イブ・モンタンがマリリン・モンローと共演した『恋をしましょう』(1960年)あたりと勘違いしているのではないでしょうか?また、父親は話が面倒臭くなると「確か、母さんと観に行ったわ。」で話しをまとめようとします。そういった定型的な発言ですから、まあ、客観的な証言としては弱いかもしれませんが、父親が若い頃に観た映画として、記憶に残っていることは間違いないことだと言えましょう。
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アラン・ドロンは、本国フランスでは『Quand la Femme s'en Mele』(1957年)でデビューし、『黙って抱いて』(1957年)で、生涯の盟友であり、ライバルであったジャン・ポール・ベルモンドとの邂逅、ミレーヌ・ドモンジョと初共演。そして、この作品で初めて主演に抜擢され、世界中からアイドル・スターとして脚光を浴びることができました。
『Quand la Femme s'en Mele』は日本未公開、二作品目の『黙って抱いて』の日本公開は、『太陽はひとりぼっち』(1962年12月23日)の公開直後の1963年1月25日ですから、日本人が初めて「アラン・ドロン」を知ることになった日本でのデビュー作品は、1959年4月23日に公開されたこの『お嬢さん、お手やわらかに!』なのです。
当時の日本の若い女性ファンは、どんな気持ちで映画館に足を運び、どんな感想を持って家路についたのでしょう?当時、青春の真っただ中にいた現在80代の女の子たち・・・。彼女たちは3人の美しいアイドル女優と楽しそうに戯れているふかふかの真っ白なセーター、そして革ジャンが似合うブルーグレーの眼をしたイケメンのフランス人に初めて出会い恋に落ちたのです?
>(-略)そう、金鎖のペンダントの似合う素肌に揺れる『お嬢さん、お手やわらかに!』の若者も、粋な軍服姿の『恋ひとすじに』の竜騎兵も、宝塚の男役を思わせる、ほとんど倒錯的なスウィートネスでした。
ハンサムでした。イイ子でした。あの女殺しの、女泣かせの眼千両。まあ、こんな若僧なのに、と。末おそろしいわ、と。(略-)
【「デラックスカラーシネアルバム5 アラン・ドロン 凄艶のかげり、男の魅力「アラン・ドロンへのラブレター アラン・ドロンさま まいる」南俊子」南俊子責任編集 芳賀書店)】
アラン・ドロン―凄艶のかげり、男の魅惑 (1975年) (デラックスカラーシネアルバム〈5〉)南 俊子 / 芳賀書店
『お嬢さん、お手やわらかに!』は、まぎれもなく、彼の記念すべき代表作品であるのです。
初めて、アラン・ドロンが日本中の女性たちの恋人になった作品として!
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『栗色のマッドレー』~アラン・ドロン、第72回カンヌ国際映画祭での名誉賞受賞 その2~
http://zidai.exblog.jp/28524494/
2019-08-17T04:24:00+09:00
2020-09-05T02:14:32+09:00
2019-08-17T04:23:35+09:00
Tom5k
栗色のマッドレー
なお、私生活において、恋人同士のままの婚姻届を無視した自由な恋愛関係を続けていたアラン・ドロンとミレーユ・ダルクでしたが、この二人の関係については日本でも、映画スター「アラン・ドロン」の有名な背景として、非常に話題性に富んだものでした。彼らの年齢や立場におけるこのような関係は当時の日本では現実的ではありませんでしたし、多くの日本のアラン・ドロンのファンの間でも俗世間と乖離したファンタジーと云っていいほど別世界のことでもありました。
もしかしたら、このようなスキャンダラスでありながらも美しい自然な男女の在り方を私生活においてまで体現していたこと・・・このことに関してさえも、映画スター「アラン・ドロン」としての要件の一つであったのかもしれません。
>女というものは結婚契約によって保証されると全く異なった存在になってしまうものだ。私は自分の人生のための契約書にサインすることはできない。私は自分の独立と自由とを愛する。(略-)
【「シネアルバム⑭ 血とバラの美学/アラン・ドロン アラン・ドロン語録(訳・編=田山力哉)」芳賀書店(1972年)】
アラン・ドロンのすべてを受け入れ、彼と愛し合っていたミレーユ・ダルク、彼女が、彼の女性遍歴(現在進行のものも含めて)すら許し、私生活の上でも最大に彼を受容していたことは、当時のアラン・ドロンのファンの間で常識になっていたことも事実です。
『栗色のマッドレー』もそんな二人の関係を美しく描いた作品だと思って観ていたのですが、彼女の演じた主人公が、彼の女性関係に嫉妬して感情を露わにしていた部分があり、そこに驚かされた記憶も残っています。この作品の原作がミレーユ・ダルク自身であったことからも意外な展開だと感じたのです。
いずれにしても、いくらアラン・ドロンが好きで彼のことを興味深く注視していた私であっても・・・当時、ようやく好きな女の子と毎日どきどきしながら交換日記をしていた中学生の私にとっては、『高校教師』(1972年)や『個人生活』(1974年)のようなエロティックで美しい作品を含めて、大人のラブ・ロマンスを理解することまでは到底及ばないことでした。
ただ、そんな未熟な私であってさえ、アメリカ映画にはないフランスという風土から発するヨーロッパの香しさをこの作品から感じ取っていたことも間違いないことなのです。
大スター、アラン・ドロンにおいて、ヨーロッパのダンディズムをモニュメンタリ―に描写できていたのは、当時、ピエール・グラニエ・ドフェール監督の作品と電通・三船プロ制作、小林亜星の音楽によるダーバンのCMなどが典型的であったと考えますが、それらの映像や音楽以上に『栗色のマッドレー』には、アラン・ドロンとミレーユ・ダルク、共演した有色の美女ジェーン・ダヴェンポートをもって、美しく優美なヨーロッパ、特にフランスの情緒がカメラに捉えられていたことは理解できていたと思います。
それにしても、監督のロジェ・カーヌはTVドラマを主に活躍していた演出家だったようですが、あまり日本では馴染みがありません。この作品では素晴らしい映像を創造することができていたように思うので、もっと活躍してほしかったと残念に思っています。
また、映画評論家の南俊子氏のアラン・ドロンに関するコラムは当時の映画雑誌等では、日本の彼のファンの代弁者として最も一般的なものでした。この『栗色のマッドレー』の鑑賞に当たっても彼女の批評を私なりに随分と参考にしていたようにも記憶しています。
【(-略)・・・たとえドロンが美しかろうと、どんなに金持ちになろうとも、ヴィスコンティの天性に磨きをかけたエレガンスには及ぶべくもない。
だがヴィスコンティという、この芸術至上主義の完全主義者に可愛がられ、彼に憧れ心酔することで、すくなくともドロンは〝美”なるもの、その深淵をのぞきみる機会に恵まれた。本を読むこと、音楽を聞くこと、すぐれた美術品に接すること。なにがマヤカシで、何が本物の美か。それを見分ける眼も、ヴィスコンティを見様見真似することで、ひらかれていったはずだ。むろん、若いドロンにとっては背伸びであったし、所せんはスノッブでもあろう。
だが人間は、特に若者は〝知らない”よりは〝知った”ほうがいい。・・・(略-)】
【シネアルバム⑥ アラン・ドロン 孤独と背徳のバラード「アラン・ドロン バイオグラフィー 南俊子」 芳賀書店(1972年)】
若い頃の彼の俳優としてのスキルに加えて人間性としてのインテリジェンスにまで、師の一人であったルキノ・ヴィスコンティが大きな影響を与えていたのでしょう。
後年、アラン・ドロンも自身のキャリアの実績を次のように振り返っていました。
>アラン・ドロン
(-略)ヴィスコンティがこう言ってた:「キャリアを築くのは、建築のようなものだ、基礎工事が肝心だとね。」私の基礎は、ヴィスコンティ、クレマン、メルヴィルにロージーだね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18「回想するアラン・ドロン:その6」(インタヴュー和訳)」】
前述してきたように、40年以上前にテレビ放送されたときの『栗色のマッドレー』の詳細な内容は覚えてはいませんが、アラン・ドロンとミレーユ・ダルクとの私生活も含めたスター像も相まって、この作品の主人公達の印象は私の中に強く残りました。
その根源にあったエレガンスが、ルキノ・ヴィスコンティの美意識のアラン・ドロンへの影響によったものだと、当時でも私なりに解釈しようと努めていたからかもしれません。
さて、人気全盛期のアラン・ドロンの女性観については、当時の種々に渉る書籍中の彼の語録などから私なりに理解していたことがあります。例えば、ほんの一部ではあるのですが、次のような彼の言動はその代表例です。
>ウーマン・リブの運動をやっているような女は、あまり好きじゃないね。男と女が社会的に平等になることは必要だと思う。だが男女の間には心理的な相違があるのだ。世界の誕生いらいそうだったのだ。そして終わりまでそうだろう。女たちがズボンをはき、ネクタイをしめ、ジャンパーを着ようとも、女はやっぱり女のままだ。それがポイントだ。
【「シネアルバム⑭ 血とバラの美学/アラン・ドロン アラン・ドロン語録(訳・編=田山力哉)」芳賀書店(1972年)】
>男と女が同権であるべきだという説には賛成だ。しかし女が同権だと特権じみた脅迫をするのに対して嫌悪感を催す。男が男の特権を見せびらかすのが鼻持ちならないのと同じように-。
【「スターランドデラックスVOL4 アラン・ドロン」徳間書店、1977年】
なお、アラン・ドロンの尊敬する女優は、シモーヌ・シニョレとジャンヌ・モローです。
特に、シモーヌ・シニョレは夫のイブ・モンタンとともにフランス社会党支持者として多くのデモや活動に参加していた典型的な左派系の人物でしたし、ジャンヌ・モローでさえ、アラン・ドロンとは全く対極にある「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品で国際的な名声を得た女優でした。そして、フランスのシネマアーカイブとして名立たるシネマテーク、その代表であったアンリ・ラングロワが解任された際にはイブ・モンタン、シモーヌ・シニョレ、フランソワ・トリュフォーとともに抗議行動を行ったこともあります。
二人がウーマンリブの運動や男女同権を唱えたことがあったかどうかまではわかりませんが、上記のアラン・ドロンの言説から、彼がこの二人の女優を敬愛していたことが、私には結びつきませんでした。
アラン・ドロンは、自身の女性観とのアンマッチがあったとしても女優としての優れた功績、実力をもった女性には敬意を示していたのだろうと思うわけです。逆に捉えれば、彼の上記の女性観は厳密な意味での女性観ではなく、彼の「恋愛対象における女性観」に限定されていたようにも思うのです。
ところで、アラン・ドロンが「差別主義者・同性愛者嫌い・女性蔑視者」であることから、カンヌ国際映画祭での彼の名誉賞授与に対して、アメリカの女性活動家が反対運動を起こし2万7千筆の署名を映画祭の運営者に送り付けたと伝えられていたことは記憶に新しいことです。
しかし、この名誉賞授与の反対理由の内容は、私からすると全く説得力を持ち得ていないものです。
アラン・ドロンへのこの批判への私としての反批判の根拠は次のとおりです。
>「差別主義者」について
共産主義者でハリウッドを赤狩りによって追われていたジョセフ・ロージーとの親交や『栗色のマッドレー』のプロデュース、シモーヌ・シニョレへの敬愛を鑑みれば・・・。例えば、「差別主義者」とまでは言わずとも、強いアメリカ、正義のアメリカを体現していたハリウッドのタカ派俳優の代表、ジョン・ウェインやシルベスター・スタローンが、
監督においては、ルキノ・ヴィスコンティやミケランジェロ・アントニオーニ、ジョセフ・ロージー、そして、ジャン・リュック・ゴダール、俳優においては、シモーヌ・シニョレやイブ・モンタン・・・果たして彼らと一緒に仕事をする可能性があったでしょうか?
有色の女性に夢中になって恋人を嫉妬に駆り立てるような作品を自ら製作・出演するような要素が彼らにあったでしょうか?
彼らとシモーヌ・シニョレとの共演など想像することもできませんし、共演したとしても、それぞれの俳優としての特質においても全くかみ合うものはありません。まして彼らがヨーロッパの社会主義者を尊敬するはずがありません。
>「同性愛者嫌い」について
フォルカー・シュレンドルフ監督による『スワンの恋』(1983年)出演でのシャルリュス男爵役の好演!そもそも、アラン・ドロンが同性愛者嫌いであるならば、この映画でのこの役への出演オファーは受けないでしょう!?
また、真偽のほどは別として、アラン・ドロン自身がホモ・セクシャルであったという噂は有名ですし、彼もそれを否定してはいませんでした・・・ルキノ・ヴィスコンティやルネ・クレマンに、そういった意味でも寵愛されていたこと・・・有名な逸話です。
>そして、「女性蔑視者」について
アラン・ドロンが1977年に三船プロダクション創立15周年の記念式典に招聘されて来日した際のインタビューで、彼は次のように答えています。
>日本の女性は?
>アラン・ドロン
オー、女性に関しては日本のと固定してはいけない。女性は国別、人種別、色別を超えた存在だ。日本女性ももちろん素晴らしい。
【「スターランドデラックスVOL4 アラン・ドロン」徳間書店、1977年】
疑う者は『栗色のマッドレー』を見よ!ってとこでしょうか。
そして、アラン・ドロンのカンヌ国際映画祭「名誉パルムドール」の授与に関するコラム記事を北海道新聞紙上に記した林瑞恵氏はその記事を、彼とルキノ・ヴィスコンティやジョセフ・ロージーとの過去の親交や女性監督の映画に出演したがっている最近の言動などの逸話を交えながら、次のように締め括っています。
「(-略)有名仏週刊誌ル・ポワン誌のアンケートでは、回答者の87%がドロンの名誉賞受賞に賛成だった。ドロンをよく知る国民から見ると、彼への批判は的外れのようだ。
有名人であれば影響力も大きく、言動には責任は伴う。しかし、実際に被害者から訴えられているわけでもない人について、以前の言動を一部抜き出して非難するのはいかがなものか。(略-)」
【「林瑞絵が見たカンヌ映画祭㊦アラン・ドロンの名誉賞論争」(2019年(令和元年)6月11日付け北海道新聞(夕刊)「芸能」欄 林瑞絵)】
そして、過去にアラン・ドロンは、こんなことも云っています。
>ファンは、俳優がスクリーンの中で女たらしを演じると喝采するのに、実生活では聖人であることを要求する。まるでマルグリット・ゴーチェの時代みたいに保守的なんだなあ。
>ぼくにとっては好きな人間と嫌いな人間の二種類しかいない。その中間はない。だからぼくに対しても、人々は好きか嫌いか、はっきりわかれると思う。でもそれでいい、ぼくは妥協して生きたくない。
何十年も前の若い頃の彼の言葉ですけれど、今現在、彼がこう云ったとしても全く違和感がありません。80歳代を超えてもなお・・・、老境の域に達してもなお、アラン・ドロンは一貫しています!
そして、私はそんなアラン・ドロンに精一杯の声援を贈りたくなってしまうのです。
頑張れ!アラン・ドロン! と。
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『パリの灯は遠く』⑤~アラン・ドロン、第72回カンヌ国際映画祭での名誉賞受賞 その1~
http://zidai.exblog.jp/28487620/
2019-07-28T14:03:00+09:00
2019-10-27T13:45:12+09:00
2019-07-28T14:03:43+09:00
Tom5k
パリの灯は遠く(5)
現在でも何かと話題に事欠かないアラン・ドロンではあるのですが、私としては特にこの受賞に関して様々な想いが沸き上がってきます。
カンヌ国際映画祭については、過去、アラン・ドロンは、
>カンヌ映画祭のようなコンペは、フィルム市場にとっても、また映画の威信にとっても必要なことであろうことは認める。しかし賞を予想するということは二次的な行為であり、全くバカげたことである。
と、過去にシニカルな発言をしていたことがあります(「・・・必要であろうことは認める。・・・バカげたことである・・・」なんて、随分、上から目線ですが・・・(笑))。これは、第一線のスターであった1970年代の発言のようですが、明らかに、俳優そして製作者として、自らの出演・製作作品への批評・評価を意識したうえで、映画祭へのジャーナリズム、映画祭における低い世論の在り方に反発していたもののように私は感じます。
そもそも映画賞とは如何なるものなのか、その年の中でどのような功績に授与するものなのか?その権威とは何なのか?
カンヌ国際映画祭は、例年、南部の海岸コート・ダジュールのカンヌで国際映画祭として開催され、ベルリンやヴェネツィアの国際映画祭とともに「世界三大映画祭」と言われていますが、他の映画祭と異なり、国際見本市にも知名度があります。世界中から映画作品を売り込むために映画プロデューサー、各国スター俳優などが集まってくるそうなのです。映画のバイヤーたちが観客動員できる映画を予想し買い付けするためのプレゼンテーションも恒例となっているようです。前記のアラン・ドロンのカンヌ国際映画祭への言及は、この辺りへの関心によるものと思われます。
なお、この映画祭の当初の設置目的には、非常に政治的な経緯もありました。1930年代、ヴェネチア映画祭へのムッソリーニの介入による影響が顕著になったことへの対抗戦術によるもので、フランス映画界のみならずフランス政府としても、重要な文化施策の主催事業、迫りくるファシズムに対抗するための国家的施策の側面も持っていたようです(実際に開催できるようになったのは戦後だったそうですが・・・)。
また、1968年にはフランス国内の学生や労働者の大デモンストレーション、五月革命の余波を受け、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなど、いわゆる「新しい波(ヌーヴェル・ヴァーグ)」のアカデミズムを否定した運動によって中止に追い込まれる事態に至ったこともありました。
今回の林瑞絵氏の記事には、カンヌ国際映画祭におけるアラン・ドロンの受賞歴(非受賞歴?)に言及しています。
「(-略)出演作はカンヌで、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」(1962年)が審査員特別賞を、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」(63年)が最高賞パルムドールを受賞しているが、ドロン自身が直接受賞したことはなかった。(略-)」。
このことに関しては、アラン・ドロンのファンとして、彼の俳優人生60年あまりの中でも見過ごせない事実であります。
アラン・ドロンの代表作品が、ルネ・クレマン監督との『太陽がいっぱい』であることは、今更、言わずもがなですし、当時、婚約者だったロミー・シュナイダーとともに、舞台を含めたルキノ・ヴィスコンティ一家としての活躍、ミケランジェロ・アントニオーニ監督作品への「内的ネオ・リアリズモ」作品への出演、人気全盛期のジャン・ギャバンとの共演やジャン・ピエール・メルヴィル監督、ジョゼ・ジョヴァン二監督らの作品への出演による私生活での暴力団との交友関係をキャラクターに反映させていった「フレンチ・フィルム・ノワール」作品での活躍。 日本が誇る大スター、三船敏郎との交友、同世代のフランス人気スターであったジャン・ポール・ベルモンドとライバル関係にあったことも・・・。
これらのことは、アラン・ドロンのヨーロッパにおける映画業績、国際的大スターとしての位置付けとして既に一般論でしょう(今回のカンヌ国際映画祭でも、彼の授与式典の舞台奥には『太陽がいっぱい』の写真が背景に使われ、ビーチシネマでは『地下室のメロディー』が屋外上映され、レッド・カーペットでは『シシリアン』、式典の登壇では『ボルサリーノ』のテーマ曲が流されました)。
また、世界の映画界を席巻した「ヌーヴェル・ヴァーグ」に対抗し、国際派のスターでありながらも伝統的なフランス映画の作風を自らのアデル・プロダクションの作品で製作・出演し続けていった実績・・・初期のカンヌ国際映画祭での監督賞には、アラン・ドロンの師匠達(ルネ・クレマン『鉄路の戦い』(第1回)、『鉄格子の彼方』(第2回)、クリスチャン・ジャック『花咲ける騎士道』(第4回))の受賞もあります。
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このような栄えある彼の実績が、今回のカンヌでの名誉賞授与の選定理由であったことは当然のことです!
しかしながら、アラン・ドロン本人にとっては、この映画祭には彼独自の長年の想い、それも無念の想いもありました。
>ロージー監督と撮った2本の作品『暗殺者のメロディ』と『パリの灯は遠く』を再見すると、 出来栄えがかなり違いますね。
>アラン・ドロン
『パリの灯は遠く』はその主題に感心させられるからだろう。
>それだけではないと思います。脚本を読んだだけなら、こんな人物を演じられるのは誰だろうと思いますよ。
>アラン・ドロン
そう言ってくれて嬉しいよ、ありがとう!そんな事を言ってもらったことはなかったね。『真夜中のミラージュ』でセザール賞を受賞したのはとても嬉しかった。でも『パリの灯は遠く』では映画とは全く無関係な理由でカンヌ映画祭で主演男優賞をもらえなかったのには傷ついた。私にとっては、何にもまして重要な作品だったんだ。あの年の男優賞を誰が取ったのかもう誰も覚えていないだろう・・・『パリの灯は遠く』と『ポーカー・フェイス』の区別さえしないマスコミを恨んだよ。『パリの灯は遠く』は、私の顔では、大胆な演技が要求されたのにね。役作りに腐心した人物だったんだ!
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その6(インタヴュー和訳)」】
つまり、彼は当時のカンヌ国際映画祭において、『パリの灯は遠く』による演技で男優賞を受賞できる実績があったにも関わらず、それを果たす事ができなかった彼なりの悔しい現実を後年まで引きずっていたのです。
「・・・映画とは全く無関係な理由でカンヌ映画祭で主演男優賞をもらえなかった・・・」
この【映画とは全く無関係な理由】が一体何なのか・・・ファンにとっては実に気になるところなのですけれど、そこは主催者側から公表されるはずもないでしょうし、深堀りしたとしても、アラン・ドロン本人だけの自己への過大評価の認識として返されてしまう不毛で危険な論証になりかねません。
そう考えると、なおのこと彼にとっては無念の想いが強かったのではないでしょうか?!
アラン・ドロンのファンとして、いや、映画を愛好する者の一人として、絶対に忘れてならないアラン・ドロンの映画史的実績・・・。
それが、ジョセフ・ロージー監督作品への出演だったはずなのです!
監督したジョセフ・ロージーもアラン・ドロンの演技を絶賛しています。ほんの一部でしかありませんが、抜粋します。
>・・・ブーイが別れしなに「幸運を祈りますよ、ムッシュー・クライン」と言葉をかけると、彼はそこで初めて鏡の中に映る自分の姿に目を留め、自問する。「ムッシュー・クラインとは何者なのだ?」と。私にとって重要なシーンは、夜中に一人、例の絵と向き合うところ、ヴェル・ディーヴの一斉検挙が始まる直前だが、ここでのアランは実に素晴らしい演技を見せていると思う。キャンパスの中の紳士と同じ強張った姿勢を、アランにとってもらった。アランは絵の人物になりきった。
【引用~『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年(以下、『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』)】
追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージーミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢日本テレビ放送網
また、人物辞典などに載せられるアラン・ドロンの紹介内容に次のようなものもあります。
「ドロン・アラン Alain Delon 1935・11・8~ フランスの映画俳優。パリ郊外ソーの生れ。『太陽がいっぱい』で日本でも大スターとなった。
パリの市場レアールのポーターだった彼はその顔立ちの良さで1957年映画入りする。
-(中略)-
特に『パリの灯は遠く』は日本ではあたらなかったがヨーロッパでは第一級の作品として監督のジョセフ=ロージーと共に記憶されている
(略)-(梅本洋一)」
『20世紀 WHO‘S WHO 現代日本人物事典』(1986年11月10日発行 旺文社)
そして、この無念の1977年第30回カンヌ国際映画祭から40年あまりを経た2019年第72回カンヌ国際映画祭の舞台で、アラン・ドロンに「名誉パルムドール」が授与されたのです。
林瑞江氏のルポルタージュは続きます。
「・・・授賞式後は彼が製作者兼俳優として活躍したジョセフ・ロージー監督の「パリの灯は遠く」(76年)が上映された。・・・」
本当にようやくです。カンヌが認めた彼の実績!
アラン・ドロンの名演が・・・『パリの灯は遠く』の一世一代の名演がやっと・・・
本当に良かったです。
ありがとう!カンヌ国際映画祭!
おめでとう!アラン・ドロン!
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『ハーフ・ア・チャンス』~娘の父親として ジャン・ポールとともに③-②~
http://zidai.exblog.jp/26373111/
2017-12-31T03:42:00+09:00
2019-03-03T00:41:33+09:00
2017-12-31T03:42:15+09:00
Tom5k
ハーフ・ア・チャンス
さて、次に、『ボルサリーノ』以後、『ハーフ・ア・チャンス』までのアランとジャン・ポールの作品を少し振り返ってみましょう。
まず、ジャン・ポールですが、『ジャン・ポール・ベルモンドの恐怖に襲われた街』(1975年)などのノースタントの「アクション映画」は、初期の『リオの男』(1963年)以来、一貫していました。そして、『ベルモンドの怪盗二十面相』(1975年)などの「アクション・コメディ」や『ラ・スクムーン』(1972年)、『パリ警視J』(1983年)などの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品において、その本領を発揮して人気を博していったことは今更、コメントなど必要ないかもしれません。
リオの男 [DVD]ジャン=ポール・ベルモンド,フランソワーズ・ドルレアック,ジャン・セルヴェ,シモーヌ・ルナン,アドルフォ・チェリ/ポニーキャニオンundefined
ラ・スクムーン 【ベスト・ライブラリー 1500円:隠れた名作特集】 [DVD]ジャン=ポール・ベルモンド,クラウディア・カルディナーレ,ミシェル・コンスタンタン/ジェネオン・ユニバーサルundefined
パリ警視J [DVD]ジャン=ポール・ベルモンド,ヘンリー・シルバ,カルロス・ソット・マヨール,チェッキー・カリヨ/東北新社undefined
また、『薔薇のスタビスキー』で、往年の「ヌーヴェル・ヴァーグ」左岸派の映画作家のアラン・レネと組むなど、彼の原点に立ち返った代表作も生み出しています。
薔薇のスタビスキー HDマスターDVDジャン=ポール・ベルモンド、シャルル・ボワイエ、アニー・デュプレー、フランソワ・ペリエ、ミシェル・ロンズデール、クロード・リッシュ、ロベルト・ビサッコ、ジジ・バーリスタ、ジェラール・ドパルデュー、ジャック・スピエセル/IVC,Ltd.(VC)(D)undefined
このように様々な作風の作品で器用に、そして自然に演じることを得意としていた彼でも『Joywuses Paques(ソフィー・マルソー/恋にくちづけ)』(1984年)でのソフィー・マルソーとのロマンスは、不自然極まりない設定だったと私は感じました。はっきり言って実にみっともない中年オヤジの恋愛だったと思います。
ソフィーマルソー 恋にくちづけ [DVD]ソフィー・マルソー,ジャン=ポール・ベルモンド,マリー・ラフォレ,ロジー・ヴァルト,パトリック・ロッカ/ポニーキャニオンundefined
一方、アランは、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品において、早くから実に多くの作品で「父性」をテーマとして追求していきます。なお、ほとんどの作品で、彼の寵愛を受ける対象は娘ではなく息子でした。『ビッグ・ガン』(1973年)、『ル・ジタン』(1975年)、『ブーメランのように』(1976年)、そして、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品ではありませんが、『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)、『Le passage』(1986年)・・・。
息子は、父親にとって同志であり、後継者であり、何より自分の分身です。息子の悩みや苦しみなど手に取るようにわかります。初めて息子の机の引き出しから見つけたエッチ本やPCの履歴に残されたエッチ動画を母親が理解することは恐らく不可能でしょう。そこには嫌悪と不安しか発生しません。しかし、父親には同性であるが故の何とも言えない仲間意識がこの時期に芽生えるものなのです。
恋に破れてしょげ返っている我が息子の情けない涙を理解することもたやすいことでしょう。父親としての息子への真の役割は、この段階で発生します。
あくまで私見ですが、父親の存在など、息子にとって、初めてオナニーを覚える年齢からで十分だと考えています。男の子は、それまで母子家庭であっても全く問題無く育つのです。少し淋しい考え方ですし極論ではありますが、誤解を恐れずはっきり申し上げれば、小学校の運動会や学芸会などは父親の出番ではないと、私は思っています。
また、サラリーマンとして単身赴任の辞令を断る時期は、息子が幼い時期ではありません。父親としての単身赴任への拒否や解消は息子の思春期以降なのです。この時期から父親と息子は最も自然な素晴らしい関係を構築していくことが可能になるからです。
しかしながら、男親にとっての娘の存在、これは息子との関係とは全く異なります。最も難しく、最もデリケートで、そして最も男の人生で歓びと心配に溢れてくるせつなくて、美しいものであると私は思っています。
娘への愛情は、息子に対する父性の感情とは根本的に異なる精神環境になります。
残念なことに、ある時期以降、娘が父親を侮蔑し嫌悪することは一般的です。息子とは全くの逆で・・・この時期が娘の思春期であること、そして、彼女たちの父親は例外無く、この地獄を経験します。
娘に何を話しかけてもまともな返事をしてくれない家庭での極寒の身の置かれ方が訪れるのです。不潔なものを見るような怜悧な表情、その厳しい視線のなかで毎日を過ごすことになります。
もちろん、入浴は娘の後でなければなりませんし、トイレで大をするときは娘がいないときを見計らわなくてはなりません。風呂上りに下着姿で居間をうろうろ歩くことは論外ですし、おならやゲップは言うまでもないでしょう。挙句の果てに洗濯については、
「お母さん、お父さんの洗濯物と一緒に私のを洗わないでよ」
これらは99.9%以上の「娘の父親」として経験する重い苦悩ばかりの時期なのです。
さて、映画の話題に戻りましょう。
アラン・ドロンは、ある時期から共演者として非常に違和感を伴う女優を選ぶことが多くなったように感じています。
それは、『友よ静かに死ね』(1977年)のニコール・カルファンあたりからでしょうか?ジャン・ポールの『Joywuses Paques』のソフィー・マルソーに負けず劣らず、実に不自然な相手のように私には見えてしまうのです(賛否両論があるとは思いますが・・・)。
『Le choc』(1982年)のカトリーヌ・ドヌーブか、せめて『Notre histoire』(1984年)のナタリー・バイあたりでやめときゃいいのに・・・
『Le toubib』(1979年)のヴェロニク・ジャノット、『危険なささやき』(1981年)や『Le battant』(1983年)のアンヌ・パリロー、『Parole de flic』(1985年)のフィオナ・ゲラン・・・。
これらの作品でのジャン・ポールとアランは、「父親」のくせに「男」なのです。私には世の母親やその娘達の声が聞こえてくるようにまで思います。
「まあ、ほんとに、いやらしいわね。」
これらのジャン・ポールやアランの作品でのロマンスは、思春期の娘にとって最も嫌悪する若い女性へのオスとしての性欲が垣間見えてしまう典型的な、そして最もみっともない父親のラブ・ストーリーだったと言えましょう。
このような場合、日本では思春期を迎えたほとんどの女の子が、顔をしかめてこう言うでしょう。
「うわあ、お父さん、キモ~い。」
本当に情けない話です。
でも、さすが、賢明なジャン・ポールとアランです。そうこうしているうちに、彼らは少しずつ気づいていきます。
まず、ジャン・ポールは、『ライオンと呼ばれた男』(1988年)で父性に目覚めるきっかけをつかんだように思うのですが、ここでもまだ、家族、特に娘からこれほど愛されているにも関わらず、そして、彼もまた家族を心底愛しているのですが、男のロマンを優先してしまい、残念なことにその距離感を縮めることができないままだったのでした。
その後、『レ・ミゼラブル~輝く光の中で~』(1995年)の出演において、ようやく彼は娘との距離感をつかむことができたように思います。ヴィクトル・ユーゴー原作のあの有名な主人公ジャン・バルジャンからの孤児コゼット(=サロメ・ジマン)への深い愛情は言わずもがなでしょう。
この2作品は最も女性にデリケートなクロード・ルルーシュ監督が演出した作品ですから、このあたりでジャン・ポールが娘への父性に目覚めていったことは間違いないでしょう。
Itinéraire D'un Enfant Gâté / ライオンと呼ばれた男 [ PAL, Reg.2 Import ] [DVD]Jean-Paul Belmondo,Richard Anconina/nullundefined
レ・ミゼラブル~輝く光の中で~【字幕版】 [VHS]ワーナー・ホーム・ビデオnull
次に、アランですが、1990年、彼にはオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメンとの間にアヌーシュカという最愛の娘が誕生します。ただでさえ、子煩悩な彼はこの娘の誕生に狂喜乱舞したことと思います。その影響が大きかったのでしょう。その2年後に製作した『カサノバ最後の恋』(1992年)では、過去の自分とロミーとの初恋の現実に向き合い、新たな女性観を持つことに到達することができたように思います。
【『カサノヴァ最後の恋』~恋ひとすじに、過去への郷愁~】
なにぶん、アランの場合は、ジャン・ポールと異なって、かなり好戦的で屈折したプロセスを経ているとは思いますけれど・・・。
いずれにしても、彼らはこれらの作品で自己の女性観を締めくくり「娘の父親」としての「父性の歓びを得る権利」を獲得し得る土台を築けたのではなかろうかと私は考えているところなのです。
そして、ようやく『ハーフ・ア・チャンス』で、彼らが巡り会ったものの中に、従来から演じてきたギャングスターや殺し屋、強盗、刑事などが主役である「フレンチ・フィルム・ノワール」作品とは大きく異なるテーマがあったのです。それは<男の人生にとって女性とは如何なる存在なのか?>という本質的な問いかけでした。いよいよ彼らの気づきが、この作品によって大きく開花することになります。
その「女性」なるもの。
そう、それが「娘」という最も崇高な存在でした。
その素晴らしい女性である「娘」に受け入れてもらえる父親としての在り方、その歓び。これは本当に何物にも代えがたい男としての人生最大の至福のときだったでしょう。
「娘」という存在を機軸にして父性に目覚めた男として・・・その最大の歓びを感受できた結果が、『ボルサリーノ』以来、28年ぶりに『ハーフ・ア・チャンス』でのジャン・ポールとアランの共通の成果だったのはないでしょうか?彼らはヴァネッサ・パラディという素晴らしい逸材を娘役に迎え、彼女との父娘関係のファクターを通して新たな友情を発見することができたのだと思います。
二人の父親は、最愛の娘を命がけで守り、彼女が自信を持って生きていけるように一見不可能なことにも果敢に挑戦していきます。どんな危険に直面しても彼女のために勇敢に闘い、彼女にとって温かく落ち着いた存在でありたいと必死に努力します。
一方で、いつも、彼女が一番好きなものを理解しようとし、その目線に立って一緒に楽しみ、どんな大事な仕事よりもそれらを優先します。いつも彼女に真剣に接し、母娘・妻とは異なる新たな=父娘=の世界を創ることを至福の歓びとするのです。
娘のバネッサの満足そうな様子、父親であるジャン・ポールとアランの戸惑いながらも幸福そうな表情・・・。
観ている観客も心が締め付けられるような歓びを彼らとともに共有することになります。
ですから、娘に恋人が出来たりすることは過去のどんな失恋よりもつらいことなのです。
もし、彼女が他の男性を愛してしまったら・・・父親にとって娘の存在しない生活なんて全くの無意味となります。淋しくて、哀しくて、もう楽しいことなんて、この先に何にも無くなってしまうような気がしてしまいます。
もしかしたら、アランは、この『ハーフ・ア・チャンス』の出演でそんなことに気づき、俳優業を引退する決意を固めたのかもしれません。きっと、映画なんかに出ているより、娘のアヌーシュカと少しでも一緒の時間を過ごしたいと考えたでしょう。
彼にとっては、過去のロミーやナタリー、ミレーユ、ロザリーとの愛を失った経験より、アヌーシュカとのお別れの方が何倍もつらいことだと・・・そんな淋しく哀しい予感が訪れた、そんな結論から「俳優からの引退」に至ったように私には感じられるのでした。
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『ハーフ・ア・チャンス』~娘の父親として ジャン・ポールとともに③-①~
http://zidai.exblog.jp/26373023/
2017-12-31T03:22:00+09:00
2021-01-01T14:10:36+09:00
2017-12-31T03:22:16+09:00
Tom5k
ハーフ・ア・チャンス
日本で人気が低迷してからのアラン・ドロンにも、少ない情報ながら私はいつも注意深く関心を傾けていたのですが、
『私刑警察』(1988年)で、アラン・ドロンが出演・製作してきた作品の作風とは全く異なる「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品で活躍していたラウール・クタールを撮影監督に迎えたときも、
【『私刑警察』③~「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映像、ラウール・クタールのカメラ~
『私刑警察』④~燃えるように輝くアラン・ドロンの青い瞳、ラウール・クタールのカメラその2~】
『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)でジャン・リュック・ゴダール監督の作品で主演したときも、
【『ヌーヴェルヴァーグ』①~ゴダールが撮ったアラン・ドロン~ 『ヌーヴェルヴァーグ』②~映画とは? ゴダールの主張、そして巨匠たちの共通項「アラン・ドロン」~
『ヌーヴェルヴァーグ』③~ゴダール&ドロンの共通点、それは映画の大衆性ではなかったか?!~
『ヌーヴェルヴァーグ』⑤~ゴダール&ドロンの作品って!?~】
『カサノヴァ最後の恋』(1992年)で、かつて若かりし頃の「ロミーとアラン」の現実に向き合い、
【『カサノヴァ最後の恋』~恋ひとすじに、過去への郷愁~】
『百一夜』(1992年)でアニエス・ヴァルダのフランス映画史の批判的総括をゴダールとともに受けたことも・・・。
【『百一夜』②~「新しい波」から見たアラン・ドロン~】
そして、いよいよ、往年のライバルでもあった盟友、ジャン・ポールとの共演作品『ハーフ・ア・チャンス』への出演、しかも、この作品で引退するなどと宣言したのですから・・・私としては、1988年以降のアラン・ドロンの動静には驚いてしまうことばかり・・・でした。
最近では、2018年に向けて、パトリス・ルコント監督、ジュリエット・ビノッシュとの共演作品を最後に、とうとう「キャリアの引退」を宣言・公表したのです。「もう年を重ねた。人生の終わりではないが、キャリアの終わりだ」とのことだそうです。
それにしても、アラン・ドロンの引退宣言は、私の知る限りこれで3度目です。初めは『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)の撮影中?撮影後?・・・1975年頃でしょうか?・・・2度目が『ハーフ・ア・チャンス』の頃・・・1998年頃です。
恐らく、その都度ご本人は本当に引退するつもりで、このような宣言をしていたのだとは思いますが、本気でそのキャリアに終止符を打つなら、別に「引退」というものをわざわざ宣言することもない・・・のではないでしょうか?今回も、わざわざ~人生の終わりではないが~などと、逃げ道を残しているように私には感じられるのです。
何故って?
だって、引退するなら、宣言するまでもなく、映画出演のオファーを単に断り続ければいいだけですから(笑)。
もちろん、もうかなりのご高齢ですから、結果的に「キャリアの終わり」になるかもしれませんけれど・・・。正直、健康状態が維持できて、気に入ったオファーが来れば、また映画出演を引き受けるのではないかとも察してしまい、私はあまり淋しい気持ちにならないのです。
とにかく、話題作りの天賦の才能とその一本の作品に本気で取り組む気概などから、このような引退宣言(引退の決意)になってしまうものなのだと、ファンとしては理解するべきでしょう。
さて、この『ハーフ・ア・チャンス』でのジャン・ポールとの共演。
デビュー間もない二人が『黙って抱いて』(1957年)で共演した後、全く異なる映画体系で活躍することになっていったにも関わらず、その後はともに「フレンチ・フィルム・ノワール」の作品へと接点が近づいていったこと。これは本当に不思議なことです。
そもそも、ジャン・ポールの出世作となった『勝手にしやがれ』(1959年)は、ジャン・リュック・ゴダールが1940年代の「フィルム・ノワール」で中心的活躍をしたハンフリー・ボガードにオマージュを捧げた作品でしたし、アラン・ドロンのデビュー作である『Quand la Femme s'en Mele』(1957年)は、いわゆる「パパの映画」の体系の映画作家であったイヴ・アレグレ監督での、しかも典型的な「フレンチ・フィルム・ノワール」でした。
彼らには、既にデビュー当時の出発点から共通項が存在していたのです。
勝手にしやがれ [Blu-ray]ジャン=ポール・ベルモンド,ジーン・セバーグ,ダニエル・ブーランジュ/KADOKAWA / 角川書店undefined
アランの側から見たとき、彼がジャン・ポールと共演する動機は、私なりの視点で【『ボルサリーノ』②~「詩(心理)的レアリスム」の伝統をジャン・ポールとともに①~】の記事に掲載したところではあるのですが、キャラクターは全く異なるものの、二人とも「フレンチ・フィルム・ノワール」作品に出演してきたことから共通点があったことも事実であるわけですし、やはり『ボルサリーノ』での共演は結果的には必然だったとも思うのです。
ジャン・ポールとアランは、ともに『ボルサリーノ』(1969年)まで、
「フレンチ・フィルム・ノワール」の代表的スター俳優、ジャン・ギャバンとの共演作品(『冬の猿』(1962年)、『地下室のメロディー』(1962年)、『シシリアン』(1969年))があり、
冬の猿 [DVD]ジャン・ギャバン,ジャン・ポール・ベルモンド,シュザンヌ・フロン/東北新社undefined
その「フレンチ・フィルム・ノワール」を徹底的に洗練させたジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品(『モラン神父』(1961年)、『L'aîné des ferchaux』(1962年)、『いぬ』(1963年)、『サムライ』(1967年))に出演し、
モラン神父 4Kリストア版 [Blu-ray]ジャン=ポール・ベルモンド,エマニュエル・リヴァ,イレーヌ・トゥンク/KADOKAWA / 角川書店undefined
An Honorable Young Man (L'aine Des Ferchaux)nullundefined
いぬ 4Kリストア版 [Blu-ray]ジャン=ポール・ベルモンド,セルジュ・レジアニ,ミシェル・ピコリ/KADOKAWA / 角川書店undefined
フランスのセリ・ノワール叢書の原作や映画作品のシナリオ、後に自ら「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を監督していったジョゼ・ジョヴァンニの作品(『墓場なき野郎ども』(1960年)、『勝負をつけろ』(1961年)、『冒険者たち』(1967年))に巡り会い、
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A Man Named Rocca [DVD] [Import]Jean-Paul Belmondo,Christine Kaufmann,Pierre Vaneck,Béatrice Altariba,Henri Virlojeux/nullundefined
更に、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品(『オー!』(1968年)、『さらば友よ』(1968年)、『ジェフ』(1969年))に出演し続けていきました。
オー! [DVD]ジャン・ポール・ベルモンド,ジョアンナ・シムカス,ポール・クローシェ,シドニー・チャップリン/アイ・ヴィ・シーundefined
そして、いよいよ、彼らは『黙って抱いて』から10年あまりを経て、「フレンチ・フィルム・ノワール」記念碑的作品である『ボルサリーノ』に到達するのです。
この久しぶりの共演まで、彼らや彼らとともに映画を製作していった周辺の映画人はもとより、世界中の彼らのファンすら気づかないうちに、とうのむかしからアクターとしての一致点が発生していたとも考えられるでしょうし、その一致点は徐々に熟成していったとも言えましょう。
もちろん、人気全盛期の彼らは、映画の一般的な諸作品評においては演ずるキャラクターが全く異なるものとして評されていました。それは、彼らの共通項としての「フレンチ・フィルム・ノワール」作品への出演においてさえ同様でした。
ジャン・ポールは、
【型破りの性格を、独特の個性で演じていた。(-中略-)暗黒街にあって、つねに八方破れ、組織からはみだしてしまうギャングに、おもしろい味をだしている。】」
一方、アランは、
【(-略)例のマルコヴィッチ事件がおこったのち、ドロンは、ひとまわりスケールを大きくしたようだ。むろん、私生活でも暗黒街人種であることの風格だ。(略-)】
【参考 『世界の映画作家18 犯罪・暗黒映画の名手たち/ジョン・ヒューストン ドン・シーゲル ジャン・ピェール・メルヴィル 「ギャング映画のスター史 筈見有弘」』キネマ旬報社、1973年】などと評されていたのです。
このことについては、『ボルサリーノ』での二人の主人公フランソワ・カペラとロック・シフレディの役作りに対するスター・キャラクターのコメントとしても納得できるものですし、今更、言わずもがなでしょう。
【<『ハーフ・ア・チャンス』~娘の父親として ジャン・ポールとともに③-②~>へと続く】
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『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-②~
http://zidai.exblog.jp/26043148/
2017-09-12T22:25:00+09:00
2019-03-03T00:41:33+09:00
2017-09-12T22:25:49+09:00
Tom5k
黙って抱いて
【>ミシェル・ボワロン監督の『お嬢さん、お手やわらかに!』を若い頃、見た記憶があります。
>アラン・ドロン商業的には大ヒットした作品だ。この映画で顔を覚えてもらったんだね。ミレーヌ・ドモンジョと共演した。ブリジット・バルドー、ジャクリーヌ・ササールやパスカル・プティと共にもう一人のフランス映画のスターだった。それからピエール・ガスパール・ユイの『恋ひとすじに』に出た。『若者のすべて』に起用してもらう前、撮影現場にヴィスコンティが私を見に来たんだ。『お嬢さん、お手やわらかに!』を見たルネ・クレマンも私を覚えてくれた。全くもって凄い年月だった・・・】【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2(インタヴュー和訳)」】
自国フランスで当時のトップアイドルだった三人の女優パスカル・プティ、ジャクリーヌ・ササール、ミレーヌ・ドモンジョとの共演作品『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)、西ドイツの超人気アイドルであったロミー・シュナイダーとの共演作品『恋ひとすじに』(1958年)、国際的にもアイドルとして人気のあったフランソワーズ・アルヌールとの共演作品『学生たちの道』(1959年)、当時売り出し中のブリジット・バルドーとの共演作品『素晴らしき恋人たち(第4話「アニェス」)』(1961年)など・・・。
その後、フランス国内においては、いわゆる「「ヌーヴェル・ヴァーグ」の敵陣」であったルネ・クレマン監督、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、クリスチャン・ジャック監督・・・そう!正に「シネマ・ドゥ・パパ」の作品群・・・『太陽がいっぱい』、『生きる歓び』(1961年)、『危険がいっぱい』(1963年)、『フランス式十戒』(1962年)、『黒いチューリップ』(1963年)への出演で脚光を浴びていくことになるのです。
この時期の旧世代、フランス映画の良質の伝統・・・シネマ・ドゥ・パパ・・・「詩(心理)的レアリスム」の映画作家たちは、前述したように少なからず「ヌーヴェル・ヴァーグ」を意識した映画制作を行っていたわけですが、これは山田宏一氏のような侮蔑的な総括ではなく、逆にその手法が功を奏して、新しい「詩(心理)的レアリスム」の体系を再編し、高度化させていった各映画ジャンルにおける発展的時代だったとは考えられないでしょうか!?
剣戟映画『黒いチューリップ』にしても、ジェラール・フィリップやジャン・マレエの時代の作品より、一段とスケールが大きくなったように思いますし、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『殺意の瞬間』(1956年)や『悪魔のようなあなた』(1967年)、ルネ・クレマンの『雨の訪問者』(1969年)『狼は天使の匂い』(1972年)などを観ても、多くの旧世代の映画作家たちのリアルでサスペンスフルな展開は、クールで現代的なノワールの源流を新たに作り出したように思うのです。これらのエンターテイメントは、決して「ヌーヴェル・ヴァーグ」には創り出せなかった映画潮流であると考えています。
殺意の瞬間
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そんななか、『太陽がいっぱい』を撮影したルネ・クレマンは、監督としてのアラン・ドロンへの評価で「ありえないような行動を引き受ける集中力と理解力の才能があった」と絶賛しています。
【>当初、アラン・ドロンはグリーンリーフを演じるハズだったのですか?
>ルネ・クレマン(-略)ドロンはまだスターではなかったし、プロデューサーの気をひけるほどの仕事をした訳でもなかったんだ。グリーンリーフを誰が演じるかで騒いでいた時、ドロンのエージェントだったジョルジュ・ボームが私に連絡をして来たんだ。(訳注:英語版翻訳には、これはクレマンの記憶違いで、当時のエージェントはオルガ・オルスティグ)ミシェル・ボワロンの「お嬢さん、お手やわらかに!」を見に行った。ドロンは特別光っていたとも、目立ったとも思わなかったが、ある意味、関心を魅かれた何かがあった。ジョルジュ・ボームがアランを連れて私に会いに来たんだ。彼がアランとロネの役を交換するというアイデアを考えたんだ、二人の俳優に合わせてね。ロネがグリーンリーフで、ドロンがリプリーの方がいいと言うのが私たちにも明らかになったね。それからアランはどんどんリプリーになっていった、言われた事を文字通り試していったんだ。彼には驚くような集中力と聞くことが上手い。こちらの言う事をあれほど受け入れる事が出来る俳優は、監督には本当に好都合だ。既に知っていることを理解するだけでも、何人の俳優にできるか?この感受性のお陰で、さきほど話をした事柄が可能になったわけだ。自分が求めていた真実を目の当たりにして。私にはいつもドロンがいてくれ、ありえないような行動を引き受けてくれた、そんな風にあり得ないと思えることがドラマを前進させていけるんだ。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2015/10/23 「ルネ・クレマンが語る「太陽がいっぱい」その6(インタヴュー和訳)」】
さすが、このようなルネ・クレマンの言動には、巨匠の巨匠たる所以が感じられます。
「ある意味、関心を魅かれた何かがあった」
このとき恐らく、ルネ・クレマンは「アラン・ドロン」という大スターを発見したのだと思います。
そして、後期「ネオ・リアリズモ」のイタリア映画の作品群『若者のすべて』(1960年)、『山猫』(1962年)、『太陽はひとりぼっち』(1961年)など、ルキノ・ヴィスコンティ監督やミケランジェロ・アントニオーニ監督などの作品に出演し、俳優としての資質がいよいよ磨かれていったのです。
イタリア映画界での彼の活躍も映画史的なレベルで非常に高いものとして評価されています。
【この映画以後ドロンは一躍、国際的なスターとなって、劇場側が歓迎するぺてん師やギャング役を演じる映画に次々と出演した。したがってロッコを演ずる彼を見ていない人には、ヴィスコンティの厳しい指導に耐えて彼がこの役で演じ切った、ほとんど輝くばかりの愚直さと、悲哀と、しんの強さを想像するのはむずかしいかもしれない。】
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】
ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 (1982年)平凡社
アイドル女優との共演作品から、フランスやイタリアのヨーロッパ映画界の全盛期に活躍した巨匠たちの作品への出演・・・このことを異なる視点によって彼のキャリアを総括すると、それはアイドル路線からの脱皮、そして、衰退する時代の「シネマ・ドゥ・パパ(「詩(心理)的レアリスム」)」の作品群への出演、「ネオ・リアリズモ」終焉期における活躍・・・だったのです。
それは、つまり「ヌーヴェル・ヴァーグ」の新しいスター俳優としてセンセーショナルな活躍をしていったジャン・ポール・ベルモンドの革新性と全く相反する保守・伝統・・・旧時代の映画スターの在り方から、その資質を磨かれていったプロセスだったのです。
そして、その後に人気全盛期を迎えた頃、彼はデビュー当時の自分自身を次のように語っています。
【正直にいって、ぼくは最初のころ、いい監督が俳優を創りあげる、とは信じていなかった。傲慢にもぼくは自分の個性と才能とを混同していた。つまりぼくには才能があると思いこんでいたのだが、それは実は個性にすぎなかった。優れた監督、たとえばクレマンやヴィスコンティに使われて、ぼくは自分が何者でもないことを思い知らされた。が、同時に、もしかしたらぼくは、彼らによって“俳優”になれるんじゃないか、とも思いはじめたんだ。】
【シネアルバム⑥ アラン・ドロン 孤独と背徳のバラード「アラン・ドロン バイオグラフィー 南俊子」 芳賀書店(1972年)】
これは、ゴダールと出会ったときのジャン・ポールの言葉とは対照的です。元来、舞台俳優としての基本的なメソッドを身に着けていたジャン・ポールと異なり、アランはそもそも好き放題、自由に奔放に生きてきた不良、チンピラだったわけですが、映画界に入って旧世代の映画の文法に忠実な巨匠である多くの映画作家たちに巡り会うことができて、初めて映画俳優としての自覚に目覚めたのでしょう。そのとき、自分の未来への大きな希望と感動が生まれたことがわかります。
一方、舞台でデビューし、映画では端役で数本をこなしていただけのジャン・ポールの魅力を見出したジャン・リュック・ゴダールは、ただひたすら映画への情熱だけで無軌道で自由な表現を求めていった映画作家だったわけです。そして、やはり、その彼に巡り会ったときのジャン・ポールの言葉も彼の大きな感動を伝えるものでした。再掲して旧世代の映画作家たちと巡り会ったときのアラン・ドロンの発言と比較してみましょう。
【これまでいっしょに仕事をした監督のなかでは、文句なしに、ゴダールといちばん気が合った。(-中略-)『勝手にしやがれ』は俺にとって最初の映画的冒険だった。(-中略-)俺は映画というものを知らなかったんだ。あたりまえの、古くさい映画の見かたをしていた。そんなときに、突然、すばらしい自由を発見したんだ。その後も、あれほどすばらしい自由な撮影をしたことはない。『勝手にしやがれ』は全篇隠しキャメラで撮影された。録音機もなし、なにもなしだ。俺たちはブールヴァール・デ・ジタリアンにいた。キャメラマンのラウール・クタールは小さな郵便車のなかに隠れて、小さな穴から撮影していた。すばらしかったね。これこそ、ほんとうのシネマ・ヴェリテだった。(略-)】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】
この二人、この先どんな素晴らしいスター俳優になるのか本当に楽しみです(笑)。
そして、彼らはその後、『黙って抱いて』以来13年ぶり※に共演した『ボルサリーノ』(1970年)によって世界的な大ブレイクを起こすわけですが、この『ボルサリーノ』に辿り着くまでの経緯は、【『ボルサリーノ』②~「詩(心理)的レアリスム」の伝統をジャン・ポールとともに①~】の記事として、私なりの見解を掲載してあります。
※その間に同作品でともに出演しているものは二本ありますが、『素晴らしき恋人たち』(1961年)はオムニバスの別挿話の作品、『パリは燃えているか』(1965年)はオールスター・キャストの作品です。
ジャン・ポールとアランが世界に向けて大活躍する人気スターに成長していったことに想いを馳せ、その歩んだ軌跡を辿り、ようやくデビュー間もない頃の若くて貧しい無名の彼らに巡り会うことができました。『黙って抱いて』に登場するのは、幼く心細い、おぼつかない足取りの誰にもある青銅の時代・・・青春まっ只中にいたジャン・ポールとアランだったのです。映し出されている二人の未来への無限の可能性によって、この作品は珠玉の輝きを放っています。ここで活き活きと活躍している若い二人を観ていると、全身から湧き上がってくる彼らのエネルギーも映し出されているような気がします。歩み出そうとする方向に何が待ちかまえているかなんて考えもせず、みなぎる若さにまかせて力強くその道程を切り開いていったジャン・ポールとアラン。
ゴダール、クレマン、ヴィスコンティに出会う前の彼らの青春の彷徨が映し出されている『黙って抱いて』は、これから険しくても輝かしいジャン・ポールとアランの成功への道程にスタートアップした記念碑的作品として、何度でも鑑賞したくなる青春の可能性がいっぱいの作品なのです。
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