『太陽がいっぱい』③~アキム・コレクションより、映画館での鑑賞で特に印象の強かったもの~

 『太陽がいっぱい』は、TV放映、DVD、ビデオによって、何度も鑑賞してきましたが、今まであまり気にとめていなかったショットやシーンだったにもかかわらず、今回の映画館での鑑賞(2月7日(土))によって、印象が強烈になったものが思ったよりも多くあり、驚いているところです。
 なかには、何故、そのような強いショックを受けたのか、自分でも理由のわからないものもあり、「映画」の奥の深さをあらためて感じています。


 まず、ローマのカフェテリアでアラン・ドロン扮するトム・リプリーとモーリス・ロネ扮するフィリップ・グリーンリーフが談笑している映画の冒頭でのシークエンスでは、彼らのクローズ・アップを中心にして、後方に続くオープン・テラスの歩行者をデプス・ドリーで映し出していた瞬間のあることや、その雑踏をフォーカスの調整で合わせていたことなどに、今更ながら驚きました。
 もちろん、DVD、ビデオでの観賞でも、同様のフレーム内で観賞していたのでしょうが、このような奥行きのあるシーンとして、それを自然に感じたことは初めてでした。
 この冒頭での二人のやり取りから、彼らの関係を察することができるわけですが、次のビル・カールンス扮するフレディとロミー・シュナイダーが登場するまでの連続ショットにおいて、今、自分がそのテラスでコーヒーなどを飲みながら彼らの様子を見ているようなリアルな映像を体感することができたのです。

 トムとフィリップが悪酔いして、ローマからモンジベロに帰宅するときのボートから降りる遠景のショットでは、トムがフィリップの足の裏を、悪ふざけしてくすぐっていたことも、初めて気がついたところです。
 彼らのホモ・セクシュアルな雰囲気が最も強く漂っているワン・ショットであるとの所感を聞いたことがあるような記憶があります(淀川長治氏のものだったでしょうか?)。トムのこの動作のことを指摘していたか否かは記憶に定かではありませんが、彼らの仲の良さが表現されているこのショットから、確かに、それは説得力のある意見だったように思います。

 トムが、フィリップの靴を履き、縞のジャケットを身につけて、鏡の前で彼の仕草を真似るあの有名なシークエンスでは、そのときに、すでに鏡の上方にフィリップの足が映っていたことに、情けないことに、今回、初めて気がつき、これでも自分は、今まで数十年に渉って『太陽がいっぱい』を愛好してきたのだろうかと、自己嫌悪に陥るほど驚いてしまったところです。
 それにしても、あのトムの様子を後ろでじっとフィリップが覗っていたことがわかると、今更ながら冷や汗が出る思いです。

 タオルミナに向かうヨットの船室での食事のシークエンスで、トムがフィリップにナイフとフォークの使い方を侮蔑するように指摘されて船室から追い出され、憮然とした表情で舵取り台に座ったときの一瞬のショットに、海上を跳ねる魚の群れのモンタージュが挿入されています。
 これも恥ずかしながら、今までさほど意識したことのないインサートだったのですが、今回、このショットによって、わたしはトムの屈辱や憤慨、劣等感、嫉妬などの感情に強く移入してしまったのです。この説得力の増幅を体感したことで、あらためて、ルネ・クレマン監督のインサート・ショットが、いかに映画館におけるスクリーン投影の視覚効果として強力であるのかを理解することができました。
 これは驚くべき体験でした。
 日本では、このようなルネ・クレマン監督の技巧を「間のうまさ」として解釈していたそうですが、彼の映画作家としての主観が垣間見える独自の名人芸だとの見方もあるようです。

 トムがマリー・ラフォレ扮するマルジュを訪れ、ナポリを案内してもらう前に、彼女が銀行で小切手を換金している間の彼の様子を映し出すのですが、落ち着きなく旅行代理店のショーウィンドーを覗き込み、その前を行ったり来たりする様子から、観ているこちらのほうまで情緒的に不安定になってくるのです。
 ここも今までは、ほとんど意識することのなかったシーンだったのですが、強く印象に残りました。

 ローマに引越したトムに、部屋のカーテンの取り付けなどをしてくれる面倒見の良いアパートの管理人の小母さんが登場するシーンでは、彼女に備付けの燭台の位置を変えることを許可してもらい、それが針金で固定されていたために移動させることができず、トムが照れ笑いをして、彼女が微笑む様子を正面からミディアム・ショットでとらえてカットしています。
 二人は、まるで仲の良い母子のように、愉快そうで微笑ましく、トム・リプリーの不幸な生い立ちからの犯罪歴の間に垣間見える彼の人間らしくてあどけない側面が、珍しく挿入されていたように思いました。
 このシーンに、ルネ・クレマンとアラン・ドロンが再度コンビを組んだ次の作品、『生きる歓び』への端緒が開かれているようにも感じます。

 トムがフレディを殺したあと、彼の車を移動するときに、駐車禁止場所であるとの注意を道路巡視員から受けるズームのショットも、何故か強烈で緊張感のあるインパクトを受けました。ここも初めて受けた印象です。

 マルジュがモンジベロのフィリップの自宅に戻るときのショットにも驚かされました。
 スクリーン・フレームの構図として、その上部に映っている物陰から、彼女を尾行して後方で動き回っている刑事がシルエットで映されており、そのズームの高所撮影によるロング・ショットによって、緊迫感が増幅されてくるのです。
 今までは、この前段での酔ったオブライエンと、フィリップに成りすましたトムとのやり取りが、わたしにとって、このシークエンスの差し迫った情勢としての中心場面でした。ですから今までの鑑賞で、このショットにこれほど緊張したことはなかったのです。

 トムがモンジベロのマルジュを訪れる港でのカトリックのリトル・イタリア祭での青空いっぱいに打ち上げられている花火のショットには、私自身が今、空を見上げているような錯覚を受けました。
 そして、彼はフィリップの自宅にいるマルジュに会うために、その群衆のなかを早歩きで歩行するのですが、ここもルネ・クレマンらしいドキュメンタリー・タッチのリアルなショットで、今回ばかりは、ナポリの魚市場で、トムが海鮮の陳列を歩きながら眺める、あの有名なシークエンスよりも強く印象に残ってしまいました。

 フィリップの死体が引き揚げられた直後と、トムが警察に呼びつけられる直前との狭間のショットに、遠景でのヨットのズーミング映像がインサートされています。
 その船上で仲良く(わたしにはそう見えました)マストの帆をあげる3人の若者が映っており、わたしは、『冒険者たち』へのオマージュではないかと錯覚してしまうほどでした。もちろん、『冒険者たち』は、これより7年も後に制作された作品ですから、それはありえません。
 ここで、わたしはフィリップ、マルジュ、トムの3人の若者たちが、このような陰惨な関係にならずに済む方法は他になかったのだろうか、と深く考えて込んでしまいました。

 やはり、ルネ・クレマン監督特有のインサート・ショットのひとつであろうかと思いますが、TV画面、パソコンのディスプレイでは、この3人のシルエットはあまりに小さくて、ほとんど見えませんので、これも映画館鑑賞ならではの初体験となったわけです。
 

 上記に列挙したものは、今までも気がついていなかったとは言えずとも、今回の映画館での観賞で初めて、驚くような大きな刺激を受けたものばかりです。
 なかには、何故、今頃気づいたのか、『太陽がいっぱい』の愛好者として失格ではなかろうかと、自分が情けなくなったりもするのですが、わたしなりに正直に列挙してみました。

 もちろん、これら以外の有名なショットやシークエンスで、今回もいつも同様にショッキングで印象深いものも数え切れないほど多くありましたし、逆に、あまりにも何度も鑑賞してきたため、大画面とはいえ衝撃度が低くなってしまったものも、残念ながら少なくは無かったようにも思います。

 それにしても、何十回も観賞しているにもかかわらず、こんなにも興味深いショットを、これほど多く発見できたことに驚いてしまいす。
 何故、どうして、このような体験をすることが、映画館では可能なのでしょう?本当に貴重な映画鑑賞でした。


 ようやく、アラン・ドロンの代表作『太陽がいっぱい』を映画館で観ることができた至福を噛み締め、充実感に包まれながら、わたしは列車での帰路に着いたのでした。

 そして、独りごちたのです。

 『太陽がいっぱい』だ 今までで最高の気分だよ 最高だ
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by Tom5k | 2009-02-21 01:29 | 太陽がいっぱい(3)