『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』③~愛の再生・復活その3 セザール賞主演男優賞受賞~

 アラン・ドロンが扮する主人公のロベール・アヴロンシュは、中古車情報誌「L'argus」誌を読みながら列車の一等室に乗車しています。ロベールの出で立ちなどから、彼がフランス国民の中産階級の平均的なホワイト・カラー層の市民であると察することができそうです。

「ロベール・アヴロンシュ 一人旅・・・ 何か 起こるのか いや・・・ なんにも たいくつな旅だ」

 物語はロベール・アヴロンシュが列車の揺れにまどろんでいるとき、愁いに満ちた哀しい表情をした女性、ドナシエンヌ・プジェが室内を覗き込むところから始まります。

 ドナシエンヌ・プジェを演ずるのは、フランソワ・トリュフォーやジャン・リュック・ゴダールの作品で女優開眼したナタリーバイです。彼女はフランソワ・トリュフォーの作品では、アラン・ドロンが最も気に入っている『緑色の部屋』に主演していることから、彼の相手役としては申し分のない共演者といえましょう。
緑色の部屋
/ ビデオメーカー




 この作品のストーリー・プロットは、このファースト・シークエンス以降、常に内容に脈絡がなく、主人公ロベール・アヴロンシュが列車でまどろんでいるときの「夢」だということを観る側が理解できる構成となっています。

 女性のほうから彼のいる室内に入ってくるのは、彼女が自分に何かを働きかけていると、ロベール・アヴロンシュ自身が無意識に感じているからなのです。

「何か用か?」

「話でもしない」
 室内に訪れたドナシエンヌ・プジェはロベールに言います。
「ちょっといい男 遊び人風だわ なぜか母性本能をくすぐる・・・男はビールが大好きなのね 飲んべえで お金を払うと すぐ半分のむ 立ったまま」 

 彼女はロベールを分析し、すべて的を得ています。この女性は初めから彼を詳細に知っているようで、彼の実現性の無い日常からの逃避願望なども見抜いており、しかも非常に不満げな表情です。
 ロベールも彼女の言葉や様子に不自然さを感じていないように見えます。

 そして突然、彼女はロベールにセックスを求めます。
 彼女は、彼に対してさんざん不満そうな態度を取った後、後腐れの無いセックスでしか対応できないようです。

「次の駅までの 束の間の恋 後腐れなしよ 付きまとわれたくないの 楽しんだら それで終わりよ」
 
 ドナシエンヌ・プジェは、彼の周囲にいる身近な女性であるのでしょう。まるで開き直った夫婦のセックス、もしくは破局を迎えつつある不倫関係のようにも思えます。


 その場しのぎのセックスのつもりだったのに、ロベールは次の駅で降車した彼女の後を追います。

「まだ何か用なの?」
とドナシエンヌ

「笑って」
 ロベールが彼女に求めているものは「笑顔」のようです。

「長いこと笑ってないわ」

 彼女を追いかけているにも関わらず、駅の売店でビールを買ってしまうロベール。
 うんざりして先に行ってしまうドナシエンヌ。

 ロベールは列車と駅前のホテルが好きだそうで、結局ふたりは駅前のホテルに入ります。

 彼は別荘に凝ることなど面倒で、好きなのは駅前のホテルや列車、気が向いたらすぐに出発できる忙しい男であることなどを彼女に説明し、理解を求めます。

「考え事に向いているし 安全だ 出会いもある」
実に落ち着きのない男です。

 この作品の制作より23年前の1961年、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』でモニカ・ヴィッティの演じたヴィットリアがアラン・ドロン扮する証券マンのピエロに

「落ち着きのない人ね」

とたしなめられ

「落ち着く必要があるか?」
と反発してからの23年間、アラン・ドロンは全く成長していません。


「車内で抱き合うのもいい! 君ならどこでもかな 車 エレベーター そこいら」
 アラン・ドロンらしい、といえばそれまでですが、
 大切な女性との愛の行為を、行きずりの後腐れの無いセックスとして肯定し、彼女を淫乱扱いする彼は、あまりに女性へのデリカシーに欠けます。

「ベッドでもよ」
当然のことながら、うんざり顔のドナシエンヌ。


「笑わせてみせるよ いいかい それが望み きみがプロでも おれには天使だ」
と彼女を笑わせることをあらためて決意します。

 さすがに彼女の心も動いたのか
「もっと続けて」

 わたしはここで、アラン・ドロンが過去に自分のプロダクション、アデル・プロでプロデュースした『もういちど愛して』のワン・シークエンスを想起しました。
 アラン・ドロン扮するシモン神父が、実生活でも本当に離婚した後のナタリードロンの扮する別れた妻リタと寄りを戻して再出発するときのやりとりです。

シモン神父 「天使だ わたしの天使」
リタ      「私を選ぶの」
シモン神父 「もちろんだ」

 
 彼の全財産5千万フランを彼女に預けて、恋を告白するロベール。
 しかし、彼女は金で自分の気を引くなど情けないとロベールを拒否し、自分の名前すら教えません。
 しつこく彼女を家まで送りますが、着いて早々、彼はまたしても冷蔵庫のビールを気にしています。

 ところが、このようなロベールをドナシエンヌは完全には拒否しないのです。少しは期待するところもあるのでしょうか?

 この家が気に入った(特にキッチンのそばの「椅子」が気に入ったようです。)こと、彼女を束縛しないこと、ロベールは一生懸命に彼女を口説きます。

「君を見つめて乾杯!」
 これは、ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンが共演した『カサブランカ』での有名なセリフですが、ここでドナシエンヌを口説くための言葉としては、滑稽極まりありません。
 アラン・ドロンは、ハリウッドでの成功を目指して渡米する以前、ロミー・シュナイダーと婚約していた時代に、すでにハンフリー・ボガードの映画をくりかえし観て研究し、彼のジェスチャーはすべて記憶していたといいます。
【『ロミー・シュナイダー事件』 ミヒャエル・ユルクス著、平野卿子、集英社、1996年】
ロミー・シュナイダー事件
ミヒャエル ユルクス Michael J¨urgs 平野 卿子 / 集英社





 ボギーからの学習は「フィルム・ノワール」作品では成功するかもしれませんが、この恋愛では通用するはずがないのです。
カサブランカ スペシャル・エディション
/ ワーナー・ホーム・ビデオ





 ロベールは、決して贅沢ではない、しかし幸福であるはずのふたりの日常生活への夢を、一生懸命に語ります。
 ロミー・シュナイダーやナタリー・ドロン、ミレーユ・ダルクなら、ここではアラン・ドロンを理解していたかもしれません。

 そして、ふたりの年齢や雰囲気、自宅での会話の様子などから、このあたりでドナシエンヌ・プジェは、ロベールの妻ではないだろうか、と察することが可能です。

「笑っておくれ マドンナの微笑を」

 ロベールは彼女との生活を強く望んでいるのです。
 しかし、全財産を彼女に渡してしまったことで、逆に反感を買ってしまい、彼女はダンスを踊りにひとりで外出してしまいます。

 酒浸りになり、自己嫌悪に陥るロベール。
 その深夜に、バーで遊んだ男達を家に連れ込むドナシエンヌ。そのなかの一人が彼女の恋人(夫)のようです。
 ここではロベールが、潜在意識のなかで彼女の不貞を確信していることがわかります。

 自宅には茫然自失しているロベールが待っています。
 ドナシエンヌは一人になりたいと泣き、恋人(夫)に連れて行ってほしいと懇願しますが、それを拒否する恋人(夫)。
 ロベールの妻への疑心暗鬼と彼女の悲壮は、彼女の恋人(夫)との関係に象徴されているのではないでしょうか?

 彼らに一旦、家の外に連れ出されたロベールですが、また彼女の家に戻ってきます。ポラロイド・カメラでドナシエンヌの笑顔を撮るというのです。

「君の笑顔を写したい いいだろ 君が笑う日は いつかきっと来る」


 彼女は子供の養育権をとられ、33歳で離婚したのだと彼に打ち明けます。
「笑わないのではなく 笑えないのよ」と・・・。
 彼女は絶望したままなのですが、ロベールはふたりの再出発の決意を変えることはできません。

 むかしから、ロベールは最愛の女を捜し求め、それが彼女だったと言うのです。
「男はむかしから変わらずにその女を愛していたが・・・まだ出会えずにいた どこかに居ると信じ捜していた」
 ロベールは彼女に手を貸すことを望むのですが、彼女の心は冷めていてまたひとりで外出してしまいます。彼は恐らく以前から長く妻を愛してきており、しかしそのことに未だ、しっかりとした確信を持つことができていないのでしょう。

 その日、ロベールの兄と仲間たちが彼を迎えに来ます。
 彼女に出て行かれた彼は放心状態です。そしてまた酒浸りになるのです。

「どんな女か」
という兄たちの問いに

「俺の生命だ」

 よほど、妻を愛しているのでしょう。しかしそのことは彼女に伝ってはいないのです。
 兄たちがここにきた理由は、彼女がロベールを厄介払いしたいから、なのだそうです。

 しかも、彼女は気に入った男を捜しに外出しているというのですから、ロベールの嫉妬妄想は重症です。

 そして、別の男を自宅に連れ込み、彼の世話をしながら
「笑えそう 写真を撮ってほしい」

 しかし、やはり彼女は笑えないのです。

「ここにまだ残りたい」
と懇願するロベール。

「(彼を)連れ出して」
と彼女は言い放ち、彼を連れ出そうとする兄たち。

「おれにかまわないでくれ 椅子を盗んだ奴がいるから 取りかえしてやるんだ! 邪魔するやつは相手になる 女と寝たっていいが ここには座るな」

 彼が猛り狂う様子から、この「椅子」がロベールの夫としての立場を具象化したものだということがわかります。
 ロベールは怒り、兄たちと乱闘にまでなって、近所から苦情が申し立てられます。

 その後、ドナシエンヌの仲間たちも含めて、全員で苦情の出た隣の家に出向きます。
 駆け込んだ隣家で、ロベールは下品なジョークでみんなを笑わせますが、彼女は決して笑いません。
 ダンスを踊っていても放心したようなドナシエンヌ、彼女の無気力の原因が元の恋人(夫)のデュバルに絶望していることと気づき、彼にダンスをするように依頼するロベール。

 だが、デュバルにその申し入れを断られ、いきなり殴りかかるロベールだったのですが、結果は一方的にデュバルにやられてしまうことになってしまいました。彼の嫉妬妄想は、自分への自信喪失も原因のひとつであることがわかります。

 どういうわけか この家の主人はロベールに
「妻と寝ろ」
と指図します。
 にも関わらず、妻を寝取られ嫉妬する隣人。
 この家での居心地がよくなるロベール。
 ロベールの妻以外への女性観が表現されています。

 そして、ドナシエンヌとの出会いを過去のこととし、彼女は裏切った と呟くのです。
「情熱的な売春婦だと思っていたのだが どこにでもいる ただの不幸な女だった」

 隣人は彼女のことを女神だと言います。その証拠がここにいるものたちの多くが彼女と寝たからだと言うのです。
 そしてロベールに妻を寝取られ、あせる隣人は彼女を取り戻すために、ドナシエンヌと彼との間を取り持とうとしますが、すでに彼女はアヴロンシュ夫人になっています。

「ドナシエンヌに会わせたい」
と言い出す隣人、緊迫する婦人とロベール。 
「彼女はたったひとりで・・・深い悲しみのなかで」

 心を動かされるロベール。

「行かないで」
懇願する婦人を置いて、ドナシエンヌに会いに行ってしまうロベール。

 しかし、自宅には彼女はいないのです。
 また、ビールに溺れるロベール。

 娼婦ドナシエンヌとのセックスを、想い出として語るたくさんの人々が登場します。
 帰宅してきたドナシエンヌは彼らと一緒に想い出を語るのです。彼らにとっての彼女の存在、セックスの想い出は、まさに聖女(ミューズ)との邂逅のような出会いだったようです。
 ロベールの妻としての彼女の存在とは若干異なりますが、他人にとっても彼女は娼婦でもあり、聖女でもあるのです。

 このシークエンスは重要です。
 ベルトラン・ブリエ監督が「ヌーヴェル・ヴァーグ左岸派」のエコール、新しいドキュメンタリーの方法を生み出した「シネマ・ヴェリテ(映画=真実)」としての代表作『ヒトラーなんか知らないよ』(1963年)での若い男女たちに討議させたドキュメンタル手法を応用しているからです。
 ベルトラン・ブリエ監督の「シネマ・ヴェリテ(映画=真実)」は、ここでも健在だといえましょう。

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【『アートシアター60号「ヒットラーなんか知らないよ」』(日本アート・シアター・ギルド、1968年)】


 ロベールとドナシエンヌを気遣って、それぞれの帰路に着く人々。
 みんなが帰ったあと、ふたりは愛について語ります。

「みんなの話をどう思ったの」
「愛そのもの」
「愛ってなにかしら」 とドナシエンヌは聞きかえします。
「やすらぎかな 気のおけない人に感じる」 とロベール
「わたしはどうなの?」
とドナシエンヌ

「わからない」
と答えてしまうロベール

 哀しそうなドナシエンヌ。

「飲み過ぎじゃないの?」
 このセリフは、妻が夫をたしなめる常套句でしょう。

「なぜ 飲むの?」
「君は なぜ寝るの?」
「寝たいから」
「本心なのか うわべだけなのか?」
「あんたのビールも飲むふりなの?」

 そして、ビールとセックスで口論になり、またすれ違ってしまうふたり。ドナシエンヌはナイトクラブに出かけてしまいます。
 お気に入りの「椅子」で酔いつぶれるロベール。

 ひとりバーで飲むドナシエンヌ、閉店の時間であるにも関わらず、人を待っているというドナシェンヌ。横でいつもの仲間たちが踊っていることから、待っている相手というのはロベールなのでしょう。
 ロベール自身も、彼女が自分を待ち続けていることは、潜在意識のなかでは理解できているのです。

 今回のロベールは、とうとうナイトクラブまでドナシエンヌを捜しにきます。

 そこで自分の淋しさを吐露するのです。
「優しく愛し合うこともなく このまま別れるなんて あまりに寂しすぎるよ 子供達はどこに居るんだい? 会いたかった」

 ドナシエンヌの心がつかめずに涙を流すロベール、しかしその場からもう彼女は姿を消しています。朝になりドナシエンヌの家に帰ると、そこには別の住人が引っ越してきており、彼女は失踪して行方知れずになっていました。

 もしかしたら妻は、自分のことより子供たちを気にかけている夫に、大きな不満を持っているのかもしれません。
 彼女が夫に子供の養育権をとられている話にも、夫の子供への愛情の強さと自分への愛情の欠如が表わされているような気がします。


 ロベールは花屋を訪れます。
 店舗の奥の部屋の主が冷蔵庫だというのがシュールです。これは、ロベールの心を支配しているドナシエンヌ(花屋)と、彼の生活でのアルコール依存(冷蔵庫)を象徴したものだと思われます。

「古い記憶をたどって 作り上げた空想ですよ 実在の人物か怪しいね あんたの心が描き出したドナシエンヌ・プジェは 浮気な若い女で 喜ばせたり絶望させたり-」
 花屋のおかみさんは、ロベールの悩み方を見かねて、彼女の幼友だちのマリーテレーズ・カローズのことを聞かせます。彼女は雪に閉ざされた寒村の小学校の分校で教師をしているそうなのです。

 彼は早速、彼女を訪れますが、そこでロベールは自分の眼を疑ったでしょう。そこにいたマリーテレーズ・カローズは、捜し求めていたドナシエンヌと瓜二つなのです。
 ロベールは、彼女とその夫から恋煩いで疲弊していることに対して同情を受け、泊まっていくように勧められます。


 部屋に食事を運んでくれたマリーテレーズは、眠れないロベールに付き添ってくれます。
 彼女はドナシエンヌなのでしょうか?

マリーテレーズ 「一等車に旅人がひとり ちょっといい男 名はロベール・アヴロンシュ 失恋したばかりの遊び人風の男 本当に失恋したの?」
ロベール     「そうさ」
マリーテレーズ 「慰めてほしい?」
ロベール     「ありがたいね」
マリーテレーズ 「こちらに置くわ 愛の場面に似合わないもの 特にハーブ茶ではね」
ロベール     「愛の場面があるの?」
マリーテレーズ 「そのつもりよ」
ロベール     「女教師の?」
マリーテレーズ 「いえ 主人公は教師じゃないの 散歩を楽しむだけ」
ロベール     「駅構内を?」
マリーテレーズ 「ええ 時には列車に乗るわ ドナシエンヌ 笑ったことのない女よ」
ロベール     「どうして笑わない?」
マリーテレーズ 「抱いてもらえないから」
ロベール     「どういうことなんだ?」
マリーテレーズ 「男って女より車のほうがいいの 抱くなんて考えない」
ロベール     「俺は違うよ」
マリーテレーズ 「待って まだ車室にも入ってないわ 列車でひとり退屈し 失恋の痛手を悲しむ 私はドアから見るのはやめて中に入る あなたは別れた女を想い まだ気付かない 気付いて愛してくれたら わたしも愛せるわ その女の名は?」
ロベール     「ドナシエンヌ」
 
 やはり、ドナシエンヌはロベールに自分の存在を気づいてほしかったのです。
 ロベールはようやくそのことに気づき、ふたりは優しく抱擁しあうのでした。


 列車での旅から帰ったロベールを迎えに来た兄たちが眠っている彼を起こします。ようやく彼は『夢』から覚め、現実が現れます。

 ロベールの妻は何かの過ちを犯したに違いありません。ロベールの「夢」は常に妻への嫉妬妄想の内容です。妻は淋しさのあまり他の男と不倫の関係を結んだのでしょう。
 兄と彼の仲間たちは、妻の不貞を許せていないロベールを何とか彼女のところに連れ戻そうとします。
「心の底から謝っているよ」

 妻の名はジュヌビエーヌ、果たしてロベールは彼女を許せるでしょうか?

 アパルトマンに入った彼は妻に会う前にまず自分の顔を、廊下の「鏡」に映し出します。

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒』では、実母によって完膚無きまでに自己を否定されたピエールが、苦渋の表情で無神経な彼女と会話をやり取りする様子、つまり彼のその不確実で不安定な存在を「鏡」に映し出したシーンで表現していました。
 ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』では、「鏡」の前でブルジョアに成りきる貧困の青年トム・リプリーを映し出しました。髪を撫であげブルジョア青年フィリップのシャツやジャケットを身にまとって、憧憬している彼に自分を投影したのです。
 ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』では、兄シモーネの借金を返済するため、最も忌み嫌っていたプロボクサーになる決心をするときの絶望の瞬間を鏡に映し出すショットがありました。
 ジョセフ・ロージー監督の『パリの灯は遠く』では、ナチスのパリ占領下で、ユダヤ人クラインと間違われた悪徳美術商の自己喪失者ロベール・クラインが「鏡」に映った自分の姿を放心した表情で見つめるシークエンスが何度もありました。

 「鏡」のなかの自分、虚構としての本当は実在しない自分・・・彼の演じた主人公たちの不安定な心象風景が、これらの「鏡」のシークエンスに浮かび上がっていました。
 絶対に確かなはずの自分という存在が、実はこの世の中で最も不確かな存在であったことに愕然とし、自分とは一体何者なのか?とあらためて自問するときに、人はもう一度自身の姿を確認したいと思ってしまうものなのでしょう。

 過去の「鏡」のシークエンスは、アラン・ドロンが自己喪失した人格破綻者の佇まいを演じるときの古典手法でしたが、「鏡」の前でネクタイを締めなおし、自分の疲れた表情を見つめ直す今回の彼の姿には今までの弱さが完全に克服されているように感じます。
 そこでの彼は、妻ジュヌビエーヌの過ちに対するキャパシティを広げ、彼女との愛の再生・復活のために自分を静かに立て直しているかのようです。


 そして、出迎える子供たちを抱きしめるロベール。

 部屋の窓に映る素晴らしいパリの夜景を背景に、放心したようにソファに座ってTVを観ている妻ジュヌビエーヌ。
 彼女の横に座る夫ロベール。

 不安げで哀しそうな表情の妻が言います。
「待っていたのよ」

 そして、覚悟を決めたのでしょう。彼は妻に問いかけるのです!

「笑えるかい?」

 妻がようやく彼に見せた笑顔。

 その笑顔はまさに百万ドルの笑顔です。
 チャーミングで愛らしい少女のような無垢な笑顔。
 それは、
 ようやく愛する夫が帰ってきた、自分のところに帰ってくれた、自分の過ちを許してくれた、そして、やはり自分は愛されていたのだと・・・至上の歓びが自然に現れた笑顔だったに違いありません。
 優しく、そして激しく抱擁しあう夫婦愛の再生と復活。
 美しいピアノ曲・・・。


 ここには、通俗の「夫婦愛」などというものを超えた「超・夫婦愛」が存在しています。至上の夫婦愛、その愛の歓びによって、再生・復活する中年の男女が表現されているのです。

 アラン・ドロンは美男俳優の代名詞として映画界に国際的なスターとして存在してきましたが、ジャン・ギャバンやジャン・ポール・ベルモンド、ジェラール・ドパルデューに比して、俳優としての限界が大きく、その美貌によって逆に自らの俳優・スターの立場に苦しんできたとも聞きます。

 もしかしたら、女性に対する愛情の欠如が、常に彼の作品に表現されることも、そのためだったのかもしれません。
 しかし彼は、この『真夜中のミラージュ』で、その限界を乗り越え、俳優・スターとして見事な脱皮を果たしたようにも思えます。彼がこの作品でセザール賞主演男優賞を受賞できたのも、なるほど頷けることなのです。
 そして、その受賞の6年後、彼はジャン・リュック・ゴダール監督の演出で、いよいよフランス映画史上における矛盾解消の到達点『ヌーヴェルヴァーグ』を生み出し、しかもその作品でも「愛の再生・復活」をテーマとし、23年前に出演した「内的ネオ・リアリズモ」の巨匠ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』のテーマ「愛の不毛」を完全に超越していくのです。

 そして、わたしは、ここで再度、『もういちど愛して』のワンシークエンスを想起するのです。

>シモン神父
「天使だ わたしの天使」
>リタ
「私を選ぶの」
>シモン神父
「もちろんだ」

 シモン神父の別れた妻に対する素晴らしい愛の告白。

 彼はポール・ムーリス扮する司教に自らの心情を吐露します。

「もうだめです 何か甘美な快感があるのです 嘘じゃありません」

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by Tom5k | 2008-09-15 02:05 | Notre histoire(3)