『太陽はひとりぼっち』①~「内的ネオ・リアリズモ」の根拠~

 旧ソ連の革命映画の作家エイゼンシュテインは、カール・マルクスの『資本論』の映像化を目指していたといわれています。そのための創作ノートは、すでに発見されており(日本版「エイゼンシュタイン全集第4巻」所収)、いくつかの断片的な作品へのイメージが残されていたそうです。

 『資本論』は、世界中の映画人に多くの影響を与えました。ハリウッド映画でも、チャーリー・チャップリンが『モダン・タイムス』(1936年)で、「剰余価値」が生み出されいく過程でのプロレタリアートの搾取形態と、プロレタリアートが精神疾患を患う様子などをスラップスティックのコメディで創作しました。
モダン・タイムス
/ ジェネオン エンタテインメント





 また、ソ連のロシア・アヴァンギャルドを象徴する映画監督のフセボロド・プドフキンは『聖ペテルブルグの最後』(1927年)で戦場での兵士たちが倒れるたびに証券取引所の株価の数字が上がっていくというモンタージュ表現を用いました。

 戦後イタリアの「ネオ・リアリズモ」の体系は、1930年代のソ連の「社会主義リアリズム」の作品群の影響を受けた演出家たちが、創り出していったわけですが、1935年イタリアでは国立映画学校「チェントロ・スペリメンターレ・ディ・チネマトグラフィア」という映画実験センターが設立され、多くの左翼学生がここで学びました。
 ここでは一般公開を禁止されていた多くのソビエト革命映画を教材とし、自由に上映されていて、ミケランジェロ・アントニオーニも、ここの学生であったそうです。また、当時、すでに現役の映画監督であったロベルト・ロッセリーニや若きルキノ・ヴィスコンティもここで、多くのソビエト革命映画を夢中になって学習したそうです。

 何故、当時イタリアを旋風していたファシズムが社会主義を黙認したのでしょうか?
 それは、後のファシズムの代表であるムッソリーニの映画好きが幸いしていたためで、この「チェントロ」が治外法権ともいえた場所になっていたことによるそうです。
(参考~『エイゼンシュテイン 映像世紀への飛翔』 山田和夫 著 1998年新日本新書)
エイゼンシュテイン―映像世紀への飛翔
山田 和夫 / 新日本出版社






 さかのぼれば、ここにイタリア映画の基盤があったからこそ、敗戦後のイタリア映画の黄金期を築くことが可能だったのかもしれません。そして、アラン・ドロンが「ネオ・リアリズモ」後期に俳優としての幸運なスタートを切ることができた遠い要因のひとつとして、この「チェントロ」の存在は特筆すべきかもしれません。

 映画『太陽はひとりぼっち』の舞台は証券取引所です。そこは、活気に満ちていて、現代のエネルギーの源泉のようです。

 ルドルフ・ヒルファディングという経済学者は『金融資本論』という名著によって、現代の金融構造を徹底して分析したマルクス主義者ですが、アントニオーニ監督のこの『太陽はひとりぼっち』に関連する多くのものを感じる取ることができます。
金融資本論 1 新訳 (1)
ルドルフ・ヒルファディング 林 要 / 大月書店





 この作品でのアラン・ドロンの演ずるピエロは、有能な証券マンで、育ちの良いホワイトカラーのエリートであり、ごく普通の明るい好青年です。彼にしては珍しく個性の弱い役柄ですが、前半のエネルギッシュなキャラクターから、後半の悲しげな淋しい表情へと、若者が多くのことを知って大人になっていく様子をさりげなく好演しています。
※ピエロのキャラクターについては、後日(2007-04-08 21:33)、『太陽はひとりぼっち』③~ホワイト・カラー層としてのアラン・ドロンの本質~の記事内容で訂正しています。

 ルドルフ・ヒルファディングは『金融資本論』第二編第八章「証券取引所」で、証券取引所を考察しています。

 株式市場においての投機が行われる理由は、利子を請求できるからです。しかし、証券取引で発行される「有価証券」は、何の裏付けもないまま、貨幣がどんどん手放されていて、基本的には信用できるものではないのです。 
 また、投機をする場合、働く人々の働いた分の未支給賃金がどのくらいその企業に存在するのか、そして、今後それがどのくらい高くなっていくかが判断基準となります。そして、利子を請求するときの「有価証券」の売りと買いの金額差が、投機者同士での損得を発生させていきます。
 証券取引所は、このような各産業界、各企業の利潤がどのくらいになるのかを見込むことで、投資のやり方やその強さを把握し、必ず当たる博打ということで、投機を勧めていくのです。

 この『太陽はひとりぼっち』では株価の大暴落が描かれています。そこでは、ヴィットリアの母親も大損害を受けます。そして、一夜にして5000万リラを損失し、カフェで精神安定剤を服用する男の姿も描かれています。バブル経済が破綻して異常な犯罪や自殺、心の病が増え続ける今の日本が予見されていたようにわたしには見えてしまいました。

 そして、モニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアは、ピエロに出会ったときに疑問を投げかけます。
 「株で消えたお金はどこへいくの?儲かればお金が入るの?それは損した人のお金?」
 「そんなに単純じゃない」とピエロは答えます。

 投機業者にとっての関心は、請求されるときの利子の価格です。しかし、利潤の率は市場価格の変動や景気の状況などの多くの偶然性が要因です。つまり、投機に予想が不可能なことばかりで確実なものは何もなく、単純に利潤率の高い部門に投資が集中してしまうのです。
 大きな投機をする者が、小さな投機をする者に与える影響は大きく、大がかりな「買い」が発生すると相場の水準が高まります。そして、儲けてしまった大きな投機者は、もう投機を引き払ってもかまわなくなります。そのとき、小さな投機者である多くの一般大衆は、まだ、その場所に止まり、損失を背負ってしまうということも珍しくなくなります。株価の暴落はこのようにしてパニックを起こします。
 そして、小さな投機者には資本を喪失する不安が常につきまとっています。しかし、本人は複雑な金融システムの実情が全くわからず、株式市場の相場、つまり、証券取引所の判断を信頼するしかありません。
 しかも、信用取引では信用が低くなることで、有価証券を「売り」とすることができます。そして、それを別の者に安い価格で買わせます。信用を与えたり、無くしたりすることで相場をくずし、弱い小さな債務者を犠牲にしていきます。

 「証券取引所は無くてはならないものかしら?」ヴィットリアは醒めた表情でピエロに問いかけます。
 「みんな病みつきさ」苦しい表情でピエロは言います。
 「何に病みつきなの?」とヴィットリア。

 人間の欲望は商品を使用することで充足しますが、金融資本のシステムは、商品の生産とは全く別のものです。景気や証券取引の動向によってしか生まれない差額が投機にとっての「生産的活動」なのです。つまり、投機は何の商品も生産せずに、富の分配方法のみをシステム化したもです。証券取引所は単純に巨額の貨幣の集中・積み上げを行なうだけで、世の中全体に富を増やす直接の役割を持ってはいないのです。

 損失を背負わされた利子生活者であるヴィットリアの母親は
 「社会主義者が混乱を招くのよ」と言い放ちます。

 しかし、証券取引の役割は、銀行も含めて産業界全体の資本にのみ貨幣の裏付けを行い、富を積み上げていくことです。つまり、社会の価値を全てブルジョアジーの資本に集中しているのです。

 現代人の象徴である主人公のヴィットリアの日常生活での倦怠や退屈は現代の精神疾患の特徴と言っては言い過ぎでしょうか?それは、どこからきているのでしょう。この搾取形態の複雑さと、そこから生産される無機質な文明社会に存在している虚無感からではないでしょうか?
 ヴィットリアは、憧れのアフリカを想像し、自らの恋愛の破局を思ったのか
 「ここでは、愛さえも複雑だわ」と力無く呟く場面があります。

 しかし、虚無感だけなら、まだいいのです。
 わたしは、この『太陽はひとりぼっち』のラストシークエンスで、バスから降車したサラリーマンの読んでいた新聞の見出し

 「各国核の競い合い かりそめの平和」

のクローズアップのこのワン・ショットにより、この物語すべてが恐ろしさと絶望感で語られていたことがわかり、目の前が真っ暗になりました。
 そして、カメラは遠くで遊ぶ子ども達の姿から、無表情な人々の姿、廃墟のような住宅街が映し出され、危機感をあおるような効果音響、そして、突然、街灯に灯りがともり、不自然な灯りのアップからフェード・アウトするラストシークエンス。

 ヒルファディングは、商品取引や銀行の利得の分析を行ったうえで、金融資本の独占・集中から自由競争が激しくなり、それが不況を生みだして恐慌の原因となっていくとしています。しかも、その経済政策は働く者の職業を奪いながら、国内市場で拡大を継続し、国際的な自由貿易にまで影響を与えるようになっていきます。つまり、力のある企業が資本を独占していき、国際関係にまで影響を及ぼし、最悪の場合には、国際間での暴力的衝突に帰結してしまうと警戒しています。

 アントニオーニ監督は、ヒルファディングと同様の見解で、最悪の事態をラストシーンに表現したのではないでしょうか?

 アントニオーニ監督は、日常の何不自由のない生活から生まれる怠惰や倦怠、そして、原因の分からない不安感などを忘れ去るために、あえてエネルギッシュな曲調のリズムを好んでしまう一般大衆の嗜好を感じ取って、ミーナが唄うツイストの主題歌を使ったのではないか、との所感が何かの書籍に書かれていた記憶があります。
 そして、映画のファースト・シークエンスで使用されているその曲は不自然に途切れ、不気味で不安な不協和音に変わります。これもアントニオーニ監督の演出の方法なのかもしれません。
太陽はひとりぼっち ベスト・オ
ミーナ / キングレコード





 この作品のテーマは「愛の不毛」であるといわれていますが、恋愛が単なる男女間の個人的な問題ではなく、社会と全く同じものであるということが描かれているのだと思いました。つまり、恋愛をファクターとした社会派の作品であると解釈できるが故、「内的ネオ・リアリズモ」の呼称で体系付けられているのでしょう。

 そして、今更ながら、ミケランジェロ・アントニオーニがイタリア映画全盛期の「ネオ・リアリズモ」の体系のなかで活躍した巨匠であり、アラン・ドロンは、そういった一連の作品のなかで、俳優としてのキャリアを積むことの多くの機会に恵まれていたことを思い返しました。
 アラン・ドロンは、本国では極端な共和主義者(フランス国内では右翼)であることが定着しているのですが、若い頃の彼にこのような基盤があることが、わたしとしてのアラン・ドロンのファンであることの誇りに結びつく理由のひとつとなっているのです。
 このようなアラン・ドロンのことを考えたとき、本物の右翼と似非の右翼の違いは歴然としてくるのではないでしょうか?
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by Tom5k | 2005-08-27 16:52 | 太陽はひとりぼっち(5)