『若者のすべて』①~赤い公爵 ヴィスコンティ~

 資本主義的生産様式は、最終的に労働力を商品とする社会です。そして、プロレタリアートが労働力の売り手を見つけることを可能とするこの生産様式の歴史的段階では、強力な「貨幣と商品の循環」の状態が制度化されていなければなりません。
 貨幣が生まれるためには、それほどの多くの「貨幣と商品の循環」は必要ではありません。しかし、資本が生まれるためには、この「貨幣と商品の循環」がすでに整備されていなければならず、そこでは、労働力を売り買いするための市場が強く必要とされます。
 資本を集め、積み重ねていく商品経済の支配者であるブルジョアジーは商品を生産するために、必要な全ての生産手段を所有しています。工場、機械、土地、原材料等、そして、労働力を有するプロレタリアート。

 そして、プロレタリアートも元来は農民、農業生産者でした。土地や家畜を持っていました。肥料や道具を持っていました。しかし、土地は収奪され、生産者としての生産手段を奪われます。多くの農民は、この『若者のすべて』という作品で描かれているように、戦後のイタリアの南北経済格差の問題の渦中においてのパロンディ一家のように、農民という直接生産者から、労働力を売って賃金を得なければならないプロレタリアートにならざるをえませんでした。
 こうなれば、ブルジョアジーはより有利にプロレタリアートを雇用することができます。無数の人々が、パロンディ一家のように生産手段から力づくで引き離され、労働力の売り手として労働市場に放り出されます。その収奪はもう取り返しが不可能なほど徹底せざるをえません。

「いつかは、今すぐにでないにしても、俺は故郷(くに)へ帰りたいんだ・・・でも帰れるかどうかはわからないが・・・。とても無理だろう。俺には・・・でも俺たちのうちのひとりは、故郷(くに)へ帰らなくちゃいけない・・・ルーカ、おまえかもしれない。
忘れるなよルーカ、あれが俺たちの故郷(くに)だ・・・オリーブの樹が繁り、月が明るすぎて気が変になるくらいの土地だ・・・虹の故郷(くに)だ。」

 このように、アラン・ドロン演ずるロッコがいくら故郷を懐かしみ、いつか兄弟の誰かが帰らなければならないと願っても、生産手段を奪われた農民にはもう故郷など無いのです。
資本論 1 (1)
マルクス エンゲルス 向坂 逸郎 / 岩波書店





 しかるに、プロレタリアートは自由です。農民と異なって、自分の労働力を売ることも自由であり、生産手段である土地、自らが縛り付けられていた土地からも自由です。

 カティナ・パクシノウが演じたパロンディ家の母ロザーリアは、南部での農業をやめて、ミラノに来て「マダム」と言われることが、とてもうれしかったと語っています。
「街の人がわたしのことを“奥さん”て呼んでくれた“奥さん”てね こんな大きな街でだよ 息子たちが立派だから・・・」

 プロレタリアートの自由は、この二つの自由です。

 ですが、すべての生産物はそれを直接に生産したプロレタリアートのものではなく、すべての生産手段を所有しているブルジョアジーのものです。
 ドイツの経済学者カール・マルクスは、大著『資本論』のなかで、「資本の本源的蓄積」について、労働力を譲り渡して生活しなければならないプロレタリアートが、常に搾取されていくシステムを、理論として証明しました。ブルジョアジーは「G-V-G′」つまり、「貨幣-商品-より多くの貨幣」の循環から利潤、すなわち「剰余価値」を生み出します。そのため、この拡大する貨幣をストックし、資本へと蓄積していくために、ブルジョアジーはプロレタリアートを搾取し続けていかなければなりません。

 そして、プロレタリアートは、人間としての自由をわずかに持ってはいますが、己の生活を完全には保障されてはいません。いつなんどき、路頭に迷い、人間的な尊厳まで、捨てて生きていかなければならなくなってもおかしくないのです。

 特に、カール・マルクスは、『資本論』第7篇「資本の蓄積過程」第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」で、「相対的過剰人口の最下層の沈滓(おり)」について、論述しています。
 その第3節では、生産力の発達が消費財の生産を増加させ、それが労働力の人口を増大を招くとしました。機械の改良による労働の単純化が成人プロレタリアートの失業と女子・児童労働の雇用増大となって現われ、人口が増加傾向となり「相対的過剰人口」、すなわち「産業予備軍」が形成されると分析しました。パロンディ家も、5人の息子を持つ大家族です。

 そして、第4節で「相対的過剰人口」のさまざまな実存形態を分析し、「受救貧民」の言葉で零落者やルンペン、労働無能力者のことを指摘しました。分業による転業の能力がないために没落したり、プロレタリアートの標準年齢を超えている人々が発生し、資本の蓄積による貧困の蓄積を条件づける結果となることやブルジョアジーによる富の蓄積についての対極において、プロレタリア階級には「貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積」が発生してしまうことを指摘しました。

 この作品では、これにレナート・サルヴァトーリが演じた二男のシモーネが該当します。シモーネは単なる弱い駄目な悪い人間ではなく、資本主義的生産様式によって必ず生み出される「産業予備軍」、そして、そこから創出されざるをえない「相対的過剰人口の最下層の沈滓(おり)」だといえます。シモーネという人物の発生は資本主義的生産様式による必然なのでしょう。

 そして、ルキノ・ヴィスコンティ監督の描いたロッコ・パロンディの罪悪感は、カール・マルクスの名著『ドイツ・イデオロギー』で論述されている「フォイエルバッハに関するテーゼ」によって方向付けられた「史的唯物史観」によるものなのでしょうか?

 人間の罪悪感が生み出す人間の聖人化は、悲劇しか生み出しません。すなわち、ヴィスコンティの意図的な演出のなかでのロッコの生き方は、コミュニズムにおける宗教批判にも繋がっていると思われるのです。ロッコの生き方そのものが聖人化しており、それは全ての悲劇を招き入れました。それが何に起因するのかはラストシーンのクライマックス、シモーネが殺人を犯して帰ってきたとき、母ロザーリアが絶望して神を否定するシーンに表現されれいます。ロッコが、そのとき母に言い放った言葉は

「神様を悪く言うのはおやめよ!」

でした。
 プロレタリアートの拠り所は宗教にさえもないのです。いいえ、むしろ、それは「宗教からの解放」の必要性さえ訴えかけているようです。

ドイツ・イデオロギー 新編輯版 岩波文庫
廣松 渉 マルクス エンゲルス / 岩波書店





 かつての支配階級の「貴族」の末裔である【赤い公爵「ヴィスコンティ」】が、先鋭的なコミュニストとして、映画芸術において、社会改革者の先兵たることを選択していた決意は誰もが読み取ることだと思います。
 しかしながら、資本主義的生産様式によるシステムの次に来たるべき経済システムが、カール・マルクスが唱え、多くのコミュニストたちが唱えていたように「計画経済」なる生産様式だったのでしょうか!?

 残念というべきなのでしょうか?多くの悲惨を抱えたプロレタリアートを救済するはずだったコミュニズムは、あまりにも多くの失敗を、歴史において露呈してしまったといわざるをえません。


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若者のすべて オリジナル・サウンドトラック盤、音楽・指揮:ニーノ・ロータ、歌:エリオ・マウロ
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by Tom5k | 2005-08-20 17:22 | 若者のすべて(3)