『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』①~もう一人の自分 ドッペルゲンガー~

 好むと好まざるに関わらず、自分がもうひとりの自分を必要な場合とはいかなる場合でしょうか?
 二重身=ドッペルゲンガーとは自分自身がもう一人の自分を見たり、存在すると確信したりしてしまうことで、分身体験などともいわれ、多重人格とは区別されているようです。
 そして、これらの現象事例の多くには劣等感コンプレックスの問題があるのではないかといわれているそうです。
 コンプレックスの結果には現時点の自己自身に満足できずに、別の高次の人間になりたいという願望を生み出す要素があります。元来はその願望は人間の成長にとって必要なエネルギーであり、健康で正常な場合においては自己の内奥での葛藤が統一されて成長・発達の段階を経ていきます。
 しかし、コンプレックスが極端に増大していたり、何らかの理由、例えば、現時点の自分でいることの苦痛に耐えられないのに、本人のナルシシズムの性行において、現在の自らを否定しきれない場合、自分を制御しきれず、極端な自己嫌悪などに陥っている場合、耐えることのできない生活のなかで新しい生活を創り出せない場合、多くの異常体験や極度な苦痛が伴う経験を多くしてしまった場合等々から健康な発達が正常化できず、自身の内面を統一しきれないとき、もう一人の自分自身の存在が必要となるのかもしれません。
 
【二重人格の事例が現代では殆ど生じないのに対して、二重身の例は今も存在する。(~中略~)
 先ず、この現象は多くの文学作品の主題となっていることを述べねばならない。これらの作品を見てみると、大別して「分身を失うことの恐ろしさ」を主題としたものと、「分身の出現あるいはその出会いの恐ろしさ」を主題としたものに分けることができそうである。(~中略~)もう一人の自分を見た驚き、恐れなどを描き出したものとしては、エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン」、ドストエフスキー「二重人格」があげられる。】

『コンプレックス』(河合隼雄 著 1971年 岩波新書より)
コンプレックス
河合 隼雄 / 岩波書店






 『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーの原作を「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先駆者の一人である映画作家ルイ・マルの演出により、アラン・ドロンとブリジット・バルドーが主演し、前述した通常であればひとりの人間の中にある自分自身、それが完全に分離し、別に存在してしまった現象である「二重身=ドッペルゲンガー」をテーマとした非常にセンセーショナルな作品です。
William Wilson
Edgar Allan Poe / Amazon Press






 「二重身=ドッペルゲンガー」のウィリアム・ウィルソン2役を見事な演技でこなしているのは名優アラン・ドロンですが、この作品での彼は本当に素晴らしく、特筆に値します。未来において、彼の代表作の中でも際立つ1本として、映画史に残っていく作品として、記憶に留めるべきでしょう。

 ジクムント・フロイトは精神分析学を創始し、われわれが自分の心だと思っている部分つまり意識の他に、自分を自分でわかっていない部分の無意識があるらしいことに初めに気が付いた学者といわれています。
 今、われわれの生活でも無意識のうちにある願望等が、日常生活そのものを支配していることは特記するほどのことではないでしょう。
 そして、良心的自我・行動を行うパーソナリティの一側面である「超自我」といわれるものにおいては、いわゆる「自我」と異なり、普段は無意識に追いやられています。しかし、「自我」の欲求行動を「超自我(良心)」の制御によってコントロールしている場合は日常的にも多いようです。そういった意味から考えれば、この作品に登場するもうひとりのウィリアム・ウィルソンは、人間の「超自我」を表現するために「二重身=ドッペルゲンガー」として取り扱かわれた存在であることがわかります。

 現代社会においては、時代の病根は益々拡がり、生きる目的そのものの喪失感にまで拡がってしまっています。人間本来の発達目標がコンプレックスと結びつくことすら困難な様相です。
 しかも、種々の日常的な外的刺激によって、自身の欲求が必要以上に刺激され、ウィリアム・ウィルソンのように快楽・快感を追求しようとばかりしてしまう環境を誰もが身の周りに持ってしまった時代といえます。
 そして、それらの欲求は、社会規範の強化、道徳教育の奨励、法令改正等による規制事項の増大、労働賃金の低下・・・等々により、もうひとりのウィリアム・ウィルソンのように欲求の禁止事項となりつつあり、人間の行動エネルギーの否定として一般化されてきていることも多くなってきている状況です。
 これらのことは極端に考えれば、外的な刺激を多く創り出しながら、常識や規範、法令等で禁止事項を増やそうとする社会の二重身化ともいえそうです。

 更にわたしは、自分自身でありながら、常に自分自身が自分自身の外にあるという現代人の人間疎外の状況が、誰もが抱えなければならない問題になってしまったことに危機を感じます。
 この世界のなかでわれわれは常にアウトサイダーであり、どこまでもその運命は免れません。そして、自分の個性が破壊されつくしてしまう恐怖は生活の条件であり、常に自分を自分の外側に置かなければ安心できないほどです。
 恐ろしいことかもしれませんが、もはや、2人のウィリアム・ウィルソンは、日常生活の前提条件かもしれないのです。
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by Tom5k | 2005-07-02 16:10 | 世にも怪奇な物語(3)