『アラン・ドロンについて』⑥~アラン・ドロンの二重自我 その2 伝統的キャラクター・アクター その2~

 アラン・ドロンの二重(面)性に眼をつけたのは旧世代だけではありません。新世代「ヌーヴェル・ヴァ-グ」の作家のひとりであったルイ・マル監督も、彼の二重(面)性を描きました。
 また、実はわたしとしては、アラン・ドロンが最もアラン・ドロンらしいと思うのが、『世にも怪奇な物語』の第二話「影を殺した男」のドッペルゲンガー、ウィリアム・ウィルソンなのです。

 何故、ルイ・マルがアラン・ドロンとの仕事を引き受けたのか、というたいへん興味深い疑問も湧き上がって来るところではありますが、あらゆる意味から、結果的にはこの第二話「影を殺した男」は素晴らしい成功を収めたといえましょう。
 ルイ・マル自身もこの《分身》というストーリーの核となっているテーマに非常に興味をもって臨んだとのことです。
 それだけヨーロッパ映画においては、自身の内面を統一しきれないときのもう一人の自分自身の存在の必要性、つまり《分身》というテ-マが多くの観客を惹きつける妖しい魅力を放っていたのかもしれません。

 このウィリアム・ウィルソンという主人公のキャラクターについては、ジャン・リュック・ゴダール監督も常に引用・言及しています。

【たとえば、『気狂いピエロ』について語る際に、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」と題された短編小説に言及し、この名前ないし偽名をめぐる小説としても興味深いテクストが示す、生身の人物とその双生児的な分身としての影像との関係から、ウィルソン=映画作家という視点を提出するとき(「わがピエロ」、一九六五年)にも明瞭に示される。】

 ジャン・リュック・ゴダール監督が映画を語るとき、映画が現実世界を視覚に置換させるものとして、現実世界の翻訳によって成り立つこと、つまり映画の世界が観衆側の世界であることに最もこだわっているように思います。その言及は、作家の側の生気をフィルムに吸収させてでも、それを現実世界に還元させるものとして定義しているのです。

【『気狂いピエロ』において、「人生を撮影したとわたしが確信した瞬間、まさにそのためにわたしは人生を取り逃してしまったのです。」(「わがピエロ」)】

(【 】内、引用は『現代思想 総特集 ゴダールの神話 不在の神秘/神秘の不在 松浦寿夫』青土社、1995年10月臨時増刊)
ゴダールの神話
/ 青土社






 ゴダール監督の映画作家たることの意義にまで例えているこのウィリアム・ウィルソンの例示から考えても、アラン・ドロンがゴダールの同志ルイ・マルの演出において、『影を殺した男』でウィリアム・ウィルソンに扮した実績が、『ヌーヴェルヴァーグ』制作にあたってのこだわりのひとつとなっていたことは想像に難くありません。

 それに加えて思い出されるのは、『気狂いピエロ』でジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公フェルディナンと、アンナ・カリーナが演ずるマリアンヌの逃亡中の会話に、エドガー・アラン・ポー原作の小説「ウィリアム・ウィルソン」に触れる印象深いセリフです。

「彼は幽霊を見て殺そうと追いかけた 目的を果たしたら 死んだのは彼自身で 残ったのは幽霊だった」
気狂いピエロ
/ ハピネット・ピクチャーズ





William Wilson
Edgar Allan Poe / Amazon Press






 『世にも怪奇な物語』については、どのブログ記事を読んでもフェデリコ・フェリーニの第三話「悪魔の首飾り」を絶賛しており、それは現在、一般的な評価となっているように思います。
 しかしながら、映画のテーマにしても、アラン・ドロンの名演にしても、成熟したアラン・ドロンのファン、もしくは映画ファンなら、間違いなくこの第二話「影を殺した男」を客観的な意味において最も高く評価するはずです。

 ウィリアム・ウィルソンは、フランケンシュタイン、ドラキュラ、ジキルとハイド、ターザン、ゾロ、オペラ座の怪人、怪盗ルパン、カシモド・・・などと肩を並べるほど魅力的で典型的なキャラクターであるように思います。特に現代においては、それは益々意味深いテーマとなってきていることは、現実世界の生活実感においても感じることが可能なほどです。
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 その魅力ある、そして現代的テーマの典型であるような主人公ウィリアム・ウィルソンをアラン・ドロンが演じたのです。しかもこれ以上のはまり役がないほど、彼はこの主人公と同化していたように思います。
 この作品に限っては、エドガー・アラン・ポー原作の古典でありながらも、アラン・ドロン以上のウィリアム・ウィルソンを演じることのできる俳優は、今後、もう現れないのではないだろうか、とまで思ってしまいます。

 フランケン・シュタイン=ボリス・カーロフ、ターザン=ジョニー・ワイズミュラー、ドラキュラ=ベラ・ルゴシもしくはクリスト・ファー・リー、ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー・・・等々。
 それ以上のはまり役はないとまで言えるスター俳優のキャラクターへの同化と同様に、わたしとしては、アラン・ドロンが演じた強烈な個性の主人公たち、トム・リプリー、ロッコ・パロンディ、そして、私見でしかありませんが、ジェフ・コステロをも凌駕するキャラクターであったようにまで思うわけです。

 しかも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」体系の手法を持つルイ・マル監督が、エドガー・アラン・ポーの原作を演出したものです。フランソワ・トリュフォーの古典への回帰(この回帰主義に関わっては賛否の両論がありますが)を先駆けていたようにも思います。


 そして、わたしのなかに、さらに浮かび上がってくる作品がアラン・ジェシュア監督の『ショック療法』です。
 どうみてもこれは現代版ドラキュラもしくはヴァンパイアであり、いわゆるB級ホラー作品なわけですが、わたしとしては、できれば著作権など買い取って、ブラム・ストーカーの原作、カール・テオドア・ドライヤー監督の『吸血鬼(ヴァンパイヤ)』やF・W・ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』、トッド・ブラウニング監督の『魔人ドラキュラ』などを新古典としてリメイクして欲しかったように思っています。
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 ひとり古城に住み、美女の生き血を求め深夜の街を徘徊する美男の伯爵、耽美的で魅力的なアラン・ドロンのドラキュラ伯爵を観たかったファンは、わたしだけではないはずです。
 ジャン・ギャバンがヘルシング教授となって、ドロンのドラキュラを退治するなど、わたしの勝手な想像力は留まるところを知りません。
 監督としては、ドロンの渡米前ならば、ジュリアン・デュヴィヴィエに演出してもらいたかったです。強い倫理観で勧善懲悪のテーマとなりながらも、神と悪魔の矛盾や民衆の賢さや愚かさなどに、詩情をあふれさせながらの大作となったように思います。

 アラン・ドロンの人気が全盛期の70年代なら、フランシス・フォード・コッポラ監督、もしくはスティーブン・スピルヴァーグ監督に演出してもらいたかった。
 まだ、商業娯楽に埋没する以前の「アメリカン・ニューシネマ」時代の精神で撮って欲しい。《疎外される緊張感》や《追われる恐怖》などを主題に新しい発想において、クラシック作品を復活させて欲しかったです。

 ジョセフ・ロージー監督のコスチュ-ム・プレイも観てみたいように思います。たいへん恐い作品になったのではないでしょうか?ブルジョア家庭の令嬢の血を求め、その一族が虐げられていた貧困な農民たちに八つ裂きにされていく、というようなサディスティックで恐ろしい前衛作品になったでしょう。

 80~90年代なら、フォルカー・シュレンドルフの演出で、ドイツ表現主義で描いていた吸血鬼(ヴァンパイア)を、ニュージャーマン・シネマのリアリズムで復活させてほしかった。ヴェルナー・ヘルツォークよりも風刺の効いたエレガントなドラキュラもドロンに似合うように思います。
 また、パトリス・ルコント監督なんか、どうでしょう。詩情豊かでロマンティック、かつシュールな作品となったかもしれません。
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ブラム ストーカー / / 東京創元社





 さて、この『ショック療法』でも、いつも通りにアラン・ドロンの二重(面)性は、最大級のうさんくささを発露させています。しかも、それはやはり魅力的なわけです。
 ブルジョアジーたちの若さや美しさへのこだわりこそ醜悪で、しかもその底辺には貧しき若者たちの犠牲があるという現代社会の縮図のようなエステ・サロンの院内を舞台としており、ブルジョアジーの欲求を最大限に利用し、弱者を犠牲にして成り立つビジネス社会、現代の引き裂かれた社会でのアラン・ドロンの二重(面)性が、それらを暗喩するように描かれています。

 そして、アニー・ジラルド演ずるエレ-ヌを乗せたセスナ機での遊覧飛行で、アラン・ドロンが演じた二重人格の主人公ドクター・デヴィレが本音を漏らすシークエンスに、わたしにとっての非常に印象深いセリフがありました。

「この国は何もかも中途半端で嫌いだ 文明と文化のゆりかご 一度は逃げた アマゾンの奥地へね だけどなじめなかった いやでも同国人ばかり固まるのさ 堕落のかぎりだ」

 当時の現実のアラン・ドロンのやりきれない想いが言葉になっているような気がしてならないのです。アイデンティティを引き裂かざるを得なかった哀しい男の居直りが垣間見える瞬間であったように思われ、わたしとしては実にリアルな説得力を感じ、アラン・ドロンが自身の内部に何故、二重(面)性を持つに至ってしまったかのヒントが隠されているようにも考えてしまいます。

 さらには、『ヌーヴェルヴァーグ』でアラン・ドロンの演じた主人公の超越、ロジェ・レノックスからリシャール・レノックスに超越した理由が、このドクター・デヴィレのセリフにあるようにも感じ取れるのです。


 そして、古典・クラシックの王道であるジョンストン・マッカレー原作「怪傑ゾロ」を映画化した『アラン・ドロンのゾロ』です。
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 この企画も意外なように見えながら、アラン・ドロンという個性としては典型的な作品であったようにも思います。
 この作品も、やはりキャラクターの二重(面)性、すなわち「主人公の《分身》」というテーマを扱っていることから、アラン・ドロンにおいての特に重要な作品として位置づけられると考えます。

 正義の義賊を演じていてもやはり、常に謎を秘めた魅力を発散させており、しかもこの怪傑ゾロというキャラクターには、存在しないはずのもの、すなわち民衆の願望ともいえる存在が、そこに実在しうるという、極めて魅力的な「不在性の神秘」が露呈されていると感じるわけです。

 『ヌーヴェルヴァーグ』で主人公リシャール・レノックス登場のシーンに、このゾロの初見参のシークエンスをオーバー・ラップさせたのはわたしだけでしょうか?

 「この人を見よ」という、このニーチェの言葉とともに登場するリシャール・レノックス。

 現代において神は死に絶え、力への意志のみしか生存(実存)しえない、そうまさに超人化することだけが現代人の生き方となるというニーチェの思想を象徴させているシークエンスには、怪傑ゾロが開拓宣教師フランシスコを救済することで民衆を解放するという実践を、現代社会に置換させたものだったとしか、わたしには思えませんでした。


「伝統的なキャラクター・アクターとして、かつ二面性に魅力を発露させていたアラン・ドロンは、あらゆるジャンルの映画においても、どんな監督から起用されても、特に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家、ジャン・リュック・ゴダール監督の演出においてさえも、その一貫性を貫いた。」

と未来における俳優史に評価されることは想像に難くないことです。
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by Tom5k | 2007-07-21 02:09 | アラン・ドロンについて(12)