『太陽はひとりぼっち』②~現代社会のディスコミュニケーション「内的ネオ・リアリズモ」~

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品主題は今更言わずとも、「愛の不毛」であり、それは男女間のみならず、人間同士の「コミュニケーションの不可能性」を表現し続けていった演出でした。
【参考~koukinobaabaさんのブログ『Audio-Visual Trivia for Movie & Music』の記事「太陽はひとりぼっち L'Eclisse」

 その時代、その主題そのものが、ヨーロッパで初めてとも言われたワンショット・ワンシークエンスなどの映画技巧とともに実にセンセーショナルなものであったことは想像に難くないことです。

「『情事』のラスト・シーン。中心で真二つに分割された構図で、アントニオーニは、この二人の間の永遠の断絶を描いた。」
「『情事』の後に、彼は『夜』(1961)『太陽はひとりぼっち』(1961)『赤い砂漠』(1964)などの一連の作品で結局ただひとつのことを言っている。(-中略-)世間的に成功した作家夫妻、株式取引所をめぐる若い男女の短い出会い、また神経症的素質のために軽い狂気に陥った人妻など主としてブルジョワ階級を中心にして設定して彼らの間で人間と人間との連体や交流が、利害関係や習俗によってはもちろん、愛情やいわんやセックスによっても成りたちえなくなった、断絶と絶望の現代の一側面を描いた。」
【引用~『現代映画芸術』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1971年】
現代映画芸術 (1971年)
岩崎 昶 / / 岩波書店





マルチェロ・マストロヤンニ / / アイ・ヴィー・シー





赤い砂漠
モニカ・ビッティ / / ジェネオン エンタテインメント





 『太陽はひとりぼっち』にも、アラン・ドロン演ずるピエロとモニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアが初めて出会う証券取引所で、彼らがその施設内の支柱を挟んで左右に映るショットがあります。そこには彼らが出会ったときから、すでに深い溝、すなわち「断絶」のあることが表現されているのです。

 初めて二人が出会ってのデートのとき、キスを拒否したヴィットリアを見送るピエロに対して、ひとり彼女は振り向かずに歩き出します。
 振り返ってピエロを探すヴィットリアの後ろに既にピエロはいません。そこには閑散とした住宅街の風景があるのみでした。結ばれる前からの断絶、空疎な現代社会での「ディスコミュニケーション」という俗語がピタリと当てはまるショットが、このようにいくつもあるのです。

 ヴィットリアの虚無感と憂鬱については、あの有名な冒頭からワンショット・ワンシークエンスの恋人との破局のシーンから、充分に理解することができます。

 しかし、彼女が自分の生活に不足を感じ、常に無意識に何かを求めていることも間違いのないことなのだと思います。
「ヴィッティが友人の夫の操縦する小型飛行機ではしゃいだり、深夜友人のアパートで歓談したり、逃げた犬をみんなで追いかけたり、といった、それ以前の作品にはあってもきわめて弱々しかった、躍動する開放感に満ちたいくつかのシーンがある。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】
アントニオーニの誘惑―事物と女たち
石原 郁子 / / 筑摩書房





 深夜に友人宅での逃げた愛犬を追ったり、アフリカのケニアの魅力に踊りふざける様子、セスナ機での雲の中への飛行などのシークエンスには、常に暗鬱な彼女の、実は求めてやまないものの断片が垣間見えるように思うのです。
 それらは、無垢で単純な自然なものの姿なのかもしれません・・・そして、それと同様にピエロとの逢い引きに表れる彼女の表情に開放的な歓びが表現されているように感じるのです。
 若くエネルギッシュなホワイト・カラーのビジネスマン、ピエロ。彼への魅力の感じ方もこのような意味から理解できるような気がします。



 「太陽」は人類にとって最高・絶対の存在、その存在さえ蝕まれる日蝕、すなわち擬人化して表現すれば、このように孤立した太陽を『太陽はひとりぼっち(原題L' ECLISSE(日蝕))』とした邦題は面白いと感じます。
 その「太陽」とは、現代資本主義の象徴と役割を持った「証券取引所」を指しているのでしょう。その証券取引所での黙祷の後の大暴落のシークエンスでは、証券取引所の不必要性を表現しているようにも思われます(「証券取引所はひとりぼっち」???)。

「証券取引所は無くてはならないものかしら?」
ヴィットリアは醒めた表情でピエロに問いかけます。

【参考~サーチカさんのブログ『サーチカの映画日記』の記事「太陽はひとりぼっち/ミケランジェロ・アントニオーニ」

 当時のイタリアの「ネオ・リアリズモ」なるものは、戦後民主主義による左派系の影響を受けていたことは間違いないことで、ルキノ・ヴィスコンティ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルイジ・ザンパ、ピトロ・ジェルミ、ジュゼッペ・デ・サンティス、アルベルト・ラットゥアーダ、そして、ロベルト・ロッセリーニなどの演出は、無産階級である未熟練労働者の疎外された姿、ファシズムへの痛烈な批判を描いたものや反戦映画などの作品体系によるもので、ミケランジェロ・アントニオーニの出発点もそこにありました。

「『ポー河の人々』と『NU(都市の清掃)』のドキュメンタリー映画で、私は既に民衆に向かっていました。私は幾分自分自身のために、ネオレアリズモを創り上げなければなりませんでした。誰も私には教えてくれませんでした。私は民衆の世界を本能的に愛していました。思春期の頃、私は夜明けに起きて、田舎の方へと出発する馬車に乗り、御者と話しをしました。居酒屋の人々や女性の間で幾晩も過ごしました。私は彼らがとても好きでした。(-中略-)けれども、感情についての物語の中で、民衆について語るのは、私には難しいことに思えました。私が内面をよく知っていたのは、裕福なブルジョアという自分の環境でした。・・・」
【引用~『アントニオーニ存在の証明―映画作家が自身を語る』カルロ ディ・カルロ、ジョルジョ ティナッツィ編、西村安弘訳、フィルム・アート社、1999年】
アントニオーニ 存在の証明―映画作家が自身を語る
/ フィルムアート社





 「ネオ・リアリズモ」の継承者アントニオーニが、自身においても「内的ネオ・リアリスト」と呼ばれるようになっていった経緯については、このように、すでに各種の彼についての名著やインタビューでも十分に明らかにされています。

「(-略-)いうところの「近代化」社会、大衆社会に住む人間の当面するのっぴきならなぬ苦境は、ひと口にいえば、人間喪失、疎外状況というに尽きる。したがって現代の真剣また敏感な芸術家がこの主題をとりあげずにすまないことは当然であるが、映画作家としてのミケランジェロ・アントニオーニの特徴、そしてほとんど唯一の関心はこの一点に集中している。彼はかつてムッソリーニ時代には反ファシズムの地下運動者であり、戦後はネオリアリズムの創作人の一人であったが、さきに明らかにしたように中途で自ら名づける「内的ネオリアリズモ」に転換し、人間の心内にある「形而上的リアリティー」(フェリーニ)を目ざすことになった。」
【引用~『現代映画芸術』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1971年】

「ネオ・リアリズモを救うためには、それを内面化する必要がある」(ミケランジェロ・アントニオーニ)
「(-略-)今、あなたは現代のブルジョワジーをどのように表現しますか?(-略-)
現代のブルジョワジーと比較すると、当時のブルジョワジーは白百合のようなものだったと言えるでしょう。(-中略-)ある種の特権の擁護のためと、彼らを絶滅へと導いている(ように思える)内的な堕落のために、ブルジョワジーは数多くの事件の糸を引いているように思います。(-中略-)今日『太陽はひとりぼっち』を作らなければならないとすれば、もっと非情で暴力的なものになるでしょう。」
【引用~『アントニオーニ存在の証明―映画作家が自身を語る』カルロ ディ・カルロ、ジョルジョ ティナッツィ編、西村安弘訳、フィルム・アート社、1999年】


 飛行機内ではしゃぐ有閑のマダムたち、飛行場でのレストランでは、店外のベンチに腰掛けている労働者たちの姿、店内でビールを飲むホワイト・カラー労働者の姿。
 わたしは、このワンシークエンスに、現代社会の現実、特に平和な社会であっても、それが実に空疎なものであることがシンボライズされていたように思うのです。
 その各々は、彼らのが映画という同一のフレーム内に表現されているにも関わらず、各々が遠く点在しているがために、「コミュニケーション」においての絶対的な不可能性が表現されているように思ったのです。


「現在を繊細に見つめて未来へと先鋭に向かうアントニオーニのまなざしは、当然つねに予言的な力を孕み、彼は『さすらい』で飛行場の建設が農民から土地を奪うことについて、『太陽はひとりぼっち』でマネー・ゲームの陥穽とアフリカの白人支配の終焉と核の恐怖とについて、『赤い砂漠』で工場の排水による公害問題について、『砂丘』で砂漠地帯への人為的な環境汚染について、そして16ミリの記録映画『中国』でたぶん文化大革命の限界について、他の映画作家たちにも観客たちにもはるかにさきがけて言及している。そして、それでいながらなお彼は進歩を信じ、人間は誤謬を正して前進すると考えるのだ。(-中略-)その等身大の個人が日常で否応なく出会うものとしてごく自然に政治的な場面を含み、そのとき人びとは決して現状に満足していないのだが、未来はもっとよくなると考え、そのために行動し、未来への希望を口にする。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】

さすらい
スティーヴ・コクラン / / アイ・ヴィー・シー





砂丘
/ ビクターエンタテインメント
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by Tom5k | 2007-04-08 13:56 | 太陽はひとりぼっち(5)