人気ブログランキング | 話題のタグを見る

映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること

by Tom5k

『若者のすべて』②~オリーブの樹が繁る月が明るい虹の故郷(くに)~

 映画評論家のベラ・バラージュによれば、「対象が観者と無関係に、それ自身にもっている客観的な観相である。(-中略-)その輪郭が観者の視覚によって、つまり画面の遠近法によって規程される観相である。両者はまったくひとつに統一されて画面にあらわれるので、よく訓練された目だけが、これらの構成要素を識別できる。」
として、観る側の作品主人公への精神的同一化が起こるとしています。
【引用~ 『映画の理論』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】
映画の理論
ベラ バラージュ Bela Balazs 佐々木 基一 / 學藝書林






 つまり、ある対象の本来備わっている姿と、映像技術などによっての表現力とが、観客を映画そのもに同化させるわけなのです。

 ルキノ・ヴィスコンティ監督がアラン・ドロンを初めて観たときに、当時の彼が原案を練っていた『若者のすべて』の主人公ロッコに会えたと驚愕したそうです。それほどまでに、アラン・ドロンとロッコ・パロンディには共通のキャラクターが存在していたということなのでしょう。

 しかし、アラン・ドロンが、『若者のすべて』のロッコ・パロンディのようなイノセントなキャラクターを演じたことは数少なく、彼の後年のファンにおいては、この作品で演じたロッコ・パロンディに違和感を憶えるという意見も少なくありません。

 更に興味深いのは、イタリアのトリノの労働組合でテキストとして使用されたこの作品に対する最も多かった感想が、主人公ロッコ・パロンディに対する批判の集中であったことです。
「トリノでは『若者のすべて』をテキストに、労働者たちの討論会が行われた。そこで一様にロッコへの非難が集中したという。ロッコはシモーネに暴力をふるわれっぱなしで我慢がならない、あるいは、ナディアに対してロッコは曖昧なことを言い、ごまかしている・・・」
【引用~『退廃の美しさに彩られた孤独の肖像 ヴィスコンティ集成』フィルム・アート社、1981年】

「この映画以後ドロンは一躍、国際的なスターとなって、劇場側が歓迎するぺてん師やギャング役を演じる映画に次々と出演した。したがってロッコを演ずる彼を見ていない人には、ヴィスコンティの厳しい指導に耐えて彼がこの役で演じ切った、ほとんど輝くばかりの愚直さと、悲哀と、しんの強さを想像するのはむずかしいかもしれない。」
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 (1982年)

平凡社



 これらのことから、アラン・ドロンが演じたロッコ・パロンディのキャラクターには、「主人公への精神的同一化」が起こりえない一側面があることは、否定しきれないように思います。

 何故なのでしょうか?

 マックス・カルティエール演ずる四男のチーロが、ラスト・シークエンスで言っています。
「ロッコは聖者だ。でもわれわれの住んでいる世界には、ロッコのような聖者のいる場所はないんだ。」

 ルキノ・ヴィスコンティ監督はトリノの労働者たちのロッコへの批判に対して、
「ロッコは兄シモーネに対して罪悪感を持っている。このことは忘れたくない。彼は自分が悪いことをしていると確信しているのだ。」
と答えたそうです。
【引用~『退廃の美しさに彩られた孤独の肖像 ヴィスコンティ集成』フィルム・アート社、1981年】
ヴィスコンティ集成―退廃の美しさに彩られた孤独の肖像
/ フィルムアート社




 ロッコは、宗教(イタリアの場合はカトリック)からも解放されていません。レナート・サルヴァトーリが演じている兄シモーネに対する彼の罪悪感は、そんなところからも生まれているのではないでしょうか?

「神様を悪く言うのは、おやめよ。」
 カティナ・パクシノウ演ずる母親ロザリアに対してのロッコの絶叫です。

 逆に、人間というのは罪悪感にさいなまれると、多かれ少なかれロッコのように聖人化することもあるのかもしれません・・・。

「(-略-)ジョヴァンニ・テストーリの『ギルファ橋』の三つの短編から材料を採り入れることにした。(-中略-)当時は新人作家で-恩寵と個人の救済の問題にとり憑かれたカソリック教徒として、その強固な宗教的分別を社会的問題に当てはめて文章を書いていた。」
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】


 また、この作品はドストエフスキーの「白痴」をモチーフにした作品であることから、その主人公ムイシュキン公爵がモデルのひとつであったとも言われています。
白痴 (上・下巻)
ドストエフスキー 木村 浩 / 新潮社





「(-略-)ドストエフスキーの『白痴』のなかで「白痴的」なムイシュキン公爵の性格のりりしさに関する部分や、ムイシュキン、ロゴージン、ナスターシャの入り組んだ人間関係、ロゴージンのナスターシャ殺害に至る経緯などの部分にも影響を受けた。」
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

 労働者たちの批判、現代の標準的な映画ファンの印象、チーロのセリフ、キャラクターのモデルなどからも理解できるように、ロッコのキャラクターは、資本主義的生産様式を採っている現代の社会には、存在し得ないものだと言えましょう。恐らくそれは、現代では生きながらえることの出来なかった過去の封建社会にのみ存在したものなのかもしれません。
 わたしは20世紀初頭の実存主義哲学者ニーチェの、あの有名な「神は死んだ」という言葉を思い出してしまいました。
ツァラトゥストラはこう言った 上・下 岩波文庫 青 639
ニーチェ / / 岩波書店





 もっと突き詰めれば、アラン・ドロンが18、19世紀に存在していたと仮定するならば、彼はロッコ・パロンディと同一の個性であったような気もするのです。
 いずれにしても、この現代社会に生きる我々が、『若者のすべて』を何度観ても、映画スターであるアラン・ドロンに感情移入することは可能であっても、主人公ロッコ・パロンディに対してのそれは不可能なことなのかもしれません。


 ただ唯一、彼に感情移入できるシークエンスが、ボクシングの祝勝会での展開においてのみ、表現されていたようには思います。恐らく、ロッコが現代の矛盾を背負うことにようやく慣れてきたことからなのだろうと思いました。同時に、この段階での聖人ロッコの精神環境は、既にボロ雑巾のようにズタズタに引き裂かれていたはずです(このシークエンスの後には更なる悲劇が待ちかまえているわけですが・・・)。
 だからこそ、我々現代人がようやく理解できるキャラクターへと変貌しつつあるようにも感じるわけです。

 故郷への想いがロッコの口から出ます。
「いつかは、今すぐにでないにしても、俺は故郷(くに)へ帰りたいんだ・・・でも帰れるかどうかはわからないが・・・。とても無理だろう。俺には・・・でも俺たちのうちのひとりは、故郷(くに)へ帰らなくちゃいけない・・・ルーカ、おまえかもしれない。
忘れるなよルーカ、あれが俺たちの故郷(くに)だ・・・オリーブの樹が繁り、月が明るすぎて気が変になるくらいの土地だ・・・虹の故郷(くに)だ。」
 ロッコは、ロッコ・ヴィドラッツ演ずる末っ子のルーカに故郷への想いを託しているのです。
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

《オリーブの樹が繁る月が明るい虹の故郷(くに)》
 なんてノスタルジーを想い起こさせるセリフなのでしょう。

 故郷に心を残して、いつかは帰れることを一番望んでいるロッコ。わたしはとても心が痛いのです。彼の願いは、現代の多くの人々の共感を得ることのできる言葉ではないでしょうか?誰もが、ロッコの故郷に帰りたい気持ちを良く理解できるように思います。生産手段を持たない者たちはどんな形態であれ、故郷を奪われていきます。
 そして、その故郷と言われる場所にずっと居住していた者ですら、時代というものに故郷が奪われていかざるを得ないように思うのです。
 現代社会においては、故郷など思い出のなかにしか残らないものなのかもしれません。そして、ロッコの想いも虚構でしかないのです。


 それにしても、貴族出身であるにも関わらず、ルキノ・ヴィスコンティ監督は、どうして無産階級の様子をこんなに上手に演出することが出来るのでしょうか?

 彼は戦時中には、ファシスト政権の監視下におかれながらも、「反ファシスト被害者救済委員会」というレジスタンス運動に身を投じていた闘士であったそうです。1944年にはファシスト警察に逮捕されます。しかし彼は拷問と獄中の酷い生活で飢餓状態におかれていたにも関わらず、仲間を売るようなことはせず、むしろ非常に傲岸な貴族の威厳をちらつかせて、警官たちを見下した態度を取っていたそうです。
 それが原因となってファシストたちの怒りを買い、銃殺刑を宣告されてしまいます。連合軍によるローマ解放の前日に脱出に成功しなければ、ヴィスコンティは銃殺され、その後の功績は生まれなかったことになります。
【参考~『海外の映画作家たち 創作の秘密』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】

 戦後、イタリアの映画人によって、戦争の悲惨を徹底的に暴き出していった「ネオ・リアリズモ」の映画潮流は、ルキノ・ヴィスコンティだけではなく、ロベルト・ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ピトロ・ジェルミ、ルイジ・ザンパ、ジュゼッペ・デ・サンティス、アルベルト・ラットゥアーダ等々、多くの映画人も一般民衆とともにファシズムと闘った体験を持ったことで、形づくられていった体系であったのでしょう。

 これらの経験が彼の才能の一部になっているとはいうものの、映画を観る側の生活実感までを掘り起こせる演出力は、確たる思想・信条の裏付けを土台として、映画制作への想像力と情熱に全力を傾けていたからこそ実現できたのだと思います。このことは、敢えて言うまでもないことなのかもしれませんが、凄いことだと思います。

 彼の「ネオ・リアリズモ」の特徴が最も典型的で、卓越した集大成として描かれているのが、『揺れる大地-海の挿話-』と、この『若者のすべて』であることは一般的な見解です。
 現在でも根本的に解決されていないイタリアの南北問題に、いち早くメスを入れていた19世紀後半のヴェリズモ(真実主義)という文学運動の代表的作家ジョヴァンニ・ヴェルガは、イタリア南部における慣習や生活、人々の感性までをもルポルタージュしていきました。
 この『若者のすべて』や『揺れる大地』も、彼がジョヴァンニ・ヴェルガの『マラヴォーリア家の人びと』から着想を得たものだそうです。
マラヴォリヤ家の人びと
ジョヴァンニ ヴェルガ / / みすず書房




 そして、彼は『揺れる大地-海の挿話-』の制作に関わって、
「私のテーマは『シチリアのプロレタリアよ、団結せよ』ということにあった」
と語っており、
揺れる大地 海の挿話
/ 紀伊國屋書店





 『若者のすべて』が公序良俗に反する部分があるとして、イタリア検察当局が裁判に訴えたときにも、彼は法廷において、自身の思想がイタリア共産党の創始者であるグラムシの思想と一致すると明言したそうです。
【参考~(『海外の映画作家たち 創作の秘密』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年)(『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年)】
海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)
田山 力哉 / / ダヴィッド社




ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 (1982年)
/ 平凡社





 ルキノ・ヴィスコンティは、「赤い公爵」と呼ばれていたように、貴族階級であったにも関わらず、自身が共産主義者であることを明言していたのでした。

 思えば自分の祖先である貴族を滅びさせた者たちは、新興のブルジョアジーでした。
 新興のブルジョアジーに対する憎しみは、彼の潜在意識にすり込まれたものであったのかもしれません。
 彼らへの侮蔑と復讐願望は、『山猫』でのドン・カルジェロや『地獄に堕ちた勇者ども』への新興ブルジョアジーの没落・崩壊などの描き方によく表されています。
地獄に堕ちた勇者ども
ダーク・ボガード / / ワーナー・ホーム・ビデオ





 そういう意味では、ルキノ・ヴィスコンティにとっての敵(ブルジョアジー)の敵(ブルジョアジーを敵としている無産階級、すなわち未熟練労働者)は味方であったのかもしれません。未熟練労働者に対する親近感や愛情、限りない優しい感情が発生していった理由は、そこにあったのではないでしょうか?
 そして、そのように考えていくと、まさにそういった無産階級をシンボライズしているようなキャラクターであるアラン・ドロンという俳優を寵愛した彼の感情を、非常によく理解することができるような気がするのです。



 ロッコは、スピロス・フォーカス演ずる兄ヴィンチェンツォに語りかけます。
「憶えているかい、ヴィンチェ兄さん・・・憶えているかい、棟梁が家を建て始める時のことを・・・いちばんはじめに来かかった通行人の影に向かって石を投げたっけね」

 ルーカが不思議そうに聞き返します。
「どうして?」

 母親のロザリアは涙を流しています。

「家をがっちりと建てるためには、犠牲がなければならないからさ」
とロッコ。

 悲しい比喩です。
 チーロのクローズアップの視線を追うカメラで、シモーネのボクサー時代の写真にパンするショットに、彼が現代社会の「犠牲」のシンボルであることが表現されています。

 わたしの世代は、親の世代が日本の高度成長を担った世代です。身近な親戚や親の知り合いを探せば、シモーネほどではないにしても、ばくちが好きだったり、女性にはまったりして、家庭がうまくいかなくなったり、身を持ち崩したりした者が必ず存在するはずです。
 そういう意味では、わたくしはシモーネに対して同情的にならざるを得ません。現代では多かれ少なかれ、シモーネのような人間が創り出されてしまうものであるような気もするからです。

 シモーネが、チーロに罵倒されるシークエンスでは、彼が末っ子のルーカを、思わず抱きしめてしまうシーンがあります。そのときのシモーネの悲しそうな表情を、わたしは忘れてはならないと思うのです。
 彼のキャラクターは、本人の責任と社会の責任の両面から考えていくと、実に微妙な人間であるような気がしてしまうのでした。


 また日本の映画作家においても、明治期の日本の女工哀史、山本薩夫監督の『あゝ野麦峠』、山田洋二監督の『息子』『学校』、今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』、浦山桐郎監督の『キューポラのある街』なども、わたくしの好きな作品ですが、これらはまるで『若者のすべて』と共通のモチーフによって制作されているようにも思います。
息子
三國連太郎 / / 松竹





学校
西田敏行 / / 松竹





にっぽん昆虫記
左幸子 / / ジェネオン エンタテインメント





キューポラのある街
吉永小百合 / / 日活





 そして、今井正、黒澤明、大島渚、熊井啓、新藤兼人・・・・らの作品群。
 エイゼンシュタインが「現代の芸術である映画芸術においては、必ず資本主義を描いていなければならない」と主張していたことを思い出します。

 『若者のすべて』は誰もが、あらゆる多くの映画作品のうちでも極めて優れたドラマ性を見出すことが容易な作品です。ベラ・バラージュが論述しているように、「ドラマトゥルギーとしての古典、すなわち人間観が劇的な境遇のなかで変化し没落破滅していく過程を描きながらも、実はそれらが成長し、高揚していく様子に転換されていく要素」が表現されているからなのかもしれません。

 わたしたちが今、自国に《美しい国》を望むことと同様に、いつの日にかパロンディ一家が《オリーブの樹が繁る月が明るい虹の故郷(くに)》を、取り戻せることを願わずにはいられないのです。
美しい国へ
安倍 晋三 / / 文藝春秋






美しい日本の私―その序説
川端 康成 / / 講談社






【映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい。 (ジャン・ルノワール)】
by Tom5k | 2007-03-13 01:13 | 若者のすべて(3) | Trackback(5) | Comments(21)
Tracked from 良い映画を褒める会。 at 2007-03-23 00:32
タイトル : 『揺れる大地』(1948)ルキノ・ヴィスコンティ監督によ..
 イタリア映画界の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督の第二作目の長編映画『揺れる大地』が公開されたのは1948年です。戦時下のイタリアで、大きな話題となったデビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』からすでに5年の月日が流れていました。... more
Tracked from プロフェッサー・オカピー.. at 2008-08-11 02:01
タイトル : 映画評「白痴」
☆☆☆★(7点/10点満点中) 1951年日本映画 監督・黒澤明 ネタバレあり... more
Tracked from 寄り道カフェ at 2008-09-08 22:40
タイトル : 「若者のすべて」
ROCCO E I SUOI FRATELLI 1960年/イタリア・フランス/118分 監督: ルキノ・ヴィスコンティ 製作: ゴッフリード・ロンバルド 原作: ジョヴァンニ・テストーリ 原案: ルキノ・ヴィスコンティ/ヴァスコ・プラトリーニ 脚本: ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/マッシモ・フランチオーザ/エンリコ・メディオーリ 撮影: ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽: ニーノ・ロータ 出演: アラン・ドロ...... more
Tracked from プロフェッサー・オカピー.. at 2008-09-09 00:03
タイトル : 映画評「揺れる大地」
☆☆☆☆☆(10点/10点満点中) 1948年イタリア映画 監督ルキノ・ヴィスコンティ ネタバレあり... more
Tracked from 良い映画を褒める会。 at 2012-10-14 21:31
タイトル : 『思えば遠くへ来たもんだ』(1980)個人的には金八先生..
 武田鉄矢主演の『思えば遠くへ来たもんだ』は現在DVD化されていません。そのためネット・オークションでは大昔のVHSテープが7000円位で取引されています。... more
Commented by マサヤ at 2007-03-15 10:45 x
トムさん、お久しぶりです。
『若者のすべて』大好きな作品なのですが、久しく観ておりませんので、今回のブログも読まずにざっと眺めただけです。
すみません。
また観る機会がありましたら、改めて読ませていただこうと思います。
『若者のすべて』といえば、数年前ヴィスコンティ映画祭での上映時、映像と字幕がズレて途中で上映がストップしたという苦い(?)思い出があります。(上映は再開しましたが、最後までトラブル続きでした)

ところで報告が遅くなりましたが、HP内にブログを開設しましたのでご報告いたします。
とりあえずコメントもトラックバック機能も使っておりませんのでブログというよりは雑記帳みたいな感じになっておりますが。

ではまたー。
Commented by Astay at 2007-03-15 14:00 x
トムさん
久々の記事ですね
『若者のすべて』・・・いつもながら本当に良く作品を捕らえておられますね
ちょっと長い作品なので、今までに3回ほどしか観てませんが
トムさんの解説を踏まえてまた鑑賞したいと思います

ドロンさまもロッコの役を好演されてましたが
サルヴァトーレさんの憎まれ役(?)のお兄さんもなかなか良かったかと
私は思っております・・・
Commented by Tom5k at 2007-03-16 01:19
>おおっ、マサヤさん、そしてAstayさんっ!
おばんでございます(こんばんはのこと)。
お久しぶりですね。
『若者のすべて』は、とても好きな作品なので書き出すときりがないのですが、今回は「ロッコくんの不思議」に迫ってみました。
マサヤさんのブログも楽しみにさせていただきますよ。
Astayさんにおかれては
>3回ほどしか
なのですね。わたしは>3回も
と表現されてもいいかと思いましたよ。それから、本当にシモーネ役は素晴らしかったですよね。
久しぶりのお二人のご訪問が、たいへんうれしゅうございました。
ありがとう。では、また。
Commented by マヤ at 2007-05-27 22:29 x
ベラ・バラージュが論述しているように、「ドラマトゥルギーとしての古典、すなわち人間観が劇的な境遇のなかで変化し没落破滅していく過程を描きながらも、実はそれらが成長し、高揚していく様子に転換されていく要素」が表現されているからなのかもしれません。


そう、わたしもこの作品のもっとも名作たるゆえんは、そのドラマとしての要素をすべてもりこみつつ、社会への鋭いメッセージもこめている点だと思います。まるでオペラそのものです。
Commented by Tom5k at 2007-05-27 23:38
>マヤさん、ようこそ。
お久しぶりですね。わたしの生意気な記事にお付き合いいただき、うれしいです。
そう、ほんとうにこの作品のドラマ性は壮大ですよね。おっしゃるとおりオペラのようです。更に凄いことは、その舞台が貧乏な人々の生活であり、主人公たちが貧乏な人々であることです。
ここがヴィスコンティの底の深いところなのではないでしょうか?

そういえばマヤさんのブログカテゴリにアントニオーニやデ・シーカ、ルイジ・ザンパなんかを載せる予定などはありませんか?わたくし、古い映画が好きなものですから・・・。
でも、副題が「21世紀を迎え新しい才能が誕生するイタリア映画の魅力に迫ります。」ですものね。
すみませんです。
では、また。
Commented at 2007-07-30 17:05 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by オカピー at 2008-08-11 18:22 x
弊記事へのTB有難うございました。

「若者のすべて」については暫く観ておりませんので、斜め読みだけさせて戴きました。
全く不勉強で、「白痴」の人物像が投影されていたとは気付きませんでしたねえ。ドストエフスキーを読んだのは主に理解力の乏しい中学高学年から高校生にかけてですから、後年「若者のすべて」を見てダブるほど「白痴」も精読できていなかったのでしょう。

「揺れる大地」と「若者のすべて」は確かに並び称すべき傑作ですね。エルマンノ・オルミの「木靴の樹」は「揺れる大地」の精神を継続する秀作と思いますが、トムさんのお考えは如何ですか?
Commented by Tom5k at 2008-08-13 21:16
>オカピーさん、ようこそ!
実は早めの夏季休暇を取り、遠出してました。レス遅れてすみませんです。
黒澤の『白痴』も、わたしはたいへん気に入っており(北海道ロケということもあって)、『若者のすべて』ももちろん好きですので、つい比較検証してしまっております。
現在、オカピーさんが、もし何の予備知識もなく、『若者のすべて』をご覧になったら、ファースト・シークェンスものの10分でピンとくると思いますよ。

>『木靴の樹』
おおっ、有名な作品ですよねえ。しかしすみません、未だ観る機会を失しています。
ただ、オルミ監督が70年代後半に19世紀の貧困な農民を題材にリアリズム作品を創るという着想が、どこからきているのか?たいへん興味深いです。扱っている題材から察するところ、ロッセリーニやデ・シーカより、初期のヴィスコンティの後継者なのでしょうね。観る機会をもちたいです。
今こそ、このような時代に過去の名作から学ぶことは多いですよね。わたしは最近『ボッカチオ70』を久しぶりに再見しましたよ。
では、また。
Commented by mchouette at 2008-09-03 01:40
トムさん。改めて「木靴の樹」を「若者のすべて」①にTBさせていただきました。そして①②と読んでコメントは②の方に。
トムさんの文を読みながら「若者のすべて」を思い出しております。
そして私が先日一気に読み終えた平野啓一郎の「決壊」と重なりました。内容は現代の日本を舞台に、ネット社会と人間の関係を描いたものですが、バラバラ殺人事件を軸に現代に生きる人間の内面に切り込んだ作品です。
先日上げたキェシロフスキの「デカローグ第5話:ある殺人に関する物語」に感係する箇所を本文から一部引用してますが。
「決壊」で最後は自殺してしまう崇という人間が、まさにロッコと重なります。
人間というのは罪悪感にさいなまれると、多かれ少なかれロッコのように聖人化することもあるかもしれません・・・。
崇のその聖人化した人格は、周囲の人にとっては本心は何を考えているのか分からないという不気味さをもたらします。
崇もまた内なる不条理に対し罪悪感に囚われています。潤滑な関係を持つために、僕の人間関係は常に政治的だと。
Commented by mchouette at 2008-09-03 01:41
トムさん続き…その1
>「ロッコは兄シモーネに対して罪悪感を持っている。このことは忘れたくない。彼は自分が悪いことをしていると確信しているのだ。」
崇も同じ罪悪感を弟だけでなく、自分と他社との関わりにおいて抱いているのです。
崇の弟は優秀で気配りができハンサムな、そんな完璧な兄を誇りに思う反面、強いコンプレックスと、その裏返しのライバル意識を抱いていて、仕事の不満などと絡み合って鬱屈した思いを自分のブログに書き綴っていきます。現実で仮面を被り、ブログで本音を吐露するという現実と仮想の倒錯が生じます。そんな彼のブログから心の隙間を読み取った人物が、最終的に彼を殺害するという事件が起き、崇が最有力容疑者として、警察の厳しい取調べを受け…といった内容ですが、長くなってしまったので(といっても既に長くなってますが) 小説「決壊」と映画「若者のすべて」は作品のテーマやアプローチは違うのですが、トムさんの記事を読んでいて、ロッコと兄シモーネの関係が、崇と弟のそれと重なります。

Commented by mchouette at 2008-09-03 01:42
トムさん続き…その2
>でもわれわれの住んでいる世界には、ロッコのような聖者のいる場所はないんだ。」
平野啓一郎は「決壊」で崇の自殺という痛ましい結末出締めくくってます。チーロの言葉がまさに崇を自ら死に追いやったのかも知れない。
長々と「決壊」のことを書いてしまいました。
「若者のすべて」ここまで深く見てませんでしたが、改めて「決壊」と重ね合わせ、トムさんが提起された視点も念頭においてもう一度じっくり見たくなりました。ただ、このときのドロンは「太陽がいっぱい」のトム・リプリーとは違う輝きがありましたよね。ベレー帽を被った軍服姿のカフェの椅子に座ったドロンの美しいこと!
「木靴の樹」がどこかへいってしまった。私のブログでトムさんへの返事をいっぱい書いてるからご容赦。
Commented by Tom5k at 2008-09-04 23:49
>シュエットさん、こんばんは。
「木靴の樹」は素晴らしかったですね。TBありがとう。
>平野啓一郎の「決壊」
は存じておりませんでしたが、シュエットさんのコメントから確かに兄弟の愛憎の部分が類似しているように思います。
『若者のすべて』のロッコは、実は現代に進歩するまえの人類の平均であったと思っています。近現代において、その前近代的人物は現代で生きる術が無いわけで、もしかしたら、『決壊』の崇という人間も同様なのかもしれません。
ゴダールによれば、ドロン作品は『太陽はひとりぼっち』から『パリの灯は遠く』そして、自作『ヌーヴェルヴァーグ』と続くそうです。
確かに現代人の成長過程が、この4連作(?)で完結されているようにも思います。
Commented by Tom5k at 2008-09-04 23:49
>続き
>完璧な兄を誇りに思う反面、強いコンプレックスと、その裏返しのライバル意識・・・
よくある話なのかもしれませんが、アイデンティティが崩壊しますよね。要するに自分を見失っている、そして社会からも遠ざかってしまう。
ただ、ロッコは社会で生きようとはしているのかもしれません。その生命力がヴィスコンティのネオ・リアリズモの強さなのではないでしょうか?誤っていて隷属しているかもしれませんが、宗教的道徳心で自己の内部の絶望や憎悪と闘っているのです。
無論、それは敗北の連続でしょう。
だからこそ、チーロやルーカに未来を見させているのではないでしょうか?
>「太陽がいっぱい」のトム・リプリーとは違う輝き・・・
実はロッコ・パロンディが現代に適応しきるとトム・リプリーになるんですよ。この主人公は同一人物なんです。
そして、それがアラン・ドロンというスター俳優の本質的な姿なのだとも、わたしは思っています。
①のコメントに続く
Commented by mchouette at 2008-09-08 22:53
トムさん、私の記事のメッセージの返事も書かないのに、「若者のすべて」たまらず昨日鑑賞しました!見直してやはり良かった!トムさんのメッセージの返事を書こうにも本作は最後に見たのがはるか数年前。記憶もおぼろげで、中途半端な返事になりそうなので、それもあって観たのだけれど、トムさんの返事書かずにせっせと記事書いてしまいました。冒頭でまたもやトムさんのブログ出してしまってます。了解よろしく!私の方はトムさんやオカピーさんほど精通していないので、トムさんの関心とはずれるかもしれないけれど、またこれでお喋りできたら嬉しく思います。私、今からもう一度「若者のすべて」観ます!
Commented by Tom5k at 2008-09-09 00:14
>シュエットさん、こんばんは。
観ていただいたんですね。感動の共有はたいへんうれしいことです。
オカピーさんも『揺れる大地』をアップされて、クレマン・ブームの次はヴィスコンティ・ブームでしょうか?(笑)
でも普通、ヴィスコンティといえば、後期のロココ?貴族作品が話題なんですがねえ。初期ネオ・リアリズモで盛り上がるのは、我々ぐらいなもんでしょう。そうそう、過去記事ですが用心棒さんの『揺れる大地』の記事もありましたよ。
>冒頭でまたもやトムさんのブログ出して・・・
どしどし、出してください。
では、早速お邪魔します。
Commented by viva jiji at 2008-11-17 19:26 x
おばんでございま~す♪
まずトムさんに私謝らなくてはいけないの。
「若者のすべて」上映本日だけでしたが
12時からと6時半からと2回上映でしたの。
今さら(あっ、今2回目上映しているところですね^^)
遅かりしの事後報告でした。ごめんなさい。(ペコリ)

トムさんのアラン・ドロンへの想い入れも
この豊かな私の胸に秘めまして(カッチョいいぞ!)
3時間たっぷり観てまいりましたよ♪
想像通り鑑賞年齢はいやはや高く
私などまだ若いほうざんした。(--)^^

末っ子のルーカに明るさの全てを託した
あの映画史に残るラストシーン、
いいですね~~~~^^
今は幼いけれどあの家族の切磋琢磨を
つかず離れずシッカリ見つめていたルーカの
最大の武器は「時間」と「未来」とそして「希望」。
実に頼もしいFINの白文字・・・・。
(ルーカの由来はルカ書を記したイエスの弟子の
ルカかしら?確か私の記憶ではルカは医者では?
本作でのルーカも賢そうでしたね)

続きあります。
Commented by viva jiji at 2008-11-17 19:55 x
横レスで申し訳ないのですが
>実はロッコ・パロンディが
現代に適応しきるとトム・リプリーに
この主人公は同一人物・・
それがアラン・ドロンという
スター俳優の本質的な姿なのだとも・・

鑑賞後ずっと引きずっていた答えが
やはりトムさんチにありました。^^
「聖人」という言葉、私は「神々しい偽善者」と
読み取りました。A・ドロンの美しさの中にある
善と悪、天使と悪魔、光と影、清貧さと退廃、
涼やかさと妖しさ、その全てを監督は
すでに見抜いていたのでは。

本作、撮影がこれまた素晴らしいこと!
婚約者の家から追ん出された長男が
旧知の男を訪ねるシーン・・・
都会の狭間にポツネンと建つ貧しいバラックを
塀越しにゆっくりパーンしてカメラが俯瞰で
写し出す名場面、この家族の今を暗示させる
巧い切り口でした~。

ちなみに19日までこのシネコン協賛
『懐かしの映画ポスター展』がステラプレイス1階
ロビーで開催中。
最終日、撮れましたらぜひカメラに収めてみようかと。
100枚以上の貴重な映画ポスターがずら~っと壮観。
楽しみです。
長々と失礼いたしました。

Commented by Tom5k at 2008-11-17 23:51
>わあっ!姐さま~。おばんで~す。
来てくれてうれしいです~。何て素敵なんでしょう。
コメントありがとう。
>2回上映
違うの姐さま、二回上映でも夜まで、仕事だったんで絶対行けなかったの。だから気にしないでください。
>鑑賞年齢はやや高く
ほんとうは、いろんな意味で、若い人たちに観てほしい作品なんですけどねえ。
>ラストシーン・・・「時間」と「未来」とそして「希望」
本当におっしゃるとおりです。
Commented by Tom5k at 2008-11-17 23:53
続き

その素敵な希望は哀しい哀しい過去から生まれたものなんでしょうね。姐さんの感想を読んで何だか泣きそうになります。
>すでに見抜いていたのでは
それをおっしゃっている姐さんにまたまた感動しちゃいます。おれのアラン・ドロンが大好きなところなんです。その引き裂かれた人格、恐らく、貴族でり、左翼でもあったヴィスコンティも引き裂かれた人間、だからこそドロンのそういった側面を描けたのでしょうね。
>撮影
上手ですよね。わたしは雪の積もったミラノで初めて仕事にありついたパロンディ一家のみんなが早起きして仕事に行くシーン、ほんとうに自分が仕事に行くように感じました。寒~い、朝。これからの仕事に行くときの本当に寒い朝がカメラに収められていたように思いました。
>『懐かしの映画ポスター展』
うわあ、凄いですねえ。是非とも記事紹介してくださいね。何だか楽しみ。
では、またね。
Commented by 用心棒 at 2012-10-14 21:12 x
こんばんは!

まさか武田鉄矢の『思えば遠くへ来たもんだ』の記事がヴィスコンティに繋がっているとは思いませんでした(笑)

映画は観る人や観る時期によって、各々の心のどこに刺さるかが違ってくるように思います。印象に残るポイントも共に語り合うと納得できますが、お互いに意見を出すまでは気づかないことも多々あります。

『白痴』や『どん底』も読んだ時期や観た時期によって受け取り方が変わってくるでしょうし、言葉にするのは難しいのですが、ルノワールと黒澤の『どん底』も各々の違いが現れます。

色々と考えさせてくれる映画は素晴らしいですね。

ではまた!
Commented by Tom5k at 2012-10-17 00:14
>用心棒さん、こんばんは。
>『思えば遠くへ来たもんだ』の記事がヴィスコンティに・・・
われながら、視野の狭さに自嘲しているところでございます(笑)。

ありきたりですが、生きる希望があればどんなことでも乗り越えられるのでしょうけれど、はいずり回って頑張っていかなければならない・・・希望も故郷も失われつつある現代は「若者のすべて」のようです。
いい年をして未だ「お花畑」を歩いていきたいわたしのような甘ちゃんは、故郷で生きていけないことが、自分の土台が失われたような気持ちになってしまい、「思えば遠くへ来たもんだ」の武田鉄也のようなたくましい主人公より、故郷をひきずっているいる「若者のすべて」のドロンに近いような気がしていました。
今回、「思えば遠くへ来たもんだ」を観て、とても良い刺激になりました。飾り気のない良い人間関係も生きていく糧に最も大切なもの、当たり前のことかもしれませんが、あらためて気づかされたような気がします。

では、また。
名前
URL
削除用パスワード