『私刑警察』②~ペール・ラシェーズの無名戦士たち~

 わたしは『私刑警察』の舞台にペール・ラシェーズ墓地が設定されていることがとても印象に残っています。

 極左のテロリストだったスタドラーが、ペール・ラシェーズ墓地で正義警察に捕らえられるシークエンスでは、レジスタンスの革命詩人ポール・エリュアールの墓に行く想定で尾行を付けられていますが、実際に捕らえられた場所は19世紀の詩人で当時のモンマルトルの市長であったジャン・バティスト・クレマン(J・B・Clement)の墓石の前でした。

 クレマンの生きた時代のフランスは、ナポレオン3世による「フランス第二帝政」の時代でした。
 エトワール広場の凱旋門、郊外地区の合併による12区から20区への増加、ヴァンドーム広場などから放射状にのびる現在のパリは、この時代の都市近代化計画事業「オスマニザシオン」による遺産です。

 1870年7月に勃発した普仏戦争の結果、フランス軍はセダンでプロイセンの軍門にくだり、ナポレオン3世は捕虜となります。このセダンの降伏により第二帝政が廃止され、「仮国防政府」が成立します。それに抗して、パリの愛国的市民により「パリ20区共和主義中央委員会」が設置されました。

 1871年1月、ドイツ帝国軍に首都パリを包囲されてフランスは敗戦します。「仮国防政府」すなわち国民議会はドイツと講和し、パリ国民軍に武装の解除を命じたのですが、国民軍・労働者・市民は「パリ20区共和主義中央委員会」を中心に自治政府であるパリ・コミューンを設置しました。彼らは国民議会からの独立を宣言し、社会主義政策を実施し始めます。
 このパリ・コミューンは種々様々な革命派の寄り合い所帯だったために内部での対立も激しく、ヴェルサイユを本拠地とする国民議会に有利な展開を作ってしまいました。
 そして、ドイツと国民議会の連合軍がパリ包囲網を形成、パリ・コミューンと激しい市街戦を繰り広げていくことになるのです。

 ペール・ラシェーズ墓地はその攻防の終局までコミューン兵士が死守した最後の砦でしたが、ドイツと国民議会の連合軍は墓地の正門扉を撃破し、147名のコミューン兵士と市民が墓地の敷地内で全員銃殺され、とうとうその5月、パリ・コミューンは連合軍によって鎮圧されてしまいます。
 その兵士たちの処刑の現場である壁面は「連盟兵の壁」と呼ばれ、今でも文化財として大切に保存されています。

 そしてジャン・バティスト・クレマンの墓は、この「連盟兵の壁」の真正面の丘にあるそうなのです。彼もこの自治政府のメンバーで、パリ市民とともにバリケードを作って闘った人だったからです。

 映画でもテロリストだったスタドラーの死体の発見場所が、「無名戦士の墓前」となっていましたが、これはパリ・コミューン戦士の記念碑「連盟兵の壁」のことだと思われます。

【毎年5月27日、「連盟兵の壁」として知られているペール・ラシェーズ墓地の弾痕の残る石塀には、世界各国の労働者と労働者党の代表が、花輪を捧げに訪れる。花輪はナチスの軍隊の野蕃な占領時代にも、たえることはなかった。】
(引用 『パリ・コミューン』桂 圭男著、岩波書店(岩波新書)、1971年)

パリ・コミューン (1971年)
桂 圭男 / / 岩波書店




 映画で正義警察が言っていた彼の詩『さくらんぼの実る頃(Le Temps des cerises)』は、ジャン・バティスト・クレマンが1866年に作り、1968年に発表されたものです。
 それ以降、この『さくらんぼの実る頃』は、コミューンを壊滅させて打ち立てた国民議会、後の第三共和政の政府に不満を持つ市民たちによって、コミューン崩壊への批判を訴える意味から歌われ続けていった歌でもありました。
 5月のさくらんぼの実る頃、失恋した悲しみの内容をパリ・コミューン弾圧の悲しみに比喩した内容なのだそうです。

 フランスでは第二次大戦前からイブ・モンタンやジュリエット・グレコなどの有名シャンソン歌手によって歌われ、日本でもポピュラーなものとなりました。
 最近ではスタジオジブリのアニメーション映画『紅の豚』で、加藤登紀子が声を担当したホテル・アドリアーノの経営者、クラブ歌手マダム・ジーナが歌っていました。
 また、この作品の冒頭では、主人公ポルコ・ロッソの住んでいた浜辺で、彼が映画雑誌を日差しよけにしてまどろんでいるシーンでも、男性歌手のバージョンでラジオから流れています。
(下記、「良い映画を褒める会」の用心棒さんのコメント 「Commented by 用心棒 at 2007-01-20 23:59」参照)
 
紅の豚
/ ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント





さくらんぼの実る頃
加藤登紀子 / / ソニーミュージックエンタテインメント




 パリ・コミューン崩壊の前日、5月26日にクレマンはパリ20区フォンテーヌ・オ・ロワ通りのバリケードで、野戦病院の救急看護士ルイーズと出会います。彼女は手にさくらんぼの入った籠を携えていました。彼女はコミューンの兵士や市民の役に立ちたいと願って、このバリケードを訪れてきたそうなのです。兵士たちは危険な場所なので帰るように諭しましたが、彼女は頑なにそれを拒んで自ら負傷兵の手当てをしていったそうです。しかし残念なことに、最後には彼女もその攻防での犠牲者となってしまったのでした。
 そして、詩人であったクレマンは、この美しい同志ルイーズの姿を『さくらんぼの実る頃』の第4フレーズに書き加え、それを彼女に捧げたのでした。


J'aimerai toujours le temps des cerises
私はいつまでもさくらんぼの季節を愛するでしょう

C'est de ce temps-là que je garde au cœur
それはあのときから心にいつまでも持ち続けているのです

Une plaie ouverte
ひらいた傷口

Et Dame Fortune en m'étant offerte
そしてわたしに運命を与えた女神

Ne pourra jamais fermer ma douleur
私の痛みは癒せないでしょう

J'aimerai toujours le temps des cerises
私はいつまでもさくらんぼの季節を愛するでしょう

Et le souvenir que je garde au cœur.
そしてその記憶をわたしは心にいつまでも持ち続けるのです


A la vaillannte cityenne Louise, l'ambulanciere de la rue Fontaine-au-Roi le dimanche 28 mai 1871.
勇敢なる市民ルイーズ、フォンテーヌ・オ・ロワ通りの救急看護士
1871年5月28日 日曜日
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by Tom5k | 2007-01-20 16:56 | 私刑警察(4)