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『百一夜』①~フランス映画の新しい波~

 アレクサンドル・アストリュックの「カメラ=ステロ(万年筆)」論(1943年)は、作家としての思想の表現をカメラによって実践することを説いた映画理論です。その実践は「映像によって表現するのではなく、映像そのものを表現する」というものです。つまり、万年筆で文章を記述することと同様に、カメラでもそれは書けるというものなのです。それは、作家主義としての映画を目指した「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の理論的根拠の根幹に当たるものでした。
 そして、その理論の影響を受けたのはカイエ派ばかりではありませんでした。
 ジャン・コクトーの作品や、ジャン・ポール・サルトルのシナリオ『賭はなされた』(監督:ジャン・ドラノワ、音楽:ジョルジュ・オーリック、主演:ミシュリーヌ・プレール)、アラン・ロブ・グリエのシナリオ『去年マリンエバートで』(監督:アラン・レネ、美術:ココ・シャネル)なども、「カメラ=ステロ(万年筆)」論の代表的な実践といえるものでしょう。
賭けはなされた
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去年マリエンバートで
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 そして、あの有名なフランソワ・トリュフォー(『大人は判ってくれない』)の「フランス映画のある種の傾向」という映画評論(「カイエ・デュ・シネマ」誌1954年1月号掲載)では、それまでのフランス映画「心理的レアリスム(1930年代に主流となった「詩的レアリスム」)」と定義された代表作家たちの痛烈な批判が、その後のフランス映画界に多大な影響をもたらし、世界的な映画潮流となっていったのです。
 彼の特に強調していた内容としては、当時の代表的な脚本家コンビであったジャン・オーランシュとピエール・ボストを使った文学作品群を否定し、ハリウッドの演出家、アルフレッド・ヒッチコック、ハワード・ホークスを純粋な娯楽映画の作り手として絶賛したものでした。
大人は判ってくれない
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 彼とともに、アンリ・ラングロワが創設した「シネマテーク・フランセーズ」の上映活動により映画を学び、「カイエ・デュ・シネマ」誌上で評論活動を開始していった仲間たちには、クロード・シャブロル(『美しきセルジュ』、『いとこ同士』、『二重の鍵』)、ジャン・リュック・ゴダール(『勝手にしやがれ』)、エリック・ロメール(『獅子座』)、ジャック・リヴェット(『パリはわれらのもの』)などがいました。
 彼らはその後、カイエ派と呼ばれるヌーヴェル・ヴァーグの代表的な作家となっていくわけです。
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 「カイエ・デュ・シネマ」誌を率いていたアンドレ・バザンは、「オーソン・ウェルズ論」による「モンタージュ理論の否認」、もしくは「極小制限」を理論化しました。それは『映画言語の進化』という論文により、彼らを指導していった映画理論でした。カイエ派の演出の技巧による作品は、基本的に彼のこの革新理論によった作品傾向を主としたものであったのです。
 彼がモンタージュ理論を否定的にとらえていった理由として、この古典手法が心理的側面からではなく、美学的側面からシステム化しており、観客に固定したイマジネーションしか与えないということを批判するものでした。
 彼は、「空間の深さの構図(パン・フォーカス等)」としての「カメラの流動性」を上げながら、ドリーやクレーンによる移動撮影が可能になったことや、カメラの軽量化、フィルムの感光度の高度化、照明用ライトの設備機器の充実などにより、パンニング、ティルトなどの技術を駆使し、いわゆる「長回し」によるオーソン・ウェルズの「ワン・ショット・ワン・シーン(シークエンス)」を肯定していきました。
 これこそ、あの有名な「現実のアンビギュイティ(あいまいさ)」の創造的な追求を目指した、カイエ派の映画技術の基本理念ともいえるものなのです。
 映画の主題は硬直した類型的なものではなく、もっと現実はあいまいであり、そのあいまいさのなかに観客主導のテーマとなるものが表現されると考えていたのです。わたしは、ジャン・ルノワール監督の『ゲームの規則』での「映画においてはすべての人間のいいぶんが正しい」というあの有名な言葉を思い出しました。
ゲームの規則
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 彼らカイエ派は、古典的なモンタージュによる固定した表現を避けて「現実のアンビギュイティ」を表現するべく、現実の多面性を「パン・フォーカス」や「長回し」などで観る者による映画フレームにおける「視点の自由」を確保しようとした実践に挑んでいくことになったのです。

 しかし後年、アンドレ・バザン自身もこれは単純なモンタージュの否定ではないと理論修正を表明し、ゴダールも映画の作家主義を自己批判、トリュフォーも新時代のロケーション一辺倒の撮影理論を修正しています。カイエ派のその後の映画理論は固定した体系ではなく、それは後年においても模索され続けられていったものだったと言えましょう。


 ルイ・マル(『死刑台のエレベーター』、『恋人たち』、『地下鉄のザジ』)やロジェ・ヴァデム(『素直な悪女』、『大運河』)は、助監督時代を経ることによる映画職人としての修行を積む伝統的な古い「映画監督」の育成システムによって頭角を現してきた演出家です。ですからカイエ派とは共通の思想を持っているわけではありません。
恋人たち
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地下鉄のザジ
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獲物の分け前/素直な悪女
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大運河
フランソワーズ・アルヌール / / アイ・ヴィー・シー





 しかし、彼らの映画ではマイルス・デイヴィスやMJQを起用してシネ・ジャズを体系づけたり、人気女優の大胆なヌードによって、セクシュアルな恋愛やテーマにしたり、屋外ロケーションを敢行してスタイリッシュなサスペンスやコメディ作品などを手懸けたり、敢えて反道徳的な作品テーマで映画制作に取り組んだりと、それらの作風は常に革新的でした。彼らはカイエ派からも絶賛されていくことになり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家として位置付けられていくことになります。
死刑台のエレベーター[完全版]
マイルス・デイヴィス / / ユニバーサルクラシック





 セーヌ河の右岸側に事務所を構えていた「カイエ・デュ・シネマ」誌とは対局のセーヌ左岸側のモンパルナス界隈に集っていた一群の作家たちが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の左岸派と呼ばれ活動していきます。
 彼らはドキュメンタリー出身のインテリ指向の演出家が多く、映画芸術において社会派の要素を持たせた左翼映画人としての傾向を強く持った演出家たちです。

 薄っぺらいジャーナリズムを否定し、リアリズムを超越する文学性の高いドキュメンタリストのアラン・レネ。
夜と霧
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 ジャン・ピエール・メルヴィル監督が「ヌーヴェル・ヴァーグ」の真珠と評した『ローラ』の監督ジャック・ドゥミ。彼が演出したカトリーヌ・ドヌーヴ主演のミュージカル『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人』では、全セリフが歌になってしまっていました。
 彼はアニエス・ヴァルダの最愛の夫です。
シェルブールの雨傘
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ロシュフォールの恋人たち
カトリーヌ・ドヌーブ / / ソニー・ピクチャーズエンタテインメント





 左岸派のなかでも、「シネマ・ヴェリテ(「映画=真実」)」派と呼ばれるクリス・マルケル(『美しき5月』、『ラ・ジュテ』、『サン・ソレイユ』)、ジャン・ルーシュ(『わたしは黒人』、『人間ピラミッド』)、ベルトラン・ブリエ(『ヒットラーなんか知らないよ』、アラン・ドロン主演『真夜中のミラージュ』)は、1920年代の「社会主義リアリズム」の時代、旧ソ連のジガ・ヴェトルフの「キノ・プラウダ」(やはり「映画=真実」)の手法を継承した作風です。
ラ・ジュテ / サン・ソレイユ
クリス・マルケル / / アップリンク





人間ピラミッド
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 「シネマ・ヴェリテ」とは、特定した任意の個人に対しての系統立てた広汎な視点による質問とインタビュー、その回答をモンタージュしたドキュメント作品を創作する活動を指します。
 現在では珍しくもないTV番組での街頭インタビューなどもこの手法をモデルとして定着したものです。
 また、アラン・レネの代表的な二作品、『二十四時間の情事』のシナリオを担当したマルグリット・デュラス、『去年マリンエバートで』のシナリオを担当したアラン・ロブ・グリエは、「ヌーヴォー・ロマン」の作家として位置づけられています。
 このふたりはアラン・レネ監督のこの二作品により、前衛芸術としての映画独自の文体を模索し、文学的思考方法を深めていった功績から、センセーショナルに脚光を浴びていきました。
 『かくも長き不在』のアンリ・コルピは、編集者としての実績と「ヌーヴォー・シネマ(前衛的映画)」を開拓し、カンヌ映画祭のグランプリを受賞しています。

 左岸派の作風にも、アレクサンドル・アストリュックの「カメラ=ステロ(万年筆)」論は、多くの影響を与えていたいように感じます。

 このような優れた芸術作品を創作し続けた「ヌーヴェル・ヴァーグ」左岸派に属するアニエス・ヴァルダは、ベルギー、ブリュッセルの出身で「ヌーヴェル・ヴァーグ」の祖母とまで呼ばれている「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表的作家です。」
 映画監督になる前の彼女は、戦後ソルボンヌ大学等で博物館で学芸員を目指し、国立民衆劇場での専属カメラマンとして活躍していたインテリゲンチャでした。また、映画人としての彼女は、左岸派のアラン・レネとも親交が厚く、ジャック・ドゥミの結婚相手でもありました。

 彼女のデビュー作は、『ラ・ポワント・クールト』(1954年)ですが、フランソワ・トリュフォーのカイエ誌での評論と同年の作品です。カイエ派の評論家たちが映画作家としてデビューするよりも前の作品なのです。
 正式な公開に当たってはアラン・レネがアンドレ・バザンらの映画関係者に試写上映し、2年後の1956年にようやくパリで5週間の上映にこぎ着けました。
 専門家からの批評は高く「「ネオ・リアリズモ」の巨匠であったロベルト・ロッセリーニ監督の『イタリア旅行』や、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『揺れる大地』に共通する演出技巧を持っている。」と賞賛されたそうです。
イタリア旅行 (トールケース)
イングリッド・バーグマン / / アイ・ヴィー・シー





 しかし、これらの賞賛内容に、彼女は相当のいらだちを憶えていたそうです。この作品を撮ったときの彼女は、それまでに観た映画が20本ほどでしかなく、映画にはズブの素人だったようで、ロベルト・ロッセリーニもルキノ・ヴィスコンティも知らなかったらしいのです。
 編集には素人ヴァルダを手伝うため、幾人かのプロのスタッフを蒐集し、アラン・レネもそこに参加していました。
 そしてその後、彼女はシネマ・テークや劇場でひたすら映画を鑑賞、あらゆる映画雑誌を読みあさり、シネアリストとして生きていくことを決断、『5時から7時までのクレオ』(1961年)や『幸福』(1964年)(1965年ベルリン国際映画祭 銀熊賞)の成功で、一躍、世界的に有名な映画監督になります。
5時から7時までのクレオ ~Collector’s Edition~
コリンヌ・マルシャン / / 竹書房





幸福
ジャン・クロード・ドルオー / / アイ・ヴィー・シー





 『幸福』では、一環して幸福を追求する夫、その妻や子どもをかけがいのない存在としているにも拘わらず、その主人公の夫にとっては「幸福」という価値自体だけが必要なものであり、それを構成している各個人(妻や子どもたち)は取替可能であること、その罪悪感に全く無頓着な様子を描き出していました。実に恐ろしいテーマを取り上げたものです。
 女性としての憤りを喚起するような屈強な自尊心も感じさせる作品でした。

 彼女の作品では最もシビアで先鋭的なそのテーマと異なり、その映像における色彩の美しさは際だっています。極彩の自然色を使用し、ファンタジックでチャーミングな印象でしたが、映像美というにしてはソフトで柔らかく優しい色合いの色彩映像でした。
 彼女は、『ラ・ポワント・クールト』を撮った後に、旅行会社からの注文仕事としてロワール城やコート・ダジュール紹介の短い観光(ツーリスト)映画を撮っていたころ、ソルボンヌ大学時代に学んだ印象派絵画の手法を適用して、色彩ヴァリエーションの試行錯誤をしていたそうです。『幸福』は、そうして完成した絵画映画とも言える作品です。

「印象派たちは、たとえばオレンジの影は紅紫色であり、レモンの影は青色であるというふうに考えた。そこに絵画のアイディアに導かれる感動がある。それは現実においては全く真ではないが、それにも拘らず正しい感動であるということを発見した。わたしの『幸福』では金色が紫色を呼ぶ。紫はわたしの熱愛する色であり、眼でわたしに話しかける色だからだ。わたしの色を一々理論づけようとしても無理だ。わたしは頭で考えることより、感動によって行動する。なぜならわたしは非常に強い感動を持っているからだ。

 白は魅惑的な色だ。そこでわたしは自分固有のヴォキャブラリーに固執する。小説家たちが特権化された言葉を持っているのと同じに、わたしはイメージの言葉を持っている。わたしの映画で恋に関するすべてのことが白に具体化されているのも、その一つだ。砂の白さ、旗の白さ、壁の白さ、紙の白さ。あるいはまた『5時から7時までのクレオ』におけるように、室内の、雪の、芝生の上の光線の白さ。白さはわたしにとって、恋と死を意味する一つの分解だ。死の深いテーマが予感されるごとに、クレオが死のひらめきを持つたびに、それは彼女の心における絶対的な白さであった。『幸福』においても、白は悲劇的である。生命を侵すのは暗闇ではない。存在を溶解するのは白い明るさである。」
(アニエス・ヴァルダ 談)
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 アニエス・ヴァルダ)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】

 『幸福』で開花した絵画映画としての美しさは、その31年後の『百一夜』でも同様の美しさであり、メルヘンティックでファンタジックな映像が表現されており、そうでありながらも辛辣で本質的なメッセーッジも感じさせます。

 『ベトナムから遠く離れて』(1967年)は、アラン・レネ、クロード・ルルーシュ、ヨリス・イヴェンス、ジャン・リュック・ゴダール、ウィリアム・クレインが参加し、クリス・マルケルが総編集したベトナム戦争を批判した政治ドキュメンタリー作品です。
 その後、ゴダールや左岸派の政治ドキュメンタリーが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」、「シネマ・ヴェリテ(映画=真実)」を超えて、政治=フィクション映画やスターシステムにおける伝統作品の継続にまで、その発想の原点は拡がりを見せていったように思います。
 『歌う女・歌わない女』(1977年)では、フェミニズムを象徴する女性映画を制作し、『冬の旅』(1985年)では、ヴェネチア国際映画祭 1985年金獅子賞・国際評論家賞を受賞。『カンフー・マスター!』(1987年)では、主人公とその娘の同級生との恋愛を描き、『アニエスv.によるジェーンb』(1987年)は、女優ジェーン・バーキンのドキュメンタル作品、『ジャック・ドゥミの少年期』(1991年)では最愛の夫ジャック・ドゥミへのオマージュを捧げました。
歌う女・歌わない女
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カンフー・マスター!
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アニエス・vによるジェーン・b(字幕)’87仏
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ジャック・ドゥミの少年期
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 そして、いよいよ映画生誕100周年の年に、リュミエール兄弟が映画を発明して以降の映画史的作品である『百一夜』(1995年)の企画、この記念すべき映画を彼女は任せられたのでした。

【参考文献】
『海外の映画作家たち 創作の秘密』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年
『現代映画芸術』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1971年
『ヌーベルバーグ以後 自由をめざす映画』佐藤忠男著、中央公論社(中公新書)、1971年
『映画芸術への招待』杉山平一著、講談社(講談社現代新書)、1975年
『フランス映画1943-現代』マルセル・マルタン著、村山匡一郎、合同出版株式会社、1987年
『わがフランス映画誌』山田宏一著、平凡社、1990年
『現代思想 総特集 ゴダールの神話』青土社、1995年10月臨時増刊
『フランス映画史の誘惑』中条省平著、集英社(集英社新書)、2003年

by Tom5k | 2006-12-20 14:46 | 百一夜(2) | Trackback(8) | Comments(25)

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2000年 フランス 83分 原題 Les Glaneurs et la Glaneuse 監督 アニエス・ヴァルダ 脚本 アニエス・ヴァルダ 撮影 ディディエ・ルジェ  ステファーヌ・クロズ      パルカル・ソテレ  ディディエ・ドゥサン  アニエス・ヴァルダ 音楽 ジョアンナ・ブリュドヴィッチ 編集 アニエス・ヴァルダ  ロラン・ピノ 出演 アニエス・ヴァルダ他... more
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Tracked from 寄り道カフェ at 2008-07-15 23:30
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故人となった著名人の自伝的な本は何冊が読んでいたけれど、そしてトリュフォーに関する本もいくつか読んでいたけれど、この本ほど幾度も胸にぐっとこみ上げるものがあり、思わず涙がこぼれそうになるほどの本は他にはなかったなと思う。 読むのは通勤電車の中。lこぼれそうになる涙をこらえることもしばしば。 映画監督フランソワ・トリュフォーの生涯を詳細な資料をもとに描いた本。「トリュフォーという一人の人間のキャリアに一つの時代、一つの映画史が凝縮されているかのようにクローズアップ的な視点を採用すると同時に、トリ...... more
Tracked from 寄り道カフェ at 2008-07-15 23:30
タイトル : 「大人は判ってくれない」
LES QUATRE CENTS COUPS 1959年/フランス/97分 山田宏一著「<増補>トリュフォー、ある映画的人生」を読んで、堪らず観たくなり、マイシネマのDVD観ました。何度も観ているけれど、この本を読んでから観ると感慨一入です。 フランソワ・トリュフォー 26歳 長編初監督作品。 映画の冒頭でパリの街をずっとカメラが映し出している。そしてそこには様々な角度でエッフェル塔が見えている。 こんな風に、少年だったフランソワ・トリュフォーはパリ中の映画館をもとめて走...... more
Commented by みのり at 2006-12-21 20:07 x
大変なことをお願いしてしまったと、申し訳なく思っています。
時々お邪魔するのですが、コメントできなくて申し訳なく思っています。

「カイエ・デュ・シネマ」という映画批評誌の批評家だった人達が、スタジオの分業システムを否定し、作家性を重視して映像作家になったのが、シャンゼリゼ辺りのカイエ派で、エリック・ロメール、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーなど。 セーヌ川の左岸、モンパルナス周辺に本拠地のあった人達が左岸派と呼ばれるアラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ジャック・ドゥミなどということなのですね。 でも本拠地の違い経歴に違いで分けたというだけではないように思いますけど…。 同じカイエ派でもゴダールとトリュフォーは随分違う様に感じますし。
最近見たアニエス・ヴァルダのものでは、自然光を大切に、手持ちカメラで即興的な演出、素人の出演によるドキュメンタリーでした。 考え方は基本的には同じと考えて良いのでしょうか? 
Commented by みのり at 2006-12-21 20:15 x
上のコメント、てにおはが変ですね。  後で気がつきました。
<落穂拾い>ちょっと関係ないかもしれませんが、TBさせていただきます。  
Commented by Tom5k at 2006-12-21 22:40
>みのりさん、いらっしゃいませ。
来ていただいてうれしいです。
>大変なことをお願いしてしまったと、申し訳なく思っています。
まったく、気にしないでくださいね。
ちょうど、『百一夜』の記事を書きたかったのと、フランス映画史には、興味を持っているので、マサヤさん というジャン・ピエール・メルヴィルのサイトを運営されている方に『フランス映画1943-現代』という本をご紹介いただき、読んでいたところだったんです。
>時々お邪魔するのですが、コメントできなくて申し訳なく思っています。
これもまったく、気にしないでくださいよ。好きなときに気楽に読んで、気楽にコメントしてくださいな。
ヌーヴェル・ヴァーグは、体系つけられたものというより、人脈でグループになっていたようですし、技術進歩も時代的なものも多かったようです。そして、社会的には左翼運動が世界的な隆盛を見せていたころだったことなど・・・。意識的に創ったものと、結果的にそうなってしまたものが混沌としているように思います。
Commented by Tom5k at 2006-12-21 22:50
>続き
左岸とカイエも共通のものは多いですし、ドゥミ監督なんかはミュージカルですから体系としては左岸派とはいっても、ヴァルダの旦那だったこと・・・う~む、このころブレヒトという人の「異化効果」も話題の理論で、そういう意味ではゴダールのジャンプ・カットと同じ効果があったようにも思います。
また、ゴダールもジガ・ヴェトルフ(クリス・マルケル、ジャン・ルーシュが影響下にあった)に傾倒していた時期もあったり・・・・・いろいろと、また今度記事にいたします。
単純に言うと
カイエ派は、ハリウッドのフィルム・ノワールやオーソン・ウェルズの技法に学んでいたので、ゴダール以外は思想に深さはないような気がします。
左岸派は、インテリ集団で社会派であったといえそうです。
技術的には時代的なものもあったでしょう、それから、古い窮屈な映画界(すべてにおいて)との闘い・・・
新旧の違いの「新」のほうがヌーヴェル・ヴァーグでくくられる・・・。

『百一夜』②は、ドロンばかりで、興味ないかもしれませんが、よろしかったらご高覧ください(いま書きかけですが)。自己満足記事でございますが。
では、またね。
Commented by みのり at 2006-12-24 11:35 x
>『百一夜』②は、ドロンばかりで、興味ないかもしれませんが
わたしアラン・ドロン大好き。  トムさんとは全然違う意味のファンで、“こんな美しい人見たことない!”って思っていた(子供の頃結婚したい人リストに入っていました)というミーハーなのですが…。  ですから次回も楽しみにしています。 
Commented by Tom5k at 2006-12-24 21:00
>みのりさん
おお、>(子供の頃結婚したい人リストに入っていました)
そうなのですかあ。
では、次は結婚相手に一番、適したキャラクターを演じたドロンで更新しなきゃ。
お楽しみにしていてくださいませ。
Commented by booska1234 at 2007-01-02 15:04
明けましておめでとうございます。
<死刑台のエレベーター
このサントラも最高ですが映画もかっこ良くて好きです。
「地下室のメロディー」が昨日放送されていましたのでまたじっくり観たいとおもってます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
Commented by オカピー at 2008-06-27 02:28 x
「幸福」へのTB&コメント有難うございました。

また読ませて戴きましたが、ヌーヴェルヴァーグのことがこの記事でほぼ解ってしまうところが大変素晴らしいです。

「幸福」の怖さはやはり童話の怖さでしょうね。
allcinemaの投稿欄で、「本作が当時センセーショナルだったのは自由なセックスの考え方だろうが、作者に迷いがある為に、現在見ると大したことがない」(要約)という意見を目にしましたが、全く理解が間違っていますね。
この作品のテーマは、男女間の幸福観の違いであり、女性はあくまで無垢で、男性は幸福の追求においてエゴであるということ。セックス観ではなく、作者の男女観の割り切り方がセンセーショナルだったはずです。因習とセックス観の関係は要素にすぎないでしょう。

フランソワーズ・サガンが映画作家で、ヌーヴェルバーグの左岸派だったら面白かったでしょうね(笑)。

それでは、また~。
Commented by Tom5k at 2008-06-28 13:14
>オカピーさん!
>ヌーヴェルヴァーグのことがこの記事でほぼ解ってしまうところ・・・
ありがとうございます。確かみのりさんのご要望があったので、記事更新した覚えがあります。
でも、映画を実際観て、何を思うか何を感じ取るか、を少しでも忘れてしまうと意味がないので、よい映画をたくさん観ていきたいものです。

>・・・童話の怖さでしょうね。
確かに映像における童話かもしれません。
民衆の歴史のなかで育まれてきた教訓のようなものは、多くの貧困、戦乱、専制の悲惨な生活から子供たちに生活力を伝達する目的を持ったものです。ファンタジーな愛らしいもののなかに悲惨な現実が包含されながら現在まで残っていることは当然です。
ヴァルダの演出は、そういう意味で、オカピーさんのおっしゃている童話の怖さなのでしょうね。
Commented by Tom5k at 2008-06-28 13:14
>続き
>allcinemaの投稿欄・・・
変わった感想ですね。もしかしたらワンショットのスチール写真だけからの印象かもしれませんね。ヴァルダは自尊心の高い確信に満ちた映像作家で、迷いとは縁遠いとおもいますし・・・。主人公の女性のキャラクターのことかな?もしくは、何か他の作品と勘違いされていたのかもしれませんね。

>フランソワーズ・サガンが映画作家で、ヌーヴェルバーグの左岸派だったら・・・
おおっ!これは素敵です。「ヌーヴェル・ヴァーグの母」の異名を持つ作家になったかもしれません。彼女はむしろ映像作家のほうがぴったりきますよね。ヴァルダとの共通項も多いように思います。
では、また。
Commented by viva jiji at 2008-06-30 03:58 x
プロフェッサーとお話がはずんでいて楽しそうですね、トムさん!^^

プロフェッサーの言われた“童話の怖さ”はその通りだと思いますね。
ましておフランス映画は多くを語らず、スッパ~~ンと次の展開に行っちゃう。(^^)
このスッパ~~ンが、心地いいか悪いかで好みも分かれるかもね。

それにしても童話ちゅうもんはほとんど“怖い”。
でもって、教訓たれたれ、でしょ?
幼き頃より
何が「花咲爺」だ!
桃から赤んぼ生まれる?
お腰につけたキビダンゴー、ダッサ~~!
っとブーたれまくってきた私ざます。(^^)

むっ、
「幸福」が童話だとすると、あれは教訓たれたれ映画かや?(--)

このように映画芸術芳しいトムさんチへ
久しぶりにおじゃまして、また、おかしげな発言を
しております私めをどうか笑ってくださいまし。

父逝去拙記事へのお悔やみコメント、
ありがとうございました。
少々疲れ気味ですが
いつもの私に戻りつつあります。
これからもトムさんの熱い記事読ませて下さいまし。

昨日、コメントをハジかれましたが
今度はどうかしら?
それ~っと!(^^)
Commented by Tom5k at 2008-07-01 00:32
>姐さんっ!ようこそ。
いつものことながら、オカピーさんと話ができると、たいへん有意義です。何故なら彼は何気なく鋭いですから、いつも客観的で安心感があるのです。
今回の「童話のようだ」との比喩も、いい切れ味です。

>「幸福」が童話だとすると、あれは教訓たれたれ映画・・・
ふ~む、何かそういう側面もあるのでは?
わたしはヴァルダ先生の世の中への憤りのようなものを感じました。この映画が怖いというより、ヴァルダ監督が怖いのかも、もしかしたら、愛するドゥミ監督も恐妻家だったかも・・・。

>昨日、コメントをハジかれましたが・・・
えっ、それは失礼しました。たまに調子が悪くなるんですよね。しかし、こりずに今後ともよろしくお願いします。

>いつもの私に戻りつつあります。
とは、おっしゃっても
姐さまの悲しみも尋常ではないとお察し申し上げ、お慰めの言葉もございませんが、おからだを損なうことだけには、くれぐれもご留意ください。

では、また。
Commented by mchouette at 2008-07-16 17:18
こんにちは。
いわゆるヌーヴェル・ヴァーグのフランス映画「心理的レアリスム」と定義された代表作家たちへの痛烈な批判について…
難しいことはわかりませんが(笑)私は基本的に「映画においてはすべての人間のいいぶんが正しい」と思うし、アンリ・ラングロワも「映画で駄作はないのだ」という主張は大事に思っています。
ただ、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグといわれる潮流は戦後社会にあて起こるべくして起こった動きだと思います。それは20世紀後半の学生運動などと連動する新世代による旧世代の否定。もっと過激には「革命」だと思う。それは時代の流れの中で必要な動きだと思う。
いいか悪いかといった議論とか、学生運動で唱えられた彼らのイデオロギーが動向といったリ議論は横においてです。
Commented by mchouette at 2008-07-16 17:18
トムさん、続き。
同じことが映画の世界でも革命がおきた。そう捉えています。
革命とは極端です。前面否定です、批判を武器に旧を粉砕し、批判する中から彼らは自らの論理を構築していった。歴史の流れをみても常に今あるものの否定から新しい論理が生み出されていく。
批判なきところの新しい理論は生まれないと思う。
シャブロルだったかな。「トリュフォーがかき回してくれたおかげで動いた」と。この事自体が重要だと思う。
ただ、彼らを評価するのは、トムさんも書かれているように、当時の自らが口にした批判についても、修正や訂正をして、それもきちんと表明している。トリュフォーも早くから「批評という仕事は賎業だ。自分をつねって他人の痛さを知ったように書いている」と。
彼らの過激な批判も、その後の修正も根っこには映画そのものにたいする敬意と愛情があるからだと思います。
Commented by mchouette at 2008-07-16 17:18
トムさん、さらに続きです。
問題なのは、むしろそんなヌーヴェル・ヴァーグの映画人たちがその時点での彼らの論理をわがことのように振りかざし、ヌーヴェルヴぁーグたちが批判した映画人たちを批判したり、然り顔で映画論を
ふりかざす輩たちではないでしょうか。最近の映画雑誌観ていると無責任に訳知り顔で映画批評している人が多い。彼らには映画への愛が感じられない。そう思います。
明日「居酒屋」行きます!
私の方に下さったコメントの返事より、トムさんところへのコメントを優先するので、私のブログの返事遅れたらごめんなさいね。
Commented by Tom5k at 2008-07-16 21:19
>シュエットさん、こんばんは。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動が映画の革命、それが必要であったこと。
全く、そのとおりでしょうね。そして、
>アンリ・ラングロワも「映画で駄作はないのだ」という主張・・・
>当時の自らが口にした批判についても、修正や訂正をして、それもきちんと表明している。
旧フランス映画に対する敬愛が根拠なのか否かは、いささか疑問もあるのですが、おっしゃるとおりでしょう。しかし、わたしはそのことを一定程度の理解はできますが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、壊してしまったことへの悔恨や総括、そして、その復旧においては、不十分なこともまだ多く残っているように思えます。
そういう意味での実態、すなわち個別々の事例となるしかないのですが、壊された旧作品の破片を丁寧に拾い上げて、再生させていかなければならいように考えているところです。
Commented by Tom5k at 2008-07-16 21:19
>続き
ですから、「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、素晴らしいと納得しながらも、ときに、それへの反批判も忘れてはならないように思い、映画史的な意味において、「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、次の「ヌーヴェル・ヴァーグ」に、そのうえをいかれる覚悟をしていたか否かをも確かめながらの作業となるように考えます。

>問題なのは、・・・然り顔で映画論を・・・無責任に訳知り顔で映画批評・・・
わたし自身も少し耳が痛いのですが、まず映画評論や批評をするには、自分を十分に省みること、いろいろな意味での十分な学習を地道に積み重ねていくこと、および自信と謙譲もバランスよく必要であるように思います。
おっしゃるように、映画を良い意味で好きであることが一番必要なのでしょうね。
では、また。
Commented by シュエット at 2008-07-16 22:17 x
ちょっとお家シネマする前に…
>旧フランス映画に対する敬愛が
気持ちわかるけど…(笑) 映画そのものに対する愛!ね。
だから彼らにとっては、あくまでもその地点での彼らにとっては我慢できなかったんでしょうね。
>壊された旧作品の破片を丁寧に拾い上げて、再生させていかなければならい
それはまた新しい波がおこなうことでしょう。そう思う。
ヌーヴェル・ヴァーグの彼らもそうやって一方で粉砕しつつ、一方で葬り去られた映画を発掘し、復活させていったわけだし。
映画であれ、藝術であれ、国家であれ歴史はそうやって方向派判らないけれど動いている。
ただ、20世紀で突如現われた映像藝術が、今後、更なる進化発展があるのか? 最近の映画事情を観ていると、どうかするとドキュメンタリーの方がはるかに感動的なものもどんどん出てきているし、しかしその内容はというと、世紀末的な様相を見せているし、言語文化が低下の一途を辿っているし、言語の代わりに映像ではなくって、映像を受け止める感性は豊かな言語に支えられてこそ、感性となるわけで、それ以前はたんに好き嫌い快不快の気持ちがあるだけ。
Commented by シュエット at 2008-07-16 22:18 x
長くなりました続き。
最近の公開映画って一度みたら、もう一度って映画って少ないもの。そこが見えている。これが10年以上(いや20年かな?)前までだったら、もう一度みたい!っていう作品が会ったように思う。見なしたら、また新しい発見とか、見た年齢によって受け止め方が違って新鮮に見れ足り下と思うの。映画も世紀末かな? 映像の世紀は20世紀ですでに充分に熟成しきって、あとは腐るだけ? そんなこと考えたりしない?
>「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、次の「ヌーヴェル・ヴァーグ」に、そのうえをいかれる覚悟をしていたか
覚悟などなくても、それが歴史の流れだし、盛者必衰は自明の理だし。覚悟があるなしはあまり問題ではないと思う。
覚悟があったとしても、新しい波が起きた時は、彼らは、新しい波からみたら、既に超えられるべき存在の旧体制になってるわけだから。歴史jは繰り返される!
Commented by シュエット at 2008-07-16 22:19 x
エキサイトは字数制限少な過ぎ!続きます。
ある意味、突き放した言い方だけどトリュフォーは52歳でなくなって幸せな映画人生を送ったと思う。私リヴェットは既に古いと思う。ロメールは一貫して頑張ってると思う。ゴダールは…私は彼が政治に走ってから見てなくって 最近作「アワーミュージック」見たけど半分寝てた。
彼は案外と純情で、頑固に執着しているとこって強いんじゃないかな?ってアワーミュージックみていて、漠としてだけどなんかそんな気がする。表層的な見方かもしれないけれどね…。
なんかかんかいって結構おしゃべりしてしまった。
「居酒屋」ね、トムさんにつつかれてあれから私もずっと考えてる。トリュフォーの指摘に諸手あげて賛成ではないしね。あくまでも疑問形になってる。微妙にずれるけど、案外と「居酒屋」はトムさんと私かなり重なると思う。では明日!
Commented by Tom5k at 2008-07-17 00:47
>シュエットさん、どうも。
>その地点での彼らにとっては我慢できなかった・・・ヌーヴェル・ヴァーグの彼らも・・・発掘し、復活させていった・・・
おっしゃるとおりだと思います。だからこそ、そこに「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動の彼らの映画への貢献があったのでしょう。
>映画そのものに対する愛・・・
しかしながら、トリュフォーは古典に回帰し、ゴダールはドロンを使っているわけで、そのことだけでも感動的なのですが、旧フランス作品への総括がそれだけのみでは不足を感じているところです。
>覚悟などなくても、それが歴史の流れ・・・盛者必衰は自明の理・・・
確かにそのとおりでしょうけれど、それでは、あまりに18・19世紀的な歴史観であり、虚無的過ぎるように思うわけです。20世紀以降においては、その体系が生存したことによる(功名心としての欲得ではなく)社会的貢献、功績を尊び、生産的意欲にすべきで、それには何かを捨て何かを選ばなければならないのではないかと・・・?そいう意味では存在するためにはやはり一定の覚悟が必要であるのだと考えます。
Commented by Tom5k at 2008-07-17 00:52
>続き
また、ヌーヴェル・ヴァーグの現在までにおいては、今後も記事の内容で模索していきたいと考えています。
>世紀末的な様相・・・言語文化が低下の一途・・・それ以前はたんに好き嫌い快不快・・・
>映像の世紀は20世紀ですでに充分に熟成しきって、あとは腐るだけ?
最近の映画事情は絶望的かもしれませんが、映像芸術の未来的な展望は、わたしは用心棒さんやオカピーさんより楽天的です。とは言えそれは極めて困難な未来予想図の作成になるようには思いますが・・・。映画の良心は、まだまだ再生産されてくるように思っているんです。
ところで、わたしとしては明日、訪問する予定の用心棒さんが取り上げたスタンリー・キューブリックに着目している著作を読んだことがあります。彼の作品のようにテクノロジーの発展が生活条件をますます破壊していくことから学ぶべきであることは、すでに一般化しています。
Commented by Tom5k at 2008-07-17 01:03
>続き
つまり、映画の進歩はハードウェアなどの技術進歩によるものではなく、極端に言えば、「耳」で見る、「眼」で聞くなど、人間の五感を超越するような「共感覚」シネマの方向性を辿っていくことも展望になりえるように思い、そして、それを模索しているのは、現存ではゴダールくらいではないかと・・・成功しているか否かは別として、また、そのような方向がはたして未来的映画として理想的なのか否かも、まだわかりませんし、かつゴダールが本当に意識してそうしているかどうかもまだ自信はないですが・・・。
でも、ゴダールの作品は、新しい視点で感受するとまた違った解釈ができるように思っているところです。
>「居酒屋」
わたしもそう思っています。
シュエットさんの記事へのコメントと重なりますが、ポーレットをどう捉えていくべきなのかが、ジェルヴェーズの描き方を紐解くヒントだと思えています。
では、また明日。
Commented by mchouette at 2008-07-17 22:35
トムさん、こっち。
>それでは、あまりに18・19世紀的な歴史観であり、虚無的過ぎるように思うわけです。
私も随分と大雑把に言葉にしたんだけど。
トムさんのいわれる思いもあるけれど、なんか最近の映画事情みていると悲観的になってきてねぇ。
>ヌーヴェル・ヴァーグの現在までにおいては、今後も記事の内容で模索していきたいと考えています。
楽しみです。
私が彼らの作品にであった最初は大学に入って直ぐくらい。ゴダールの「気狂いピエロ」。その劇場はある大学の映研が企画しているところらしくって、ゴダール特集はしょっちゅう上映してましたね。これ観たきっかけは先輩が、ランボーの詩を引用している映画があるんだって教えてもらってみたのが最初。この出会いは衝撃だった。今まで高校時代見ていたメジャー映画とは違うし、「これは、この感覚はまさしく私たちだ!」って思った。この感覚は今も忘れがたいですね。初期のゴダール作品って、やはり私には特別な存在だわ。
>ポーレットをどう捉えていくべきなのかが
「禁じられた遊び」も、またまた見直したく思います。
Commented by Tom5k at 2008-07-18 00:35
>シュエットさん、こんばんは。
>映画事情みていると悲観的・・・
今のハリウッドに変わる、先導的に映画全体を引張っていく新たな体系の生成が必要な気がします。期待しましょう。
それにしても、シュエットさんは、やはりゴダールにそのように傾倒されていった、ある意味「一般的な映画を愛する人」なのですね。「シュエット映画鑑賞史」に好奇心をそそられます。
>ランボーの詩を引用・・・
を、きっかけとしてのゴダールとの出会いなど、興味はつきません。わたしは、ご存知のとおり、彼らにやっつけられた側の映画ファンですが、本当にゴダールは素晴らしい。
唐突で動機がわからない人たちが多いので、陶酔感を持てず冷静でいられますけど、感情移入ではない共感覚のようなものが湧き上がってきます。
例えば、『メイド・イン・USA』で、『アズ・ティアーズ・ゴー・バイ』を歌うマリアンヌ・フェイスフルは、どの彼女よりも好きで、あのシーンを観たときに過去の実際に見たことのある女性(母親、従姉妹、祖母、同級生、職場の後輩・・・)の悲しい表情の記憶が、次々と思い浮かんできて映画を観ていられなくなったほどです。
では、また。
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