『サムライ』③~メルヴィル演出におけるテーマ・編集・映像・シナリオ・音楽・俳優・スターシステム~

「私の意図は、分裂病的性癖に確実に冒された男の精神の混沌を見せることだった。カメラを後退移動させながら、同時にズーム・インしつつ、フェイドやオーヴァーラップでアクションをつけるという古典的な手法の代わりに、その同じ動きにいくつかのさりげないストップ・モーションとともに行ったんだ。ズームを続ける間は移動撮影を止め、また移動を始めるなどして、私は古典的な自然な映像のふくらみではなく、弾力性のある映像の膨張の印象を創り出して、その混沌とした感覚を表現しようとしたのさ。すべてが動き、同時にすべてが元の場所にとどまったままなんだ・・・。」
【引用~『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年】

サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生

ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希晶文社



 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、この作品の主人公ジェフ・コステロが「殺し屋」であることから、その性質は分裂病であるとしています。既に冒頭のクレジット・タイトル・シーンで、彼の部屋を微妙に前後に揺れるように撮影していることやフランソワ・ド・ルーペのテーマ音楽のイントロなどによって、その精神状態が効果的に表現されています。

 また、ハンガリーの映画理論家のベラ・バラージュは、歩行ほどその主人公の無意識の動作を表現しているジェスチャーはないと主張していました。
「歩行こそもっとも表現力に富む、特殊な映画的ジェスチュアなのである。歩行ほど性格的な表現動作はない。ほかに理由があるかもしれぬが、主な理由は、それが無意識の表現動作だという点にある。(-中略-)歩行のもつ表現力をあますところなく利用することのできるものは、映画をおいてほかにない。」
【『映画の理論』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】

映画の理論

ベラ バラージュ Bela Balazs 佐々木 基一學藝書林



 「ジェフ・コステロの歩く姿」をテーマにした映画と言っても良いほど、アラン・ドロンが演ずる殺し屋ジェフ・コステロの歩行シーンは、この作品の主軸となっています。彼のキャラクターを創出するに当たって重要な役割を担っているそのシーンが連続して描写されているのです。
 そして、ジャン・ピエール・メルヴィル監督自身が語っているように、確かにドリー、パンニングやティルトと同時のズームは使用されておらず、ズームを使用しているときには、カメラを移動させていません。ズーミングによるフレーミング調整をせずに、ジェフの歩行をパンで追いながらもフレーム・アウトさせ、そのカット後に後姿をフレーム・インさせたり、また、ロング・ショット、フルフィギアから、ニーショット、バストショット、クローズ・アップと固定したカメラでジェフの歩行を正面から捉え続け、相手の殺し屋のクローズ・アップをカットバッグさせたりする印象深いシークエンスもあります。

 更に、フランソラ・ド・ルーペのテーマ音楽もアラン・ドロンの歩行リズムと完全に一致照応させ、主人公のキャラクターをより鮮明なものにしています。これは、音楽における運動と、映画の画面における造形的な運動との間に、極めて厳密な“一致照応”の関係があることを主張していた旧ソ連の大監督エイゼンシュテインの“トーキーの原理”を活用したものであり、正に映像技術の基本中の基本であると言えましょう。

 これらの素晴らしい技巧に加えて、カラー映像においてはブルートーンの基調で一貫させていることも印象的です。ジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出による一連の硬質なカメラ技術は、既に超「ヌーヴェル・ヴァーグ」と化したアンリ・ドカエが担当しています。

 「青」は、貧しさと知性をシンボライズしている色彩です。
 わたしは、ピカソの「青の時代」を思い出してしまうのですが、この『サムライ』の主人公ジェフ・コステロは決して貧相ではありません。憐れな貧しさではないのです。それは、今の日本では既に死語に近い言葉ですが、「武士道」でいうところの品位としての「清貧」を敢えて誇っているようにまで思えるのです。

武士道 (岩波文庫 青118-1)

新渡戸 稲造 / 岩波書店



 作品全編を通じて、表題である「サムライ」という日本の古典思想である「武士道」をシンボライズさせた着想によって、そのテーマや映像、編集、シナリオ、音楽、アラン・ドロンの演技とスター性など、斬新で優れたリアリズムを生成しています。

 ただ、わたしにとっての疑問、読み取れていない点も、いくつかあります。
 ファースト・シークエンスにおけるカメラ技巧の外に、ジャン・ピエール・メルヴィル監督ほどの斬新な演出家が、カットごとに今更ながら、古くさいワイプで場面転換を多用していること、監督自身は使用していないと言っているにも関わらず、オーバーラップを何度も使用していることなどです。また、ストップ・モーションを使用したと語っているシーンも、どのシーンか非常にわかりにくく、もしかしたら、元来の意味での「ストップ・モーション」のことではないのかもしれません。
 しかしながら、いずれにしても独特の技法でジェフの心象風景を表現し、それは全て的を得た成果を生んでいることに変わりはありません。彼のどの作品でも、個々の映像でのショットの連続性が、見る側の緊張感の連鎖を常に生み出す効果を創出しているのです。


 ナタリー・ドロン演ずるジャンヌ・ラグランジュは、ジェフ・コステロを心底、愛し切っています。彼女は、ジェフの役に立つことのみを生き甲斐にしている女性です。彼女の精神の純血は、「武士道」でいうところの「婦人の役割」を全うした立派な侍の妻のものだと言えましょう。恐らくジェフも、むかしから彼なりの方法で彼女を愛し続けてきたのでしょう。そして現在でも深く愛しているのだと思います。そういう意味では、ジャンヌは非常に幸せな女性です。

 しかしジェフは、カティ・ロジェ演ずるヴァレリーに恋をしています。
 彼女は、犯罪依頼人と同居しており、ジェフの疑問をはぐらかしたり、彼の電話を避けたことなどから、依頼人の情婦だと推測できます。

 それにしても、事件の証人を殺害するために再度、ジェフに依頼した殺害の対象者は誰なのでしょうか?この証人であると思われるのはジャンヌ、もしくはヴァレリーですが、この二人のどちらかなのかは非常にわかりにくく、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は敢えてジャンヌとも、ヴァレリーともとれるように演出したようにも感じます。
 彼の演出特有の観る側へのイリュージョンの提示だったのかもしれません。

>証人を消そう
 ヤツに殺させるんだ

 依頼人宅で証人を殺害する議論がされたすぐ後、警察署内のカットに移ります。フランソワ・ペリエ演ずる警視とその部下たちが

>女はウソだ
 女を攻める手だな
 偽証罪になると脅すんだ
 ・・・
 さあ女を攻めろ

 このような場面転換から考えれば、ジャンヌがその対象である印象を受けることもあり得るでしょう。
 もし、警察が彼女を墜としてしまうとジェフが犯人だとわかってしまい、そこから足が付くことも有り得るわけですから、犯人側からすれば最悪の事態となります。当然のことながら、彼らがジャンヌの殺害を目論んでも不自然ではありません。
 しかし、自分を最大に愛してくれている愛しいジャンヌの殺害を、ジェフが引き受けるわけがありません。
 そして、依頼した相手とヴァレリーは共謀、もしかしたら彼女が主犯となり得るわけですから、ジェフがヴァレリーに銃を向けることは必然となるわけです。が、しかし、ジェフはヴァレリーに恋をしており、彼女を殺害することは不可能なわけです。
 この場合の彼女は、「フィルム・ノワール」のセオリーどおりの典型的なファム・ファタルだったといえましょう。

>どうなの私が必要でしょ?
>いや
>ウソよ 何をするの?助けたいの
>いいんだ

 自分を必要として欲しいという願うジャンヌにジェフは
>おれの仕事だ

 と言って立ち去ります。

 また、ラスト・シーンでは、
>演奏中よ
 ジェフはヴァレリーに銃を向けます。
>どうして?
 との問いかけにジェフは
>仕事さ

 と言い放つセリフがあります。

 これらのことから考えれば、現在、一般的に解釈されているように、証人としての殺害依頼の対象となっているのがヴァレリーであるとすることが、最も妥当な解釈となります。

 殺しの依頼に対する自分の考え方が、「仕事」であると割り切っていることを理解している女性二人にジェフが、そう言い放っているシーンが、このように二度もあるからです。その目的、すなわちヴァレリーの殺害を指している言葉が「仕事」、すなわち「依頼された業務」であるから使った言葉なのでしょう。
 この場合、彼女が依頼人と共謀していたとは言え、完全に情夫に裏切られた女性となります。恐らく、ジェフもそのことに気付いているでしょう。彼にとっては、恋した女性であることに加えて、彼女が依頼人と共謀しているものの自分を助けてくれた女性であり、彼から見れば非常に哀れな女性に見えるのではないでしょうか?
 そして、ジェフは主犯格の犯人を殺害しますので、本来であれば、もはやヴァレリーを殺害することに意味はありません。しかし、仕事を全うしようとするプロの殺し屋として生きるしかなかった彼は、ヴァレリーの元へ向かい、彼女に銃口を向けるのです。彼女に恋してしまったことで、自分の仕事への潔癖を否定せざるを得なかった彼は、死を選択するしかなかったのです。

 いずれにしても、この作品のテーマが、男性が女性のために自殺せざるを得ないほどの強いフェミニズムを描いたものだということが理解できますし、ラスト・シークエンスの「切腹」とも言えるジェフの自害は、このテーマから必然の結末です。
 女性を拒否する作品が多い「フレンチ・フィルム・ノワール」で、この作品ほどフェミニズムに溢れた作品はありません。特に、ジャン・ピエール・メルヴィル監督のアラン・ドロン主演作品としては、『仁義』や『リスボン特急』と比べても、際立って異質なテーマだと言えましょう。

 女性を拒否することをトレード・マークにしていたアラン・ドロンが、女性のために死を決します。しかも、その行為は非常に男らしい潔癖さで実行されるのです。全盛期のアラン・ドロンのキャラクターを初めて完成させた『サムライ』の作品テーマが、女性を守るために自らが破滅することを描いていたものでした。
 このようなジャン・ピエール・メルヴィル演出における「フレンチ・フィルム・ノワール」へのスター・システムの効用に、わたしは必要以上に驚いてしまったのです。
[PR]

by Tom5k | 2006-12-03 13:51 | サムライ(6)