『ボルサリーノ』①~ジュリアン・デュヴィヴィエ&ジャン・ギャバンからの影響~

 アラン・ドロンのキャラクターの印象は、ジャン・ギャバンの後継者としての「フレンチ・フィルム・ノワール」の大スターとしての側面が一般的なような気がします。彼は多くの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を製作し、出演していますが、それらの作品を単にひとつの体系と解釈することが短絡的であると感じ、抵抗感を憶えます。

 特に、この『ボルサリーノ』は、クールで孤独な犯罪者を現代的・都会的に様式化していったジャン・ピエール・メルヴィル監督での作品や、社会で虐げられ疎外され、犯罪者とならざるを得なかった者たちの悲哀を描き続けたジョゼ・ジョヴァンニ監督の作品などと趣きが異なります。
 このようなことを考えると、彼の「フレンチ・フィルム・ノワール」の種々の作品は、フランス映画史との関連においての密接な影響が常に存在している、というところにどうしても行き着いてしまうのです。

 アラン・ドロンの映画デビュー当時の作品は、自国フランスでは「詩(心理)的レアリスム」戦後世代のクリスチャン・ジャック監督や、ピエール・ボストとジャン・オーランシュの脚本家コンビの作品、ボスト&オーランシュを多用していたルネ・クレマン監督の作品、戦前の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の作品体系であり、イタリアの作品ではルキノ・ヴィスコンティ監督やミケランジェロ・アントニオーニ監督の「ネオ・リアリズモ」作品の体系を中心としたものでした。
 そして、その後、ジャン・ギャバンとの初共演作品『地下室のメロディー』を出発点にして、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の体系へと変わっていきました。
 そして、その時代とほぼ同時期の1950年代後半から60年代にかけてのフランス映画では、いよいよ映画史そのものの体系を覆してしまうほどのエネルギー「ヌーヴェル・ヴァーグ」が始まっていきます。しかし、アラン・ドロンの資質や出演していた作風とそれは相容れず、彼は俳優としての居場所をハリウッドに求めていくことになりました。

 マルコヴィッチ殺害事件の真相は未だ闇の中に在ると言えそうです。そして、その発端にはハリウッドでの彼の生活から始まっていたように見受けられる節もあります。
 作品の興業成績や映画スターとしての人気、フランスとハリウッドの映画制作環境の違い、スキャンダルへの危機感等、種々の原因により、彼はハリウッドを去り自国のフランス映画に復帰します。

 初期の彼に最も大きな影響を与えた演出家であったルネ・クレマン監督は、独自のリアリズムを追究しながらも『ガラスの城』(1950年)、『禁じられた遊び』(1952年)、『鉄格子の彼方』(1954年)、『居酒屋』(1956年)などで「詩(心理)的レアリスム」の体系で有名であったピエール・ボストとジャン・オーランシュのコンビをシナリオや脚色で起用していた監督です。
禁じられた遊び/居酒屋





鉄格子の彼方
/ 東映





 ハリウッドのワーナー・ブラザーズ社でのノン・フィクション作品『パリは燃えているか』(1965年)は、アラン・ドロンが渡米中に出演した作品でした。残念なことに、この作品がデビュー当時から組んできたルネ・クレマン監督とのコンビの最後の作品でした。

 彼は帰仏後、ロベール・アンリコ監督の青春映画『冒険者たち』(1967年)で新境地を開き、脚本を担当していたジョゼ・ジョヴァンニと巡り会い、いよいよ初めて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の演出家ルイ・マル監督の『世にも怪奇な物語「第二話 影を殺した男(ウィリアム・ウィルソン)」』(1967年)に出演することができました。1968年には、これも「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先行者と言われていたジャン・ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』に出演し、以後の彼の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品でのキャラクターの確立に成功します。

 ここで、興味深い逸話が残っています。1967年に『サムライ』の企画が出たとき、戦前の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠マルセル・カルネ監督のエージェントはアラン・ドロンのマネージャーに演出依頼の交渉をし、アラン・ドロンがそれを断ったというのです。そして、いよいよジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出での『サムライ』に主演しました。

 何故、彼はマルセル・カルネ監督を断ったのか?この原因として、アラン・ドロンはデビュー当時に彼の作品『危険な曲がり角』(1958年)のカメラ・テストで落とされた経緯があり、そのことを忘れていなかったようなのです。
【参考 『パリの風のなかで』 秦早穂子 著、講談社、1979年】

 また、すでにマルセル・カルネ監督は全盛期を過ぎた過去の演出家であり、『霧の波止場』(1938年)や『北ホテル』(1938年)、映画史上の大傑作『天井桟敷の人々』(1945年)を撮った頃の演出力はもう残ってはいませんでした。彼の旧式の演出で『サムライ』を撮るメリットが無かったとも考えられます。
 更にこの企画自体が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先行者とも言われていたジャン・ピエール・メルヴィル監督のものであったことなどの理由が推測できます。
霧の波止場【字幕版】





北ホテル/マンハッタンの哀愁
/ アイ・ヴィー・シー





天井桟敷の人々
/ ジェネオン エンタテインメント





 渡米以後、帰仏してからのアラン・ドロンのこういった諸作品やその製作過程を辿ると、彼はいよいよ新たな道を切り開き、しかもそれが、やっと波に乗ってきたような感があるわけです。

 しかし、彼は『サムライ』でマルセル・カルネ監督を断り、ジャン・ピエール・メルヴィル監督でその代表作品を撮り終えた後に実に不思議な出演作品を選びます。1967年、ルネ・クレール監督の後継、ジャック・フェデール監督やマルセル・カルネ監督と同様に戦前の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠であったジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『悪魔のようなあなた』(1967年)です。

 何故、彼はマルセル・カルネ監督を蹴ったにも関わらず、そのすぐ後に、わざわざこのクラシックの老演出家の作品に回帰していったのでしょうか?

 アラン・ドロンは、この作品に出演しなくても、そのキャリアへの影響は全く無かったはずです。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督もマルセル・カルネ監督と同様、すでに過去の演出家でした。もちろん素晴らしい演出家ではあるでしょうが、全盛期に第一線で活躍していた頃とは違うのです。

 アラン・ドロンにとっては、ルネ・クレマン監督でさえも、『パリは燃えているか』を最後の出演作品にしてしまっており、ルイ・マル監督やジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出を受け、ロベール・アンリコ監督との『冒険者たち』を通じてジョゼ・ジョヴァンニのシナリオに巡り会っていたのですから、今更ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の演出を受ける必然があるとは思えないのです。

 不思議です。何故なのでしょう?

 アラン・ドロンにとっては、『地下室のメロディー』(1962年)で共演した大先輩であるジャン・ギャバンの存在は、俳優としても映画スターとしても、彼のモデルすなわち目指す姿であったとも言えましょう。彼は尊敬する俳優としてバート・ランカスターとともにジャン・ギャバンを挙げています。
 その代表作品をジュリアン・デュヴィヴィエ監督は7作品も撮っています。
 もしかしたら、アラン・ドロンにとっては、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督に敬意を示すことは、ジャン・ギャバンへのそれと同様のことだったのかもしれません。

 また、過去にジュリアン・デュヴィヴィエ監督の反「ヌーヴェルヴァーグ」の演出で『フランス式十戒「第6話汝、父母をうやまうべし、汝、偽証するなかれ」』(1962年)に主演しています。義理堅いアラン・ドロンのことです。自分を使ってくれた巨匠への恩義を忘れていなかったとも考えられます。

 もうひとつ推測できる重要なことは、『サムライ』で「フレンチ・フィルム・ノワール」に目覚めた彼が、すでに『シシリアン』(1969年)でのジャン・ギャバンとの再共演を視野に入れていたのではないかということです。過去、彼は『フランス式十戒』に出演した翌年に「詩(心理)的レアリスム」の巨匠マルセル・カルネ監督、戦後「詩(心理)的レアリズム」第二世代のジャン・ドラノワ監督やクロード・オータン・ララ監督の作品に多く出演していたジャン・ギャバンと『地下室のメロディー』で共演できた経験を持っており、ここでも同様のパターンを繰り返せると考えていたのかもしれません。

 そして、アラン・ドロンは以後の映画スターとしての全盛期をサスペンス作品や暗黒街を舞台にした作品などを中心にして主演していくのですが、その再出発点とも言える時期に、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の演出とジャン・ギャバンと再共演を果たしたことが予想以上の影響力をアラン・ドロンにもたらしたように、わたしには思えるのです。
ゴルゴダの丘
/ ビデオメーカー





我等の仲間
/ アイ・ヴィー・シー





望郷
/ ジェネオン エンタテインメント





殺意の瞬間
/ アイ・ヴィー・シー





 基本的にフランスの映画製作のほとんどはプロダクション方式で制作されており、映画の制作者自身が自分で金融機関やスポンサーを捜して資金調達の折衝を実施することが多いようです。映画制作に実際に携わっている監督や俳優が映画会社を設立して、作品をプロデュースすることは珍しい事ではなく、この『ボルサリーノ』も、その例に漏れずアラン・ドロンが『ジェフ』(1968年)に引き続き、自分のプロダクションで製作した作品です。

 アラン・ドロンにとっては、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『悪魔のようなあなた』の出演とジャン・ギャバンと再共演した『シシリアン』により、戦前からの伝統であった「詩(心理)的レアリスム」の作風を帰仏後に再度、直に肌で学んだ結果、「フレンチ・フィルム・ノワール」を自分のプロダクションで、その作風により製作しようと野心を持ったのではないかとも思います。

 「詩(心理)的レアリスム」が、1950年代後半から台頭してきた「ヌーヴェル・ヴァーグ」により、「フランス映画のある種の傾向」として、過去からの良質の伝統であるとシニカルに比喩され、徹底的に批判されていったことに対しての、アラン・ドロンによる反骨の作品が『ボルサリーノ』であったことは、この作品以前の彼を知ることからも推測できることのように思うのです。
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by Tom5k | 2006-08-22 13:10 | ボルサリーノ(2)