『仁義』①~孤独の美学~

 1917年パリに生まれのジャン・ピエール・メルヴィル監督は、第二次世界大戦中、フランス軍に従軍後、1946年に独立プロダクションを立ち上げ、自主制作映画を創り始めました。
 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、やはりアラン・ドロンを撮り続けた名匠たち、ルネ・クレマン監督やルキノ・ヴィスコンティ監督と同様に大戦中はレジスタンスの一員でした。彼らの作品とはまた異なる意味で、創作された作品群の各テーマにそのことが色濃く出ています。

 1947年のデビュー作『海の沈黙』もドイツ占領下のフランス郡部を舞台にしたレジスタンス作品です。この作品が、既成のスター俳優を使わずに低予算で製作され、オール・ロケーションで撮影されたことから、彼は「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先駆者とも呼ばれています。ジャン・リュック・ゴダール監督らの「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派に敬愛され、彼の『勝手にしやがれ』(1960年)にも特別出演しています。

 後年、ジャン・ポール・ベルモンド主演の『いぬ』(1963年)、リノ・ヴァンチュラ、ポール・ムーリス、ミシェル・コンスタンタン出演の『ギャング』(1964年)などで、彼自身の経験によるレジスタンスの精神で「フレンチ・フィルム・ノワール」を描くようになっていきました。

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 その後、アラン・ドロンという好逸材に恵まれ、日本の武士道などの東洋思想のテーマで彼を主演にした『サムライ』(1967年)を制作し、「フレンチ・フィルム・ノワール」を独自の美学で更に純化させていきました。
 そういった経緯を経て、豪華なオールスター・キャスティングを特徴とした後期の代表作品である『仁義』が生み出されたのです。

【出演者の各代表作品】
※ジャン・マリア・ヴォロンテ
死刑台のメロディ
/ エスピーオー





群盗荒野を裂く〈インターナショナル版〉
/ エスピーオー





東風
/ コロムビアミュージックエンタテインメント





※ブールヴィル
大頭脳
/ ビクターエンタテインメント/CIC・ビクタービデオ





怪傑キャピタン(トールケース)
/ アイ・ヴィー・シー






※フランソワ・ペリエ
居酒屋
/ アイ・ヴィー・シー





右側に気をつけろ〈期間限定〉
/ ハピネット・ピクチャーズ





オルフェの遺言
/ ビデオメーカー






※イブ・モンタン
枯葉 ~夜の門~
/ アイ・ヴィー・シー





恐怖の報酬
/ ハピネット・ピクチャーズ





>菊村
「映画の中に「人生の中で一番重要だと思うのは愛と友情と裏切りだ」という言葉が出てきますよね。(略-)」
(-略-)
>白井
「ドロンが一人でクラブの隅の席に座っていると、たばこ売りのバニー・ガールが来て、手に持っていた赤いバラを、ちょっとキャメラの方を見て考えてから彼にやる場面がある。(略-)」
>河原畑
「一説によると、あのバニー・ガールは、ひそかに店の主人フランソワ・ペリエの命を受けていて、裏切りのシンボルである赤いバラをアラン・ドロンに渡して、意のあるところを知らせようとした、という説もある。(笑)」
>品田
「(-略)そういう読み方をしていくと、ジャン・マリア・ボロンテがアジトのアパートでアラン・ドロンを送り出してから、ハッと裏切りに気づくシーンでも、彼は赤いバラを手に持っている」
(注~わたしは、すでにコレーを送り出す前に、ボージェルはそれに気づいていたと思っています。)
(-略-)
>池波
「(-略)ギャング映画、犯罪映画というのは、スキ無くつくろうと思うと、一番むずかしいと思う。ジャン・ピエール・メルビルみたいな、こういう不思議な監督がいるあたりが、映画というものの面白いところですよ。」
【キネマ旬報1970年12月下旬号 特別ディスカッション「「仁義」とジャン・ピエール・メルビル監督とその映像の精神主義」池波正太郎(作家)、菊村到(作家)、品田雄吉(評論家)、河原畑寧(読売新聞文化部)、白井佳夫(キネマ旬報誌編集長)より抜粋。】

 作品のテーマは、警視総監が常に言葉にする「人間は常に悪に染まっていく。すべての人間は罪を犯している。」に集約されています。

 マッティ警視を演じるブールヴィルが、素晴らしいキャラクターを創り上げています。マッティ警視の生活は、一人暮らしのアパルトマンで一緒に住んでいるのは飼っている何匹かの猫だけという非常に淋しいものです。彼は、自らが孤独であることを知っているがために、多くの犯罪者たちに対して、心底からの憎悪を持つことができない善良で優しい警察官であるように感じることができます。

 もしかしたら、ジャン・マリア・ヴォロンテ演じる犯人ボージェルの脱獄に対してでさえ、心のどこかで彼の心意気や生き方に対する賞賛や敬愛の気持ちを持っていたのではないかとまで考えてしまいます。
 いくら賢い犯人が相手とはいえ、大ベテランの警察官が護送中の犯人に逃亡されてしまうことなど考えにくいことです。そして、その後の監査局長である警視総監とのやりとりからも、彼がボージェル逮捕に対して、非常に消極的であるような印象を受けます。
 これらのことから、彼が警察官としては失格であっても、人間的で安心感のある人柄であることを察することができます。

>警視総監
「マッティ君、有罪と思われる容疑者はどういう行動を取るか、君は予知していなかったのかね?」
>マッティ警視
「反論して恐縮ですが、私の手を経由する容疑者は、私は無罪の可能性のある者として扱っております。」
>警視総監
「無罪など存在せん。人間はすべて有罪なのだ。この世に生まれたときは、なるほど罪はあるまい。だが、いつまでもそのままではおらんからね!」
(-略-)
>マッティ警視
「警官でもですか?」
>警視総監
「あらゆる人間と言っただろう。マッティ君。」

 マッティ警視は警視総監(監査局長)を心の底では侮蔑しながらも、彼の人間観に不思議な説得力を感じてしまいます。そして、お抱えの情報屋の
「ボージェルはクロなのか?」
という問いに
「そうだ。」
と答えてしまうのです。このときのマッティ警視の表情には、彼のやりきれない心情が現れてしまっています。

 このような割り切れない感情を持ちながらも、警視総監(監査局長)や情報屋とのやり取りから、彼は次第にボージェルの捜査に本気で乗り出していくようになってしまいます。そして、ボージェルの古い仲間、フランソワ・ペリエ演ずるサンティに、仲間を売らせるように仕組んでいくのです。

 ボージェルとサンティのもう一人の古い仲間であるイブ・モンタン演じるジャンセンは、悪に染まって堕落してしまった元警察官です。
「彼は今監査局長だ。警官を監視する立場だ。」
とジャンセンは鍵穴を射撃した技術を警官時代の元上司に教えて貰った経験をアラン・ドロン演じるコレイに語ります。驚くことに、それはマッティ警視の尻を叩いていた警視総監だったのです。

 監査局長である警視総監はマッティ警視に対してまで
「コルシカ人の名だが風貌が違う。」
と言って、彼の身上調書を確認するほど、人に対して常に猜疑の目を向ける性格ですが、もしかしたら、このような彼の生き方も、元部下のジャンセンの転落がトラウマとなっていたからなのかもしれません。

 そして、マッティ警視は、警視総監の言葉に強い説得力があることを次第に認めていかざるをえなくなります。サンティスに仲間を売らせるために、彼の息子をおとり逮捕で連行しただけなのに、彼は実際のマリファナの事件に関与していたのです。
 彼は、ひとりごちます。
「≪この世に生まれたときは、なるほど罪はあるまい。だが、いつまでもそのままではない≫ 畜生!」

 いよいよ、マッティ警視も、サンティの裏切りやコレイのむかしの相棒リコの密告から、ボージェルが宝石店の強盗一味であることを想定します。そして、自らが闇の宝石商に扮してコレイを欺き、一斉逮捕の準備をすすめていきます。
 しかし、ボージェルはサンティの裏切りに気づいており、コレイとマッティの密談の場所に乗り込みます。うむを言わせずコレイを逃がしたボージェルに対して、マッティは
「なぜ、おれが誰だか言ってやらなかった。」
と問いただします。
「言えば、お前を殺しにいって捕まってしまう。あいつを逃がすことが仁義だ。」

 すでにマッティが警察官だと気づきながらも、それをコレイに伝えなかったボージェルは、仲間に対する仁義を果たしていたのです。

 彼はジャンセンが死ぬときに残した
「サツはいつもマヌケだな。」
という警察官に対する痛烈な侮蔑の言葉からも、何故、彼が警察を辞めて転落していったのかを察してしまったのでしょう。

 サンティに仲間を売らせ、ボージェルとコレイの友情を知り、むかしの同僚ジャンセンを撃ち、彼に警官が侮蔑されるべき存在であることを思い知らされたマッティ警視。

 「人間は、すべて有罪だ。マッティ君。すべて・・・。」

 警視総監が最後まで言い続けたその言葉も、彼には何の慰めにもならず、何の説得力も持たない空虚なものになっていました。マッティ警視はあらためて自分の孤独を思い知らされるのです。
 それは、本当に大切な友情というものを確信しながらも、すべてを破滅させてしまう警察官の宿命に、自己の良心が敗北せざるを得なかったために生まれた「孤独の美学」といえるものなのかもしれません。
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by Tom5k | 2006-05-30 21:12 | 仁義(2)