『ヌーヴェルヴァーグ』④~愛の再生・復活その1 現代思想の実践~

 ドミツィアーナ・ジョルダーノ演ずるエレナが、アラン・ドロン演ずるロジェを溺死させるショットの緊迫感の高まりは、この作品の頂点だと思います。物語の前半からのロジェの苦悩も切実な感情表現でしたが、この船上での二人の罵り合いには極限の緊張感が表現されています。
 わたしはエレナに溺死させられるロジェには強烈な感情移入をして、身震いしてしまったほどです。

 戦後のイタリアで「ネオリアリズモ」が台頭してくるより以前には、リアリズムといえば、ロシアがまだ旧ソ連邦であった時代の「社会主義リアリズム」のことを指すものでした。当時のソ連では、リアリズム作品の基本になる態度として「典型的な環境における典型的な人間を描け」というフリードリッヒ・エンゲルスの言葉がいつでも引用されていたそうです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】

 わたしは、そういった意味で『ヌーヴェルヴァーグ』の主人公ロジェ・レノックスにおいて、彼の環境設定と現代に生きるわれわれの疎外感、そういう意味での彼のアウトサイダーとしてのキャラクターが映画表現として実に典型的であることに注目します。

 さらにゴダール監督はこのロジェ・レノックスに、ルキノ・ヴィスコンティ監督初期の「ネオ・リアリズモ」の歴史的傑作である『若者のすべて』でアラン・ドロンが演じた、ロッコ・パロンディという労働者階級のキャラクターを投影させたとも考えます。
 もし、そうであるならば、それは非常に興味深いことです。

 アラン・ドロンの代表作、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーや、ジョセフ・ロージー監督の『パリの灯は遠く』の主人公ロベール・クラインは、20世紀以降においての映画鑑賞におけるidentification(感情移入・主人公との同一化)が可能なキャラクターだったと思います。
 しかし、わたしは他のブログの投稿によるコメントから、『若者のすべて』のロッコは現代社会においては決して「典型的な人間」ではなく、19世紀より以前のキャラクターであるのではなかという疑問を持つことになったのです。
(ブログ「赤パン帳 (ΘェΘ)2005.10.19 Wednesday 若者のすべて」2006/01/10 6:52 PM、2006/01/10 8:01 PM、2006/01/11 8:13 PMのコメント参照)

 近代以前のドストエフスキーの『白痴』に登場するムイシュキン公爵のキャラクターをモデルにしているとも言われているロッコ・パロンディは、近現代におけるプロレタリアの人物像に当てはめるにはリアルではなく、あくまで比喩的な表現に留まらざるをえなかったのかもしれません。

 そういった意味では、ジャン・リュック・ゴダール監督はこの作品でロジェ・レノックスにルキノ・ヴィスコンティ監督のロッコ・パロンディを超越させようとしたのではないかとも思われます。わたしには、彼が現代においての「典型的な人間」としてのロッコ・パロンディ、すなわちロジェ・レノックスとして描こうとした試みが、ルキノ・ヴィスコンティ監督に対する前向きな意味での批判と挑戦だと感じたわけです。
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 そして、ロジェが溺死した後のリシャールとしての再登場は実にセンセーショナルです。
 ここでは、19世紀後期の実存主義哲学者であるニーチェのあの有名な

「この人を見よ」

の言葉と同時に、エレナに挑むような赤のマゼラッティスパイダーで登場します。

「この人を見よ」

というニーチェの言葉は、

「神は死んだ」

すなわち宗教が意味をなさなくなったというニヒリズムを生きる現代人が、現代以降の神に代わる

「力への意志」

により、あらゆる限界を乗り越えるべく存在

「超人(超越者)」

として生きなければならない宿命を象徴しています。

 そういう意味からも、リシャールの何かを確信した自信に満ちた表情での登場は、エレナとトルラート・ファブリーニ家への挑戦的な関わりを予見させます。

 それは、不当で茶番な裁判を受けて不当な量刑を受けた開拓宣教師フランシスコ神父を助けるために、ドン・ディエゴが怪傑ゾロとして登場したことをも超越していたのではないでしょうか?

 この

「ニヒリズム」

においては、すでにロッコ=ロジェを超越するための

「超人」

の思想が貫かれており、今の若い人たちの使っている表現を用いれば、リシャールは「超ロッコ」であり、また「超ロジェ」として登場したのです。彼の個性は全て、ニーチェの思想によりロッコ=ロジェから解放されたことにより確定されているように感じました。
 恐らく、ゴダール監督のニーチェの引用は、特にロッコの聖人のようなキャラクター、つまりプロレタリアが宗教から解放されることをも、意識したものであったはずです。

 さらに、リシャールは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』で、アラン・ドロンが演じた青年ピエロをモデルにしていると思われますが、モニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアの

「ニヒリズム」

に巻き込まれた彼の「沈黙とあきらめ」が、リシャールには皆無です。ここでも、ニーチェの思想である、あえて

「ニヒリズム」

を生きることで、

「ニヒリズム」

を克服しようとする

「永劫回帰」

の思想が貫かれているのでしょう。
この人を見よ
ニーチェ F.W. Nietzsche 手塚 富雄 / 岩波書店





 このことも、ジャン・リュック・ゴダール監督特有の「新しい波」としてとらえることが可能であることのような気がします。
 しかも、それは「社会主義リアリズム」の時代に定義されていた20世紀以降の「典型的な人間」の型であることを彼は忘れていないのです。映画のラストシーンで楽しそうにジャンプするリシャールは、未来に展望のない虚無的な無気力に到達してしまったピエロを超越したキャラクターであり、さらに「超ピエロ」へと進歩しているのです。

 特に、ハワード・ホークス監督の『脱出(『持てる者と持たざる者へ』 アーネスト・ヘミングウェイ著)』からの引用は、ロジェからリシャールへの脱皮を象徴させています。
「死んだ蜂に刺されたことがありますか」
とユベール・ラヴェル演ずる運転手ロラン・マルセルは聞きます。『脱出』で引用されているのは、ローレン・バコール演ずるマリーとウォルター・ブレナン演ずるエディとの会話です。
【参考~『ヌーヴェルヴァーグ』DVD解説書】

「死んだ蜂は刺す?」
ロジェの1度目の答えは
「何のことだ」
ですし、2度目は
「さあね」
です。

リシャールの回答はテンポよく、『脱出』でエディとマリーが意気投合したように

リシャール「経験か?」
ロラン「裸足で歩くと」
リシャール「刺される」
ロラン「ただし」
リシャール「憤死した場合」
ロラン「そう」

 最後のロランの
「別人だ」
という言葉は、ロッコやロジェ、そしてピエロをも超越してしまったリシャールに対する歓喜の表現だったのでしょう。
脱出 特別版
/ ワーナー・ホーム・ビデオ






 エレナのキャラクターですが、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の『裸足の伯爵夫人』のエヴァ・ガードナーが演じたエレナ・トルラート・ファヴリーニ伯爵令嬢からの名前を継承しているそうです。作中の彼女はマドリードのジプシーの踊り子から映画スターとなり、トルラート・ファヴリーニ伯爵と結婚し、伯爵夫人となりますが、最後は悲劇の死を迎えます。『ヌーヴェルヴァーグ』でのエレナもやはり、リシャールにより死を迎えますが、同じリシャールにより救われ、再生して愛を得るのです。
【参考~『ヌーヴェルヴァーグ』DVD解説書】

 リシャールの超越は、

「力への意志」

によって、エレナの愛までも

「超人」

化させることが可能であったといえましょう。
裸足の伯爵夫人
/ 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン






 1954年12月ソヴェート作家大会で、セルゲイ・ゲラシーモフの「ソヴェート映画のシネマトゥルギー」の報告のなかで、人間の性格の描き方の貧しさ、特にその恋愛描写の貧しさが指摘されています。恋愛を類型化し過ぎて、膠着させてしまった当時の「社会主義リアリズム」の傾向を批判したものです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】

 現在でもそれは、欧米、日本及びアジア各国などの先進諸国の映画やTVドラマにおいて、「ロマンティック・ラブ」という類型的で膠着しきった短絡の描写がほとんどであり、実に危険な風潮といえましょう。ここには恋愛の困難を単純化したマインド・コントロールともいえる、いわゆる「素敵」な恋愛表現が蔓延しています。

 『ヌーヴェルヴァーグ』では、
「男は女にとって不足か過剰かのどちらかである」
という言葉が繰り返され、女性の特質が男性の側から理解されています。前述したセルゲイ・ゲラシーモフの発言のひとつである
「恋人たちはたえまなく、けんかをし、仲直りする」
はずであるという意味での表現が、その原則の通りに描かれていると感じました。

 レノックスとエレナはたえまなく、けんか(どころか、たえまなく、殺し合い)をし、愛を再生・復活させます。ここでも現代社会での男女の複雑な恋愛感情を直視した『太陽はひとりぼっち』のピエロとヴィットリアの「愛の不毛」として描かれていた恋愛ニヒリズムを克服しています。
 しかも、この二人は、殺し合うという極端な比喩表現ではあっても、膠着した類型で描かれておらず、現代以降における恋愛関係にある男女、すなわち「典型的な環境における典型的な人間」として描かれているのです。


 映画での数学の引用は、古くはジャン・ルノワールの名作『ゲームの規則』が、それだとわたしは思っています。
 ゲームにおいての競技者による複数の駆け引きや戦略、配分利益などの行動に関する理論を展開させたハンガリーの数学者J・フォン・ノイマンの「ゲームの理論 theory of games」が、ストーリーのプロットに象徴されているような気がするからです。

 また、アルフレッド・ヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』でも、主人公であるガイの殺人容疑のアリバイを立証できる唯一の証人である大学教授が、酔っぱらって、彼と会っているときのことを憶えていないという場面がありました。その教授が泥酔しているときに「関数が与えられれば微分が求まる」などの時間と空間の概念から、アリバイ立証を比喩したセリフを使用していました。

 ジャン・リュック・ゴダール監督も『ヌーヴェルヴァーグ』では、数学の比喩を使用しています。
「集合Eの代数構造の定義Eにおける任意の元XとYに関数XYを対応させる合成規則を定める」
 集合の定義は「明確に区別できるものの集まりで、あるものが与えられたとき、その集まりに含まれているかどうかを確定できるもの」というものです。ここでは、資本家のエレナ、貧乏な給仕、ブルジョワに仕える庭師、作家ドロシー・パーカー、弱いロジェ、実業家リシャールなどの現代社会を象徴する人間たちの集合のことでしょう。 
 代数構造の定義からは、方程式の構造のことですから、集合Eのなかのどの二つの要素すなわち、任意の元XとYに対して、(X×b)や(Y×b)においてもEの要素として決まるこのEを群であるとしたガロアの理論が思い出されます。

 任意の元XとYに単位元bを対応させ、このbが、XとYの影に隠れて見えないものとして、ランボーの言葉である「もう一人の他者」を比喩したのではないかと考えました。それはレノックスとエレナの愛と同一の根源である愛であり、レノックスの語る「僕は僕以前にひとりの人間だ」というその悲痛な叫びが「ひとりの人間」であるという「単位元」なのだと考えました。
 関数XYを対応させる合成規則とは、合成関数のことでしょうか?Y=f(x)によってYがxから決まり、X=g(y)によってyからXが決まっているとすれば、ラストシーンの二人の愛の成就としての関数XYの合成規則であり、これによりレノックスとエレナの愛を関数XYとして、愛の再生・復活を比喩したと考えられます。

 この『ヌーヴェルヴァーグ』では、ロジェ(リシャール)・レノックスとエレナ・トルラート・ファヴリーニの破綻すべく愛情の再生と復活を、最も大きなテーマの主軸として展開させているのです。


【フランスの映画理論は、1919年に、ルイ・デリュックが、これこそ映画の本質であると称してフォトジェニーphtogenieという言葉とその概念を提出したときに、さらに一歩を進めたものと信じられている。(~中略~)それは「映画的再現によってその精神的特質を増すところのすべての事物、生物、及び魂のすべての面」として定義された。】

 その後、映画批評家であり、音楽批評家であったエミール・ヴュイエルモーズは「影像の音楽」という論文で、映画を「光のハーモニゼーションとオーケストレーション」と定義づけ、映画と音楽との親しい関係を、人間の視神経と聴神経は同じ振動の機能を持っているために、同じ理論的な前提を持つとしたのです。

 また、レオン・ムーシナックという映画批評家が、通俗的な劇映画である「叙事的映画」ではなく、「映画詩」という体系から、画面、シナリオ、演出、フィルム、編集においての「フォトジェニー」を具現化していった視覚的なリズム、影像のリズム等の「リズム」とういう概念の重要性を論じました。

 これらはその後、「フランス印象派」と同時期に活躍していく「アヴァンギャルド」という前衛的映画体系に大きな影響を与えていきます。それにより、ルネ・クレール、フェルナン・レジェー、ワルター・ルットマン、ルイス・ブニュエル、クロード・オータン・ララ、ジャン・グレミヨン、ヨリス・イヴェンス、マン・レイらがフランス映画界に輩出され活躍していくのです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年 【 】内は引用】

 ゴダール監督の「水と新緑と光」の描き方は、前述した「フォトジェニーからリズム」の基調を原則とした古典的手法であると感じていますし、『ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)』という作品名にも「フォトジェニーからリズム」への概念が集約されているような気がします。

「草はわたしにおいてあり、わたしなくしてないのか」

という言葉はジャック・シャルドンヌの引用であると『ヌーヴェルヴァーグ』のDVD解説書にありますが、わたしは、これは大陸合理論の哲学者ルネ・デカルトが称えた「方法的懐疑論」の

「われ思う故にわれあり(コギト・エルゴ・スム)」

が意識されている言葉だとも思えました。
 作品テーマのひとつである、人間の自己の分身への投影、すなわち「新しい波」とも重なり合うテーマのような気がしているのです。そして、それは『パリの灯は遠く』でのクラインのユダヤ人クラインを追い求めて破滅した展開を、やはり前向きに捉え、「自分と他とのあいだにある同じものと違うもの」という両面を踏まえ、一人称としての存在である人間の主観が、実は共同社会への働きになるというデカルトの思想を「水と新緑と光」と言う自然界にまで拡げて応用した言葉だと思います。
方法序説
デカルト Ren´e Descartes 谷川 多佳子 / 岩波書店






「イメージ上の時間は視界の外。存在と時間は違う。光は存在と時間を超え永遠に輝き続ける」

という言葉も印象的です。これは恐らく実存主義哲学者ハイデッガーの「存在と時間」を意識しているように思います。
 つまり、他の存在者への配慮と交渉のなかで生きている世界内の存在である現代人は、例えば『パリの灯は遠く』のロベール・クラインのように自己自身を見失いがちで、平均的で無責任であり、主体性の欠落が一般化しています。われわれ現代人は、いつでも不安が多く、限りある存在として、自分以外の者との主体的な在り方を取り戻すことが容易ではない状況をつくり出してしまいました。ゴダール監督はそれを取り戻すため、つまり現代においての愛の昇華の可能性を達成させるために、エレナとロジェそれぞれに死を直面させることによる

「ニヒリズム」

を描いたのでしょう。
存在と時間
ハイデガー Martin Heidegger 原 佑 渡辺 二郎 / 中央公論新社






 このように、ゴダール監督の作品は前衛的でありながらも、映画の手法、学問の引用などには新しいものが少なく、もう古くなってしまった「実存主義」などの現代思想を応用して「現在」における「再生と復活」を描いているように見えるのです。

 彼は真実を求めるために、古きを訪ねて「新しい波」を創作する=温故知新=の映画作家であるとわたしには感じられるのです。
 その古典も「新しい波」であることに変わりはないのです。アラン・ドロン、そしてニーチェもハイデッガーも・・・。
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by Tom5k | 2006-02-26 19:34 | ヌーヴェルヴァーグ(6)