『ヌーヴェルヴァーグ』①~ゴダールが撮ったアラン・ドロン~

 ジャン・リュック・ゴダールを理解しようとするアラン・ドロンのファンは少なく、アラン・ドロンを一流の俳優として認めるゴダール支持者も少ない故、この作品が双方のファン・支持者にとってどう映るのかを考えてしまいました。
 話題性が高いにも関わらず、本質的な評価がされずに放置されてしまう作品にならざるを得ないと思います。

 しかし、わたくしとしては、この作品が製作されたことは「フランスの映画史的な意味においての極めて象徴的な「事件」ではなかったか」とまで思っているところです。

 ハリウッドナイズされたアラン・ドロンのクラシカルな商業映画は、過去のフランス映画の系譜に位置づけられる作品が多いためなのでしょうか?「ヌーヴェル・ヴァーグ」の革新者たちに常に無視され続けてきたように思います。そして、その過去のフランス映画である「詩(心理)的レアリスム」が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」という映画革命により、「良質の伝統」と皮肉られ批判されてきた経緯などはフランスの映画史体系においては特筆すべき事項です。
 そういった意味で、過去のフランス映画と新しいフランス映画が、それぞれの典型・代表である映画理論・思想家、演出家ジャン・リュック・ゴダールと、プロデューサー、俳優アラン・ドロンによって、ようやく止揚され統一されることのできた画期的な作品であるように思うわけです。

 もちろん、現在でも映画芸術と商業映画などの矛盾に関わっては、ゴダール作品とスピルバーグ作品でよく対比されているように、未だ本質的な結論には至ってはいないかもしれませんが・・・。

 かつて「ヌーヴェル・ヴァーグのカイエ派」は、フランソワ・トリュフォーを代表として、ヒッチコック・ホークス主義を標榜した作家主義を称えていました。
 しかし、ゴダール監督は村上龍氏との対談で
「映像が美しいのはコダック(フィルム・メーカー)の力で人物が面白いのは俳優の力です。私の力じゃない。私は名前も出さずにすべてを一つにまとめるだけです。」
と語り、
 他のインタビューでも
「最終的にぼくが作品の作者だけど、重要なのは作品だ。」
「ぼくらは作家政策を論じたとき、自分たちの言っていることを全く理解していなかった。結局ぼくらは勘違いしていたんだ。」
と、当時の自分たちを振り返り、自己批判しています。
 この作品のなかでも
「批評家とは味方を撃つ兵士だ。敵の手先だ。」
とまでの厳しい言葉を、ロール・キリング演ずるドロシー・パーカーに語らせています。 

 そして素晴らしいことに、ゴダール監督は、この作品の主演となったアラン・ドロンとは、本当に一緒に仕事をしたかったのだとも語っています。
「彼の年齢と物腰を思えば、彼が『パリの灯は遠く』や『若者のすべて』や『太陽はひとりぼっち』で見せた何かを再び見たいという欲望でもあったんだ。彼は3本の優れた映画を生みだした。それほど多い数ではないが、それだけあれば充分だ・・・・。」
 そして、
「ドロンを撮るということは一本の樹を撮るのと同じようなことだ。」
とも言っています。
 ヌーヴェル・ヴァーグの諸作品に出演し続けた俳優ミシェル・ピコリも、この作品でのアラン・ドロンについて、
「『ヌーヴェルヴァーグ』は私を驚愕させました。そして今、彼(ゴダール監督)は樹々を映画に撮っています。ドロンもまるで一本の樹のようです。」
と同様の発言をしています。

 ゴダール監督はアラン・ドロンを樹木に比喩し、彼に刻まれたのその年輪やキャリアとしての人生の歩みを撮らなければならない、そして撮りたいと思ったのかもしれません。

ゴダールの神話
/ 青土社




 作品冒頭での
「見事な死がなんだ。金持ちさえ望んでいやしない。死に対する所有欲は消える。」
 アラン・ドロンが演ずるロジェがドミツィアーナ・ジョルダーノ演じるエレナとボートに乗る前の
「何を急ぐんです。ああなんたる空しい努力。不安から逃れられぬ。幾度死ねと。裏切ったのは誰?」
 これらのセリフは、ゴダール監督からアラン・ドロンへのいささか厳しい批判と懐疑を含んだメッセージであり、そして彼を起用したことで作品の主題そのものを表している言葉であるとも考えることができます。

 ジャン・リュック・ゴダール監督の作品は、知識の洪水とよく比喩されており、その作品が能弁であることは自他ともに認めているところでしょう。
 わたしの勝手な思い込みなのか、ゴダール監督の意図的な演出なのかはわかりませんが、この作品にはアラン・ドロンの過去の出演作品が、まさに洪水のように引用され、表現されているような気がしています。

 作品冒頭の交通事故で、ロジェ・レノックスがエレナに助けられ、ブルジョア世界で場違いの生活を強いられながら、妻の殺意に翻弄され、最後にはリシャール・レノックスとなってエレナと愛し合っていくようになる展開は、「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の遺作『悪魔のようなあなた』にそっくりです。

 交通事故で記憶を喪失し、自分がジョルジュという大金持ちであると思わされ、妻クリスティーヌに夫ジョルジュの身代わりとしてブルジョアの生活のなかで殺害の対象とされるピエール。最後にピエールとしての記憶が甦り、クリスティーヌの愛を勝ち得て、事件の共謀者となっていく内容は、この『ヌーヴェルヴァーグ』のプロットの基軸となっているようにまで思います。

ロジェ「必要なのは愛で僕はじゃま。」
エレナ「愛は死なずに人は死ぬ。嫌なら愛は去る。」
ロジェ「相手がいる以上無視できない。」
エレナ「いてもいいわ。」
 前半でのエレナとロジェとの確執やこの作品のテーマのひとつである
「夫婦愛を信頼している」
の言葉も、夫の潜在意識により夫婦間の愛情と確執を描いた『真夜中のミラージュ』の主題の引用であるような気がします。

「何を急ぐんです。ああ何たる空しい努力。不安から逃れられぬ。幾度死ねと。裏切ったのは誰?」
 この言葉からは『プレステ-ジ』や、全盛期の死の美学に取り憑かれていたジャン・ピエール・メルヴィル監督やジョゼ・ジョヴァンニ監督、ジャン・ギャバンとの共演作品を代表とする一連のフィルム・ノワール作品、イタリア・ティタヌス・フィルムでのドウッチョ・テッサリ監督『ビック・ガン』や、ハリウッド・ワーナー・ブラザースでのウォルター・ミリッシュ・プロダクション作品であるマイケル・ウィナー監督『スコルピオ』が思い浮かび、

「女が傷つけなくても男は破滅する。女は男を苦しめ命を奪うだけのことだ。」
の言葉からは『サムライ』のヴァレリーとジェフ・コステロ、そして『高校教師』のバニーナとダニエレや、『愛人関係』のペギーとマルクなどの男女関係を想起させられました。
愛情の運命
ジャック・シャルドンヌ 森 健二 / 青山社(神奈川)





 エレナに溺死させられたロジェが、その後にリシャールとして再生し、彼女の元に戻ってくる展開は、『太陽がいっぱい』で刺殺し、『太陽が知っている』で再び溺死させ、『チェイサー』で親友となっても政治の裏舞台で殺害されてしまうアラン・ドロンとの共演作品での死と再生の役割を担っているともいえるモーリス・ロネが思い出され、死んだはずの妻ナタリー・ドロン演ずるリタが再び牧師となったシモンの前に現れる『もう一度愛して』などの記憶が蘇りました。

 更にわたしには、リシャール登場のシーンが、『アラン・ドロンのゾロ』でドン・ディエゴが怪傑ゾロとなって初見参するシークエンスそのものに映ってしまいました。

「死なぬ為に死ぬ」
という言葉は、『山猫』でタンクレディがサリーナ公に言った
「現状維持には変革が必要です。」
のセリフと同様の意味と解釈しています。


「私はもう一人の他者」
というアルチュール・ランボーの詩の引用など、明らかに過去のアラン・ドロンの典型的な作品を象徴している言葉です。
『太陽がいっぱい』のトムのフィリップという分身。
『生きる歓び』のユリスのテロリストへの分身。
『黒いチューリップ』での義賊「黒いチューリップ」の中の個性の異なる双子の兄弟ジュリアンとギヨーム。
『影を殺した男』のウィリアム・ウィルソンのドッペルゲンガー。
『悪魔のようなあなた』のピエールの分身ジョルジュ。
『アラン・ドロンのゾロ』のドン・ディエゴから無能な総督と正義の剣士ゾロへの分裂。
ジョゼ・ジョヴァンニ監督との「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の犯罪更生者の過去の犯罪への回帰。

 ゴダール監督の評価しているドロンの3作品も、この作品に充分反映されています。
 前半の無垢でイノセントなロジェは『若者のすべて』のロッコにそっくりですし、後半に再登場するロジェの分身である実業家でやり手のリシャールのキャラクターは『太陽はひとりぼっち』でのピエロが思い出されます。そして、ロジェが求めて実現したリシャールとういう個性への変貌は、『パリの灯は遠く』で主人公ロベール・クラインが、狂気のなかでユダヤ人クラインという自己の分身を求めていったことへの投影だったかのようです。

 そして、
「第二の自分が現れ自分の影に告白する」
のセリフの後、溺れかけたエレナの手が水から浮かび、レノックスとの愛の再生が表現されていたわけですが、わたしはここで怖い連想に取り憑かれました。
 映画評論家の故淀川長治氏が『太陽がいっぱい』を評してホモ・セクシャリティを描いた作品であるということから、ラストシーンでのヨットのスクリューに絡まった死体の入ったシートから出てきたトムに刺殺されたフィリップの腐乱した手は、愛するトム・リプリーを求めていた手なのだという解釈です。

 しかしこの作品『ヌーヴェルヴァーグ』では、既にコンプレックスを払拭してトム・リプリーを超越しているリシャール・レノックスが、しっかりとエレナの手をつかんで二人の愛の再生・復活へと向っていくのです。

 フランス文学が専門の映画批評家でもある松浦寿輝氏は、この作品でのアラン・ドロンについて
「ここでのアラン・ドロンは、ドロンをドロンたらしめてきたあらゆる衣裳を剥ぎ取られてただよるべなくそこにいる。~(中略)~アラン・ドロンとは本来、『太陽がいっぱい』のように素肌を陽にさらしていようが、『ボルサリーノ』のようにダブルのスーツで身を固めていようが、存在としてポルノグラフィーそのものなのだし、それ以外のものであった試しがない。~(中略)~ドロンはここで自身の肉体を商品化していない、ただ、自分がアラン・ドロンであることをすがすがしく忘れてしまっているのである。」
と解説しています。いささか極端な表現ですが、本質をついた見解だと思います。

カイエ・デュ・シネマ・ジャポン (1)
カイエデュシネマジャポン編集委員会 / フィルムアート社



 確かにゴダール監督は、アラン・ドロンを商品化せず、ドロンのポルノグラフィックな意味でのスター意識は、はぎ取ってしまっているかもしれません。
 しかし驚くべきことに、彼はまぎれもなくこの作品でも「アラン・ドロン」であるのです。
 前述したとおり、ゴダール監督はアラン・ドロンを、「一本の樹の年輪」として自己への分身や過去への回帰・分裂を撮り切ろうとしていったのではないでしょうか?彼自身においても本質的な意味において、裸をさらけ出している作品かもしれません。

「『ヌーヴェルヴァーグ』はフランス的です。外国人にこの映画を語るのは難しい。」
とゴダール監督は村上龍氏との対談で語っています。
 ここで不可解に思うのは、
 アラン・ドロンという俳優は非フランス的と評され、自国フランスのみならず、いやむしろ、他国での人気によって国際市場で活躍してきた俳優であったことです。
 これは、どう解釈すれば良いのでしょう?

 作品中では、エレナは
「ニューヨークに連れて行くなんて良くないわ。フランス語でいうと?つまり彼女にはこの国がお似合いよ。あなたもね。」
とロジェ・レノックスに向けて言い放っています。

 これまでアラン・ドロンを無視し続けてきたたゴダール監督は、この作品を制作する段階で初めて、アラン・ドロンという人物がフランス人としてのフランスの俳優であることを認め、彼の創り出してきた作品の価値を再確認していったのではないでしょうか?

 更にわたしは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」と無縁であったアラン・ドロンを使っていながらも『ヌーヴェルヴァーグ』と作品命名していることの意味が非常に大きいと考えます。

 何故ならば、フランス映画史を塗り替えるほど影響力の大きかったジャン・リュック・ゴダール監督が『映画史』の第1章・第2章を製作後、第3章の製作に取りかかるまでの間に、この作品を生み出しているからです。つまり、この『ヌーヴェルヴァーグ』という作品にも彼は『映画史』の一側面を与えようとしていたような気がしてしまうのです。
  これはフランスの映画史のなかでも前代未聞の出来事ではないでしょうか?
ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX
/ 紀伊國屋書店



 極端に言えば、戦後世代のアラン・ドロンが主演してきた作品も、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の体系のひとつであったとまで、拡げて解釈することが可能となってしまっているわけです。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」より以前の伝統を受け継いできたこの古いタイプの俳優を使ったこと、この作品の「再生」や「復活」というテーマなどを合わせて考えると、自分たちの批判していた過去のフランス映画の「良質の伝統」の復権が目的のひとつだったとも思えなくもありません。
 ゴダール監督は、それらの名作を過去のアラン・ドロンの俳優としての仕事を通して、彼なりの表現で「新しい波」として現在に甦らせようとしたのではないでしょうか?

 そして、アラン・ドロンが主役に抜擢されたことも彼の波乱に富んだ人生を考えると納得できます。
 彼の少年期は、離婚した両親双方からやっかい払いされながらの生活を送っていましたし、そのため俳優デビュー前は、インドシナ戦線に自ら志願兵として出兵しています。
 ロミー・シュナイダーからナタリー・ドロン、ミレーユ・ダルクへの女性遍歴も有名です。俳優としても「ネオ・リアリズモ」や「詩(心理)的レアリスム」の諸作品での成功にあきたらず、ハリウッドでの成功を目指しました。
 その後もハリウッドに定住せず、自国フランスで「フレンチ・フィルム・ノワール」作品のスターとして全盛期を迎え、独立プロダクションを設立します。国際市場での映画作品に主演し活躍していくことから、実業界にも転身していきます・・・・。
 彼の人生も新しい波と言えるような移動を常に繰り返していました。
 移動するということは自分の分身を追っているということかもしれません。

「考えたことがありますか?僕の過去を。エレナ聞いて。僕の沈黙には訳がある。あなたは鈍感だ。他人も。考え悩み生きる存在です。認めて欲しい。なんと言おうと変わるものは変わる。」

「僕は僕以前にひとりの人間だ。」

 このような言葉から、アラン・ドロンがいつも自分の分身を追い求めてきたことの理由がよくわかるのです。

 そして、移動してきたことを主張することによった過去への回帰を表したラストシーン。

「振り返るな。生還者のいない行程。すべてを味わった言葉も過去の痕跡の中で固まり、無自覚ながらも現在と過去の行為の区別を試みようとしていた不動とともに過去と現在を同じ波と感じた。」
ヒンデミット/交響曲<画家マティス>
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 ヒンデミット バーンスタイン(レナード) / ユニバーサルクラシック


 やはりこのセリフは、アラン・ドロンの生き様のみならず、彼だけが表現することのできる「ヌーヴェル・ヴァーグ」から「詩(心理)的レアリスム」へのオマージュとも受け取れる意味も孕んでいるように感じます。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」の各エコールから批判、そして無視されていったフランス映画の過去の巨匠たち、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ルネ・クレマン、クリスチャン・ジャックは、ジャン・リュック・ゴダールの自己批判によって『ヌーヴェルヴァーグ』として「再生」、そして「復活」することができるかもしれません。

 ゴダール監督は、アラン・ドロンを主演に据えることだけが、このテーマを表現できる方法であることを充分に想定してこの作品の創作に取り組んだのではないでしょうか?
 そして、アラン・ドロンにしても、その後「ヌーヴェル・ヴァーグ」の申し子であったライバルのジャン・ポール・ベルモンドとの共演によって『ハーフ・ア・チャンス』という作品を、「ヌーヴェル・ヴァーグ」以後にデビューした次代を担う新進気鋭のパトリス・ル・コント監督の演出により実現させていくのです。


 作品中でのロジェに対するエレナの
「ニューヨークに連れて行くなんて良くないわ。フランス語でいうと?つまり彼女にはこの国がお似合いよ。あなたもね。」

 アラン・ドロンを使っていながら『ヌーヴェルヴァーグ』とした作品名。

 思えばフランス人にとっては、ゴダール監督、そしてアラン・ドロンは、アメリカという国に対しての屈折したフランス人の一般的な感情をシンボライズしている存在なのかもしれません。
 ゴダール監督のハリウッド批判は珍しくありませんし、アラン・ドロンにおいても『ハーフ・ア・チャンス』公開時に語っていた痛烈なハリウッド批判が印象に残っています。当時の北海道新聞に掲載されていた記事には、ハリウッド映画の国際的な映画市場の独占状況は、アメリカ帝国主義を象徴しているという内容のものだったと記憶しています。

 わたしはここで、ルネ・クレマン監督のレジスタンス映画の代表作『パリは燃えているか』のワン・シークエンス
「レジスタンスは寄り合い所帯で確執も多い、しかし、今のフランスの敵は唯一ナチスのみだ。」
と言い放ったフランス人のナチス抵抗運動の統一戦線を想起し、

「『ヌーヴェルヴァーグ』はフランス的です。外国人にこの映画を語るのは難しい。」
と、ゴダール監督が村上龍氏に語った意味を、ようやく自分なりに理解できたような気がするのです。
パリは燃えているか?(上・下)
ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール著 志摩隆 / 早川書房
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by Tom5k | 2006-01-28 21:25 | ヌーヴェルヴァーグ(6)