『生きる歓び』①~アクシデントの効用~

 ジャン・コクトーは、詩人であるとともに、映画人、小説家、舞台演出家、評論活動家等々、芸術全般に渡って活躍した才人でした。彼は19世紀終わりからのフランスで、文化・芸術の最も繁栄していた「ベル・エポック」の時代以降を疾走し、センセーショナルなコクトー芸術を確立していきました。
世紀末とベル・エポックの文化
福井 憲彦 / 山川出版社






評伝ジャン・コクトー
ジャン=ジャック キム アンリ・C. ベアール エリザベス スプリッジ 秋山 和夫 / 筑摩書房





 映画人としての活躍も素晴らしいものばかりです。
 ルネ・クレマンを技術担当として迎え、ディズニーのリメイクで有名な映画史に残る名作『美女と野獣』を創作していますし、ロベルト・ロッセリーニ監督の『アモーレ』やジャン・ピエール・メルヴィル監督の『恐るべき子供たち』の原作も彼が書いたものです。また、ギリシャ神話のオルフェウス伝説をモチーフにして、自ら演出した『オルフェ』も素晴らしい作品であり、映画人としての彼の残した実績は賞賛に値するものばかりです。
アモーレ (トールケース)
/ アイ・ヴィー・シー





オルフェ【字幕版】
/ アミューズソフトエンタテインメント





ジャン・コクトー DVD-BOX (トールケース仕様)
/ アイ・ヴィー・シー





 そして、ジャン・コクトーはジャン・ピエール・メルビル監督らとともに「ヌーヴェル・ヴァーグ」の父、「新しい波」の第一波ともいわれています。
 その大きな業績として特筆すべきは、1949年、アレクサンドル・アストリュックとともにシネマクラブ「オブジェクティフ49」を結集したことです。そして、それは「カイエ・デュ・シネマ誌」のアンドレ・バザンのもと、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の主要メンバーたちとともに第1回「呪われた映画祭」のビアリッツでの開催に結びついていきました。
 これは、オーソン・ウェルズの演出した『マクベス』がヴェネチア映画祭で不評だったこと、ハリウッドでも、またヨーロッパにおいてさえ受け入れられることが不可能になってしまったことを比喩し、「呪われた映画作家」と命名して、彼と彼の作品を擁護することを主な目的として開催したものです。
 この映画祭が画期的だったことは、ジャン・コクトーの呼びかけに応じて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸派とは毛色の異なるロベール・ブレッソン、後に彼らに批判されていったルネ・クレマン、ジャン・グレミヨン、文学者のクロード・モーリヤックなどがこれを支持したことです。

 ルネ・クレマン監督の『危険がいっぱい』などには、『恐るべき子供たち』で撮影を担当したアンリ・ドカエのカメラを通して、ジャン・コクトーの作品『美女と野獣』での「光と影」の光芒を効果とした映像技術の影響を強く受けていると感じます。
 衣装デザインをピエール・バルマンというトップデザイナーとしたことも、『恐るべき子供たち』で「パリ・オートクチュール・メゾン」のデザイナーであったクリスチャン・ディオールを使ったジャン・コクトーの影響だったようにも思います。
クリスチャン・ディオール
マリー=フランス ポシュナ 講談社インターナショナル 高橋 洋一 / 講談社





 彼は、『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンの強い要望から、主役のフィリップとトムの配役を変更して大成功を収めました。その演出でのヨット上でのトム・リプリーがフィリップを刺殺するシークエンスでのサハラから地中海に吹く熱風による突風のアクシデントも有名な逸話です。それは作品のリアルな成果に結びつけることができたという「予定外の撮影」の逸話としての映画史的な評価を受けるべき撮影でした。
 また、映画史的傑作『禁じられた遊び』も、当初は短編オムニバスの予定であったものを資金オーナーの破産から長編に変えて成功した事例でした。

 ルネ・クレマン監督は、このような逸話には事欠いていないようです。そして、それが何故なのかを手繰っていったとき、彼の映画創作における知恵と工夫は、若い頃に出会ったジャン・コクトーから享受されたもののようなのです。

 ジャン・コクトーは『美女と野獣』で一緒に仕事をしたときから、ルネ・クレマンに対して「Sois toujours pret pour I′accident.(アクシデントには常に身構えておけ。)」
(参考~『巨匠たちの映画術』西村雄一郎著、キネマ旬報社、1999年)
と教えていたそうです。

 『生きる歓び』は、ストーリーそのものがアクシデントの連続であり、アクシデントそのものが主題となっていると言ってもいいような作品です。また、テロリズムを扱ったブラック・ユーモアと絡めているとはいえ、素晴らしくチャーミングな出来映えで完成されています。カンヌ映画祭ではパルム・ドールにノミネートされ、ベスト・セレクション作品として選定されました。

 育児施設で育ったアラン・ドロン演じるユリスはファシスト集団に雇われ、ローマの反ファシスト集団のアナーキスト一家にスパイのようなかたちで潜り込んでしまいます。ところが、そこの家族みんなが魅力的で、善良で親切な人の良い人たちばかりだったので、彼らに気に入られるために自らアナーキズムを支持して、そのテロリストを演じてしまうのです。
 特に、バーバラ・ラス演じる娘フランカがとても愛らしくて、本当に素敵なヒロインを演じています。そして、ルキノ・ヴィスコンティ一家のリナ・モレリ演じる優しいお母さんも、たいへん素敵で優しい役柄で、彼女としては『山猫』のサリーナ公爵夫人とは全く異なった演技でした。名女優とはこれほど変幻自在な演技の表現が出来るものなのかと驚いてしまいます。

 ユリスは屋根裏に引きこもっているカルロ・ピザカーネ演ずるお爺ちゃんを味方につけて、アドバイスを受けます。自分がアナーキストでテロの使命を持っている者だと一家に誤解させ、家族達の尊敬を集める計画です。計画はうまく進み、フランカも態度を変えてユリスを敬愛するようになりました。
 ところが、そんな状況に本物のテロリストが出現してしまいアクシデントの連続となるのです。
 ユリスは、いくらフランカに好かれて家族のみんなに尊敬されても、罪のない人達をテロリズムによる犠牲とすることはできず、そのテロ行為をくい止めるために奔走します。自分がテロリストであることを演じながら、関係のない多くの人々を救うために本物のテロリストの計画を無し崩しにしていくのです。
 最後にはユリスが偽りのテロリストであったこともフランカにわかってしまいますが、ユリスが多くの人々の危険を救ったことで、彼女は彼を愛するようになり二人の恋は成就したのでした。

 ところで、テロリズムの語源は、フランス革命期のロベスピエールの恐怖政治からだそうで、権力者が対立する者を抹殺した場合をテルールと定義したそうです。現在は、権力側が武装抵抗をテロと呼んぶようになっています。正確にはアナーキスト側によるテロを「赤色テロ」、権力側によるテロを「白色テロ」と区別されているようです。この作品で扱われているのは「赤色テロ」といえましょうか。

 この作品で特に印象的なのは、アラン・ドロンが最も得意とする二重人格(性格)というキャラクターが、ここでは元来の彼が持っている明るくて健康的なキャラクターとして演じられていることです。一見矛盾する「二重人格」と「健康的な性格」が、ここでは自然に統一されていきます。
 フランス人の大好きなドタバタ喜劇役者としてのアラン・ドロンもたいへん魅力的です。フランスではジェラール・ウーリー監督のルイ・ドゥ・フュネスやブールヴィルや後のジャン・マリー・ポワレ監督、パトリス・ルコント監督などによって魅力を引きだされたクリスチャン・クラヴィエなどが好まれているようですが、そのようなイメージに近かったのかなと思います。
おかしなおかしな訪問者(字幕)
/ ポニーキャニオン





レ・ブロンゼ~日焼けした連中~【字幕ワイド版】
/ バンダイビジュアル





 ルネ・クレマン監督は、師であったジャン・コクトーの教えである「アクシデントのプラス面への転化」、そして、前作『太陽がいっぱい』と同じくアラン・ドロンを主演とすることで、マイナスの結末を、いかなる行為でプラスの結末に転嫁できるのかという回答を、この作品で主張したのでしょう。
 また、「テロリズム」という行為を題材にしたことで、この作品は、われわれ現代に生きる者たちへの「平和への願い」へのメッセージであるとも解釈できるのではないでしょうか?ここには現代に山積している多くの諸問題を解決するための問いと答えが盛り込まれているような気がします。

 わたしは、特に今を生きる多くの人たちが、この映画を観賞すること望んでしまいます。
[PR]

by Tom5k | 2005-12-18 03:04 | 生きる歓び(2)