『私刑警察』④~燃えるように輝くアラン・ドロンの青い瞳、ラウール・クタールのカメラその2~

 以前、購入した『映画芸術』No.441(2012Autumn)を久しぶりに読み返してみました。
 当時、久しぶりにこの月刊誌を購入する気になった理由は、本屋に立ち寄って雑誌の立ち読みをしていたときに、偶然、映画雑誌コーナーに置いてあった『映画芸術』の表紙の「ロングインタビュー ラウール・クタール」の文字が眼に入ったからです。
 しかも、それがアラン・ドロンのことに触れている内容ではないですか?わたしは迷わずその『映画芸術』を購入し、久しぶりに、わくわくした気分で帰宅し早速その記事を読んでみました。

 ラウール・レヴィが製作し、クリスチャン・ジャックが監督、アラン・ドロンが主演する予定で制作が進められていたにも関わらず、完成まで至ることができなかった超大作「マルコ・ポーロ」の撮影中に現在の妻と知り合った逸話や『私刑警察』で、アラン・ドロンが自ら共演者に選んだセルジュ・レジアニに対しての友情についての記載があり、それも実に彼らしい逸話であることはもちろんでしたし、非常に興味深い内容でしたが、とりわけ、わたしが興味深く感じたのは、やはり『私刑警察』でのアラン・ドロンを撮るに当っての製作サイドからのラウール・クタールに対する撮影への注文についての内容でした。

【>-自伝では、アラン・ドロンの思い出も回想していらっしゃいます。
>クタール
アランとはジョセ・ピネイロの『アラン・ドロン 私刑警察』(1988)で出会った。いつも周囲はアランの機嫌にビクビクしていたが、撮影中は真のプロになります。この作品では、ドロンの青い瞳を、燃えるように輝かせる注文がありました。プロジェクターに裂け目を置き、光が通るようにしたのです。】

映画芸術 2012年 11月号 [雑誌]

編集プロダクション映芸



 ジャン・リュック・ゴダール監督などの「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の撮影を担い、映画史に名前を刻んだラウール・クタールのカメラで、「ドロンの青い瞳を、燃えるように輝かせる」なんて・・・。
 わたしは、この記事で『私刑警察』の素晴らしいコンティニュイティ―(撮影台本)のテーマのひとつを初めて知って、久しぶりに『私刑警察』を観たくなりました。

 そもそも人間精神を表現してきた各種の芸術に、機械工学やサイエンス技術などが入り込む余地などあるはずがない、それが一般的な見解ではないでしょうか。
 それにも関わらず、フィルムに焼き付けるカメラ・ワークのみならず、投影するためのディスプレイ装置によって俳優の瞳を輝やかせるために光源を調整するなんて・・・人間の感性そのものを近代技術のセオリーによって創作する撮影監督とはなんと現代的で斬新な芸術家なのでしょうか!

 ラウール・クタールは、一貫して「ヌーヴェル・ヴァーグ」系のドキュメンタリズムのカメラの特徴を売りものにしていた割には随分と多くのスター俳優を撮っています。
 長年ジャン・リュック・ゴダール監督の作品に出演し続けたジャン・ポール・ベルモンドや、恋人であったアンナ・カリーナ、そして、フランソワ・トリュフォー監督の作品のジャン=ピエール・レオやジャンヌ・モロー、やはり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の多かったブリジット・バルドーやミッシェル・ピコリ、ジーン・セバーグなど・・・。
 しかし、それだけでなく、ハリウッドでのモンゴメリー・クリフトから始まり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のスターとは異なる旧世代のミシュリーヌ・プレール、ジャン・リュック・ゴダール監督の作品ではありましたが、アラン・ドロンの愛人であったミレーユ・ダルク、そして、アヌーク・エーメ、ミア・ファーロー、ダニエル・オトゥイユ・・・等々。
 そんなことから冷静に考えれば、彼はアンリ・ドカエのように商業映画に転向したわけではないにしても、大スターであるアラン・ドロンを撮る基盤や資質を持っていたカメラマンではあったわけです。

 映画において、その収められている映像価値は、その演出や音楽、美術、脚本、そして俳優などに劣らず絶対に不可欠なものです。思いつくままにそれを挙げてみれば・・・・
 
 まず、『夏の嵐』(1954年)でのアリダ・ヴァリの中年女の醜い写実です。これをG・R・アルドとロバート・クラスカーのカメラにくっきりと収めさせてしまったルキノ・ヴィスコンティ監督は本当に残酷です。彼女は、これ以降の作品でも醜女としてしか写ることしか出来なくなってしまったのではないでしょうか?
 アラン・ドロンと共演した作品に『高校教師』(1972年)がありますが、ソニア・ペトローバが演ずる女子高生バニーナ・アバーティの母親役は悲惨なほどの醜さでした。ここには、美しい自分の娘の肢体を売りものにして生活している物凄く醜悪な精神環境を持つ母親の形相がカメラに収められています。

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 それとは対照的に、アンリ・ドカエは非常に優しいカメラマンだと思います。彼はアラン・ドロンの出演作品を多く手がけていますが、『危険がいっぱい』(1964年)でのローラ・オルブライトや『シシリアン』(1969年)でのイリナ・デミックのような女優たちへの彼のソフトフォーカスの常用は、全盛期の美しさを過ぎてしまった女優への限りない彼の優しさだったのではないでしょうか?
 また、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品でも、元来、それほどの美人女優でも無かったジャンヌ・モローをあれほど美しく撮ったカメラマンは彼以外にはいないでしょう?
 彼の女優への優しさは、デビュー当初から常に一貫しているように思います。

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 また、エリック・ロメールの秘蔵っ子カメラマンでもあり、フランソワ・トリュフォーやジャン・ユスターシュとコンビが多く、黒澤明や溝口健二の影響を大きく受けていたネストール・アルメンドロスのような芸術的で格調の高いカメラ技術も、わたしは素晴らしいと感じています。
 彼のカメラは、人物と自然のコントラストで描写することにかけては秀逸だと思います。考えられないような美しい景観がフレーム一杯に拡がります。フランソワ・トリュフォー監督の『野生の少年』(1970年)やハリウッド作品の『青い珊瑚礁』(1980年)は本当に素晴らしい映像の連続です。特にわたしにとっては、『青い珊瑚礁』の海原を漂流する救命艇の夜の情景が一生涯忘れられないものとなっています。

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 偏った見方かもしれませんが、彼は成長期の少年や少女を大自然を背景に描写することにかけて、その天才から神業のようなカメラワークを実践できる撮影監督だとわたしは思っています。

 さて、『私刑警察』なのですが、わたしが眼を見張ってしまったのは、捜査班室の窓を破って自殺した正義警察の若手刑事サヴィエ・ドリュック演ずるルッツへの警察庁舎内に飾られた献花のシーンです。
 正義警察が警察庁舎にてルッツを英雄視し、そこを霊柩の葬場化とする目的によって、当然のことながら使用承認されていない庁舎の中庭を薔薇の花で飾り立てることなど、明らかに当局への挑発行為でしょう。
 このシーンをネオ・ヴィジュアル系とも言える美しさに昇華させて映像化することは、ラウール・クタールでなければ出来なかったように思います。
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 そして、もう一人の正義警察のメンバーが、フランス国旗をまとって国歌マルセエーズを口ずさみながらナイフを首に刺して自殺するシーンですが、そのカラー映像の美しさも秀逸でした。
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 これらのシーンは、ひとつ間違えれば、例えばルキノ・ヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)やジョセフ・ロージー監督が『パリの灯は遠く』(1976年)で描いたフランツ・サリエリ楽団のグスタフ・マーラーのオペラ劇のように妖艶でエキゾティックな魅力を携えてはいるものの、あまりに毒々しく表現されてしまい、観る者が嫌悪感に襲われるような描写に陥ってしまうところですが、ラウール・クラールのカメラは映像美そのものに徹することに見事に成功しています。
 ラウール・クタールの映像からは、ファシズムの自己抹殺を「葬送」としての美として描写していること、すなわちファシズム内部からの「死」の欲求こそが、そのイデオロギーが「生」と無縁であること、埋葬されることのみにしか美しさを実践できない死すべき思想の証しであること、などが訴えられているように感じます。

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 『私刑警察』の映像クオリティの高さは、ラウール・クタールが、かつて高感度フィルムイルフォードHPSの使用により、屋外ロケーションを敢行して映像技術の最先端を誇っていった「ヌーヴェル・ヴァーグ」時代の瑞々しい写実を更に高度に発展させていった賜物ではないかとまで思います。

 彼のこれらファシズム表現の美しさから、わたしは『意志の勝利』(1934年)や『オリンピア~民族の祭典』(1938年)など、ナチス・ドイツのプロパガンダ映画を撮り続けた天才女流監督レニ・リーフェンシュタール監督を想起しました。そして彼は、彼女の「ファシズムへの賛美」を「ファシズムの埋葬」にまで昇華させたようにまで思うのです。
 このことは、美の追求の歴史的進化ではないでしょうか!?

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 言わずとも知られているように、アラン・ドロンはフランス国内では右翼(極端な共和主義者)と称されています。それにも関わらず、彼がプロデュースしたこの『私刑警察』では、決してコミュニズムを否定していません。むしろ、フランス国家主義者を悪の権化として完全に否定して描いていますが、このことに違和感を感じる者は少なくないかもしれません。

 しかし、彼の過去の作品を辿っていけば、それを理解することは容易です。
 敗戦を認めざるを得ずに握手を求めるナチス・ドイツのコルティッツ将軍に向けて、
「レジスタンスは寄り合い所帯で確執も多い、しかし、今のフランスの敵は唯一ナチスのみだ。」
と言い放ち、その握手を拒否したフランス人のナチス抵抗運動の統一戦線レジスタンスのパリ解放を描いた『パリは燃えているか』(1966年)を想い起こせばいいのです。

 フランス人にとっての唯一の敵、ファシズムの象徴ナチス・ドイツに勝利したリアリズム作品で、フランス国家にとって最も重要な役割を担うレジスタンス運動の指導者、第三共和政の幕僚ジャック・シャバン・デルマスを演じた経験がアラン・ドロンにはあるのです。

 このことから、『私刑警察』の主題を鑑みれば、それは=ジャン・ギャバンに捧げる=作品としてのみではなく、ルネ・クレマン監督の統一戦線レジスタンスの精神と同じものだとわたしは感じてしまうのです。

【コミュニストだろうと、ド・ゴール派だろうと。私にはすべてレジスタンスの同志であった。私の会ったこの時代の責任者の人たちはすべて、彼ら同士お互いによく理解しあっていた。どちらが主導権を握るかで若干のアツレキがあったにせよ・・・・
(ルネ・クレマン 談)】
【『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年」】

海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)

田山 力哉 / ダヴィッド社



 だから、私は、『私刑警察』のすぐ後にジャン・リュック・ゴダール監督と撮った『ヌーヴェルヴァーグ』の制作が、そういった意味で必然であったことを、あらためて再確認したように思っているのです。

【『ヌーヴェルヴァーグ』ですごいと思うのは、ゴダールのような左翼とドロンのような右翼とが、互いに衝突しあうこともなく、一緒に仕事をすることができたということです。
(フィリップ・ガレル 談)】
【『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン1 30年前から、ゴダール!』 フィルム・アート社、1991年】

カイエ・デュ・シネマ・ジャポン (1)

カイエデュシネマジャポン編集委員会フィルムアート社



 そして、そう確かにこの作品でのアラン・ドロンの青い瞳は、第二次世界大戦ナチス・ドイツ占領下において、命を賭けてファシズムと闘ったレジスタンス運動の闘士と同じように燃えるように輝いています。
 そう考えると、わたしはこの『私刑警察』のラウール・クタールのカメラワークに身震いしてしまうのです。なんて素晴らしいのでしょうか!

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by Tom5k | 2014-04-29 16:02 | 私刑警察(4)