『山猫』①~映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい mimiさんとの対談から ~

 わたしはルキノ・ヴィスコンティ監督の映画における知性は、彼が若いころにジャン・ルノワール監督の助監督をしていた時代の影響が大きかったのではないかと推測しています。ルノワール作品『ゲームの規則』には
「映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい。」
とのセリフがあり、これはヴィスコンティ作品の悲劇の土台となっている思想ではないかと思われるのです。「が正しい」という言葉を「を認める」と読み替えるとよくわかります。

ゲームの規則
/ 紀伊國屋書店





 彼の作品は、新興ブルジョアジーの台頭による貴族階級の崩壊、無産階級の悲惨、ホモ・セクシュアル、近親相姦、自由恋愛など、あらゆる矛盾や俗悪にあえて寛容であったように思え、そのためにすべての作品が悲劇的なストーリーになっているように思えるのです。

 しかし、その寛容さは同時に、彼の映画人としてのしたたかさにも通じていると思われます。『若者のすべて』は、政治的な圧力からベネチア映画祭グランプリを受賞することができなかったと聞きました。当時、イタリアの戦後復興の時代には、「ネオ・リアリズモ」の潮流が自国イタリアのイメージ・ダウンにつながる恐れがありました。イタリア当局の政治的圧力によって、その映画潮流は急速に衰えざるをえなかったのでしょう。
 『山猫』の前作である『若者のすべて』が製作された頃は、正にそういった時代でした。このことは、彼に大きな衝撃を与え、その後の進むべき道は別な選択に成らざるをえなかったのではないでしょうか?

 そして、彼が選択した道、それは自己自身、つまり貴族階級を描くことだったのです。

 それがこの『山猫』です。更に、ここで特記すべきはこの作品のキャスティングです。サーカスの出身者で、ハリウッドになじめず独立プロダクションを起こしていたアメリカ俳優の異端児バート・ランカスター、『若者のすべて』のロッコや『太陽がいっぱい』のトム・リプリーなどで社会の貧困層を演じたアラン・ドロン、『刑事』や『鞄を持った女』『ブーベの恋人』で社会の底辺を生きる女性を演じることが似合っていたクラウディア・カルディナーレを、貴族や新興ブルジョアジーの有産階級の主役に抜擢したことです。これは常識的に考えれば、すべてミスキャストです。
バート・ランカスター―不屈のタフガイ・スター
梶原 和男 根岸邦明 / 芳賀書店





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 ルキノ・ヴィスコンティ監督がリアリズム作家といわれている理由はどんなに細かいセット・衣装・装飾品等でもすみずみにまで本物を使用するからです。

 何故、このような配役でこのような作品を完成させたのでしょうか?

 彼は当時「赤い公爵」と呼ばれ、貴族の末裔でありながら、コミュニストでした。基本的に無産階級の人間と有産階級の人間に違いなどないという思想が彼の信条であったわけです。

 彼は貴族階級を描くことで、イタリア当局と「ネオ・リアリズモ」の確執の時代に敢えて逆らわず、しかし、その貴族の配役に最下層を生きる役柄の似合う俳優たちを起用したことで、もしかしたら、コミュニストとしての思想・信条を転向しなかったのか・・・???
 作品の内容も貴族と平民の婚姻を物語の中心に据えています。彼はこの作品で当時の自分の周囲の矛盾を一気に解決しようと試みたのか・・・???

 その真実を突き止めるには熟考を要するでしょうが、少なくても、これらのことには彼が若い頃に影響を受けたジャン・ルノワール監督の
「映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい。」
という思想が全うされているとは思うのです。

 そして、この作品でのバート・ランカスター、アラン・ドロンは貴族階級に、クラウディア・カルディナーレは振興ブルジョアジーに、わたしには彼らが本当の有産階級の人物にしか見えませんでした。
【参考~ 『ヨーロッパ映画(イタリア映画 ヴィスコンティ作品の貴族と民衆)』 佐藤忠男著、株式会社第三文明社、1992年】

 『山猫』はニーノ・ロータの悲愴、壮麗な旋律の音楽から始まります。
 1860年8月、イタリアシチリア島の雄大な山脈の麓に毅然と構えるサリーナ公爵家の豪邸。白いカーテンが激しい山風に舞い揚がり、時代の変革期に翻弄される公爵一家の避けられない運命を暗示しているようです。
 イタリア動乱の中、公爵は相変わらず、平穏な姿勢で家族を慰めます。

 公爵の甥タンクレディが共和軍に義勇兵として参戦することにより、しばらく間の別れを告げるために公爵家を訪れます。その時の公爵との会話は仲の良い父と子のようで、タンクレディの愛嬌のある笑顔が本当に素晴らしい。サリーナ公爵の彼への眼差しが愛情と期待を表現していて、ほほえましいかぎりです。
 そして、タンクレディの出発を一家で送り出す場面、公爵令嬢コンチェッタが愛するタンクレディに抱える不安と淡い期待、すべてニーノ・ロータの音楽に織り込まれています。タンクレディの出発の場面はそれだけでひとつの作品のようです。ルキノ・ヴィスコンティ監督の舞台演出としての第1幕だと思います。

 タンクレディとアンジェリカの出会うシーンは、歴代の文豪たちが描いてきたのと同様に、貴族の日常の社交場に設定されています。紳士と淑女たちは社交の辞を交わし、談笑しています。

「今、娘が参ります。」
 新興ブルジョアジーのドン・カルジェロが不馴れな様子で貴族たちに軽蔑、嘲笑されながら誇らしげに言い、輝かしくばかりの美しいアンジェリカが登場します。賑わいの社交場の突然の静寂。衆目がアンジェリカに集中し、タンクレディの視線もまた、その美しさに吸い込まれるように釘付けになります。

 しかし、ルキノ・ヴィスコンティ監督のアンジェリカの描き方には実に厳しいものがあります。タンクレディの品のないジョークにいつまでも笑い続けて周囲を白けさせたり、指をなめて上目づかいで公爵を見たり、舌なめづりをしたり、監督のブルジョアジーに対する軽蔑は、愛すべきアンジェリカの描き方にさえシビアに表れ、彼女の品位の欠落が貴族と平民の間の距離感と価値観の差を感じさせます。

 もっとも、アンジェリカの無垢な美しさを上手に表現していることでもわかるように、階級による偏見を持たずに本物の美しさを見抜く眼力もやはり、彼の美への意識が本質的なものであることは言うまでもありません。真に美しいものに対する人間の感受性は同じで、映画でもアンジェリカのその美しさは地位、富、名声などすべてを得ることになります。

 それにしてもコンチェッタは気の毒です。
 わたしには、貴族社会の崩壊を、コンチェッタの失恋によって象徴的に描いたことが印象的です。このような時代の変換期でなければ、タンクレディとコンチェッタはとてもお似合いの素敵なカップルで、生涯円満で平和な家庭を築いていったはずだからです。

 しかし、貴族の地位や名誉がブルジョアジーに譲り渡される方法が、革命によるものではなく、タンクレディとアンジェリカのロマンスに昇華させていることに、ルキノ・ヴィスコンティ監督の寛容な知性を感じます。そして、ニーノ・ロータやヴェルディの素晴らしい音楽がタンクレディとアンジェリカの若さ溢れる、美しいふたりにぴったりのイメージを創り上げています。
ロータ:映画音楽集「道」「山猫
ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団 ニーノ・ロータ ムーティ(リカルド) / ソニーミュージックエンタテインメント



 サリーナ家に訪れた準男爵シュヴァレーは、公爵に上院議員の話を持ちかけます。このとき公爵は「シチリア人は豊かさよりも、誇りを選んで貧困に耐える。」と言い放ちます。これも心に響く言葉です。「変わるものなど何もない。変わっても良くはなるまい」と公爵は答えます。どんな革命や改革、選挙等によっても人間社会には限界があるということなのでしょう。

 「山猫と獅子は退き、ハイエナと羊の時代が来る。そのだれもが己れを「地の塩」だと信じている。」という公爵の呟きは、誰もが「地の塩」にはなりえないという意味でしょう。つまり、そう思っているのは自分たちだけであって、本当に「地の塩」と呼べる階級は存在しないという虚無感からのセリフです。

 舞踏会も終わり、愛し合うタンクレディとアンジェリカが公爵の馬車での帰宅途中、暁の静寂を破った共和軍処刑の銃声の響きと同時に、ドン・カルジェロが安心した表情で「これから安泰だ。」と呟きます。アンジェリカはタンクレディに額に口づけされ、彼に寄り添っています。タンクレディに愛され、守られ、満足そうな表情のアンジェリカ。彼らが運命を共にする新時代の主人公になったことが伝えられる場面です。

 思えば、サリーナ公爵一行が馬車でドンナフガータの夏の別荘へと出かけるシーンで、共和軍が一家を検問し、差し止める場面があり、タンクレディは強引にそこを通らせますが、恐らく彼は共和派と貴族の相違を敏感に感じたのではないでしょうか?後にイタリア正規軍に入隊しなおした大きな理由のひとつとなったエピソードだと思います。

ヴェルディ:椿姫 全曲
コトルバス(イレアナ) バイエルン国立歌劇場合唱団 ユングビルト(ヘレーナ) マラグー(ステファニア) ミルンズ(シェリル) ドミンゴ(プラシド) バイエルン国立管弦楽団 ヴェルディ クライバー(カル) / ユニバーサルクラシック





 ドンナフガータの公爵一行の歓迎場面では「われらジプシー女」を市の楽団が演奏します。教会への行列入場には「アーマミ・アルフレードーわたしを愛してー」が奏でられます。

 公爵にとっては、タンクレディから議員になることを告げられたことは、溺愛の甥が貴族の誇りを棄てたようにも思えたはずです。貴族の新しいスタイルでの存続を共和主義の精神に、屈辱ではあっても納得し、寛容に受け入れ、いや、むしろ時代の理想を生きようとしていたタンクレディを真から愛し、新しい時代を尊ぼうとしていたサリーナ公爵とコンチェッタにとっては新時代への挫折・絶望・哀しみだけが残った結末だったかもしれません。

 このようにルキノ・ヴィスコンティ監督の自己矛盾の解消は根本的な解決方法にはなり得なかったのかもしれません。でも、「赤い公爵ヴィスコンティ」の下層市民への愛情と期待はこの作品の随所に感じられます。
 ピローネ神父が下層の貧しい人たちに対して「領主たちと我々は価値観が全く違う。」という説明をする場面は、彼が貴族に対する理解を下層市民に求めていたようにも感じられました。そして、ブルジョアジーとはいえアンジェリカの母親が小作農出身の娘であることとしたことからも下層市民に対する愛情を感じ取ることができるように思います。

 ラスト・シーンの公爵の呟きは、映画の正確なシナリオでは

「星よ、我が忠実な星よ。お前はいつになったら約束してくれるのか。こんなひと夜かぎりではない約束を。お前の永遠に不変の胸にいつ私を迎えてくれるのか。この愚かさと流血から遠く逃れて」

です。
 死の床に苦しむ人に祈祷を捧げ、その魂を解放するために神父が公爵の横を通り過ぎることで、彼の死の世界への憧れと流血と暴力の現実への嫌悪を表現したものなのかもしれません。


= 注 =
このレビューは、わたくしトム(Tom5k)の友人であるmimiさんとの対談をまとめたものです。

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山猫 オリジナル・サウンドトラック盤、音楽:ニーノ・ロータ
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by Tom5k | 2005-02-26 23:46 | 山猫(2)