『太陽がいっぱい』①~犯罪動機「貧困とコンプレックス」~

 この作品でもルネ・クレマン監督のスタッフ・キャストの編成においては、非常に特徴があるようです。
 まず、シナリオですが、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』『いとこ同志』やエリック・ロメール監督の『獅子座』のシナリオを担当していたポール・ジェゴフです。そして、カメラのアンリ・ドカエも、当時、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ルイ・マルなどの監督達とよく組んでいました。彼は、初期のジャン・ピエール・メルヴィル監督に見出されたカメラマンです。「ヌーヴェル・ヴァーグ」の監督たちは、彼の『海の沈黙』や『恐るべき子供たち』を絶賛し、彼が、そのカメラマンだったわけです。
二重の鍵
/ ジェネオン エンタテインメント





いとこ同志
/ アイ・ヴィー・シー





エリック・ロメール Collection DVD-BOX 1 (獅子座 / 六つの教訓物語)
/ 紀伊國屋書店





恐るべき子供たち【字幕版】
/ ビデオメーカー





 そして、共演者のモーリス・ロネですが、彼もまた、前作ではルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』に主演しています。しかも、『太陽がいっぱい』は、彼が主演する予定であった作品です。
死刑台のエレベーター
/ ポニーキャニオン





 これらのメンバーとルネ・クレマン監督が組んだことから、この作品は「ヌーヴェル・ヴァーグ」に対抗して作った作品といわれているようです。しかし、それはむしろ、『フランス式十戒』でジャン・クロード・ブリアリを使って「ヌーヴェル・ヴァーグ」を小者扱いした旧時代の代表監督ジュリアン・デュヴィヴィエの方だったような気がします。
 むしろ、彼独特のリアリズム作品を創作してきたルネ・クレマン監督は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を作風に取り入れ、新境地を開拓しようとしたのではないかと思います。そして、今、自分は「新しい波」を受け入れ、1930年代以降、ジュリアン・デュヴィヴィエやジャック・フェデール、マルセル・カルネ達から引き継がれてきたフランス映画界において、戦後1940年代後半からのクリスチャン・ジャックやクロード・オータン・ララ、そして、ジャン・ドラノワらの「詩(心理)的レアリスム」第二世代とともに、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手たちへの歴史の橋渡しになろうとの思いがあったのではないでしょうか?

 作品の題材を文学作品ではなく、アメリカの作家であるパトリシア・ハイスミス原作の推理サスペンスとしたことは、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』と似ていますし、シナリオも、『居酒屋』と同テーマであるにも関わらず、ジャン・ギャバンを主演にした『鉄格子の彼方』以来、一緒に仕事をしてきたジャン・オーランシュとピエール・ボストのシナリオコンビ(ドロン作品では『学生たちの道』のシナリオを担当)を使わず、ポール・ジェゴフを起用したことなどは、まるで自らが「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家のようです(ジャン・オーランシュとピエール・ボストのコンビは、当時のフランス映画の文学的傾向、いわゆる「良質の伝統」を創り出していた時代の代表でしたが、「カイエ・デュ・シネマ」誌(1954年1月号)上での掲載論文「フランス映画のある種の傾向」により、フランソワ・トリュフォーによって徹底的に批判されました)。

 これらのことから、ルネ・クレマン監督の本来の目的やフランス映画史的意義からいえば、この作品は、モーリス・ロネが主演トム・リプリーを務めるべき作品であったのだといえそうです。これは、彼が多くの映画人を育ててきた教育的側面を持っていた映画人であったことからも考えられることであり、より広い意味からの考察です。つまり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」とそれ以前の映画は、断絶すべきではなかったと思うわけです。

 しかし、残念なことに「カイエ・デュ・シネマ」誌を主宰していたアンドレ・バザンや「カイエ派」の集いの場シネマテーク・フランセーズを率いていたアンリ・ラングロワらのパリのインテリ層は「新しい波」と「フランス映画の良質の伝統」との確執を埋めようとはせずに、「新しい波」の作家主義を育てていったわけです。文学界においても、実存主義の文学者ジャン・ポール・サルトルが、モーリアックを例にとり、旧来のフランス文学を批判していった時代であったことなどは、ルネ・クレマン監督のかつての師である『美女と野獣』の監督、そして詩人、画家でもあったジャン・コクトーにも直接・間接の影響を与えていたからだとも言われています。
文学とは何か
J‐P・ サルトル Jean‐Paul Sartre 加藤 周一 海老坂 武 白井 健三郎 / 人文書院





美女と野獣
/ アイ・ヴィー・シー





 更に、フランスの映画ファンにしても、アラン・ドロンは、例えば、ジャン・ギャバンのように愛すべきパリジャンではなく、成り上がりの警戒すべき危険な印象をもった俳優であったことも、これらのことに輪をかけていった原因のひとつであったのかもしれません。

 もちろん、アラン・ドロンのこの作品で名演は、今更わざわざ、説明するまでもないことでしょう。主人公のトム・リプリーの卑屈なコンプレックスとトップ願望がアラン・ドロンその人、そのものであった配役の成功であったと、周囲も語り継ぎ、本人もそう語っています。結果的に彼がこの主人公を演じたことで、単体としての作品の結晶度からみれば、完璧な作品となりました。特に日本では、リアルな犯罪心理劇のストーリーに、ニーノ・ロータの甘美で悲しい感情表現がうまくマッチングしたあの有名な主題曲とともに、歴史的な大ヒットとなったのです。

 そして、彼らにとってのこの成功体験は、以降3作品も続く映画史的名コンビネーションとなっていったわけです。
 ただ、ここでも残念なことに、ルネ・クレマン監督のアラン・ドロンへのこだわりが、演出家としての本来の目的と異なってしまい、自らの映画監督としてのスランプ、悪循環に繋がってしまったことにも着目すべきなのです。しかも、アラン・ドロンにはルネ・クレマンだけではなく、もうひとりの師匠ルキノ・ヴィスコンティというイタリアの「ネオ・リアリズモ」の巨匠がいたわけです。

 この作品も、そろそろ再評価されてくる時代ではあるとは思いますが、フランス国内でのトップ・クラスの他の映画作品のなかでは、まだまだ、評価が高いとまではいえないようです。
 また、同時期の「ヌーヴェル・ヴァーグ」の諸作品より低い評価であるのはもちろんですが、ルネ・クレマンの作品としても『鉄路の闘い』『居酒屋』『禁じられた遊び』などの「リアリズム」作品の方が着目されがちですし、アラン・ドロンの作品としてもジョセフ・ロージー、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジャン・ピエール・メルヴィル、ベルトラン・ブリエの作品のほうが評価が高いようです。
 しかし、そういった客観的な現実があっても、なお、『太陽がいっぱい』という作品の素晴らしさは普遍であり、現在の映画ファンに必要なテキストであるとも、わたしには思われるのです。

 そのようなことから、わたしは、次のことを常に意識しながら、何度も観賞しています。

1、現代社会の歪み「犯罪行為」を扱っている作品であること。

2、トム・リプリーの「犯罪動機」が貧困と劣等感にあること。

3、作品構成がリアルな描写とストーリーに徹底しており、現実社会から遊離していないこと。

4、トム・リプリーの「犯罪心理」の描写が正確であり、特に、その比喩表現がインサートカットの挿入等により、成功していること。

5、作品のテーマが人間倫理を全うしていること。

6、正常者と異常(犯罪)者の境界が自然に理解できる表現に徹しており、トム・リプリーの犯罪と破滅に対して感情移入してしまう構成であること。

7、アラン・ドロンというアイドル・スターを本物の俳優に育てたこと。また、彼の資質が役柄において、俳優として適任であったこと。

 特に有名なインサートとしては、主人公トム・リプリーが、市場を散歩する場合の魚と彼のモンタージュです。他にも、フィリップを殺す際のトムのナイフを握る手、フィリップの落としたトランプを拾おうとする手、ヨットの遠景ショット、フィリップがナイフを刺されたまま「マルジュ」と叫ぶ下からのショットの連続のなかでのヨットという全く殺人と関係のないカットの挿入、つまり、トムの潜在意識の「誰かに見られている」という恐怖感の表現などが有名なインサートです。

 また、フィリップの友人の死体を運ぶときの車のクラクションの効果も自分が死体を運んでいるような気持ちになりますし、殺人のあとのトムの食欲も、本当の殺人事件と同じだそうです。殺人犯人は、人を殺害した後に急激に食欲や性欲が襲ってくるそうです。日本の警察も、現場での死体の検死は、自殺と他殺の区別が困難な場合に、その現場の冷蔵庫の食べ物を確認するそうです。
 このように、この作品には、この他にも数え切れないほどの多くの殺人犯人の潜在意識が表現されています。


 ルネ・クレマン監督は、「人の道から外れた生き方」には非常に厳しいひとではないでしょうか?彼の作品では、「人の道から外れた生き方」をしている人間は、辛い思いが、更に強くなるという構造になっているような気がします。つまり、「転落」や「破滅」の本質的な原因が何なのかを観る側は考えていかざるを得ないように思うのです。
 作品の主人公の生き方では「駄目」なのです。彼のその倫理観は、代表作品『居酒屋』や、この『太陽がいっぱい』でも一貫したテーマです。そういう生き方をしている主人公のキャラクターに感情移入することができて、しかも、それが愛すべき人物であったとしてもです。
 悲惨な環境の者が、益々悲惨になってしまうストーリーは、ヒューマニティの社会還元を目的にした彼の作品特有の警告であったとはいえないでしょうか?

 『太陽がいっぱい』のトム・リプリーの殺人動機は非常に分かり易く、そういう意味で極端に言えば、彼は非常に健康的な人間であるともいえます。当時の日本でこの作品が受け入れられたことを考えると、日本はまだ、あらゆる面で健康を保っていたのかもしれません。
 現在、日本での刑事事件における犯罪動機は、全く理解できない意味不明のものが増加しており、実に危険な時代を迎えてしまっているように思います。この時代にルネ・クレマン監督のヒューマニズムをどのように生かしていけばいいのか、我々、現代人の苦悩は益々深く沈潜していかざるを得ないような気がします。

(参考~『巨匠たちの映画術』西村雄一郎著、キネマ旬報社、1999年 / 『フランス映画史の誘惑』中条省平著、集英社(集英社新書)、2003年)
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by Tom5k | 2005-11-12 15:47 | 太陽がいっぱい(3)