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映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること

by Tom5k

『燃えつきた納屋』~アラン・ドロン、尊敬する大先輩たちから学んだ基盤~

 久しぶりに『燃えつきた納屋』を観ました。
 わたしは、この作品の構成要素やプロット、テーマに強く惹きつけられます。

 1960年代初期、折しも「ヌーヴェル・ヴァーグ」がフランス映画界を席巻し、その体系のほとんどの作品が芸術の都パリを描いたものでした。
 それに対して、アラン・ドロンがデビュー当時に出演した作品は、「ネオ・リアリズモ」後期の作品でのミラノやシチリア、そしてローマ・・・西ドイツの作品でのウィーン・・・ルネ・クレマン監督の作品でのイタリア各地・・・フランス国内においてさえニース、カンヌなど・・・、

パリとは縁遠い地域に舞台を設定していた作品ばかりです。

 逆に彼のライバルであったジャン・ポール・ベルモンドは、フランス国内で「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品で評価され、自国のスターシステムにおいて、パリでの集客を主に活躍していきました。

 ライバル同士の彼らは、その初期の活躍において、すでにその人気の基盤が全く異なるベクトルで定まっていったように思います。

 アラン・ドロンは、1990年の『ヌーヴェルヴァーグ』で、ようやくジャン・リュッック・ゴダール監督の作品に出演したのですが、ここではドミツィアーナ・ジョルダーノの演じた主人公エレナがアラン・ドロン扮する主人公ロジェ・レノックスに向けて言い放つ印象深いセリフがありました。
「ニューヨークに連れて行くなんて良くないわ。フランス語でいうと?つまり彼女にはこの国がお似合いよ。あなたもね。

 また、アラン・ドロンがジャーナリストに酷評されたことを次のように述懐しています。
【(-略)イライラしたジャーナリストがこんな事を言ったこともある:「フランス映画界にドロンは存在しない」私はフランス映画界に自分の居場所があると思っていたのにね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/1 「回想するアラン・ドロン:その1(インタヴュー和訳)」

 アラン・ドロンに対するこの矛盾するふたつの見解は、
「《パリを舞台にした》フランス映画界にドロンは存在しない」
と読み替えることで統一できるような気もしてきます。

 さて、この『燃えつきた納屋』ですが、やはり、この作品もパリではなくスイス国境近くのフランスの架空の農村オートドーフ地方を舞台としています。
 わたしがそのことから想起する作品が、アラン・ドロンの師匠でもあったルネ・クレマン監督の詩情溢れる歴史的代表作品『禁じられた遊び』です。

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 『禁じられた遊び』では、フランス共和国がナチス・ドイツとの戦時の真只中、パリからの疎開の道程で両親の死という悲劇に出会ってしまった主人公の幼い少女ポ-レットが、都市部と隔絶された僻地・不便地の農村に迷い込んで生活する物語でした。そして、そこの農民たちにとって、彼女は華やかな都会の雰囲気を感じさせる新鮮な存在でした。

 もちろん、貧しい農村に生きる者たちにとって、豊かなる都市生活者は幾ばくかの嫉妬や羨望を持たざるを得ない存在かもしれません。しかし逆に、希望を捨てずに荒涼たる大地を耕し、そこで根を張って生き抜いてきたという自負心を再確認できる存在にも成り得るようにも思います。

 そのような意味では、この『燃えつきた納屋』でのアラン・ドロンが演じた都市部から派遣された予審判事ラルシェの存在は、シモーヌ・シニョレ演ずるローズを奮い立たせるエネルギーの要素になっていたようにも思うわけです。


 ところで、同年の前作品である『暗黒街のふたり』で、アラン・ドロンは最も敬愛していたジャン・ギャバンと共演し、徹底的に検察権力や容赦のない司法の裁決の在り方を批判していたのですが、この作品では一転して司法調査官である予審判事を演じました。

 恐らく、アラン・ドロンは、目標としていたジャン・ギャバンが得意としていた捜査する側の立場を視野に入れていたように感じます。捜査当局側の人間がその非人間的な職務を全うする役柄には、人間の自然な感情である喜び、悲しみ、怒りなどを極力抑制した演技が求められます。しかし、そこから人間の哀愁やペーソスを帯びた微妙な表現が可能になることを踏まえて、敢えて捜査側の立場の主人公を選んだように思えるのです。わたしは、彼がそのようなペシミスティックで情感あふれる警察官をモデルにしてラルシェ予審判事を演じたのだと考えているのです。
 アラン・ドロンは、ジャン・ギャバンが過去に演じたジャン・ドラノア監督やジル・グランジェ監督のメグレ警視、特に『殺人鬼に罠をかけろ』や『サン・フィアクル事件』、また、ジョルジュ・ロートネル監督の『パリ大捜査網』などの作品、また、3年前にジャン・ピエール・メルヴィル監督の『仁義』で共演したブールヴィルの演じた捜査当局の立場と犯罪の現場の矛盾に苦悩する警察官など、先輩俳優たちが演じていた懐古の演技を復活させたかったのかもしれません。

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 また、彼がこの『燃えつきた納屋』のラルシェ予審判事を演ずるよりも以前に捜査当局の立場に立脚して演じた作品には、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の遺作となった『リスボン特急』でのパリ警視庁のエドワード・コールマン刑事でしたが、このような怜悧で横暴な刑事を演じることができたのは、実際の彼がマルコヴィッチ殺害事件に関与していると疑われた経験から、検察当局への不信感が拭えていなかったからでしょう。

 予審における犯罪者の特定を行うため、強制捜査の権限を持って容疑者の尋問や証拠収集を行う立場を演ずることは、確かに捜査プロットによる「フレンチ・フィルム・ノワール」に準拠する作品であったと思いますが、この作品で警察官を設定せずに、あえて予審判事という検察から独立した司法上の捜査官を演じた彼の気持ちも理解できるような気がします。


 ところで、アラン・ドロンは、シモーヌ・シニョレと2年前の『帰らざる夜明け』でも共演していますが、彼女はアラン・ドロンが最も尊敬する女優のひとりであり、イブ・アレグレ監督の元夫人です。そして、この二人の間の実娘のカトリーヌ・アレグレもこの作品に出演しています。
 更に、何と実はアラン・ドロンもアレグレ兄弟の2作品で映画界入りを果していたのです。
 デビュー作品は、イヴ・アレグレ監督の「Quand la femme s'en mêle」(1957年)、2作品目の『黙って抱いて』(同年)もイブの兄のマルク・アレグレ監督の作品でした。

 『燃えつきた納屋』では、門下生としての姉弟関係であるシモ-ヌ・シニョレを再度相手役として選んだわけですが、過去にイブ・アレグレ監督との生活を崩壊させてしまった彼女が表現したこの作品のテーマは、アラン・ドロンの師匠でもあったルキノ・ヴィスコンティ監督が生涯に渉って描き続けた「家族の崩壊」と同一のものだったのです。

 このようなことに想いを巡らせてみると、この作品には、アラン・ドロンのメンタル的血縁関係によったキャスティングやテーマなどの構成が、実に多様な形で表出されている作品のような気がします。

 また、わたしは『燃えつきた納屋』のシモーヌ・シニョレが演じた主人公ローズを、『若者のすべて』で、カティナ・パクシノウが演じた母ロザリアと比較してしまうのですが、この二人の母性は、似て非なるものであり根本的なところで全く異なるものだと感じてしまいます。

 ローズは、母親としてのアイデンティティが過度にしっかりしているためなのか、子ども達が苦労知らずで、社会的に未熟なまま育ってしまい、母親としては報われない存在になっています。
 彼女のような強いパーソナリティは、逆に周囲を堕落させてしまうのでしょうか?

 他の映画作品で描かれていた母親で、わたしが印象深かったのは、今村昌平や木下恵介が演出した『楢山節考』の田中絹代や坂本スミ子が演じた母おりん、そして、ジョン・フォード監督の『怒りの葡萄』で、ジェーン・ダーウェルが演じたママ・ジョード、神山征二郎監督、新藤兼人原作・脚本の『遠き落日』で、三田佳子が演じた野口英世の母シカ、やはり今村昌平監督の『にっぽん昆虫記』で左幸子が演じたとめと吉村実子が演じた信子の母娘関係などです。

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 彼女たちは、このローズとは異なります。

 嫁を失った長男の再婚の相手の面倒、童貞の息子の世話、嫁に伝えなければならないことを伝える一家の柱としての自覚、母親としての役割の全うと優しさに本当の意味での安心感があります。
 食いぶちを減らさなければ、村落の共同体を維持できない貧困のなかで、おりんの潔さは芸術的ですらありました。

 ロザリアの二男シモーネは、酒と女に溺れ借金だらけで無職となり、最後には殺人犯人になってしまい、その弟たちも彼の悲劇に巻き込まれ必要以上に辛いを経験をし、特に三男のロッコは罪悪感が過度に強く兄の借金のために自分の人生を捨てざるを得なくなります。しかしそれでも、四男チーロや五男ルーカは自分を見失わず希望のある未来を信じることが出来ていました。

 また、ママ・ジョードの息子トムは殺人の罪に問われていますが、彼も未来の希望までを失うことにはなっていません。

 シカは臨終の際、農作業の最中に左手に火傷を負わせ、障害を持たせてしまった自分の息子清作の幼少時を夢に視ていたのでしょう。

「清作、手出して歩けっ!手出して歩けっ!」

と、うなされるラスト・シークエンスでは、わたしの涙は止まりませんでした。


 『にっぽん昆虫記』は、敗戦後の矛盾だらけの現代日本を都市部と農村部の対比から描写した素晴らしい作品でしたが、ここでは、左幸子が演じるとめと吉村実子が演じる信子の母娘が、人間の血縁関係である前に二匹の雌ともいえる凄まじい生命力によって、寄生虫のような強さで生き抜いていく様子を描写しています。
 都市労働者とならざるを得なかったとめですが、その娘の信子は、したたかに都会の誘惑をくぐり抜け、農民として力強く生き抜く道を選択していきます。


 彼女たちは、子どもたちをりっぱな人間に、あるいは希望を見失わない人間に育てました(『にっぽん昆虫記』での、とめの場合は信子を育てたとは言い難いのですが、少なくても信子を育ちそびれさせるような接し方はしていなかったし、娘への愛情は強く持っていたと思います)。

 ローズには、彼女たちのような恥も外聞も捨てざるを得ない、逆に捉えれば解放された明朗な生き方が果たして可能だったでしょうか?
 わたしは、このあたりにローズの弱さを感じるのです。

 彼女には理解者が誰ひとりおらず、特に子どもたちの品行や未来において、ほとんど展望が持てない最も悲劇的な存在となっています。
 妻子がありながら弟の妻と不倫関係にあるピエール・ルソーが演ずる長男ルイ(わたしは、不倫したルイをぶつシモーヌ・シニョレのやりきれない怒りを表す演技の背景に、ハリウッド時代にマリリン・モンローに走ったイブ・モンタンに対する憤りを見て取ってしまいました)。

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ベルナール・ル・コックが演ずる家を捨ててまで若い妻に夢中になっている働く意志の無い二男ポール。ミュウ・ミュウが扮する都会嗜好で貞操観念の皆無な若いポールの妻モニク。

 更に、ポール・クローシェが演じたローズの夫ピエールは、戦時中においてはナチスと闘ったレジスタンスの闘士であったのですが、農地の管理も家族の世話も妻に任せきりで、現実の生活に無気力となっており、覇気を失った甲斐性のない生活無力者に堕しています。
 このスイスとの国境沿いの寒村で、時計修理だけが趣味でしかない生活となっており、その誇りは過去における栄光でしかなく、戦時の勇敢なレジスタンスの闘士は単なるローズの幻想に低落してしまっているのでした。

 何故なのでしょうか?

 この家族は、裕福ではないにしろ土地所有者でもあります。一般的に所有している者たちは、どうしても受動的で保身を中心にしてしまい、未来を描けないものです。わたしの眼には、彼女が強い願望を周囲に押しつける女性特有の受け身の姿勢があるように映りました。
 失うものがないロザリアやおりん、シカ、ママ・ジョード、とめのような状況において、初めて豊かに後継が育つものなのかもしれません。

 しかしながら、映画作品としての『燃えつきた納屋』は、かの「ネオ・リアリズモ」の巨匠で、アラン・ドロンの師でもあったルキノ・ヴィスコンティ監督のライフ・ワーク、敗北の美学の端緒となっている「家族の崩壊」のテーマに最も接近し、その高潔な品位までもが、特にシモーヌ・シニョレの好演によって丁寧に描写できていたように思えるのです。


 ところで、シモーヌ・シニョレは、レジスタンス映画の第一人者、ルネ・クレマン監督の『パリは燃えているか』への出演や、ジャン・ピエール・メルヴィルの『影の軍隊』で女性闘士を演じましたが、現実生活でも夫イブ・モンタンとともに左翼政党の支持者でした。

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 もしかしたら、この作品が制作された翌年1974年に出演する『個人生活』のアラン・ドロンが、共和党の政治家ではなく、フランス左翼政党の政治家を演じたことには、『帰らざる夜明け』やこの『燃えつきた納屋』でのシモーヌ・シニョレとの共演、あるいは『仁義』でのイブ・モンタンとの共演による影響があったのかもしれません。

「『ヌーヴェルヴァーグ』ですごいと思うのは、ゴダールのような左翼とドロンのような右翼とが、互いに衝突しあうこともなく、一緒に仕事をすることができたということです。」
 これは、ジャン・リュック・ゴダール監督の1990年の『ヌーヴェルヴァーグ』にアラン・ドロンが出演したときのフィリップ・ガレル監督の言葉ですが、1970年『仁義』で共演したイブ・モンタン、1972年『暗殺者のメロディ』と1977年『パリの灯は遠く』でのジョセフ・ロージー監督、1971年『帰らざる夜明け』と1973年『燃えつきた納屋』でのシモーヌ・シニョレ、そもそも愛弟子として育ててくれたルキノ・ヴィスコンティ監督などにも置き換えることが可能な言葉であるように思うのです。

 また、『個人生活』においては、アラン・ドロンが尊敬するもうひとりの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の大女優ジャンヌ・モローが、フランス共和党総裁の初老の未亡人を演じ、彼が演じた主人公ジュリアンの政治家としての立場や出世指向に利用されてしまう女性の惨めさを好演していましたが、映画としてのこの構成は歪んだ統一戦線ともとれる設定ではないでしょうか?

 アラン・ドロンは、この作品『燃えつきた納屋』や『個人生活』によって、彼なりにルネ・クレマン監督から教示されたイデオロギーを真正面から懐疑し、その理想の矛盾を、尊敬するふたりの大女優シモーヌ・シニョレとジャンヌ・モローを通じて表現してみたかったのかもしれません。



 それにしても、アラン・ドロンが映画人として育つことの出来た恵まれた環境、素晴らしい先輩達に影響を受けることが可能であったこのような環境があれば、現在の若い人たちも、もっともっとより良く育っていけるはずだと、わたしはこの映画を観て、またも突拍子のない、しかし切実な願望にとらわれてしまうのです。


by Tom5k | 2011-07-30 16:23 | 燃えつきた納屋 | Trackback(1) | Comments(3)
Tracked from プロフェッサー・オカピー.. at 2011-07-31 17:25
タイトル : 映画評「燃えつきた納屋」
☆☆☆☆(8点/10点満点中) 1973年フランス映画 監督ジャン・シャポー ネタバレあり... more
Commented by オカピー at 2011-07-31 20:12 x
当時話題作として扱われることが多かったドロンの主演映画の中では、監督の知名度も低く妙に地味に扱われた記憶がありますが、作品は構成もしっかりして、立派な出来栄えでしたねえ。

>『怒りの葡萄』
たまたま昨日原作を読み終えたところですが、非常に感銘しました。現在の僕の心境では、涙で時々読むのを中断せざるを得ませんでした。
男がダメになるに反比例してどんどん強くなっていく母親も感動的ですし、妻を殺してしまったと思いこんで罪悪感に沈むジョン伯父は僕自身とダブりますし、元説教師の言葉にも人間探求的で感銘深いものが多かったです。
勿論貧乏人が理不尽に追い詰められていく様にも義憤を禁じえないわけですが、総合的にこれは大変な小説と思いましたね。

>「海の沈黙」
用心棒さんへのレスに対する横レスですが、仰る通りブレッソンと共通するタッチで、この静かな映画には大いに興奮したものです。
後年の「サムライ」はこのタッチの延長上にあるフィルム・ノワールですが、僕は「海の沈黙」のような文芸的な映画をもっと作って貰いたかったとも思いますね。


Commented by Tom5k at 2011-08-02 01:07
>オカピーさん、いらっしゃい。
「帰らざる夜明け」や「個人生活」も、そうなんですが、シニョレやジャンヌ・モローとのコンビはギャバンやブロンソン、ベルモンドなどの男優とのコンビネーションとは異なり話題性には欠けていたようですね。本当に残念なことです。
>『怒りの葡萄』・・・昨日原作を読み終えたところ・・・
おおっ、素晴らしいですね。
わたしは、ヴィスコンティに扱ってほしかった題材なんですよ。「若者のすべて」とほとんど同じ背景とプロットのような気がしています。家族の崩壊から家族の絆への脱皮といえば、短絡かもしれませんが、どんなに苦しくても何か希望を失っていないあの健康的なものは何なのでしょう。
アメリカ文学にしては、乾き過ぎてもいませんよね。

人間はなかなか聖人にはなれないかわり、社会の理不尽にはわたしも憤りを感じます。
Commented by Tom5k at 2011-08-02 01:12
>続き
貧しい者はますます貧しく、富める者はますます富みを得ていく。もちろん、わたしはコミュニズムには幻想など決して持ってはおりませんが、生まれ出たときから差があり、死ぬるときまでそこからはい出るチャンスがほとんどない社会は明治維新より前の時代に回帰してると思いますよ。

>ブレッソンと共通・・・「海の沈黙」
違いは、メルヴィルは、ブレッソンのような映画作家としての確信をあえて持たず常に模索を続けていたこと。その自由な感性が、彼の「フィルム・ノワール」の世界だったような気がするのです。
やっぱり天才だったんじゃないかな?
初期の段階の「恐るべき子供たち」や「海の沈黙」で、すでに映画芸術の完成にたどり着いてしまったがために、次に来たるべきものを必死にさがして燃え尽きてしまった映画作家だったのではないでしょうか?
ピカソが、少年時代に写実絵画を完成してしまい、新しい絵画体系を次々創作したように、サルトルがやはり少年時代に百科事典を丸暗記してしまい、実存主義哲学を体系づけたように。

もう少し永く生きてほしかったですね。

では、また。
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