『山猫』②~敗北のプロットしか描けなかったヴィスコンティの一貫性、アラン・ドロンの師への想い~

【サイードの本は、死後ロンドンの新聞に出て、『新潮』に訳載されもした論文を柱としています。(-中略-)
 シチリアの貴族の最後の思いを、生涯一編だけの長編小説に残したラペンドゥーサ。その『山猫』を、貴族趣味のかぎりをつくして映画化した(死ぬまで共産主義者でもあった)ヴィスコンティ監督。両者の間に、「後期のスタイル」の発想を生んだアドルノと、シチリアをふくむイタリア南部に近代化がもたらす貧困を、獄中で予想したグラムシを置く。それも興味深い細部を繰り返しながら語るサイード。】
【引用 『「伝える言葉」プラス』大江健三郎著、朝日新聞社、2006年】

「伝える言葉」プラス

大江 健三郎 / 朝日新聞社



 ノーベル賞作家の大江健三郎氏が、エドワード・W・サイードの著作『晩年のスタイル(On Late Style(Pantheon Books))』を読んだときの読後感です。

 パレスチナ系アメリカ人の文学者、音楽家、思想家であったエドワード・W・サイードは大江健三郎とも交友関係にあり、音楽家ではリヒャルト・シュトラウス、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、アルノルト・シェーンベルグ、文学者ではトーマス・マン、ジャン・ジュネ、トマージ・ディ・ランペドゥーサ、政治家ではアントニオ・グラムシ、思想家・音楽家であったテオドール・ルートヴィヒ・ヴィーゼングルント=アドルノ、そして舞台演出家・映画監督ではルキノ・ヴィスコンティなどにこだわり著作活動を続けてもいたようです。

 特に、イタリア共産党のリーダーであったアントニオ・グラムシからのトマージ・ディ・ランペドゥーサとルキノ・ヴィスコンティへの影響力については強く言及しており、イタリア共産党としては当然の事だったとはいえ、アントニオ・グラムシがイタリアの国家統一と各地域の分析から、北部の労働運動や南北イタリアの経済格差などに着眼していたことなどに関心を寄せていたそうなのです。
 しかしながら、そこで論及されていた南部問題が、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画、トマージ・ディ・ランペドゥーサの小説である『山猫』においては、有効なものとしての実現にまでには至っていないと批判を加えているそうです。

晩年のスタイル

エドワード W.サイード / 岩波書店



 いずれにしても、わたしが最も驚いたことは、大江健三郎氏がルキノ・ヴィスコンティ監督を
>(死ぬまで共産主義者でもあった)
と規定していることなのです。

 それというのも、わたしは、彼が『山猫』以降に自身の帰属していた貴族社会を描くようになっていったことが、コミュニズムから転向してしまったからであると思い込んでいたからなのです。
 もちろん、彼が首尾一貫して広くヒューマニズムを透徹していったことは、間違いのないことだったと確信しています。

 そして、例えば、ジャン・ピエール・メルヴィルは、
【>N あなたは右派なのですか】
とのインタビュアー、ルイ・ノゲイラの問いに
【>M (-略)哲学的に言えば、私の世間における立場はひどく無政府主義的(アナーキスト)だ。極めて個人主義者なんだよ。実を言うと私は右派でも左派でもありたくないのさ。だが、確かに右派のように生きている。私は右派のアナーキストなんだ(-中略-)
 当然ながら、左派は美徳と同義だという観念を私の心から消し去ったのは、ソヴィエト・ロシアだ。三十年前、私の政治的な理想とは、もちろん社会主義だったのさ。あの当時、私は確かに共産主義者だった。その後、一九三九年八月二十三日以来、一気に共産主義にうんざりしたんだ。(-中略-)スターリンが、一九三九年八月二十三日に、戦争が起こりつつあることを宣言したのさ・・・・ポーランド分割についてドイツと意見の一致をみた日だ。あの日、私の共産主義-社会主義-は大打撃を食らったんだ。それから、私はシベリアの収容所のことを考え始めた。その存在は戦前に知られていたんだが-ナチの大量虐殺の強制収容所の存在はまだ知られていなかったがね-あの収容所はレーニンの社会主義の一部だったんだ・・・。その時、私は転向したのさ。(略-)】
【引用~『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年】

と自身の転向の経緯を語っています。

 そして、ルネ・クレマンにおいては、
【私はいかなる党にも属していないし、いかなる政治家にもくみしない。だからといって私が政治的に無関心な人間だというわけではない。なぜなら、もし私が政治を無視していようと、どっちみち、政治のほうで我々を無視してはくれないのだから。(略-)
(ルネ・クレマン 談)】

【前作の『パリは燃えているか』(66)ではクレマンはド・ゴール派に転向したかなどといわれたが、実は彼の初期の作品『鉄路の闘い』(45)、『海の牙』(46)が公開されたころ、日本では彼がコミュニストであるというのが定説になっていた。(-中略-)そのリアリズムのきびしさから、当時史上最大の労働争議を行っていた東宝の組合員たちにもクレマンの存在はかなり神格化されていたようだし、そういうところから、いつの間にか共産党員だというレッテルを貼られていたのかもしれない。】
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】


 元来、彼はコミュニストではなかったと言われていますし、しかし、進歩的な思想の持ち主であることは間違いなかったといわれてもいました。
 ですから、『パリは燃えているか』を撮ったときには、戦後の矛盾を抱えたフランス共和党やアメリカ合衆国への単なる迎合であると、誤解され批判的に受け取られても仕方がなかったかもしれません。
 また、1960年代以降に制作していったサスペンス作品群は、世評では商業主義に堕落したと言われ、透徹したリアリズム描写の衰え、芸術家の堕落として批判されていきました。


 更にジョセフ・ロージーに至っては、
【>JL そもそも私が『暗殺者のメロディ』を撮るなど全く思いも寄らないことだった。私が共産主義者だったのはスターリンが崇拝されていた頃であって、まだその偶像が堕ちる前のことだ。(-中略-)しかもその頃の私はまだ若く“洗脳”とも呼べる方法でいったん吹き込まれてしまった思想を後になって拭い去るのは非常に難しい時期にあった。(-中略-)
 不意に気づかされたのは、私がスターリン主義者だった間、いかに自分が他の大切な知識や経験から隔絶してしまっていたかということだった。あの頃の私はスターリン主義に凝り固まってしまっていて、僅かでもトロツキー主義の傾向にあるものはすべからく間違いだと決めてかかっていた。そういう考えこそ、明らかに、スターリン主義にしろ他のいかなる教義や主義にしろ最も悪い側面だったのに。しかし私はもうすでに人間として成長しており、自分なりの視点を確立していた。すなわち、物事は何でもそのものの本来の価値によって評価されなければならず、よしんば集団で行動を起こすにしろ、やはり一人ひとりが個人としての判断、評価を下さなければならない、という考えに至っていたのだ。(略-)】
【引用 『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年】

と『暗殺者のメロディ』でトロツキーを主人公とした作品を撮るに当たって、自己批判した経緯を語っています。


 また、1968年の五月革命以降、中国革命の毛沢東に傾倒し、商業映画を否定して「ジガ・ヴェルトフ集団」という政治的なアジテーション映画の製作集団を結成し、コミュニズムを徹底していったジャン・リュック・ゴダールでさえ、1980年には『勝手に逃げろ/人生』で、商業映画に復帰します。
 そして、後年、「ジガ・ヴェルトフ集団」の時代は、自分でも、泳ぎ方を覚えずに海に飛び込んだようなものだったと述懐しているほどです。
【「中国女」に取りかかるとき、彼はまったく政治的な映画をとりという新しい体験に緊張していた。というのは、彼自身の政治的な武装が、不充分なままに、敵にむかっていくのだと、みずから知っていたからでである。】
【引用 『現代映画芸術』岩崎昶著、岩波新書、1971年】

 自らの思想・信条、特にコミュニズムのような誤解の多いイデオロギーを、映画作家として生涯に渉って貫いていくことが、如何に困難なことなのか、そのことはアラン・ドロンにゆかりのあった巨匠たちにさえ簡単なことではなかったのです。


であれば、ルキノ・ヴィスコンティが、本当に
>(死ぬまで共産主義者でもあった)
こと、これは、アラン・ドロンが、師と仰ぐ巨匠たちのなかでも、最も徹底した生き様であり、驚くべきことであり、余程の強い信念を以て生き抜いた人物だったと評価してしかるべきでしょう。

 想えば、ルキノ・ヴィスコンティが語った

【「揺れる大地」と「若者のすべて」に続いて第三部をなす「人民のたたかい」を描いた映画を作りたい。しかも、最初の作品が敗北の物語であり、二番目が半ば敗北の物語であったのに反し、こんどは人民の力を確認させるような、勝利の物語を描きたい。】
【引用 「世界の映画作家4 フェデリコ・フェリーニ ルキノ・ヴィスコンティ編」キネマ旬報社】

には、将来にむけての映画創作における不退転の決意が表明されていたのかもしれません。わたしが理解していたように、後年の彼の作品の特徴がその挫折から変遷したという解釈は、再考を要するところに至ってしまいました。

 しかしながら、『山猫』以降に、実際に彼が人民の勝利を直接的に映画で描けたことはありませんでしたし、現代映画において、典型的な無産階級を演ずる資質と才能を備え、最も可愛がっていた青年俳優アラン・ドロンは、その役割を放棄してハリウッドに渡ってしまうことになります。

 それに加えて、彼の映画創作のセオリーは、自ら染み込んだ遺伝子ともいえる貴族階級としてのものでしたから、未来の社会での人民の勝利に対するイメージが貧困で、貴族階級の敗北の歴史的必然と同様に、常に敗北と挫折のテーマでしか映画表現が出来なかったと、わたしは考えます。

 彼の芸術性の高い映像表現は別としても、その主題においては、映画『山猫』で描いたように共和主義者たちと妥協しながら、生き永らえざるを得ない、極論するならば、絶滅に向かっていくまでの貴族階級のロマンティズムやヒューマニズム、その美学などに限られてしまう描写に留まらざるを得なかったとまで考えられます。

 ルキノ・ヴィスコンティは、良く言えば聡明な生き方を上手に選んでいた反面、自らの階級に対して実直で、愚鈍なほど誠実であったともいえましょうし、悪く言えばその階級としての潜在意識から、新しい時代に来るべき人民の勝利する時代へと脱皮するためのイメージを持ち得なかったとも考えられます。

 繰り返すことになりますが、わたしは今の今まで、『山猫』以降の作品は、あくまでも思想的に転向したルキノ・ヴィスコンティの創作活動であると解釈していました。もちろん、それは単純に労働者階級を裏切るような意味のものではなく、前述したジャン・ピエール・メルヴィルやジョセフ・ロージーと同様に、時代的な必然における転向、すなわちコミュニズムから出発し、やがてヒューマニズムを拡大していく手法を採るようになったと考えていたのです。

 この考えは、わたしのブログの盟友であるオカピーさんとも同じ意見でした。
 【オカピーさんのブログ記事『プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]』 映画評「若者のすべて」

 何故、大江健三郎氏は、ルキノ・ヴィスコンティを
>(死ぬまで共産主義者でもあった)
と解釈しているのでしょうか?

 考えてみれば、彼は「ネオ・リアリズモ」の体系で映画を創作していた頃、彼の愛する労働者階級の物語を、

『揺れる大地』において、
>最初の作品が敗北の物語であり・・・

『若者のすべて』において、
>二番目が半ば敗北の物語であった・・・

と自ら主張した映画表現を総括しました。

だからこそ
>こんどは人民の力を確認させるような、勝利の物語を描きたい。
と願っていたのだと思います。

 前述したように、彼が貴族階級の絶滅の遺伝子を刷り込まれていることを踏まえれば、敗北という硬直したテーマからしか、リアリズムやドラマトゥルギーを創り出せなかったことは、無理なからぬことだったと察します。
 それは、この『山猫』や『家族の肖像』においても顕著です。
【参考 オカピーさんのブログ記事『プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]』 映画評「山猫」


 であれば・・・生涯を賭けて自分自身に誠実にありながら、念願の労働者階級の勝利を描く実践は、その手法として単純で直接的な表現ではなかったことは否めません。
 恐らく、彼のロジックとして、現行の支配階級の敗残を表現することが、逆に労働者階級の勝利を描くこととイコールであるという脈絡に行き着いていったのかもしれないと、わたしには思えてきたのです。

 ドイツ三部作の第一作目『地獄に堕ちた勇者ども』での資本家階級の敗残の様子が、残虐と悲惨を極めていることを思い出せばそれは明らかです。

 その敗北の表現は、人民の辿るプロセスを『揺れる大地』や『若者のすべて』で、労働者階級の「無念」そして「郷愁」としてはかなく美しく、また、『山猫』以降、自らの貴族階級の敗北を「絢爛」や「美学」としてエレガンスに描写していったこととは、全く異なるものであったように思うのです。

 資本家階級の破滅が、侮蔑すべき堕落した階級として必然であることを、彼の激しい憎悪と激昂の限り渾身の力をこめて、その末路を描写した作品であったように感じます。
 それが、すなわち人民の勝利であることと同じことだとするレトリックであるなら、この『地獄に堕ちた勇者ども』こそ、『揺れる大地』と『若者のすべて』に続く、第三部「人民のたたかい」として人民の力を確認させるような、人民の勝利の物語として完成させた作品であったのかもしれません。
 わたしは、そう考えたとき、何だか背筋が凍り付きそうな気持ちになりました。

地獄に堕ちた勇者ども

ダーク・ボガード / ワーナー・ホーム・ビデオ



 このように考えると、ルキノ・ヴィスコンティとアラン・ドロンとが決別に至った理由のひとつとしても、彼のアラン・ドロンに対する憤りが、自らの私情におけるものとは異なっていたようにも思えてきます。

 もしかしたら彼は、アラン・ドロンの実業家(資本家階級)への転身が人民への裏切りだったと解釈し、そのことに対して憤慨していたのかもしれません。
 そう、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』で、フィリップ・グリーンリーフになりすましたトム・リプリーに対しての、あるいはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『悪魔のようなあなた』で、ジョルジュ・カンポになりすましたピエール・ラグランジェに対しての憤りであると例えれば、分かり易いでしょうか。

 このことは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の祖母アニエス・ヴァルダ監督が、映画『百一夜』において、アラン・ドロン登場のシークエンスで、師であったルキノ・ヴィスコンティに抱く複雑な心情を、『山猫』のポスターやルキノ・ヴィスコンティの写真の前で立ち留まるショットにおいて演じさせています。
 ここでは、「ネオ・リアリズモ」の歴史的傑作であるヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』の比喩としてのワン・ショットのインサートによる先鋭的なカメラ・アイもショッキングでした。

 このアラン・ドロン批判とも受け取れるアニエス・ヴァルダの演出は、実はルキノ・ヴィスコンティの代弁だったのではないだろうかと、わたしは今になって想い返してしまうのです。

【「揺れる大地」と「若者のすべて」に続いて第三部をなす「人民のたたかい」を描いた映画を作りたい。しかも、最初の作品が敗北の物語であり、二番目が半ば敗北の物語であったのに反し、こんどは人民の力を確認させるような、勝利の物語を描きたい。】

 ルキノ・ヴィスコンティは、アラン・ドロンに、それを演じさせたかったのかもしれません。
 しかしながら、アラン・ドロンの立場に立ったとき、それでは、あまりにも一方的であるとわたしは感じます。ですから、彼の言い分も理解しようと思っているのです。

 後年、共産主義国家である中華人民共和国でのマーケットにおいて、アラン・ドロンがプロデューサーとして発言した内容に、わたしはそれを感じ取ることができました。
【>アラン・ドロン
(-略)中国には8年前に行った:7億人が『ゾロ』を見てくれたんだ!『復讐のビッグガン』を持って行ってね、『若者のすべて』じゃなかった。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/27 「回想するアラン・ドロン:最終回(インタヴュー和訳)」

 このように、共産主義国家の中華人民共和国であっても、映画のニーズとしては、『若者のすべて』が本質的に理解されることが困難だったのです。・・・しかも前述したように、師であったジャン・ピエール・メルヴィル、ジョセフ・ロージー・・・そして、ジャン・リュック・ゴダールのような巨匠たちでさえ、
>(死ぬまで共産主義者でもあった)
ことが極めて困難、あるいは不可能であったわけですから、アラン・ドロンにそれを求めることは、いささか酷なことであり、彼がルキノ・ヴィスコンティの教示に答えることが出来なくても、それは無理のないことのようにも思っているわけです。


【(-略)役者を始めた頃は、私は「ハンサムな間抜け」だった。その後は何かを見出さなくてはならなかったんだ・・・(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 ところが、「ハンサムな間抜け」と自らを卑下しながらも、ルキノ・ヴィスコンティ一家を去って、それでもなお、彼は後年において、人民の勝利像を演じている作品があるのです。

 それは、もう一人の師であったルネ・クレマン監督が演出している作品でした。
 そう『パリは燃えているか』です。

 ルネ・クレマン監督は、アラン・ドロンのキャラクターを含めて、『若者のすべて』の設定を前向きに編成し直して『生きる歓び』を制作したように思います。これをスタート・アップとし、やがてフランス人が誇るレジスタンス運動の勝利を人民の歓喜としてまで到達させたていった作品が『パリは燃えているか』だったと、わたしは考えるのです。


 もちろん、その二作品はコミュニズムの勝利に最も接近して人民の勝利を描いているとはいえ、ルキノ・ヴィスコンティの目指していた階級としてのコミュニズムの勝利からは逸れていると一般的には解釈されてしまうでしょう。
 結果的には、悪の枢軸国ナチス・ドイツに対する共和主義の範囲における人民の勝利として、すなわち大きな社会矛盾を抱えたド・ゴール主義の勝利でしかない作品として、「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸派や左派系の映画人たちの一般的な批判にくみせざるをえない作品であったように思います。

 【ルキノ・ヴィスコンティ】                    【ルネ・クレマン】
 『若者のすべて』(半ば敗北) → → (勝利への端緒) 『生きる歓び』
  ↓                                 ↓
 『地獄に堕ちた勇者ども』                  『パリは燃えているか』
 (資本家の敗北                         (ナチズム・ファシズムの敗北
  =人民(コミュニズム)の勝利)                =人民(レジスタンス)の勝利)
(※歴史実としてはナチスの台頭・・・戦後は、巨大な
  工業コングロマリット「ティッセンクルップ」の誕生と
  なってしまっていますが・・・)

 だからといって、この作品は本当にイデオロギーとしての妥協の産物だったのでしょうか?

 実はわたしは、それは違うと思っています。
 何故なら、

【コミュニストだろうと、ド・ゴール派だろうと。私にはすべてレジスタンスの同志であった。私の会ったこの時代の責任者の人たちはすべて、彼ら同士お互いによく理解しあっていた。どちらが主導権を握るかで若干のアツレキがあったにせよ・・・・
(ルネ・クレマン 談)】
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】

 このルネ・クレマンの発言に、すれ違い決裂してしまったルキノ・ヴィスコンティとアラン・ドロンの師弟関係を再生して繋いでみることが、わたしにはイメージできるからなのです。

【>今年は大統領選挙の年ですが、きっと応援を頼まれるのではないですか?どの候補を応援する予定ですか?
>アラン・ドロン
応援するつもりはないね。私が右翼派だと皆知ってるだろう。共和党の女性リーダーの考えは信念の枠を飛び抜けているという気もするがね。右翼派の女性たちはセゴレーヌ・ロワイヤルを支持するね・・・まあどうなるかは分らないが。私は自分の信念を保持するよ、それに躊躇いはないから・・・】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/5/30 「ドロンが語る「マディソン郡の橋」その2」(インタヴュー和訳)」

 いわんをや、『山猫』で、アラン・ドロンが演じた主人公タンクレディは、同じ貴族階級の娘ではなく、クラウディア・カルディナーレが扮した新興のブルジョアジーの娘であるアンジェリカと結婚して家庭を築いていく新しい時代に生まれた王党派の共和主義者でした。


 これらのことを踏まえれば、アニエス・ヴァルダ監督の作品『百一夜』で、ルキノ・ヴィスコンティの写真や作品ポスターを見つめるアラン・ドロンの複雑な眼差しを理解することは、それほど困難なことではないでしょう。

 そして、わたしは、「ハンサムな間抜け」と自覚しながらも、師であったルキノ・ヴィスコンティの教示に答えようとして、レジスタンス運動の指導者、第三共和政の幕僚ジャック・シャバン・デルマスをルネ・クレマン監督の下で一生懸命に必死に演じているアラン・ドロンの心情を察すると涙が止まらなくなってしまいます。

 そして、アラン・ドロンに心からの万感の拍手を贈りたくなってしまうのです。
[PR]

by Tom5k | 2011-02-05 18:24 | 山猫(2)