『ル・ジタン』③~父親として・・・ロマ族であっても、銀行強盗であっても、サラリーマンであっても・・・

 『ル・ジタン』の原作、及び当初の執筆されていたジョゼ・ジョヴァンニ監督のオリジナル・シナリオでは、アラン・ドロンが演じたル・ジタンことユーゴ・セナールは、ラストで絶命する内容だったようです。

【幻影と現実が入り交じったような、うつろな目つきで、ふらふらと歩き出して、屑鉄の山にぶっつかると、そのまま膝をついた。
しばらく、首を垂れていた。血汐が、その膝へ、胸からしたたった。
血のにおいをかいだ鼠の群が近づいて来た。
ジタンは、ゆっくりと、あたりを見まわした。
ジタンは、ジプシー女の腹から生まれた青年であった。ジプシー出身というだけで、フランスはもとより各国から、生業に就くことを拒否されつづけ、反抗しつづけてきた。ジタンにとってこのゴミ棄て場は、いわば故郷であった。
ジタンは、血まみれの手で拳銃をとり出した。
その有様を、数十メートルはなれた地点から、じっと見まもっている男がいた。
ブロー警視だった。
ジタンは、銃口を顳かみに当てた。
三十一歳の短い生涯の終わるのを、ブロー警視は、冷たい目で見まもっていた。】
【引用 『ル・ジタン~犯罪者たち』ジョゼ・ジョバンニ 柴田錬三郎訳、勁文社、昭和51年3月20日】

ル・ジタン―犯罪者たち (1976年)

ジョゼ・ジョヴァンニ / 勁文社



【○ ゴミ捨て場
車の残骸の鉄屑の間をジタンがふらふらと歩いてくる。まわりに家族達の幻影が出る。
ジタン、鉄材にぶつかって、ゆがんだ梁にしがみつく。まるで十字架にかかったような姿だ。
血が鉄材を伝わって落ちる。
血の匂いをかぎつけるネズミ達。
ジタン、そのままの姿勢で、銃を出して、自分に向けて撃つ。
ひびく銃声。
この音とともに幻影は消え、現実だけが残る。
カメラはゆっくりとロングになる。
ゴミ捨て場と鉄材にひっかかるようにして死んでいるジタン。
薄煙の向うに、遠くまだ眠っている。
大都会の高層アパート群。
静かな夜明けである。】
【キネマ旬報1976年1月新年特別号No.674 ●分析採録 ル・ジタン 脚本・ジョゼ・ジョバンニ】

 しかし、1976年にアデル・プロダクションが完成させた映画作品としての『ル・ジタン』のラスト・シークエンスは、それらとは異なる内容に改変されています。
 また、原作での主人公ユーゴ・セナールの年齢も31歳であり、映画で彼を演じたアラン・ドロンは40歳を迎えた後に主演しています。そういった意味で、この作品は当時のアラン・ドロンの年齢に合致した作風になっているようにも感じました。

【(-略)「ル・ジタン」の原作は15年まえにわたし自信が書いた小説ですが、こんど映画化するにあたって、アラン・ドロンのイメージに合わせてすっかり書き直したものです。(略-)】
【参考 キネマ旬報1976年1月新年特別号No.674(「ジョゼ・ジョヴァンニ映画と自己を語る LE GITAN特集 パリでのインタビュー」(山田浩一/白井佳夫)】


 ところで、一概には決めつけることは出来ないことかもしれませんが、一般的に40歳代の男たちというものは、如何なる心情をもって生きているものでしょうか?

 例えば、
 ようやく手に入れたマイ・ホーム・・・。
 すくすくと育っている最愛の我が息子、我が娘たち・・・。
 若き頃の恋女房とは縁遠くなったにしろ、自分のような男のかみさんの役割など、もう他の女にできるわけがない・・・女房に対するあきらめと感謝、これからもこの女に家のこと一切を任せ、定年まで頑張らなきゃ・・・。
 20代、30代の頃のように他の女も相手にしてくれない、相手にしてくれそうな女が現れても、今ではもうわきまえもできていて・・・はめもはずしにくい・・・。
 おふくろも親父も年食っちまって、自分に頼りっきり・・・。

 わたしの周辺の40歳代の男性たちを見ると、自営業者も含めて、多くのサラリーマンの気持ちは、概ねこのような状態のようです。
 どちらかというと、積極的なエネルギーは感じられません。

 しかし、だからといって、そう簡単にダメ親父にはなっているわけでもありません。
 このユーゴ・セナールのように密かにではあれ、誰にも理解してもらえない熱い想いを抱えて生きているのです。

 まだまだ、おれにだって出来ることはあるはずだと・・・。

 この作品でも、主人公のユーゴ・セナールが自らの心情を吐露するシークエンスがあります。
 刑務所で意味がなく憤っていた様子を不思議に思った仲間たちの疑問に

「俺たちの幸せは他人まかせだ 何ひとつ自由がない それを思うと腹が立つ みんなで騒いだらどうなるかな」(ユーゴ・セナール)
「それが革命だよ」
「革命は戦争みたいなもんだ 俺のはちがう」(ユーゴ・セナール)
「何だい」
「わかるまい」(ユーゴ・セナール)

 それが何なのか、どんなものなのかをユーゴ・セナールが語ることはありません。また、仲間のジョーやジャック(レナート・サルバトーリ、モーリス・バリエ)たちも、そこまで野暮なことは聞きません。
 もちろん、彼が言ったように、その内容は決して誰にも理解できるものでは無いのでしょうが、しかし、男としては本当に良く理解できる会話のやり取りでもあるのです。


 ところで、ジョゼ・ジョヴァンニ監督と製作者であったアラン・ドロンは、この作品にたいへん印象の強い3人の子どもたちを登場させています。
 シャンピニのマルヌ河の河岸で知り合う病気療養中の少年、
 農家の廃屋で資金を渡すときのロマ族の仲間たちの少年、
 そして、ユーゴ・セナール最愛の一人息子です。

 療養中の少年は原作には全く登場しませんので、映画化に当たって、わざわざ登場させたキャラクターだったようです。それだけ、この作品では重要な位置付けにあるように思います。

 もし、ふとしたきっかけでこのような少年と知り合うことがあって、彼との対話が成り立ったなら、男としては誰しもが、ユーゴ・セナールのように彼を励まし、生きる知恵を諭すような気がします。

 そして、友人・仲間たちの子どもに対しても彼と同じように一緒に遊び可愛がるでしょう。

 また、会社の人事異動で転勤することが決まり、一人単身で家族を置いて家を出るようなことになったなら・・・
 そして、そのとき、
「ぼくを連れてって」
と、息子から言われたなら・・・
 世の父親の誰しもが、きっとこのユーゴ・セナールと同じ面持ちで、息子との惜別の瞬間を持ち、新しい赴任地に旅立っていくのではないでしょうか?


 後に続く世代の子どもたちが存在すること。そのことを実感するのも、男としては、やはり、40歳を超えてからのような気がします。
 
 アラン・ドロンも若い頃から、尊敬していたジャン・ギャバンやバート・ランカスターを追い求め、自分を育ててくれたルネ・クレマンやルキノ・ヴィスコンティ、ジャン・ピエール・メルヴィル、ジョセフ・ロージー・・・たちに父性を求めながら、必死に生きる術を学んできたのでしょう。

【彼は父なるものを探し求めているのだが、同時にまた自分が強くなって他者を支配したい欲求もある。(ジョセフ・ロージー)】
【引用 『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年】

追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー

ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢日本テレビ放送網



 しかし、アラン・ドロンは自らがこの年齢にまでなったとき、後身の世代が存在していることに気づき、今度は自分が父性として、彼らに何を残せるのか、どのように叱咤し激励できるのかを意識するようになったとも思うのです。
 恐らく、彼は登場させた少年たちを通して、これからの未来のことを考えるようになり、従前から追求してきた「フレンチ・フィルム・ノワール」での「死の美学」、原作やシナリオでの死を全うする主人公に心酔できる役柄を拒否し、例え犯罪者ではあっても、哀しくて辛いことにも正面から闘いを挑む「男としての規範・・・父性としての生き方」を表現することを選択したのだと思います。
 また、ジョゼ・ジョバンニ監督もそれを理解したのだと思います。


 もう一人、印象深い人物が登場しています。
 ユーゴ・セナールと偶然に邂逅することになったポール・ムーリスが演ずるブルジョア強盗のヤン・キュックです。
 彼の高級マンションを訪れたユーゴ・セナールは、ブルジョアジーのその優雅な生活に目を見張ってしまいます。

 黄色いバスロープ、分厚いチキン、自家焙煎のコーヒー、写真入りの百科全書・・・。

「なんでももっているね」
 若干の羨望の思いから、ユーゴ・セナールはつい口走ってしまうのですが、

 しかし、老ギャング、ヤン・キュックは、静かにこう言います。
「ないものもある 残念ながら」

【(-略)“ル・ジタン”は銀行を襲って金を盗むが、彼自身のためではない。盗んだ金はすべて仲間のジプシーたちに渡してしまう。実生活でも、アラン・ドロンは“ル・ジタン”と同じように気前がよく、仲間意識が強い。友人と思う人間のためには骨身を惜しまずなんでもやる男です。】
【参考 キネマ旬報1976年1月新年特別号No.674(「ジョゼ・ジョヴァンニ映画と自己を語る LE GITAN特集 パリでのインタビュー」(山田浩一/白井佳夫)】

 ヤンは、恐らく、
 この少数民族のアウトローに、助けを必要としているギャング仲間、可愛い子どもや美しい妻、守るべき家族、ロマ族の良き仲間たち・・・が存在していること、つまりその背景に、掛け替えの無い素晴らしいものを持っていることを、無言のうちにすべて理解していたのだと思います。
 むしろ羨ましがっているのは自分の方であることを、最も良くわかっていたに違いありません。


 この作品が公開された時点、わたしがこの作品を観たのが、小学6年生のときでした。そして、現在、わたしは40歳台の半ばから後半に入ろうとしています。
 ですから、この作品に登場する少年たちの世代から、主人公のユーゴ・セナールやその仲間、ポール・ムーリスが演じたブルジョア強盗のヤン・キュックまでの世代の心情が、実に良く理解できるのです。今では、男としての心情が、ロマ族だろうが、銀行強盗だろうが・・・サラリーマンだろうが、もしかしたら、ブルジョアの強盗であっても、皆同じであることを実感してしまうのです。
 マルセル・ボズフィが演じたブロー警視やベルナール・ジロドーが演じたマルーユ刑事の心情も含めて・・・。

 この作品は、映画史的な意味では、ジョゼ・ジョバンニ監督とアラン・ドロンという「フレンチ・フィルム・ノワール」の典型的なコンビで制作され、アクションの素晴らしさもギャングの生態も実にリアルであり、高いクォリティで表現されている作品ですが、わたしとしては、家族のために、社会のために、もう一働きしようとしている男たちを励ましてくれる作品としても、多くの男性の心をつかむ作品、地味ではあっても十分な力を持った作品であるように思います。

 特に、家族を置いて新しい赴任地へ一人旅立つ中堅サラリーマンたちには、是非とも観てもらいたい作品として『ル・ジタン』を薦めたくなります。

 ロマ族のアウトローを演ずるため、アラン・ドロンは髭を生やし痩せこけていて、髪の毛は乱れたままの姿で出演しています。甘いマスクで多くの女性を魅了したダンディズムの極致としてのアラン・ドロンの面影はこの作品には存在していません。


【男は40歳になれば、自分の顔を持つものだと言われている。私は、そうありたいと努めている。】
【「ジタンの香り/アラン・ドロン」(訳 園山千晶)ライナー・ノーツより】
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by Tom5k | 2011-01-10 00:15 | ル・ジタン(3)