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映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること

by Tom5k
 アラン・ドロンは、『山猫』(1962年)でのバート・ランカスターとの共演の翌年、クリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』(1963年)に出演しました。
 私は以前から、アラン・ドロンが何故この作品のオファーを受けたのかを不思議に思っていました。当時の彼の出演していた作品の傾向から考えて、必然性があまり感じられず、違和感を覚えていたのです。

 確かに、1960年代のフランス映画においての「剣戟映画」は、それを得意としていたジェラール・フィリップの死後(1959年)、ジャン・マレーやジェラール・バレーなどを主演させて多くの作品が量産されていましたが、アラン・ドロンの渡米前の出演作品の傾向に、このような「剣戟映画」に出演する要素が見当たらないのです。

 例えば、ジャン・ギャバンと共演する直近に、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の作品に出演していたこと、そして、そのすぐ後に、追い詰められた逃亡者、行きずりの美しいロマンス、そして「死の美学」・・・などのテーマで悲劇のヒーローを演じていることなど・・・。
 このような必然性のある流れが見付けられないのです。

 そんなことから、実に根拠の不十分な私の勝手な思い込みも手伝っているのですが、彼が初めて主演した『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)以降、渡米するまでの出演作品の傾向を踏まえた沿革、体系化を試みてみました。
 かなり不確かな体系付けなのですが、アラン・ドロンの『黒いチューリップ』出演の根拠を探すために便宜的に策定してみようと考えたのです。

<「アイドル映画」期>
『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)
『恋ひとすじに』(1958年)
『学生たちの道』(1959年)
『素晴らしき恋人たち』(1961年)
『生きる歓び』(1961年)【「ルネ・クレマン」期:再掲】

<「ルネ・クレマン」期>
『太陽がいっぱい』(1959年)
『生きる歓び』(1961年)【「アイドル映画」期:再掲】
『危険がいっぱい』(1963年)

<後期「ネオ・リアリズモ」期>
『若者のすべて』(1960年)
『太陽はひとりぼっち』(1961年)
『山猫』(1962年)

<「デュヴィヴィエ=ギャバン」期>
『フランス式十戒』(1962年)
『地下室のメロディー』(1962年)
『さすらいの狼』(1964年)
※ 前述したように『さすらいの狼』は、戦前のジュリアン・デュヴィヴィエとジャン・ギャバンの名コンビの作品群と同作風だと考えました。

 そして、『黒いチューリップ』は、どこにどのように位置付ければいいのでしょう???

 例えば、
<「デュヴィヴィエ・ギャバン」期>及び「ルネ・クレマン」期を自国フランス映画の時期に一元化して、
<「パパの映画」期(末期「詩的レアリスム」期)>
にする体系も考えられなくはないと思うのですが、『黒いチューリップ』だけが、フランス革命期を時代設定としたエンターテインメント「剣戟映画」であり、他の作品とあまりにもかけ離れた傾向を持つ作品であることが気にかかります。

 そんなことから、次に考えたのが、
<「コスチューム・プレイ映画」期(「歴史・文芸映画」期)>
の体系です。
 ここでは、『恋ひとすじに』、『素晴らしき恋人たち』、『山猫』と同体系にしてみたのですが、各々の作品傾向があまりにも異なり過ぎたものになってしまいました。

 では、
<「アイドル映画」期>
に入れてしまってはどうでしょうか?
 ただ、これも、若干、無理な体系付けのような気がしてしまいます。
 確かに、この頃のアラン・ドロンは、まだ「アイドル」ではあったかもしれません。しかしながら、彼は既に出演した作品で幾人もの映画史的レベルの巨匠の演技指導を受けていましたし、国際的なスターとしての要件も備えて、自国フランスのみならず、他国の大スター達とも互角の共演を果たすところまで演技のメソッドを身に付けていました。
 そういった意味で、『危険がいっぱい』、『地下室のメロディー』などや『黒いチューリップ』は、「アイドル映画」ではありませんし、アラン・ドロンも「アイドル」としての時代を脱皮しようとしていたと考えてしまうのです。

 最後に考えたのが、
<「二重性向キャラクター」自国フランスでの発見期>
として、『太陽がいっぱい』、『生きる歓び』と同体系にすることでした。
 これは、私としては、説得力のある作品傾向の位置付けだとは思ったのですが、この体系を「期」として体系付ける意味を見い出せなかったのです。
 アラン・ドロンの二重性向のキャラクターは、大スター「アラン・ドロン」だけが持つ素晴らしい特徴であり、演技者として、また、超一流のスター俳優として、生涯に亘って「アラン・ドロン」であることの証に外ならないものだからです。

 このように、私としては『黒いチューリップ』(1963年)だけが、彼の初期の出演作品の沿革に体系付けられなかったのです。

 ところで、アラン・ドロンは1964年に『黄色いロールス・ロイス』によって、アメリカ映画界に進出し、以後、1966年の『テキサス』まで五作品に出演しました。
 彼が渡米した背景には、当時の自国フランスでの革命的な映画潮流「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品が彼の出演作品に全く縁が無かったこと、つまり、彼が旧時代の映画体系のスター俳優だったことから、水と油ほどの異なる「新しい波」の作品と相容れず、フランス映画界で思うように活躍が出来なかった事情があったと考えられます。このことは既に定説となっており、その最も大きな動機のひとつとして挙げられるでしょう。

 そして、彼のその決断には、もうひとつ・・・『山猫』(1962年)でのバート・ランカスターとの共演もきっかけになっていたのではないかと、現在の私は思っています。このことは、従来から想像していた以上に大きな原因だったと考えるようになりました。

 何度も繰り返すことになりますが、アラン・ドロンは、『山猫』で共演したハリウッドのスター俳優、バート・ランカスターをジャン・ギャバンと同じように尊敬していました。

 バート・ランカスターが育った家庭は貧しかったようで、少年時代からアルバイトの収入で家計を助けていました。また、青年期にサーカス団での空中ブランコのプレーヤーとして活躍していたことは有名な逸話ですが、その興行中に負傷し退団することになってしまい、その後はモデルやウェイターなど、フリー・アルバイターとして生活していたそうです。そして、第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に入隊し慰問団に所属していました。

 また、映画デビュー当時には、『殺人者』(1946年)、『裏切りの街角』(1949年)などの「フィルム・ノワール」作品への出演から始まり、『真紅の盗賊』(1950年)、『怪傑ダルド』(1952年)などの冒険活劇に主演して人気を博していきますが、べテラン期には、『山猫』や『家族の肖像』(1974年)などでの円熟した名演により、イタリア映画界の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督にさえ一目置かれていった人物です。
 彼は、ハリウッドの人気アクション・スターであるに留まらず、高いインテリジェンスを備えたヨーロッパの映画芸術でも通用する演技者でもあったのです。

 アラン・ドロンは、バート・ランカスターの映画界に入る以前の経歴と過去の自分の苦労とを重ね合わせ、映画デビューした以降の彼の出演作品の傾向やキャラクターなどから、自分の映画スターとしての未来像を模索していたのではないでしょうか?
 そんなことも含め、この偉大なハリウッド・スターに対して、「尊敬する俳優」とまで公言していたのでしょう。

 これらの理由から、前述した「アラン・ドロン」出演映画史としての沿革に、少し大胆にあらたな項目を加えることを試みました。

<「バート・ランカスターとの邂逅」期>
『山猫』(1962年)【後期「ネオ・リアリズモ」期:再掲】
『黒いチューリップ』(1963年)
『黄色いロールスロイス』(1964年)~『テキサス』(1966年)

 バート・ランカスターは、俳優になる以前、子供の頃から、ルドルフ・ヴァレンティノやダグラス・フェアバンクスの冒険活劇が大好きで、フレッド・ニブロが監督して、ダグラス・フェアバンクスがゾロに扮した『奇傑ゾロ』(1920年)の大ファンだったといいますし、若い頃には自らも痛快な冒険活劇で大活躍するヒーローを颯爽と演じてもいます。
 最近の私は、アラン・ドロンが渡米していた期間の五作品も含め、『黒いチューリップ』を<「バート・ランカスターとの邂逅」期>の作品として考えて、ようやく納得できる体系をイメージ出来たように思えるのです。

 アラン・ドロンは、自国フランス国内で製作・出演した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を初め、「詩的レアリスム」の作風などでモデルにしていたジャン・ギャバンに加え、国際規模のスター俳優として、アメリカ映画のエンターテインメント性と国際的に通用するインテリジェンスの両側面から映画製作・出演に邁進するための基礎・基本をバート・ランカスターから学んでいったに違いありません。


【ベルモンドは人気スターで、ドロンはスターそのものである。2人は警官やならず者だったのだ。(-中略-)一方はほとんどフランス国内にとどまり、もう一方はかなりの国際派で、イタリア人の貴公子の役や、アメリカ西部の殺し屋の役や、コンコルドのパイロットの役も、ごく自然に似合う俳優だ。】
【引用 『フランス恋愛映画のカリスマ監督 パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー』ジャック・ジメール著、計良道子訳、共同通信社、1999年】

 驚くなかれ、フランスの作家、映画評論家であるジャック・ジメールは、その著作でのアラン・ドロンに関する記述に、『山猫』、『レッド・サン』(1971年)、『エアポート’80』(1979年)を何気なく例示しているのです。

 人気・実力全盛期のアラン・ドロンの国際スターとしてのキャラクターの成熟は、バート・ランカスターによってもたらされたものだと、もはや私は疑うことが出来なくなってしまいました。

# by Tom5k | 2020-05-17 18:37 | 黒いチューリップ(3) | Trackback | Comments(1)
 アラン・ドロンの出演した作品の中で、その傾向があまりに意外で驚いてしまう作品が少なくても三作品あることについては以前から記事内容として掲載してきました。『レッド・サン』(1971年)、『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)、『エアポート’80』(1979年)です。
 そして、それらの作品は恐らく、彼がジャン・ギャバンとともに尊敬するバート・ランカスターに大きな影響を受けて出演した作品だったとの私の考えは、【『レッド・サン』③~ 尊敬するバート・ランカスター、そして、アメリカ映画へのこだわり ~】に掲載したとおりです。

 そして、最近の私にとっては、たくさんの想い出がこの三作品にもあったことを思い返すようになりました。

 アラン・ドロンのことを知ったばかりの小学生の頃、彼が三船敏郎とチャールズ・ブロンソンを敵役にした西部の悪漢として『レッド・サン』に出演していたことは、テレビの映画特集などを見たことで知っていましたが、アラン・ドロンのファンになってからは、西部劇のジャンルに日本人の三船敏郎が出演していること、その共演が不思議なことでした。
 なお、アラン・ドロンは日本でたいへん人気のあったスター俳優だったので、三船敏郎との共演は、映画ファンに留まらず日本人全体にとっても非常にセンセーショナルな出来事だったと思います。

 現在の私としては、三船敏郎の出演については彼が国際的な俳優であったこと、西部劇の舞台設定については、大政奉還後の廃刀令前の時代設定において、日米友好の使節団として派遣された武士・サムライであることなどから、まだ納得出来なくはありません。
 しかし、アラン・ドロンは、フランス人として出演しているわけではありませんし、ヨーロッパのダンディズムを体現していたスター俳優だったわけですから、このような典型的な西部劇の悪漢として出演していたことは現在においても非常に不思議なわけです。
 もちろん、それ以前の『テキサス』(1966年)も西部劇ですが、彼の若い頃の渡米時代の作品ですから、アメリカ映画であれば西部劇であろうと戦争映画であろうと、それはあり得るわけです。むしろ出演作品のジャンルよりもアメリカ映画に出演していた時代があったことに驚くべきであると考えています。

 そして、『アラン・ドロンのゾロ』です。
 私が小学4~6年生の頃には、『暗黒街のふたり』(1973年)を従姉家族が観に行ったことや、『個人生活』も伯母・伯父夫婦が結婚記念日に観に行ったこと、『アラン・ドロンのゾロ』の撮影中にこの作品の完成をもって映画俳優を引退すると宣言したことなど、我が家庭でもアラン・ドロンやその公開作品の話題が多くなっていました。
 また、その頃は、『ボルサリーノ2』(1974年)や『愛人関係』(1974年)公開の宣伝広告が新聞紙面によく掲載されていたので、子供ながらに彼のスター俳優としてのイメージが、ダーバンのCMやテレビ放送されていた出演作品とともに私の中に定着していきました。

 しかし、私は、まだ、ジョンストンマッカレーが創作した「怪傑ゾロ」自体のキャラクターを知りませんでしたので、映画雑誌などのアラン・ドロンの仮面姿の写真を初めて見たときには、

> あれ?この映画、新作かあ???
 でも、前にテレビでやってたよなあ?確か・・・。※ 『世にも怪奇な物語 第二話 影を殺した男』じゃないのかな???
(※ 私のクラスにも『黒いチューリップ』と勘違いしていた女子がいました。)

 そんなことから、アラン・ドロンが演じた主人公に二重人格のキャラクターが多いことを知ったのもこの頃でした。

 なお、彼が「ゾロ」を演じることについては、私よりも、むしろ父親が驚いていました。
>父親
 何いぃ???アラン・ドロンが「ゾロ」~???・・・そりゃないべぇ~!
 「ゾロ」はなあ、おまえ!タイロン・パワーとかよ。

>トム(Tom5k)
 へぇ~「ゾロ」って有名なんだ?
 他の俳優で誰がいた?

>父親
 ん?んん?・・・そうだな?・・・おう!エロール・フリンよ!

 「嘘」です!
 エロール・フリンは「ゾロ」を演じていません。その他、ノー・コメント・・・ということで。


 『フリック・ストーリー』(1975年)公開以後、アラン・ドロンの作品は必ず映画館に足を運んでいた私は、既に高校2年生になっていました。
 ある時、映画雑誌「スクリーン」や「ロードショー」を立ち読みしていると、アラン・ドロンのパイロット姿とシルヴィア・クリステルのスチュワーデス(キャビンアテンダントあるいは客室乗務員)姿の写真による『エアポート’80』のPR記事が掲載されていたのです。

 このときは、本当に驚きました。アラン・ドロンの次の出演作品が、あの人気パニック映画シリーズなんて・・・しかも、主役の機長を演じるなんて、あり得ない!

 既に当時の私は、

> アラン・ドロンのことなら何でも来い!おれは、「アラン・ドロン」博士だぞ!

と自他ともに認めるわきまえの無い時期であったにも関わらず、彼がこのシリーズに出演するなどとは考えたこともありませんでした。

 『アラン・ドロンのゾロ』も、そのキャラクターを演じることは、当時の常識から意外だったわけですが、イタリア資本と提携したヨーロッパの作品でしたし、当時は愛息アントニーにせがまれて出演したと、本人の上手な言い逃れ(現在の私は、これがアラン・ドロンのてらいないファンへの言い訳だったと考えていますが、どうなんでしょうか?)によって出演理由が発信されていましたから、まだ納得出来ないわけではありませんでした。

 しかし、エアポート・シリーズについては、純粋なアメリカ映画、ユニバーサル社の人気パニック映画のシリーズです。
 本当に「ぶったまげる」とは、このことです。

 当然、「この作品のこの登場人物はアラン・ドロンで行こう!」と考える・・・企画・立案する製作者サイド、つまり業界の仕掛け人は存在するのでしょうが、少なくてもそのオファーを受けて出演する意思を固める俳優本人にとっても、そのストーリー・プロットや演じるキャラクターなどを勘案した演じるための強い意欲が、映画出演を承諾するための必須要件となると思います。
 ですから、そのときの出演動機、特に演ずるための経験やモデルが、どこかに存在しているはずなのです。

 恐らく、アラン・ドロンは『レッド・サン』において、『ヴェラクルス』(1954年)の素晴らしい悪役ジョー・エリンを演じたバート・ランカスターをモデルとし、『アラン・ドロンのゾロ』においても『怪傑ダルド』(1950年)や『真紅の盗賊』(1952年)などの冒険活劇で大活躍しているバート・ランカスターからの影響や刺激を受けて出演したに違いありません。『真紅の盗賊』での聾唖の部下が活躍する人物設定も『アラン・ドロンのゾロ』と似ています。

 今回は言わずもがな、この『エアポート’80』も、『大空港』に出演したバート・ランカスターの影響だったと、現在の私は察しているわけなのです。

 そんなことから、最近、『大空港』のDVDを久しぶりにレンタルし鑑賞しました。
 むかしは、よくテレビ放映されていましたし、レンタルビデオ(DVD・BD)の時代になってからも何度も繰り返しレンタルして鑑賞してきた愛着のある作品ですが、今回の鑑賞でその素晴らしさを再発見し驚いています。

 この作品は、高い知的水準を要して鑑賞する芸術作品ではありませんが、現代劇として娯楽性を追求した視覚的に強い印象を与える大掛かりなスペクタクルとしてはもちろん、様々な社会生活を営んでいる当時の典型的な人物を配置することによってアメリカ社会を反映させた群像劇として、しっかりとしたストーリー・プロットで構成されている映画作品だったのです。
 しかも、グランド・ホテル方式によるスターシステムを活用した贅沢なオールスター・キャストで構成されています。

 これらのことについては、私のブログの盟友オカピーさんも絶賛しています。

【(-略)積雪で飛行機が立ち往生する事態が終盤のパニック場面におけるサスペンスを大いに盛り立てることになるし、この部分で「グランド・ホテル」形式に則って航空関係者の相関図が頗る簡潔にして鮮やかに説明される。このスムーズな流れがあるが故に中盤以降にわかに高まるサスペンスが大いに機能することになるのである。
(-中略-)
カットの切り替えの代わりに当時流行っていた分割画面を有効に使い切れ味に貢献しているのも印象に残る。空港警備関係者を集合させるところで四隅が徐々に埋まっていくところなど特にゴキゲン。】
プロフェッサー・オカピーの部屋「大空港」のブログ記事

 こうした素晴らしいディザスター・パニック映画の作品で、その中枢の人物像を堂々と演じたバート・ランカスターは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1962年)において、イタリア統一時代のシチリアにおける改革期の統治者として苦悩したサリーナ公爵の演技を彷彿させます。このサリーナ公爵が、もし現代に生きたなら『大空港』のメル・ベイカースフェルド空港長のような人物として活躍するのではないでしょうか?

 この主人公のキャラクターにも、『山猫』でバート・ランカスターと共演したアラン・ドロンは、大きな刺激を受けたよう思います。

 ところで、1970年初頭のアメリカは、1960年代の「公民権運動」を経て、1960年代後期以降の「ベトナム戦争」反戦運動の真只中であり、映画ファンの若返りとともに映画界全体が革新的な作風による「アメリカン・ニューシネマ」の時代を迎えていました。この『大空港』は、それとは異なるアメリカ映画元来の大作主義として製作されたと聞きますが、やはりその時代の影響を少なからず受けていたようにも感じられるのです。

 特に、現在のアメリカ映画のスペクタクル作品とは異なり、登場人物の生活実態が何気なくリアルに表現されているのです。
 航空機爆破の犯行を実行してしまうヴァン・へフリン演ずる失業中の建設技術者ゲレーロとモーリン・ステイプルトンが演ずる妻イネーズの居所であるアパート、イネーズが細々と経営するカフェの描写などに対して、メル・ベイカースフェルド空港長の家族の優雅な暮らしぶりの様子は、家族との電話の応答シーンでのマルチ画面により映し出されており、この当時のアメリカの格差社会が正確に描写されていたように思いました。

 航空機の空港発着による騒音公害に対する市民運動の表現も斬新だったと思います。テレビ局の撮影が終わればデモ隊が引き上げることを想定した空港側の対応など、市民運動や空港管理当局の悪い意味でのしたたかな現実が描かれていました。なお、危機発生時の緊急対応においては市民側の要求を否定しなければならないメル・ベイカースフェルド空港長の空港経営者側の役員との口論には強いリアリティがありました。

 もちろん『大空港』は、グランド・ホテル方式の群像劇、アンサンブル・プレイとしても秀逸な作品です。特に第一線で活躍する登場人物たちのそれぞれの夫婦間の問題を職業的視点で象徴的に対比させていたことには驚きました。

 まずは、メル・ベイカースフェルド空港長、ディーン・マーチン演ずるヴァーノン・デマレスト機長などのエリート層職員のそれぞれの夫婦間の様子が、緊急時の航空事故の緊迫感の中でのアンサンブル・プレイとして描写されています。

 ダナ・ウィンター演ずるメル・ベイカースフェルドの妻シンディの権威主義や仕事への無理解と家庭を顧みない夫の仕事一徹主義による夫婦関係の崩壊、その影響によるメルとジーン・セバーグが演ずる空港職員ターニャ・リヴィングストンとの恋愛関係、そして、ジャクリーン・ビセット演ずる客室乗務員グエン・メイフェンとの無責任な不倫関係が、彼女の妊娠をきっかけとして本物の愛情へと変遷するヴァ―ノンの心理描写の変遷、更に、取り残されてしまうバーバラ・ヘイル演ずるその妻サラの様子など、二組の夫婦関係と不倫関係が実に多様な視点によって分かり易く丁寧に描写されていました。

 逆に、それらと対象的なのがジョージ・ケネディが演ずる空港整備のベテラン技術者のジョー・パトローニの家庭環境です。ホワイト・カラー・エリートの空港長やパイロットの崩壊に向かっている夫婦関係と対立させて、新婚時代のように仲の良い夫婦として描かれているのです。

 私は、ジョー・パトローニ夫妻のこの設定から、テネシー・ウィリアムスの戯曲『欲望という名の電車』の主人公、肉体労働者のスタンリー・コワルスキーとステラの夫婦関係を想起してしまいました。プティ・ブルジョワの家庭の在り方に、現場労働者のような幸福を構築することの難しさを風刺していたように感じてしまったのです。

 更に、この作品では最も悲惨な夫婦として設定されているのですが、航空機の一部を爆破してしまった失業中の建設技術者ゲレーロと妻イネーズの深い信頼関係にも訴えかけてくるものがありました。

 これら四組のそれぞれの夫婦の人生模様を同時間的に交差させるストーリー・プロットの背景は、登場人物たちの階級的差異による社会矛盾を映画的手法で表していたように私には思えました。

 また、ゲレーロの航空機爆破の犯行動機には、戦場体験によるPTSDによる労働者の失業実態が遠因となっていることにも説得力がありました。実際の戦場での体験により発症してしまったPTSDが、航空機事故の起因となってしまった不幸の連鎖を、この作品では間接的に表現しています。

 そして、孫の顔が見たくて航空機への無銭搭乗を繰り返している名女優へレン・ヘイズが演じる老婦人エイダ・クォンセットのユーモアある人物設定も着目に値します。彼女の言動や行動は、この作品では寛容なユーモアにより描写されており、実に微笑ましいのですが、夫を亡くした年金生活者が遠隔地に居住している子供夫婦に会いに行くための高額な航空料金のことを含め、彼女を通じて多忙な現代社会から孤立しがちな高齢者の在り方を社会的課題として描いていたようにも感じました。

 これらの登場人物に設定されている生活の背景は、この時代ならではのアメリカ映画の特徴かもしれません。

 オカピーさんのコラムのとおり、このようなアソロジーとしての群像劇を丁寧に描写することによって、『大空港』は、観る側の登場人物への感情移入と後半部の緊張感を醸成することに成功しているわけです。

 また、登場人物のそれぞれの業務へのプロ意識とそれらの確執や協力の描き方にも関心するものがあります。
 パイロット・客室乗務員の対応、除雪作業を含めた航空整備士の知識と技術はもとより、ベテラン税関職員の不正搭乗者への洞察なども素晴らしかったですし、ベイカースフェルド空港長の危機管理の判断が的確だとはいえ、市民運動に対する航空会社役員の考え方も日常の航空機の運航のみを考えれば有効な空港管理の手法として選択肢のひとつではあります。

 それにしても、主人公メル・ベイカースフェルドの空港責任者としての業務は、たいへん大きな職責を伴うもので、私は観ていて辛くなってしまいました。

 航空機発着の空港の安全管理、パイロットや空港整備士など専門職員との調整、乗客へのサービスの提供や入国管理に関わる不正摘発、一般市民からの苦情処理、現場を理解しない空港管理会社の役員との折衝・・・なお、映画では描写されていませんでしたが、空港の施設設備の保守・点検、各種業務での職員の労務管理、委託している民間企業との契約上の業務処理の管理や指導、各航空会社間の調整など・・・このような内部管理事務の責任を一手に引き受け、そんな中での突発的な危機対応は大なり小なり日常的に発生しうるわけですから、メル・ベイカースフェルドの管理職員としての日々の疲労は生半可なものではないでしょう。

 また、空港管理業務に関わらず、一般社会においての一般職・総合職としての管理職員は、その主担当業務のみならず、専門職員の強いプライドには日頃から手を焼いてしまうと思うのですが、日常業務にも危機発生時の対応にも、必ず彼らの豊富な経験と知識による業務管理が必要になります。

 この作品でも、パイロットや空港整備士が専門職としての視野の狭さ、プライドの高さ(これらは、その職業の高度な専門性によるものだと思いますが)から、ときに暴走した業務遂行に走ってしまいがちであることも描写されています。

 もちろん、『大空港』では、彼らの経験値による判断や高度な職業的スキルによる業務遂行によって、結果として乗客の命を守る崇高な使命を全うし、航空機事故の危機対応に貢献していく過程により構成されています。
 しかし、ここで忘れてならないことは、その彼らの素晴らしい航空機の運航管理、空港施設の整備などへの業績は、空港責任者としての管理職員の大胆かつ繊細で的確な調整能力や労務管理能力により引き出されていることなのです。

 この視点で考えれば、いわゆる「シビリアン・コントロール(文民統制)」は、軍隊(日本においては自衛隊)においてのみに適用されるシステムではなく、あらゆる社会的組織の総合職と専門職の関わりにおいても適用されるべきシステムであるのかもしれません。
 そんな意味からも、この作品は現実的な社会制度の在り方を映画的に提示していると思いますし、危機対応の基礎・基本をリアルに描写した優れたディザスター・パニック映画だと言えましょう。

 映画の製作や出演以外のビジネスにも精通していたアラン・ドロンにとっても、『大空港』は強く興味が喚起される作品だったのではないでしょうか?

 そもそも、彼の過去の作品から考えても、オールスター・キャストのオムニバス形式の作品や群像劇としての大作への出演は、最も得意とするところだったと思います。
 オムニバス形式の作品は、『素晴らしき恋人たち』(1961年)、『フランス式十戒』(1962年)、『黄色いロールスロイス』(1964年)、『世にも怪奇な物語』(1967年)、アンサンブル・キャストの作品としては、『名誉と栄光のためでなく』(1965年)、『パリは燃えているか』(1965年)、『仁義』(1970年)などの豊富な経験があるからです。

 そして何より、敬愛するバート・ランカスターの素晴らしさが、斬新なディザスター・パニック映画としてのスペクタクルにより、アメリカ映画において全面開花しているわけですから、彼にとっての映画的興味・関心は尽きなかったと察します。

 そんなことを考えると、アラン・ドロンが『エアポート’80』への出演オファーを最大の歓びをもって引き受けたことは、まずは間違いないでしょう。

 ただ、残念なことに『エアポート’80』は、興行的に成功には至らず、このシリーズでは最も低い評価しか受けていない作品でもあります。
 それでも私は、敢えてこの作品の魅力を【『エアポート’80』~「グランドホテル方式」、その「モニュメンタリティ」としての映画様式~】の記事として掲載しました。

 私は、『エアポート’80』製作当時に、フランス国家の記念碑的オブジェとも考えられていた超音速航空機コンコルドの美しい雄姿を、フランスの国際スターであったアラン・ドロン、シルヴィア・クリステルとの対比で捉えたフィリップ・ラスロップのカメラはエアポート・シリーズ随一を誇るべきだと考えています。

 ハリウッドが、近代的で美しいコンコルド機にシンボライズするため、この二人のフランスのスター俳優を招聘したことに加え、まだ冷戦の最中であったとはいえ、アメリカを始め西側主要国が、翌年にボイコットしてしまうにも関わらず、モスクワ・オリンピック参加選手を登場人物に据えたモスクワへの親善運航のプロットを改変せずに完成させたことは、アメリカにおける極端な政治的判断を超えた映画制作の心意気であったのではないでしょうか?!

 ですから私は、この作品を世界供給して公開できた意義は非常に大きかったと思うのです。
 冒頭、パリ、エッフェル塔を中心に映し出し、そのスクリーン下部、セーヌ川のグルネル橋のたもとに位置する「自由の女神」像と併せたフレーミングから始まるファースト・ショットは、ハリウッド映画界からのフランス国家への友好・称賛を意図して、アラン・ドロン演ずるポール・メルトラン機長とジョージ・ケネディ演ずるパトローニ機長との協働・連携関係の設定を象徴させていたと考えられます。

 これらの表現は映画としては断片的であり、その完成度としては不十分だったかもしれませんが、アラン・ドロンとしては、シリーズ第一作『大空港』で描かれていた群像劇を国際友好の規模にまで拡張したスケールで製作されたこの作品への出演には充足感を得られたのではないでしょうか!?

 もちろん、それにもまして、敬愛するバート・ランカスターの主演で始まったこのシリーズに出演できたことのみをとっても、彼の満足感を充たさせるのには十分な作品だったはずだと私は考えてしまうのです。



# by Tom5k | 2020-05-10 16:02 | エアポート’80(2) | Trackback | Comments(0)
 戦前からの日本でのジャン・ギャバンの人気は、たいへんなものだったそうですが、彼の魅力を私の身近なところから考えると、想い出すのは昭和50年代(1980年前後)、私が中学・高校生の頃のことです。
 近所に居酒屋があり、そこの親爺(当時でも既に60歳代後半、70歳近くだったと思います)が、若い頃からジャン・ギャバンのファンだったと、町内会のイベントのときに自慢げに話題にしていた記憶が残っているのです。何せ、むかしのことなので詳細には憶えていないのですが、確か、その親爺は、お気に入りの彼の作品が『狂恋』(1946年)だと話していたように記憶しています。「伝説のロマンス」の相手だったマレーネ・ディートリッヒとの共演作品です。
 確かに、今、想い出すと、白いブレザーを着こなし、スカーフを巻いて外出したり、年齢の割りには小粋で気障な親爺でした。

 最近、久しぶりに、『暗黒街のふたり』(1973年)のBDを観たのですが、私自身、年齢のためなのか、どちらかと云うと、アラン・ドロンではなくジャン・ギャバンの視点による作品鑑賞になってしまいました。
 敢えて、『暗黒街のふたり』の焦点をジャン・ギャバンに絞って考えてみると、この作品は、もしかしたら、過去の彼の作品の集大成としての意味も持ち得ているかもしれないなどと考えてしまいました。

 それにしても、ジョゼ・ジョバンニは、映画監督としてのキャリアから考えても、この二大スターを主役にして、このような作品をよく手懸けたものだと思います。しかも、彼のキャラクターをこれほど鮮明にする演技表現を、よく引き出せたものです。
 とにかくジャン・ギャバンの魅力は万人が認めるところだと私は考えていますが、そもそも、最も魅力あるそのイメージとはどのようなものだったのでしょうか?

 『暗黒街のふたり』から想起すれば、自分より年若い大切な者の死、自分がそれを救い出すことが出来なかった無力感や哀しみ、孤独、そして、その気持ちをそのまま表してしまうことが無意味で見苦しいことなども、わかりすぎるほどわかっていること。その表現力は絶品です。

 そんなことから、私にとって、彼が主演していた作品で、その典型的なイメージによる印象深い作品を挙げるとすれば、それはまず、ジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』(1953年)でのギャングのボス、マックスです。
 抗争相手の新興ギャング組織に囲われてしまったルネ・ダリ―扮する足手まといで出来の悪い弟分リトン。その弟分を救い出すために、『地下室のメロディー』のプロットと同様に、苦労して強奪した金塊を失ってしまいます。
 むかしから可愛がってきた弟分を決して見捨てず、金塊を犠牲にしてまで救い出したものの、その甲斐も無くリトンは敵の凶弾に倒れて死んでしまうのですが、その死に直面したときのマックスの孤独と哀しみ・・・この切ない男性的心情を美しい哀愁にまで高めて表現したラスト・シークエンスは、もう今さら云わずもがなかもしれません。

 そして、彼が初めてアンリ・ヴェルヌイユ監督と邂逅した『ヘッドライト』(1955年)です。この作品は『暗黒街のふたり』と同様にファースト・シーンのモノローグからのフラッシュ・バックにより構成されています。
 物語はジャン・ギャバン扮する主人公、定期便のトラック運転手ジャン・ビヤールが、休憩場所として使用しているドライブ・イン&モーテルで仮眠しようとしているところから始まります。このショットから、ジャンがフランソワ―ズ・アルヌール扮する女給クロチルドとの哀しい恋を振り返る形で本編に繋がっていくのですが、その想い出はクロチルドとの恋の逃避行の最中の彼女の死で幕を閉じるのです。

 ジャンが休憩を終えて、トラックに乗り込もうとするとき、ピエール・モンディ扮する旧知の友人、同業の運転手でもあるピエロと久しぶりに出会う挿話がラスト・シークエンスとなっています。
 別れていた妻と寄りを戻したこと、今でも勝手気ままな子供達に手を焼いていることなど、今の生活が、むかしと変わらない暮らしぶりであることを話すのですが・・・ピエロと別れ車中に乗り込んだ後、その走り去っていくトラックを固定カメラで後方から捉えるラスト・ショットが素晴らしいのです。
 ドライブ・イン&モーテルを背にして未舗装道路を走り去るトラック、そこに砂埃が舞っている情景へのFINのロゴのクローズアップ、映画を観た者は誰もがこの物語を観終わった余韻の中で、クロチルドとの恋を失っている現在のジャンの侘しい姿に哀惜の情感による感情移入をしてしまうのです。

 孤独で哀愁に満ちたキャラクターである典型的な後期の「ジャン・ギャバン」像は、彼が『現金に手を出すな』の初老のギャングのボスや『ヘッドライト』のトラック運転手を演じたことにより確立されたと私は思っています。『暗黒街のふたり』で彼が演じた保護観察官ジェルマンのキャラクターは、この二作品で大切な弟分や恋人を亡くした主人公の哀しみや愁いを、更に深めたものだったのではないでしょうか?

 また、『首輪のない犬』(1955年)で、彼は不良少年の自立支援施設で働くジュリアン・ラミイ判事を演じましたが、これは『暗黒街のふたり』の前日譚ではないかとまで思ってしまいます。法治社会としての正義に失望する保護観察官ジェルマンの義憤にかられた心情表現は、この作品のラミイ判事の役柄を更に昇華させた表現だったと思います。

 ところで、ハンガリーの映画理論家のベラ・バラージュは、歩行ほどその主人公の無意識の動作を表現しているジェスチャーはないと主張しました。

【(-略)歩行こそもっとも表現力に富む、特殊な映画的ジェスチュアなのである。
 歩行ほど性格的な表現動作はない。ほかに理由があるかもしれぬが、主な理由は、それが無意識の表現動作だという点にある。(-中略-)歩行のもつ表現力をあますところなく利用することのできるものは、映画を措いてほかにない。
 (-中略-)主人公の足どりが、おのずと告白となり、どんな場合にもほとんど独白に近い役割を果たすからである。その足取りは、いま起こった事件にたいして彼がどのようにして反応したかを事件の現場における彼を見せるよりもはるかによく、はるかに正確に表現する。】
【『映画の理論』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】

 私は、以前からジャン・ギャバンの歩く姿の素晴らしさについて触れてみたいと常々考えていました。

 ジャン・ルノワール監督の『どん底』(1936年)のラスト・シークエンスは、希望に満ち溢れたショットとなっています。
 この作品はロシア文学者のマクシム・ゴーリキーの戯曲が原作ですが、巨匠ジャン・ルノワールによって、ジャン・ギャバン扮するこそ泥ぺペルとルイー・ジューベ扮する男爵との友情、そして、ジュニー・アストル扮するナターシャとの恋愛を基軸にした構成に改変されおり、社会の「どん底」に生きている人間が、最後に希望を回復して生きていく結末も原作と大きく異なっています。

 宿の主人を死なせてしまった事件の刑期を終えたぺペルは、ナスターシャとともに貧民宿を引き払って旅に出るのですが、このラスト・シークエンスには、ぺペルとナスターシャが手を繋ぎ、幸せそうに笑顔で歩く姿が正面から映し出されているのです。ズーム・アウトでカメラを引きながらのロング・ショットと併せて、スクリーン内部で映像フレームを縮小させながら、最後にFINのロゴを表して締め括るのですが、映画を観終わった者を温かい気持ちに引き込む素晴らしい撮影テクニックです。天才映画作家ジャン・ルノワールならではの高等な映像技巧であると言えましょう。
 ジュニー・アストルの手を取って歩き続けるジャン・ギャバンは、まだ、苦渋と哀愁に満ちたジャン・ギャバンではありません。貧困であっても、前途に大きく希望に満ちている若い若いジャン・ギャバンなのです。

 そして、彼との往年の名コンビ、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『望郷』(1936年)です。
 これは若い頃の彼のひたむきさが最もよく表現された作品です。彼が演ずるのは、パリの強盗団のボス、ぺペ・ル・モコです。彼は複雑に交差した道路、急斜面の坂道、不衛生な路地、数万人もの多人種の犯罪者や貧民に紛れて、アルジェリアの首都アルジェの旧市街地カスバで、当局の監視をかいくぐりながら逃亡生活を送っています。カスバは犯罪者が身を隠すのには最も都合の良い迷宮の市街地として描写されています。しかし、逃亡のために、ここから少しでも港に近付けば、そこでは官憲が常に眼を光らせて逮捕のチャンスを狙っているのです。
 それでも、ミレーユ・バランが扮する美貌のパリ・ジェンヌ、ギャビーに夢中になってしまったぺぺ・ル・モコは、恋と望郷の激情に駆られ、彼女が乗るフランス渡航の客船に乗船するため、リーヌ・ノロが扮するカスバの女イネスを振り切って波止場へと急いでしまうのでした。

 シングルのスーツに身を包み、ソフト・ハットを斜に被りノーネクタイでスカーフを巻いたパリの伊達男、ぺぺ・ル・モコが波止場に向かって歩くその姿をジュリアン・デュヴィヴィエ監督は素晴らしい撮影技術を駆使して映像化しました。
 ミディアムのクローズ・アップにより、その歩く姿を前方、後方からカスバの街や海波のうねりを背景にしたスクリーン・プロセスによってポエジックに表現したのです。私のブログの盟友オカピーさんも絶賛していましたが、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、純真な男のパッションを一途に演じるジャン・ギャバンの最も美しい姿を写し撮りました。
プロフェッサー・オカピーの部屋「望郷」のブログ記事

 ヴァンサン・スコットのBGMも実にドラマティックです。ぺぺ・ル・モコのパリへの郷愁とギャビーへの波打つような激しい恋の想いを彼の歩く姿のリズムに活き活きと照応させているのです。
 我々、観る側は彼の心象風景を耳で観ながら眼で聴くことが出来るのです。

 戦後の作品になりますが、『殺人鬼に罠をかけろ』(1957年)を観ると、アラン・ドロンが、『燃えつきた納屋』(1973年)や『フリック・ストーリー』(1975年)をプロデュースして主演したくなったことが理解出来るような気がします。
 彼は、この作品で素晴らしいキャラクターと邂逅しました。ジョルジュ・シムノンが創作した主人公のメグレ警視が、あまりにも彼そのもののキャラクターなのです。ほとんど、役作りをしなくて済んだのではないかと思ってしまうほどです。
 映画史的には、「フレンチ・フィルム・ノワール」の体系に在る作品か否かに議論の余地が在るところかもしれませんが、彼のメグレ警視シリーズは戦前のフランス映画の「詩(心理)的レアリスム」の映画体系によって確立されたペシミスティックな美学を戦後の「フレンチ・フィルム・ノワール」によって主人公のキャラクターに反映させた象徴的なシリーズ作品であったと、私は考えています。もっと評価されるべきではないでしょうか?

 リュシエンヌ・ボガエル扮する母親の溺愛によって、性的にも人格的にも正常でなくなってしまい何人もの殺害を犯したジャン・ドザイが扮する異常犯罪者マルセル、その夫に愛情を持っているが故に、アニー・ジラルド扮する妻イヴォンヌは殺人事件を起こしてしまいます。夫の犯罪を庇った殺害なのですが、メグレ警視は豊富な捜査経験からの明晰な判断、聡明な人間性によって、母親とマザー・コンプレックスの息子の親子関係や正常ではない夫婦関係の中から真犯人を見抜いていきます。

 そして、いよいよマルセルを追い詰め逮捕に到り、ようやく事件が落着します。
 この後のラスト・シーンでのメグレ警視の歩く姿は、ポール・ミスラキのBGM、ルイ・パージュのカメラ・アイ、そしてジャン・ギャバンの好演などによる素晴らしい映像によって表現されています。

難事件を解決した彼の様子は、よれたスーツと緩んだネクタイの姿に表わされ、その疲労を隠そうともせず、すぐに帰路に向かうため事件の起こった現場を離れようとしています。

そこに駆け寄る部下、
>警視 どうしました

メグレ警視の様子に戸惑いながら、上司に気を使って公用車の手配について、
>ルカを? 車を回します?

彼は部下の言葉を無視して、空を見上げながら、
>おや 降ってくるぞ

歩き出すメグレ警視を呆然と見送り、降ってくる雨に空を見上げ、軒下に移って雨宿りをする部下

難しい仕事をようやく片付け安堵しながらも、事件の異常性に鬱屈した虚無を感じながら、傘も差さずに、激しい土砂降りの雨を受けて歩くメグレ警視・・・。

 彼の歩く姿を、ミディアムのクロ-ズ・アップのショットで写し撮り、ポール・ミラスキの情感あふれる音楽とともに、フェード・アウトして、FINのロゴ・・・やはり、この作品も観る者に素晴らしい余韻を残します。
 このラスト・ショットの歩行と人間的な表情は、他のどんな優れた俳優の演技も追随を許さないでしょう。

 失望の連続である現代の犯罪現場、とはいっても絶望に絶望しきることも許されない警察官の仕事・・・このやりきれない苦渋と哀感を持つ人物像を表現できるスター俳優がジャン・ギャバンをおいて外にいたでしょうか?

 そして、アラン・ドロンと初めて共演したアンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディー』(1963年)、そのファースト・シーンです。
 ミッシェル・マーニュのジャジーで軽快なテンポの音楽と斬新なタイトル・バックからのオープニングですが、出所して自宅に向かって歩く老ギャング、シャルルを演ずるジャン・ギャバンの姿とモノローグは実にお洒落で格好良いです。そして、このトレンチ・コート姿の老ギャングの歩く姿によって、オープニングからこの作品の全てが表現されています。

 出所して帰宅する列車中でのサラリーマンや労働者たちの世間話を聞いた後、あくせく働いてローンでバカンスの旅行をする小市民たちへの軽蔑、駅舎を出てから、近代化の波に流された高層マンション群が隣立する住宅街を歩きながら持つ、時代に取り残されてしまった憤懣やるせなさ・・・こんな生き方や環境で、残りの人生を送るなんて下らない!

 老ギャング、シャルルの歩く姿には、一世一代の大仕事で大儲けをしようとする野心を秘めた心情がすべて凝縮し表現されていました。

 『どん底』では、愛し合う恋人と希望に満ちた人生の再スタートを、『望郷』では、パリの香しさを美しい女に投影した一途な情熱を、『殺人鬼に罠をかけろ』では、異常者による殺害事件の犯罪捜査から現代社会のやりきれなさを、『地下室のメロディー』では、一世一代の大仕事に挑む老ギャングの野心を、その歩く姿によって内面の情緒的心情を鮮明に投影し表現してきたジャン・ギャバン。

 そして、『現金に手を出すな』や『ヘッドライト』で戦後の第二全盛期の「ジャン・ギャバン」像を確立し、『首輪のない犬』での社会正義に目覚めたジャン・ギャバンは、『暗黒街のふたり』でも、ジャン・ジャック・タルベスの絶妙なカメラ・ワークとジョゼ・ジョヴァンニの脚本による素晴らしいモノローグ、そして、フィリップ・サルドの哀しく美しい音楽と相俟って最高の魅力を発揮しています。

 ファースト・シーン、人影のない寂れた街角、張り紙がはがれかけている薄汚れた壁に沿って、保護観察官ジェルマンに扮したジャン・ギャバンは歩いています。

 そこからのフラッシュ・バックで、彼が通勤電車から降り古い駅舎を出て、ギロチンを常設している刑務所の塀に沿って歩くショットに繋がれます。この高いコンクリート塀に刑務所内の犯罪者と一般社会の断絶を象徴させ、一般社会側で生きながらも犯罪者の更生を信じるジェルマンの保護観察官としての立ち位置が示されるのです。犯罪を犯してしまった者の更生を信じて、彼らに寄り添おうとしながらも、その境界線を乗り越えられずに、ぎりぎりの断絶の境目で働いている保護観察官としての彼の生き方をシンボライズしているのでしょう。

 『暗黒街のふたり』では、気の滅入るような無力感、義憤や失望を感じている保護観察官ジェルマンの様相が投影されているにも関わらず、その悲劇的な風情が最も美しく映像表現されています。

 そして、アラン・ドロン扮するジーノが処刑されたカットからのラスト・ショット、ジェルマンが冒頭と同じ道を歩いている姿からフェイド・アウトするとき、我々、観る側はその眼と耳、視覚と聴覚を用いた映画鑑賞によって、ジェルマンと一緒に歩いていたことを自覚します。彼とともにジーノへの哀惜の情感を喚起されてしまうからです。

― この塀のなかに、ギロチンがある。ひとりのジーノを殺したあの人殺し機械が・・・ ―

 誤解を恐れずに、はっきり申し上げましょう。
 この作品は、アラン・ドロンが主演している映画とは思えません。全篇に亘ってジャン・ギャバンの独壇場なのです。

 プロデューサーとしてのアラン・ドロンでさえも、この作品を過去のジャン・ギャバンの出演作品へのオマージュのために製作したのではないかと考えてしまいます。もしかしたら、彼はこの作品が最後の共演作品になると無意識に予感していたのかもしれません。

 そんなことからも、アラン・ドロンは自分のお気に入りの作品のなかの一本に、初めて共演した『地下室のメロディー』でもなく、華やかな豪華キャストの『シシリアン』でもない、この哀しく美しい『暗黒街のふたり』を選んだのではないでしょうか?

 取りとめもなく、そんなことを考えながら『暗黒街のふたり』を鑑賞したとき、冒頭でのジャン・ギャバンの歩く姿を観ただけで、私は哀しくて淋しくて涙が止めどなく溢れてしまったのです。



# by Tom5k | 2020-05-02 17:06 | 暗黒街のふたり(3) | Trackback | Comments(6)