『黒いチューリップ』③~「アラン・ドロン」沿革史:渡米まで~
2020年 05月 17日
アラン・ドロンは、『山猫』(1962年)でのバート・ランカスターとの共演の翌年、クリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』(1963年)に出演しました。
そんなことから、実に根拠の不十分な私の勝手な思い込みも手伝っているのですが、彼が初めて主演した『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)以降、渡米するまでの出演作品の傾向を踏まえた沿革、体系化を試みてみました。
私は以前から、アラン・ドロンが何故この作品のオファーを受けたのかを不思議に思っていました。当時の彼の出演していた作品の傾向から考えて、必然性があまり感じられず、違和感を覚えていたのです。
確かに、1960年代のフランス映画においての「剣戟映画」は、それを得意としていたジェラール・フィリップの死後(1959年)、ジャン・マレーやジェラール・バレーなどを主演させて多くの作品が量産されていましたが、アラン・ドロンの渡米前の出演作品の傾向に、このような「剣戟映画」に出演する要素が見当たらないのです。
例えば、ジャン・ギャバンと共演する直近に、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の作品に出演していたこと、そして、そのすぐ後に、追い詰められた逃亡者、行きずりの美しいロマンス、そして「死の美学」・・・などのテーマで悲劇のヒーローを演じていることなど・・・。
このような必然性のある流れが見付けられないのです。
そんなことから、実に根拠の不十分な私の勝手な思い込みも手伝っているのですが、彼が初めて主演した『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)以降、渡米するまでの出演作品の傾向を踏まえた沿革、体系化を試みてみました。
かなり不確かな体系付けなのですが、アラン・ドロンの『黒いチューリップ』出演の根拠を探すために便宜的に策定してみようと考えたのです。
<「アイドル映画」期>
『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)
『恋ひとすじに』(1958年)
『学生たちの道』(1959年)
『素晴らしき恋人たち』(1961年)
『生きる歓び』(1961年)【「ルネ・クレマン」期:再掲】
<「ルネ・クレマン」期>
『太陽がいっぱい』(1959年)
『生きる歓び』(1961年)【「アイドル映画」期:再掲】
『危険がいっぱい』(1963年)
<後期「ネオ・リアリズモ」期>
『若者のすべて』(1960年)
『太陽はひとりぼっち』(1961年)
『山猫』(1962年)
<「デュヴィヴィエ=ギャバン」期>
『フランス式十戒』(1962年)
『地下室のメロディー』(1962年)
『さすらいの狼』(1964年)
※ 前述したように『さすらいの狼』は、戦前のジュリアン・デュヴィヴィエとジャン・ギャバンの名コンビの作品群と同作風だと考えました。
そして、『黒いチューリップ』は、どこにどのように位置付ければいいのでしょう???
<「アイドル映画」期>
『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)
『恋ひとすじに』(1958年)
『学生たちの道』(1959年)
『素晴らしき恋人たち』(1961年)
『生きる歓び』(1961年)【「ルネ・クレマン」期:再掲】
<「ルネ・クレマン」期>
『太陽がいっぱい』(1959年)
『生きる歓び』(1961年)【「アイドル映画」期:再掲】
『危険がいっぱい』(1963年)
<後期「ネオ・リアリズモ」期>
『若者のすべて』(1960年)
『太陽はひとりぼっち』(1961年)
『山猫』(1962年)
<「デュヴィヴィエ=ギャバン」期>
『フランス式十戒』(1962年)
『地下室のメロディー』(1962年)
『さすらいの狼』(1964年)
※ 前述したように『さすらいの狼』は、戦前のジュリアン・デュヴィヴィエとジャン・ギャバンの名コンビの作品群と同作風だと考えました。
そして、『黒いチューリップ』は、どこにどのように位置付ければいいのでしょう???
例えば、
<「デュヴィヴィエ・ギャバン」期>及び「ルネ・クレマン」期を自国フランス映画の時期に一元化して、
最後に考えたのが、
これらの理由から、前述した「アラン・ドロン」出演映画史としての沿革に、少し大胆にあらたな項目を加えることを試みました。
<「バート・ランカスターとの邂逅」期>
『山猫』(1962年)【後期「ネオ・リアリズモ」期:再掲】
『黒いチューリップ』(1963年)
『黄色いロールスロイス』(1964年)~『テキサス』(1966年)
バート・ランカスターは、俳優になる以前、子供の頃から、ルドルフ・ヴァレンティノやダグラス・フェアバンクスの冒険活劇が大好きで、フレッド・ニブロが監督して、ダグラス・フェアバンクスがゾロに扮した『奇傑ゾロ』(1920年)の大ファンだったといいますし、若い頃には自らも痛快な冒険活劇で大活躍するヒーローを颯爽と演じてもいます。
【ベルモンドは人気スターで、ドロンはスターそのものである。2人は警官やならず者だったのだ。(-中略-)一方はほとんどフランス国内にとどまり、もう一方はかなりの国際派で、イタリア人の貴公子の役や、アメリカ西部の殺し屋の役や、コンコルドのパイロットの役も、ごく自然に似合う俳優だ。】
【引用 『フランス恋愛映画のカリスマ監督 パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー』ジャック・ジメール著、計良道子訳、共同通信社、1999年】
<「パパの映画」期(末期「詩的レアリスム」期)>
にする体系も考えられなくはないと思うのですが、『黒いチューリップ』だけが、フランス革命期を時代設定としたエンターテインメント「剣戟映画」であり、他の作品とあまりにもかけ離れた傾向を持つ作品であることが気にかかります。
そんなことから、次に考えたのが、
そんなことから、次に考えたのが、
<「コスチューム・プレイ映画」期(「歴史・文芸映画」期)>
の体系です。
ここでは、『恋ひとすじに』、『素晴らしき恋人たち』、『山猫』と同体系にしてみたのですが、各々の作品傾向があまりにも異なり過ぎたものになってしまいました。
では、
では、
<「アイドル映画」期>
に入れてしまってはどうでしょうか?
ただ、これも、若干、無理な体系付けのような気がしてしまいます。
ただ、これも、若干、無理な体系付けのような気がしてしまいます。
確かに、この頃のアラン・ドロンは、まだ「アイドル」ではあったかもしれません。しかしながら、彼は既に出演した作品で幾人もの映画史的レベルの巨匠の演技指導を受けていましたし、国際的なスターとしての要件も備えて、自国フランスのみならず、他国の大スター達とも互角の共演を果たすところまで演技のメソッドを身に付けていました。
そういった意味で、『危険がいっぱい』、『地下室のメロディー』などや『黒いチューリップ』は、「アイドル映画」ではありませんし、アラン・ドロンも「アイドル」としての時代を脱皮しようとしていたと考えてしまうのです。
最後に考えたのが、
<「二重性向キャラクター」自国フランスでの発見期>
として、『太陽がいっぱい』、『生きる歓び』と同体系にすることでした。
として、『太陽がいっぱい』、『生きる歓び』と同体系にすることでした。
これは、私としては、説得力のある作品傾向の位置付けだとは思ったのですが、この体系を「期」として体系付ける意味を見い出せなかったのです。
アラン・ドロンの二重性向のキャラクターは、大スター「アラン・ドロン」だけが持つ素晴らしい特徴であり、演技者として、また、超一流のスター俳優として、生涯に亘って「アラン・ドロン」であることの証に外ならないものだからです。
このように、私としては『黒いチューリップ』(1963年)だけが、彼の初期の出演作品の沿革に体系付けられなかったのです。
アラン・ドロンの二重性向のキャラクターは、大スター「アラン・ドロン」だけが持つ素晴らしい特徴であり、演技者として、また、超一流のスター俳優として、生涯に亘って「アラン・ドロン」であることの証に外ならないものだからです。
このように、私としては『黒いチューリップ』(1963年)だけが、彼の初期の出演作品の沿革に体系付けられなかったのです。
ところで、アラン・ドロンは1964年に『黄色いロールス・ロイス』によって、アメリカ映画界に進出し、以後、1966年の『テキサス』まで五作品に出演しました。
彼が渡米した背景には、当時の自国フランスでの革命的な映画潮流「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品が彼の出演作品に全く縁が無かったこと、つまり、彼が旧時代の映画体系のスター俳優だったことから、水と油ほどの異なる「新しい波」の作品と相容れず、フランス映画界で思うように活躍が出来なかった事情があったと考えられます。このことは既に定説となっており、その最も大きな動機のひとつとして挙げられるでしょう。
そして、彼のその決断には、もうひとつ・・・『山猫』(1962年)でのバート・ランカスターとの共演もきっかけになっていたのではないかと、現在の私は思っています。このことは、従来から想像していた以上に大きな原因だったと考えるようになりました。 何度も繰り返すことになりますが、アラン・ドロンは、『山猫』で共演したハリウッドのスター俳優、バート・ランカスターをジャン・ギャバンと同じように尊敬していました。
バート・ランカスターが育った家庭は貧しかったようで、少年時代からアルバイトの収入で家計を助けていました。また、青年期にサーカス団での空中ブランコのプレーヤーとして活躍していたことは有名な逸話ですが、その興行中に負傷し退団することになってしまい、その後はモデルやウェイターなど、フリー・アルバイターとして生活していたそうです。そして、第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に入隊し慰問団に所属していました。
バート・ランカスターが育った家庭は貧しかったようで、少年時代からアルバイトの収入で家計を助けていました。また、青年期にサーカス団での空中ブランコのプレーヤーとして活躍していたことは有名な逸話ですが、その興行中に負傷し退団することになってしまい、その後はモデルやウェイターなど、フリー・アルバイターとして生活していたそうです。そして、第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に入隊し慰問団に所属していました。
また、映画デビュー当時には、『殺人者』(1946年)、『裏切りの街角』(1949年)などの「フィルム・ノワール」作品への出演から始まり、『真紅の盗賊』(1950年)、『怪傑ダルド』(1952年)などの冒険活劇に主演して人気を博していきますが、べテラン期には、『山猫』や『家族の肖像』(1974年)などでの円熟した名演により、イタリア映画界の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督にさえ一目置かれていった人物です。
彼は、ハリウッドの人気アクション・スターであるに留まらず、高いインテリジェンスを備えたヨーロッパの映画芸術でも通用する演技者でもあったのです。
アラン・ドロンは、バート・ランカスターの映画界に入る以前の経歴と過去の自分の苦労とを重ね合わせ、映画デビューした以降の彼の出演作品の傾向やキャラクターなどから、自分の映画スターとしての未来像を模索していたのではないでしょうか?
そんなことも含め、この偉大なハリウッド・スターに対して、「尊敬する俳優」とまで公言していたのでしょう。
<「バート・ランカスターとの邂逅」期>
『山猫』(1962年)【後期「ネオ・リアリズモ」期:再掲】
『黒いチューリップ』(1963年)
『黄色いロールスロイス』(1964年)~『テキサス』(1966年)
バート・ランカスターは、俳優になる以前、子供の頃から、ルドルフ・ヴァレンティノやダグラス・フェアバンクスの冒険活劇が大好きで、フレッド・ニブロが監督して、ダグラス・フェアバンクスがゾロに扮した『奇傑ゾロ』(1920年)の大ファンだったといいますし、若い頃には自らも痛快な冒険活劇で大活躍するヒーローを颯爽と演じてもいます。
最近の私は、アラン・ドロンが渡米していた期間の五作品も含め、『黒いチューリップ』を<「バート・ランカスターとの邂逅」期>の作品として考えて、ようやく納得できる体系をイメージ出来たように思えるのです。
アラン・ドロンは、自国フランス国内で製作・出演した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を初め、「詩的レアリスム」の作風などでモデルにしていたジャン・ギャバンに加え、国際規模のスター俳優として、アメリカ映画のエンターテインメント性と国際的に通用するインテリジェンスの両側面から映画製作・出演に邁進するための基礎・基本をバート・ランカスターから学んでいったに違いありません。
アラン・ドロンは、自国フランス国内で製作・出演した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品を初め、「詩的レアリスム」の作風などでモデルにしていたジャン・ギャバンに加え、国際規模のスター俳優として、アメリカ映画のエンターテインメント性と国際的に通用するインテリジェンスの両側面から映画製作・出演に邁進するための基礎・基本をバート・ランカスターから学んでいったに違いありません。
【ベルモンドは人気スターで、ドロンはスターそのものである。2人は警官やならず者だったのだ。(-中略-)一方はほとんどフランス国内にとどまり、もう一方はかなりの国際派で、イタリア人の貴公子の役や、アメリカ西部の殺し屋の役や、コンコルドのパイロットの役も、ごく自然に似合う俳優だ。】
【引用 『フランス恋愛映画のカリスマ監督 パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー』ジャック・ジメール著、計良道子訳、共同通信社、1999年】
驚くなかれ、フランスの作家、映画評論家であるジャック・ジメールは、その著作でのアラン・ドロンに関する記述に、『山猫』、『レッド・サン』(1971年)、『エアポート’80』(1979年)を何気なく例示しているのです。
人気・実力全盛期のアラン・ドロンの国際スターとしてのキャラクターの成熟は、バート・ランカスターによってもたらされたものだと、もはや私は疑うことが出来なくなってしまいました。
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by Tom5k
| 2020-05-17 18:37
| 黒いチューリップ(3)
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