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『栗色のマッドレー』~アラン・ドロン、第72回カンヌ国際映画祭での名誉賞受賞 その2~

 私が『栗色のマッドレー』(1970年)のテレビ放送を観たのは、中学生の頃、今から40年以上も前の事です。ですから、その内容は映像も含めてほとんど記憶には残っていません。ただ、映画全編に流れていたフランシス・レイの甘い主題曲を、中学生ながら「良いな、素敵な曲だな」と思って観ていたことや海岸沿いの砂浜をアラン・ドロンとミレーユ・ダルク(そのシーンにジェーン・ダヴェンポートが一緒だったかどうかも全く記憶にありません)が馬に乗ってゆっくりと進んでいくショットなどは今でも記憶に残っています。
 それから、アラン・ドロンが、ジーンズの上からとは云えミレーユ・ダルクの股間にキスするショットも実にショッキングで、私の脳裏には強烈な印象が刻み付けられました。

 なお、私生活において、恋人同士のままの婚姻届を無視した自由な恋愛関係を続けていたアラン・ドロンとミレーユ・ダルクでしたが、この二人の関係については日本でも、映画スター「アラン・ドロン」の有名な背景として、非常に話題性に富んだものでした。彼らの年齢や立場におけるこのような関係は当時の日本では現実的ではありませんでしたし、多くの日本のアラン・ドロンのファンの間でも俗世間と乖離したファンタジーと云っていいほど別世界のことでもありました。
 もしかしたら、このようなスキャンダラスでありながらも美しい自然な男女の在り方を私生活においてまで体現していたこと・・・このことに関してさえも、映画スター「アラン・ドロン」としての要件の一つであったのかもしれません。

>女というものは結婚契約によって保証されると全く異なった存在になってしまうものだ。私は自分の人生のための契約書にサインすることはできない。私は自分の独立と自由とを愛する。(略-)
【「シネアルバム⑭ 血とバラの美学/アラン・ドロン アラン・ドロン語録(訳・編=田山力哉)」芳賀書店(1972年)】

 アラン・ドロンのすべてを受け入れ、彼と愛し合っていたミレーユ・ダルク、彼女が、彼の女性遍歴(現在進行のものも含めて)すら許し、私生活の上でも最大に彼を受容していたことは、当時のアラン・ドロンのファンの間で常識になっていたことも事実です。
 『栗色のマッドレー』もそんな二人の関係を美しく描いた作品だと思って観ていたのですが、彼女の演じた主人公が、彼の女性関係に嫉妬して感情を露わにしていた部分があり、そこに驚かされた記憶も残っています。この作品の原作がミレーユ・ダルク自身であったことからも意外な展開だと感じたのです。

 いずれにしても、いくらアラン・ドロンが好きで彼のことを興味深く注視していた私であっても・・・当時、ようやく好きな女の子と毎日どきどきしながら交換日記をしていた中学生の私にとっては、(『高校教師』(1972年)や『個人生活』(1974年)のような大人のラブ・ロマンスを含めて)このような作品を理解することまでは到底及ばないことでした。

 ただ、そんな未熟な私であってさえ、アメリカ映画にはないフランスという風土から発するヨーロッパの香しさをこの作品から感じ取っていたことも間違いないことなのです。
 大スター、アラン・ドロンにおいて、ヨーロッパのダンディズムをモニュメンタリ―に描写できていたのは、当時、ピエール・グラニエ・ドフェール監督の作品と電通・三船プロ制作、小林亜星の音楽によるダーバンのCMなどが典型的であったと考えますが、それらの映像や音楽以上に『栗色のマッドレー』には、アラン・ドロンとミレーユ・ダルク、共演した有色の美女ジェーン・ダヴェンポートをもって、美しく優美なヨーロッパ、特にフランスの情緒がカメラに捉えられていたことは理解できていたと思います。
 それにしても、監督のロジェ・カーヌはTVドラマを主に活躍していた演出家だったようですが、あまり日本では馴染みがありません。この作品では素晴らしい映像を創造することができていたように思うので、もっと活躍してほしかったと残念に思っています。

 また、映画評論家の南俊子氏のアラン・ドロンに関するコラムは当時の映画雑誌等では、日本の彼のファンの代弁者として最も一般的なものでした。この『栗色のマッドレー』の鑑賞に当たっても彼女の批評を私なりに随分と参考にしていたようにも記憶しています。

【(-略)・・・たとえドロンが美しかろうと、どんなに金持ちになろうとも、ヴィスコンティの天性に磨きをかけたエレガンスには及ぶべくもない。
 だがヴィスコンティという、この芸術至上主義の完全主義者に可愛がられ、彼に憧れ心酔することで、すくなくともドロンは〝美”なるもの、その深淵をのぞきみる機会に恵まれた。本を読むこと、音楽を聞くこと、すぐれた美術品に接すること。なにがマヤカシで、何が本物の美か。それを見分ける眼も、ヴィスコンティを見様見真似することで、ひらかれていったはずだ。むろん、若いドロンにとっては背伸びであったし、所せんはスノッブでもあろう。
 だが人間は、特に若者は〝知らない”よりは〝知った”ほうがいい。・・・(略-)】
【シネアルバム⑥ アラン・ドロン 孤独と背徳のバラード「アラン・ドロン バイオグラフィー 南俊子」 芳賀書店(1972年)】

 若い頃の彼の俳優としてのスキルに加えて人間性としてのインテリジェンスにまで、師の一人であったルキノ・ヴィスコンティが大きな影響を与えていたのでしょう。
 後年、アラン・ドロンも自身のキャリアの実績を次のように振り返っていました。
 
>アラン・ドロン
(-略)ヴィスコンティがこう言ってた:「キャリアを築くのは、建築のようなものだ、基礎工事が肝心だとね。」私の基礎は、ヴィスコンティ、クレマン、メルヴィルにロージーだね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18「回想するアラン・ドロン:その6」(インタヴュー和訳)」

 前述してきたように、40年以上前にテレビ放送されたときの『栗色のマッドレー』の詳細な内容は覚えてはいませんが、アラン・ドロンとミレーユ・ダルクとの私生活も含めたスター像も相まって、この作品の主人公達の印象は私の中に強く残りました。
 その根源にあったエレガンスが、ルキノ・ヴィスコンティの美意識のアラン・ドロンへの影響によったものだと、当時でも私なりに解釈しようと努めていたからかもしれません。


 さて、人気全盛期のアラン・ドロンの女性観については、当時の種々に渉る書籍中の彼の語録などから私なりに理解していたことがあります。例えば、ほんの一部ではあるのですが、次のような彼の言動はその代表例です。

>ウーマン・リブの運動をやっているような女は、あまり好きじゃないね。男と女が社会的に平等になることは必要だと思う。だが男女の間には心理的な相違があるのだ。世界の誕生いらいそうだったのだ。そして終わりまでそうだろう。女たちがズボンをはき、ネクタイをしめ、ジャンパーを着ようとも、女はやっぱり女のままだ。それがポイントだ。
【「シネアルバム⑭ 血とバラの美学/アラン・ドロン アラン・ドロン語録(訳・編=田山力哉)」芳賀書店(1972年)】

>男と女が同権であるべきだという説には賛成だ。しかし女が同権だと特権じみた脅迫をするのに対して嫌悪感を催す。男が男の特権を見せびらかすのが鼻持ちならないのと同じように-。
【「スターランドデラックスVOL4 アラン・ドロン」徳間書店、1977年】

 なお、アラン・ドロンの尊敬する女優は、シモーヌ・シニョレとジャンヌ・モローです。
 特に、シモーヌ・シニョレは夫のイブ・モンタンとともにフランス社会党支持者として多くのデモや活動に参加していた典型的な左派系の人物でしたし、ジャンヌ・モローでさえ、アラン・ドロンとは全く対極にある「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品で国際的な名声を得た女優でした。そして、フランスのシネマアーカイブとして名立たるシネマテーク、その代表であったアンリ・ラングロワが解任された際にはイブ・モンタン、シモーヌ・シニョレ、フランソワ・トリュフォーとともに抗議行動を行ったこともあります。
 二人がウーマンリブの運動や男女同権を唱えたことがあったかどうかまではわかりませんが、上記のアラン・ドロンの言説から、彼がこの二人の女優を敬愛していたことが、私には結びつきませんでした。

 アラン・ドロンは、自身の女性観とのアンマッチがあったとしても女優としての優れた功績、実力をもった女性には敬意を示していたのだろうと思うわけです。逆に捉えれば、彼の上記の女性観は厳密な意味での女性観ではなく、彼の「恋愛対象における女性観」に限定されていたようにも思うのです。


 ところで、アラン・ドロンが「差別主義者・同性愛者嫌い・女性蔑視者」であることから、カンヌ国際映画祭での彼の名誉賞授与に対して、アメリカの女性活動家が反対運動を起こし2万7千筆の署名を映画祭の運営者に送り付けたと伝えられていたことは記憶に新しいことです。
 しかし、この名誉賞授与の反対理由の内容は、私からすると全く説得力を持ち得ていないものです。
 アラン・ドロンへのこの批判への私としての反批判の根拠は次のとおりです。

>「差別主義者」について
 共産主義者でハリウッドを赤狩りによって追われていたジョセフ・ロージーとの親交や『栗色のマッドレー』のプロデュース、シモーヌ・シニョレへの敬愛を鑑みれば・・・。例えば、「差別主義者」とまでは言わずとも、強いアメリカ、正義のアメリカを体現していたハリウッドのタカ派俳優の代表、ジョン・ウェインやシルベスター・スタローンが、

 監督においては、ルキノ・ヴィスコンティやミケランジェロ・アントニオーニ、ジョセフ・ロージー、そして、ジャン・リュック・ゴダール、俳優においては、シモーヌ・シニョレやイブ・モンタン・・・果たして彼らと一緒に仕事をする可能性があったでしょうか?

 有色の女性に夢中になって恋人を嫉妬に駆り立てるような作品を自ら製作・出演するような要素が彼らにあったでしょうか?

 彼らとシモーヌ・シニョレとの共演など想像することもできませんし、共演したとしても、それぞれの俳優としての特質においても全くかみ合うものはありません。まして彼らがヨーロッパの社会主義者を尊敬するはずがありません。

>「同性愛者嫌い」について
 真偽のほどは別として、アラン・ドロン自身がホモ・セクシャルであったという噂は有名ですし、彼もそれを否定してはいませんでした・・・ルキノ・ヴィスコンティやルネ・クレマンに、そういった意味でも寵愛されていたこと・・・有名な逸話です。

>そして、「女性蔑視者」について

 アラン・ドロンが1977年に三船プロダクション創立15周年の記念式典に招聘されて来日した際のインタビューで、彼は次のように答えています。

>日本の女性は?
>アラン・ドロン
オー、女性に関しては日本のと固定してはいけない。女性は国別、人種別、色別を超えた存在だ。日本女性ももちろん素晴らしい。
【「スターランドデラックスVOL4 アラン・ドロン」徳間書店、1977年】

 疑う者は『栗色のマッドレー』を見よ!ってとこでしょうか。

 そして、アラン・ドロンのカンヌ国際映画祭「名誉パルムドール」の授与に関するコラム記事を北海道新聞紙上に記した林瑞恵氏はその記事を、彼とルキノ・ヴィスコンティやジョセフ・ロージーとの過去の親交や女性監督の映画に出演したがっている最近の言動などの逸話を交えながら、次のように締め括っています。

「(-略)有名仏週刊誌ル・ポワン誌のアンケートでは、回答者の87%がドロンの名誉賞受賞に賛成だった。ドロンをよく知る国民から見ると、彼への批判は的外れのようだ。
 有名人であれば影響力も大きく、言動には責任は伴う。しかし、実際に被害者から訴えられているわけでもない人について、以前の言動を一部抜き出して非難するのはいかがなものか。(略-)」
【「林瑞絵が見たカンヌ映画祭㊦アラン・ドロンの名誉賞論争」(2019年(令和元年)6月11日付け北海道新聞(夕刊)「芸能」欄 林瑞絵)】


 そして、過去にアラン・ドロンは、こんなことも云っています。

>ファンは、俳優がスクリーンの中で女たらしを演じると喝采するのに、実生活では聖人であることを要求する。まるでマルグリット・ゴーチェの時代みたいに保守的なんだなあ。

>ぼくにとっては好きな人間と嫌いな人間の二種類しかいない。その中間はない。だからぼくに対しても、人々は好きか嫌いか、はっきりわかれると思う。でもそれでいい、ぼくは妥協して生きたくない。

 何十年も前の若い頃の彼の言葉ですけれど、今現在、彼がこう云ったとしても全く違和感がありません。80歳代を超えてもなお・・・、老境の域に達してもなお、アラン・ドロンは一貫しています!
 そして、私はそんなアラン・ドロンに精一杯の声援を贈りたくなってしまうのです。

 頑張れ!アラン・ドロン! と。

# by Tom5k | 2019-08-17 04:24 | 栗色のマッドレー | Trackback | Comments(0)

『パリの灯は遠く』⑤~アラン・ドロン、第72回カンヌ国際映画祭での名誉賞受賞 その1~

 2019年(令和元年)6月11日付け北海道新聞(夕刊)の「芸能」欄に、同年5月に開催された第72回カンヌ国際映画祭(5月14日~5月25日)で、アラン・ドロンが特別賞である「名誉パルムドール」を受賞したことに関わる記事「林瑞絵が見たカンヌ映画祭㊦アラン・ドロンの名誉賞論争」が掲載されていました。記事は札幌市出身のフランス在住映画ジャーナリストの林瑞絵氏の文筆によるものです。

 現在でも何かと話題に事欠かないアラン・ドロンではあるのですが、私としては特にこの受賞に関して様々な想いが沸き上がってきます。

 カンヌ国際映画祭については、過去、アラン・ドロンは、

>カンヌ映画祭のようなコンペは、フィルム市場にとっても、また映画の威信にとっても必要なことであろうことは認める。しかし賞を予想するということは二次的な行為であり、全くバカげたことである。

と、過去にシニカルな発言をしていたことがあります(「・・・必要であろうことは認める。・・・バカげたことである・・・」なんて、随分、上から目線ですが・・・(笑))。これは、第一線のスターであった1970年代の発言のようですが、明らかに、俳優そして製作者として、自らの出演・製作作品への批評・評価を意識したうえで、映画祭へのジャーナリズム、映画祭における低い世論の在り方に反発していたもののように私は感じます。

 そもそも映画賞とは如何なるものなのか、その年の中でどのような功績に授与するものなのか?その権威とは何なのか?

 カンヌ国際映画祭は、例年、南部の海岸コート・ダジュールのカンヌで国際映画祭として開催され、ベルリンやヴェネツィアの国際映画祭とともに「世界三大映画祭」と言われていますが、他の映画祭と異なり、国際見本市にも知名度があります。世界中から映画作品を売り込むために映画プロデューサー、各国スター俳優などが集まってくるそうなのです。映画のバイヤーたちが観客動員できる映画を予想し買い付けするためのプレゼンテーションも恒例となっているようです。前記のアラン・ドロンのカンヌ国際映画祭への言及は、この辺りへの関心によるものと思われます。

 なお、この映画祭の当初の設置目的には、非常に政治的な経緯もありました。1930年代、ヴェネチア映画祭へのムッソリーニの介入による影響が顕著になったことへの対抗戦術によるもので、フランス映画界のみならずフランス政府としても、重要な文化施策の主催事業、迫りくるファシズムに対抗するための国家的施策の側面も持っていたようです(実際に開催できるようになったのは戦後だったそうですが・・・)。
 また、1968年にはフランス国内の学生や労働者の大デモンストレーション、五月革命の余波を受け、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなど、いわゆる「新しい波(ヌーヴェル・ヴァーグ)」のアカデミズムを否定した運動によって中止に追い込まれる事態に至ったこともありました。

 今回の林瑞絵氏の記事には、カンヌ国際映画祭におけるアラン・ドロンの受賞歴(非受賞歴?)に言及しています。

「(-略)出演作はカンヌで、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」(1962年)が審査員特別賞を、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」(63年)が最高賞パルムドールを受賞しているが、ドロン自身が直接受賞したことはなかった。(略-)」。

 このことに関しては、アラン・ドロンのファンとして、彼の俳優人生60年あまりの中でも見過ごせない事実であります。

 アラン・ドロンの代表作品が、ルネ・クレマン監督との『太陽がいっぱい』であることは、今更、言わずもがなですし、当時、婚約者だったロミー・シュナイダーとともに、舞台を含めたルキノ・ヴィスコンティ一家としての活躍、ミケランジェロ・アントニオーニ監督作品への「内的ネオ・リアリズモ」作品への出演、人気全盛期のジャン・ギャバンとの共演やジャン・ピエール・メルヴィル監督、ジョゼ・ジョヴァン二監督らの作品への出演による私生活での暴力団との交友関係をキャラクターに反映させていった「フレンチ・フィルム・ノワール」作品での活躍。
 日本が誇る大スター、三船敏郎との交友、同世代のフランス人気スターであったジャン・ポール・ベルモンドとライバル関係にあったことも・・・。

 これらのことは、アラン・ドロンのヨーロッパにおける映画業績、国際的大スターとしての位置付けとして既に一般論でしょう(今回のカンヌ国際映画祭でも、彼の授与式典の舞台奥には『太陽がいっぱい』の写真が背景に使われ、ビーチシネマでは『地下室のメロディー』が屋外上映され、彼の登壇では『ボルサリーノ』のテーマ曲が流されました)。

 また、世界の映画界を席巻した「ヌーヴェル・ヴァーグ」に対抗し、国際派のスターでありながらも伝統的なフランス映画の作風を自らのアデル・プロダクションの作品で製作・出演し続けていった実績・・・初期のカンヌ国際映画祭での監督賞には、アラン・ドロンの師匠達(ルネ・クレマン『鉄路の戦い』(第1回)、『鉄格子の彼方』(第2回)、クリスチャン・ジャック『花咲ける騎士道』(第4回))の受賞もあります。

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 このような栄えある彼の実績が、今回のカンヌでの名誉賞授与の選定理由であったことは当然のことです!

 しかしながら、アラン・ドロン本人にとっては、この映画祭には彼独自の長年の想い、それも無念の想いもありました。

>ロージー監督と撮った2本の作品『暗殺者のメロディ』と『パリの灯は遠く』を再見すると、 出来栄えがかなり違いますね。
>アラン・ドロン
『パリの灯は遠く』はその主題に感心させられるからだろう。

>それだけではないと思います。脚本を読んだだけなら、こんな人物を演じられるのは誰だろうと思いますよ。
>アラン・ドロン
そう言ってくれて嬉しいよ、ありがとう!そんな事を言ってもらったことはなかったね。『真夜中のミラージュ』でセザール賞を受賞したのはとても嬉しかった。でも『パリの灯は遠く』では映画とは全く無関係な理由でカンヌ映画祭で主演男優賞をもらえなかったのには傷ついた。私にとっては、何にもまして重要な作品だったんだ。あの年の男優賞を誰が取ったのかもう誰も覚えていないだろう・・・『パリの灯は遠く』と『ポーカー・フェイス』の区別さえしないマスコミを恨んだよ。『パリの灯は遠く』は、私の顔では、大胆な演技が要求されたのにね。役作りに腐心した人物だったんだ!
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その6(インタヴュー和訳)」

 つまり、彼は当時のカンヌ国際映画祭において、『パリの灯は遠く』による演技で男優賞を受賞できる実績があったにも関わらず、それを果たす事ができなかった彼なりの悔しい現実を後年まで引きずっていたのです。
 「・・・映画とは全く無関係な理由でカンヌ映画祭で主演男優賞をもらえなかった・・・」
この【映画とは全く無関係な理由】が一体何なのか・・・ファンにとっては実に気になるところなのですけれど、そこは主催者側から公表されるはずもないでしょうし、深堀りしたとしても、アラン・ドロン本人だけの自己への過大評価の認識として返されてしまう不毛で危険な論証になりかねません。
 そう考えると、なおのこと彼にとっては無念の想いが強かったのではないでしょうか?!

 アラン・ドロンのファンとして、いや、映画を愛好する者の一人として、絶対に忘れてならないアラン・ドロンの映画史的実績・・・。

 それが、ジョセフ・ロージー監督作品への出演だったはずなのです!

 監督したジョセフ・ロージーもアラン・ドロンの演技を絶賛しています。ほんの一部でしかありませんが、抜粋します。
>・・・ブーイが別れしなに「幸運を祈りますよ、ムッシュー・クライン」と言葉をかけると、彼はそこで初めて鏡の中に映る自分の姿に目を留め、自問する。「ムッシュー・クラインとは何者なのだ?」と。私にとって重要なシーンは、夜中に一人、例の絵と向き合うところ、ヴェル・ディーヴの一斉検挙が始まる直前だが、ここでのアランは実に素晴らしい演技を見せていると思う。キャンパスの中の紳士と同じ強張った姿勢を、アランにとってもらった。アランは絵の人物になりきった。
【引用~『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年(以下、『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』)】

追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー

ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢日本テレビ放送網





 一般に、アラン・ドロンの人物紹介として、次のように内容が載せられることもありました。
「ドロン・アラン Alain Delon 1935・11・8~ フランスの映画俳優。パリ郊外ソーの生れ。『太陽がいっぱい』で日本でも大スターとなった。
パリの市場レアールのポーターだった彼はその顔立ちの良さで1957年映画入りする。
-(中略)-

特に『パリの灯は遠く』は日本ではあたらなかったがヨーロッパでは第一級の作品として監督のジョセフ=ロージーと共に記憶されている

(略)-(梅本洋一)」
『20世紀 WHO‘S WHO 現代日本人物事典』(1986年11月10日発行 旺文社)

 そして、この無念の1977年第30回カンヌ国際映画祭から40年あまりを経た2019年第72回カンヌ国際映画祭の舞台で、アラン・ドロンに「名誉パルムドール」が授与されたのです。

 林瑞江氏のルポルタージュは続きます。

「・・・授賞式後は彼が製作者兼俳優として活躍したジョセフ・ロージー監督の「パリの灯は遠く」(76年)が上映された。・・・」


 本当にようやくです。カンヌが認めた彼の実績!

 アラン・ドロンの名演が・・・『パリの灯は遠く』の一世一代の名演がやっと・・・

 本当に良かったです。

 ありがとう!カンヌ国際映画祭!
 おめでとう!アラン・ドロン!




# by Tom5k | 2019-07-28 14:03 | パリの灯は遠く(5) | Trackback | Comments(0)