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『もういちど愛して』~愛の再生・復活その4~

 『もういちど愛して』は、好きな作品です。
 アラン・ドロンの演技や作品のテーマ、特にブルターニュ地方の寂しく美しい情景の映像描写、それに照応した美しい音楽などが大好きなのです。

 原野に立ち込める霧から浮かび上がってくるファースト・ショットの古い教会の映像は実にファンタジックです。逆にタイトル・バックでは、ミサのために教会に向かう年老いた土俗の聖女たちが原野を歩行していく様子がリアルに写実されています。

 わたしは、まず、教会での神父のパイプオルガンで迎えられる彼女たちの様子を描いたこれらのファースト・シークエンスで、この作品に惹きつけられてしまいました。

 妻の死を境に閑村の古びた教会で神に仕える聖職の身としてパイプ・オルガンを弾き続け、朴訥な尼僧たちへの説諭を生き甲斐とするアラン・ドロン演ずるシモン・メデュー神父。

 しかし、ナタリー・ドロン扮する死んだはずの妻リタが生きていたことから、その禁欲的な生活は一変してしまいます。
 このときのシモン神父の心情表現には、彼の狼狽と教会の扉の開閉、そのときの効果音楽の組み合わせなどにより、この教会とシモン神父が一体化している技法が駆使されています。これらは、素晴らしい映像表現です。

 その後、乱された心から必死に平静を取り戻そうとするシモン神父の様子が描かれ続けていくのですが、特に彼が海岸の砂浜でスクーターを走らせるショットと音楽の美しさは秀逸でした。

 ポール・ムーリスが演じる司教とのやりとりでの朴訥で能弁なシモン神父を演ずるときのユニークで品格のある演技は、他のアラン・ドロンの作品では滅多に見ることができないものですが、意外に彼らしい雰囲気であるとも思います。

 凄いと思ったのは、苦悩する彼がスクーターごとに川に転落するショット、空中に浮かぶ瞬間をフリーズさせての彼のセリフの使用です。
「主よ主よ・・・何故私を闇の中にお捨てになる?」
 このフリーズ・ショットは、『にっぽん昆虫記』などでの今村昌平監督の編集と実によく似た手法です。

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 そして、シモンが自分の元に戻ってくれることを信じて待ち続ける妻のリタ、彼を愛するがために手段を選ばない彼女の、一途ではあるものの女性特有の屈折した愛情表現なども魅力的に描かれています。
>リタ
「あんたが私を迎えに来るまでは 港にいる船乗り全部に体をくれてやるからね!」
>シモン神父
「主よ・・・ 汚らわしい」

 教会の集会で集まった聴衆に説諭している真最中に、リタの姿を見付けて慌てふためくシモン神父の様子も思わず感情移入してしまうシークエンスでした。

 シモン神父に彼女の想いが伝わり、彼が聖職の道を退く決心をしたときの素晴らしい愛の告白も印象に強いものです。
>シモン神父
「天使だ わたしの天使」
>リタ
「私を選ぶの」
>シモン神父
「もちろんだ」

 彼は司教に自らの心情を吐露します。
「もうだめです 何か甘美な快感があるのです 嘘じゃありません」
 愛が静かに成就したときの男女の決意は、周囲の誰もが祝福せざるを得ないものとなります。

 自分を師事してくれていた年老いた尼僧たちに別れを告げる聖職者シモン、礼節を守り淡々とひとりひとりの名前を呼ぶ様子は、彼と聖女たちとの信頼関係が垣間見える瞬間でした。

 修道院からリタを連れ出して走っていくラスト・シークエンスも、美しい二人の未来を想像させる躍動感あふれるものです。

 このように、わたしにとっては、この作品全編が素晴らしく感動的なものでした。


 ところで、主人公シモン神父がアラン・ドロンのはまり役だと感じているのは、わたしだけなのでしょうか?
 彼の代表作品のひとつであるルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(1960年)の主人公ロッコ・パロンディが、知性と教養を身につけ、自信を回復して年齢を重ねたなら、このような生き方をしていたようにも思います。
 そして、もし、クリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』(1963年)の主人公ジュリアンが、双子の兄ギヨームの後継者となる自覚を持たずに、そして、新しい革新の時代に頓挫し隠遁する生活をおくったならば、後年、やはり、このような姿になっていたかもしれません。

 アラン・ドロン本人も幼少期から苦労が多く、恐らく順応力を身につけて器用に生きていかねばならなかったのでしょう、デビュー当時は合理性に富んだ近代的な若手スターとして売り出した俳優でした。しかし、本来は案外に古風で純情なタイプのキャラクターを持ち合わせた人物だったような気もします。
 ですから、そんな彼が俗世間と交わらず、苦労知らずで封建的な個性のままの人生をおくったとしたなら、この主人公シモン神父のように生真面目過ぎるが故、ある種滑稽で憎めない人物になっていたとも思うのです。


 ところで、彼が自社アデル・プロダクションにて製作し、盟友ジャック・ドレー監督の演出で主演した作品は他にも多くあります。
 『ボルサリーノ』(1969年)、『ボルサリーノ2』(1974年)、『フリック・ストーリー』(1975年)、『友よ静かに死ね』(1977年)などの「フレンチ・フィルム・ノワール」が多いのですが、その作品傾向は、古き良き過去の時代に対する思慕、郷愁を誘うノスタルジーを漂わせた作風のものばかりです。

 この恋愛劇『もういちど愛して』も、それらの例に漏れず、フランス映画のクラシックに回帰しているように感じます。
 アラン・ドロンが主演した作品を振り返れば、前述した『黒いチューリップ』もその体系ですし、特に1962年に出演したカトリック教徒ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒』の一挿話として編纂したとしても全く違和感のない作風だと思います。

 考えてみれば、3年前の1967年には、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の遺作となってしまった『悪魔のようなあなた』での主演、前年1969年、アンリ・ヴェルヌイユ監督の『シシリアン』では、ジャン・ギャバンと共演、フランス映画の伝統的な演出家や共演者と組み、アデル・プロダクションを立ち上げて『ボルサリーノ』で懐古主義ともいえる作品を制作したことなども、この作品までの必然の経緯であったようにまで感じてしまいます。


「ギャング役は好き?
 = ぼくが一ばん好きなのがギャング役ではない 観客が一ばん好きなのがギャング役なのだと思う ギャングでも神父でもぼくは演りがいのある役が好きだ」
【アラン・ドロン孤独と背徳のバラード 芳賀書店(1972年)】

 アラン・ドロン自身が言説している「演りがいのある役」のひとつに「神父」の役が例示されていることからも、このシモン神父役は、世評がどうあれ、アラン・ドロンにとっては「演りがいのある役」であったに違いありません。


>『もういちど愛して』以外、あなたはコメディに出演したことはありませんね。
>アラン・ドロン
『もういちど愛して』以外はやったことがない、あの作品は悪くなかったんじゃないか?(コメディは)私には似合わない、感じないんだ。状況がおかしいという以外はね・・・うまく出来たためしがない、自分には無理なんだろう。笑わすと言うのは難しいよ、一番難しいことだ。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その6(インタヴュー和訳)」

 このように、後年、コメディ作品での役作りの困難さに言及しながらも、『もういちど愛して』における作品としての評価は低くない旨のコメントをしています。


 この作品で、主人公シモン神父を演じているアラン・ドロンは、あまりに朴訥な故に、死んだはずの最愛の妻リタの出現に常にナーヴァスになってしまうという表現に徹し、その様子は実に微笑ましい限りなのですが、この作品の製作された1970年の2年後、1972年に巡り会ったジョセフ・ロージー監督の『暗殺者のメロディ』で新境地を引き出されて演じた暗殺者フランク・ジャクソンや1977年に制作された世紀の大傑作『パリの灯は遠く』のムッシュー・クラインなどのキャラクターの片鱗を伺い知ることもできるように思うのです。

 リタが現れてからの彼の苦悩の表現は、トロツキーを暗殺するときのフランク・ジャクソン、もう一人のユダヤ人クラインに間違われたときに見せたクラインの動揺などの演技に繋がっているように感じるのです。

【(-略)私とやった二本の映画での役柄にぴったりだった。その二人、トロツキー暗殺者とムッシュー・クラインは、どちらも非常に頭の切れる男で、自分の行動にはしっかりとした自覚を持っている。ところがある限界点を一歩踏み越えてしまうと、もう判断力を失い、放心したようになってしまう。(ジョセフ・ロージー)】
【引用 『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年】

追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー

ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢日本テレビ放送網



 この恋愛コメディでも、主人公シモン神父は、しっかりとした聖職者の自覚を持っていますが、死んだはずの妻の出現によって、限界点を一歩踏み越えてしまい、判断力を失ってしまっているのです。ジョセフ・ロージー監督に巡り会う前に、アラン・ドロンが自らの限界点を超えた状態を表現した素晴らしい演技であったと評価しても良いのではないでしょうか?


 そして、ジョセフ・ロージー監督との作品に加えて、他にも彼の様々な未来の可能性を孕んだ役だったとも、わたしは思っています。

 1984年、フォルカー・シュレンドルフ監督がマルセル・プルースト原作の『失われた時を求めて』の一編を映画化した『スワンの恋』、ここでアラン・ドロンが演じた時代遅れのダンディズムに浸っているホモ・セクシュアルのシャルリュス男爵は、わたしにはシモン神父を再現したようにも見えます。

 そして、1984年、セザール賞男優賞を受賞したベルトラン・ブリエ監督の『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』や1990年にジャン・リュック・ゴダール監督と撮った『ヌーヴェルヴァーグ』のテーマは、この『もういちど愛して』と同じように、愛の再生、そして復活でした。

 更に、人格の二重性を象徴的に描く手法で、死してなお復活・再生していくテーマや主人公のキャラクターは、元来アラン・ドロンの主演作品での彼の十八番なのですが、この作品では、兄妹のように似ているといわれ、過去に妻として最も愛していたナタリーを共演者に選定して、そのキャラクターの特徴を彼女と共有しています。
 
【この人を見よ!】
 『ヌーヴェルヴァーグ』は、神を乗り越え力への意志によって、現代を力強く生き抜いていく思想として体系付けたニーチェのこの言葉も主題のひとつでした。
 現代社会に押しつぶされてしまう弱者として登場するアラン・ドロン扮するロジェ・レノックスは、超ロジェであるリシャールとして再生・復活し、ドミツィアーナ・ジョルダーノ演ずる主人公エレナとの愛を再生させ、彼女とともに未来に旅立つシークエンスで結末を迎えます。

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ニーチェ / 岩波書店



 すでに、この『もういちど愛して』でもアラン・ドロンと元妻ナタリー・ドロンは、そのニーチェの思想を体現し映像化していたようにも見えてしまうのです。
 主人公のシモンとリタが封建の修道から脱皮して、力強く未来に向かって生きようとするラスト・シークエンスで締めくくられているからです。

 そう、まさにニーチェの言葉のとおり
【神は死んだ】のです!

 この『もういちど愛して』は、自分の分身である最愛の息子アンソニーの母でもあるナタリーに対し、元夫として今の自身の想いをもう一度、精一杯に伝えるための最良のプレゼントにしたかった作品だったのかもしれません。


 そして、もしかしたら、アランはナタリーと・・・・もういちど、寄りを戻したかった????のではないしょうか????
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by Tom5k | 2011-06-05 03:55 | もういちど愛して | Comments(8)

『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』③~愛の再生・復活その3 セザール賞主演男優賞受賞~

 アラン・ドロンが扮する主人公のロベール・アヴロンシュは、中古車情報誌「L'argus」誌を読みながら列車の一等室に乗車しています。ロベールの出で立ちなどから、彼がフランス国民の中産階級の平均的なホワイト・カラー層の市民であると察することができそうです。

「ロベール・アヴロンシュ 一人旅・・・ 何か 起こるのか いや・・・ なんにも たいくつな旅だ」

 物語はロベール・アヴロンシュが列車の揺れにまどろんでいるとき、愁いに満ちた哀しい表情をした女性、ドナシエンヌ・プジェが室内を覗き込むところから始まります。

 ドナシエンヌ・プジェを演ずるのは、フランソワ・トリュフォーやジャン・リュック・ゴダールの作品で女優開眼したナタリーバイです。彼女はフランソワ・トリュフォーの作品では、アラン・ドロンが最も気に入っている『緑色の部屋』に主演していることから、彼の相手役としては申し分のない共演者といえましょう。
緑色の部屋
/ ビデオメーカー




 この作品のストーリー・プロットは、このファースト・シークエンス以降、常に内容に脈絡がなく、主人公ロベール・アヴロンシュが列車でまどろんでいるときの「夢」だということを観る側が理解できる構成となっています。

 女性のほうから彼のいる室内に入ってくるのは、彼女が自分に何かを働きかけていると、ロベール・アヴロンシュ自身が無意識に感じているからなのです。

「何か用か?」

「話でもしない」
 室内に訪れたドナシエンヌ・プジェはロベールに言います。
「ちょっといい男 遊び人風だわ なぜか母性本能をくすぐる・・・男はビールが大好きなのね 飲んべえで お金を払うと すぐ半分のむ 立ったまま」 

 彼女はロベールを分析し、すべて的を得ています。この女性は初めから彼を詳細に知っているようで、彼の実現性の無い日常からの逃避願望なども見抜いており、しかも非常に不満げな表情です。
 ロベールも彼女の言葉や様子に不自然さを感じていないように見えます。

 そして突然、彼女はロベールにセックスを求めます。
 彼女は、彼に対してさんざん不満そうな態度を取った後、後腐れの無いセックスでしか対応できないようです。

「次の駅までの 束の間の恋 後腐れなしよ 付きまとわれたくないの 楽しんだら それで終わりよ」
 
 ドナシエンヌ・プジェは、彼の周囲にいる身近な女性であるのでしょう。まるで開き直った夫婦のセックス、もしくは破局を迎えつつある不倫関係のようにも思えます。


 その場しのぎのセックスのつもりだったのに、ロベールは次の駅で降車した彼女の後を追います。

「まだ何か用なの?」
とドナシエンヌ

「笑って」
 ロベールが彼女に求めているものは「笑顔」のようです。

「長いこと笑ってないわ」

 彼女を追いかけているにも関わらず、駅の売店でビールを買ってしまうロベール。
 うんざりして先に行ってしまうドナシエンヌ。

 ロベールは列車と駅前のホテルが好きだそうで、結局ふたりは駅前のホテルに入ります。

 彼は別荘に凝ることなど面倒で、好きなのは駅前のホテルや列車、気が向いたらすぐに出発できる忙しい男であることなどを彼女に説明し、理解を求めます。

「考え事に向いているし 安全だ 出会いもある」
実に落ち着きのない男です。

 この作品の制作より23年前の1961年、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』でモニカ・ヴィッティの演じたヴィットリアがアラン・ドロン扮する証券マンのピエロに

「落ち着きのない人ね」

とたしなめられ

「落ち着く必要があるか?」
と反発してからの23年間、アラン・ドロンは全く成長していません。


「車内で抱き合うのもいい! 君ならどこでもかな 車 エレベーター そこいら」
 アラン・ドロンらしい、といえばそれまでですが、
 大切な女性との愛の行為を、行きずりの後腐れの無いセックスとして肯定し、彼女を淫乱扱いする彼は、あまりに女性へのデリカシーに欠けます。

「ベッドでもよ」
当然のことながら、うんざり顔のドナシエンヌ。


「笑わせてみせるよ いいかい それが望み きみがプロでも おれには天使だ」
と彼女を笑わせることをあらためて決意します。

 さすがに彼女の心も動いたのか
「もっと続けて」

 わたしはここで、アラン・ドロンが過去に自分のプロダクション、アデル・プロでプロデュースした『もういちど愛して』のワン・シークエンスを想起しました。
 アラン・ドロン扮するシモン神父が、実生活でも本当に離婚した後のナタリードロンの扮する別れた妻リタと寄りを戻して再出発するときのやりとりです。

シモン神父 「天使だ わたしの天使」
リタ      「私を選ぶの」
シモン神父 「もちろんだ」

 
 彼の全財産5千万フランを彼女に預けて、恋を告白するロベール。
 しかし、彼女は金で自分の気を引くなど情けないとロベールを拒否し、自分の名前すら教えません。
 しつこく彼女を家まで送りますが、着いて早々、彼はまたしても冷蔵庫のビールを気にしています。

 ところが、このようなロベールをドナシエンヌは完全には拒否しないのです。少しは期待するところもあるのでしょうか?

 この家が気に入った(特にキッチンのそばの「椅子」が気に入ったようです。)こと、彼女を束縛しないこと、ロベールは一生懸命に彼女を口説きます。

「君を見つめて乾杯!」
 これは、ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンが共演した『カサブランカ』での有名なセリフですが、ここでドナシエンヌを口説くための言葉としては、滑稽極まりありません。
 アラン・ドロンは、ハリウッドでの成功を目指して渡米する以前、ロミー・シュナイダーと婚約していた時代に、すでにハンフリー・ボガードの映画をくりかえし観て研究し、彼のジェスチャーはすべて記憶していたといいます。
【『ロミー・シュナイダー事件』 ミヒャエル・ユルクス著、平野卿子、集英社、1996年】
ロミー・シュナイダー事件
ミヒャエル ユルクス Michael J¨urgs 平野 卿子 / 集英社





 ボギーからの学習は「フィルム・ノワール」作品では成功するかもしれませんが、この恋愛では通用するはずがないのです。
カサブランカ スペシャル・エディション
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 ロベールは、決して贅沢ではない、しかし幸福であるはずのふたりの日常生活への夢を、一生懸命に語ります。
 ロミー・シュナイダーやナタリー・ドロン、ミレーユ・ダルクなら、ここではアラン・ドロンを理解していたかもしれません。

 そして、ふたりの年齢や雰囲気、自宅での会話の様子などから、このあたりでドナシエンヌ・プジェは、ロベールの妻ではないだろうか、と察することが可能です。

「笑っておくれ マドンナの微笑を」

 ロベールは彼女との生活を強く望んでいるのです。
 しかし、全財産を彼女に渡してしまったことで、逆に反感を買ってしまい、彼女はダンスを踊りにひとりで外出してしまいます。

 酒浸りになり、自己嫌悪に陥るロベール。
 その深夜に、バーで遊んだ男達を家に連れ込むドナシエンヌ。そのなかの一人が彼女の恋人(夫)のようです。
 ここではロベールが、潜在意識のなかで彼女の不貞を確信していることがわかります。

 自宅には茫然自失しているロベールが待っています。
 ドナシエンヌは一人になりたいと泣き、恋人(夫)に連れて行ってほしいと懇願しますが、それを拒否する恋人(夫)。
 ロベールの妻への疑心暗鬼と彼女の悲壮は、彼女の恋人(夫)との関係に象徴されているのではないでしょうか?

 彼らに一旦、家の外に連れ出されたロベールですが、また彼女の家に戻ってきます。ポラロイド・カメラでドナシエンヌの笑顔を撮るというのです。

「君の笑顔を写したい いいだろ 君が笑う日は いつかきっと来る」


 彼女は子供の養育権をとられ、33歳で離婚したのだと彼に打ち明けます。
「笑わないのではなく 笑えないのよ」と・・・。
 彼女は絶望したままなのですが、ロベールはふたりの再出発の決意を変えることはできません。

 むかしから、ロベールは最愛の女を捜し求め、それが彼女だったと言うのです。
「男はむかしから変わらずにその女を愛していたが・・・まだ出会えずにいた どこかに居ると信じ捜していた」
 ロベールは彼女に手を貸すことを望むのですが、彼女の心は冷めていてまたひとりで外出してしまいます。彼は恐らく以前から長く妻を愛してきており、しかしそのことに未だ、しっかりとした確信を持つことができていないのでしょう。

 その日、ロベールの兄と仲間たちが彼を迎えに来ます。
 彼女に出て行かれた彼は放心状態です。そしてまた酒浸りになるのです。

「どんな女か」
という兄たちの問いに

「俺の生命だ」

 よほど、妻を愛しているのでしょう。しかしそのことは彼女に伝ってはいないのです。
 兄たちがここにきた理由は、彼女がロベールを厄介払いしたいから、なのだそうです。

 しかも、彼女は気に入った男を捜しに外出しているというのですから、ロベールの嫉妬妄想は重症です。

 そして、別の男を自宅に連れ込み、彼の世話をしながら
「笑えそう 写真を撮ってほしい」

 しかし、やはり彼女は笑えないのです。

「ここにまだ残りたい」
と懇願するロベール。

「(彼を)連れ出して」
と彼女は言い放ち、彼を連れ出そうとする兄たち。

「おれにかまわないでくれ 椅子を盗んだ奴がいるから 取りかえしてやるんだ! 邪魔するやつは相手になる 女と寝たっていいが ここには座るな」

 彼が猛り狂う様子から、この「椅子」がロベールの夫としての立場を具象化したものだということがわかります。
 ロベールは怒り、兄たちと乱闘にまでなって、近所から苦情が申し立てられます。

 その後、ドナシエンヌの仲間たちも含めて、全員で苦情の出た隣の家に出向きます。
 駆け込んだ隣家で、ロベールは下品なジョークでみんなを笑わせますが、彼女は決して笑いません。
 ダンスを踊っていても放心したようなドナシエンヌ、彼女の無気力の原因が元の恋人(夫)のデュバルに絶望していることと気づき、彼にダンスをするように依頼するロベール。

 だが、デュバルにその申し入れを断られ、いきなり殴りかかるロベールだったのですが、結果は一方的にデュバルにやられてしまうことになってしまいました。彼の嫉妬妄想は、自分への自信喪失も原因のひとつであることがわかります。

 どういうわけか この家の主人はロベールに
「妻と寝ろ」
と指図します。
 にも関わらず、妻を寝取られ嫉妬する隣人。
 この家での居心地がよくなるロベール。
 ロベールの妻以外への女性観が表現されています。

 そして、ドナシエンヌとの出会いを過去のこととし、彼女は裏切った と呟くのです。
「情熱的な売春婦だと思っていたのだが どこにでもいる ただの不幸な女だった」

 隣人は彼女のことを女神だと言います。その証拠がここにいるものたちの多くが彼女と寝たからだと言うのです。
 そしてロベールに妻を寝取られ、あせる隣人は彼女を取り戻すために、ドナシエンヌと彼との間を取り持とうとしますが、すでに彼女はアヴロンシュ夫人になっています。

「ドナシエンヌに会わせたい」
と言い出す隣人、緊迫する婦人とロベール。 
「彼女はたったひとりで・・・深い悲しみのなかで」

 心を動かされるロベール。

「行かないで」
懇願する婦人を置いて、ドナシエンヌに会いに行ってしまうロベール。

 しかし、自宅には彼女はいないのです。
 また、ビールに溺れるロベール。

 娼婦ドナシエンヌとのセックスを、想い出として語るたくさんの人々が登場します。
 帰宅してきたドナシエンヌは彼らと一緒に想い出を語るのです。彼らにとっての彼女の存在、セックスの想い出は、まさに聖女(ミューズ)との邂逅のような出会いだったようです。
 ロベールの妻としての彼女の存在とは若干異なりますが、他人にとっても彼女は娼婦でもあり、聖女でもあるのです。

 このシークエンスは重要です。
 ベルトラン・ブリエ監督が「ヌーヴェル・ヴァーグ左岸派」のエコール、新しいドキュメンタリーの方法を生み出した「シネマ・ヴェリテ(映画=真実)」としての代表作『ヒトラーなんか知らないよ』(1963年)での若い男女たちに討議させたドキュメンタル手法を応用しているからです。
 ベルトラン・ブリエ監督の「シネマ・ヴェリテ(映画=真実)」は、ここでも健在だといえましょう。

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【『アートシアター60号「ヒットラーなんか知らないよ」』(日本アート・シアター・ギルド、1968年)】


 ロベールとドナシエンヌを気遣って、それぞれの帰路に着く人々。
 みんなが帰ったあと、ふたりは愛について語ります。

「みんなの話をどう思ったの」
「愛そのもの」
「愛ってなにかしら」 とドナシエンヌは聞きかえします。
「やすらぎかな 気のおけない人に感じる」 とロベール
「わたしはどうなの?」
とドナシエンヌ

「わからない」
と答えてしまうロベール

 哀しそうなドナシエンヌ。

「飲み過ぎじゃないの?」
 このセリフは、妻が夫をたしなめる常套句でしょう。

「なぜ 飲むの?」
「君は なぜ寝るの?」
「寝たいから」
「本心なのか うわべだけなのか?」
「あんたのビールも飲むふりなの?」

 そして、ビールとセックスで口論になり、またすれ違ってしまうふたり。ドナシエンヌはナイトクラブに出かけてしまいます。
 お気に入りの「椅子」で酔いつぶれるロベール。

 ひとりバーで飲むドナシエンヌ、閉店の時間であるにも関わらず、人を待っているというドナシェンヌ。横でいつもの仲間たちが踊っていることから、待っている相手というのはロベールなのでしょう。
 ロベール自身も、彼女が自分を待ち続けていることは、潜在意識のなかでは理解できているのです。

 今回のロベールは、とうとうナイトクラブまでドナシエンヌを捜しにきます。

 そこで自分の淋しさを吐露するのです。
「優しく愛し合うこともなく このまま別れるなんて あまりに寂しすぎるよ 子供達はどこに居るんだい? 会いたかった」

 ドナシエンヌの心がつかめずに涙を流すロベール、しかしその場からもう彼女は姿を消しています。朝になりドナシエンヌの家に帰ると、そこには別の住人が引っ越してきており、彼女は失踪して行方知れずになっていました。

 もしかしたら妻は、自分のことより子供たちを気にかけている夫に、大きな不満を持っているのかもしれません。
 彼女が夫に子供の養育権をとられている話にも、夫の子供への愛情の強さと自分への愛情の欠如が表わされているような気がします。


 ロベールは花屋を訪れます。
 店舗の奥の部屋の主が冷蔵庫だというのがシュールです。これは、ロベールの心を支配しているドナシエンヌ(花屋)と、彼の生活でのアルコール依存(冷蔵庫)を象徴したものだと思われます。

「古い記憶をたどって 作り上げた空想ですよ 実在の人物か怪しいね あんたの心が描き出したドナシエンヌ・プジェは 浮気な若い女で 喜ばせたり絶望させたり-」
 花屋のおかみさんは、ロベールの悩み方を見かねて、彼女の幼友だちのマリーテレーズ・カローズのことを聞かせます。彼女は雪に閉ざされた寒村の小学校の分校で教師をしているそうなのです。

 彼は早速、彼女を訪れますが、そこでロベールは自分の眼を疑ったでしょう。そこにいたマリーテレーズ・カローズは、捜し求めていたドナシエンヌと瓜二つなのです。
 ロベールは、彼女とその夫から恋煩いで疲弊していることに対して同情を受け、泊まっていくように勧められます。


 部屋に食事を運んでくれたマリーテレーズは、眠れないロベールに付き添ってくれます。
 彼女はドナシエンヌなのでしょうか?

マリーテレーズ 「一等車に旅人がひとり ちょっといい男 名はロベール・アヴロンシュ 失恋したばかりの遊び人風の男 本当に失恋したの?」
ロベール     「そうさ」
マリーテレーズ 「慰めてほしい?」
ロベール     「ありがたいね」
マリーテレーズ 「こちらに置くわ 愛の場面に似合わないもの 特にハーブ茶ではね」
ロベール     「愛の場面があるの?」
マリーテレーズ 「そのつもりよ」
ロベール     「女教師の?」
マリーテレーズ 「いえ 主人公は教師じゃないの 散歩を楽しむだけ」
ロベール     「駅構内を?」
マリーテレーズ 「ええ 時には列車に乗るわ ドナシエンヌ 笑ったことのない女よ」
ロベール     「どうして笑わない?」
マリーテレーズ 「抱いてもらえないから」
ロベール     「どういうことなんだ?」
マリーテレーズ 「男って女より車のほうがいいの 抱くなんて考えない」
ロベール     「俺は違うよ」
マリーテレーズ 「待って まだ車室にも入ってないわ 列車でひとり退屈し 失恋の痛手を悲しむ 私はドアから見るのはやめて中に入る あなたは別れた女を想い まだ気付かない 気付いて愛してくれたら わたしも愛せるわ その女の名は?」
ロベール     「ドナシエンヌ」
 
 やはり、ドナシエンヌはロベールに自分の存在を気づいてほしかったのです。
 ロベールはようやくそのことに気づき、ふたりは優しく抱擁しあうのでした。


 列車での旅から帰ったロベールを迎えに来た兄たちが眠っている彼を起こします。ようやく彼は『夢』から覚め、現実が現れます。

 ロベールの妻は何かの過ちを犯したに違いありません。ロベールの「夢」は常に妻への嫉妬妄想の内容です。妻は淋しさのあまり他の男と不倫の関係を結んだのでしょう。
 兄と彼の仲間たちは、妻の不貞を許せていないロベールを何とか彼女のところに連れ戻そうとします。
「心の底から謝っているよ」

 妻の名はジュヌビエーヌ、果たしてロベールは彼女を許せるでしょうか?

 アパルトマンに入った彼は妻に会う前にまず自分の顔を、廊下の「鏡」に映し出します。

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒』では、実母によって完膚無きまでに自己を否定されたピエールが、苦渋の表情で無神経な彼女と会話をやり取りする様子、つまり彼のその不確実で不安定な存在を「鏡」に映し出したシーンで表現していました。
 ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』では、「鏡」の前でブルジョアに成りきる貧困の青年トム・リプリーを映し出しました。髪を撫であげブルジョア青年フィリップのシャツやジャケットを身にまとって、憧憬している彼に自分を投影したのです。
 ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』では、兄シモーネの借金を返済するため、最も忌み嫌っていたプロボクサーになる決心をするときの絶望の瞬間を鏡に映し出すショットがありました。
 ジョセフ・ロージー監督の『パリの灯は遠く』では、ナチスのパリ占領下で、ユダヤ人クラインと間違われた悪徳美術商の自己喪失者ロベール・クラインが「鏡」に映った自分の姿を放心した表情で見つめるシークエンスが何度もありました。

 「鏡」のなかの自分、虚構としての本当は実在しない自分・・・彼の演じた主人公たちの不安定な心象風景が、これらの「鏡」のシークエンスに浮かび上がっていました。
 絶対に確かなはずの自分という存在が、実はこの世の中で最も不確かな存在であったことに愕然とし、自分とは一体何者なのか?とあらためて自問するときに、人はもう一度自身の姿を確認したいと思ってしまうものなのでしょう。

 過去の「鏡」のシークエンスは、アラン・ドロンが自己喪失した人格破綻者の佇まいを演じるときの古典手法でしたが、「鏡」の前でネクタイを締めなおし、自分の疲れた表情を見つめ直す今回の彼の姿には今までの弱さが完全に克服されているように感じます。
 そこでの彼は、妻ジュヌビエーヌの過ちに対するキャパシティを広げ、彼女との愛の再生・復活のために自分を静かに立て直しているかのようです。


 そして、出迎える子供たちを抱きしめるロベール。

 部屋の窓に映る素晴らしいパリの夜景を背景に、放心したようにソファに座ってTVを観ている妻ジュヌビエーヌ。
 彼女の横に座る夫ロベール。

 不安げで哀しそうな表情の妻が言います。
「待っていたのよ」

 そして、覚悟を決めたのでしょう。彼は妻に問いかけるのです!

「笑えるかい?」

 妻がようやく彼に見せた笑顔。

 その笑顔はまさに百万ドルの笑顔です。
 チャーミングで愛らしい少女のような無垢な笑顔。
 それは、
 ようやく愛する夫が帰ってきた、自分のところに帰ってくれた、自分の過ちを許してくれた、そして、やはり自分は愛されていたのだと・・・至上の歓びが自然に現れた笑顔だったに違いありません。
 優しく、そして激しく抱擁しあう夫婦愛の再生と復活。
 美しいピアノ曲・・・。


 ここには、通俗の「夫婦愛」などというものを超えた「超・夫婦愛」が存在しています。至上の夫婦愛、その愛の歓びによって、再生・復活する中年の男女が表現されているのです。

 アラン・ドロンは美男俳優の代名詞として映画界に国際的なスターとして存在してきましたが、ジャン・ギャバンやジャン・ポール・ベルモンド、ジェラール・ドパルデューに比して、俳優としての限界が大きく、その美貌によって逆に自らの俳優・スターの立場に苦しんできたとも聞きます。

 もしかしたら、女性に対する愛情の欠如が、常に彼の作品に表現されることも、そのためだったのかもしれません。
 しかし彼は、この『真夜中のミラージュ』で、その限界を乗り越え、俳優・スターとして見事な脱皮を果たしたようにも思えます。彼がこの作品でセザール賞主演男優賞を受賞できたのも、なるほど頷けることなのです。
 そして、その受賞の6年後、彼はジャン・リュック・ゴダール監督の演出で、いよいよフランス映画史上における矛盾解消の到達点『ヌーヴェルヴァーグ』を生み出し、しかもその作品でも「愛の再生・復活」をテーマとし、23年前に出演した「内的ネオ・リアリズモ」の巨匠ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』のテーマ「愛の不毛」を完全に超越していくのです。

 そして、わたしは、ここで再度、『もういちど愛して』のワンシークエンスを想起するのです。

>シモン神父
「天使だ わたしの天使」
>リタ
「私を選ぶの」
>シモン神父
「もちろんだ」

 シモン神父の別れた妻に対する素晴らしい愛の告白。

 彼はポール・ムーリス扮する司教に自らの心情を吐露します。

「もうだめです 何か甘美な快感があるのです 嘘じゃありません」

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by Tom5k | 2008-09-15 02:05 | Notre histoire(3) | Comments(18)

『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』②~愛の再生・復活その2 ベルトラン・ブリエ作品評価~

 ベルトラン・ブリエは、「ヌーヴェル・ヴァーグ左岸派」のエコール、新しいドキュメンタリーの方法を生み出した「シネマ・ヴェリテ(映画=真実)」としての代表作『ヒトラーなんか知らないよ』(1963年)を撮った10年後の1973年、多くの男女の奔放な自由で乱れたセックスを描いた『バルスーズ』を完成させます。
バルスーズ
/ レントラックジャパン





 そして、この作品以降の彼の作品のほとんどが、性風俗に関わっての禁忌的な表現やスタイルであるにも関わらず、公式の国際映画祭でのアカデミックな評価、及び映画賞の実績を残しており、その多くの功績には眼を見張ってしまいます。

 妻の不倫に手を貸す夫、その後の妻の恋愛の相手が13歳の少年であり、その子供を妊娠してしまう
『ハンカチのご用意を』(1978年)
1978年第51回アカデミー外国語映画賞。

 リュック・ベッソンが絶賛しているシュール・レアリズムの傑作
『料理はつめたくして』(1979年)
1979年第5回セザール賞脚本賞

 妻に娼婦を連想し、その嫉妬妄想に苦しむ中産階級の男性の無意識を「夢」の表現で描写した
『真夜中のミラージュ』(1984年)
1984年第10回セザール賞脚本賞、及び主演男優賞(アラン・ドロン)

 ホモ・セクシュアルの男性を含む三人の男女の三角関係を描いた
『タキシード』(1986年)
1986年第39回カンヌ国際映画祭主演男優賞(ミシェル・ブラン)
タキシード
/ アミューズ・ビデオ





 美しい妻がいるにも関わらず、他の女性との恋愛に陥ってしまい、最後にはふたりの女性に、相次ぎ去られてしまう男性を描いた
『美しすぎて』(1989年)
1989年第42回カンヌ国際映画祭審査委員賞
1989年第15回セザール賞作品賞、及び監督賞、脚本賞

 娼婦という職業に満足している女性を主人公にした
『私の男』(1996年)
1996年第46回ベルリン国際映画祭主演女優賞(アヌーク・グランベール)。
私の男
/ アップリンク





 愛した娼婦に虚言を信じ込ませて、愛情を得るコメディ作品
『ダニエラという女』(2005年)
2006年第27回セザール賞脚本賞
2006年第28回モスクワ国際映画祭監督賞
ダニエラという女
/ ハピネット・ピクチャーズ





 ベルトラン・ブリエは決して多作ではなく、デビュー作品以降の制作本数を考えると、作品を発表するたびに公式の映画賞を受賞しているといってもいいほどです。

 複数の男女間の奔放なセックス、ホモ・セクシャル、不倫、嫉妬妄想、人妻と少年の恋愛、売春行為の肯定・・・等々。
 それにしても、何故ベルトラン・ブリエは、それらの作品の多くで、このような赤裸々なセックスや決して常識的ではない男女関係、それらの恋愛における葛藤や主人公たちの苦悩などを描き続けるようになっていったのでしょうか?
 しかも、そのような内容であるにも関わらず、彼の作品の多くが権威ある映画祭、映画賞の受賞歴によって、ある種のアカデミズムに導かれているわけですから、たいへん不思議な評価にも思えます。

 1950年代当時、まだ社会主義制度を採っていたソ連邦内で一般化していたソビエト芸術は、「退屈でつまらない」という自国民からの強い批判を受けるようになっていました。
 その批判に対応するように、映画監督のセルゲイ・ゲラーシモフは、1954年12月第2回ソビエト作家大会においての「ソビエト映画のシネマトゥルギー」という報告で、自国の映画芸術の検討課題を問題提起しました。

 彼は、現在の映画のテーマでも中枢をしめている「男女の恋愛」に関わって、当時のソ連邦内での映画表現の欠陥について、強い批判を列挙したのです。
 そして、矛盾も対立もない無葛藤な生活からの人間の性格描写では、新しい芸術が成り立たないとしたうえで、次のような指摘を行いました。

『ゲラーシモフはその次に恋愛描写の貧しさを指摘する。
「スクリーンの上に若い二人があらわれれば、観客は当然恋愛を期待する。事実、映画に恋愛は出てくるが、すべてが何と寒々と千篇一律に解決されていることか。恋愛は、もしそれがほんとうに高いまじめなものであれば、恋人同士に、たがいに心や思想を信じさせ、胸の奥のもっと大切なことを語りあわさせる。恋人たちはたえまなくけんかをし、仲直りする。こうして彼らの性格はたがいに適合しあっていくのである。これらすべてのことは数百万人の愛し愛される人たちの間で行われているのに、いままでスクリーンに生き生きと描かれたことがない。」
もちろん、恋愛描写の技巧が問題なのではない。恋愛をさえ正しく描けないことが、そのまま若い人たちの生活と願望を映画が反映していないことをあらわしているのである。』
【『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】

 そして、これらの指摘事項の内容は、非常に注目に値するものに思えます。
 1980年代、ゴルバチョフ時代のペレストロイカ政策によって、ソ連邦内では「表現の自由」に関わる規制が緩和されて、従来からの公式芸術の体系であった「社会主義リアリズム」への批判も活発となっていきました。
 その後の1991年のソビエト連邦の崩壊から現在まで、東ヨーロッパでもロシアでも、それぞれ独自の芸術活動が模索され活性化していくことになります。

 しかしながら、国際映画製作者連盟が公認している長編映画の祭典であるモスクワ国際映画祭の第1回開催年は1959年で、旧ソ連邦時代から現在まで存続している映画祭です。
 これは、前述した映画監督のセルゲイ・ゲラーシモフが問題提起した第2回ソビエト作家大会が開催された1954年の5年後であり、13年後の第5回モスクワ国際映画祭では、ゲラシーモフ本人の作品『Zhurnalist(ジャーナリスト)』がグランプリを獲得しているのです。

 ペレストロイカ政策以降、ロシアでの社会制度も替わり、芸術運動の方針に関わる制約も無くなったとはいえ、文化史的な蓄積のうえに成り立ち、かつ現在まで存続しているこのモスクワ国際映画祭の権威までもが失墜したと結論してしまうことは、わたしは早尚であると考えます。
 まして、ゲラシーモフの問題提起は社会主義制度の矛盾を突いた指摘内容であったとも考えられ、その理念がソビエト連邦崩壊後の2006年の第28回モスクワ国際映画祭の開催段階に引き継がれていない、とはいえないように思います。

 わたしがこのような意味から関連づけようとすることは、『バルスーズ』以降、恋愛のイデオロギー的な側面、もしくはセックスと社会との同一的課題を豊かに生き生きとした描写で表現し続けたベルトラン・ブリエの映画貢献が、1954年の第2回ソビエト作家大会でのセルゲイ・ゲラーシモフの映画芸術についての検討課題を、結果的に十分に反映したものだったのではないか、ということです。
 彼が『ダニエラという女』での第28回モスクワ国際映画祭の監督賞を受賞できたことも、その遠因のひとつであったとまで考えてしまいました。


 そして彼は、1984年にアラン・ドロンを主演にした『真夜中のミラージュ』を発表しますが、これも最も身近なテーマとしての男女関係の葛藤を強く意識し、恋愛における現代的課題を解決するための一貫した原則を模索した内容の作品なわけです。


 また、アラン・ドロンの運営するアデル・プロダクションで製作された作品であることから考えれば、主演がアラン・ドロンであることは、あまりに当然ではあるのですが、
ベルトラン・ブリエとアラン・ドロンの邂逅に関わっては、その外にも納得できる多くの理由があるようにも思うのです。

 現在ではフランスの大スターであるジェラール・ドパルデューの出世作品となった『バルスーズ』以降、ベルトラン・ブリエは、ほとんどの作品(『ハンカチのご用意を』、『料理は冷たくして』、『タキシード』、『美しすぎて』、『メルシー・ラ・ヴィ』(1991年)、『ダニエラという女』)で彼を起用しており、そのことは国際的な大スターを育てた実績となっていること。
メルシー・ラ・ヴィ
/ ポニーキャニオン





 アラン・ドロンとミレーユ・ダルクが共演した『愛人関係』(1973年)、『チェイサー』(1978年)で監督を務めたミレーユ・ダルクの元の恋人であったフレンチ・アクションやサスペンス、フィルム・ノワール作品の大家ジョルジュ・ロートネル監督の『狼どもの報酬』(1973年)で、シナリオを担当した経験があったこと。
狼どもの報酬
/ 大映





 アラン・ドロンのデビュー作品である『Quand la femme s'en mêle』には、父親ベルナール・ブリエが出演しており、彼と共演していること。

などのことから、アラン・ドロンというスター俳優をこの作品で起用したことは、彼の映画歴から考えても決して不自然なことではなく、むしろ必然的な要因も多くあったような気がするのです。


 更に、アラン・ドロン及び彼の作品においてですが、

 彼のデビューから現在までの多くの作品は、どのような映画体系であっても男女の恋愛を描いたものは少なくはありませんが、残念なことに女性に対してのデリカシーを表現することが決してうまい俳優とはいえず、彼の過去の作品で、『真夜中のミラージュ』のようなデリケートな恋愛を描いた作品は、なかなか思い当たらないのが正直なところです。

 ただ、私見であることを前提にすれば、やはり自らのアデル・プロダクションで製作したジャック・ドレー監督の『もういちど愛して』(1970年)が、唯一この作品と類似したテーマで描かれているように考えられるように思います。

 自分にとってのかけがえのない女性が、自分の手の届かないところに存在せざるを得ない状況設定から、

他の男性との不倫や女性特有の挑発などの相手の女性の過ちに対して、極端な潔癖求めてしまい嫉妬妄想に苦悩しながらも、

その原因が実は自らにあることを理解し、

やがてキャパシティを拡げて恋愛を成就させていく様子

などが描かれている点など、『もういちど愛して』のテーマと根幹のところでは共通であるような気がするのです。

 そういった意味では、両作品とも、現代における男女関係やその環境の典型を比喩的に、しかし誤りなく設定し、かつ定型的で固定されたものではなく、現実を前向きにとらえて、現代に生きる男女を生き生きと描いている素晴らしい傑作だと評価できるのではないでしょうか。


「スクリーンの上に若い二人があらわれれば、観客は当然恋愛を期待する。(~中略~)恋愛は、もしそれがほんとうに高いまじめなものであれば、恋人同士に、たがいに心や思想を信じさせ、胸の奥のもっと大切なことを語りあわさせる。恋人たちはたえまなくけんかをし、仲直りする。こうして彼らの性格はたがいに適合しあっていくのである。」
【セルゲイ・ゲラーシモフ】
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by Tom5k | 2008-08-27 03:04 | Notre histoire(3) | Comments(2)

『ヌーヴェルヴァーグ』④~愛の再生・復活その1 現代思想の実践~

 ドミツィアーナ・ジョルダーノ演ずるエレナが、アラン・ドロン演ずるロジェを溺死させるショットの緊迫感の高まりは、この作品の頂点だと思います。物語の前半からのロジェの苦悩も切実な感情表現でしたが、この船上での二人の罵り合いには極限の緊張感が表現されています。
 わたしはエレナに溺死させられるロジェには強烈な感情移入をして、身震いしてしまったほどです。

 戦後のイタリアで「ネオリアリズモ」が台頭してくるより以前には、リアリズムといえば、ロシアがまだ旧ソ連邦であった時代の「社会主義リアリズム」のことを指すものでした。当時のソ連では、リアリズム作品の基本になる態度として「典型的な環境における典型的な人間を描け」というフリードリッヒ・エンゲルスの言葉がいつでも引用されていたそうです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】

 わたしは、そういった意味で『ヌーヴェルヴァーグ』の主人公ロジェ・レノックスにおいて、彼の環境設定と現代に生きるわれわれの疎外感、そういう意味での彼のアウトサイダーとしてのキャラクターが映画表現として実に典型的であることに注目します。

 さらにゴダール監督はこのロジェ・レノックスに、ルキノ・ヴィスコンティ監督初期の「ネオ・リアリズモ」の歴史的傑作である『若者のすべて』でアラン・ドロンが演じた、ロッコ・パロンディという労働者階級のキャラクターを投影させたとも考えます。
 もし、そうであるならば、それは非常に興味深いことです。

 アラン・ドロンの代表作、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーや、ジョセフ・ロージー監督の『パリの灯は遠く』の主人公ロベール・クラインは、20世紀以降においての映画鑑賞におけるidentification(感情移入・主人公との同一化)が可能なキャラクターだったと思います。
 しかし、わたしは他のブログの投稿によるコメントから、『若者のすべて』のロッコは現代社会においては決して「典型的な人間」ではなく、19世紀より以前のキャラクターであるのではなかという疑問を持つことになったのです。
(ブログ「赤パン帳 (ΘェΘ)2005.10.19 Wednesday 若者のすべて」2006/01/10 6:52 PM、2006/01/10 8:01 PM、2006/01/11 8:13 PMのコメント参照)

 近代以前のドストエフスキーの『白痴』に登場するムイシュキン公爵のキャラクターをモデルにしているとも言われているロッコ・パロンディは、近現代におけるプロレタリアの人物像に当てはめるにはリアルではなく、あくまで比喩的な表現に留まらざるをえなかったのかもしれません。

 そういった意味では、ジャン・リュック・ゴダール監督はこの作品でロジェ・レノックスにルキノ・ヴィスコンティ監督のロッコ・パロンディを超越させようとしたのではないかとも思われます。わたしには、彼が現代においての「典型的な人間」としてのロッコ・パロンディ、すなわちロジェ・レノックスとして描こうとした試みが、ルキノ・ヴィスコンティ監督に対する前向きな意味での批判と挑戦だと感じたわけです。
白痴 (上・下巻)
ドストエフスキー 木村 浩 / 新潮社





白痴
/ 松竹





白痴
/ ビデオメーカー




ナスターシャ
/ ブロードウェイ






/ アイ・ヴィー・シー





皆月 デラックス版
/ ジェネオン エンタテインメント





 そして、ロジェが溺死した後のリシャールとしての再登場は実にセンセーショナルです。
 ここでは、19世紀後期の実存主義哲学者であるニーチェのあの有名な

「この人を見よ」

の言葉と同時に、エレナに挑むような赤のマゼラッティスパイダーで登場します。

「この人を見よ」

というニーチェの言葉は、

「神は死んだ」

すなわち宗教が意味をなさなくなったというニヒリズムを生きる現代人が、現代以降の神に代わる

「力への意志」

により、あらゆる限界を乗り越えるべく存在

「超人(超越者)」

として生きなければならない宿命を象徴しています。

 そういう意味からも、リシャールの何かを確信した自信に満ちた表情での登場は、エレナとトルラート・ファブリーニ家への挑戦的な関わりを予見させます。

 それは、不当で茶番な裁判を受けて不当な量刑を受けた開拓宣教師フランシスコ神父を助けるために、ドン・ディエゴが怪傑ゾロとして登場したことをも超越していたのではないでしょうか?

 この

「ニヒリズム」

においては、すでにロッコ=ロジェを超越するための

「超人」

の思想が貫かれており、今の若い人たちの使っている表現を用いれば、リシャールは「超ロッコ」であり、また「超ロジェ」として登場したのです。彼の個性は全て、ニーチェの思想によりロッコ=ロジェから解放されたことにより確定されているように感じました。
 恐らく、ゴダール監督のニーチェの引用は、特にロッコの聖人のようなキャラクター、つまりプロレタリアが宗教から解放されることをも、意識したものであったはずです。

 さらに、リシャールは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』で、アラン・ドロンが演じた青年ピエロをモデルにしていると思われますが、モニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアの

「ニヒリズム」

に巻き込まれた彼の「沈黙とあきらめ」が、リシャールには皆無です。ここでも、ニーチェの思想である、あえて

「ニヒリズム」

を生きることで、

「ニヒリズム」

を克服しようとする

「永劫回帰」

の思想が貫かれているのでしょう。
この人を見よ
ニーチェ F.W. Nietzsche 手塚 富雄 / 岩波書店





 このことも、ジャン・リュック・ゴダール監督特有の「新しい波」としてとらえることが可能であることのような気がします。
 しかも、それは「社会主義リアリズム」の時代に定義されていた20世紀以降の「典型的な人間」の型であることを彼は忘れていないのです。映画のラストシーンで楽しそうにジャンプするリシャールは、未来に展望のない虚無的な無気力に到達してしまったピエロを超越したキャラクターであり、さらに「超ピエロ」へと進歩しているのです。

 特に、ハワード・ホークス監督の『脱出(『持てる者と持たざる者へ』 アーネスト・ヘミングウェイ著)』からの引用は、ロジェからリシャールへの脱皮を象徴させています。
「死んだ蜂に刺されたことがありますか」
とユベール・ラヴェル演ずる運転手ロラン・マルセルは聞きます。『脱出』で引用されているのは、ローレン・バコール演ずるマリーとウォルター・ブレナン演ずるエディとの会話です。
【参考~『ヌーヴェルヴァーグ』DVD解説書】

「死んだ蜂は刺す?」
ロジェの1度目の答えは
「何のことだ」
ですし、2度目は
「さあね」
です。

リシャールの回答はテンポよく、『脱出』でエディとマリーが意気投合したように

リシャール「経験か?」
ロラン「裸足で歩くと」
リシャール「刺される」
ロラン「ただし」
リシャール「憤死した場合」
ロラン「そう」

 最後のロランの
「別人だ」
という言葉は、ロッコやロジェ、そしてピエロをも超越してしまったリシャールに対する歓喜の表現だったのでしょう。
脱出 特別版
/ ワーナー・ホーム・ビデオ






 エレナのキャラクターですが、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の『裸足の伯爵夫人』のエヴァ・ガードナーが演じたエレナ・トルラート・ファヴリーニ伯爵令嬢からの名前を継承しているそうです。作中の彼女はマドリードのジプシーの踊り子から映画スターとなり、トルラート・ファヴリーニ伯爵と結婚し、伯爵夫人となりますが、最後は悲劇の死を迎えます。『ヌーヴェルヴァーグ』でのエレナもやはり、リシャールにより死を迎えますが、同じリシャールにより救われ、再生して愛を得るのです。
【参考~『ヌーヴェルヴァーグ』DVD解説書】

 リシャールの超越は、

「力への意志」

によって、エレナの愛までも

「超人」

化させることが可能であったといえましょう。
裸足の伯爵夫人
/ 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン






 1954年12月ソヴェート作家大会で、セルゲイ・ゲラシーモフの「ソヴェート映画のシネマトゥルギー」の報告のなかで、人間の性格の描き方の貧しさ、特にその恋愛描写の貧しさが指摘されています。恋愛を類型化し過ぎて、膠着させてしまった当時の「社会主義リアリズム」の傾向を批判したものです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年】

 現在でもそれは、欧米、日本及びアジア各国などの先進諸国の映画やTVドラマにおいて、「ロマンティック・ラブ」という類型的で膠着しきった短絡の描写がほとんどであり、実に危険な風潮といえましょう。ここには恋愛の困難を単純化したマインド・コントロールともいえる、いわゆる「素敵」な恋愛表現が蔓延しています。

 『ヌーヴェルヴァーグ』では、
「男は女にとって不足か過剰かのどちらかである」
という言葉が繰り返され、女性の特質が男性の側から理解されています。前述したセルゲイ・ゲラシーモフの発言のひとつである
「恋人たちはたえまなく、けんかをし、仲直りする」
はずであるという意味での表現が、その原則の通りに描かれていると感じました。

 レノックスとエレナはたえまなく、けんか(どころか、たえまなく、殺し合い)をし、愛を再生・復活させます。ここでも現代社会での男女の複雑な恋愛感情を直視した『太陽はひとりぼっち』のピエロとヴィットリアの「愛の不毛」として描かれていた恋愛ニヒリズムを克服しています。
 しかも、この二人は、殺し合うという極端な比喩表現ではあっても、膠着した類型で描かれておらず、現代以降における恋愛関係にある男女、すなわち「典型的な環境における典型的な人間」として描かれているのです。


 映画での数学の引用は、古くはジャン・ルノワールの名作『ゲームの規則』が、それだとわたしは思っています。
 ゲームにおいての競技者による複数の駆け引きや戦略、配分利益などの行動に関する理論を展開させたハンガリーの数学者J・フォン・ノイマンの「ゲームの理論 theory of games」が、ストーリーのプロットに象徴されているような気がするからです。

 また、アルフレッド・ヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』でも、主人公であるガイの殺人容疑のアリバイを立証できる唯一の証人である大学教授が、酔っぱらって、彼と会っているときのことを憶えていないという場面がありました。その教授が泥酔しているときに「関数が与えられれば微分が求まる」などの時間と空間の概念から、アリバイ立証を比喩したセリフを使用していました。

 ジャン・リュック・ゴダール監督も『ヌーヴェルヴァーグ』では、数学の比喩を使用しています。
「集合Eの代数構造の定義Eにおける任意の元XとYに関数XYを対応させる合成規則を定める」
 集合の定義は「明確に区別できるものの集まりで、あるものが与えられたとき、その集まりに含まれているかどうかを確定できるもの」というものです。ここでは、資本家のエレナ、貧乏な給仕、ブルジョワに仕える庭師、作家ドロシー・パーカー、弱いロジェ、実業家リシャールなどの現代社会を象徴する人間たちの集合のことでしょう。 
 代数構造の定義からは、方程式の構造のことですから、集合Eのなかのどの二つの要素すなわち、任意の元XとYに対して、(X×b)や(Y×b)においてもEの要素として決まるこのEを群であるとしたガロアの理論が思い出されます。

 任意の元XとYに単位元bを対応させ、このbが、XとYの影に隠れて見えないものとして、ランボーの言葉である「もう一人の他者」を比喩したのではないかと考えました。それはレノックスとエレナの愛と同一の根源である愛であり、レノックスの語る「僕は僕以前にひとりの人間だ」というその悲痛な叫びが「ひとりの人間」であるという「単位元」なのだと考えました。
 関数XYを対応させる合成規則とは、合成関数のことでしょうか?Y=f(x)によってYがxから決まり、X=g(y)によってyからXが決まっているとすれば、ラストシーンの二人の愛の成就としての関数XYの合成規則であり、これによりレノックスとエレナの愛を関数XYとして、愛の再生・復活を比喩したと考えられます。

 この『ヌーヴェルヴァーグ』では、ロジェ(リシャール)・レノックスとエレナ・トルラート・ファヴリーニの破綻すべく愛情の再生と復活を、最も大きなテーマの主軸として展開させているのです。


【フランスの映画理論は、1919年に、ルイ・デリュックが、これこそ映画の本質であると称してフォトジェニーphtogenieという言葉とその概念を提出したときに、さらに一歩を進めたものと信じられている。(~中略~)それは「映画的再現によってその精神的特質を増すところのすべての事物、生物、及び魂のすべての面」として定義された。】

 その後、映画批評家であり、音楽批評家であったエミール・ヴュイエルモーズは「影像の音楽」という論文で、映画を「光のハーモニゼーションとオーケストレーション」と定義づけ、映画と音楽との親しい関係を、人間の視神経と聴神経は同じ振動の機能を持っているために、同じ理論的な前提を持つとしたのです。

 また、レオン・ムーシナックという映画批評家が、通俗的な劇映画である「叙事的映画」ではなく、「映画詩」という体系から、画面、シナリオ、演出、フィルム、編集においての「フォトジェニー」を具現化していった視覚的なリズム、影像のリズム等の「リズム」とういう概念の重要性を論じました。

 これらはその後、「フランス印象派」と同時期に活躍していく「アヴァンギャルド」という前衛的映画体系に大きな影響を与えていきます。それにより、ルネ・クレール、フェルナン・レジェー、ワルター・ルットマン、ルイス・ブニュエル、クロード・オータン・ララ、ジャン・グレミヨン、ヨリス・イヴェンス、マン・レイらがフランス映画界に輩出され活躍していくのです。
【参考~『映画の理論』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1956年 【 】内は引用】

 ゴダール監督の「水と新緑と光」の描き方は、前述した「フォトジェニーからリズム」の基調を原則とした古典的手法であると感じていますし、『ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)』という作品名にも「フォトジェニーからリズム」への概念が集約されているような気がします。

「草はわたしにおいてあり、わたしなくしてないのか」

という言葉はジャック・シャルドンヌの引用であると『ヌーヴェルヴァーグ』のDVD解説書にありますが、わたしは、これは大陸合理論の哲学者ルネ・デカルトが称えた「方法的懐疑論」の

「われ思う故にわれあり(コギト・エルゴ・スム)」

が意識されている言葉だとも思えました。
 作品テーマのひとつである、人間の自己の分身への投影、すなわち「新しい波」とも重なり合うテーマのような気がしているのです。そして、それは『パリの灯は遠く』でのクラインのユダヤ人クラインを追い求めて破滅した展開を、やはり前向きに捉え、「自分と他とのあいだにある同じものと違うもの」という両面を踏まえ、一人称としての存在である人間の主観が、実は共同社会への働きになるというデカルトの思想を「水と新緑と光」と言う自然界にまで拡げて応用した言葉だと思います。
方法序説
デカルト Ren´e Descartes 谷川 多佳子 / 岩波書店






「イメージ上の時間は視界の外。存在と時間は違う。光は存在と時間を超え永遠に輝き続ける」

という言葉も印象的です。これは恐らく実存主義哲学者ハイデッガーの「存在と時間」を意識しているように思います。
 つまり、他の存在者への配慮と交渉のなかで生きている世界内の存在である現代人は、例えば『パリの灯は遠く』のロベール・クラインのように自己自身を見失いがちで、平均的で無責任であり、主体性の欠落が一般化しています。われわれ現代人は、いつでも不安が多く、限りある存在として、自分以外の者との主体的な在り方を取り戻すことが容易ではない状況をつくり出してしまいました。ゴダール監督はそれを取り戻すため、つまり現代においての愛の昇華の可能性を達成させるために、エレナとロジェそれぞれに死を直面させることによる

「ニヒリズム」

を描いたのでしょう。
存在と時間
ハイデガー Martin Heidegger 原 佑 渡辺 二郎 / 中央公論新社






 このように、ゴダール監督の作品は前衛的でありながらも、映画の手法、学問の引用などには新しいものが少なく、もう古くなってしまった「実存主義」などの現代思想を応用して「現在」における「再生と復活」を描いているように見えるのです。

 彼は真実を求めるために、古きを訪ねて「新しい波」を創作する=温故知新=の映画作家であるとわたしには感じられるのです。
 その古典も「新しい波」であることに変わりはないのです。アラン・ドロン、そしてニーチェもハイデッガーも・・・。
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by Tom5k | 2006-02-26 19:34 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Comments(10)