『サムライ』⑥~アラン・ドロン、スターとしての古典的個性とその究極のダンディズム~

 アラン・ドロンが主役級のスターになったのは、映画出演3作品目、ミッシェル・ボワロン監督の『お嬢さん、お手やわらかに!』(1958年)からです。
 それ以降、ジャン・ギャバンと互角に共演した1962年の『地下室のメロディー』が、彼の初めての「フレンチ・フィルム・ノワール」での主演作品でした。
 その後1964年に、MGMの『さすらいの狼』、同年、ハリウッドに渉って『泥棒を消せ』など、アメリカ資本の「ノワール」系の暗黒街映画などでの主演歴があります。

【>アラン・ドロン
(-略)アメリカ移住は私には問題外だったね。私を説得しようと連中はあれこれしてくれたが・・・『泥棒を消せ』では妊娠してた妻が出産するまで(撮影を)待っていてくれた、連中が言うように私が”クール”であるためにね。素晴らしい家も用意してくれていたんだ、でも3週間もすると、私はパリへ電話して、半べそかいて、鬱状態だった・・・その後すぐさまフランスへ戻って来てしまった。だからアメリカは私にとってキャリアの選択じゃなく人生の選択なんだ。行きつけのビストロや自分のパンが必要なんだ、世界一のスターにならないかと言われるよりも重要なことだよ。それでもスターとしてアメリカで6,7本の映画に出演した。成功したとは思わないよ。アメリカで成功を収めた欧州の人間は少ないよね。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/27 「回想するアラン・ドロン:最終回(インタヴュー和訳)」

【>アメリカでキャリアを築こうとは思わなかったのですか?
>アラン・ドロン
それはキャリアの選択じゃなく、人生の選択だ。アメリカでは生活できない。死ぬほど退屈してしまったよ!パラマウントのお偉いさんのボブ・エヴァンスに住んでみろと言われたんだがね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/26 「回想するアラン・ドロン:その9(インタヴュー和訳)」

 彼は1966年にハリウッドから帰仏して、青春賛歌の映画詩『冒険者たち』でフランス映画界に返り咲き、いよいよ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家として有名だったルイ・マル監督の演出で、エドガー・アラン・ポーの古典文学のキャラクターであるウィリアム・ウィルソンを演じました。

 見事なフランス映画復帰の二作品でしたが、更に三作品目の1967年制作『サムライ』で、ジャン・ピエール・メルヴィル監督に巡り会うことになり、彼らはこの作品で「フレンチ・フィルム・ノワール」としての極限的な美学を生み出すことになります。
 この作品は、1960年代から、1970年代に架けて、アラン・ドロンがスターとしての全盛期を迎えるキャラクター、特に「フレンチ・フィルム・ノワール」でのギャング・スターの個性を確立した作品となりました。

 商業ベースにあっても、映画芸術の視点からであっても、「ヌーヴェル・ヴァーグ」以降の新しい作家主義の系統を内包しているジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出した作品でありながら、1930年代のワーナー・ブラザーズ一連のプログラム・ピクチャーであった「ギャングスター映画」や、1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」、自国における1930年代以降「詩的レアリズム」のノワール的傾向の伝統、1950年代以降に確立されたセリ・ノワール叢書を原作とする「フレンチ・フィルム・ノワール」など、アラン・ドロンが得意とする伝統的で古典的な題材を包含した作品となりました。

 この前作に撮ったルイ・マル監督の『ウィリアム・ウィルソン』も同様でしたが、旧来からの古典的な映画要素・題材によって、新しい時代「ヌーヴェル・ヴァーグ」以降の演出手法や「ヌーヴェル・ヴァーグ」のキャスト・スタッフで作品を制作する傾向はアラン・ドロンの作品の特徴ともいえます。語弊があるかもしれませんが、新しい映画人を旧来の古き良き時代の映画に挽きづり込んでしまうことを、これほど上手にやり遂げてしまうアラン・ドロンの我の強さには驚かされます。

 ルイ・マルやジャン・ピエール・メルヴィル以外にも、『ボルサリーノ』でのジャン・ポール・ベルモンド、『個人生活』でのジャンヌ・モロー、『フリック・ストーリー』でのジャン・ルイ・トランティニャン、『チェイサー』でのステファーヌ・オードラン、『真夜中のミラージュ』でのナタリー・バイ・・・そして、『ブーメランのように』でのジョルジュ・ドルリュー、『私刑警察』でのラウール・クタールや『ヌーヴェルヴァーグ』でのジャン・リュック・ゴダールでさえも・・・。
 もちろん、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちからしても、その全盛期以後も映画創作の手法を常に模索し続け、旧世代の映画の特徴を採り入れることにも成功していますし、各人とも「ヌーヴェル・ヴァーグ」を脱皮した以降に、アラン・ドロンと巡り会っているのかもしれません。
 新・旧映画人たちは、どちらがどちらに影響を与えているのかという判断も極めて難しいところですので、一概に決めつけることは危険ですが、彼らがアラン・ドロンと組むと、一作品の中に、新しい映画の傾向と古い映画の傾向が同時に存在することになり、その結果として、生き生きとした躍動感を生み出す作品になっていることだけは間違いのないことのように思います。

 思えば、アキム兄弟がプロデュースした『太陽がいっぱい』で、旧世代のルネ・クレマンと「ヌーヴェル・ヴァーグ」のアンリ・ドカエ、ポール・ジェコブ、モーリス・ロネが組んだことなども、アラン・ドロンというスター俳優及びプロデューサーとして、後々の映画人としての生き方に大きな影響を与えていたのかもしれません。

 繰り返しになりますが、アラン・ドロンが製作・出演している作品は、一貫して作品の傾向もクラシカルですし、古いタイプの映画的題材を扱うことが多かったように思います。
 例えばそれらは、剣戟や西部劇などのエンターテインメントであり、ウィリアン・ウィルソンやゾロのような古典キャラクターであり、犯罪者、ギャング・殺し屋・逃亡者の死の美学であり、刑事事件のスリルとサスペンスであり、それらのアクションであり、メロドラマの悲劇性であり、レジスタンスの反骨精神であり、リアリズムの叙事詩、映画芸術であったのです。

【ベルモンドは人気スターで、ドロンはスターそのものである。2人は警官やならず者だったのだ。(-中略-)一方はほとんどフランス国内にとどまり、もう一方はかなりの国際派で、イタリア人の貴公子の役や、アメリカ西部の殺し屋の役や、コンコルドのパイロットの役も、ごく自然に似合う俳優だ。】
【引用 『フランス恋愛映画のカリスマ監督 パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー』ジャック・ジメール著、計良道子訳、共同通信社、1999年】

パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー フランス映画のカリスマ監督

ジャック・ジメール / 株式会社共同通信社



【>アラン・ドロン
(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。
(-略-) 
>アラン・ドロン
(-略)人に仕返ししてやろうと思ったこともないし、自分のやり方で自由にやって来ただけなんだ。私が間違っていたと言ってもらいたいが、今になって変わる必要もないだろう?でシネマテークが何かを変えてくれるという発言だったが、私はそんな事はどうでもいいよ!もうだいたい遅過ぎるんだ。もっと前に言ってもらいたかったな。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 『真夜中のミラージュ』や『ヌーヴェルヴァーグ』でさえも、その制作時期においては、すでにセンセーショナルな新しい映画としてではなく、映画史での体系では、安定感のある確実な実績のうえに制作された作品でした。
 ジャン・リュック・ゴダールやベルトラン・ブリエの作品においてさえ、アラン・ドロンは、フランソワ・トリュフォーによって侮蔑されていた「パパの映画 cinéma de papa」の俳優だったのです。

 また、「私が間違っていたと言ってもらいたい」、シネマテークの影響力について、「もっと前に言ってもらいたかったな。」という彼の発言には、自分自身のスター俳優としてのスタイルを、「新しい映画」の俳優として改変する機会を持てなかったことに対しての過去の実績に対する複雑で微妙な心情が垣間見えるように思え、これは、彼にしては極めて貴重な発言であり、珍しい心情吐露ともいえましょう。

 確かに、アラン・ドロンというスター俳優が、最も活躍していた1960年代から1970年代に、「ヌーヴェル・ヴァーグ」が・・・シネマテークが・・・カイエ・デュ・シネマ誌が・・・彼に何かを働きかけたでしょうか?恐らくそんなことなど、ほとんどなかったように思います。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」からすれば、彼は、ただ単に、商業映画の二枚目ギャング・スターであっただけでしょうし、一般的にもフランスの暴力団組織に関与している黒い噂を持つ危険で超人気の、しかし二流・三流のスター俳優でしかなく、新しい映画芸術の体系においては、完全に無視され続けていた俳優であったように思うのです。

 「ヌーヴェル・ヴァーグ」専門の映画評論家である山田宏一氏によれば、アラン・ドロンが、ようやく巡り会った映画作家ジャン・ピエール・メルヴィルに関してさえ、
【自らは『サムライ』から『リスボン特急』に至る「アラン・ドロン映画」のお抱え監督になり、かつての「メルヴィル映画」-撮影所システムやスター・システムを根底から否定したロケーション主義、低予算映画というヌーヴェル・ヴァーグのさきがけとなった真の「作家」の映画としての「メルヴィル映画」-の神話を商業主義の場にあっさりと葬ってしまったような感じだ。】
【引用『わがフランス映画誌(「ヌーヴェル・ヴァーグ」の項)』山田宏一著、平凡社、1990年】

わがフランス映画誌(1990年)

山田 宏一 / 平凡社



などと揶揄していますし、ジャン・リュック・ゴダールに関してでさえ、
【ジャン・リュック・ゴダールは『ヌーヴェルヴァーグ』という題名の映画を撮って、みずから「失敗作」と断じた。】
【引用『友よ映画よわがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、平凡社、1985年】
と出典あるいは詳細を示さず、中傷的な結果のみで記述しています。

増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (平凡社ライブラリー)

山田 宏一 / 平凡社



 それはともかく、アラン・ドロンが、この『サムライ』に出演したことは、彼にとってもフランス映画界にとっても、計り知れない価値を生み出したと、わたしは考えています。

 アラン・ドロンは、この作品で初めて、ソフト帽とトレンチ・コートを身につけ、職業的犯罪者に扮したわけですが、特にこの作品での彼のハード・ボイルド・スタイルについて検証してみると、
アラン・ドロンは、デビュー以来、『冒険者たち』までの作品で、どのようなペシミスティックで暗鬱なテーマの作品であっても、例え、それが『太陽がいっぱい』のトム・リプリーであっても、その一作品中には笑顔の似合う優しい好青年の要素を持ったアイドル的スターの側面を垣間見せていたようには思います。

 しかしながら、この『サムライ』では、その表情そのものが無と化し、それがアクションによって構成されているショットでさえ、主人公ジェフ・コステロの行動様式は静的で虚無そのものを表現するものとして昇華されています。
 思えば、前作の『ウィリアム・ウィルソン』も、爽やかな好感の持てる主人公の表情など、どのワン・ショットにおいても必要としない作品でした。彼のその犯罪性向者としてのキャラクターの魅力は、過去のルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーやクリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』の主人公の兄ギヨームから継承され、ルイ・マル監督によって、この作品で純化されたのかもしれません。

 また、『黒いチューリップ』での粗野な強盗としての悪徳のキャラクター、『太陽がいっぱい』や『ウィリアム・ウィルソン』での犯罪性向者のキャラクターは、人格の破綻者か、兄弟に比喩した表裏の二重自我として設定されていましたが、それは欲得にまみれたサディスティックな主人公の個性と合わせて、極端に良性の人格も一作品内において同時に演じてもいたのです。

 ところが、『サムライ』で表現されている主人公ジェフ・コステロのダンディズムは、そのような典型的な犯罪者の性向とも異なり、同じくジャン・ピエール・メルヴィルが演出した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品『いぬ』で、ライバルであるジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公シリアンの人間的、かつファッショナブルなキャラクターとも異なるものでした。
いぬ
/ アイ・ヴィー・シー





 それは、主人公ジェフ・コステロの行動様式そのものが、冷徹で折り目正しく、自らの規範に潔癖に従い、その清貧の思想を誇るものとして表現されているからなのです。わたしは、このアラン・ドロン独自のスタイルとも言えるダンディズムに、
「精神主義やストイシズムと境界線上にある自己の崇拝する方法で独創性を追求する態度、改革期が終わってすぐの反封建的な風習の残っている時代に現れる退廃期の英雄主義。」
と、定義付けた「悪の華」の詩集で有名なフランスの詩人シャルル・ボードレールの言葉を思い起こすのです。
悪の華
ボードレール 堀口 大学 / 新潮社





 「ヌーヴェル・ヴァーグ」に一新されたフランス映画界において、その先駆でありながらも、旧来の映画ジャンル「暗黒街映画」を残存させたジャン・ピエール・メルヴィル監督は、アラン・ドロンに旧世代からの伝統的キャラクターを継承させ、彼の映画スターとしての英雄的イデオロギー、そのオーラを、『サムライ』での暗黒街の主人公ジェフ・コステロを通して最大限に発光させました。

 アラン・ドロンは『サムライ』以降、「暗黒街での一匹狼」というある種の伝統的キャラクターを継承しながらも、現代的なアンチ・ヒーロー的ヒーローとしてのキャラクターをも確立していきました。

 恐らく、彼は「ヌーヴェル・ヴァーグ」が終わってすぐの時代に、僅かではあっても、旧世代の作風が残存できることの可能性を信じ、新時代以降に究極のダンディズムによって、したたかに、たくましく、時代に抗っていったのだと思うのです。
 その彼のダンディズムの根底に想いを馳せたとき、わたしは、その反骨の志に、いつものように手前勝手に感動してしまっているのでした。
[PR]

by Tom5k | 2010-08-24 02:25 | サムライ(6) | Trackback | Comments(2)

『黒いチューリップ』②~「幻想映画館」伝統的キャラクター・アクター その3~

 当ブログ記事では、わたしのブログの盟友オカピーさんとの対話『アラン・ドロンについて』⑤~伝統的キャラクター・アクター、二重自我の魅力 オカピーさんとの対話から~などを代表に、アラン・ドロンのスターとしての要素が映画のスター・システムの発祥期からの伝統的なキャラクター・アクターであることは、もう何度もテーマとして取り上げてきたところです。

 DVD『太陽がいっぱい スペシャル・エディション』での特典映像『「太陽がいっぱい」とアラン・ドロンの世界~アラン・ドロン:インタビュー集~「3 カンヌ国際映画祭でのアラン・ドロン」』には、1961年5月13日にフランス国営テレビ「RTC」が放映したニュース映像が収録されています。これは、1961年5月3日~18日の第14回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で、アラン・ドロンとルネ・クレマン監督との第2作品目『生きる歓び』を出品した際のレッド・カーペットでの様子を撮影したものです。
 ここでは、当時のルネ・クレマン監督、共演したバルバラ・ラスとともにアラン・ドロンが紹介されており、更には、イタリアの超美人女優ジーナ・ロロブリジダの映像紹介や、ナレーションにおいてのみでしたが、ジャン・ポール・ベルモンドと共演したヴィットリオ・デ・シーカ監督の「ネオ・リアリズモ」作品『ふたりの女』でカンヌ国際映画祭の女優賞を受賞したソフィア・ローレンなども紹介されています。
 ヨーロッパを主戦場に活躍していた俳優においても、人気スターとしての地位を確立していた当時の時代背景がよくわかります。

クラシック名画シアターVOL3 ふたりの女+キング・ソロモン [DVD]

ケーエヌコーポレーションジャパン



【男性はフランス人のアラン・ドロンが人気です。
彼の才能はすばらしくフランス人の誇りです
アラン・ドロンは まだ若いが-50才を待たずともダルタニアンを演じられる俳優です
映画祭は品格や教養のある市民のお祭りです
今宵 上映される映画は彼にとって
カンヌの英雄の座を手にする作品となるでしょう】
【ニュース映像解説ナレーションより】

 このニュース映像の解説から、わたしなどは遂々・・・ジェラール・フィリップ、ジャン・マレエ、ジョルジュ・マルシャルなどの王党派の三銃士に加えて、若きアラン・ドロンがダルタニアンとして颯爽と登場・・・などと、また、勝手な妄想に走ってしまうのですが・・・しかし、どうでしょう!このように考えただけでワクワクしてくるのは、わたしだけなのでしょうか!?

 この頃のアラン・ドロンの出演作は『生きる歓び』(1961年)で8本目、翌年の第15回カンヌ国際映画祭での特別審査員賞 (Special Jury Prize)受賞の『太陽はひとりぼっち』(1961年)で10本目でしたが、まだ、13本目の出演作『地下室のメロディー』(1962年)で、ジャン・ギャバンと巡り会ってはいませんでした。
 当然のことながら、1967年以降の、ジャン・ピエール・メルヴィル監督やジョゼ・ジョヴァンニ監督などの「フレンチ・フィルム・ノワール」の世界を知る前の若い頃の彼だったわけですが、わたしは、このニュース解説のような一般的な評価でのアレクサンドル・デュマ原作『三銃士』の主人公ダルタニアンの例示には一考を要する必要性を感じました。

 この時代は、まだ「ヌーヴェル・ヴァーグ」の諸派が古い映画、いわゆるフランス映画の「良質の伝統」を否定する最盛の少し前、その過程の時期にあったわけですが、このようなTVニュースで、名優としての必須要件の例示に『三銃士』のダルタニアンが挙げられていることなどからも、まだこのようなアカデミックな祭典・催事にまでは、その攻撃力が及んでいなかったと察せられます。

 近年における『三銃士』の映画化については、1993年にその冒頭の部分を映画化したウォルト・ディズニー作品、スティーブン・ヘレク監督の『三銃士』、その後半部の『鉄仮面』を映画化した1998年ランダル・ウォレス監督のレオナルド・ディカプリオ、ジェレミー・アイアンズ、ジェラール・ドパルデュー、ジョン・マルコヴィッチ、アンヌ・パリローなどオール・スター・キャストの『仮面の男』、1996年にはベルトラン・タヴェルニエが監督したダルタニアンをフィリップ・ノワレが演じ、その愛娘の女性騎士をソフィー・マルソーが演じた『ソフィー・マルソーの三銃士』などがあります。

三銃士 [DVD]

ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント



仮面の男 [DVD]

20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント



ソフィー・マルソーの三銃士 [DVD]

日活



 『三銃士』は、古くから数え切れないほど何十回も映画化されてきましたし、1950年代にはいわゆる「剣戟(けんげき)映画」の名称で、ハリウッドでもヨ-ロッパでも量産された娯楽活劇の体系に位置づけられる作品です。

 わたしのお気に入りブログ【koukinobaabaさんが運営する『Audio-Visual Trivia 鉄仮面 The Iron Mask (1921)』】には、素晴らしい『鉄仮面』の記事があります。

「一人は皆の為に、皆は一人の為に(un pour tous, tous pour un.)」
 アレクサンドル・デュマの『三銃士』の主題ともいえる有名な銃士の合い言葉です。

 言うまでもなく、アトス、ポトス、アラミスの三銃士とダルタニアンの物語は、王政側の英雄譚です。

 アラン・ドロンは、このカンヌ国際映画祭のレッド・カーペット初登場の2年後の1963年、ブルボン王朝時代のルイ13世、14世に仕えた王党派の銃士が活躍した時代背景とは全く逆の、ルイ15世、16世をギロチン送りにした革命派共和党の騎士が活躍するフランス革命期を舞台にした『黒いチューリップ』で主人公を演じました。

 王家のために仲間達と一致団結して現王朝に忠誠を誓う忠君の騎士像ではなく、現行の政権から外れ、悪漢としてしたたかに生きるアウトローや、現政権を否定し新しい共和の時代に望む若々しいヒーローを演じたアラン・ドロン、実にそのキャラクターが良く映える設定での主演作品でした。
 彼にとっては、革命派の騎士、あるいは仮面の義賊という裏表の二重自我を、一人二役の兄弟で演じたことは、『太陽がいっぱい』でブルジョア青年フィリップ・グリンリーフを演じることを拒み、貧困から犯罪者となる青年トム・リプリーへのキャスティング変更を申し出た逸話と同様、実に納得できる結果となったのではないでしょうか?

 また、当時のフランス映画の正統で伝統的な「剣戟(けんげき)映画」において、アラン・ドロンの二面性の魅力を見出すことができたという点で、映画史的にも着目すべき特徴を持つ作品になったと、わたしには思えるのです。


 実はアレクサンドル・デュマの原作『黒いチューリップ』は、こういった騎士道物語とは程遠く、黒色のチューリップ栽培に生涯を賭ける貧しい宮廷園芸家の物語であり、騎士道物語としてのアレクサンドル・デュマの作品は、あくまでも『三銃士』、その関連作品のみでした。

三銃士 (岩波文庫)

アレクサンドル・デュマ / 岩波書店



ダルタニャン物語〈第10巻〉鉄仮面

A. デュマ / ブッキング



黒いチューリップ (創元推理文庫)

アレクサンドル デュマ / 東京創元社



 映画『黒いチューリップ』の脚本は、フランス映画の旧世代作家のアンリ・ジャンソンです。アレクサンドル・デュマの原作『黒いチューリップ』の要素など欠片も見当たらず、彼と「詩(心理)的レアリスム」第二世代であるクリスチャン・ジャック監督のオリジナルに近いものであり、いわば、原作からは表題と時代設定のみしか引用していないのです。
 しかしながら、わたしには、アラン・ドロンの正統的でありながら、かつアンチ・ヒーロー的である一見矛盾に満ちた個性を、『三銃士』後半部の『鉄仮面』での仮面の騎士と彼らの双子の運命などの設定を借用して統一したようにも感じられたのです。
 この作品を、痛快「剣戟(けんげき)映画」に衣替えするために、アレクサンドル・デュマという作家のもう一つの原作であった銃士の逸話をモティーフの一つとして意識したのであれば、そのユニークな着想は、実に映画的で柔軟な発想だと言えましょう。

 また、それは1930年代から50年代に駆けて、ダグラス・フェアバンクス、タイロン・パワーやエロール・フリン、フランスでは、ジャン・マレーやジェラール・フィリップなど、典型的なスター・システムのなかで量産されていった象徴的な娯楽映画のジャンルでした。
 例え、それが王党派の騎士物語であろうと、革命派のそれであろうとも・・・「ヌーヴェル・ヴァーグ」さえ台頭しなければ、アラン・ドロンは彼らの後継者として、1960年代のフランス「剣戟(けんげき)映画」の大スターの代名詞ともなり得たかもしれないのです。

三銃士 [VHS]

アイ・ヴィ・シー



鉄仮面 [VHS]

アイ・ヴィ・シー



エロール・フリン シグネチャー・コレクション [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ



名作映画3枚組み タイロン・パワー [DVD] FRTS-022

ファーストトレーディング



快傑キャピタン [DVD]

アイ・ヴィー・シー



花咲ける騎士道 [DVD]

アイ・ヴィー・シー



夜の騎士道 [DVD]

IMAGICA TV



【>5月2日
スカラ座で“黒いチューリップを”観た。七十ミリ、アラン・ドロンの魅力いっぱいというところ。いまの日本では考えられないような、大型のアクションだった。
ビール飲んで、一杯きげんの私。夜はもう、私の前を黙って通っていった。】
【引用『こころの日記』吉永小百合著、講談社、1969年】

こころの日記 (1969年)

吉永 小百合 / 講談社



【>アンリ・ドカエ
ドロンはプロの俳優として完璧だったと思います。能力もあるし、やる気もありますからね。ただ、つねにスターとしてふるまう。それは彼のスターとしての矜持であって、当然のことなわけです。たとえば『黒いチューリップ』の撮影中に、製作関係でちょっといざこざがあって、ドロンのことをないがしろにしてしまった。そういうことはドロンの気に入らない。どんなときでも、彼はナンバー・ワンのスターとして尊敬されないと気がすまない。(略-)】
【引用『キネマ旬報 1976年四月上旬春の特別号「アンリ・ドカエ氏 愛をこめて映画と自己についての総てを日本で語る」』 山田宏一、中山彰、白井佳夫、キネマ旬報社】

【>ルイ・ノゲイラ
ドロンはあなたにとってスターの典型的な例なのですか?
>ジャン=ピエール・メルヴィル
彼は私が知っている最後のスターだ。フランスでは言うまでもなく、全世界を見てもそうだ。彼は30年代のハリウッド的な「スター」なんだよ。(略-)】
【引用『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年】
サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生
ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希 / 晶文社






 そして、わたしはこの時、ジェラール・フィリップをスター俳優として、こよなく愛していたアニエス・ヴァルダ監督が、この『黒いチューリップ』のポスターをストップ・ショットで強調した『百一夜』でのアラン・ドロンの逸話を想起してしまっていたのでした。

アニエス・ヴァルダによるジェラール・フィリップ

アニエス ヴァルダ / キネマ旬報社


[PR]

by Tom5k | 2010-04-25 16:11 | 黒いチューリップ(2) | Trackback(3) | Comments(2)

『アラン・ドロンのゾロ』②~アラン・ドロンが演じるなんて信じられない「怪傑ゾロ」SINCE1974~

 ドラキュラ、アルセーヌ・ルパン、メグレ警視、エルキュール・ポアロ、ペリー・メイスン、スーパーマン、バッドマン、007(ジェームズ・ボンド)、座頭市、眠狂四郎、明智小五郎、車寅次郎、子連れ狼、最近ではハリーポッターなど・・・。
 このように、古くから有名になったヒーロー・キャラクターは数え切れないほどで、それらは現在でも大衆文化として定着し、今後も多くのひとびとに親しまれ続けていくものであるように思います。

 古典的ヒーロー「怪傑ゾロ」もそのひとつです。特に「ゾロ」の場合は、子供を中心にして、父親や母親、祖父母までの全世代の家族全員を対象にできるヒーロー・キャラクターです。
 『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)は、わたしが小学5年生のときの公開(公開年は1975年)であり、父親はタイロン・パワーの『怪傑ゾロ』(1940年)を観た世代(日本公開は戦後)、祖父母も、もし活動写真を観ることのできる環境にあったなら、ダグラス・フェアバンクスの『奇傑ゾロ』(1920年)の世代ということになります。
 そして、我々の子供たちは、アントニオ・バンデラスの『マスク・オブ・ゾロ』(1998年)や『レジェンド・オブ・ゾロ』(2005年)などの世代になるわけで、このように考えると「怪傑ゾロ」は、親子4世代に渉る人気ヒーロー・キャラクターだといえましょう。
 「怪傑ゾロ」は冒険活劇の原点であり、ヒーローとして普遍の個性を持ったキャラクターなのだと思います。

 ところで、映画における「スター・システム」というものがあります。これは映画産業の資本力から企画される商業映画の在り方のひとつであり、その時代の花形スターの出演を前提とした興行PRによって集客プランを立案し、映画作品を製作していくシステムです。
 映画における銀幕のスターたちは、そういった意味から、彼ら自身の個性がキャラクターとして確立されているケースも多いように思います。
 例えば、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、チャールズ・チャップリン、ジェームズ・ディーン、マリリン・モンロー、ブリジット・バルドー、ハンフリー・ボガード、ジャン・ギャバン、オードリー・ヘップバーン、チャールズ・ブロンソン、ジャッキー・チェン、石原裕次郎、高倉健・・・。
 彼らは、スター以外の何者でもなく、映画作品において、登場人物のいかなる主人公を演じても、すべて彼ら本人の個性としてしか表現されえないわけです。

「ヒーロー、すなわち範例となり手本となるような人物は、古代の叙事詩から現代の映画にいたるまで、あらゆる民族と国民の詩の欠くべからざる要素である。(-中略-)ヒーローないしヒロインの精神を体現した肉体の美は、それを讃美する人々の民族的、階級的イデオロギーと憧憬とを正確に表現する。われわれは他人の顔の表情を読むように、その美を読みとることに習熟しなければならない。人々に好ましく思われる美は、ある社会層の欲求を、政治綱領以上によくあらわしている。」
【『映画の理論(第二十四章 ヒーロー、美、スターおよびグレタ・ガルボの場合)』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】

 そして、アラン・ドロンという俳優としてのキャラクターも1970年代には、このようなスター達と同様にかなり固定されたイメージで捉えられていたように思います。それは、アラン・ドロンが彼らしくない役を演じると、その作品は失敗作の烙印を押され、どんな駄作でも、従来のアラン・ドロンのイメージに合った主人公を演じていれば絶賛されるというように・・・。

「ギャング役は好き?
 = ぼくが一ばん好きなのがギャング役ではない 観客が一ばん好きなのがギャング役なのだと思う(-略)」
【アラン・ドロン孤独と背徳のバラード 芳賀書店(1972年)】

 恐らく、アラン・ドロンのキャラクターは、1967年に初めてジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出で撮った『サムライ』のジェフ・コステロのイメージから、強く意識され一般化していったように思います。彼の作品を辿ると、『サムライ』で演じたジェフ・コステロ以前と以後に体系付けられることができるような気がするのです。『サムライ』が、『太陽がいっぱい』(1959年)と並ぶ彼の代表作品とされている所以のひとつがここにあります。

 もっというと、『サムライ』より以前であれば、「怪傑ゾロ」に類似した体系のヒーロー活劇である『黒いチューリップ』(1963年)や、ハリウッド時代のディーン・マーチンと共演したコメディ西部劇『テキサス』(1966年)など、彼が上手に演じていた作品などに違和感はなく、むしろそれは彼の個性に適した配役であるようにまで感じます。
 しかし、すでに『サムライ』以後、1970年代における段階でのアラン・ドロンには、アンチ・ヒーロー的ヒーローとも呼べる個性が確立されており、『シシリアン』(1969年)、『ボルサリーノ』(1969年)、『ビッグ・ガン』(1973年)などでのギャングや殺し屋など・・・男性紳士服ダーバンのCM出演や『栗色のマッドレー』(1970年)、『愛人関係』(1974年)、『個人生活』(1974年)などでの大人の男性としてのダンディズムなども加わり、アラン・ドロン・キャラクターがはっきりと確立されてしまっていたのです。

「ドロンはギャバンとはちがいさまざまな異質なヒーローを演じながら、ドロン=ヒーローとして一貫性をもっている。彼は舞台経験がほとんどないだけに、かえってそういう芸当もできるのである。またそういう自信には一時代まえのギャバンの自信とはちがった近代性がある。TVコマーシャルにでても一向平気なのもそのためだ。1968年に彼は、自分のガードマンだったマルコヴィッチが殺害された事件で、殺人の嫌疑さえかけられ、一時は俳優としての生命をうしないそうになったこともあったが、立派に彼はそれを生き延びた。ヒーロー=ドロンは無傷だった。当時彼はすでに常人ではなくヒーローそのものになっていたのである。」
【引用~「ユリイカ詩と批評1976年6月号~特集映画ヒーローの条件」(映画におけるヒーローと俳優 主としてフランス映画の場合 飯島正)】


 完成した映画を観るまでは(もしかしたら観たあとも)、この時期の彼が何世代にも渉って親しまれてきた子供たちのヒーロー「怪傑ゾロ」を演じることに驚くべき違和感を伴ってしまうものだったかもしれません。
 特に、アラン・ドロン全盛期の私たちの親の世代から団塊の世代にかけてのファン層が、最も驚いていたのではないかと思います。
 高倉健や渡辺謙が、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」を演じることを誰が信じることができましょうか!?

 わたしにとっても、アラン・ドロンのファンになってから30年以上になるにも関わらず、「フレンチ・フィルム・ノワール」や恋愛作品で、大人の男性として最大限の魅力を発揮していた当時の人気全盛期の彼が、少年・少女たちの憧憬する「怪傑ゾロ」を演じたことに対して、何度この作品を再見しても未だに信じられない気持ちになってしまうのです。

 しかしながら、アラン・ドロンにとっては、当時12歳だった愛息アンソニーの強い要望に応えた有名な逸話も含めて、

【スターであり同時にプロデューサーでもあるドロンは、前々からヨーロッパ映画には、子供から大人まで家族ぐるみで楽しめる大ロマン、大冒険といった、夢多き時代の大らかな映画が足りないと考えていた。】
【『アラン・ドロンのゾロ』シネフィル・イマジカ版DVDプロダクション・ノーツより】

 アラン・ドロンの経験値からすれば、若き日に撮って大成功を収めた『黒いチューリップ』や、残念ながら実現はしませんでしたが、ラウール・レヴィのプロデュース、クリスチャン・ジャックの演出、アンソニー・クインとの共演で制作する予定だった『マルコ・ポーロ』などに、この時代に至るまで、こだわりをもっていたとも察せられ、もしかしたら、それがの『アラン・ドロンのゾロ』の制作動機のひとつになっていたのかもしれないなどと考えてしまうのです。
 あらゆる視点において、それがどのような方向の理想であろうと、それを追求する志ほど尊いものはありません。そういった意味でも、アラン・ドロンがこのクラシック作品に挑戦し、完成に至らせしめた意義は本当に大きなものだったといえましょう。



 ところで、正義のヒーローの類型を徹底したこのようなジョン・ストン・マッカレーの原作での登場人物において、何世代もの時代を経た現在では、すでに、かなりの硬直した特徴を持つものとなっており、映画化に至っては、いわゆるリアリズム作品とはかけ離れてしまう作品になることは必然でしょう。

 しかしながら、このような題材から、人間社会をわかりやすく象徴化し、ファミリー向けの娯楽活劇として、健康的なヒューマニズムを極限まで徹底することが可能な気もするのです。

 極論すれば、ここには自由な映画鑑賞においての選択肢はなく、ただ、ただ、アラン・ドロンが扮する正義のヒーロー「怪傑ゾロ」と虐げられた民衆に感情移入し、スタンリー・ベイカーの扮する悪漢総督ウェルタ大佐を心底憎み、当局による独裁が粉砕され、圧政に苦しむ貧しい開拓民たちが解放されることを強く願うばかりの物語であるのです。
 「ゾロ」を憎んだり、ウェルタ大佐を敬愛したり、ガルシア軍曹(ムスターシュ)を憧憬することは、ほとんど不可能なわけです。

 また、この『アラン・ドロンのゾロ』では、人間の尊厳がかくも高く尊いものだということを容易に信じることができる構成になっています。

ディエゴ(アラン・ドロン)の友人ミゲルの父親としての尊厳。
ミゲルに対する友人としてのディエゴの尊敬と誠実。
女性が社会的に理想を追求したときのオルテンシア(オッタヴィア・ピッコロ)の強さと真の美しさ。
フランシスコ神父(ジャンカルロ・アルベルティーニ)の思想家・宗教家としての勇気の全う。
主人を敬愛し真に忠実な主従の関係、ディエゴに対するベルナルド(エンツォ・セルシコ)。
愛犬や愛馬など動物たち、ミゲルの長男ラファエロや開拓民の少年チコとの友情。
前総督未亡人(アドリアーナ・アスティ)とドイツ人大尉メルケル(ジャコモ・ロッシ・スチュアート)との階級や民族を越えた愛情。

などが描かれているのです。

 そして、原作には登場しない友人ミゲロの息子ラファエロや開拓民の有色の少年チコを登場させていることから、この作品でのアラン・ドロンの想い願うものを察することは容易なことです。過去に撮った『若者のすべて』の五男ルーカや『冒険者たち』のレティシアの従弟のような存在を、この作品に再現させようとしていたことがわかるのです。
 未来の社会を考えたとき、そこに希望をもたらしてくれる存在である子供たち、愛息アンソニーの父として、アラン・ドロンが強く願っていたことなのでしょう。


 1950年代後半に突如出現したフランス映画の新しい波「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、旧フランス映画の類型・硬直化を徹底的に批判していったわけですが、この作品の登場人物は、このように全て類型的で硬直したキャラクターであるのです。
が、しかし、それの何が、どこを、批判の対象とできましょうか!・・・フランソワ・トリュフォー監督やジャン・リュック・ゴダール監督は、この作品をどのように批評しえたでしょうか!?

 1990年、ジャン・リュック・ゴダール監督は、映画『ヌーヴェルヴァーグ』で、ついにアラン・ドロンを起用しました。現代社会の矛盾に押しつぶされたルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』でアラン・ドロンが演じたロッコ・パロンディを、ロジェ・レノックスとして再登場させ、ブルジョアジーの令嬢エレナに溺死させられる役柄を演じさせたのです。

「神様を悪くいうのはおやめよ!」
と絶叫したロッコ・パロンディ・・・

 ジャン・リュック・ゴダール監督が、『ヌーヴェルヴァーグ』で描いたのは、このような現代のニヒリズムを生きる現代人が、近代以前の宗教に従順だった多くの民衆に、その神に代わる【力への意志】が必要だと考え、あらゆる限界を乗り越えるべく存在【超人(超越者)】として生きなければならない宿命を予見した実存主義哲学者ニーチェの思想を象徴させているのです。

 また、沼地に映るリシャール・レノックスの登場をシャドウで間接表現しているショットでの
【私は一人の他者】
 このアルチュール・ランボーの詩の引用から、ジャン・リュック・ゴダールは、ここでディエゴのゾロへの分身化を再現しているように思えてならないのです。

【この人を見よ!】

 このニーチェの言葉とともにロジェ・レノックスは、リシャール・レノックスとして復活、彼は愛を再生させてエレナとともに旅立っていくわけですが、わたしにとって、リシャール登場のシークエンスは、「怪傑ゾロ」見参のそれを想起させるものでもありました。

 民衆の精神的支柱として、神の国の伝導者であるフランシスコ派の伝導を全うしていた宣教師フランシスコ神父は、その思想とその実践により民衆から多くの支持を受けていました。このことから、当局により危険人物として逮捕、独裁による恥ずべき虚偽裁判に謀られることになったのです。司法の茶番による有罪の裁決が下され、今まさに鞭打たれる宿命となったそのとき、この腐敗した神をもいたぶる“政治倫理の抹殺”や“道徳の欠損”を食い止めるべく、正義の剣士「怪傑ゾロ」は参上するのです。

【この人を見よ!】

 このシークエンスの撮影テクニックもフィルムの編集も音響の効果も素晴らしいものです。
 鞭打たれるフランシスコ神父をローアングル、クローズ・アップで撮っていますが、この瞬間わたしはルネ・クレマン監督の『鉄路の闘い』におけるレジスタンス運動家の鉄道員の処刑シークエンスでの主観ショットを想起してしまいました。

鉄路の闘い

ビデオメーカー




 太陽光で真っ白となったフレームに

「やめろ」

 ゾロの声をリバーブレーション(残響)で表現し、その音響に合わせて、フォーカスにおいても正面から歩いてくる彼に敢えて焦点距離を合わせずに登場させるのです。
 更に、弦楽器による高音のシグナル音の効果も実にファンタスティックな印象をもたらすものでした。
 ロング・のフル・ショットから、まずオルテンシアたち民衆のショットでゾロの歩行してくる方向を示し、ゾロの遠景からのミディアム・ショットを、少年チコの視線、次に悪徳裁判官たち、更に鞭打たれているフランシスコ神父の視線でカットし、民衆の静かな驚きを表現しているのです。
 観客においても、このポイント・オブ・ビュー(視点)でのゾロの登場に釘付けになってしまいます。多数の民衆における主観ショットによるゾロの登場は、まさに大スターアラン・ドロンならではのゾロでなのです。

「罪なき者を罰するな」

 ゾロのセリフをやはり残響効果で表現し、固定カメラでのゾロの歩行を正面から捉え続け、バスト・ショットでようやくフォーカスをゾロに調整させるトラジッションによって、その勇士をくっきりとフレームに浮き上がらせます。

「正義を教えに来た」

 フォーカスに合ったゾロのクローズ・アップとともに、彼の声もこの段階でようやく残響を使わず鮮明ではっきりしたものとするのです。

【とくに印象的なのは、ゾロの初登場シーンだろう。正義を説く修道僧フランシスコが、ウェルタ大佐ひきいる暴虐な軍隊にとらえられて、鞭打ちの刑に処せられているとき忽然と黒フクメン黒装束のゾロがあらわれ、屋根から屋根に飛び移って処刑場に近づいてくる。その勇姿を、“空からやってきた正義の使者”というようにファンタジックに描いたところが興味深い。】
【スクリーンジャンボ ’75魅力サマー号アラン・ドロン ワイドグラフ ビッグ特集 アラン・ドロンのゾロ「スカッとしたドロンの新しい魅力!」深沢哲也】

 まさに音響と映像の古典的モンタージュの集大成です。
 本当に素晴らしい!

 ラスト・シークエンスでは、悪徳の独裁者ウェルタ大佐は、自らの欲得のため、民衆の精神的指導者フランシスコ神父を射殺してしまいます。
 第二次世界大戦後、イタリア「ネオ・リアリズモ」の体系の創始となった映画として、世界中に衝撃を与えたロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』でのラスト・シークエンスで、ナチスがドン・ピエトロ神父を処刑し、ついにその聖域に足を踏み入れたファッシズムの大罪に通ずるものを想起させるシークエンスでした。

無防備都市

アルド・ファブリーツィ / アイ・ヴィ・シー



 ウェルタ大佐とゾロとの死闘は、ファシズムと闘ったレジスタンスをも想起させるのです。

 もしかしたら、この作品は何世代もの家族を対象とした「冒険活劇」としての「ネオ・リアリズモ」だったのかもしれません?

 そう、まさにニーチェの思想を想起するように【神は死んだ】のです。ヌエボ・アラゴンの政府権力は、神すら殺害するほどの暴虐の限りであったのです。
 そして、いよいよ友ミゲルとの堅い約束を破らざるを得ないほど、ゾロは憤慨し圧制者ウェルタ大佐を抹殺する決意をするのでした。

 民衆が解放されていく各々のシークエンスでは、クリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』でのフランス大革命達成や、ルネ・クレマン監督の『パリは燃えているか』(1965年)でのレジスタンス運動の勝利などによる民衆の歓喜などが想起されます。

 最後の決闘で、ウェルタ大佐に素顔を見せるときのゾロ=ディエゴを演ずるアラン・ドロンは、決死の剣さばきで汗だくとなってしまっているにも関わらず、精悍で美しいヒーロー像を体現しています。
 そのシークンスでのディエゴを、焼け付くような夕陽の太陽光をバック・ライトにして露出を下げて捉え、ウェルタ大佐とのクローズ・アップを交互に、二人の表情をカット・ズームで順々と大きくしていく様を撮し出します。両者双方の意識化での相手との決闘への集中力を表現するため、高レベルのモンタージュを駆使しているのです。
 ディエゴのクローズ・アップを太陽光シルエットのロー・アングルで捉えた瞬間、彼はウェルタ大佐に向けてサーベルを向けます。ウェルタ大佐の必死の形相をクローズ・アップした瞬間のカットから、0コンマのサブリナルのショットでサーベルの刃のアップをインサートし、、瞬時に二人の横顔のミディアムのクローズ・アップに移って、ディエゴのサーベルが一瞬早くウェルタ大佐を射抜いたことを表現しています。

 ここで、わたしは黒澤明監督の『椿三十郎』のラスト・シーン、三船敏郎演ずる三十郎と仲代達也演ずる室戸半兵衛の最後の決闘を想起しました。

椿三十郎 [DVD]

東宝ビデオ



 また、教会の屋上から落下するウェルタ大佐をモーション・コントロールで捉えているシーンには、ルイ・マル監督の『世にも怪奇な物語 第二話 影を殺した男』のラスト・シーンで、やはりウィリアム・ウィルソンが教会から身を投げるショットなどに想起が至ってしまうのでした。

 それにしても、ドウッチョ・テッサリ監督、イタリア製西部劇の傑作を多く輩出した演出家とはいえ、これほどの映像テクニシャンであることには驚きを禁じ得ません。超一流とまではいわずとも、このような優れた職人監督が映画史の片隅に埋もれていくのは、あまりにも惜しいことです。
 いつの日か、映画史において脚光を浴びるときが来ることを信じたいものです。

 また、ここで忘れてはならないのが、アラン・ドロンにとってのジョセフ・ロージー門下の先輩俳優スタンリー・ベイカーです。ジョセフ・ロージー監督が、彼を使った作品には、『狙われた男』(1959年)、『コンクリート・ジャングル』(1960年)、『エヴァの匂い』(1962年)、『できごと』(1967年)などがあり、『暗殺者のメロディ』(1972年)でアラン・ドロンが共演したリチャード・バートンの親友でもあり、同様にシェークスピア劇の舞台俳優としても有名な名優でもあったのです。

エヴァの匂い [DVD]

パイオニアLDC



できごと [DVD]

パイオニアLDC



 すでにアラン・ドロンは、『暗殺者のメロディ』(1972年)でジョセフ・ロージー監督の演技指導の洗礼を受けており、これは、ルネ・クレマンやルキノ・ヴィスコンティの演技指導と同様に、彼にとっては最も厳しいものであったといいます。
 そのジョセフ・ロージー一家の兄貴分であるスタンリー・ベーカーの絶賛すべき素晴らしい演技と渡り合うことができてから3年後、再びジョセフ・ロージー監督の演出で、あの大傑作『パリの灯は遠く』(1977年)を生み出すことになるわけです。

 ジョセフ・ロージー監督は、自分が育てた二人の愛弟子が出演しているこの冒険活劇を観て何を思ったでしょう?

 わたしの勝手な推論ではありますが、今ではジャン・リュック・ゴダールも、もし生きていればフランソワ・トリュフォーも、この類型的で硬直したキャラクター、正義の剣士「怪傑ゾロ」を絶賛せざるを得ないような気もしてくるのです?

 後年、フランソワ・トリュフォーは自ら批判していた「詩(心理)的レアリスム」の二人の映画作家について、次のように述懐しています。

「わたしの考えでは、ハリウッド的なセンスと力量を持っていたフランスの職人監督はジュリアン・デュヴィヴィエとクリスチャン=ジャックぐらいなものでしょう。」
【『わがフランス映画誌(4 ヌーヴェル・ヴァーグ前夜 フランス映画のある種の傾向 P246)』 山田宏一著 1990年 平凡社刊】

e0059691_055113.jpg

アラン・ドロンのゾロ オリジナル・サウンドトラック盤(歌)オリヴァー・オニオンズ 音楽:グイド&マウリツィオ・デ・アンジェリス
[PR]

by Tom5k | 2009-08-02 03:17 | アラン・ドロンのゾロ(2) | Trackback | Comments(10)

『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』③~ルイ・マルの作家主義その2~

 ルイ・マル監督の代表作、それは映画史に残る傑作『死刑台のエレベーター』です。
 この作品で彼が目指したもの、それはロベール・ブレッソンの助監督をしていたときの経験において、その作品への崇拝から“ブレッソンの映像”と張り合おうとしていたものであったこと、と同時に「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の評論家たちが絶賛していたアルフレッド・ヒッチコックのような“映画のプロット”の追求であったとのことです。

 このようなことから察すれば、『死刑台のエレベーター』が、人間がその内奥で苦悩する問題にまで掘り下げたテーマを追求するところには、残念ながら至らなかった作品でもあるのです。もちろん、映画として必ずしもそのことが必要であったわけではないと思います。
 『死刑台のエレベーター』は、その映像の素晴らしさや、映像と音楽の一致・照応、ストーリー・プロット等において、映画史に残るセンセーショナルな作品であることは言うまでもないわけですから・・・。
 アンリ・ドカエのカメラ、特に好感度フィルムの使用によるライティングなしの夜間撮影、モダン・ジャズ・トランペッターのマイルス・デイヴィスによるシネジャズとういうジャンルの確立、ジャンヌ・モローの新しいセックス・アピールによるキャラクターの開花等々、あらゆる映画のエッセンスが革新されることになった作品です。
死刑台のエレベーター
ジャンヌ・モロー / / 紀伊國屋書店





 そして、ルイ・マルが『ウィリアム・ウィルソン』の前段に位置する主人公を登場させている『鬼火』です。

 この作品の制作過程では、ルイ・マル監督の自身の経験や作家としてのテーマが映画での表現として確立されていきます。
 ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルの原作を使用し、シナリオの共同作業を止めて初めて自分一人でシナリオを書き上げたこと、『死刑台のエレベーター』と同様に、今度はエリック・サティのピアノ曲「三つのジムノペティ」を挿入し、モーリス・ロネへの厳しい演技の指導や、少人数のスタッフで行ったモノクローム・フィルムのオール・ロケーション撮影、などを含めて、一本の作品を撮影中でも編集中でも、完全に管理できた最初の作品はこの『鬼火』からであったそうなのです。

 主人公アランは、ルイ・マル本人の投影でしょう。年齢や経験から社会的な役割を担えず、それを社会に埋没することとしか理解できず、孤独に蝕まれ自殺によって自己を表現するしかなくなってしまうモーリス・ロネが演じる主人公のアラン。
 彼の自殺は、かつて『望郷』でジャン・ギャバンが演じたペぺル・モコが、犯罪者として社会から疎外され、パリと恋への執着に絶望して死を全うした旧時代のロマンティシズムとは全く異なり、戦後のパリ、『死刑台のエレベーター』で描かれていたような近代的で無機質なパリでの孤独な死であり、ニヒリズムが透徹してしまった陰鬱な死なのです。
望郷
/ バンダイビジュアル





 また、そういった経緯から、『鬼火』は、自分自身の内奥の苦悩を語った初めての作品であり、興業的なものは全く意識されておらず、ルイ・マルが自分自身だけのために制作した作品であり、更に彼の作家としての自覚が強く生み出されていった作品だったといえましょう。
鬼火
モーリス・ロネ / / 紀伊國屋書店





サティ 2
エリック・サティ / / マイスターミュージック





 ルイ・マルは、『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』の制作動機のひとつについて、次のように語っています。

「(-略-)私は怒りっぽく、不機嫌になり、“一体私はここで何をしているんだ?”と自分に問いただしていた。むろん、こんな条件の撮影を引き受けなければよかったんだろうが、私はこのストーリーの核である《分身》というテーマにとても興味をもっていたんだ。映画が公開された折、精神分析者である友人が、私にこう言った。“君は転機を迎えているんだよ。つまり、君は迷いの時期にあって、自己の存在に疑問を抱いているのさ。だから、君が分身をもった男のストーリーを作ることになったのは、それほど意外なことじゃないよ。”しかし、この小説を読んだ時には、私は自分の問題に全く気づいていなかった。(-略-)」


フィリップ・フレンチ
「そして、またこの映画(『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』)でもあなたが繰り返すテーマのひとつである自殺が、哲学的命題として提出されています。ウィルソンはもうひとりの自分を破壊していくわけですが、これをあなたはポーの原作よりもはっきりと描いていますね」

ルイ・マル
「(-略-)わたしは無意識のうちに思っていたよりかなり個人的な要素をこの作品に盛り込んでいた。このウィリアム・ウィルソンというキャラクターは『鬼火』の主人公の延長線にある自己喪失の危機に陥っている男であり、私はこれを撮影した時の気分でオペラのような劇的なイメージに作り上げていた。」

 ルイ・マル監督のこの『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』での作家主義は、これらの言葉にすべて集約されているとわたしは思います。




 また着目すべきは、彼の演出における俳優についてです。
 彼はジャック・イブ・クストーの『沈黙の世界』などで海洋ドキュメンタリーでデビューし、ロベール・ブレッソンの助監督をした経験などからもわかるように、プロの俳優を初めて使ったのは『死刑台のエレベーター』からでした。
沈黙の世界
ドキュメンタリー映画 / / コロムビアミュージックエンタテインメント





 ですから、俳優の演技指導に関わっては、経験的に極めて不得手であったと述懐しています。
 考えてみれば、ルイ・マルの作品に出演していた時点では既にスターであった俳優、モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、ブリジット・バルドー、ジャン・ポール・ベルモンドたちも、元来は低予算の「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品で活躍していた、しかも気心の知れた自分の仲間たちばかりです。
恋人たち
ジャンヌ・モロー / / 紀伊國屋書店





地下鉄のザジ
カトリーヌ・ドモンジョ / / 紀伊國屋書店





パリの大泥棒
/ 紀伊國屋書店





ビバ、マリア
/ 紀伊國屋書店





 確かに、この『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』のラスト・シークエンスでさえも、教会から飛び降りて自殺したアラン・ドロンが扮するウィリアム・ウィルソンを覗き込む老人たちは、プロの俳優には見えません。この作品の幻想的でフィクショナリーな内容が、最後の最後に、もしかしたら、これはリアルな現実であるのではないのか?との想いが、突如、喚起されてくるような効果を生み出してくるのは、このような素人をティパージュ(型・典型)として配置した編集の結果からなのではないでしょうか?

 ともあれ、ルイ・マルが「ヌーヴェル・ヴァーグ」出身以外の本格的なスター俳優、職業的俳優を中心においた作品は、アラン・ドロンを使ったこの『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』が、初めてだったとも言えるのではないでしょうか?

ルイ・マル
「ストーリーは素晴らしかった。しかし、私はかなり妙な気分だった。とても憂鬱で暗く、ほとんど自殺したいような気分だった。アラン・ドロンには苦労したよ。彼は私が一緒に映画を作った俳優の中でもかなり気難しい、いや、最も難しい俳優だった」

フィリップ・フレンチ
「どう難しかったのですか?」

ルイ・マル
「彼の気難しさには定評があった。ドロンはもともと指図されるのをとても嫌がるんだ。彼はこの映画のあとすぐに自分がプロデューサーになって、周りの人々にいばりちらしていた。そして、私は、ドロンの誠実さと才能にもかなり疑問を抱いていたので、私たちは撮影現場で絶えず口論するようになり、非常にやりにくくなっていた。(-略-)」

 しかしながら、上記の哲学的命題ともいえるルイ・マルの自己喪失や二重自我の問題に関わってのテーマは、そもそもデビュー当時からのアラン・ドロンの専売特許ともいえ、それは彼のキャラクターに一分の間隙もなくあてはまるような気がするのです。

『太陽がいっぱい』では、ブルジョアの青年に対する愛憎から、犯罪によって自分が彼に成り切ろうとしてしまう貧困な青年、
『生きる歓び』では、テロリストの英雄に憧憬し、テロリストに成りすます救護施設出身の青年、
『フランス式十戒「第6話 汝、父母をうやまうべし、汝偽証するなかれ」』では、本当の“自分の母親”の不良性向に絶望する学生、
『黒いチューリップ』ではひ弱なインテリ青年の弟と、義賊の兄の二役、

など、自国フランス作品で、このようなキャラクターを確立してきた経緯があります。
 すでに彼は、この作品に出演するまでの間に、自己を喪失したり人格を分裂させてしまったりする主人公を、これほど何度も演じてきているわけです。

 ただ、これらの作品は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちが息の根を止めてしまうほど徹底的に批判していった「詩(心理)的レアリスム」の演出家たち、ルネ・クレマン、ジュリアン・デュヴィヴィエ、クリスチャン・ジャックの作品ばかりなのです。
 そして、ルイ・マルにとっても、彼が「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派に帰属する作家ではなかったとはいえ、やはり「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動の体系では主たる位置を占める映画作家です。「詩(心理)的レアリスム」の作品、その俳優を再評価するキャパシティなど確立し得ないことは無理のないことです。

 アラン・ドロンのルイ・マルに対する憤りや不誠実も、そのことを考えれば納得できるような気がします。逆に彼がもし、ルイ・マルに対して優等生的に信頼関係を構築などしていったのだとしたら、それはむしろ自分を育ててくれた師匠たちに対して、不誠実極まりない行動だと、わたしには感じられます。


 しかし、ルイ・マルは、誰しもが周知しているとおりのこれだけ優れた映画作家です。したたかにアラン・ドロンの資質を見抜き、彼のその特徴を自作に適合させる演技指導を、無意識ともいえる独自のものとして、撮影中に定着させていったようにも思えるのです。
 しかも、華やかなハリウッドから帰還したばかりの大スターであるアラン・ドロンだったとはいえ、彼は元来、ルキノ・ヴィスコンティやミケランジェロ・アントニーオーニ、ルネ・クレマンに磨きをかけられ、鍛え抜かれた、リアリズム映画の俳優でした。

ルイ・マル
「(-略-)不思議とドロンは適役だったが、私に対する怒りがうまく役に合ってたんだと思う。だから、私は撮影中は絶えずドロンを怒らせることに精を出したんだ!」

 どうでしょう?このしたたかさ!
 アラン・ドロンを嫌悪し、彼の誠意も、才能すら信じていないルイ・マルは、逆にそのことを利用して、これだけ素晴らしいウィリアム・ウィルソン像をアラン・ドロンにおいて確立していったのです。

 そして、ルイ・マルと対立しながらも、ウィリアム・ウィルソンを演じきったアラン・ドロン!

 


南俊子
「今までに、どんな作品が印象に残ってらっしゃいますか。」

 映画監督である斎藤耕一氏は、アラン・ドロンの熱烈なファンであった映画評論家の南俊子氏のアラン・ドロン作品に関するこの質問に、次のように回答しています。

斎藤耕一
「ぼくはね。オムニバスの「世にも怪奇な物語」、あの中で自分自身がもう一人でてくるの・・・。現代ものももちろんいいけど、ああいう世界の男というのが実にいいと思いますねえ。(-略-)」

【(『デラックスカラーシネアルバム5 アラン・ドロン 凄艶のかげり、男の魅力 斎藤耕一+南俊子《ドロンを語る》現代的な感性を表現できる不思議な人』南俊子責任編集 芳賀書店)より引用】



【参考・引用】
『マル・オン・マル/ルイ・マル、自作を語る』フィリップ・フレンチ著、平井ゆかり訳、キネマ旬報社、1993年
マル・オン・マル―ルイ・マル、自作を語る
/ キネマ旬報社
[PR]

by Tom5k | 2008-05-24 22:13 | 世にも怪奇な物語(3) | Trackback(10) | Comments(27)

『ヌーヴェルヴァーグ』⑦~アラン・ドロンの二重自我 その2 伝統的キャラクター・アクター その2~

 アラン・ドロンの二重(面)性に眼をつけたのは旧世代だけではありません。新世代「ヌーヴェル・ヴァ-グ」の作家のひとりであったルイ・マル監督も、彼の二重(面)性を描きました。
 また、実はわたしとしては、アラン・ドロンが最もアラン・ドロンらしいと思うのが、『世にも怪奇な物語』の第二話「影を殺した男」のドッペルゲンガー、ウィリアム・ウィルソンなのです。

 何故、ルイ・マルがアラン・ドロンとの仕事を引き受けたのか、というたいへん興味深い疑問も湧き上がって来るところではありますが、あらゆる意味から、結果的にはこの第二話「影を殺した男」は素晴らしい成功を収めたといえましょう。
 ルイ・マル自身もこの《分身》というストーリーの核となっているテーマに非常に興味をもって臨んだとのことです。
 それだけヨーロッパ映画においては、自身の内面を統一しきれないときのもう一人の自分自身の存在の必要性、つまり《分身》というテ-マが多くの観客を惹きつける妖しい魅力を放っていたのかもしれません。

 このウィリアム・ウィルソンという主人公のキャラクターについては、ジャン・リュック・ゴダール監督も常に引用・言及しています。

【たとえば、『気狂いピエロ』について語る際に、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」と題された短編小説に言及し、この名前ないし偽名をめぐる小説としても興味深いテクストが示す、生身の人物とその双生児的な分身としての影像との関係から、ウィルソン=映画作家という視点を提出するとき(「わがピエロ」、一九六五年)にも明瞭に示される。】

 ゴダール監督が映画を語るとき、映画が現実世界を視覚に置換させるものとして、現実世界の翻訳によって成り立つこと、つまり映画の世界が観衆側の世界であることに最もこだわっているように思います。その言及は、作家の側の生気をフィルムに吸収させてでも、それを現実世界に還元させるものとして定義しているのです。

【『気狂いピエロ』において、「人生を撮影したとわたしが確信した瞬間、まさにそのためにわたしは人生を取り逃してしまったのです。」(「わがピエロ」)】

(【 】内、引用は『現代思想 総特集 ゴダールの神話 不在の神秘/神秘の不在 松浦寿夫』青土社、1995年10月臨時増刊)
ゴダールの神話
/ 青土社






 ゴダール監督の映画作家たることの意義にまで例えているこのウィリアム・ウィルソンの例示から考えても、アラン・ドロンがゴダールの同志ルイ・マルの演出において、『影を殺した男』でウィリアム・ウィルソンに扮した実績が、『ヌーヴェルヴァーグ』制作にあたってのこだわりのひとつとなっていたことは想像に難くありません。

 それに加えて思い出されるのは、『気狂いピエロ』でジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公フェルディナンと、アンナ・カリーナが演ずるマリアンヌの逃亡中の会話に、エドガー・アラン・ポー原作の小説「ウィリアム・ウィルソン」に触れる印象深いセリフです。

「彼は幽霊を見て殺そうと追いかけた 目的を果たしたら 死んだのは彼自身で 残ったのは幽霊だった」
気狂いピエロ
/ ハピネット・ピクチャーズ





William Wilson
Edgar Allan Poe / Amazon Press






 『世にも怪奇な物語』については、どのブログ記事を読んでもフェデリコ・フェリーニの第三話「悪魔の首飾り」を絶賛しており、それは現在、一般的な評価となっているように思います。
 しかしながら、映画のテーマにしても、アラン・ドロンの名演にしても、成熟したアラン・ドロンのファン、もしくは映画ファンなら、間違いなくこの第二話「影を殺した男」を客観的な意味において最も高く評価するはずです。

 ウィリアム・ウィルソンは、フランケンシュタイン、ドラキュラ、ジキルとハイド、ターザン、ゾロ、オペラ座の怪人、怪盗ルパン、カシモド・・・などと肩を並べるほど魅力的で典型的なキャラクターであるように思います。特に現代においては、それは益々意味深いテーマとなってきていることは、現実世界の生活実感においても感じることが可能なほどです。
フランケンシュタイン (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
/ ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





吸血鬼ドラキュラ
/ ワーナー・ホーム・ビデオ





世界名作映画全集98 狂へる悪魔
/ GPミュージアムソフト





類猿人ターザン
/ ファーストトレーディング




快傑ゾロ
/ 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン





オペラの怪人 (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
/ ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





ルパン
ロマン・デュリス / / 角川エンタテインメント





ノートルダムのせむし男
/ GPミュージアムソフト





 その魅力ある、そして現代的テーマの典型であるような主人公ウィリアム・ウィルソンをアラン・ドロンが演じたのです。しかもこれ以上のはまり役がないほど、彼はこの主人公と同化していたように思います。
 この作品に限っては、エドガー・アラン・ポー原作の古典でありながらも、アラン・ドロン以上のウィリアム・ウィルソンを演じることのできる俳優は、今後、もう現れないのではないだろうか、とまで思ってしまいます。

 フランケン・シュタイン=ボリス・カーロフ、ターザン=ジョニー・ワイズミュラー、ドラキュラ=ベラ・ルゴシもしくはクリスト・ファー・リー、ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー・・・等々。
 それ以上のはまり役はないとまで言えるスター俳優のキャラクターへの同化と同様に、わたしとしては、アラン・ドロンが演じた強烈な個性の主人公たち、トム・リプリー、ロッコ・パロンディ、そして、私見でしかありませんが、ジェフ・コステロをも凌駕するキャラクターであったようにまで思うわけです。

 しかも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」体系の手法を持つルイ・マル監督が、エドガー・アラン・ポーの原作を演出したものです。フランソワ・トリュフォーの古典への回帰(この回帰主義に関わっては賛否の両論がありますが)を先駆けていたようにも思います。


 そして、わたしのなかに、さらに浮かび上がってくる作品がアラン・ジェシュア監督の『ショック療法』なのです。
 どうみてもこれは現代版ドラキュラもしくはヴァンパイアであり、いわゆるB級ホラー作品なわけですが、わたしとしては、できれば著作権など買い取って、ブラム・ストーカーの原作、カール・テオドア・ドライヤー監督の『吸血鬼(ヴァンパイヤ)』やF・W・ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』、トッド・ブラウニング監督の『魔人ドラキュラ』などを新古典としてリメイクして欲しかったように思っています。
吸血鬼
/ パイオニアLDC





吸血鬼ノスフェラトゥ
/ アイ・ヴィ・シー





魔人ドラキュラ (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
ベラ・ルゴシ / / ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





 ひとり古城に住み、美女の生き血を求め深夜の街を徘徊する美男の伯爵、耽美的で魅力的なアラン・ドロンのドラキュラ伯爵を観たかったファンは、わたしだけではないはずです。
 ジャン・ギャバンがヘルシング教授となって、ドロンのドラキュラを退治するなど、わたしの勝手な想像力は留まるところを知りません。
 監督としては、ドロンの渡米前ならば、ジュリアン・デュヴィヴィエに演出してもらいたかったです。強い倫理観で勧善懲悪のテーマとなりながらも、神と悪魔の矛盾や民衆の賢さや愚かさなどに、詩情をあふれさせながらの大作となったように思います。

 アラン・ドロンの人気が全盛期の70年代なら、フランシス・フォード・コッポラ監督、もしくはスティーブン・スピルヴァーグ監督に演出してもらいたかった。
 まだ、商業娯楽に埋没する以前の「アメリカン・ニューシネマ」時代の精神で撮って欲しい。《疎外される緊張感》や《追われる恐怖》などを主題に新しい発想において、クラシック作品を復活させて欲しかったです。

 ジョセフ・ロージー監督のコスチュ-ム・プレイも観てみたいように思います。たいへん恐い作品になったのではないでしょうか?ブルジョア家庭の令嬢の血を求め、その一族が虐げられていた貧困な農民たちに八つ裂きにされていく、というようなサディスティックで恐ろしい前衛作品になったでしょう。

 80~90年代なら、フォルカー・シュレンドルフの演出で、ドイツ表現主義で描いていた吸血鬼(ヴァンパイア)を、ニュージャーマン・シネマのリアリズムで復活させてほしかった。ヴェルナー・ヘルツォークよりも風刺の効いたエレガントなドラキュラもドロンに似合うように思います。
 また、パトリス・ルコント監督なんか、どうでしょう。詩情豊かでロマンティック、かつシュールな作品となったかもしれません。
吸血鬼ドラキュラ
ブラム ストーカー / / 東京創元社





 さて、この『ショック療法』でも、いつも通りにアラン・ドロンの二重(面)性は、最大級のうさんくささを発露させています。しかも、それはやはり魅力的なわけです。
 ブルジョアジーたちの若さや美しさへのこだわりこそ醜悪で、しかもその底辺には貧しき若者たちの犠牲があるという現代社会の縮図のようなエステ・サロンの院内を舞台としており、ブルジョアジーの欲求を最大限に利用し、弱者を犠牲にして成り立つビジネス社会、現代の引き裂かれた社会でのアラン・ドロンの二重(面)性が、それらを暗喩するように描かれています。

 そして、アニー・ジラルド演ずるエレ-ヌを乗せたセスナ機での遊覧飛行で、アラン・ドロンが演じた二重人格の主人公ドクター・デヴィレが本音を漏らすシークエンスに、わたしにとっての非常に印象深いセリフがありました。

「この国は何もかも中途半端で嫌いだ 文明と文化のゆりかご 一度は逃げた アマゾンの奥地へね だけどなじめなかった いやでも同国人ばかり固まるのさ 堕落のかぎりだ」

 当時の現実のアラン・ドロンのやりきれない想いが言葉になっているような気がしてならないのです。アイデンティティを引き裂かざるを得なかった哀しい男の居直りが垣間見える瞬間であったように思われ、わたしとしては実にリアルな説得力を感じ、アラン・ドロンが自身の内部に何故、二重(面)性を持つに至ってしまったかのヒントが隠されているようにも考えてしまいます。

 さらには、『ヌーヴェルヴァーグ』でアラン・ドロンの演じた主人公の超越、ロジェ・レノックスからリシャール・レノックスに超越した理由が、このドクター・デヴィレのセリフにあるようにも感じ取れるのです。


 そして、古典・クラシックの王道であるジョンストン・マッカレー原作「怪傑ゾロ」を映画化した『アラン・ドロンのゾロ』です。
快傑ゾロ 【新版】
ジョンストン・マッカレー / / 東京創元社





 この企画も意外なように見えながら、アラン・ドロンという個性としては典型的な作品であったようにも思います。
 この作品も、やはりキャラクターの二重(面)性、すなわち「主人公の《分身》」というテーマを扱っていることから、アラン・ドロンにおいての特に重要な作品として位置づけられると考えます。

 正義の義賊を演じていてもやはり、常に謎を秘めた魅力を発散させており、しかもこの怪傑ゾロというキャラクターには、存在しないはずのもの、すなわち民衆の願望ともいえる存在が、そこに実在しうるという、極めて魅力的な「不在性の神秘」が露呈されていると感じるわけです。

 『ヌーヴェルヴァーグ』で主人公リシャール・レノックス登場のシーンに、このゾロの初見参のシークエンスをオーバー・ラップさせたのはわたしだけでしょうか?

 「この人を見よ」という、このニーチェの言葉とともに登場するリシャール・レノックス。

 現代において神は死に絶え、力への意志のみしか生存(実存)しえない、そうまさに超人化することだけが現代人の生き方となるというニーチェの思想を象徴させているシークエンスには、怪傑ゾロが開拓宣教師フランシスコを救済することで民衆を解放するという実践を、現代社会に置換させたものだったとしか、わたしには思えませんでした。


「伝統的なキャラクター・アクターとして、かつ二面性に魅力を発露させていたアラン・ドロンは、あらゆるジャンルの映画においても、どんな監督から起用されても、特に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家、ジャン・リュック・ゴダール監督の演出においてさえも、その一貫性を貫いた。」

と未来における俳優史に評価されることは想像に難くないことです。
[PR]

by Tom5k | 2007-07-21 02:09 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Trackback(7) | Comments(15)

『アラン・ドロンについて』⑤~伝統的キャラクター・アクター、二重自我の魅力 オカピーさんとの対話~

映画の良心というキャッチ・フレーズがピタリとはまる、わたしのブロ友のプロフェッサー・オカピーさんをお招きして?アラン・ドロンの本質的な魅力をさぐってみました。

実は、過去に何度もわたしの話題にお付き合いしていただいたこと、これが何とも有意義なコメント集になっていましたので、オカピーさんのご了承も得られ今回の更新記事としました。


2005年12月29日
オカピーさん
ルネ・クレマンは素晴らしいですね。基本的にタイトな作風で無駄がない。それは初期のドキュメンタリー・タッチの作風が晩年まで続いたということなのでしょう。彼のベスト5は、「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」「居酒屋」「海の牙」「しのび逢い」辺りと思います。
 アラン・ドロンもお好きなようですね。実は私も大好きで、演技者としてもっと評価されるべきと思っています。かつてアルセーヌ・ルパンに夢中になった私としては若い頃「黒いチューリップ」で颯爽としたところを披露した彼にルパンを演じてもらいたかったところです。「太陽がいっぱい」「冒険者たち」「若者のすべて」「サムライ」「山猫」あたりが贔屓作品です。


トム(Tom5k)
オカピーさんの嗜好は、クレマンにしても、ドロンにしても王道ですね。
アラン・ドロンは『世にも怪奇な物語』のウィリアム・ウィルソン、勧善懲悪の『怪傑ゾロ』、『黒いチューリップ』、多くの「フィルム・ノワール」作品のギャングや殺し屋などの伝統的なキャラクターがよく似合います。
戦前のクラッシック映画を70年代に復活させた俳優なのではないでしょうか?

2006年4月2~4日
>『山猫』のドロンこそ私のアルセーヌ・ルパンのイメージ
とのこと。
わたくしも以前から、ドロンがアルセーヌ・ルパンを演じたらピッタリだと以前から思っていました。
彼はクラシック、つまり古典がよく似合う俳優だと思いますので、『ルパン』以外にも『ドラキュラ』や『ジキルとハイド』などの古典の名作に、もっと出演して欲しかったと思っています。
最も演じて欲しかったのは『吸血鬼ドラキュラ』です。

ところで、最近、色々なブログでオカピーさんのコメントに出会います。わたくしの映画の嗜好と似ているのでしょうか?
非常に愉快です。
魔人ドラキュラ (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
ベラ・ルゴシ / / ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





ジキル博士とハイド氏 コレクターズ・エディション
フレデリック・マーチ / / ワーナー・ホーム・ビデオ





奇傑ゾロ
ダグラス・フェアバンクス / / アイ・ヴィー・シー






オカピーさん
トムさん、こんにちは。
用心棒さんジューベさんのところでお会いしましたね。基本的に古い映画をとても大切にしている方たちばかり。映画に対する愛情と探究心が深く、文章も大変うまい。おかげで自分が<井の中の蛙>であったことを思い知らされました。

ルパンを演ずるにはやや陰もある貴族の末裔的な雰囲気が重要だと思うのですが、ロマン・デュリス(先般の「ルパン」でのルパン役)では散文的でお話になりません。尤も未見ですけど。
『ゾロ』は展開は荒かったですが、ドロンは良かったなあ。『黒いチューリップ』は最近観ていませんが、結構好きですね。
ルパン
ロマン・デュリス / / 角川エンタテインメント







トム(Tom5k)
>オカピーさん、夜中に失礼します。
うかつだったのですが、ジャック・ベッケル監督の『怪盗ルパン(LES AVENTURES D'ARSENE LUPIN)』があったのを忘れておりました。未見ですが、いつか観たいと思っております。残念ながらDVDもビデオも販売されていないようです。
しかし、かのベッケル監督ですから、期待できそうな気がしており、DVD化を強く期待しています。
Les Aventures D Arsene Lupin
Maurice Leblanc / / Hachette





かつて『ベルモンドの怪盗二十面相』というルパンのパロディ作品が公開されたときのことを思い出しました。わたしは、オカピーさんと同様にドロンにルパンを演じて欲しかったので、ライバルのベルモンドに先をこされたような気がして(作品は、本来のルパンのイメージとは全く異なるドジな泥棒のコメディでしたけれど)、くやしい気持ちになっていたことを思い出します。
オカピーさんはドロンのルパンが実現していたら、監督は誰が理想ですか?
わたしは、なんと言ってもジュリアン・デュヴィヴィエ監督に演出して欲しかったです。


オカピーさん
トムさん、こんばんは。
ベッケルの『怪盗ルパン』は私も観ていません。ベッケルはタッチの良い監督ですので、確かに期待できますね。ルパンはイメージが出来ているので、怖い感じもしますが。
『ベルモンドの怪盗二十面相』・・・そんな映画もありましたね。ベルモンドとは古い付き合いのフィリップ・ド・ブロカが監督でしたが、全く記憶に残っていないところを見ると、大したことはなかったのでしょうか。

古典的なムードを出せ、洒落っ気があり、流れるような文体を誇るデュヴィヴィエで文句なし。スリラーにも実績がありますし。


2006年5月31日~6月2日
トム(Tom5k)
オカピーさん、TB・コメントどうもでした。
(『仁義』について)キャスティングが豪華すぎて、焦点がぼやけたのかもしれませんね。わたしはブールヴィルの警視を単純に主役にすべきだったのかなとも思っています。まあ、それはメルヴィル監督も気がついていて、次作『リスボン特急』での刑事の孤独にテーマを絞った理由なのだろうと感じています。
それから、『仁義』の後、メルヴィル監督はドロンでルパンを撮る企画を立てていたそうです。実現していれば、独特のルパンものになったでしょうね。


オカピーさん
トムさん、こちらこそコメント有難うございました。
なるほど、ブールヴィルを主人公に据えてもっと短くすれば、純文学的な方向で上手く作れたかもしれませんね。トムさんのご意見を借りれば、性善説・性悪説の対比が主題として。
そうですか。ドロンのルパンは夢ですから実現して欲しかったなあ。でも、演出がメルヴィルでは相当重くなったでしょうね。あれから考えましたが、演出者として、『黒いチューリップ』を撮ったクリスチャン=ジャック辺りでも上手く作れたかもしれませんね。


トム(Tom5k)
オカピーさん、あんまり、うれしいことを言ってくれるので、連続の書き込みをしてしまいます。
もうまさにクリスチャン・ジャック監督のドロンのルパン、今すぐに見たくなってしまいましたよ。実現したら最高でしたでしょうね。
日仏合作『黄金仮面(明智小五郎VSルパン)』で三船の明智と再共演や、英(もしくは米)仏合作『ルパンVSホームズ』でテレンス・ヤング監督のブロンソンのホームズとの一騎打ちとかなんていうのも面白いかもしれませんね。
ブロンソンは『雨の訪問者』の印象で、ホームズが浮かびました。
考えただけでワクワクしてきますよ。
では、また。
雨の訪問者(字幕スーパー)
チャールズ・ブロンソン / / コロムビアミュージックエンタテインメント







オカピーさん
トムさん、返事が送れてすみません。
三船の明智は良さそうですね。多分天地茂より良い(笑)。
ブロンソンはちょっと英国臭がないかなあ(※注)、という印象です。テレンス・ヤングは良いかもですね。
今となっては全てが夢の夢。
「雨の訪問者」ですか。懐かしいですね。当時絶好調だったフランシス・レイの音楽が耳にこびりついていますよ。「パリのめぐり逢い」「個人教授」「ある愛の詩」・・・良い仕事をしました。レイのサントラ主題曲集なんてないかしら。
フランシス・レイ作品集
オムニバス / / ビクターエンタテインメント
※ オカピーさん、ここにありましたよ。でも、これサントラかな?トム(Tom5k)



※注
その後、ブロンソンのホームズ役を何人かの友人に話してみましたが、揃ってホームズ役は合わないとのブーイング意見でした(笑)。トム(Tom5k)



2007年4月21~27日
トム(Tom5k)
(『復讐のビッグガン』について)こっこれは、珍しい作品を取り上げましたね。
わたしとしても、ほとんど無関心な作品だったんですが・・・。
17・8年前に一度観たきりです。ファンとして失格ですけど、ただ注視すべきは、おっしゃるとおり
>ピエロ姿のドロン
このシークエンスには、確かに感じるものがありますよ。いずれ整理して記事にはしたいと思っています。やっぱオカピーさん、鋭いですなあ。
最近、何十回目でしょうか、豆酢さんも好きなロージー監督の『パリの灯は遠く』を観ました。何十回観ても素晴らしいものは素晴らしいです。
ではでは。


オカピーさん
トムさん
>ピエロ姿のドロン
深く検討すれば、『黒いチューリップ』とは同じであり逆でもある、人間の仮面性といったところに行き着くところではありますよね。
『パリの灯は遠く』は不条理な悲劇でしたね。色々複雑な思いを抱いた作品ですが、実は30年前に一度しか観ていないです。すみません。


トム(Tom5k)
(『黒いチューリップ』について)待ってました、オカピーさん!(笑)
二重人格や一人二役はアラン・ドロンの右に出る者はいないとまで思っていますよ。恐らくですが、ドロン自身もそういった役柄にかなりの陶酔感を持っていたのではないかな?
>冒険ものの三大設定
やっぱり、クリスチャン・ジャック監督なんかは、フランス映画の最後のクラシック作品の作り手だけあって、セオリー・基本が見事ですよね。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品も好きですけど(本当に大好きです)、戦前から戦後60年代始めくらいまでのフランス映画は最高です。
吉永小百合さんもリアル・タイムで見ていたらしく、絶賛されていた記憶があります。アニエス・ヴァルダ監督も『百一夜』で強調していたように思いますし、女性ファンが多い作品だと思います。
こころの日記 (1969年)
吉永 小百合 / / 講談社





>彼のアルセーヌ・ルパン
最近、ジョニー・トー監督のノワール作品にドロンが出演するらしいとの情報がありますが、老ルパンの役なら、まだ期待できるかも。わたしとしては、ルコントかベッソンあたりで制作してほしいですね。
ああ、またなんかカルネやクレール、デュヴィヴィエ、フェデールなんか見たくなってきちゃった。


オカピーさん
トムさん、こんばんは。
本当にドロンの二役には痺れますよねえ。
また大物はこういう役を一度はやりたがりますね、プロデューサーや監督に求められるまでもなく。

ヌーヴェルヴァーグ以降の作家が小手先というわけではないですが、それ以前の作家は、フランスに限らず、小手先ではなく本当に基本を大事に作っていますね。

>老ルパン
そう言えば『ハーフ・ア・チャンス』では、初老の怪盗紳士役を楽しそうにやっていました。
ベッソンは劇画的になりすぎる傾向があるので、私は文芸色のあるルコントで観たいです(笑)。


最近なかなかお邪魔できずにすみません。
今ピークで、へーへー言っております。

私の読書の幅も益々広がって文学では物足りず、思想・哲学も守備範囲にしようかと思っております。「社会契約論」も読んでみたいですねえ。昔の記憶を辿ると、「民約論」とも言いましたね。ルソーは興味深い著書が多いですよね。「エミール」「告白録」「新エロイーズ」など。
人間不平等起原論 社会契約論
ルソー 小林 善彦 井上 幸治 / 中央公論新社






エミール
ルソー / / 岩波書店





それはさておき、(『黒いチューリップ』について)ドロンの二役が最高でした。結局はドロンのために作られた作品ということに尽きますよね。
この時代の彼で、ルパン・シリーズの傑作「カリオストロ伯爵夫人」をクリスチャン・ジャックで作ったら永久保存版になっただろうなあ。さあ伯爵夫人は誰にさせましょうか?稀代の悪女です。同時代の女優なら、ジャンヌ・モロー? 80年代に入って貫禄の出てきたカトリーヌ・ドヌーヴでも良いかなあ。
済みません。妄想の世界に入ってしまいました。


トム(Tom5k)
>オカピーさん
おおっ!ジャン・ジャック・ルソーを、ですかっ!日本人は、民主国家になった段階でここが不足しているがために、本来の意味での近代国家に成りきれていないのだと思いますよ。多くの人が、江戸末期から明治初期にかけてルソーを読むべきだったはずです。わたしは今からでも遅くないと思いますよ。本当に素晴らしいですね。
『エミール』は、この八方ふさがりの時代に益々の必読書とも思います。日本の教育が、今行き詰まっているのも『エミール』を読まないからだっ!

すみません、取り乱してしまいました。
さて、
>ドロンの二役・・・
ふ~む。いやまったく、絶品ですよ。彼の分裂人間はっ!
むしろ、分裂してないドロンなんて、クリープを入れないコーヒーのようなもんです(例えが少し古かったでしょうか?)。

クリスチャン・ジャックのドロン=ルパンは、以前、オカピーさんの企画で最も優れたルパン企画であると興奮させていただいた記憶がありますが、カリオストロ伯爵夫人ですか?
こっこれは、また興奮しそうだ!
>ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーヴ
おおっ魅惑のジョセフィーヌ!
素晴らしいっ!
しかし、わたしからすると新しすぎます。あえて「ヌーヴェル・ヴァーグ」の女優は無視しましょう。
クラシックの正統で考えればジーナ・ロロブリジダ、もしくはフランソワーズ・アルヌール、世代を考えなければ、マルチーヌ・キャロル、ヴィヴィアンヌ・ロマンスあたりかなあ。マリー・ベルでも素敵な伯爵夫人になりそうっ!
やばっ、美輪明宏が浮かんできちゃった。

ガニマール警部は難しいですよ。トランティニャンやギャバンだとルパンを撃ち殺してしまいそうだ(笑)。
では、また。


オカピーさん
おおっ、お付き合い戴き有難うございます。

>カリオストロ伯爵夫人
マルチーヌ・キャロルは私も考えましたが、やや色気過多? フランソワーズ・アルヌールは全盛期では若すぎる?
ロロブリジダは大変イメージに近いですが、惜しむらくはイタリア人。まあこの際譲っちまいますか(笑)。

美輪明宏・・・却下(当たり前)。「黒とかげ」ではないんですから(爆)。

>ガニマール警部
イメージとは違いますが、ドロンと縁のあるリノ・ヴァンチュラ。この人を考えたら他の人が全く思い浮かばなくなってしまった(笑)。ルイ・ジューヴェも刑事役の実績ありますが、老けすぎ?

幻想映画館・・・楽しいですね。クラリスや乳母も考えないと(笑)。


トム(Tom5k)
オカピーさん、ようやく仕事も一段落と思いきや、今までの数倍の量の業務に襲いかかられましたよ。愚痴ですが参りましたよ。
さて、幻想映画館ですが、考えて観ることが出来ないというのが、残念ですが、いろんな企画を立てられそうですね。考えついた監督や俳優の違った個性にも気付かされます。
用心棒さんが、G×G対決のシナリオを記事にしていましたが、あれも面白かったです。
こういう企画も、たまにはいいかもしれません。
ではでは



いつも、アラン・ドロンが伝統的な俳優、そしてスターであること、彼の二面性が魅力的であることなどを基本に楽しくお話しさせていただいています。
オカピーさん、いつもドロン談義にお付き合いいただき、ありがとう。
トム(Tom5k)
[PR]

by Tom5k | 2007-07-14 18:28 | アラン・ドロンについて(10) | Trackback(2) | Comments(2)

『カサノヴァ最後の恋』~恋ひとすじに、過去への郷愁~

 アラン・ドロン製作総指揮の『カサノヴァ最後の恋』は、ロミー・シュナイダーとアラン・ドロンが共演した1958年の『恋ひとすじに』と同じく、アルトゥール・シュニッツラーを原作としたものであり、登場人物の構成に多くの類似点があります。
 クリスティーヌとフリッツは、マルコリーナ(エルザ)とロレンツィ(ヴァデック・スタンザック)であり、エッガースドルフ男爵は、老貴族セルシ侯爵(アラン・キュニー)。エッガースドルフ男爵夫人であるレナ夫人は、セルシ侯爵夫人であるデルフィヌ夫人にあたるような気がします。
 2作品の人物を較べてみると、クリスティーヌはイノセントな封建の女性であり、マルコリーナはルソーやヴォルテールを愛読し、毎日を学術・研究に費やす自立したインテリ女性を志向する近代女性であること。ロレンツィもフランツと異なり、マルコリーナを愛してはいても、結婚する決断までは出来ておらず、実力以上のプライドや思い上がった上昇志向と野心を持つ生意気盛りの若者であることなど、『恋ひとすじ』での美しい精神世界を持った主人公たちとは随分と異なる部分も多くあります。
 ところが、映画という虚構の世界を離れたとき、女優であったロミー・シュナイダーは、アラン・ドロン夫人に納まっていられるような封建の女性ではなく、あらゆるものを犠牲にしても女優として生き抜こうとした自立を目指した女性であり、アラン・ドロンはというと、俗物で野心とナルシズムの固まりのような若者だったといわれています。後で考えれば、本当にロミー・シュナイダーと結婚する気があったのかどうか疑わしい面も無きにしもあらずかもしれません?
【アランと一緒に生きたかったのです。それならどこかの田舎の家でもかまわなかった。どんな寒村でもよかった。でも同時にわたしは映画に出たかった。自分の職業を愛していましたから。わたしはこの板ばさみの状態からどうしても抜け出ることができなかったのです。】
(『ロミー・シュナイダー事件』ミヒャエル・ユルクス著、平野卿子、集英社、1996年より)
【彼はひどい俗物でした。有名になってお金を稼ぐことしか頭になかったのです。いつか家中にルノワールの絵を飾るんだ、というのが口癖でした。】
(『ロミー・シュナイダー 恋ひとすじに』レナーテ・ザイデル編、瀬川祐司訳、平凡社、1991年より)

 そういう意味では、カサノヴァに対するマルコリーナの冷たい知的なキャラクターと、ロレンツィの上昇志向の強い生意気なキャラクターは、『恋ひとすじに』のクリスティーヌとフリッツとは異なっていても、実生活でのロミーとアランには近かったといえましょう。

 ロミー・シュナイダーとアラン・ドロンが共演し、ふたりの激しいロマンスが燃えさかった『恋ひとすじに』から何年を経たでしょう。1992年の『カサノヴァ最後の恋』まで、すでに34年も経っています。当時はまだ22歳の青年だったアラン・ドロンも、現在は57歳の初老の男性となってしまいました。作品中でもロレンツィやマルコリーナに侮蔑的に老人扱いされる場面が何度もあります。
 当然のことながら、アラン・ドロンはロレンツィを演じる年齢ではありません。

 そう考えて、この『カサノヴァ最後の恋』を観たとき、わたしは非常に面白い観賞ができたのです。いつもアラン・ドロンは自分の外に自らの分身を求めます。この作品も例外ではなかったのでは?と考えました。つまり、今回は過去の自分とその恋人にその対象を拡げたのではないかということです。
 この作品では、ロレンツィの意地の悪い態度とマルコリーナの冷たい拒絶がカサノヴァに襲いかかります。彼らと必死に闘うカサノヴァの姿は、自分たちの若い頃と闘う現在のアラン・ドロンの姿のようにわたしには感じられたのです。若い自分たちの分身に屈辱的な仕打ちを受け、最後に自らそれらを粉々に打ち砕くカサノヴァ。

 フランス文学が専門の映画批評家でもある松浦寿輝氏は、前作『ヌーヴェルヴァーグ』で、ジャン・リュック・ゴダール監督がアラン・ドロンを商品化せずに彼のスター意識をはぎ取ってしまっていることに注目しています。
【ここでのアラン・ドロンは、ドロンをドロンたらしめてきたあらゆる衣裳を剥ぎ取られてただよるべなくそこにいる。~(中略)~ドロンはここで自身の肉体を商品化していない、ただ、自分がアラン・ドロンであることをすがすがしく忘れてしまっているのである。】(引用~『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン1 30年前から、ゴダール!』フィルム・アート社、1991年)
 前作『ヌーヴェルヴァーグ』でのゴダールの演出で、自身を丸裸にされたアラン・ドロンにはもう恐いものなどなかったのでしょう。映画作品を創るうえで、自分を繕うための体裁も必要ではなくなっていたのだと思います。彼は現在の裸の自分で、過去の裸の自分たちと、正面きっての思い切った闘いに挑んだのだと思います。

 カサノヴァがロレンツィを剣で倒したときの彼への接吻は、自身の過去への愛おしさ、マルコリーナに対する恋は、今はもういないクリスティーヌを演じたロミー・シュナイダーへのセクシュアルなこだわり。甘い初恋の想い出は、実にリアルな自己への投影であったように感じます。

 最後にふたりを追い込んでいくカサノヴァは、『太陽がいっぱい』でフィリップを刺殺するときや『悪魔のようなあなた』でクリスティーヌと手を組み、居直って警察を欺くピエールのように、ルネ・クレマン監督やジュリアン・デュヴィヴィエ監督のアラン・ドロンが全開でした。
 カサノヴァは自らの過去であるロレンツィと剣を交えながら語ります。
「この20年間に出会った男の中で最高だ。剣を交えたくなかった。最後に教えておきたい事がある。たとえば甘美と残酷だ。絶望と生きる力だ。」
 これは、アラン・ドロンの自らの過去、すなわちロミーとアランのカップルに対する現在から過去への語りかけなのです。

 そして、ルイ・マル監督の演出で演じた『世にも怪奇な物語、第2話 影を殺した男(ウィリアム・ウィルソン)』のラストシーンと同様に自らを抹殺するのです。自らの死、生きながらの死、それはもはや自らの生きる術、すなわち良心を抹殺しての生でしかなかったのです。
 マルコリーナとロレンツィを破滅させた後、ヴェネツィアへの帰還の意味するところは、自分の良心を売り渡してしまった裏切り者として生きる覚悟です。そして、それを選び、受け入れてしまったカサノヴァは、誰の責任でもない自らの意志でイバラの道を歩む決心をしたのです。カサノヴァは裏切り行為においてすら『自由』を貫いたのだといえます。彼こそは、真の『自由人』といえましょう。
【わたしは狂おしいほど女を愛してきたが、つねに女たちより自由を愛してきた。】(『カサノヴァ回想録』ジャコモ・ジロラモ・カザノバ・デ・ザイン著、ジル・ペロ-編、大久保昭男訳、社会思想社(現代教養文庫)、1986年)

カサノヴァ回想録
ジル ペロー 大久保 昭男 / 社会思想社





 アラン・ドロン自身においても、ロミー・シュナイダーを捨ててハリウッドに渡り、成功出来なかった過去への投影もあったのでしょう。
e0059691_0491445.jpg

 ラストシーンのヴェネツィアの古い街並みの景観と恋人たちを映し出す見事なカメラワークとナレーション、フェード・アウトのテーマ音楽の哀愁、オーバーラップされるアラン・ドロンの無表情の演技は、カサノヴァの複雑な心象をすべて巧みに表現しています。そして、これからの残った人生に全ての過去を背負い続ける覚悟のアラン・ドロンに、老いというものの真の美しさと孤独な自由を見い出すことができるのです。
[PR]

by Tom5k | 2006-04-22 15:35 | カサノヴァ最後の恋 | Trackback(2) | Comments(12)