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『アラン・ドロンについて』⑧~『ルネ・クレマン』評価の不足 豆酢さんとの対話から その2~

『ルネ・クレマン』~評価の不足とドロンとの出会い 豆酢さんとの対話から①から、わたしと豆酢さんの「ルネ・クレマン」分析も、双方いよいよ活況を呈して、どんどんとエスカレートしていきます。全く自制の欠片もございませんっ!

2008年6月16・17日
豆酢さん
難しいです。
クレマン監督の記事(前半ですが)を試しに書いてみました。
本当に、ある種とらえどころのない、評価が難しい映画作家の1人ですよね。私自身はヌーヴェル・ヴァーグに固執しているわけではないので、おそらくみなさんよりもっと主観的で気ままな意見になっていると思います。
FROSTさんの「居酒屋」のレビューも拝読しましたよ。で、昨日アップした記事に自分なりの深読み感想も添えてみましたわけで。あの時点でクレマン自身に葛藤が生まれていたのかもなあ…と、しみじみ思った次第です。一見、冷淡に突き放しているようにも見えるジェルヴェーズの描写は、裏を返せばクレマンの複雑な心境を吐露したものであったのかなあ、と。
この作品も、観る人によってそれぞれ捉え方が異なってくるでしょうね。観客の心のうちを映し出す万華鏡みたいです。

>「ドイツ零年」の記事・コメントに直リン

あんなんで良かったんですか?!恐縮です(^^ゞ。ありがとうございます。
で、あのコメントを書いた後ちょっと思ったのですよ。クレマン監督って、ものすごく、ものすごく器用な演出家だったんじゃなかろうかと。で、器用すぎたために、却って作家性の所在を疑われ、商業主義だと揶揄されちゃったのかもしれないと…。器用貧乏と申しますでしょ?だとしたら、再評価が進まない現状は、クレマンにとってとても気の毒なことであるでしょうね。

>なおさら彼らはデュヴィヴィエやオータン・ララ、クレマン・・・の再評価を自己批判に絡めて実施していく責務があるように思います。

今のフランス人にとっては、なかなか簡単なことではないのでしょうね。デュヴィヴィエの繊細なドラマ性なども、ヌーヴェル・ヴァーグのしがらみなどない日本人の方が、むしろ素直に評価できる側面もあります。

フィルム・ノワールの中には、社会から疎外された人たちがたくさん登場しますよね。むしろ、彼らが主役だと言っていいでしょう。そんなところも、クレマンがサスペンスの分野に傾倒した一因のように思います。松本清張も、当時の社会問題を背景に持つ作品が多いですものね。

>『太陽がいっぱい』は、当初の予定通りモーリス・ロネを主演にしたほうが、新時代との確執を埋めることができたように思い

歴史に“たら・れば”は付き物です。逆に考えると、ドロンが「太陽がいっぱい」に出演しなければ、その後のドロンのキャリアはなかったわけですから、私はこれはこれで良かったのだと思いますよ。

(クレマン理解に政治的解釈の必要性を感じたことを記した、わたしのコメントに対して)
クレマンの再評価って、映画作家としての才能云々以上に政治的な問題を抜きにしてはできないものなのでしょうか。純粋に作品のみで評価するというわけにはいかないのかなあ…。なんだか、それも悲しいものがあるなあ…。

そんなわけで、“クレマン監督よもう一度”記事をひとつTBさせていただきます。今の時点での考えなので、また時間をおけば変わる部分もあるかもしれません。


トム(Tom5k)
豆酢さん、クレマンの記事(「ストーリーテラーの哀しみ―ルネ・クレマン」)をお書きになられたのですね。
何だか楽しみです。
>政治的な問題
ふ~む、飛躍し過ぎたたでしょうかねえ?フランスのドキュメンタリー作家、アラン・レネやゴダールが急進的になって、五月危機とフランスの映画界が密接な関係になっていたことなどの影響など、また、フランスって政治家も文化人が多いので、ついそんなことまで・・・。特に、『希望』のアンドレ・マルローが文化相をしていた時代にシネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワが解任されたこと、など時代的なものに眼を奪われてしまったかしれません。
純粋な映画ファンにとっては、裏舞台というか、映画のフレームの外の社会背景なのですが・・・。
いずれにしても映画を観て、その素晴らしさを堪能する基本から離れる必要もないのでしょうね。
では、早速お邪魔します。
希望 テルエルの山々
アンドレ・マルロー / / アイ・ヴィー・シー





革命の夜、いつもの朝
/ ブロードウェイ




豆酢さん、こんばんは。
素晴らしいクレマン評、読ませていただきました。

>疲弊した祖国が戦後の混乱の中・・・自身を象徴していたのではないだろうか。
ここのクレマンの評価ですが、豆酢さんが『居酒屋』の鑑賞からのみによって、読み取られたものなのですか?
だとすると、凄いっ!
確かにこの時代は、これからの旧世代の冬の時代を予感させるものがあったようにも思います。それは、彼があのあまりの完璧な映像ゆえ、アカデミックな評価があまりにも多大にもたらされ過ぎた演出家になってしまったこと。彼の各種国際映画賞の受賞は半端な数ではありませんが、時代はジョージ・C・スコットがアカデミー賞を無視、サルトルがノーベル賞を受賞拒否するような意識的な権威失墜の時代、すなわち非アカデミックがむしろ必要とされてきた時代、おっしゃるとおり混乱の時代の到来だった。
パットン大戦車軍団
ジョージ・C・スコット / / 20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント





そして、アラン・ドロンとの出会い、これは世評(ドロンにとってのクレマンとの出会いというのが一般的)以上に、彼にとって大きな出来事だったのだと思います。特に登場人物への感情移入の描写を多用していったのはドロンと組んだ作品からで、観客の主観に任せきる突き放した描写は、ドロン、ブロンソン、トランティニャンなどを使うようになってからは影を潜め、おっしゃるとおり世評では商業主義に堕落したと言われる所以なのでしょうね。
これを透徹したリアリズムの描写への衰え、芸術家の堕落と見て、批判するのか、もしくは我々が感じているように新たな時代への挑戦と捉え、それを賛美するのか・・・・。
もちろん、わたしは後者で総括したいと思いますし、またその価値は十分にあると思うのです。
特に、ドロンがフランス国内において、その時代の若者を象徴していたのか否かという問題もあります。(本質的にはシンボライズされていても)むしろ戦後においては、ブルジョア青年の苦悩がシンボライズされていったようにも思います(「ヌーヴェル・ヴァーグ」において)。ですからドロンのような本当の貧困層の青年をシンボライズするための素地が映画界には無かったような気がするのです。コダールもマルも資産家のお坊ちゃんですからね・・・(だから、ドロンはフランスよりも日本やイタリアでの方が受けたんでしょう)。
いとこ同志
/ アイ・ヴィー・シー





獅子座
ジェス・アーン / / 紀伊國屋書店





逆にクレマン(むしろデュヴィヴィエやカルネ)のジレンマは、こういうところにもあったと見ています。
彼らはきっと
【ヌーヴェル・ヴァーグは本物なのか?】
と思っていた(懐疑していた)のではないでしょうか!

では、また。


豆酢さん
トムさん、ここまで書くのに何ヶ月かかったことでしょう(遅すぎ)。

トムさんやFROSTさんの記事に啓発されて「居酒屋」を再見しますとね、なんとなく上述したような感慨が生まれました。ジェルヴェーズの姿に、古い時代と共に忘れられようとしている自身を投影したのかなあ…と。そう思うと、また異なる意味で胸が痛いですね。

>時代はジョージ・C・スコットがアカデミー賞を無視、サルトルがノーベル賞を受賞拒否するような意識的な権威失墜の時代

これです。アメリカにおいてはニュー・シネマといった潮流ですよね。既成概念が揺らぎ、来るべき時代に向けて新たな規範をこしらえようと、世界中が悶絶していた時代でした。産みの苦しみにもんどりうっているような不安定な時代に、クレマンは立ち会ってしまったわけです。これはもう不運としか言いようがありませんね。

アラン・ドロンとの交流についてはトムさんの分析にお任せしますが、私自身は、むしろクレマンの方にカルチャーショックが大きかったのではないかと思います。1人の人間に、相反する資質が自ら備わっているドロン。そのアンビバレントなオーラに引き寄せられるように、クレマンは、複雑な人間の内面に入り込んでゆく方法論を選択したと思います。これは彼にとってしごく自然な成り行きであり、決して批判されるような眼力の低下によるものではないでしょう。

きっとね、ヌーヴェル・ヴァーグへの彼なりの回答とは、今までの人生で蓄積されてきた人間性への洞察、経験といったものを、映像に詩的に描き出すことだったのですよ。後半生のサスペンス映画群はとても人間臭く、生々しい感情に突き動かされるような描写が多いですよね。私には、それは新しい時代を見据えた作風にも見えます。

>彼らはきっと【ヌーヴェル・ヴァーグは本物なのか?】と思っていたのではないでしょうか!

夫に言わせますとね、基本的に大半のフランス人の自己認識は、ごくごく普通の労働者階級のそれなんだそうです。フランス社会において、インテリ階層というのは対外的にとても目立つ存在ですが、決して主流というわけでもないとか。ドロンは、一部の知識人のものだったエンターテイメント界を、大衆の手の内に戻したようにも見えます。まさしく下克上(笑)。そりゃあ、インテリ層にしてみれば、嫌な存在でしょうよねえ。ですから、なんだか無理矢理彼への評価を低く見積もっているようなフシもあるのでは。

デュヴィヴィエが晩年受けたインタビューで、「わしゃモダン・ジャズなんぞ大嫌いじゃ。いっこも聴かんわ」と吐き捨てていたのが印象に残っております。


まだまだ話は尽きないのですが、今回はこのへんで。
豆酢さん、みなさん、今後ともよろしくお願いいたします。
(それにしても、最後のデュヴィヴィエ先生の言葉、凄いですね。コカ・コーラを飲んだことの無いフランス人の話は、よく聞きますが、それと同様の自国への誇りの高さを感じます。)
トム(Tom5k)

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by Tom5k | 2008-07-19 21:56 | アラン・ドロンについて(10) | Comments(2)

『アラン・ドロンについて』⑦~『ルネ・クレマン』評価の不足 豆酢さんとの対話から その1~

映画ブログ「豆酢館」映画ブログ「新・豆酢館」を運営している豆酢さんの当ブログへの2007年7月10日付けのコメントが、ルネ・クレマンに関わる最初のコメントであったように記憶していますが、その約11ヶ月後の2008年6月以降、突如、ルネ・クレマン監督に関わる多くの記事やコメントが、わたしの周辺で飛び交う不思議な現象が湧き上がりました。

用心棒さん(「良い映画を褒める会」)のブログ記事『パリは燃えているか』(1966)敵味方にかかわりなく、ヨーロッパ人は深いところで繋がっている。』
シュエットさん(「寄り道カフェ」)の『ルネ・クレマン』
FROSTさん(「川越名画座」)の『ルネ・クレマン』
他にもまだまだ多くの方から、関連内容でのトラック・バックやコメントなどをいただきました(ジャン・ピエール・メルヴィルのご専門のマサヤさん(「LE CERCLE ROUGE BLOG」)の『パリは燃えているか』からまでもトラック・バックをいただきました。)。

一体どうしたと言うんですか?!みんなさん!

それにしても、小規模とは言え、熱い「ルネ・クレマン」ブームでありました。
みなさんの記事とコメントは、本当に素晴らしいものばかり・・・。長年にわたって、ルネ・クレマン(&アラン・ドロン)にこだわってきたわたしとしては、このうえない幸福でございました。

そして・・・当然のことながら、
豆酢さん(「豆酢館」)の『ルネ・クレマン研究室』からも・・・。
豆酢さんとも、たいへん充実したコメント交換ができましたので、是非ご紹介させていただきたいのです。



2007年7月10日
豆酢さん
そうです!!その通りです!!
(わたしのルネ・クレマンの記事「『ヌーヴェルヴァーグ』⑥~アラン・ドロンの二重自我 その1 想起するルネ・クレマンとの師弟関係~」に同調、歓喜していただいているところです。)

トムさんありがとうございます。実は今クレマン熱病に罹患しているところです(笑)。
「鉄路の闘い」「海の牙」…すごい作品ばかり。クレマン監督って、ものすごい才人だったんじゃないか!しかも一転して「居酒屋」や「禁じられた遊び」などの作風も撮れますし。
私が個人的に大好きなのは、「太陽がいっぱい」を頂点とするサスペンス映画群でして、特に「雨の訪問者」や「狼は天使の匂い」は、ぜひ再見したいと願っています。
そして、ドロンと組んだ一連の作品もぜひ観なければ…と思っていた矢先に!実にタイミングよく(笑)、トムさんがドロンとクレマン監督の関係性について触れてくれたわけですよ。

ただいまクレマン監督の熱烈支持記事を書いている途中なんですが(笑)、とっても勇気がわいてきました!ドロンとクレマン監督の師弟関係といった切り口で、彼らのコラボレーション作品を捉えた方っていないかもしれません。とても参考になりました。ありがとうございます。


トム(Tom5k)
ヤッホー、豆酢さん!
やっぱ、そうでしょ。クレマン監督ってすごいんです。おっしゃるとおり
>ものすごい才人・・だったんですよ。
しかし、このことは、正確に評価されていないっ!(怒!)。
何故なら、彼はピエール・ボストとジャン・オーランシュのコンビを脚本に使っていたから、というのが一般論です。
(~中略~)
ドキュメンタリー及びリアリズム作品という観点での評価はまるでない。
それでいいのか、といつも思っているんですよ。
フランスの誇り、それはルネ・クレマンではなかったか?!
とわたしはフランス国民に問いたいですよ。

>ドロンとクレマン監督の師弟関係・・・
わたしは彼が教育的、指導的な意味での力量も優れていたと思っています。
(~中略~)
『ヌーヴェルヴァーグ』という映画、ゴダール監督の反省映画として、わたしは捉えています。

豆酢さんのクレマンのレビュー、楽しみにしています。
では、また。


2008年6月10日~15日
豆酢さん
若輩者が出てきていいのだろうかと思いつつ、いまだルネ・クレマン監督の記事を中断したままになっている豆酢です(^^ゞ。途中までは書き上げているのですが、「太陽がいっぱい」以降の彼の作品をどのように観ようかと考え中です。
仰るように、彼に関する史料はないに等しいです。あっても作品リストを箇条書きに留めた程度のものだけ。ですから、ルネ・クレマン監督への再評価を願うならば、己の審美眼だけが頼りになるわけです。「居酒屋」など、もう一度きちんと見直してみたい作品があるので、クレマン応援団(笑)はもうちょっと地下に潜ります(^^ゞ。

過去に書いた「ドイツ零年」もTBさせていただきました。


トム(Tom5k)
豆酢さん、こんばんは。
>『太陽がいっぱい』以降の彼の作品をどのように観ようかと・・・
ふふふ、これは、わたしなりに総括しておりますよ。
クレマンの心情が手にとるようにわかるのです(ほんとかよ)。
実は彼のサスペンスが何なのか、これにはものすごく彼独自のものがあるような気がしているのです。今、そこを再整理してみたいと思っているんですよね。あとでコツをお教えいたしましょう(ほんとにコツなんてあるのかよ)。後ほど、そちらにコメントいたしますね。
>ルネ・クレマン監督への再評価を願うならば、己の審美眼だけが頼りになるわけです。
全くです。とにかく、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のクレマン批判は、うんざり・・・(何度も言っていますが、その実践は素晴らしく、その作品も素晴らしい、そして彼らも素晴らしいのですがね)。

おおっ、豆酢さんのクレマン応援団のレジスタンス、最後は歓喜ですね。
それから、『ドイツ零年』のTBありがとう。
では、また。

「『パリは燃えているか』②~ルネ・クレマンの再評価を望む~」を更新し終えて)
以前、豆酢さん、オカピーさんとコメント交換したときの内容でブログ記事としてみたのですが、何だかまだ書き足りていないような・・・。ルネ・クレマンは資料を探すのも一苦労で、あったかと思うと「ヌーヴェル・ヴァーグ」の評論家がこきおろしたものだったり・・・。
かなり、わたしの独自見解なのですが、同じドキュメンタルの左岸派と相容れなかった原因は、パリは解放されたという戦前派の楽天主義が大きな原因だったのではないかな、などと思っています。
同様に日本の今井正にも、戦争体験派の「戦後民主主義の健康で明るい、ようやく平和が訪れた日本」という現在を見る眼の楽天主義を感じてしまい、クレマンとの類似点が、とても気になっているところです。もう少し熟考してまた記事にしていきたいと思っているところです。
では、また。
青い山脈
/ Cosmo Contents





戦争と青春
工藤夕貴 / / 日活





豆酢さん
お返事が遅れました
トムさん、コメントとTBをありがとうございます。
鼻炎の薬のせいでちょいと体調を崩しておりました。

クレマン監督の記事を拝読しました。

私自身は、ヌーヴェル・ヴァーグを崇拝する人間ではないので、彼らが躍起になって戦前派を否定する姿勢も、かなりシニカルに見ています。
というのもね、用心棒さんも仰っていたけれど、“戦前派”、あるいは“戦後派”といった区別は、あくまでもその映画人の思想に属する領域でしょう?リーフェンシュタールの記事を書いていたときにも感じたのですが、映画人の力量と個人の思想とは、はっきり切り離して判断されるべきです。クレマンが本質的に楽観主義者であっても、だからといって彼の作る作品がすべて非現実的だと決め付けてはいけない。トリュフォーは素晴らしい理論家であり映画作家ですが、彼の意識の中にも、作品の中に息づく“普遍性”を否定しようとするエゴがあったのではないでしょうか。
レニ・リーフェンシュタール ART&LIFE 1902~2003 DVD-BOX
レニ・リーフェンシュタール / / エスピーオー





私のような人間がこんなことを書くのは暴言かもしれませんが、お叱りを受けるのを覚悟であえて書きますね。

ヌーヴェル・ヴァーグであれなんであれ、過去から連綿と続く映画の歴史から逃れることは不可能です。歴史が途中で消えることなく積み重ねられていった理由は、そこに普遍性が宿っているからこそだということを、私達は謙虚に受け止めねばならないのではないでしょうか。
ノスタルジアに浸れというのではなく、過去をありがたがれというのでもなく、今現在の映画が、良きにつけ悪しきにつけ、過去の遺産の上に成り立っていることを忘れないようにしなければ。

過去を否定するのではなく、良い部分を継承し、悪い部分は修正してさらに発展させていけばいいのになあといつも思います(笑)。
ピントがずれちゃいましたが、またトムさんちにお邪魔させていただきますね。


トム(Tom5k)
豆酢さんっ!
>『太陽がいっぱい』以降の彼の作品・・・
なのですが、
私は初期のレジスタンスもの、反戦ものは、戦争の悲劇→フランスの誇り→フランスの解放→そして歓喜であったというところの、すなわちフランス革命以降の第三共和政の勝利、との見解をフランス共産党までをも含めた統一戦線の魅力に反映させて、映画を創っていたように感じます。
ところが・・・・
彼が、戦後間もなく共和の精神がある種の現代における矛盾、今までの歓喜がもしかすると幻想であったのではないかということに気がついていったのではないか?と感じているところです。
特にアラン・ドロンという現代の社会矛盾そのものといった現代青年にめぐり合ったことで・・・です。

すなわち、戦後の凶悪な犯罪の原因が何にあるのか?そういったことに作家主義「ヌーヴェル・ヴァーグ」と異なる視点、また彼らの出現以降の新時代を踏まえて、現代劇、特に「サスペンス」という分野に入りこんでいったのではなかろうか、と考えます。
例えば『危険がいっぱい』『雨の訪問者』『狼は天使の匂い』『危険なめぐり逢い』などなど・・・。
豆酢さんはどう思われますか?
では、また。
危険なめぐり逢い
洋画 / / コロムビアミュージックエンタテインメント





豆酢さん
トムさん、ありがとうございます。
なるほどなあ。
クレマンのキャリア後半、自身の職人気質の演出力を「サスペンス」に傾けていったのはなぜなんだろうと、いつも不思議に思っていました。というのもですね、私が好きになる映画監督って、キャリア後半にサスペンス映画を好んで撮る傾向があるんですわ(笑)。シュレシンジャーも「マラソンマン」以降そうでしたしね。現在進行形のクローネンバーグも、今まさに彼なりのノワール映画を模索しているところですし。
マラソン マン スペシャル・コレクターズ・エディション
ダスティン・ホフマン / / パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン





ディレクターズ デヴィッド・クローネンバーグ
/ 東北新社





サスペンス映画の一体何が、才能ある映画監督たちを惹き付けるのでしょうね。興味ある事象です。

クレマンの場合、「サスペンス」という分野に、映画界における現代心理分析学の役割を見出した可能性もありますよね。やはりトムさんが指摘されたように、戦前、戦後の世界の変貌を目の当たりにして、一種の挫折感のようなものを彼なりに感じたのだと思います。
レジスタンスは、人々に主義主張の枠を超えさせ、大いなる大義の下に結集せしめたものでした。その結果得られた戦後社会は、より良いものになるはずだったのに…というね。フランスは戦勝国側でしたけれども、ヨーロッパの中でも大きなダメージを受けた国でした。国民にしてみれば、荒れ果てた国家の復興は、敗戦国並に厳しいものであったと推測されます。
そんな陰鬱な雰囲気の中で、複雑に屈折した若者がたくさん出現したのでしょう。彼ら戦後の若者像の象徴であるドロンとの出会いが、クレマンをして、戦争がフランスに残した傷跡を探る作業に向かわせたと思います。ヌーヴェル・ヴァーグの作家達が、それをしなかったとは思いません。ただ方法論が違うのでしょう。ヌーヴェル・ヴァーグがごくごく主観的に、あるいは無意識的に“戦争の記憶”を作品の中に抽出したのに対し、クレマンは多分意識的に、また戦後フランス社会全体を見渡す気持ちで、作品に投影していったようにも感じます。
戦争がフランスに与えた根深い禍根を、戦後を不安定な状態で生きる人々の心理面に見出そうとしたのでしょうか。不安定な心理を探るのに、確かにサスペンスというのは得がたいツールであるように思いますね。

それと、私自身は、クレマンの後半のキャリアの中で重要な作品は、実は「パリは燃えているか」ではなかろうかとも思っています。個人的に大好きなのは、「雨の訪問者」(ブロンソン最高!!)と「狼は天使の匂い」なんですけどね(^^ゞ。
対外的な評判はあまり良くない作品ですが、「パリは燃えているか」における戦争の捉え方に、単純には割り切れない苦々しいものを感じさせるのです。クレマンの複雑な胸中が伝わってくるような気がします…。
雨の訪問者
/ ビデオメーカー





狼は天使の匂い
/ ジェネオン エンタテインメント






トム(Tom5k)
豆酢さん、どうも。
>彼らが躍起になって戦前派を否定する姿勢・・・
確かに、当時のフランス映画界には相当の矛盾もあったんでしょうね。
でも、せっかくの素晴らしい過去のフランス映画を観るときの先入観を払拭しなければならない作業は現在、未来の映画鑑賞者に必要以上の負担を強いたように思うのです。

>トリュフォー
ルイ・マル、シャブロル、ロメ-ルも映画の普遍性には気がついて、過去の自分たちの功罪を自覚はしているように思いますし、ゴダールがドロンを使ったことでも特にカイエ派のそれは理解できます。
であれば、なおさら彼らはデュヴィヴィエやオータン・ララ、クレマン・・・の再評価を自己批判に絡めて実施していく責務があるように思います。

>サスペンス映画
これにはいわゆる「フィルム・ノワール」も含めての体系となるように思うのですが、最も社会問題を比喩しやすい、というか現実にこれだけ奇異な犯罪が増加していますからね。
姐さんのお好きな松本清張(viva jijiさんの「映画と暮らす、日々に暮らす。」のブログ記事『霧の旗』『点と線』『砂の器』)なんかもそうだったのじゃないですかね。霧プロの映画なんか、その典型ではないでしょうか?

クレマンの場合は戦後の挫折、そして自身の精神分析医としての前歴は大きな要素でしょうね。そして、ドロンとの出会いと「ヌーヴェル・ヴァーグ」の台頭、それを考えると『太陽がいっぱい』は、当初の予定通りモーリス・ロネを主演にしたほうが、新時代との確執を埋めることができたように思い複雑な心境になります。

>クレマンの後半のキャリアの中で重要な作品は、実は『パリは燃えているか』・・・
ええっ、そう思われているんですかっ!
わたしの記事に触発いただいて、用心棒さんの更新記事が『パリは燃えているか』です。わたしの主観レビューと異なり、なかなか鋭いご意見ばかりです。
わたしも負けずに後半部分、追記加筆してみました。

>『雨の訪問者』『狼は天使の匂い』
どちらもクオリティの高い作品ですよね。

あっそれから、「川越名画座」のFROSTさんが、『居酒屋』再見レビューをアップされていましたね。ご覧になりました?見事にわたしの意見とバッティングしています(笑)。
こう考えるとクレマン評は、ひとそれぞれ(ヌーヴェル・ヴァーグから観た場合も含め)で、評価が最も難しい作家のような気がします。観る側の主観によるところに任されてしまうんでしょうね。作品にそういう多面性が隠されているように思います。
あっそれから、わたしの追加筆に豆酢さんの『ドイツ零年』の記事・コメントに直リンさせていただきました。事後報告ですみません。
では、また。

まだまだ話は尽きないので、『ルネ・クレマン』~評価の不足とドロンとの出会い 豆酢さんとの対話から②へ。
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by Tom5k | 2008-07-19 20:44 | アラン・ドロンについて(10) | Comments(2)

『アラン・ドロンについて』⑥~フランス映画史体系 マサヤさんとの対話から~

2006年12月4日から12月13日にかけて、ジャン・ピエール・メルヴィルの熱烈なファンであるマサヤさんのサイト(マサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」の掲示板)にて、フランス映画史に関わるテーマで、たいへん充実したコメント交換ができましたので、ご紹介いたします。


トム(Tom5k)
マサヤさん
BOOKSのコーナーに追加された「キネマ旬報 1970年12月下旬号 No.538」は、わたくしも所有しております。貴重な情報満載でしたね。
表紙は『ラ・マンチャの男』なんですが、「キネマ旬報 1972年12月下旬号 No.595」に『リスボン特急』特集とシナリオが掲載されています。こちらも素晴らしい特集号でした。


マサヤさん
トムさん、こんにちは。
私も最近当時の『キネマ旬報』がいかにメルヴィルを扱っていたかを知り、驚いているところです。
『リスボン特急』の特集が掲載された、ご指摘の「キネマ旬報 1972年12月下旬号 No.595」もつい先日古本屋で手に入れたばかりです。
いずれ、このサイトでも紹介するつもりです。
ところで、安かったのでメルヴィル関連の記事が載っている「キネマ旬報」をまとめて買ってきたのですが、特に印象に残ったものは、メルヴィルが亡くなった後の「キネマ旬報 1973年11月上旬号 No.617」で、山田宏一氏が書かれた追悼記事です。
もっとも、山田氏は『サムライ』以降のメルヴィルは堕落したとまで言い切っている厳しいご意見の持ち主なのですが、それだけに、それ以前の『いぬ』『賭博師ボブ』あたりに寄せる愛情は並大抵のものではなく、それらの作品を語る文章には熱がこもっていて感動的なほどです。
いぬ
/ アイ・ヴィー・シー





賭博師ボブ
/ ビデオメーカー





いずれ、これらの記事を始めとする山田氏の文章は、このサイトでもまとめて紹介したいと思っていますが、それもいつになるやら分かりませんので(笑)、ここで少しだけ紹介させていただきます。

「・・・メルヴィルの暗黒映画の男たちにとって、帽子は女よりも命よりも大事なシンボルのように思えるからなのである。」
「帽子は、メルヴィルのクールで非情な暗黒映画の世界においては、唯一の男のやさしさの表現であると同時に、男のいのちであり、存在そのもののアイデンティティですらあるのだ。」
(引用~「キネマ旬報 1973年11月上旬号 No.617』掲載「シネ・ブラボー」ジャン=ピエール・メルヴィル追悼(2)山田宏一」 より)


トム(Tom5k)
マサヤさん、こんばんは。
当時の『キネマ旬報』の特集は、素晴らしいものが多く、わたしも古本屋に行くと、ついむかしのキネ旬を手に取って立ち読みしてしまいます。
ところで、山田宏一氏は、「わがフランス映画誌」では、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の項で、「アラン・ドロン映画」のお抱え監督になってしまった」などと評されていることから、アラン・ドロン作品のメルヴィルを評価していないように見受けられます。
わがフランス映画誌
山田 宏一 / 平凡社






わたしにとっては、そのことがむしろ素晴らしいことだったと思うのですが、映画史的な意味でいえば、確かに作品レベルの低下は免れなかったのかもしれませんね(わたしは、素直にそうは思いたくないのですが・・・)。それより前の時代が、凄すぎたんでしょうね。
追悼記事での小道具としての帽子の意味は初めて知りましたが、確かに言われてみれば、それを感じます。『サムライ』は、特にその意味を持つ作品のような気がします。
では、また。


マサヤさん
トムさん、こんにちは。
山田宏一氏著「わがフランス映画誌」(平凡社版ですネ)私も所有しております。
ちなみに、↑に引用した帽子に関する文章は「山田宏一のフランス映画誌」(こちらはワイズ出版)の「夜は帰ってこない―ジャン=ピエール・メルヴィル」という文章の中にも収録されています(全体的にキネマ旬報の文章とはところどころ異なる部分もあります)。
山田氏がアラン・ドロン主演のメルヴィル作品をあまり評価してらっしゃらないことは事実のようです。
山田宏一のフランス映画誌
山田 宏一 / / ワイズ出版





キネマ旬報の追悼記事を読む限り、アラン・ドロンその人をあまりお好きではないような印象を受けます(『暗黒街のふたり』を評し、ジョヴァンニの世界にまでアラン・ドロンが闖入したなんて憂慮にたえぬ・・・とまで書いています)。
作品レベルが低下したというよりは、メルヴィルがドロンと組むことによって、コマーシャリズムに身を売ったことに対する落胆が大きいようです。
しかし、メルヴィルは以前からすでにジャン=ポール・ベルモンドやリノ・ヴァンチュラを主演に迎えて映画を撮っている点からも、『サムライ』以後、急に商業主義に傾いたわけではないのでは?と私個人は思っているのですが。
事実、58年の『マンハッタンの二人の男』を撮った後、「これからは金になる映画を撮る」と言っていたようですし。(「キネマ旬報 1970年春の特別号 No.520 J・P・メルビル+その他の人びと その全作品を語る」より)
マンハッタンの二人の男
/ 紀伊國屋書店





ドロンなくしては『サムライ』や『仁義』といった傑作(しかも、なんという傑作!)は生み出されなかったでしょうから、私もトムさん同様、山田氏とは当然感じ方が異なります。
しかも、それらはコマーシャリズムとか通俗化と切り捨てるにはあまりに魅力的な作品ではないでしょうか。
ただ、『いぬ』以降ほぼリアルタイムでメルヴィルの作品を(日本未公開作品含め)観ていた山田氏の感じ方もまた分からなくはない気もします。
事実、氏の熱っぽい文章にはなんともいえぬ説得力があるんですよね(笑)。


トム(Tom5k)
マサヤさん、こんばんは。
帽子に関する文章は「ワイズ出版」版)だったんですね。残念ながらこちらは持っていなかったので、マサヤさんの情報のみでした。あの本、高いですよね。なかなか手が出なくて・・・。
山田氏は、基本的に前時代のデュヴィヴィエ、カルネ、フェデールなどの「詩(心理)的レアリスム」の作品を、あまり評価されていないような気がします。まして次世代のジャン・ドラノアやクリスチャン・ジャック、クロード・オータン・ララ、ルネ・クレマンなど、ほとんど話題にもしていませんし・・・
すなわち、山田氏の考え方は、極端に言えば新時代「ヌーヴェル・ヴァーグ」だけがフランス映画なのだとの主張とも受け取れます。
アラン・ドロンなどは、スターとして、プロデューサーとして、反(もしくは非)「ヌーヴェル・ヴァーグ」というか、前時代的というか、そういった映画人ですから、結果的に否定せざるを得なかったのではないでしょうか?ここまで来ると山田氏の考え方というよりも、フランス映画史の現在までの体系に言及しなければなりません。
わたしは常々、ここのところにフランス映画史の矛盾を感じております。つまりドロン主演のメルヴィル作品への批判が的を得ていないのであれば、「ヌーヴェル・ヴァーグ」と、その前時代の映画史体系を再整理する必要があると感じているのです。
デュヴィヴィエやカルネ、フェデ-ルたちを無視して、ルノワール、ベッケル、クルーゾーたちを評価するのみでは、あまりの短絡であると思っています。
ゴダールがアラン・ドロンと映画を撮ったこと、ヴァルダの映画史にドロンが登場したこと、をどう解釈したらよいのでしょうか、フランス映画史の再編は近いうちにどこかで整理されていくように信じています。
『サムライ』や『仁義』、『ヌーヴェルヴァーグ』や『百一夜』などから想起してしまうことは、結局はフランス映画は旧時代の素晴らしさを認めざるを得なかったということなのです。
そしてメルヴィルは、それを先見して前時代をシンボライズしていたドロンを使ったのだと思うのです。
では、また。


マサヤさん
トムさん、こんにちは。
トムさんの感じてらっしゃるようなフランス映画史の矛盾は私も常々感じていることで、特に現在の日本では、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を評価するあまり、それ以前のフランス映画がほとんど無きものであるかのごとき評価が定着してしまっているのではと思われることがあります。
それは同時に、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の連中が評価したフランス映画のみが(それ以前の映画では)評価されるという実情にもつながってしまってもいるのではないでしょうか。
また、それは現在では日本独自の評価ではないのか、とも感じております。
それはゴダールやヴァルダの件に表れているのかもしれませんね。

山田氏の場合、著書「友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌」に見られるような「ヌーヴェル・ヴァーグ」の連中との個人的な親交と、その作品への熱狂が、トムさんご指摘の“反ヌーヴェル・ヴァーグ”的なアラン・ドロンという存在への反発につながったのは?と思うのです。
増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (平凡社ライブラリー)
山田 宏一 / / 平凡社





ことに日本ではドロンの人気が凄かったために、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表的俳優である(山田氏が大好きと公言する)ジャン=ポール・ベルモンドのライバル的存在であったアラン・ドロンへの感情的な反発という面もあったのではないでしょうか。
「山田宏一のフランス映画誌」(友人に貸したので今手元にありません)に掲載されているアンリ・ドカへのインタビューに、“上手くゆくはずがないと思っていたメルヴィルとドロンが『サムライ』で上手くいったのは何かがおかしかった”という文章(厳密にこの文章ではありません)がありますが、大変象徴的な記事であり、それがある意味、山田氏の意を強くしたのではないか、とも思うのです(※注)。

※注
マサヤさんのブログLE CERCLE ROUGE BLOGの「Category(アンリ・ドカ)」には、これらに関連した素晴らしい内容の記事がたくさん載せられています。

しかしながら、メルヴィル本「サムライ」を読む限り、根っからの映画ファンであるメルヴィルは“スター”という存在が単純に大好きな人で、それが当然のごとくドロンの起用につながった、そして、メルヴィルの頭の中には「ヌーヴェルヴァーグ」の連中が考えていたような映画史的な観点はほとんどなかったのではないか、というのが私個人の考えです。
サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生
ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希 / 晶文社






先日、マルセル・マルタンという人が書いた「フランス映画1943-現代」というかなり面白そうな本を手に入れました。
現代、といっても1983年ぐらいまでの戦後フランス映画の総括的な本ですが、これを読んで更に勉強してみたいと思っています。
フランス映画 1943~現代
マルセル マルタン / / 合同出版






トム(Tom5k)
マサヤさん、わたしばっかりコメントしちゃって、他のこのサイトのファンのみなさんに怒られちゃいますよね。申し訳なく思いつつ、書かずにはいられません。
フランス映画史の矛盾に関わっては、マサヤさんもわたくしと同意見をお持ちとのこと、たいへんうれしく思います。
>「ヌーヴェル・ヴァーグ」を評価するあまり、それ以前のフランス映画がほとんど無きものであるかのごとき評価が定着してしまっているのではと思われることがあります・・・。
それは現在では日本独自の評価でもあるとも感じております。

山田氏のドロン嫌いは、客観的ではなかったのかもしれませんね。しかも、フランス映画評論の権威になってしかるべき実力派の評論家ですし・・・。
さらに南俊子氏や渡辺祥子氏のミーハー的なドロン論が当時は一般的でした。これでは、本質的なフランス映画の体系などを整理することなど、日本では極めて困難であり、実に残念なフランス映画評論史といえましょう。
マサヤさんのおっしゃるように、メルヴィルの作品は「スターの存在」が極めて重要な位置におり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」と異なる存在となっていったのかもしれません。
結果的にかもしれませんが「俳優としての存在」をも両立させるものだったようにも思います。
アラン・ドロンは、その両側面を兼ね備えていたことから、双方にとって理想的なコンビであったように感じます。
マルセル・マルタンの「フランス映画1943-現代」。これは、何としても手に入れて読破せねばなりません。マサヤさんも読破されたら内容をご紹介ください。
本当に連続のコメントすみません。
では、また。


マサヤさん
トムさん、こんにちは。
ここはもともと書き込みの少ないサイトでして(笑)映画に関することならどんな書き込みでもサイトの活性化につながりますので大歓迎です。
まして、トムさんのご意見は鋭く、私も勉強になることばかりですのでご遠慮なくどうぞ(笑)。
ところで、ある種の暴論として聞いていただきたいのですが、私は評論家は必ずしも客観的である必要はないと思っています。
むしろ、好き嫌いがハッキリしている人の文章の方が読んでいて面白いと考えています。
山田氏の文章が読んでいて面白いのは、氏の嗜好に読む者を動かす“熱”があるからだと思います。
それを“映画愛”と言い換えてもよいかもしれません。
その文章は“評論”というよりも“愛情の吐露”に近いようにも思えます。
ご指摘の“ミーハー的ドロン論”などにも顕著かと思いますが、日本人とフランス映画との関わりから考えますに、トムさんが仰る通り、本質的なフランス映画の体系を日本で整理することは(今のところ、というか未だに)不可能ではないでしょうか。
もちろん、時代を経て、客観的に論ずる評論家が現れる可能性もありますが、どれだけ読者を獲得できるでしょうか・・・。

その意味で、紹介しましたマルセル・マルタンの「フランス映画1943-現代」は、フランス人の書いた戦後フランス映画史として貴重かと思います。
私が読破するのはいつのことになるやら分かりませんが、メルヴィルに関する文章も散見され、いずれこのサイトでも紹介するつもりでおります。


トム(Tom5k)
お言葉に甘え、またも連続コメントしちゃいます。
わたしのブログ記事でもコメントさせていただきましたが、「世界の映画作家18 犯罪・暗黒映画の名手たち/ジョン・ヒューストン ドン・シーゲル ジャン・ピエール・メルヴィル」(キネマ旬報社、1973年)及び、メルヴィル監督の『恐るべき子供たち』を購入してしまいましたよ。また、マルセル・マルタンの「フランス映画1943-現代」も注文してしまいました。更に、アニエス・ヴァルダの『百一夜』も再見してしまいました。
すべて、マサヤさんの影響でございます(笑)。
恐るべき子供たち
コクトー / / 光文社





恐るべき子供たち
/ ビデオメーカー





>時代を経て、客観的に論ずる評論家が現れる可能性もありますが、どれだけ読者を獲得できるでしょうか・・・。

う~む、確かに客観性は、情熱・映画愛などと反比例する側面もあるかもしれません。

さて、わたしのブログ記事でも何度か取り上げている内容のことで、マサヤさんにお聞きしたかったんですが、『サムライ』の監督にマルセル・カルネが名乗りをあげ、ドロンがそれを蹴った、という逸話ですが、ご存知でしょうか?
映画評論家の秦早穂子のエッセイ「パリの風のなかで」(講談社、1979年)で触れられているのですが、本当に信憑性のある逸話だったのかどうかを、以前から疑問に思っておりました。
彼女は、かつて「映画評論」や「映画の友」等などのレビュー記事などでご活躍され、フランス政府からフランス映画文化紹介によって、芸術文化賞まで受賞されている権威ある文化人です。ですからこの逸話の紹介も信頼できるものであったと思ってはいるのですが・・・。
あまり一般に知られていない内容なものですから、違う方面からの同内容の情報などあればお教えいただきたいと思っております。
パリの風のなかで (1979年)
秦 早穂子 / / 講談社





では、また。


マサヤさん
トムさん、こんにちは。
いろいろ買われましたね(笑)。
『恐るべき子供たち』をトムさんがどうお感じになるかも興味深いですが、メルヴィルが載っている「世界の映画作家18」はあまり見かけないので貴重ですよ。
しかも700円と安価だったとか。
ところで全くの偶然なのですが、一昨日私もこの本を買ったのです。
もちろん、すでに1冊持っていますが、それよりも状態が良く、しかも650円とあまりに安かったのでつい買ってしまいました(笑)。
こういう物欲はキリがありません。
『サムライ』の監督にマルセル・カルネが名乗りをあげたという件、私は全くの初耳です。
本「サムライ」を読んでもそれらしい記事はなかったように思います。
しかし、それほどの方が紹介されたお話ですから、本当なのでしょうね。
それにしても、マルセル・カルネ監督の『サムライ』はちょっと想像できませんね(笑)




マサヤさんは、ジャン・ピエール・メルヴィルのみならず、広く映画を愛好されている方です。わたしのわがままな話題にお付き合いしていただき、たいへんうれしかったので、ご本人のご承諾をいただいて今回の記事更新としました。
トム(Tom5k)
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by Tom5k | 2007-09-02 15:35 | アラン・ドロンについて(10) | Comments(14)

『サムライ』④ ~鍵束についての疑問 Astayさん と語る~

あるサイトにおいて、2006年11月9日から18日までの期間、アラン・ドロンのファン、及びその関連作品の熱烈な愛好家・コレクター等であり、ブログAstay☆Astay☆Astayを運営されているAstayさんと対論を交わしたことがごいました。
たいへん有意義でしたので、Astayさんの了承を得ずして、更新記事のアップをしてしまいます。


Astayさん
トムさん
"さむらいトム"さん
正直私は『サムライ』についての疑問点がたくさんあるんです(笑)
では・・・


トム(Tom5k)
>『サムライ』についての疑問点がたくさんあるんです。
とのこと。
興味がありますねえ。よかったら、教えて下さい。
では、また。
さむらいトム


Astayさん
トムさん、では、ちょっとだけ『サムライ』の疑問点を
でもこれはあるサイトに書かれてあった何方かのお言葉です

1.侍は孤独だ云々で始まるが、ドロンはかなり緊密なネットワークを築いており、決して孤独ではありえない.

2.最初シトロエンを盗むのに使った合い鍵の大きく重そうなあの束はいったいどこに消えたのか? 警察でも見つからずに済んだ.
捨てたのかと思えばさにあらず.もう一度同じような鍵束で車を盗む.しかも細身仕立てのウールコートのポケットから出てくる.おまえは手品使いか?

皆さん良くご覧になってますよね
で、私の一番の疑問点は、あの傷のお手当てに使用したガーゼ等を
なぜ、あんな紙袋のまま道端に捨てたのか?です
フランスってゴミ箱ないのでしょうかぁ~(* ̄m ̄)プッ


トム(Tom5k)
>Astayさん
ところで、『サムライ』の疑問点ですが、なんと難しい疑問点なのでしょうか?

>1.侍は孤独だ云々で始まるが、ドロンはかなり緊密なネットワークを築いており、決して孤独ではありえない.
確かに、おっしゃるとおりかもしれません。
しかし、どこかに孤独な自分をまだ、持っていたのかもしれません。
まして、彼の生育歴から過去においては孤独な時代も多くあったはず。
ですから、スターになった彼が孤独でないようでも、孤独を知っている男なのです。つまり、孤独を上手に表現できる俳優・スターなのです。
例えば、幼い頃から青年期までの貧困な生活、ハリウッドでの挫折、ロミーとの破局、ナタリーとの確執等々・・・。

>2.最初シトロエンを盗むのに使った合い鍵の大きく重そうなあの束はいったいどこに消えたのか? 警察でも見つからずに済んだ
>捨てたのかと思えばさにあらず.もう一度同じような鍵束で車を盗む.しかも細身仕立てのウールコートのポケットから出てくる.おまえは手品使いか?

あれは、儀式としての盗みであり、折り目正しい彼の行動原理を、「フィルム・ノワール」の作風で表現したものです。それが表現できれば良いので、そういった物理的な疑問は愚問だと思います(Astayさんの疑問じゃないですよね)。

※注
【疑問そのものが愚問だということではなく、侮蔑的な疑問の持ち方及び表現が大愚であると思うわけです。疑問そのものは大切なこと、これは言うまでもありません。】

観賞中は、演出効果におけるジェフの行動理解を優先すべきでしょう。
もっといえば、異化効果(ドイツの劇作家、詩人、演出家であるベルトルト・ブレヒトの演劇論による理論で、鑑賞者の思いこみや観賞の前提を、言葉や行動形態によって「ちょっとへんだな」とすることで強いショックを与え、俳優の演じる役柄や物語の内容に対する鑑賞者の作品への自然な同化をわざと妨げる手法)をねらったものかもしれません。

警察がジェフの部屋に盗聴器を仕掛けるシーンを入れれば三度あります。メルヴィル監督によれば「チャップリンの貴重な原則・・・観客に反応してもらうために同じことを三回見せるという原則」だそうです。

>あの傷のお手当てに使用したガーゼ等を
なぜ、あんな紙袋のまま道端に捨てたのか?

おっしゃるとおり、欧米ではゴミは持ち帰りの原則なんでしょうね。自分で出したものは自分で処理するのは日常の習慣となっているはず。
実はジェフは、惚れた死神ヴァレリーに会いたい一心のシーンでございます。無我夢中で、公共性がなくなったのだと思われます(ホントにかい?)。
もしかしたら、同様に異化効果をねらったシーンかもしれません。

【参考 『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年
及び
『トム(Tom5k)の勝手な推測』】を根拠に回答いたしました。ご批判を!
ジャン・ジャン!

では、また。
サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生
ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希 / 晶文社






Astayさん
トムさん
私の疑問『ゴミ』についての疑問に
素晴らしいお答えありがとうございます<(_ _)>

”惚れた死神ヴァレリー”がここで登場するとは思いませんでした
孤独なサムライ・ジェフもただの男だったのねってとこでしょうかぁ
何故か納得です

この前トムさんが購入された
『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著
は買わなければなりませんね
Amazonにまだ1冊だけ残ってました・・・買おうかな
ちょっと難しそうな内容だけど
全然読めないフランス語の本と違って(写真だけ楽しんでます・・・)
日本語なので何とかなるでしょう~

別サイト(マサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」の掲示板))での『サムライ』対談も面白かったです
あの、看板がモーリス・ロネだとは気付きませんでした

HP作成は夢の夢のまた夢で~す



Astayさんは、非常に実行力のある方で、ルイ・ノゲイラの著作をすぐに購入され、夢であった
ホーム・ページ(Cinema of Monsieur Delon)も、もうとっくのむかしに作成されています。
なお、マサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」の掲示板でも同様の疑問点が提示され、活発な議論が交わされていました。

鍵束についてのマサヤさんのご意見
「ジェフが鍵束を置きに部屋に戻るシーンをメルヴィルが描かなかったのは、あの映画前半の完璧ともいえる流れの中では、あまり必要ではなかったからではないか」
こちらの視点が最も説得力のあるご意見となっていたように感じております。
では、また。
トム(Tom5k)
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by Tom5k | 2007-08-02 23:48 | サムライ(6) | Comments(5)

『アラン・ドロンについて』⑤~伝統的キャラクター・アクター、二重自我の魅力 オカピーさんとの対話~

映画の良心というキャッチ・フレーズがピタリとはまる、わたしのブロ友のプロフェッサー・オカピーさんをお招きして?アラン・ドロンの本質的な魅力をさぐってみました。

実は、過去に何度もわたしの話題にお付き合いしていただいたこと、これが何とも有意義なコメント集になっていましたので、オカピーさんのご了承も得られ今回の更新記事としました。


2005年12月29日
オカピーさん
ルネ・クレマンは素晴らしいですね。基本的にタイトな作風で無駄がない。それは初期のドキュメンタリー・タッチの作風が晩年まで続いたということなのでしょう。彼のベスト5は、「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」「居酒屋」「海の牙」「しのび逢い」辺りと思います。
 アラン・ドロンもお好きなようですね。実は私も大好きで、演技者としてもっと評価されるべきと思っています。かつてアルセーヌ・ルパンに夢中になった私としては若い頃「黒いチューリップ」で颯爽としたところを披露した彼にルパンを演じてもらいたかったところです。「太陽がいっぱい」「冒険者たち」「若者のすべて」「サムライ」「山猫」あたりが贔屓作品です。


トム(Tom5k)
オカピーさんの嗜好は、クレマンにしても、ドロンにしても王道ですね。
アラン・ドロンは『世にも怪奇な物語』のウィリアム・ウィルソン、勧善懲悪の『怪傑ゾロ』、『黒いチューリップ』、多くの「フィルム・ノワール」作品のギャングや殺し屋などの伝統的なキャラクターがよく似合います。
戦前のクラッシック映画を70年代に復活させた俳優なのではないでしょうか?

2006年4月2~4日
>『山猫』のドロンこそ私のアルセーヌ・ルパンのイメージ
とのこと。
わたくしも以前から、ドロンがアルセーヌ・ルパンを演じたらピッタリだと以前から思っていました。
彼はクラシック、つまり古典がよく似合う俳優だと思いますので、『ルパン』以外にも『ドラキュラ』や『ジキルとハイド』などの古典の名作に、もっと出演して欲しかったと思っています。
最も演じて欲しかったのは『吸血鬼ドラキュラ』です。

ところで、最近、色々なブログでオカピーさんのコメントに出会います。わたくしの映画の嗜好と似ているのでしょうか?
非常に愉快です。
魔人ドラキュラ (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
ベラ・ルゴシ / / ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





ジキル博士とハイド氏 コレクターズ・エディション
フレデリック・マーチ / / ワーナー・ホーム・ビデオ





奇傑ゾロ
ダグラス・フェアバンクス / / アイ・ヴィー・シー






オカピーさん
トムさん、こんにちは。
用心棒さんジューベさんのところでお会いしましたね。基本的に古い映画をとても大切にしている方たちばかり。映画に対する愛情と探究心が深く、文章も大変うまい。おかげで自分が<井の中の蛙>であったことを思い知らされました。

ルパンを演ずるにはやや陰もある貴族の末裔的な雰囲気が重要だと思うのですが、ロマン・デュリス(先般の「ルパン」でのルパン役)では散文的でお話になりません。尤も未見ですけど。
『ゾロ』は展開は荒かったですが、ドロンは良かったなあ。『黒いチューリップ』は最近観ていませんが、結構好きですね。
ルパン
ロマン・デュリス / / 角川エンタテインメント







トム(Tom5k)
>オカピーさん、夜中に失礼します。
うかつだったのですが、ジャック・ベッケル監督の『怪盗ルパン(LES AVENTURES D'ARSENE LUPIN)』があったのを忘れておりました。未見ですが、いつか観たいと思っております。残念ながらDVDもビデオも販売されていないようです。
しかし、かのベッケル監督ですから、期待できそうな気がしており、DVD化を強く期待しています。
Les Aventures D Arsene Lupin
Maurice Leblanc / / Hachette





かつて『ベルモンドの怪盗二十面相』というルパンのパロディ作品が公開されたときのことを思い出しました。わたしは、オカピーさんと同様にドロンにルパンを演じて欲しかったので、ライバルのベルモンドに先をこされたような気がして(作品は、本来のルパンのイメージとは全く異なるドジな泥棒のコメディでしたけれど)、くやしい気持ちになっていたことを思い出します。
オカピーさんはドロンのルパンが実現していたら、監督は誰が理想ですか?
わたしは、なんと言ってもジュリアン・デュヴィヴィエ監督に演出して欲しかったです。


オカピーさん
トムさん、こんばんは。
ベッケルの『怪盗ルパン』は私も観ていません。ベッケルはタッチの良い監督ですので、確かに期待できますね。ルパンはイメージが出来ているので、怖い感じもしますが。
『ベルモンドの怪盗二十面相』・・・そんな映画もありましたね。ベルモンドとは古い付き合いのフィリップ・ド・ブロカが監督でしたが、全く記憶に残っていないところを見ると、大したことはなかったのでしょうか。

古典的なムードを出せ、洒落っ気があり、流れるような文体を誇るデュヴィヴィエで文句なし。スリラーにも実績がありますし。


2006年5月31日~6月2日
トム(Tom5k)
オカピーさん、TB・コメントどうもでした。
(『仁義』について)キャスティングが豪華すぎて、焦点がぼやけたのかもしれませんね。わたしはブールヴィルの警視を単純に主役にすべきだったのかなとも思っています。まあ、それはメルヴィル監督も気がついていて、次作『リスボン特急』での刑事の孤独にテーマを絞った理由なのだろうと感じています。
それから、『仁義』の後、メルヴィル監督はドロンでルパンを撮る企画を立てていたそうです。実現していれば、独特のルパンものになったでしょうね。


オカピーさん
トムさん、こちらこそコメント有難うございました。
なるほど、ブールヴィルを主人公に据えてもっと短くすれば、純文学的な方向で上手く作れたかもしれませんね。トムさんのご意見を借りれば、性善説・性悪説の対比が主題として。
そうですか。ドロンのルパンは夢ですから実現して欲しかったなあ。でも、演出がメルヴィルでは相当重くなったでしょうね。あれから考えましたが、演出者として、『黒いチューリップ』を撮ったクリスチャン=ジャック辺りでも上手く作れたかもしれませんね。


トム(Tom5k)
オカピーさん、あんまり、うれしいことを言ってくれるので、連続の書き込みをしてしまいます。
もうまさにクリスチャン・ジャック監督のドロンのルパン、今すぐに見たくなってしまいましたよ。実現したら最高でしたでしょうね。
日仏合作『黄金仮面(明智小五郎VSルパン)』で三船の明智と再共演や、英(もしくは米)仏合作『ルパンVSホームズ』でテレンス・ヤング監督のブロンソンのホームズとの一騎打ちとかなんていうのも面白いかもしれませんね。
ブロンソンは『雨の訪問者』の印象で、ホームズが浮かびました。
考えただけでワクワクしてきますよ。
では、また。
雨の訪問者(字幕スーパー)
チャールズ・ブロンソン / / コロムビアミュージックエンタテインメント







オカピーさん
トムさん、返事が送れてすみません。
三船の明智は良さそうですね。多分天地茂より良い(笑)。
ブロンソンはちょっと英国臭がないかなあ(※注)、という印象です。テレンス・ヤングは良いかもですね。
今となっては全てが夢の夢。
「雨の訪問者」ですか。懐かしいですね。当時絶好調だったフランシス・レイの音楽が耳にこびりついていますよ。「パリのめぐり逢い」「個人教授」「ある愛の詩」・・・良い仕事をしました。レイのサントラ主題曲集なんてないかしら。
フランシス・レイ作品集
オムニバス / / ビクターエンタテインメント
※ オカピーさん、ここにありましたよ。でも、これサントラかな?トム(Tom5k)



※注
その後、ブロンソンのホームズ役を何人かの友人に話してみましたが、揃ってホームズ役は合わないとのブーイング意見でした(笑)。トム(Tom5k)



2007年4月21~27日
トム(Tom5k)
(『復讐のビッグガン』について)こっこれは、珍しい作品を取り上げましたね。
わたしとしても、ほとんど無関心な作品だったんですが・・・。
17・8年前に一度観たきりです。ファンとして失格ですけど、ただ注視すべきは、おっしゃるとおり
>ピエロ姿のドロン
このシークエンスには、確かに感じるものがありますよ。いずれ整理して記事にはしたいと思っています。やっぱオカピーさん、鋭いですなあ。
最近、何十回目でしょうか、豆酢さんも好きなロージー監督の『パリの灯は遠く』を観ました。何十回観ても素晴らしいものは素晴らしいです。
ではでは。


オカピーさん
トムさん
>ピエロ姿のドロン
深く検討すれば、『黒いチューリップ』とは同じであり逆でもある、人間の仮面性といったところに行き着くところではありますよね。
『パリの灯は遠く』は不条理な悲劇でしたね。色々複雑な思いを抱いた作品ですが、実は30年前に一度しか観ていないです。すみません。


トム(Tom5k)
(『黒いチューリップ』について)待ってました、オカピーさん!(笑)
二重人格や一人二役はアラン・ドロンの右に出る者はいないとまで思っていますよ。恐らくですが、ドロン自身もそういった役柄にかなりの陶酔感を持っていたのではないかな?
>冒険ものの三大設定
やっぱり、クリスチャン・ジャック監督なんかは、フランス映画の最後のクラシック作品の作り手だけあって、セオリー・基本が見事ですよね。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品も好きですけど(本当に大好きです)、戦前から戦後60年代始めくらいまでのフランス映画は最高です。
吉永小百合さんもリアル・タイムで見ていたらしく、絶賛されていた記憶があります。アニエス・ヴァルダ監督も『百一夜』で強調していたように思いますし、女性ファンが多い作品だと思います。
こころの日記 (1969年)
吉永 小百合 / / 講談社





>彼のアルセーヌ・ルパン
最近、ジョニー・トー監督のノワール作品にドロンが出演するらしいとの情報がありますが、老ルパンの役なら、まだ期待できるかも。わたしとしては、ルコントかベッソンあたりで制作してほしいですね。
ああ、またなんかカルネやクレール、デュヴィヴィエ、フェデールなんか見たくなってきちゃった。


オカピーさん
トムさん、こんばんは。
本当にドロンの二役には痺れますよねえ。
また大物はこういう役を一度はやりたがりますね、プロデューサーや監督に求められるまでもなく。

ヌーヴェルヴァーグ以降の作家が小手先というわけではないですが、それ以前の作家は、フランスに限らず、小手先ではなく本当に基本を大事に作っていますね。

>老ルパン
そう言えば『ハーフ・ア・チャンス』では、初老の怪盗紳士役を楽しそうにやっていました。
ベッソンは劇画的になりすぎる傾向があるので、私は文芸色のあるルコントで観たいです(笑)。


最近なかなかお邪魔できずにすみません。
今ピークで、へーへー言っております。

私の読書の幅も益々広がって文学では物足りず、思想・哲学も守備範囲にしようかと思っております。「社会契約論」も読んでみたいですねえ。昔の記憶を辿ると、「民約論」とも言いましたね。ルソーは興味深い著書が多いですよね。「エミール」「告白録」「新エロイーズ」など。
人間不平等起原論 社会契約論
ルソー 小林 善彦 井上 幸治 / 中央公論新社






エミール
ルソー / / 岩波書店





それはさておき、(『黒いチューリップ』について)ドロンの二役が最高でした。結局はドロンのために作られた作品ということに尽きますよね。
この時代の彼で、ルパン・シリーズの傑作「カリオストロ伯爵夫人」をクリスチャン・ジャックで作ったら永久保存版になっただろうなあ。さあ伯爵夫人は誰にさせましょうか?稀代の悪女です。同時代の女優なら、ジャンヌ・モロー? 80年代に入って貫禄の出てきたカトリーヌ・ドヌーヴでも良いかなあ。
済みません。妄想の世界に入ってしまいました。


トム(Tom5k)
>オカピーさん
おおっ!ジャン・ジャック・ルソーを、ですかっ!日本人は、民主国家になった段階でここが不足しているがために、本来の意味での近代国家に成りきれていないのだと思いますよ。多くの人が、江戸末期から明治初期にかけてルソーを読むべきだったはずです。わたしは今からでも遅くないと思いますよ。本当に素晴らしいですね。
『エミール』は、この八方ふさがりの時代に益々の必読書とも思います。日本の教育が、今行き詰まっているのも『エミール』を読まないからだっ!

すみません、取り乱してしまいました。
さて、
>ドロンの二役・・・
ふ~む。いやまったく、絶品ですよ。彼の分裂人間はっ!
むしろ、分裂してないドロンなんて、クリープを入れないコーヒーのようなもんです(例えが少し古かったでしょうか?)。

クリスチャン・ジャックのドロン=ルパンは、以前、オカピーさんの企画で最も優れたルパン企画であると興奮させていただいた記憶がありますが、カリオストロ伯爵夫人ですか?
こっこれは、また興奮しそうだ!
>ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーヴ
おおっ魅惑のジョセフィーヌ!
素晴らしいっ!
しかし、わたしからすると新しすぎます。あえて「ヌーヴェル・ヴァーグ」の女優は無視しましょう。
クラシックの正統で考えればジーナ・ロロブリジダ、もしくはフランソワーズ・アルヌール、世代を考えなければ、マルチーヌ・キャロル、ヴィヴィアンヌ・ロマンスあたりかなあ。マリー・ベルでも素敵な伯爵夫人になりそうっ!
やばっ、美輪明宏が浮かんできちゃった。

ガニマール警部は難しいですよ。トランティニャンやギャバンだとルパンを撃ち殺してしまいそうだ(笑)。
では、また。


オカピーさん
おおっ、お付き合い戴き有難うございます。

>カリオストロ伯爵夫人
マルチーヌ・キャロルは私も考えましたが、やや色気過多? フランソワーズ・アルヌールは全盛期では若すぎる?
ロロブリジダは大変イメージに近いですが、惜しむらくはイタリア人。まあこの際譲っちまいますか(笑)。

美輪明宏・・・却下(当たり前)。「黒とかげ」ではないんですから(爆)。

>ガニマール警部
イメージとは違いますが、ドロンと縁のあるリノ・ヴァンチュラ。この人を考えたら他の人が全く思い浮かばなくなってしまった(笑)。ルイ・ジューヴェも刑事役の実績ありますが、老けすぎ?

幻想映画館・・・楽しいですね。クラリスや乳母も考えないと(笑)。


トム(Tom5k)
オカピーさん、ようやく仕事も一段落と思いきや、今までの数倍の量の業務に襲いかかられましたよ。愚痴ですが参りましたよ。
さて、幻想映画館ですが、考えて観ることが出来ないというのが、残念ですが、いろんな企画を立てられそうですね。考えついた監督や俳優の違った個性にも気付かされます。
用心棒さんが、G×G対決のシナリオを記事にしていましたが、あれも面白かったです。
こういう企画も、たまにはいいかもしれません。
ではでは



いつも、アラン・ドロンが伝統的な俳優、そしてスターであること、彼の二面性が魅力的であることなどを基本に楽しくお話しさせていただいています。
オカピーさん、いつもドロン談義にお付き合いいただき、ありがとう。
トム(Tom5k)
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by Tom5k | 2007-07-14 18:28 | アラン・ドロンについて(10) | Comments(2)

『太陽はひとりぼっち』④~アントニオーニ作品について にじばぶさん と語る~

2007年6月17日付けで、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品について、わたしのブログ仲間のおひとりにじばぶさんと、たいへん有意義なお話ができましたので、ご紹介いたします。


トム(Tom5k)
にじばぶさん、ご丁寧なコメントありがとうございました。
>アントニオーニ関連のブログ
世紀の巨匠を語っているにじばぶんの記事は特別扱いしないと(笑)。

わたしも仕事が忙しくて記事更新もDVD鑑賞もたいへんですよ。最近はつい愚痴りたくなってしまいます。

それから、ぶーすかさんオカピーさん用心棒さんも、みなさん面白い方たちですよね。お知り合いになれてよかったと思っています。

アントニオーニ関連の記事はお気になさらないでください。ご丁寧にありがとうございました。
返って申しわけなく思っているところです。是非是非マイペースで。

>『欲望』
欲望
ヴァネッサ・レッドグレーヴ / / ワーナー・ホーム・ビデオ





おおっ。素晴らしい作品ですよね。わたしもこの作品はいろいろ考えさせられました。

最近『夜』と『女ともだち』をレンタルしてきました。これらも素晴らしい作品でしたよ。いずれ、みなさんと議論したいなあ、などと思ってしまいました。
さすらい/夜
/ アイ・ヴィー・シー





女ともだち
エレオノラ・ロッシ=ドラゴ / / ジェネオン エンタテインメント





では、お互いマイペースで頑張りましょう。


にじばぶさん
>Tom5kさん
コメントありがとうございます。

おっしゃるように、ぶーすかさんもオカピーさんも用心棒さんも、私とは比べようもない程の沢山の作品をご覧になられている方々なので、いつもあの方たちのブログやサイトを楽しみに観ているんです。
そして何より勉強になりますね。

『欲望』は大好きな作品で、観てから時間が経っても頭の中で色んなシーンがどんどん浮かび上がってくきますし、とにかく不思議でとてつもない魔力がこめられた作品ですよね。

とても魅力的で不思議な風の吹きすさぶ公園での撮影。
その後のゾクゾクするような現像シーン(ブロー・アップ・シーン)。
写真をどんどん引き伸ばしていって、いきなり人の手らしきモノが現れた時の、あの驚き!すごいですねー^^
そして更に引き伸ばしたら、見やすくなるどころか逆に見えなくなってしまったという顛末。
一定距離でしか見えないものは、そこに存在すると言えるのだろうか?言い切れるのだろうか?
存在の不確かさ。逆に不存在の曖昧さ。
どちらが存在するもので、どちらが存在しないものなのか?
それすらも終盤には分からなくなる。非常に哲学的な作品。
考えさせられます。

『夜』は、実は実質的にアントニオーニ作品の中では、『太陽はひとりぼっち』の次くらいに好きな作品になるかもしれません。
でも点数は7点をつけました。
何故かって言いますと、冒頭の末期ガンの友人が出てくるシーンがとても怖くて苦手だからです。
怖いから点数を低くするというのも幼稚かもしれませんが、あまりに怖すぎて不快感が出てしまったのです。
それだけ人の死に際って怖いですね。

でもその冒頭のシーンを除けば、上でも書いたように『太陽はひとりぼっち』の次くらいに好きなシーンの数々が続きます。
特にジャンヌ・モローがふらふらと街中を歩くシーンが大好きです。
理由は分からないのですが、とにかく惹かれるシーンです。
理屈ぬきの感覚的な好みです。

『女ともだち』は、私が始めて観たアントニオーニ作品で、全くああいった映画を見慣れていない頃に観た作品でした。
なので、もう一度見直すべき作品なのかもしれません。

長々と失礼しました。
これで一つの記事が書けてしまいそうな分量のレスをしてしまいましたね。(苦笑)

これをコピーして一つの記事にしようかしら?(爆)


トム(Tom5k)
にじばぶさん、わあ、すばらしいご意見ですね。

こちらにも素敵な記事がありました。覗いてみてください。わたしのコメントもあります(笑)。
(ヘンリーさんのブログ『マジック・映画について思うこと』 「太陽はひとりぼっち/L’ECLIPSE」)
(ヘンリーさんのブログ『マジック・映画について思うこと』 「欲望/BLOW-UP」)

>『夜』
いやあ、何とも言えずジャンヌ・モローの魅力はヌーヴェル・ヴァーグ諸作品の彼女に勝るとも劣らなく素晴らしい。彼女とは思わず不倫したくなりますよ(笑)。もちろん向こうが相手にしてくれないと思いますが(爆)。

>ジャンヌ・モローがふらふらと街中を歩くシーン
わたしもあのシーンに魅力を感じます。ブルジョアの虚無、不毛の愛の心象風景なのでしょうね。

ラスト・シーンの夫婦の抱擁もセクシュアルでありながらも、もう決して取り返しのつかない虚無的な夫婦愛でしたね。お互いの愛の確認はもう無理なんですよね。
あれならば、むかしからよく言う「貧乏人の子だくさん」のほうが、ずっと自然で美しく本質的な意味でのエクスタシーを得られるように思います。
ここ数年セックスレスなどという新語もできてますけれど、そういう意味でも時代を先取りしたアントニオーニの先見はさすがです。

>これで一つの記事が書けてしまいそうな分量のレス・・・これをコピーして一つの記事に・・・
是非是非、にじ&トムの対談記事で記事更新してくださいよ。にじばぶさんが無理なら当ブログで記事にしちゃってもいいですか?

今日は、『さすらいの二人』をレンタルしてきちゃった。久々にアントニオーニにはまっています(笑)。
さすらいの二人
ジャック・ニコルソン / / ソニー・ピクチャーズエンタテインメント





では、また。


にじばぶさん
>Tom5kさん

ご紹介のリンク先の記事拝見しました。
以前に両方とも拝見したことのある記事だったように思います。

<ラスト・シーンの夫婦の抱擁もセクシュアルでありながらも、もう決して取り返しのつかない虚無的な夫婦愛でしたね。お互いの愛の確認はもう無理なんですよね。(中略)ここ数年セックスレスなどという新語もできてますけれど、そういう意味でも時代を先取りしたアントニオーニの先見はさすがです。

おおぉ。
鋭いですねー!
おっしゃる通りです。
近年急増したセックスレスのまさに雛形といえるでしょう。
都会人の虚無感を描いた部分といい、その先見の目には脱帽です。

<にじばぶさんが無理なら当ブログで記事にしちゃってもいいですか?

是非是非、記事にしちゃって下さい。
とても嬉しいですね。

『さすらいの二人』は、ラストシーンが物凄く印象に残っています。
カメラが不思議な動き(部屋の中から外に出る動き)をするラストシーンです。
ジャック・ニコルソンが全編に渡って、気だるくウロウロするロードー・ムーヴィなテイストも大好きな作品です。


というわけで、にじばぶさんのご了承もあり、記事更新としました。
トム(Tom5k)
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by Tom5k | 2007-06-19 00:10 | 太陽はひとりぼっち(5) | Comments(21)

『山猫』①~映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい mimiさんとの対談から ~

 わたしはルキノ・ヴィスコンティ監督の映画における知性は、彼が若いころにジャン・ルノワール監督の助監督をしていた時代の影響が大きかったのではないかと推測しています。ルノワール作品『ゲームの規則』には
「映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい。」
とのセリフがあり、これはヴィスコンティ作品の悲劇の土台となっている思想ではないかと思われるのです。「が正しい」という言葉を「を認める」と読み替えるとよくわかります。

ゲームの規則
/ 紀伊國屋書店





 彼の作品は、新興ブルジョアジーの台頭による貴族階級の崩壊、無産階級の悲惨、ホモ・セクシュアル、近親相姦、自由恋愛など、あらゆる矛盾や俗悪にあえて寛容であったように思え、そのためにすべての作品が悲劇的なストーリーになっているように思えるのです。

 しかし、その寛容さは同時に、彼の映画人としてのしたたかさにも通じていると思われます。『若者のすべて』は、政治的な圧力からベネチア映画祭グランプリを受賞することができなかったと聞きました。当時、イタリアの戦後復興の時代には、「ネオ・リアリズモ」の潮流が自国イタリアのイメージ・ダウンにつながる恐れがありました。イタリア当局の政治的圧力によって、その映画潮流は急速に衰えざるをえなかったのでしょう。
 『山猫』の前作である『若者のすべて』が製作された頃は、正にそういった時代でした。このことは、彼に大きな衝撃を与え、その後の進むべき道は別な選択に成らざるをえなかったのではないでしょうか?

 そして、彼が選択した道、それは自己自身、つまり貴族階級を描くことだったのです。

 それがこの『山猫』です。更に、ここで特記すべきはこの作品のキャスティングです。サーカスの出身者で、ハリウッドになじめず独立プロダクションを起こしていたアメリカ俳優の異端児バート・ランカスター、『若者のすべて』のロッコや『太陽がいっぱい』のトム・リプリーなどで社会の貧困層を演じたアラン・ドロン、『刑事』や『鞄を持った女』『ブーベの恋人』で社会の底辺を生きる女性を演じることが似合っていたクラウディア・カルディナーレを、貴族や新興ブルジョアジーの有産階級の主役に抜擢したことです。これは常識的に考えれば、すべてミスキャストです。
バート・ランカスター―不屈のタフガイ・スター
梶原 和男 根岸邦明 / 芳賀書店





刑事

ピエトロ・ジェルミ / アミューズソフトエンタテインメント



ブーベの恋人 (トールケース) [DVD]

アイ・ヴィー・シー



 ルキノ・ヴィスコンティ監督がリアリズム作家といわれている理由はどんなに細かいセット・衣装・装飾品等でもすみずみにまで本物を使用するからです。

 何故、このような配役でこのような作品を完成させたのでしょうか?

 彼は当時「赤い公爵」と呼ばれ、貴族の末裔でありながら、コミュニストでした。基本的に無産階級の人間と有産階級の人間に違いなどないという思想が彼の信条であったわけです。

 彼は貴族階級を描くことで、イタリア当局と「ネオ・リアリズモ」の確執の時代に敢えて逆らわず、しかし、その貴族の配役に最下層を生きる役柄の似合う俳優たちを起用したことで、もしかしたら、コミュニストとしての思想・信条を転向しなかったのか・・・???
 作品の内容も貴族と平民の婚姻を物語の中心に据えています。彼はこの作品で当時の自分の周囲の矛盾を一気に解決しようと試みたのか・・・???

 その真実を突き止めるには熟考を要するでしょうが、少なくても、これらのことには彼が若い頃に影響を受けたジャン・ルノワール監督の
「映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい。」
という思想が全うされているとは思うのです。

 そして、この作品でのバート・ランカスター、アラン・ドロンは貴族階級に、クラウディア・カルディナーレは振興ブルジョアジーに、わたしには彼らが本当の有産階級の人物にしか見えませんでした。
【参考~ 『ヨーロッパ映画(イタリア映画 ヴィスコンティ作品の貴族と民衆)』 佐藤忠男著、株式会社第三文明社、1992年】

 『山猫』はニーノ・ロータの悲愴、壮麗な旋律の音楽から始まります。
 1860年8月、イタリアシチリア島の雄大な山脈の麓に毅然と構えるサリーナ公爵家の豪邸。白いカーテンが激しい山風に舞い揚がり、時代の変革期に翻弄される公爵一家の避けられない運命を暗示しているようです。
 イタリア動乱の中、公爵は相変わらず、平穏な姿勢で家族を慰めます。

 公爵の甥タンクレディが共和軍に義勇兵として参戦することにより、しばらく間の別れを告げるために公爵家を訪れます。その時の公爵との会話は仲の良い父と子のようで、タンクレディの愛嬌のある笑顔が本当に素晴らしい。サリーナ公爵の彼への眼差しが愛情と期待を表現していて、ほほえましいかぎりです。
 そして、タンクレディの出発を一家で送り出す場面、公爵令嬢コンチェッタが愛するタンクレディに抱える不安と淡い期待、すべてニーノ・ロータの音楽に織り込まれています。タンクレディの出発の場面はそれだけでひとつの作品のようです。ルキノ・ヴィスコンティ監督の舞台演出としての第1幕だと思います。

 タンクレディとアンジェリカの出会うシーンは、歴代の文豪たちが描いてきたのと同様に、貴族の日常の社交場に設定されています。紳士と淑女たちは社交の辞を交わし、談笑しています。

「今、娘が参ります。」
 新興ブルジョアジーのドン・カルジェロが不馴れな様子で貴族たちに軽蔑、嘲笑されながら誇らしげに言い、輝かしくばかりの美しいアンジェリカが登場します。賑わいの社交場の突然の静寂。衆目がアンジェリカに集中し、タンクレディの視線もまた、その美しさに吸い込まれるように釘付けになります。

 しかし、ルキノ・ヴィスコンティ監督のアンジェリカの描き方には実に厳しいものがあります。タンクレディの品のないジョークにいつまでも笑い続けて周囲を白けさせたり、指をなめて上目づかいで公爵を見たり、舌なめづりをしたり、監督のブルジョアジーに対する軽蔑は、愛すべきアンジェリカの描き方にさえシビアに表れ、彼女の品位の欠落が貴族と平民の間の距離感と価値観の差を感じさせます。

 もっとも、アンジェリカの無垢な美しさを上手に表現していることでもわかるように、階級による偏見を持たずに本物の美しさを見抜く眼力もやはり、彼の美への意識が本質的なものであることは言うまでもありません。真に美しいものに対する人間の感受性は同じで、映画でもアンジェリカのその美しさは地位、富、名声などすべてを得ることになります。

 それにしてもコンチェッタは気の毒です。
 わたしには、貴族社会の崩壊を、コンチェッタの失恋によって象徴的に描いたことが印象的です。このような時代の変換期でなければ、タンクレディとコンチェッタはとてもお似合いの素敵なカップルで、生涯円満で平和な家庭を築いていったはずだからです。

 しかし、貴族の地位や名誉がブルジョアジーに譲り渡される方法が、革命によるものではなく、タンクレディとアンジェリカのロマンスに昇華させていることに、ルキノ・ヴィスコンティ監督の寛容な知性を感じます。そして、ニーノ・ロータやヴェルディの素晴らしい音楽がタンクレディとアンジェリカの若さ溢れる、美しいふたりにぴったりのイメージを創り上げています。
ロータ:映画音楽集「道」「山猫
ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団 ニーノ・ロータ ムーティ(リカルド) / ソニーミュージックエンタテインメント



 サリーナ家に訪れた準男爵シュヴァレーは、公爵に上院議員の話を持ちかけます。このとき公爵は「シチリア人は豊かさよりも、誇りを選んで貧困に耐える。」と言い放ちます。これも心に響く言葉です。「変わるものなど何もない。変わっても良くはなるまい」と公爵は答えます。どんな革命や改革、選挙等によっても人間社会には限界があるということなのでしょう。

 「山猫と獅子は退き、ハイエナと羊の時代が来る。そのだれもが己れを「地の塩」だと信じている。」という公爵の呟きは、誰もが「地の塩」にはなりえないという意味でしょう。つまり、そう思っているのは自分たちだけであって、本当に「地の塩」と呼べる階級は存在しないという虚無感からのセリフです。

 舞踏会も終わり、愛し合うタンクレディとアンジェリカが公爵の馬車での帰宅途中、暁の静寂を破った共和軍処刑の銃声の響きと同時に、ドン・カルジェロが安心した表情で「これから安泰だ。」と呟きます。アンジェリカはタンクレディに額に口づけされ、彼に寄り添っています。タンクレディに愛され、守られ、満足そうな表情のアンジェリカ。彼らが運命を共にする新時代の主人公になったことが伝えられる場面です。

 思えば、サリーナ公爵一行が馬車でドンナフガータの夏の別荘へと出かけるシーンで、共和軍が一家を検問し、差し止める場面があり、タンクレディは強引にそこを通らせますが、恐らく彼は共和派と貴族の相違を敏感に感じたのではないでしょうか?後にイタリア正規軍に入隊しなおした大きな理由のひとつとなったエピソードだと思います。

ヴェルディ:椿姫 全曲
コトルバス(イレアナ) バイエルン国立歌劇場合唱団 ユングビルト(ヘレーナ) マラグー(ステファニア) ミルンズ(シェリル) ドミンゴ(プラシド) バイエルン国立管弦楽団 ヴェルディ クライバー(カル) / ユニバーサルクラシック





 ドンナフガータの公爵一行の歓迎場面では「われらジプシー女」を市の楽団が演奏します。教会への行列入場には「アーマミ・アルフレードーわたしを愛してー」が奏でられます。

 公爵にとっては、タンクレディから議員になることを告げられたことは、溺愛の甥が貴族の誇りを棄てたようにも思えたはずです。貴族の新しいスタイルでの存続を共和主義の精神に、屈辱ではあっても納得し、寛容に受け入れ、いや、むしろ時代の理想を生きようとしていたタンクレディを真から愛し、新しい時代を尊ぼうとしていたサリーナ公爵とコンチェッタにとっては新時代への挫折・絶望・哀しみだけが残った結末だったかもしれません。

 このようにルキノ・ヴィスコンティ監督の自己矛盾の解消は根本的な解決方法にはなり得なかったのかもしれません。でも、「赤い公爵ヴィスコンティ」の下層市民への愛情と期待はこの作品の随所に感じられます。
 ピローネ神父が下層の貧しい人たちに対して「領主たちと我々は価値観が全く違う。」という説明をする場面は、彼が貴族に対する理解を下層市民に求めていたようにも感じられました。そして、ブルジョアジーとはいえアンジェリカの母親が小作農出身の娘であることとしたことからも下層市民に対する愛情を感じ取ることができるように思います。

 ラスト・シーンの公爵の呟きは、映画の正確なシナリオでは

「星よ、我が忠実な星よ。お前はいつになったら約束してくれるのか。こんなひと夜かぎりではない約束を。お前の永遠に不変の胸にいつ私を迎えてくれるのか。この愚かさと流血から遠く逃れて」

です。
 死の床に苦しむ人に祈祷を捧げ、その魂を解放するために神父が公爵の横を通り過ぎることで、彼の死の世界への憧れと流血と暴力の現実への嫌悪を表現したものなのかもしれません。


= 注 =
このレビューは、わたくしトム(Tom5k)の友人であるmimiさんとの対談をまとめたものです。

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山猫 オリジナル・サウンドトラック盤、音楽:ニーノ・ロータ
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by Tom5k | 2005-02-26 23:46 | 山猫(2) | Comments(24)