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『リスボン特急』②~芸術として難解な「フレンチ・フィルム・ノワール」~

 最近、フィルムアート社から発行されている古山敏幸氏の著作『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』を読んで強い刺激を受け、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品を再見してばかりいます。

映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル

古山敏幸 / フィルムアート社



 その著作の中で、最もわたしの関心を惹いた項目が、「第7章-アラン・ドロン三部作 『リスボン特急』」でした。
 『リスボン特急』には、以前から非常に大きな魅力を感じていました。
 これは、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の遺作でもあり、アラン・ドロンの主演作品としては、彼らの最後の作品です。この著作を読みながら、ファンにとって、こんな当たり前のことを、あらためて再認識することができて、ますます興味を惹かれるようになったのです。

 また、わたしにとっては、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』、ロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』に続く、「女性一人と男性二人の主人公(アラン・ドロン・シリーズ)」第四作目としている作品なのです。しかも、シリーズ第一作がルネ・クレマン、第二作がルキノ・ヴィスコンティ、そして、この第四作目がジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品ですから、彼の映画俳優としての最大級の3人の師匠の作品ばかりであり、いわゆる彼の引退作品であるパトリス・ルコント監督の『ハーフ・ア・チャンス』で完結することになるものとして、アラン・ドロン主演作品史としての極めて重要な位置にある作品として解釈しています。
 また、「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の遺作『悪魔のようなあなた』と、初めてジャック・ドレー監督と巡り会った『太陽が知っている』、そして最愛のミレーユ・ダルクを主演にして撮った『愛人関係』を、このシリーズに入れるか否かは非常に悩むところではあります。

 それはさておき、この作品は、ほとんどの批評等で失敗作と評価されています。また、主役のエドワード・コールマン警部を演じたアラン・ドロンでさえ、後年、次のように述懐しています。

【>『サムライ』でメルヴィルは刑事モノと言うジャンルを浄化させたと思います。この作品は今活躍している多くの監督たちに影響を与えていますね、タランティーノやジョン・ウーとか。
>アラン・ドロン
>もう少し早くこうなってくれなかったのが残念だ!ウーはメルヴィルに影響を受けているのは間違いない。人はよく誰かにインスピレーションを受けているが、メルヴィルはそうではないことを忘れてしまっているね。彼は自分の世界、彼の映画の考え方、視点を確立していた。誰にでもお手本がいるんじゃないか。私の場合はジョン・ガーフィールドだ。(注:米国俳優1913-1952:代表作に『紳士協定』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』がある)不運にもメルヴィルは若くして亡くなった、まだ一緒に映画を撮るはずだったのに。『リスボン特急』は中途半端な失敗作になってしまったからね。メルヴィルはとても落胆していた。果てしない議論もしたが、監督は本当に頑固一徹でね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/1 「回想するアラン・ドロン:その5(インタヴュー和訳)」

 また、現在では、世界一といっても良いほどジャン・ピエール・メルヴィルの熱烈なファンであり、信奉者であるマサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」での『リスボン特急』のレビュー記事でも厳しい評価となっていますし、『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』でも、「贔屓目にみても傑作とは言い難い」旨の記載があります。
 ですから、これは一般論と言えるでしょう。

 しかしながら、作品が優れたものか否かは別として、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、この作品を撮った直後に非常に興味深い発言をしています。

【少し前から・・・せいぜい数ヶ月位前からだったが、私は自分がついに芸術家になったことを感じている】

 彼は、何をもって芸術家の自覚に至ったのでしょうか?彼はこの発言の前段で、

【(-略)『リスボン特急』については、少し難解だというような批評もあった。だが、私は最近になって、映画というものは単なるスペクタクル芸術ではないということを発見したのだ。私は非常に長いこと映画はスペクタクルだと信じ込んでいたのだが、ここ数年の新しいアメリカ映画の諸作品を見て、自分が間違っていたことに気がついたのだ。(-中略-)映画は文学、音楽、絵画の三つを結合して、我々の文化に取って変わったのだ。映画は総合芸術だ。多数の芸術なのだ】
【引用 「キネマ旬報」1972年12月下旬号No.595】

とも発言しています。

 わたしは、これが文芸的題材で撮った初期の『海の沈黙』や『恐るべき子供たち』を完成させた時代の発言であれば、彼の映画作家としての自覚として、すんなりと納得はできるのですが、捜査プロットを全面に表出させた典型的な「フィルム・ノワール」作品として、スター俳優のアラン・ドロンとカトリーヌ・ドヌーブを主演させ、1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」に最も近づいたとも思える『リスボン特急』の完成時のものですので、たいへん不思議な印象を持ったのです。
 同じアラン・ドロンが主演している「フレンチ・フィルム・ノワール」ではあっても、『サムライ』や『仁義』の方が、その要素が内在している作品のように思います。

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 わたしは、『サムライ』で「サイレント映画」時代、『仁義』で1930年代の「ギャングスター映画」時代のアメリカ映画を再現したジャン・ピエール・メルヴィル監督は、この『リスボン特急』で1940年代の「フィルム・ノワール」を再現し、その実践を完成させたように感じています。
 更に、「『リスボン特急』については、少し難解だというような批評もあった。」という当時の批評も、この作品のテーマを解釈するうえで、やはり非常に不思議で興味深いものです。これは、映画芸術を脱皮してポリス・アクションの閾値に辿り着いた作品であるように感じる印象とは、あまりにも懸け離れている解釈のような気がするのです。
 どちらかと言えば、それは難解ではなく、分かり易い失敗作というのが現在での批評の一般論ではないでしょうか?

 しかし、それが、例え失敗した結果だったとしても、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の意図していた『リスボン特急』、そのエッセンスの理解に努めることは、あながち無駄なことではないと思っています。
 わたしは、彼が映画作家として『リスボン特急』を完成させた意味において、常に自分の過去の作品を超越しようと試みていた実践の帰結であったように思え、そのことを踏まえれば、そろそろ再評価の取組みが必要になってきている時期だとも考えます。

 そこで、わたしなりに、この作品のいくつかの印象深いショットを挙げてみると、

 まず、コールマン警部が殺害現場に向かう途中のパリの街のネオン・サイン、これは「フィルム・ノワール」の原点ともいえる夜の都会の描写であり、それは、クリスマスで賑わう表側の世界から見えない隠れた裏社会を想像させる魅惑的な犯罪都市の情景でした。

 そして、到着した事件の現場での殺害された売春婦の死体と、それを上から覗き込んで検死するコールマン警部のクロ-ズ・アップを交互にカット・バックするモンタージュ・ショット、ここは実に前衛的なフォトジェニーとして映像化されていました。

 また、法医学研究所の解剖室でのアンドレ・プッス演ずるシュミット(マルクの偽名)の検死体を視察するときのポール・クローシェ演ずるモランとコールマン警部の会話でのセリフ
「-人間が警官に対して感じざるを得ない感情が二つある。うさん臭さと嘲りだ。嘲り・・・」
の後、コールマン警部を演じたアラン・ドロンの精神不安定な外観の描写は、権力批判の客観描写にまで昇華させて、そのクローズ・アップを「シャドウ」で撮っています。
 ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジョセフ・ロージーの演出であったなら、いや、過去のジャン・ピエール・メルヴィルであっても、間違いなくここで「鏡」に映ったアラン・ドロンを撮ったはずです。
 これは、俳優アラン・ドロンのアイデンティティの喪失を描写するには持って来いのショット、18番のカメラ・ワークであり、彼に対する最も効果的な基本描写ともいえます。
 『太陽がいっぱい』、『若者のすべて』、『フランス式十戒』、『パリの灯は遠く』・・・。
 しかし、ここでのジャン・ピエール・メルヴィル監督は、権力の権化である官憲の姿、その表情を「無」として表現したのです。
 わたしは、過去にアラン・ドロンを撮った巨匠たち、そして過去からの自らのカメラワークをも超越させた瞬間だったと考えています。

 警察の公用車の走行シーンも、クレーン撮影により高所から見下ろすショットが多くなっています。これは、権力機構の上部に位置しようとする警察権力を、作品を観る立場に立って、更に上部より見下しているとういう、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の映像作家としてのレトリックであるようにも感じます。

 コールマン警部がリチャード・クレンナ演ずるシモンの経営するバーから出たときの様子を「セット撮影」とし、そこからのパリの遠景や、強盗団の待ち合わせでのルーブル美術館内の様子を、わざわざ「背景画」としていることなどは、映画美術の新しい創造的営みを模索している印象を受けます。この書き割りはジャン・ピエール・メルヴィル監督自らの筆によるものなのかもしれません。

 そして、映画の冒頭、海辺の光景に面した海岸通りでのアパートメントの描写は、『太陽はひとりぼっち』でのあの人影の少ない閑散とした住宅街の描写ともイメージが重なり、眼鏡を掛けたアラン・ドロン演ずるホワイト・カラー、エドワード・コールマン警部が、警察庁舎内で、事件に関する書類を読んでいるときの姿は、まさに『太陽はひとりぼっち』の主人公、その後のピエロの姿のように見えるのです。わたしは、ピエロとコールマン警部の持つ虚無感に実に似通ったキャラクターの特徴を感じます。

 なお、古山敏幸氏は、著作『映画伝説 ジャン=ピエール・メルヴィル』で、シモンとカトリーヌ・ドヌーブが演ずるカティの関係を『恐るべき子供たち』でのエリザベートとポールの焼き直しとしての近親相姦図として解説しており、それは非常に興味深い分析なのですが、わたしが関心を持ってしまったのは、ラスト・シークエンスのコールマン警部とカティの虚しい男女関係の崩壊の結論でした。わたしは彼女に、『太陽はひとりぼっち』でモニカ・ヴィッティが演じたヴィットリアを重ね、現代社会の「不毛の愛」を官憲とファム・ファタルの情愛として描写したのではないかと考えてしまうのです。

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 現代社会でのホワイト・カラーの憂鬱は、イタリアの「ネオ・リアリズモ」後期に活躍したミケランジェロ・アントニオーニ監督が表現し続けました。特にモニカ・ヴィッティという好逸材は、その「内的ネオ・リアリズモ」を鮮明にすることにおいて、素晴らしいモデルだったように思います。

 美しいブロンドの髪と妖しい魔性の美しさを持ち、妖婦としてのキャラクターを発露させた『昼顔』や『哀しみのトリスターナ』は、ルイス・ブニュエル監督に鍛え抜かれたカトリーヌ・ドヌーブの美貌の本質が表現されていました。この美貌の極致ともいえるカティによって実行される強盗団の仲間マルクの殺害は、その原型である『影の軍隊』でのシモーヌ・シニョレを完璧に超越しており、「フレンチ・フィルム・ノワール」においてのファム・ファタルとして、発展的に継承させたものだったようにも思われます。
 彼女は、性的な魅力で男を翻弄して破滅させる魔性の女としての存在感を最大限に発揮しているわけではなく、むしろ、それは、悲劇的プロットを担った役柄であるのですが、カトリーヌ・ドヌーブというスター女優そのものの存在感が妖婦のイメージを表出しているのです。

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 『太陽はひとりぼっち』でのヴィットリアは恋人に対して、常に「わからない」と、その憂鬱を会話にしていました。『カサブランカ』のイルザも、リックとヴィクター・ラズロの間で自己選択を放棄していました。しばしば、女性の主体性は、彼女たち本人にすら理解できていないのかもしれません。
 そういった意味では、『サムライ』でのヴァレリー、『望郷』でのギャビーにも共通の特徴が挙げられるような気がします。彼女たちは、存在していることのみで、結果的に男が破滅してしまう「死の女神」とも言えましょう。

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 これらの女性たちは、『マタ・ハリ』のグレタ・ガルボや『間諜X27』のマレーネ・ディートリッヒが演じた女性主人公が源流となっているようにも思いますが、この作品のカティも、女性特有の謎を持ち、すべての男を不幸にしてしまう結果を招きます。
 彼女は強盗団の首領シモンの情婦でありながら、権力機構の前線で活躍するその象徴的な位置に存在するコールマン警部からの情愛も一身に受けています。結果的に彼らの間で、あいまいな在り方のままに、人生における自己選択を放棄しており、最終的にはシモンを破滅させ、コールマン警部を孤独の奈落に転落させてしまうことから、ファム・ファタルとしての存在だと定義しても誤りではないでしょう。

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 また、コールマン警部にとっては、盗聴していたシモンからカティへの電話が、彼らからの疎外状況の現実を突きつけられた結果となり、それがシモンを抹殺する動機のひとつとなったようにも感じます。
 そして、アラン・ドロンにとってのその行為は、『太陽がいっぱい』でのフィリップとマルジュへのコンプレックスであり、『若者のすべて』での愛するナディアを巡る兄シモーネとの確執であり、『冒険者たち』でのローランを愛しているレティシアに対する報われない憧憬からの哀しみの再現でもあったのです。

 次に、シモンなのですが、彼は何故、自ら強盗団に身を落とし、自己抹殺を遂げなければならなかったのでしょうか?また、コールマン警部に対する彼の友情は、どのようなものだったのでしょう?

 この作品でのシモンは、その年齢を察すれば、戦中派のレジスタンス運動の若き闘志だったと推察できます。そして、現在の彼の生き方も、戦後のフランスのギャングの生態から考えて、稀有なケースでは無かったようにも思うのです。

【1923年パリで生まれる。
第二次世界大戦を契機に、レジスタンス運動の闘士になったが、戦後の平和に順応できずパリの暗黒街に身を投じ、35歳になるまでギャングとして生活を続けた。】
【引用「ル・ジタン~犯罪者たち~」《著者紹介》ジョゼ・ジョヴァンニ】

ル・ジタン―犯罪者たち (1976年)

ジョゼ・ジョヴァンニ / 勁文社



 セリ・ノワールの作家、後の「フレンチ・フィルム・ノワール」の映画作家であったジョゼ・ジョヴァンニは、日本でも人気があり充分に理解された映画監督・脚本家・原作者であり、彼を受け入れることができた日本人に『仁義』のジャンセンや『リスボン特急』のシモンを理解することは、それほど困難なことではないように思います。【注:死後、彼が実はゲシュタポ協力者であったことがわかり、私は少なからずショックを受けています。しかし、こういった逸話が一般にあったことは間違いありません。】

 また、シモンは恐らく、権力の論理に従ってしか生きることのできなくなったコールマン警部に対しては、強い同情心、哀れみのような感情を持っていたように思います。だから、彼が自分の情婦と恋愛関係にあることに気づいていても友人として兄のように温かく彼を受け入れていたのでしょう。

 この関係の設定は、『仁義』でのイブ・モンタン演じたジャンセンとブールヴィルの演じたマッティ警部との関係に更に焦点を絞っていったものだと思います。ジャン・ピエール・メルヴィル監督は映画作家として、彼らの関係を更に超越して描こうとしたのではないでしょうか?
 マッティ警部のような人情派の警察官を主役にした場合には、本質的な部分で警察権力機構の歪んだ矛盾を鮮明に表現するには不十分であり、ヒューマニスティックな情緒表現に終始したところで留まってしまうような気がします。

 また、治安や国益を守るためには、反社会的な行為は徹底的に悪として抹殺しなければならないのが、権力構造の論理なのですから、かつてのナチス・ドイツのゲシュタポのような冷徹な人材育成よって、戦後のフランス国家当局においてもコールマン警部のような警察官を育成してしまっていることを告発したスタイルに進化させているとも考えられます。

 そして、シモンのキャラクターは、強盗団の首領というキャラクターを通してアンチ・ヒーローのヒロイズムを描写したわけですから、彼がコールマン警部に逮捕されてしまうとすれば、その段階で彼が反権力としての存在を徹底することができなくなることを意味します。シモンが自己を抹殺せざるを得なかった必然は、ここにあるわけです。

 その結果、「フレンチ・フィルム・ノワール」の男の行動規範や行動論理は権力機構の歪曲によって、すべてを虚無に帰結させてしまうのです。これは、『サムライ』のジェフ・コステロの純粋なロマンティズムや『仁義』でのマッティ警部の孤独による哀愁を、イデオロギーのうえで、やはり超越させたものだったのでしょう。
 
 『仁義』でのマッティ警部とジャンセンの関係では、コールマン警部とシモンとの関係ほど、権力機構と反社会性のせめぎ合いが人間同士の信頼関係の崩壊と孤独を招いているところまでに昇華させて描写するには至っていなかったと思います。ここも、間違いなく『仁義』からの着実な進歩の実績と評価することが可能です。


 1930年代の「ギャングスター映画」から、1940年代のハリウッドのB級「フィルム・ノワール」への昇華、アラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーブを出演させた商業映画としての「スター・システム」の芸術的活用の実践など、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、多くの贅沢な自らの願望を達成しながら、人物設定や舞台設定において、過去の作品を自ら超えようと努めていたように感じるのです。

 だからこそ彼は、
「少し前から・・・せいぜい数ヶ月位前からだったが、私は自分がついに芸術家になったことを感じている」
という自覚に至っているのでしょうし、アラン・ドロンから言わせれば
「・・・果てしない議論もしたが、監督は本当に頑固一徹でね。・・・」
などと述懐されてしまうのでしょう。

 いずれにしても、わたしのこの作品の解釈が正しくできているか否かは別として、『リスボン特急』のテーマ、芸術作品としての評価を正確に解釈しようと努めていくことは、今後の映画史での最も大きな課題でもあり、「フィルム・ノワール」の未来を切り開く端緒になることだと思っているのです。


 クライマックスを終えたラスト・シークエンス、新たな事件発生の現場に向かうパトカー内部での業務電話の着信音を無視するコールマン警部、それは現代社会に適応するため、非人間的で冷徹な生き方にならざるを得なかった彼が、ようやく人間的な孤独の感情を取り戻し始めた瞬間だったのかもしれません。

【ドロンは電話の受話器をはずしてデートに邪魔が入らないようにしており、受話器を戻したあとも、電話が鳴っても出ずにじっとしている。それは、仕事に忙殺されてきた男の初めての人間性の芽生えのようであるが、同時にそれまでもっていた唯一のコミュニケーション手段ももはや信じられなくなった、孤独の確認、と言っていいのかもかもしれない。・・・(「太陽はひとりぼっち」のラスト・シークエンスについて)】
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】
アントニオーニの誘惑―事物と女たち
石原 郁子 / / 筑摩書房





 やはり、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、『リスボン特急』のラスト・シークエンスでのコールマン警部のクローズ・アップで、ミケランジョロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』の主人公、証券取引所のピエロと同系列に位置する現代人の再生に向けて、同様の目的で同様の表現をしたように、わたしには思えてしまうのです。
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by Tom5k | 2010-08-29 23:36 | リスボン特急(2) | Comments(8)

『サムライ』⑥~アラン・ドロン、スターとしての古典的個性とその究極のダンディズム~

 アラン・ドロンが主役級のスターになったのは、映画出演3作品目、ミッシェル・ボワロン監督の『お嬢さん、お手やわらかに!』(1958年)からです。
 それ以降、ジャン・ギャバンと互角に共演した1962年の『地下室のメロディー』が、彼の初めての「フレンチ・フィルム・ノワール」での主演作品でした。
 その後1964年に、MGMの『さすらいの狼』、同年、ハリウッドに渉って『泥棒を消せ』など、アメリカ資本の「ノワール」系の暗黒街映画などでの主演歴があります。

【>アラン・ドロン
(-略)アメリカ移住は私には問題外だったね。私を説得しようと連中はあれこれしてくれたが・・・『泥棒を消せ』では妊娠してた妻が出産するまで(撮影を)待っていてくれた、連中が言うように私が”クール”であるためにね。素晴らしい家も用意してくれていたんだ、でも3週間もすると、私はパリへ電話して、半べそかいて、鬱状態だった・・・その後すぐさまフランスへ戻って来てしまった。だからアメリカは私にとってキャリアの選択じゃなく人生の選択なんだ。行きつけのビストロや自分のパンが必要なんだ、世界一のスターにならないかと言われるよりも重要なことだよ。それでもスターとしてアメリカで6,7本の映画に出演した。成功したとは思わないよ。アメリカで成功を収めた欧州の人間は少ないよね。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/27 「回想するアラン・ドロン:最終回(インタヴュー和訳)」

【>アメリカでキャリアを築こうとは思わなかったのですか?
>アラン・ドロン
それはキャリアの選択じゃなく、人生の選択だ。アメリカでは生活できない。死ぬほど退屈してしまったよ!パラマウントのお偉いさんのボブ・エヴァンスに住んでみろと言われたんだがね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/26 「回想するアラン・ドロン:その9(インタヴュー和訳)」

 彼は1966年にハリウッドから帰仏して、青春賛歌の映画詩『冒険者たち』でフランス映画界に返り咲き、いよいよ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家として有名だったルイ・マル監督の演出で、エドガー・アラン・ポーの古典文学のキャラクターであるウィリアム・ウィルソンを演じました。

 見事なフランス映画復帰の二作品でしたが、更に三作品目の1967年制作『サムライ』で、ジャン・ピエール・メルヴィル監督に巡り会うことになり、彼らはこの作品で「フレンチ・フィルム・ノワール」としての極限的な美学を生み出すことになります。
 この作品は、1960年代から、1970年代に架けて、アラン・ドロンがスターとしての全盛期を迎えるキャラクター、特に「フレンチ・フィルム・ノワール」でのギャング・スターの個性を確立した作品となりました。

 商業ベースにあっても、映画芸術の視点からであっても、「ヌーヴェル・ヴァーグ」以降の新しい作家主義の系統を内包しているジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出した作品でありながら、1930年代のワーナー・ブラザーズ一連のプログラム・ピクチャーであった「ギャングスター映画」や、1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」、自国における1930年代以降「詩的レアリズム」のノワール的傾向の伝統、1950年代以降に確立されたセリ・ノワール叢書を原作とする「フレンチ・フィルム・ノワール」など、アラン・ドロンが得意とする伝統的で古典的な題材を包含した作品となりました。

 この前作に撮ったルイ・マル監督の『ウィリアム・ウィルソン』も同様でしたが、旧来からの古典的な映画要素・題材によって、新しい時代「ヌーヴェル・ヴァーグ」以降の演出手法や「ヌーヴェル・ヴァーグ」のキャスト・スタッフで作品を制作する傾向はアラン・ドロンの作品の特徴ともいえます。語弊があるかもしれませんが、新しい映画人を旧来の古き良き時代の映画に挽きづり込んでしまうことを、これほど上手にやり遂げてしまうアラン・ドロンの我の強さには驚かされます。

 ルイ・マルやジャン・ピエール・メルヴィル以外にも、『ボルサリーノ』でのジャン・ポール・ベルモンド、『個人生活』でのジャンヌ・モロー、『フリック・ストーリー』でのジャン・ルイ・トランティニャン、『チェイサー』でのステファーヌ・オードラン、『真夜中のミラージュ』でのナタリー・バイ・・・そして、『ブーメランのように』でのジョルジュ・ドルリュー、『私刑警察』でのラウール・クタールや『ヌーヴェルヴァーグ』でのジャン・リュック・ゴダールでさえも・・・。
 もちろん、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちからしても、その全盛期以後も映画創作の手法を常に模索し続け、旧世代の映画の特徴を採り入れることにも成功していますし、各人とも「ヌーヴェル・ヴァーグ」を脱皮した以降に、アラン・ドロンと巡り会っているのかもしれません。
 新・旧映画人たちは、どちらがどちらに影響を与えているのかという判断も極めて難しいところですので、一概に決めつけることは危険ですが、彼らがアラン・ドロンと組むと、一作品の中に、新しい映画の傾向と古い映画の傾向が同時に存在することになり、その結果として、生き生きとした躍動感を生み出す作品になっていることだけは間違いのないことのように思います。

 思えば、アキム兄弟がプロデュースした『太陽がいっぱい』で、旧世代のルネ・クレマンと「ヌーヴェル・ヴァーグ」のアンリ・ドカエ、ポール・ジェコブ、モーリス・ロネが組んだことなども、アラン・ドロンというスター俳優及びプロデューサーとして、後々の映画人としての生き方に大きな影響を与えていたのかもしれません。

 繰り返しになりますが、アラン・ドロンが製作・出演している作品は、一貫して作品の傾向もクラシカルですし、古いタイプの映画的題材を扱うことが多かったように思います。
 例えばそれらは、剣戟や西部劇などのエンターテインメントであり、ウィリアン・ウィルソンやゾロのような古典キャラクターであり、犯罪者、ギャング・殺し屋・逃亡者の死の美学であり、刑事事件のスリルとサスペンスであり、それらのアクションであり、メロドラマの悲劇性であり、レジスタンスの反骨精神であり、リアリズムの叙事詩、映画芸術であったのです。

【ベルモンドは人気スターで、ドロンはスターそのものである。2人は警官やならず者だったのだ。(-中略-)一方はほとんどフランス国内にとどまり、もう一方はかなりの国際派で、イタリア人の貴公子の役や、アメリカ西部の殺し屋の役や、コンコルドのパイロットの役も、ごく自然に似合う俳優だ。】
【引用 『フランス恋愛映画のカリスマ監督 パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー』ジャック・ジメール著、計良道子訳、共同通信社、1999年】

パトリス・ルコント トゥルー・ストーリー フランス映画のカリスマ監督

ジャック・ジメール / 株式会社共同通信社



【>アラン・ドロン
(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。
(-略-) 
>アラン・ドロン
(-略)人に仕返ししてやろうと思ったこともないし、自分のやり方で自由にやって来ただけなんだ。私が間違っていたと言ってもらいたいが、今になって変わる必要もないだろう?でシネマテークが何かを変えてくれるという発言だったが、私はそんな事はどうでもいいよ!もうだいたい遅過ぎるんだ。もっと前に言ってもらいたかったな。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 『真夜中のミラージュ』や『ヌーヴェルヴァーグ』でさえも、その制作時期においては、すでにセンセーショナルな新しい映画としてではなく、映画史での体系では、安定感のある確実な実績のうえに制作された作品でした。
 ジャン・リュック・ゴダールやベルトラン・ブリエの作品においてさえ、アラン・ドロンは、フランソワ・トリュフォーによって侮蔑されていた「パパの映画 cinéma de papa」の俳優だったのです。

 また、「私が間違っていたと言ってもらいたい」、シネマテークの影響力について、「もっと前に言ってもらいたかったな。」という彼の発言には、自分自身のスター俳優としてのスタイルを、「新しい映画」の俳優として改変する機会を持てなかったことに対しての過去の実績に対する複雑で微妙な心情が垣間見えるように思え、これは、彼にしては極めて貴重な発言であり、珍しい心情吐露ともいえましょう。

 確かに、アラン・ドロンというスター俳優が、最も活躍していた1960年代から1970年代に、「ヌーヴェル・ヴァーグ」が・・・シネマテークが・・・カイエ・デュ・シネマ誌が・・・彼に何かを働きかけたでしょうか?恐らくそんなことなど、ほとんどなかったように思います。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」からすれば、彼は、ただ単に、商業映画の二枚目ギャング・スターであっただけでしょうし、一般的にもフランスの暴力団組織に関与している黒い噂を持つ危険で超人気の、しかし二流・三流のスター俳優でしかなく、新しい映画芸術の体系においては、完全に無視され続けていた俳優であったように思うのです。

 「ヌーヴェル・ヴァーグ」専門の映画評論家である山田宏一氏によれば、アラン・ドロンが、ようやく巡り会った映画作家ジャン・ピエール・メルヴィルに関してさえ、
【自らは『サムライ』から『リスボン特急』に至る「アラン・ドロン映画」のお抱え監督になり、かつての「メルヴィル映画」-撮影所システムやスター・システムを根底から否定したロケーション主義、低予算映画というヌーヴェル・ヴァーグのさきがけとなった真の「作家」の映画としての「メルヴィル映画」-の神話を商業主義の場にあっさりと葬ってしまったような感じだ。】
【引用『わがフランス映画誌(「ヌーヴェル・ヴァーグ」の項)』山田宏一著、平凡社、1990年】

わがフランス映画誌(1990年)

山田 宏一 / 平凡社



などと揶揄していますし、ジャン・リュック・ゴダールに関してでさえ、
【ジャン・リュック・ゴダールは『ヌーヴェルヴァーグ』という題名の映画を撮って、みずから「失敗作」と断じた。】
【引用『友よ映画よわがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、平凡社、1985年】
と出典あるいは詳細を示さず、中傷的な結果のみで記述しています。

増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (平凡社ライブラリー)

山田 宏一 / 平凡社



 それはともかく、アラン・ドロンが、この『サムライ』に出演したことは、彼にとってもフランス映画界にとっても、計り知れない価値を生み出したと、わたしは考えています。

 アラン・ドロンは、この作品で初めて、ソフト帽とトレンチ・コートを身につけ、職業的犯罪者に扮したわけですが、特にこの作品での彼のハード・ボイルド・スタイルについて検証してみると、
アラン・ドロンは、デビュー以来、『冒険者たち』までの作品で、どのようなペシミスティックで暗鬱なテーマの作品であっても、例え、それが『太陽がいっぱい』のトム・リプリーであっても、その一作品中には笑顔の似合う優しい好青年の要素を持ったアイドル的スターの側面を垣間見せていたようには思います。

 しかしながら、この『サムライ』では、その表情そのものが無と化し、それがアクションによって構成されているショットでさえ、主人公ジェフ・コステロの行動様式は静的で虚無そのものを表現するものとして昇華されています。
 思えば、前作の『ウィリアム・ウィルソン』も、爽やかな好感の持てる主人公の表情など、どのワン・ショットにおいても必要としない作品でした。彼のその犯罪性向者としてのキャラクターの魅力は、過去のルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーやクリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』の主人公の兄ギヨームから継承され、ルイ・マル監督によって、この作品で純化されたのかもしれません。

 また、『黒いチューリップ』での粗野な強盗としての悪徳のキャラクター、『太陽がいっぱい』や『ウィリアム・ウィルソン』での犯罪性向者のキャラクターは、人格の破綻者か、兄弟に比喩した表裏の二重自我として設定されていましたが、それは欲得にまみれたサディスティックな主人公の個性と合わせて、極端に良性の人格も一作品内において同時に演じてもいたのです。

 ところが、『サムライ』で表現されている主人公ジェフ・コステロのダンディズムは、そのような典型的な犯罪者の性向とも異なり、同じくジャン・ピエール・メルヴィルが演出した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品『いぬ』で、ライバルであるジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公シリアンの人間的、かつファッショナブルなキャラクターとも異なるものでした。
いぬ
/ アイ・ヴィー・シー





 それは、主人公ジェフ・コステロの行動様式そのものが、冷徹で折り目正しく、自らの規範に潔癖に従い、その清貧の思想を誇るものとして表現されているからなのです。わたしは、このアラン・ドロン独自のスタイルとも言えるダンディズムに、
「精神主義やストイシズムと境界線上にある自己の崇拝する方法で独創性を追求する態度、改革期が終わってすぐの反封建的な風習の残っている時代に現れる退廃期の英雄主義。」
と、定義付けた「悪の華」の詩集で有名なフランスの詩人シャルル・ボードレールの言葉を思い起こすのです。
悪の華
ボードレール 堀口 大学 / 新潮社





 「ヌーヴェル・ヴァーグ」に一新されたフランス映画界において、その先駆でありながらも、旧来の映画ジャンル「暗黒街映画」を残存させたジャン・ピエール・メルヴィル監督は、アラン・ドロンに旧世代からの伝統的キャラクターを継承させ、彼の映画スターとしての英雄的イデオロギー、そのオーラを、『サムライ』での暗黒街の主人公ジェフ・コステロを通して最大限に発光させました。

 アラン・ドロンは『サムライ』以降、「暗黒街での一匹狼」というある種の伝統的キャラクターを継承しながらも、現代的なアンチ・ヒーロー的ヒーローとしてのキャラクターをも確立していきました。

 恐らく、彼は「ヌーヴェル・ヴァーグ」が終わってすぐの時代に、僅かではあっても、旧世代の作風が残存できることの可能性を信じ、新時代以降に究極のダンディズムによって、したたかに、たくましく、時代に抗っていったのだと思うのです。
 その彼のダンディズムの根底に想いを馳せたとき、わたしは、その反骨の志に、いつものように手前勝手に感動してしまっているのでした。
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by Tom5k | 2010-08-24 02:25 | サムライ(6) | Comments(2)

『仁義』②~劇場公開当時及びTV放映当時から、現在へ

 1960年代後期から1970年前期にかけての映画界は、「アメリカン・ニューシネマ」の時代を迎えながら、「ギャングスター(マフィア)映画」や「アクション映画」の全盛期を迎えていった時代であり、アラン・ドロンの人気も、そういった系統に属する「フレンチ・フィルム・ノワール」や「フランス製アクション映画」で映画スターとしての絶頂期を迎えていました。

 東宝東和配給の『仁義』は、正月映画として公開された昭和45年12月当時、日本ヘラルド配給の『狼の挽歌』とライバル配給会社の対決、そして、主演のチャールズ・ブロンソンとアラン・ドロンの「ギャング映画」対決として、興業価値の観点から注目されていたようです。

【さて、正月作品の中で本命と目される作品はというと、やはり「狼の挽歌」(ヘラルド配給、チャールズ・ブロンソン、ジル・アイランド、テリー・サバラス主演)だろう。
 これにからむのが「仁義」(東和配給、アラン・ドロン、イブ・モンタン、ブールビルの主演)だ。両者ともギャング映画であり、東和、ヘラルドというライバル会社の作品、ドロン、ブロンソンという現在の人気抜群のスターの作品と話題にはこと欠かない。
 (-中略-)「仁義」の方はジャン・ピエール・メルビル監督の作品で、話の内容は実に巧みで面白いが、ややシブイきらいはある。質的には前者より上だが、興業価値は落ちると見るのが正当な評価だ。(略-)】
【「キネマ旬報1970年12月下旬号」興業価値 外国映画「ドロンとブロンソン」】

 公開時の興行価値の側面からは、チャールズ・ブロンソンのアクション映画の集大成として、『狼の挽歌』に軍配が挙がっていたようです。

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 わたしが、『仁義』を初めて観たのは、確か小学校の5・6年生頃ですから、昭和50年代の初めころだったでしょうか。そのころのテレビ放映によるものでした。

 現在のわたしとしては、ブールヴィル演ずるマッティ警視の孤独、人としての良心をおろそかにしてまで、当局側の非人道的なセオリーに従って生きざるを得なくなってしまった男の孤独が強烈に印象に残ります。

 記憶として定かなものではないのですが、恐らく、当時のテレビ放映では、日本での人気スター、アラン・ドロン、シャンソン歌手としても有名だったイブ・モンタンの出演シーンを中心にした放送時間の枠内での編集のためなのか、マッティ警視や警視総監の関係からの捜査当局への否定的な描き方、作品のテーマに関わる最も重要な警視総監の
「人間は常に悪に染まっていく。すべての人間は罪を犯している。」
など、この作品本来のテーマであるセリフやシークエンスは、あまり重要視されずに編集(カット)されてしまっていたような気がしています。

 また、これも定かな記憶ではないのですが、イブ・モンタンが演じているジャンセンが、マッティ警視に撃たれて絶命する最期のシークエンスでのセリフが、
「サツなんて、クソくらえだ。」
という意味の言葉だったように記憶しているのですが(当時の三木宮彦氏の採録では「-サツは-いつもマヌケだな!」)、これは、現在のDVD(IVC盤)字幕での
「いつも おちこぼれさ」
とは、かなり印象の異なるものです(それにしても、過去に優良警察官であったというジャンセンの設定から、このセリフには違和感が伴います)。

 小学生当時のわたしにとってさえ、ジャンセンが警察官をやめて、このような強盗団に身を落としている理由や、彼が警察権力に反発した生き方にならざるを得ない「何か」があったのだと、想像力を喚起されてしまうセリフだったのです。
 ジャンセンの人生・・・彼の絶命時の気持ちなどを考え込まされてしまう言葉でした。
 ですから、現在のDVD鑑賞から、最も強く感じられるマッティ警視の深い孤独感や虚無感よりも、自宅の壁に飾り付けられている、「国際警察大会優勝」の刻印が記されている表彰盾から、射撃の名手であるジャンセンが、エリート・コースを歩む道を踏み外して人生を転落していったことを想起させられ、その生き様や死に様のほうが、子どもながらに強烈なインパクトとなっていたのです。
 誰にもわからない男の孤独、そして逆に男の規範のようなものを感じて取っていたと記憶しています。
 小学生にしては、随分とおやじくさい感想を持ったものだと、我ながら自嘲してしまいますが・・・。

 順調に着実にエリート・コースを歩んでいるマッティ警視は、ジャンセンの人生の転落をより鮮明に描くため、彼と対比するために、敢えて登場させた人物のようにしか印象に残りませんでした。
 

 また、アルコール中毒患者特有のジャンセンの幻覚として描かれている「は虫類」、それらが部屋中をはいずり回っているシーンなども、実に気味の悪い印象として記憶に焼き付きました。

 思い出せば、一緒にテレビを観ていた父親は、そのシーンで
「あっ、アル中だっ!」
と叫んでいたのを、今でもはっきり憶えています。

 わたしは、ジャンセンが、宝石強盗の仕事に就くときのナイト・クラブでアラン・ドロン演ずるコレイと落ち合うシークエンスで、アルコール中毒症状から回復し、宝石強奪時には、完全にそれを克服できた様子から、ハワード・ホークス監督の「リオ・ブラボー」を想い出しました。
 その作品での主演のひとりであるディーン・マーティンが、挿入曲「皆殺しの歌」が流れてきたとき、手の震えが止まるショットを連想したのです。

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 一度は、落ちぶれてしまった者が再起する瞬間、「再生」と「復活」・・・そんな魅力ある映画のテーマが想起させられたことも、懐かしく想い出すことができます。

 余談ではありますが、一緒にテレビを観ていた父親は、

「アラン・ドロンの映画で有名なのは、『太陽がいっぱい』くらいだ。せいぜい、この『仁義』が少し有名なくらいかあ?それにしたって、知っているのは、よっぽどフランス映画を好きな奴らくらいだろうけどな・・・。売れないんだよなあ、こいつの映画・・・。」

という、いつもながら、本当に頭に来る解説を聞きながらの鑑賞でした。
 父親にとっては、『地下室のメロディー』も『シシリアン』も、ジャン・ギャバンの映画だったようですし、『さらば友よ』は、チャールズ・ブロンソンの主演作品、『レッド・サン』もチャールズ・ブロンソンと三船敏郎が愛すべき主人公で、アラン・ドロンは憎むべき悪役。『冒険者たち』は、興味自体が無かったようですし、『ボルサリーノ』は、知らなかったようです。

 しかも、なんと、『サムライ』にかかっては、失敗作だと抜かしていました。

「殺し屋を侍に当てはめるなんて、わけわからん感覚だな・・・。まっ、失敗作だべ。」

 何せ、実に不愉快な気分で、テレビを観ていた記憶があります。


 2度目の鑑賞は中学3年の頃、昭和50年代の半ば頃だったでしょうか?
 テレビでの放送日、友人との話題で、
「今日、アラン・ドロンの映画、テレビでやるから観ようぜ。」
と話していた記憶があります。

 その友人は、当時テレビ放映された『さらば友よ』や『ボルサリーノ』などを観て、アラン・ドロンの映画は面白いと思い込んでいました。そんなことから、この『仁義』にも、相当に期待していたらしいのですが、地味で暗鬱な大人の「フィルム・ノワール」であることから、
その感想は、

「期待してたのに、面白くなかったなあ。」
でした。

 どうも、過去の『仁義』の鑑賞時のわたしの周囲の反応で芳しいものは、あまり無かったようです。


 アラン・ドロンのファンとしては、この『仁義』は、彼の主演している作品として、典型的な作品と言えると思います。
 宝石強盗団のアクションを基軸にしたストーリーであり、この作品以前、すでに『地下室のメロディー』、『泥棒を消せ』、『さらば友よ』、『ジェフ』、『シシリアン』などで、計画的な宝石や現金の強奪をプロットとして設定している作品が多かったこと、主人公たちの男同士の友情を基軸にした作品であることも、『冒険者たち』、『さらば友よ』、『ボルサリーノ』などで、お馴染みの設定であったこと、などが挙げられるからです。

 このころ、公開された「アラン・ドロン映画」としては、類型的でワン・パターンのステレオ・タイプの作品として印象づけられていたことも、無理の無いことのようにも思えます。

 しかしながら、映画作品としてのこの作品の評価は、現在においては、映画史的な意味で、考えられないほどの高評価となっており、わたしとしては、この極端な評価の変遷はとても信じられないことでもあります。
 ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、アラン・ドロンを主演にした作品は、この外に『サムライ』、『リスボン特急』がありますが、現在では、『パルプ・フィクション』でカンヌ国際映画祭・パルムドール(最優秀作品賞)を受賞した『キル・ビル』シリーズで有名なクエンティン・タランティーノによる高評価や、実現はしていませんが、「香港ノワール」の旗手であるジョン・ウーやジョニー・トーなどによるリメイクの企画などからも、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品の中でも『仁義』の評価が、際だって高いものとなっているそうなのです。

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 例えば、わたしが、現在において『仁義』を鑑賞し、特に印象的なショットを挙げるとすれば、それは、ジャン・マリア・ヴォロンテが演ずる脱走犯ボージェルの逃走現場における、原野一杯に隊列を組む警官隊の陣形のショットです。
 この警官隊列の横一列の全景のズーミング撮影は、犯人が追いつめられる圧迫感を表現している映像としてはもちろんですが、アクション・シークエンスではないにも関わらず、その景観の迫力、映像の強さを感じます。その情景としての美しさにおいても、フランス映画特有のアヴァンギャルドの伝統、すなわち紛れもなく映画芸術としてのフォトジェニックの極みであることを感じることができるものなのです。

 また、ボージェルが、アラン・ドロン演ずるコレイの車のトランクから現れ、初めて彼らが邂逅するシークエンスも印象の強いところですが、特にコレイからもらった煙草をボージェルが吸う時、その瞬間の彼のミディアム・ショットでのカット・ズーミングも、実に前衛的な映像なのです。
 B級俳優であるジャン・マリア・ヴォロンテのクローズ・アップであるからこそ、映像の時流としてのさきがけを予感してしまうようなショットとも思えます。アンリ・ドカエのカメラ・ワークから、職業俳優である前に、彼の私人としての眼、表情、発散するオーラが写し撮られているように感じました。

 他のショットにも、数限りなく映し出される映像の極限美の数々は数え切れません。優れた映画作家の作品は、映像そのものが前衛アートの連続として構成されているように思います。

 公開当時、TV放映時には、誰しもが大きな関心を示さなかった『仁義』・・・単なる地味な「ギャング映画」として、ありふれたアラン・ドロン主演の「ギャング映画」としてしか解釈されなかった作品・・・それから40年あまりを経た現在、映画史の上で再評価の気運が高まった理由を、現代におけるさきがけの映像美の素晴らしさから納得することは、さほど難しいことではないように思うのです。
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by Tom5k | 2010-08-08 21:37 | 仁義(2) | Comments(5)

『サムライ』⑤~アキム・コレクション、『望郷』の鑑賞から想起したもの~

 ようやく北海道でも、フランス映画特集「アキム・コレクション」が、札幌市の蠍座(北区北9条3丁目タカノビルB1)で上映されることになりました。

 わたしは、札幌市在住ではないので、交通費や札幌往復の時間的ロスから、残念ながらアラン・ドロンの出演している2作品(2月3日(火)~9日(月)の『太陽がいっぱい』と、2月24日(火)~3月2日(月)の『太陽はひとりぼっち』)と、その同日上映作品以外の鑑賞は無理です。

 昨日(2月7日(土))は、『太陽がいっぱい』、そして、その同日上映の『望郷』を観てきました。
 都市部と郡部の文化格差に少なからず義憤を感じる日帰り旅行でもあったのですが、さすがに初めて劇場鑑賞できるこの2作品への期待感のほうが勝り、それほどの苦もなく、札幌までの行程とできました。

 わたしの映画ブログの先輩、「映画と暮らす、日々に暮らす。」の運営者であるvivajijiさん(姐さん)は、札幌在住ですので、もしかしたら来ていて会えるかもしれない、と思って、映画館に着いて、まずキョロキョロと館内を見回しておりましたが、双方顔を存じていないので、当然のことながらわからずじまいでした。エリザベス・テーラーに似ている人だと聞いていたのですが・・・いなかったな、そんなひと・・・?


 さて、フランスの映画プロデューサーであるエジプト出身のロベールとレイモンのアキム兄弟ですが、彼らの残した映画作品は20作品あまりで、それほど多い作品数ではありません。しかしながら、ほとんどが国際的規模での映画史に残る傑作揃いなのです。
 彼らは、すでに10代のときにパリに移住し、1935年以降、ハリウッドで学んだ映画産業のノウハウをフランス映画に還元していった名プロデューサーだったそうです。

 わたしが何よりもうれしいのは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」全盛期の時代に、フランス古典シネマの体系に近い古い体質を特徴する作品をプロデュースし続けていった実績なのです。いわゆる「cinéma de papa(パパの映画)」の系譜を持つ作品群であり、アラン・ドロンが主演している作品が2作品存在していることには、なるほど頷づける理由があるわけです。

【>アラン・ドロン
(略~)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(~略)】 
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」


 今回、札幌の「蠍座」では、彼らの残した名作が「アキム・コレクション」として、8作品が上映されます。
 すでに都市圏では上映が終了していたり、この8作品以外の作品も上映されているようです。神奈川、東京、大阪、名古屋、九州・・・・。

蠍座では、

2月3日(火)~9日(月)
 『望郷』(1937年)監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 
 『太陽がいっぱい』(1960年)監督:ルネ・クレマン
望郷
/ ジェネオン エンタテインメント





2月10日(火)~16日(月)
 『嘆きのテレーズ』(1952年)監督:マルセル・カルネ
 『エヴァの匂い』(1962年)監督:ジョセフ・ロージー
嘆きのテレーズ
/ ジェネオン エンタテインメント





エヴァの匂い [DVD]

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2月17日(火)~23日(月)
 『奥様ご用心』(1957年)監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 
 『昼顔』(1967年)監督:ルイス・ブニュエル

奥様ご用心 [DVD]

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昼顔
/ バンダイビジュアル





2月24日(火)~3月2日(月)
 『肉体の冠』(1951年)監督:ジャック・ベッケル
 『太陽はひとりぼっち』(1962年)監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
肉体の冠
/ ジェネオン エンタテインメント





 アキム兄弟の逸話で有名なのは、とジョセフ・ロージーとの確執でしょう。今回、上映される『エヴァの匂い』なども、契約条項上のファイナルカット(最終編集)権がアキム兄弟側にあるとしたことに気づかなかったジョセフ・ロージーは、自らの編集が適わないのであれば、公開時には、クレジット・タイトルから自らの名前を外すように依頼までしていたそうです。

 映画が作家主義のものであるとしていた「ヌーヴェル・ヴァーグ」の演出家たち、ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーの作品がアキム兄弟の作品にならなかったことは当然のことだったと思います。

 ただ、クロード・シャブロルの作品だけは例外であったようで、『二重の鍵』と『気のいい女たち』は、彼らのプロデュースによるものです。
 『いとこ同士』はどうなのでしょうか?もしそうなのであれば、映画のテーマやスタッフからも『いとこ同士』と『太陽がいっぱい』を連作として解釈することも可能であり、ルネ・クレマン&アラン・ドロンと「ヌーヴェル・ヴァーグ」との関係もその観点から新しい解析ができるような気がしています。
二重の鍵
/ ジェネオン エンタテインメント





気のいい女たち [DVD]

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いとこ同志
/ アイ・ヴィー・シー





 わたしとしては、今回の『望郷』と『太陽がいっぱい』は、TV放映やレンタル・ビデオで数え切れないほどの鑑賞をしていますし、現在はDVDを所有してますが、映画館での鑑賞は初めての体験です。
 今更なのですが、映画館での映画の鑑賞が真の意味での「映画鑑賞」であることを、今回は痛いほど思い知らされる経験となりました。

 自宅でのDVD等の映画鑑賞でも充分に映画の醍醐味を味あうことができることは間違いのないことではあるのでしょうが、この2作品が、わたしとしての思い入れが強いこともあって、DVD等での映画鑑賞は、映画館での鑑賞と比して、よくて4割から5割程度しか製作者サイドの思いが伝わらないようにまで思ってしまったのです。


 まずは、『望郷』を鑑賞したうえで、特に強く説得力を感じたものを挙げていくと、

 まず、冒頭のカスバという多国籍もしくは無国籍ともいえるエキゾチックな地域の風俗描写をリアルに表現した手法です。
 上空からの空撮で、カスバの全景からズーム・インしていき、そこに存在している街並みや生活する多種多様の人種をドキュメンタルに映し出して行くのです。
 犯罪が巣食うのが当たり前であるような奇怪で不衛生、荒んだ地域であること。犯罪捜査陣のディスカッションから、淡々としたナレーションに移し替えてカスバの映像をカット・バックする様子は、観る側に強烈なインパクトを与えます。

 また、ジャン・ギャバンの扮する逃亡者、犯罪集団のボス的存在も、当時のヒーロー、ジャン・ギャバンの登場シークエンスとして非常にセンセーションです。
 盗み出した宝石の闇鑑定のシークエンスにカットされ、ペペ・ル・モコの手の平に乗っている大粒の真珠のクローズ・アップから、サーチ・アップしてロー・アングルからのジャン・ギャバンのクローズ・アップでペペ・ル・モコの個性を明らかにさせていくのです。ライティングの効果もジャン・ギャバンのメイク・アップも素晴らしい!

 そして、ミレーユ・バランの扮するパリの女ギャビーとペペとの運命の邂逅です。
 彼女の表情、笑み、ソフト・フォーカスのクローズ・アップでの美しさ、取り分け、クロス・カッティンッグでのバランとギャバンの双方のエクストリームの超クローズ・アップ、しかもソフト・フォーカスによって、二人が一瞬にして惹かれ合ったことがわかるのです。

 冒頭からのこれほどの説得力は、自宅でのDVD等での鑑賞では、体感できてもせいぜい5割程度のものだと思います。
 巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエを映画館で鑑賞できたことの至福を感じていたこの段階では、列車代金や1時間20分に及ぶ路程におけるロスなど、わたしは全く惜しいとは思わなくなっていました。

 フェルナンド・シャルパンが演ずる裏切り者のレジスが銃殺されるシークエンスまで緊張感の高まりも、ジューク・ボックスの音響効果から生まれてきているものであり、歌手フレールの歌うパリを懐かしむシャンソンを蓄音機と肉声で交互に同時に聞かせる着想などは、どちらも映画がトーキーになって間もない頃の高等テクニックであったのだろうと思います。

 そして、何よりも印象に強く残るのは、ラスト・シークエンスのペペ・ル・モコの絶望的な絶叫と涙、そして、自殺したときのペペ・ル・モコの死の美しさです。
 フランス映画界でのジャン・ギャバンの後継者ともいわれていたアラン・ドロンが、彼の全盛期に「フレンチ・フィルム・ノワール」の多くの作品で、ひたすら主人公の「死」を、美意識として映像化しようとしていた動機が、この『望郷』でのペペ・ル・モコの死の美しさを超越しようとしていたものだったのではないかとも感じたところなのです。
 人間の死がこれほど、はかなく美しいものであることを、絵画的な美しさで表現した映像美の究極であったと思います。
 

 更には、ジャン・ピエール・メルヴィル監督がアラン・ドロンを起用して撮った『サムライ』の構成は、この『望郷』からの影響を少なからず、受けていると感じてしまうのはわたしだけなのでしょうか?
 この2作品がこれほど強く、わたしのなかで確信的に結びついたのは、今回の鑑賞によって初めて想起したことです。


 人物設定にも共通項が多く、

 『望郷』でのリュカ・グリドゥーが扮する刑事スリマンにしても、『サムライ』でフランソワ・ペリエが扮した主任警部にしても、犯罪者を追う執拗で手段を選ばない官憲の傲慢さに刑事としてのキャラクターが強く発揮されています。 

 また、リーヌ・ノロが扮するカスバの女イネスに、『サムライ』でのナタリー・ドロン扮するジャンヌ・ラグランジュを対比させれば、愛する男の、その愛情の対象が自分に対するものではないという共通項があるのです。
 イネスの複雑で哀しい女性としてのアンビバレントは、映画史上に残る素晴らしいキャラクターを生み出す設定であったように思います。彼女のギャビーを見つめる嫉妬と不安、怨恨を表現した表情、ペペ・ル・モコを見つめる悲哀の表情・・・。愛する男性から愛されることのない不幸をこれほど情感豊かに演技したリーヌ・ノロは、本当に素晴らしかったです。
 『サムライ』でのジャンヌのイノセントなジェフ・コステロに対する愛情も、暗黒街に生きる女であるが故に際立ったものとなっていたように思います。ジェフに愛されていなくても、自分が心底、男を愛することのできる幸福を純真に表現していたナタリー・ドロンは、『望郷』から30年以上を経た「女性」の進化だったともいえるのではないでしょうか?

 また、『望郷』でのパリの女ギャビーと、『サムライ』でのカティ・ロジェ扮するヴァレリーへのペペ・ル・モコやジェフ・コステロのひたむきな恋を対比させても、それが相手の心に通じない絶望感、すなわち男にとっての「死」に至るほどの純粋な女性への憧憬、彼らのロマンティズムとフェミニズムはこれほど純化させられたものとして一貫しているのです。

 透徹したノワール映像となっているこの2作品に、わたしはフランス映画史としての普遍の映画潮流を垣間見たように思ったのでした。
 さらには、『望郷』でのギャビーとイネス、『サムライ』でのヴァレリーとジャンヌ、有色の人種か否かの人物設定も時代的進歩として交差しているようにも感じました。


 強奪した宝石を闇鑑定している冒頭シークエンス、主人公ペペ・ル・モコが犯罪集団のボスであること、暗黒街ともいえるカスバを舞台としていること、警察との銃撃戦でのアクション、官憲の捜査プロット、「フレンチ・フィルム・ノワール」の特徴といわれている「友情と裏切り」、中産階級の不幸を背負った「ファム・ファタル」ともいえるギャビーのキャラクター・・・

など、『望郷』を「男のメロドラマ」と一括りにするには、あまりにも深い奥行きがあり、それはむしろ、フランス映画特有のノワール的傾向を象徴的に描き出している印象としてのほうが、わたしには強烈なのです。

 特に、ペペ・ル・モコの弟分であるギルバート・ジル扮するピエロの死、彼のその絶望感の表現などは、ジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』で、リトン(ルネ・ダリー)を死なせてしまったジャン・ギャバンのマックス役へのプロローグとも取れるものであったように想起しました。

 このように考えていくと、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品の源流が、通説となっている1940年代のアメリカ・ハリウッドの「フィルム・ノワール」、1950年代の自国においてのジャック・ベッケルやアンリ・ジョルジュ・クルーゾーの「フレンチ・フィルム・ノワール」の作品群のみならず、

 1930年代のジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネの「詩的リアリスム」のノワール的特徴からのロマンティズムにも、直接、間接の大きな影響を受けていたのではないかと、わたしは手前勝手な感慨に深く耽ってしまっていたのです。
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by Tom5k | 2009-02-08 20:51 | サムライ(6) | Comments(6)

『サムライ』④ ~鍵束についての疑問 Astayさん と語る~

あるサイトにおいて、2006年11月9日から18日までの期間、アラン・ドロンのファン、及びその関連作品の熱烈な愛好家・コレクター等であり、ブログAstay☆Astay☆Astayを運営されているAstayさんと対論を交わしたことがごいました。
たいへん有意義でしたので、Astayさんの了承を得ずして、更新記事のアップをしてしまいます。


Astayさん
トムさん
"さむらいトム"さん
正直私は『サムライ』についての疑問点がたくさんあるんです(笑)
では・・・


トム(Tom5k)
>『サムライ』についての疑問点がたくさんあるんです。
とのこと。
興味がありますねえ。よかったら、教えて下さい。
では、また。
さむらいトム


Astayさん
トムさん、では、ちょっとだけ『サムライ』の疑問点を
でもこれはあるサイトに書かれてあった何方かのお言葉です

1.侍は孤独だ云々で始まるが、ドロンはかなり緊密なネットワークを築いており、決して孤独ではありえない.

2.最初シトロエンを盗むのに使った合い鍵の大きく重そうなあの束はいったいどこに消えたのか? 警察でも見つからずに済んだ.
捨てたのかと思えばさにあらず.もう一度同じような鍵束で車を盗む.しかも細身仕立てのウールコートのポケットから出てくる.おまえは手品使いか?

皆さん良くご覧になってますよね
で、私の一番の疑問点は、あの傷のお手当てに使用したガーゼ等を
なぜ、あんな紙袋のまま道端に捨てたのか?です
フランスってゴミ箱ないのでしょうかぁ~(* ̄m ̄)プッ


トム(Tom5k)
>Astayさん
ところで、『サムライ』の疑問点ですが、なんと難しい疑問点なのでしょうか?

>1.侍は孤独だ云々で始まるが、ドロンはかなり緊密なネットワークを築いており、決して孤独ではありえない.
確かに、おっしゃるとおりかもしれません。
しかし、どこかに孤独な自分をまだ、持っていたのかもしれません。
まして、彼の生育歴から過去においては孤独な時代も多くあったはず。
ですから、スターになった彼が孤独でないようでも、孤独を知っている男なのです。つまり、孤独を上手に表現できる俳優・スターなのです。
例えば、幼い頃から青年期までの貧困な生活、ハリウッドでの挫折、ロミーとの破局、ナタリーとの確執等々・・・。

>2.最初シトロエンを盗むのに使った合い鍵の大きく重そうなあの束はいったいどこに消えたのか? 警察でも見つからずに済んだ
>捨てたのかと思えばさにあらず.もう一度同じような鍵束で車を盗む.しかも細身仕立てのウールコートのポケットから出てくる.おまえは手品使いか?

あれは、儀式としての盗みであり、折り目正しい彼の行動原理を、「フィルム・ノワール」の作風で表現したものです。それが表現できれば良いので、そういった物理的な疑問は愚問だと思います(Astayさんの疑問じゃないですよね)。

※注
【疑問そのものが愚問だということではなく、侮蔑的な疑問の持ち方及び表現が大愚であると思うわけです。疑問そのものは大切なこと、これは言うまでもありません。】

観賞中は、演出効果におけるジェフの行動理解を優先すべきでしょう。
もっといえば、異化効果(ドイツの劇作家、詩人、演出家であるベルトルト・ブレヒトの演劇論による理論で、鑑賞者の思いこみや観賞の前提を、言葉や行動形態によって「ちょっとへんだな」とすることで強いショックを与え、俳優の演じる役柄や物語の内容に対する鑑賞者の作品への自然な同化をわざと妨げる手法)をねらったものかもしれません。

警察がジェフの部屋に盗聴器を仕掛けるシーンを入れれば三度あります。メルヴィル監督によれば「チャップリンの貴重な原則・・・観客に反応してもらうために同じことを三回見せるという原則」だそうです。

>あの傷のお手当てに使用したガーゼ等を
なぜ、あんな紙袋のまま道端に捨てたのか?

おっしゃるとおり、欧米ではゴミは持ち帰りの原則なんでしょうね。自分で出したものは自分で処理するのは日常の習慣となっているはず。
実はジェフは、惚れた死神ヴァレリーに会いたい一心のシーンでございます。無我夢中で、公共性がなくなったのだと思われます(ホントにかい?)。
もしかしたら、同様に異化効果をねらったシーンかもしれません。

【参考 『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年
及び
『トム(Tom5k)の勝手な推測』】を根拠に回答いたしました。ご批判を!
ジャン・ジャン!

では、また。
サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生
ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希 / 晶文社






Astayさん
トムさん
私の疑問『ゴミ』についての疑問に
素晴らしいお答えありがとうございます<(_ _)>

”惚れた死神ヴァレリー”がここで登場するとは思いませんでした
孤独なサムライ・ジェフもただの男だったのねってとこでしょうかぁ
何故か納得です

この前トムさんが購入された
『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著
は買わなければなりませんね
Amazonにまだ1冊だけ残ってました・・・買おうかな
ちょっと難しそうな内容だけど
全然読めないフランス語の本と違って(写真だけ楽しんでます・・・)
日本語なので何とかなるでしょう~

別サイト(マサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」の掲示板))での『サムライ』対談も面白かったです
あの、看板がモーリス・ロネだとは気付きませんでした

HP作成は夢の夢のまた夢で~す



Astayさんは、非常に実行力のある方で、ルイ・ノゲイラの著作をすぐに購入され、夢であった
ホーム・ページ(Cinema of Monsieur Delon)も、もうとっくのむかしに作成されています。
なお、マサヤさんのホーム・ページ「LE CERCLE ROUGE」の掲示板でも同様の疑問点が提示され、活発な議論が交わされていました。

鍵束についてのマサヤさんのご意見
「ジェフが鍵束を置きに部屋に戻るシーンをメルヴィルが描かなかったのは、あの映画前半の完璧ともいえる流れの中では、あまり必要ではなかったからではないか」
こちらの視点が最も説得力のあるご意見となっていたように感じております。
では、また。
トム(Tom5k)
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by Tom5k | 2007-08-02 23:48 | サムライ(6) | Comments(5)

『サムライ』③~メルヴィル演出におけるテーマ・編集・映像・シナリオ・音楽・俳優・スターシステム~

「私の意図は、分裂病的性癖に確実に冒された男の精神の混沌を見せることだった。カメラを後退移動させながら、同時にズーム・インしつつ、フェイドやオーヴァーラップでアクションをつけるという古典的な手法の代わりに、その同じ動きにいくつかのさりげないストップ・モーションとともに行ったんだ。ズームを続ける間は移動撮影を止め、また移動を始めるなどして、私は古典的な自然な映像のふくらみではなく、弾力性のある映像の膨張の印象を創り出して、その混沌とした感覚を表現しようとしたのさ。すべてが動き、同時にすべてが元の場所にとどまったままなんだ・・・。」
【引用~『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年】

サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生

ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希晶文社



 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、この作品の主人公ジェフ・コステロが「殺し屋」であることから、その性質は分裂病であるとしています。既に冒頭のクレジット・タイトル・シーンで、彼の部屋を微妙に前後に揺れるように撮影していることやフランソワ・ド・ルーペのテーマ音楽のイントロなどによって、その精神状態が効果的に表現されています。

 また、ハンガリーの映画理論家のベラ・バラージュは、歩行ほどその主人公の無意識の動作を表現しているジェスチャーはないと主張していました。
「歩行こそもっとも表現力に富む、特殊な映画的ジェスチュアなのである。歩行ほど性格的な表現動作はない。ほかに理由があるかもしれぬが、主な理由は、それが無意識の表現動作だという点にある。(-中略-)歩行のもつ表現力をあますところなく利用することのできるものは、映画をおいてほかにない。」
【『映画の理論』ベラ・バラージュ著、佐々木基一訳、学芸書林、1970年】

映画の理論

ベラ バラージュ Bela Balazs 佐々木 基一學藝書林



 「ジェフ・コステロの歩く姿」をテーマにした映画と言っても良いほど、アラン・ドロンが演ずる殺し屋ジェフ・コステロの歩行シーンは、この作品の主軸となっています。彼のキャラクターを創出するに当たって重要な役割を担っているそのシーンが連続して描写されているのです。
 そして、ジャン・ピエール・メルヴィル監督自身が語っているように、確かにドリー、パンニングやティルトと同時のズームは使用されておらず、ズームを使用しているときには、カメラを移動させていません。ズーミングによるフレーミング調整をせずに、ジェフの歩行をパンで追いながらもフレーム・アウトさせ、そのカット後に後姿をフレーム・インさせたり、また、ロング・ショット、フルフィギアから、ニーショット、バストショット、クローズ・アップと固定したカメラでジェフの歩行を正面から捉え続け、相手の殺し屋のクローズ・アップをカットバッグさせたりする印象深いシークエンスもあります。

 更に、フランソラ・ド・ルーペのテーマ音楽もアラン・ドロンの歩行リズムと完全に一致照応させ、主人公のキャラクターをより鮮明なものにしています。これは、音楽における運動と、映画の画面における造形的な運動との間に、極めて厳密な“一致照応”の関係があることを主張していた旧ソ連の大監督エイゼンシュテインの“トーキーの原理”を活用したものであり、正に映像技術の基本中の基本であると言えましょう。

 これらの素晴らしい技巧に加えて、カラー映像においてはブルートーンの基調で一貫させていることも印象的です。ジャン・ピエール・メルヴィル監督の演出による一連の硬質なカメラ技術は、既に超「ヌーヴェル・ヴァーグ」と化したアンリ・ドカエが担当しています。

 「青」は、貧しさと知性をシンボライズしている色彩です。
 わたしは、ピカソの「青の時代」を思い出してしまうのですが、この『サムライ』の主人公ジェフ・コステロは決して貧相ではありません。憐れな貧しさではないのです。それは、今の日本では既に死語に近い言葉ですが、「武士道」でいうところの品位としての「清貧」を敢えて誇っているようにまで思えるのです。

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新渡戸 稲造 / 岩波書店



 作品全編を通じて、表題である「サムライ」という日本の古典思想である「武士道」をシンボライズさせた着想によって、そのテーマや映像、編集、シナリオ、音楽、アラン・ドロンの演技とスター性など、斬新で優れたリアリズムを生成しています。

 ただ、わたしにとっての疑問、読み取れていない点も、いくつかあります。
 ファースト・シークエンスにおけるカメラ技巧の外に、ジャン・ピエール・メルヴィル監督ほどの斬新な演出家が、カットごとに今更ながら、古くさいワイプで場面転換を多用していること、監督自身は使用していないと言っているにも関わらず、オーバーラップを何度も使用していることなどです。また、ストップ・モーションを使用したと語っているシーンも、どのシーンか非常にわかりにくく、もしかしたら、元来の意味での「ストップ・モーション」のことではないのかもしれません。
 しかしながら、いずれにしても独特の技法でジェフの心象風景を表現し、それは全て的を得た成果を生んでいることに変わりはありません。彼のどの作品でも、個々の映像でのショットの連続性が、見る側の緊張感の連鎖を常に生み出す効果を創出しているのです。


 ナタリー・ドロン演ずるジャンヌ・ラグランジュは、ジェフ・コステロを心底、愛し切っています。彼女は、ジェフの役に立つことのみを生き甲斐にしている女性です。彼女の精神の純血は、「武士道」でいうところの「婦人の役割」を全うした立派な侍の妻のものだと言えましょう。恐らくジェフも、むかしから彼なりの方法で彼女を愛し続けてきたのでしょう。そして現在でも深く愛しているのだと思います。そういう意味では、ジャンヌは非常に幸せな女性です。

 しかしジェフは、カティ・ロジェ演ずるヴァレリーに恋をしています。
 彼女は、犯罪依頼人と同居しており、ジェフの疑問をはぐらかしたり、彼の電話を避けたことなどから、依頼人の情婦だと推測できます。

 それにしても、事件の証人を殺害するために再度、ジェフに依頼した殺害の対象者は誰なのでしょうか?この証人であると思われるのはジャンヌ、もしくはヴァレリーですが、この二人のどちらかなのかは非常にわかりにくく、ジャン・ピエール・メルヴィル監督は敢えてジャンヌとも、ヴァレリーともとれるように演出したようにも感じます。
 彼の演出特有の観る側へのイリュージョンの提示だったのかもしれません。

>証人を消そう
 ヤツに殺させるんだ

 依頼人宅で証人を殺害する議論がされたすぐ後、警察署内のカットに移ります。フランソワ・ペリエ演ずる警視とその部下たちが

>女はウソだ
 女を攻める手だな
 偽証罪になると脅すんだ
 ・・・
 さあ女を攻めろ

 このような場面転換から考えれば、ジャンヌがその対象である印象を受けることもあり得るでしょう。
 もし、警察が彼女を墜としてしまうとジェフが犯人だとわかってしまい、そこから足が付くことも有り得るわけですから、犯人側からすれば最悪の事態となります。当然のことながら、彼らがジャンヌの殺害を目論んでも不自然ではありません。
 しかし、自分を最大に愛してくれている愛しいジャンヌの殺害を、ジェフが引き受けるわけがありません。
 そして、依頼した相手とヴァレリーは共謀、もしかしたら彼女が主犯となり得るわけですから、ジェフがヴァレリーに銃を向けることは必然となるわけです。が、しかし、ジェフはヴァレリーに恋をしており、彼女を殺害することは不可能なわけです。
 この場合の彼女は、「フィルム・ノワール」のセオリーどおりの典型的なファム・ファタルだったといえましょう。

>どうなの私が必要でしょ?
>いや
>ウソよ 何をするの?助けたいの
>いいんだ

 自分を必要として欲しいという願うジャンヌにジェフは
>おれの仕事だ

 と言って立ち去ります。

 また、ラスト・シーンでは、
>演奏中よ
 ジェフはヴァレリーに銃を向けます。
>どうして?
 との問いかけにジェフは
>仕事さ

 と言い放つセリフがあります。

 これらのことから考えれば、現在、一般的に解釈されているように、証人としての殺害依頼の対象となっているのがヴァレリーであるとすることが、最も妥当な解釈となります。

 殺しの依頼に対する自分の考え方が、「仕事」であると割り切っていることを理解している女性二人にジェフが、そう言い放っているシーンが、このように二度もあるからです。その目的、すなわちヴァレリーの殺害を指している言葉が「仕事」、すなわち「依頼された業務」であるから使った言葉なのでしょう。
 この場合、彼女が依頼人と共謀していたとは言え、完全に情夫に裏切られた女性となります。恐らく、ジェフもそのことに気付いているでしょう。彼にとっては、恋した女性であることに加えて、彼女が依頼人と共謀しているものの自分を助けてくれた女性であり、彼から見れば非常に哀れな女性に見えるのではないでしょうか?
 そして、ジェフは主犯格の犯人を殺害しますので、本来であれば、もはやヴァレリーを殺害することに意味はありません。しかし、仕事を全うしようとするプロの殺し屋として生きるしかなかった彼は、ヴァレリーの元へ向かい、彼女に銃口を向けるのです。彼女に恋してしまったことで、自分の仕事への潔癖を否定せざるを得なかった彼は、死を選択するしかなかったのです。

 いずれにしても、この作品のテーマが、男性が女性のために自殺せざるを得ないほどの強いフェミニズムを描いたものだということが理解できますし、ラスト・シークエンスの「切腹」とも言えるジェフの自害は、このテーマから必然の結末です。
 女性を拒否する作品が多い「フレンチ・フィルム・ノワール」で、この作品ほどフェミニズムに溢れた作品はありません。特に、ジャン・ピエール・メルヴィル監督のアラン・ドロン主演作品としては、『仁義』や『リスボン特急』と比べても、際立って異質なテーマだと言えましょう。

 女性を拒否することをトレード・マークにしていたアラン・ドロンが、女性のために死を決します。しかも、その行為は非常に男らしい潔癖さで実行されるのです。全盛期のアラン・ドロンのキャラクターを初めて完成させた『サムライ』の作品テーマが、女性を守るために自らが破滅することを描いていたものでした。
 このようなジャン・ピエール・メルヴィル演出における「フレンチ・フィルム・ノワール」へのスター・システムの効用に、わたしは必要以上に驚いてしまったのです。
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by Tom5k | 2006-12-03 13:51 | サムライ(6) | Comments(20)

『仁義』①~孤独の美学~

 1917年パリに生まれのジャン・ピエール・メルヴィル監督は、第二次世界大戦中、フランス軍に従軍後、1946年に独立プロダクションを立ち上げ、自主制作映画を創り始めました。
 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、やはりアラン・ドロンを撮り続けた名匠たち、ルネ・クレマン監督やルキノ・ヴィスコンティ監督と同様に大戦中はレジスタンスの一員でした。彼らの作品とはまた異なる意味で、創作された作品群の各テーマにそのことが色濃く出ています。

 1947年のデビュー作『海の沈黙』もドイツ占領下のフランス郡部を舞台にしたレジスタンス作品です。この作品が、既成のスター俳優を使わずに低予算で製作され、オール・ロケーションで撮影されたことから、彼は「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先駆者とも呼ばれています。ジャン・リュック・ゴダール監督らの「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派に敬愛され、彼の『勝手にしやがれ』(1960年)にも特別出演しています。

 後年、ジャン・ポール・ベルモンド主演の『いぬ』(1963年)、リノ・ヴァンチュラ、ポール・ムーリス、ミシェル・コンスタンタン出演の『ギャング』(1964年)などで、彼自身の経験によるレジスタンスの精神で「フレンチ・フィルム・ノワール」を描くようになっていきました。

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 その後、アラン・ドロンという好逸材に恵まれ、日本の武士道などの東洋思想のテーマで彼を主演にした『サムライ』(1967年)を制作し、「フレンチ・フィルム・ノワール」を独自の美学で更に純化させていきました。
 そういった経緯を経て、豪華なオールスター・キャスティングを特徴とした後期の代表作品である『仁義』が生み出されたのです。

【出演者の各代表作品】
※ジャン・マリア・ヴォロンテ
死刑台のメロディ
/ エスピーオー





群盗荒野を裂く〈インターナショナル版〉
/ エスピーオー





東風
/ コロムビアミュージックエンタテインメント





※ブールヴィル
大頭脳
/ ビクターエンタテインメント/CIC・ビクタービデオ





怪傑キャピタン(トールケース)
/ アイ・ヴィー・シー






※フランソワ・ペリエ
居酒屋
/ アイ・ヴィー・シー





右側に気をつけろ〈期間限定〉
/ ハピネット・ピクチャーズ





オルフェの遺言
/ ビデオメーカー






※イブ・モンタン
枯葉 ~夜の門~
/ アイ・ヴィー・シー





恐怖の報酬
/ ハピネット・ピクチャーズ





>菊村
「映画の中に「人生の中で一番重要だと思うのは愛と友情と裏切りだ」という言葉が出てきますよね。(略-)」
(-略-)
>白井
「ドロンが一人でクラブの隅の席に座っていると、たばこ売りのバニー・ガールが来て、手に持っていた赤いバラを、ちょっとキャメラの方を見て考えてから彼にやる場面がある。(略-)」
>河原畑
「一説によると、あのバニー・ガールは、ひそかに店の主人フランソワ・ペリエの命を受けていて、裏切りのシンボルである赤いバラをアラン・ドロンに渡して、意のあるところを知らせようとした、という説もある。(笑)」
>品田
「(-略)そういう読み方をしていくと、ジャン・マリア・ボロンテがアジトのアパートでアラン・ドロンを送り出してから、ハッと裏切りに気づくシーンでも、彼は赤いバラを手に持っている」
(注~わたしは、すでにコレーを送り出す前に、ボージェルはそれに気づいていたと思っています。)
(-略-)
>池波
「(-略)ギャング映画、犯罪映画というのは、スキ無くつくろうと思うと、一番むずかしいと思う。ジャン・ピエール・メルビルみたいな、こういう不思議な監督がいるあたりが、映画というものの面白いところですよ。」
【キネマ旬報1970年12月下旬号 特別ディスカッション「「仁義」とジャン・ピエール・メルビル監督とその映像の精神主義」池波正太郎(作家)、菊村到(作家)、品田雄吉(評論家)、河原畑寧(読売新聞文化部)、白井佳夫(キネマ旬報誌編集長)より抜粋。】

 作品のテーマは、警視総監が常に言葉にする「人間は常に悪に染まっていく。すべての人間は罪を犯している。」に集約されています。

 マッティ警視を演じるブールヴィルが、素晴らしいキャラクターを創り上げています。マッティ警視の生活は、一人暮らしのアパルトマンで一緒に住んでいるのは飼っている何匹かの猫だけという非常に淋しいものです。彼は、自らが孤独であることを知っているがために、多くの犯罪者たちに対して、心底からの憎悪を持つことができない善良で優しい警察官であるように感じることができます。

 もしかしたら、ジャン・マリア・ヴォロンテ演じる犯人ボージェルの脱獄に対してでさえ、心のどこかで彼の心意気や生き方に対する賞賛や敬愛の気持ちを持っていたのではないかとまで考えてしまいます。
 いくら賢い犯人が相手とはいえ、大ベテランの警察官が護送中の犯人に逃亡されてしまうことなど考えにくいことです。そして、その後の監査局長である警視総監とのやりとりからも、彼がボージェル逮捕に対して、非常に消極的であるような印象を受けます。
 これらのことから、彼が警察官としては失格であっても、人間的で安心感のある人柄であることを察することができます。

>警視総監
「マッティ君、有罪と思われる容疑者はどういう行動を取るか、君は予知していなかったのかね?」
>マッティ警視
「反論して恐縮ですが、私の手を経由する容疑者は、私は無罪の可能性のある者として扱っております。」
>警視総監
「無罪など存在せん。人間はすべて有罪なのだ。この世に生まれたときは、なるほど罪はあるまい。だが、いつまでもそのままではおらんからね!」
(-略-)
>マッティ警視
「警官でもですか?」
>警視総監
「あらゆる人間と言っただろう。マッティ君。」

 マッティ警視は警視総監(監査局長)を心の底では侮蔑しながらも、彼の人間観に不思議な説得力を感じてしまいます。そして、お抱えの情報屋の
「ボージェルはクロなのか?」
という問いに
「そうだ。」
と答えてしまうのです。このときのマッティ警視の表情には、彼のやりきれない心情が現れてしまっています。

 このような割り切れない感情を持ちながらも、警視総監(監査局長)や情報屋とのやり取りから、彼は次第にボージェルの捜査に本気で乗り出していくようになってしまいます。そして、ボージェルの古い仲間、フランソワ・ペリエ演ずるサンティに、仲間を売らせるように仕組んでいくのです。

 ボージェルとサンティのもう一人の古い仲間であるイブ・モンタン演じるジャンセンは、悪に染まって堕落してしまった元警察官です。
「彼は今監査局長だ。警官を監視する立場だ。」
とジャンセンは鍵穴を射撃した技術を警官時代の元上司に教えて貰った経験をアラン・ドロン演じるコレイに語ります。驚くことに、それはマッティ警視の尻を叩いていた警視総監だったのです。

 監査局長である警視総監はマッティ警視に対してまで
「コルシカ人の名だが風貌が違う。」
と言って、彼の身上調書を確認するほど、人に対して常に猜疑の目を向ける性格ですが、もしかしたら、このような彼の生き方も、元部下のジャンセンの転落がトラウマとなっていたからなのかもしれません。

 そして、マッティ警視は、警視総監の言葉に強い説得力があることを次第に認めていかざるをえなくなります。サンティスに仲間を売らせるために、彼の息子をおとり逮捕で連行しただけなのに、彼は実際のマリファナの事件に関与していたのです。
 彼は、ひとりごちます。
「≪この世に生まれたときは、なるほど罪はあるまい。だが、いつまでもそのままではない≫ 畜生!」

 いよいよ、マッティ警視も、サンティの裏切りやコレイのむかしの相棒リコの密告から、ボージェルが宝石店の強盗一味であることを想定します。そして、自らが闇の宝石商に扮してコレイを欺き、一斉逮捕の準備をすすめていきます。
 しかし、ボージェルはサンティの裏切りに気づいており、コレイとマッティの密談の場所に乗り込みます。うむを言わせずコレイを逃がしたボージェルに対して、マッティは
「なぜ、おれが誰だか言ってやらなかった。」
と問いただします。
「言えば、お前を殺しにいって捕まってしまう。あいつを逃がすことが仁義だ。」

 すでにマッティが警察官だと気づきながらも、それをコレイに伝えなかったボージェルは、仲間に対する仁義を果たしていたのです。

 彼はジャンセンが死ぬときに残した
「サツはいつもマヌケだな。」
という警察官に対する痛烈な侮蔑の言葉からも、何故、彼が警察を辞めて転落していったのかを察してしまったのでしょう。

 サンティに仲間を売らせ、ボージェルとコレイの友情を知り、むかしの同僚ジャンセンを撃ち、彼に警官が侮蔑されるべき存在であることを思い知らされたマッティ警視。

 「人間は、すべて有罪だ。マッティ君。すべて・・・。」

 警視総監が最後まで言い続けたその言葉も、彼には何の慰めにもならず、何の説得力も持たない空虚なものになっていました。マッティ警視はあらためて自分の孤独を思い知らされるのです。
 それは、本当に大切な友情というものを確信しながらも、すべてを破滅させてしまう警察官の宿命に、自己の良心が敗北せざるを得なかったために生まれた「孤独の美学」といえるものなのかもしれません。
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by Tom5k | 2006-05-30 21:12 | 仁義(2) | Comments(11)

『リスボン特急』①~「フレンチ・フィルム・ノワール」の新しい在り方~

「映画というものは単なるスペクタクル芸術ではないということを発見したのだ。私は非常に長いこと映画はスペクタクルだと信じ込んでいたのだが、ここ数年の新しいアメリカ映画の諸作品を見て、自分が間違っていたことに気がついたのだ。(-中略-)映画は文学、音楽、絵画の三つを結合して、我々の文化に取って変わったのだ。映画は総合芸術だ。多数の芸術なのだ」
 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、この作品の制作時にこう語ったそうです。

 わたしとしては、更に写真、演劇も結合要素であると考えていますが、いずれにしてもこの言葉からは、リュミュエール兄弟から始まってメリエス、エイゼンシュタインやシュトロハイム、グリフィス、チャップリンらの時代、映画初期からの映画理論と同様に、映画によって社会を激変させることが可能であることを想定している芸術家の志ともいえる熱いものが伝わってきます。
 また、一般的には絵画、彫刻、音楽、文学、建築、演劇につづく第七芸術といったのはイタリアの文芸評論家リッチオット・カニュードでした。

 わたしの『リスボン特急』の初めの印象は、いつもの地味なジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品にしては、ストーリーのプロットやアクション、キャスティング等、華やかで派手な作品となっているような気がしていました。しかし、その印象も彼が語っているように非常に斬新で個性的なものです。

 この作品のショット構成は独特です。ワン・シークエンスにおいてすら連続した展開のスピーディなモンタージュによる緊迫感が全編通しての特徴となっています。
 また、列車の疾走とヘリコプターのクライマックスともいえるシークエンスに、わざわざミニチュア模型を用いて撮影していることなどは、スペクタクル・シーンを、あえてフィルムの編集で表現しようとしたものであるような気がしてなりません。

 そして、アラン・ドロン演じるコールマン警部が、犯人のひとりであるルイ(マイケル・コンラッド)を背後から回りこんで取り押さえるときの場面が、わたしには、ストップ・モーションのアクション・シーンをインサートしているように感じられました。もし、それが本当にそうだとすると、実に独特の効果的な演出であり、極めて印象深いショットを狙ったものであったように思うのです。

【映像における効果としてのスローモーションは言うまでもなく、現実よりも遅い速度で再生することであり、通常は映画では1秒間に24コマだということですが、現在の技術では、これを「高速度撮影」により行うことが一般的で、24コマより多いコマ数により撮影し、画面のブレを防いでいるそうです。
 また、ストップ・モーションとは、アニメーション技法のことで、人形や写真などの静止画像を、少しずつ動かしたり連続させて、コマ送りによる一連の動きを創っていく映像技術の方法です。
 当初、わたしは「高速度撮影」ではなく、通常の速度で撮影したものをゆっくり再生したスローモーション映像であるように思ったのですが、メルヴィル監督は、ストップ・モーションを『サムライ』で使用したと語っていることから、この犯人逮捕の場面でも同様な意味で使用したのではないかと推測してしまいました。
 いずれにしても、意図的な視覚効果を狙ったワン・ショットの映像には、それがコンマ数秒の短いカットであっても観る者に強烈な印象を持たせる効果を持っています。】

 そして、わたしには、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が自らの作品である『いぬ』、『ギャング』、『サムライ』、『仁義』などとも異なったヨーロッパのアクション映画の新しい在り方を模索しているようにも見えるのです。
いぬ
/ アイ・ヴィー・シー





 キャスティングにおいても、スペクタクル映画の本国ハリウッドの名脇役のリチャード・クレンナを起用していること、フランスの大スターであるアラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーブの起用など、ハリウッドに対する前向きな挑戦をしようとしていたようにも感じます。

 それらは、脚本においても顕著です。
 リスボン往き特急列車の走行中に、ヘリコプターからワイヤロープを使って列車にしのびこみ、麻薬を盗み出すリチャード・クレンナ演ずるシモンの行動には、セリフがほとんど使われずに延々と寡黙なシーンが続きます。他の乗客と鉢合わせになり、煙草を吸ってごまかす場面や、特急列車の速度がヘリコプターの追跡可能である区間終了までの、時間経過との闘いなど、今では珍しい場面ではありませんが、やはりシモンに感情移入してしまいます。
 逆に、靴ひもを解いて靴を脱ぐシーンや、部屋に忍び込むときのメジャースケールと磁石を使って鍵穴を探すショットの描写は実に仔細でしつこいくらいです。これらのカットはメルヴィル演出の独特の特徴かもしれません。しかし観る側は、この描写があることによって、犯罪者シモンとそこに居合わせて実際に時間を共有しているような錯覚にとらわれます。
 この必要以上の丁寧な描写と、ヘリコプターと列車のシーンにあえてミニュチュア模型を使用したこととは、メルヴィル監督の主張の表と裏の表れなのでしょう。

 また、登場人物と作品のテーマとの関連においても、シモンの登場場面に多く映し出される凱旋門が印象的ですし、ルーブル美術館でのシモンのクローズ・アップとゴッホの自画像の連続ショットも同様です。

 逆に、コールマン警部の登場するカット前に常に挿入される警察庁舎の建物を、歪んで見えるように映し出している意図的なカメラワークは分かり易い比喩です。
【参考 キネマ旬報1972年12月下旬号No.595(「「リスボン特急」の映画的な魅力 メルビル映像の秘密 ドロンの刑事の位置は」白井佳夫)】

 こういった何気ないワン・ショットも作品テーマを伝達する方法として使われている場合には、非常に重要な意味を持つものなのではないでしょうか。
凱旋門
E.M. レマルク Erich Maria Remarque 山西 英一 / ブッキング





炎の人ゴッホ
/ ワーナー・ホーム・ビデオ





 これらの映像展開の時系列等のモンタージュは、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の編集技術で独自の緊迫感を創り出しており、はっきりした映像におけるテーマを表現しています。カメラワークやシナリオ、キャスティング、音楽を含めて、彼の種々の様々な新たな意気込みを感じ、わたしは、サイレント時代の映画を新しい様式で発展させた、アクション映画とは別のジャンルの作品であるとまで感じてしまうのです。

 それらのこととは逆に、カトリーヌ・ドヌーブ演ずる主人公の女性カティの描き方においても、「フィルム・ノワール」の古典技法の原則に非常に近いキャラクターを用いているような気がしています。もちろん、「フィルム・ノワール」というジャンルそのものが男性を描くことを主にしており、「フレンチ・フィルム・ノワール」、特にアラン・ドロンのそれにおいては、女性を完全に拒否しているほどの過剰な男性中心の作風が一般的です。

 この作品もその例に漏れているわけではありませんが、フランソワ・トリュフォーやジャン・リュック・ゴダール等のカイエ派が絶賛していた1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」に登場するファム・ファタル(暗黒街の女)の位置づけの特徴から、カティは基本原則に近い設定で意識的に登場させた人物と思えます。

【ハリウッド作品のフィルム・ノワールには、女性の特定な位置づけと、いくらかあいまいなイデオロギー的効果をつくりだす、次のような五つの構造的な特徴が見られる。それらは、
 1 物語が捜査という構成をもっているということ
 2 フラッシュ・バックやヴォイス・オーバーを多用するプロット構成であること
 3 多くの視点をもつこと
 4 ヒロインの性格描写がしばしばあいまいであること
 5 表現主義的な映像による女性のセクシュアリティの強調
(引用~『フィルム・ノワールの女たち~性的支配をめぐる争闘』E・アン・カプラン著、水田宗子訳、田畑書店、1988年(フェミニスト批評の方法ー意味の創造より))】

フィルム・ノワールの女たち―性的支配をめぐる争闘

田畑書店



 コールマン警部と強盗団の首領シモンの妻カティの恋愛は、彼らが初めて知り合ったときから、すでにシモンに気づかれています。このことは、その逢い引きのシークエンスでのフラッシュ・バックのプロットとして、ふたりのセリフに集約されています。

 あえてカティをファム・ファタルとして解釈したならば、
 彼女は、強盗団である金持ちの男を夫とし、集団強盗の論理によって殺人も厭わない、彼の旧友と不倫関係であり夫を裏切っていること、しかも彼が警察官であること、恐らく夫が最後には警察に捕えられること、もしかしたら彼の死までをも想定しているかもしれない・・・旧友との関係も最後には清算せざるをえない・・・ことなど。
 結果的に彼女は、すべてを破滅させてしまいます。

 人物描写のあいまいさ、すなわち古典原則「謎の女」を演じさせたというよりも、「女の謎」というものが描かれているといえそうです。

 カトリーヌ・ドヌーブが大衆に人気のあること、つまりスター女優としてのキャラクターを利用して、女性のあいまいさを表現したのででしょう。彼女の存在によって、コールマン警部が権力の論理構造に従ったがために全てを喪失してしまったことが暴き出されているように思うわけです。

 最後に夫からの電話に対して無言で対応したカティ、そして、ラストシーンでコールマン警部に夫のシモンを無惨にも殺されてしまった彼女は、死んだシモンも含めて、彼らとの関係をもう修復できる状況にはないのです。
 二人の男を惹きつけ続けた魅力的でセクシュアルなキャラクターでありながら、主人公の男達の持つハードでシニックなヒロイズムをも共有している印象を観る側に残させ、危険に満ちた強いセクシュアリティを持つファム・ファタルの古典的な基本を踏まえ、それを現代に発展させた悲劇的な女性の描き方であったようにも思います。

 また、カトリーヌ・ドヌーブの衣裳ブランドはこの作品でさえも、いつものとおりイブ・サンローランでした。この作品の最高の贅沢は、カトリーヌ・ドヌーブの起用だったかもしれません。
イブ・サンローラン―喝采と孤独の間で
アリス ローソーン Alice Rawsthorn 深井 晃子 / 日之出出版






 警察官の日常が、冒頭でのセリフとヴォイス・オーバーとで説明されます。
「毎日同じ時刻にシャンゼリゼへ巡回に出る」
「こちら8号車」
「私だ どこだ 今から直行する」
とパトカー内での電話連絡のセリフの後に、

「まだ街は夕暮れ時だが本当の仕事の始まりは街が寝静まってからだ。
 コールマン警部」

 ストーリーのプロットにおけるヴォイス・オーバーを使用する代わりに、メルヴィル監督は、いつものように作品の主張をはっきり分かり易く表現しています。
冒頭での
「警官に存在しない感情がふたつある。あいまいさと侮蔑である。」
のテロップとコールマン警部のセリフは、それを明確にしたものです。

 さて、この作品でもジャン・ルノワールの門下であるメルヴィル監督らしく、すべての登場人物を肯定的に描いています。ルノワール作品『ゲームの規則』での「映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい」というセリフを思い出します。
 同じ門下生ともいえるルキノ・ヴィスコンティ監督は自らの貴族の立場、下層の労働者や農民、資本家などの各階級の立場を描き続けました。メルヴィル監督は、決して正業に着くことが出来ない犯罪のプロたちの生態や、暗黒街で犯罪者を摘発しながらも、やはりそこでしか生きることのできない公権力の末端に位置する警察官らを描き続けました。

 アラン・ドロンは、この作品で初めての刑事役を演じました。そして、彼が扮したそのエドワード・コールマン警部という人物は、警察が民衆に嫌われており、侮蔑されている存在であり、またその理由も、その典型が自らであることも自身が一番よくわかっているのです。

 ただ、旧友シモンと彼が経営しているナイトクラブだけは、そこで働くダンサーたちも含めて彼の孤独に安らぎを与えてくれる唯一の場所でした。そして、シモンの妻カティは彼の愛人でもあったのです。

 しかし、コールマン警部が、自分の犬(情報屋)として使っている男娼との信頼関係を断ち切るあたりから、彼の孤独が浮き彫りになってきます。
【映画を見ないとわからないのだけれけど、ジャン・ドザイ扮する実業家の家へ忍び込んで、ブロンズ像を盗もうとして捕らえられる少年と、ドロン扮する警部が手先に使っている美人(?)の密告者は同一人物だから念のため。・・・】
【引用~キネマ旬報1972年12月下旬号No.595「外国映画紹介 新作情報 「リスボン特急」あれこれ」渡辺祥子】
(注~同一人物としての設定ながら、演じている俳優はそれぞれ別人だそうです。男娼を演じているのは、ヴァレリー・ウィルソンという女優だそうです。)

 ジャン・ピエール・メルヴィル監督は、自らのレジスタンスの経験から仲間の友情と裏切りを何度も経験したと聞きます。そして、それは巨大な権力機構に対する人間の弱さをあらわすものなのかもしれません。しかし、人間としての最も強い孤独は、友情や人間とのコミュニケーションと断絶した権力機構そのものの中で生活していくことなのでしょう。

 自らの手で気の置けない大切な友人を射殺してしまい、愛する女性、そして厳しい仕事の合間に一息つける安らぎの場所を、権力構造の論理に従ったために全て失ってしまったコールマン警部・・・。

 それは『山猫』で演じたタンクレディや『太陽はひとりぼっち』で演じたピエロの後日譚でもあるようで、後年に『カサノヴァ最後の恋』で演じたカサノヴァの孤独とも似通っているような気がします。
 旧友シモンを自ら撃ち、愛人のカティも目を伏せ、コールマンの無表情も苦渋に満ちている、このような単発の短いショットの連続により、甘い感傷を払拭したクールでシャープなラスト・シーンを成立させており、各登場人物の全ての心情が一瞬のうちに伝えられています。

「こちら8号車」
「ただちに現場に直行する」

 コールマン警部とポール・クローシェ演ずるモラン刑事のコンビネーションも空しく、現場の向かうパトカー内部では、ふたりとも電話の着信音を無視します。

 そして、彼の背後には、歪んだ警察庁舎の建物ではなく、シモンが登場していたときのように美しい凱旋門が遠景に映し出され、窓の外に遠退いて行くのです。

 皆 間違ったほうの岸にいるのさ
 岸を洗う情熱の災いの流れ
 流れのまにまに漂う夢の末よ
 さらば かつてわれわれであったもの
 生きる者は生きて行くのだ
 運命にもてあそばれて
 訪れて来たこのこと あのこと
 そして ああ 今は心に悔いるときよ ああ
(作詞 シャルル・アズナブール、歌 イザベル・オーブレ、訳詞 三木宮彦)

「悲しいことだが、アランとの仕事もこれっきりだよ。(-中略-)私はもう彼のジャンルの人物のすべてをくみ取り尽くしてしまったのだ」

 こう語ったジャン・ピエール・メルヴィル監督は、アラン・ドロンとの映画創作の最後の作品が、彼の人生の終焉と同じ意味を持つ結果となることも予想していたのかもしれません。そして、このことが、その後のフランス映画界においての最も大きな損失でもあったのです。
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by Tom5k | 2006-05-14 20:27 | リスボン特急(2) | Comments(17)

『サムライ』②~フランス人から見た武士道の精神~

武士道
新渡戸 稲造 矢内原 忠雄 / 岩波書店






「運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を卑しみ死を親しむ心・・・・・」
【第二章 武士道の淵源】より

「勇気が人のたましいに宿れる姿は、平静すなわち心の落ち着きとして現れる。平静は静止的状態における勇気である。敢為の行為が勇気の動態的表現たるに対し、平静はその静態的表現である。真に勇敢なる人は常に沈着である。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神の平静を紊さない。激しき戦闘の最中にも彼は冷静であり、大事変の真中にありても彼は心の平静を保つ。地震も彼を震わず、彼は嵐を見て笑う。危険もしくは死の驚異に面しても沈着を失わざる者、・・・・・」
【第四章 勇・敢為堅忍の精神(1)補注】より

「名誉の感覚は人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む~(中略)~その観念は「名」、「面目」、「外聞」等の語によりて伝えられた。~(中略)~善き名-人の名声、「人自身の不死の部分、これなくんば人は禽獣である」-は、その潔白に対するいかなる侵害をも恥辱と感ずることを当然のこととなした。」
【第八章 名誉】より

「しかるに武士道においては、家族とその成員の利害は一体である、-一にして分かつべからざるものとなす。この利害を武士道は愛情と結びつけた-自然に、本能的に、不可抗的に。それ故に、もし我々が自然愛(動物でさえもつところの)によりて愛する者のために死ぬとも、それがなんであるか。」
【第九章 忠義】より

「武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。
~(中略)~
武士道は非経済的である。それは貧困を誇る。」
【第十章 武士の教育および訓練】より

「武士が感情を面に現わすは男らしくないと考えられた。「喜怒色に現わさず」とは、偉大なる人物を評する場合に用いらるる句であった。最も自然なる愛情も抑制せられた。父が子を抱くは彼の威厳を傷つくることであり、夫は妻に接吻しなかった-私室においてはともかく、他人の面前にてはこれをなさなかったのである。」
【第十一章 克己】より

「切腹が単なる自殺の方法でなかったことを領解せられたであろう。それは法律上ならびに礼法上の制度であった。中世の発明として、それは武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖い、もしくは自己の誠実を証明する方法であった。」
【第十二章 自殺および復仇の制度】より

『武士道』(新渡戸 稲造 著、矢内原 忠雄 訳 1938年 岩波文庫より)-各章より抜粋-


 映画『サムライ』の冒頭は、飾り気のない淋しいアパルトマンの一室のシーンから始まり、アラン・ドロン演じる殺し屋ジェフ・コステロ、一緒に住んでいる鳥籠の小鳥が映し出される。彼らが、唯一の信頼し合える友人同士なのだということが、すでにこの場面から察することができ、映画を観るものはジェフの孤独を強烈な印象で受け止めることになる。

 ストーリーは一貫して静的な表現で進められながら、各場面は常にスリリングに展開する。
 殺しの依頼の実行、目撃者のピアニスト、ヴァレリーの偽証、警察の執拗な捜査、依頼者の裏切り、飼っている小鳥の忠賢、愛人ジャンヌとの愛情と別れ。依頼者への復讐。

 そして、殺し屋ジェフ・コステロは、ラストのクライマックス、最後の舞台となるクラブで、ついに第二の殺しの依頼通りにヴァレリーに銃口を向ける。ジェフが彼女を撃とうとしたその瞬間、張り込んでいた警官の銃が一瞬早く火を吹き、彼は死を迎えることとなる。
 警察が事件を食い止めたのだろうか。いや、そうでは無い。ジェフのピストルには弾が込められていなかった。彼は自らが殺されることを知ったうえで、あえてヴァレリーに銃を向けたのだった。

 殺し屋ジェフの禁欲的な勇気、そして、自己の尊厳からくるのであろう、いかなる事象、いかなる局面においても動じない冷静沈着な行動、純白ともいえる潔癖さ、貧困をも誇りとしているような清貧の生活、盗聴器の仕掛けや依頼者の送り込んだ刺客が部屋に潜んでいることなどを教えてくれる主人に対する小鳥の忠実さ、そして、愛すべきジャンヌに対しては、何の感情表現もしないストイシズム。
 ジェフはヴァレリーに心を動かされたことで仕事への潔癖を否定せざるを得なかったのだろうか。彼は死を選ぶことになる。

 この作品によって、日本的武士道の思想の全てが描かれたわけではない。しかし、描かれていることのほとんどが武士道に遵守している。

 この作品は言うまでもなく、フランスの映画である。監督のジャン・ピエール・メルヴィル、主演のアラン・ドロンはじめ、他のスタッフ・キャストも、ほとんどがフランス人であり、舞台も現代のパリの夜の街である。


「この間、アラン・ドロン主演の「サムライ」という映画が来たが、日本人が“サムライ”ということばでどれだけ理想化されているかがわかって、ちょっとくすぐったい。日本文化が西洋文化に紹介されたなどと言っているけれども、西洋人の頭の中にある日本男性は、やはり、“サムライ”のイメージでとらえられていることが多いようである。
~(中略)~
 われわれにとって“サムライ”はわれわれの父祖の姿であるが、西洋人にとっては、いわゆるノーブル・サヴェッジ(高貴なる野蛮人)のイメージでもあろう。われわれはもっと野蛮人であることを誇りにすべきである。」

『若きサムライのために~勇者とは~』
(三島 由紀夫 著 昭和44年 日本教文社刊より)

若きサムライのために
三島 由紀夫 / 文芸春秋
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by Tom5k | 2005-07-19 23:48 | サムライ(6) | Comments(2)

『サムライ』①~武士道における婦人の役割~

 映画『サムライ』がアラン・ドロンや犯罪映画のファンのみならず、フランス映画史にとっても非常に重要な作品であることは既に周知のことだ。フランス映画としての「フィルム・ノワール」の作風を極限まで結晶させたことも然り、そのテーマにおいても極めて個性的であり、他の同種の作品と比べても映像・俳優・音楽・脚本・ストーリーのプロット等全てにおいて、スタイリッシュの極致ともいえる素晴らしさを傑出させている。

 わたしはこの作品のテーマにこだわったとき、アラン・ドロン演じる孤独な殺し屋ジェフ・コステロの愛人ジャンヌ・ラグランジュを忘れることができない。当時のアラン・ドロン夫人であったナタリー・ドロンが素晴らしく、彼女の好演によって、この作品のテ-マであった日本人の精神をより鮮明に印象づける作品とすることができたとまで思ってしまう。


『女子がその夫、家庭ならび家族のために身を棄つるは、男子が主君と国のために身棄つると同様に、喜んでかつ立派になされた。自己否定-これなくしては何ら人生の謎は解決せられない-は男子の忠義におけると同様、女子の家庭性の基調であった。
 女子が男子の奴隷でなかったことは、彼女の夫が封建君主の奴隷でなかったと同様である。女子の果たしたる役割は、内助すなわち「内側の助け」であった。奉仕の上昇階段に立ちて女子は男子のために己れを棄て、これにより男子をして主君のために己れを棄つるをえしめ、主君はまたこれによって天に従わんがためであった。』

「武士道」-第十四章 婦人の地位-
(新渡戸 稲造 著、矢内原 忠雄 訳 1938年 岩波文庫より)


 この作品の大きなテーマは、作品名の『LE SAMOURAI』からもわかるように、ヨーロッパ人から見た日本思想の典型である武士道を理想化したものだった。そして、この思想を原則通りに最も極めていたといえるのは、殺し屋ジェフを愛していたジャンヌにおいてではなかっただろうか。
 愛する男のため、自らの未来を棄て、偽証の証人となったジャンヌ。官憲の脅迫ともいえる執拗・強引で作為的な取り調べに対しても、気丈にジェフへの誠実な愛情を一貫させていた。
 そして、自分の愛するジェフ・コステロに必要とされることを最も望み、それを生きる意味としていたジャンヌは、武士道に遵守した婦人の役割を全うした立派なサムライの妻であり、心から愛すべき女性であるといえよう。
 あえて、多くのフェミニズムの思想に抗することを覚悟できれば、「このような封建の女性に愛されることほど幸せな男はいない」という男性諸氏は現在の民主主義国家である日本においても、恐らく私だけではないだろうと不遜にも考えてしまう。
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by Tom5k | 2005-07-17 21:54 | サムライ(6) | Comments(4)