『生きる歓び』②~ルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティへのライバル意識~

 イタリアの「ネオ・リアリズモ」作品で活躍していた当時のルキノ・ヴィスコンティは、『揺れる大地』』(1948年)と『若者のすべて』(1960年)を撮り終えたときに将来的に描きたい映画作品のテーマについて、恐らく彼の当時のライフワークの指標・目標としてだと思いますが、次のように述懐しています。
揺れる大地 海の挿話
/ 紀伊國屋書店




【「揺れる大地」と「若者のすべて」に続いて第三部をなす「人民のたたかい」を描いた映画を作りたい。しかも、最初の作品が敗北の物語であり、二番目が半ば敗北の物語であったのに反し、こんどは人民の力を確認させるような、勝利の物語を描きたい。】
【引用 「世界の映画作家4 フェデリコ・フェリーニ ルキノ・ヴィスコンティ編」キネマ旬報社】

 この壮大なライフワークは残念ながら果たされることはなく、その後の彼は「人民のたたかい」ではなく、自ら帰属していた貴族社会の崩壊を耽美的に描いていくことになります。

 また、自国フランスで独自のリアリズム作品で脚光を浴びていたルネ・クレマンは自作『太陽がいっぱい』で、ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』より早く、アラン・ドロンを起用しました。これらのことなども契機となっていたのか、彼はこのイタリアの「ネオ・リアリズモ」の名匠をかなり意識して『生きる歓び』(1961年)を撮ったようにわたしには思えます。

 例えば、アラン・ドロンの出演はもちろんですが、他のキャスティングにおいても、いわゆるヴィスコンティ一家で著名な俳優を二人出演させています。
 フォサッティ一家のお母さんを演じたリナ・モレリは、舞台では『恐るべき親たち』、『アンチゴーヌ』、『出口なし』、映画では『夏の嵐』、フォサッティ印刷工場の隣接の散髪屋の主人を演じているパオロ・ストッパは、舞台では『慈善の虚栄』、『甘いアロエ』、『アンチゴーヌ』、映画では『若者のすべて』で、彼らはいずれもルキノ・ヴィスコンティの演出した作品に多数出演していた名優なのです。

 また、『生きる歓び』は、『若者のすべて』と同様にイタリアの大都市を舞台としたものであり、登場人物の設定においても『若者のすべて』は、主人公の青年ロッコとその4人の兄弟の物語でしたが、この『生きる歓び』も3男1女の兄弟妹を含めた大家族の生活を背景とした物語なのです。

 そして、冒頭での列車・駅舎のシークエンスから、兵役義務を終えたアラン・ドロンが演じるユリスとジャン・ピエロ・リテラが演ずる友人ツリドが職に有り就けず、これから路上生活者となるかもしれないという状況へのプロットも『若者のすべて』で、大都会ミラノに着いたばかりのパロンディ一家の設定と似ているように感じました。
 そのときに青年達が被っていたカンカン帽は『若者のすべて』でレナート・サバートーリ演じた次男シモーネが身につけていましたし、ハンチングはどちらの作品でもアラン・ドロンが被っていました。

 ジーノ・チェルヴィが演ずる印刷工場の主人フォサッティがユリスに家族を紹介するときの
「ユリスという名もいい 聖人の名ではないから」
の台詞にも、明らかにルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』でアラン・ドロンが演じた聖人ロッコ・パロンディのキャラクターが意識されたうえでのものだったと察することができます。

 当時のルキノ・ヴィスコンティは「赤い公爵」と呼ばれ、貴族でありながら左翼思想をもって映画創作のテーマを追求する作家でした。
 ルネ・クレマンがそのことを意識していたのか否か?この作品は19世紀に活躍したロシアのアナーキストであった思想家ミハイル・バクーニンをフォッサッティ一家とその仲間達の思想基盤として設定しています。バクーニンがイタリアに滞在していた時代には『山猫』での重要な人物背景、ジュリアーノ・ジェンマが扮した共和主義者ガリヴァルディとの親交もあったそうです。
 なお、彼はコミュニストでしたが、同時代のカール・マルクスの思想・信条とは相容れず、革命派としてはテロル行為自体にも否定的であったようです。
 ですから、この作品が最終的には左翼のテロ行為を否定的に描いていること、そして、舞台はファシスト党が台頭する前の1921年のローマですから、まだ合法的に組織されていたイタリア共産党の存在があったことなどから、地下運動組織の思想基盤をマルキシズム(マルクス主義)とせずにアナーキズム(無政府主義)としたことは、作品の設定としては整合しているように思います。


 ところで、この作品の序盤、「自由」という言葉が随所で使用されていることが、わたしにはたいへん気になるところでした。

 まず、ローマでの兵役義務に就かせるために、身寄りのない子供たちを育てるための育児施設で成長した青年達を引率してきた神父は、
「君達は自由だ」
と言って彼らをローマの兵舎へと送り出しました。

 そして、主人公ユリスとその友人ツリドが兵役を終えて除隊するとき、彼らのローマで働きたいという願い出に対して、
「君達は一人前だ 自分で探せ 君達は自由だ」
とその部隊長は言い放ちます。

 彼らがレストランで昼食を注文するときの会話でも、
「お前は自由人だ 自分で選べ」
ユリスは、ハムを選んだツリドを批判して、ハム・チーズ・ピーマンを選び、
「これが自由人の選択だ」
と誇ります。

 ユリスのフォサッティ家での初めての夕食時に、この家の屋根裏部屋に居住しているカルロ・ピサカーネ演ずる祖父が孫に馬鹿にされて怒号するときの
「私はアホウではないぞ 下の君達を見守る“自由”なのだ」
の台詞でも使われています。

 元来、英語での「自由」の意味には、制限や抑圧がないことを意味するフリーダム(freedom)、抑圧からの解放によって選択肢を持つことができることを意味するリバティ(liberty)とがあります。
 また、社会主義思想における社会批判に立脚した「自由」の定義は、労働者階級にとって労働力を売ることの「自由」と拘束されていた故郷(土地)から移動する「自由」があること、逆にそれ以外には社会的に何の保証も無いとしています。
 フォサッティ一家が信奉しているミハイル・バクーニンの思想での「自由」の定義では、教育や科学的訓練、物質的繁栄によって全人類がその才能や能力を十全に発達させることによって成り立つものとしているそうです。

 この作品でその都度言葉として放たれている「自由」は、それぞれにどの「自由」が当てはまるのでしょうか?


 フォサッティ一家の信頼、特に大好きなフランカからの愛情を得るため、ユリスは左翼の英雄になろうとして屋根裏のお爺ちゃんに協力を求め、その特訓により英雄カンポサントに偽装変身することになりました。

 その彼が、それらしく聖堂の鐘楼塔にアナーキストの旗を設置する様子を真上から捉えた俯瞰のクローズ・アップから、石材の切片が演ずるアラン・ドロンの頭を打って下方地上に落下していくショットには愕然としました。このような危険な演技に特殊撮影を使用せず、しかも彼が鐘楼塔側に鉄棒を伝わって旗を結ぶまではノースタントの撮影なのです。
 ですから、このアクションは凄く迫力を生み出しているショットとなっています。
 もしかしたら、この翌年の『地下室のメロディー』(1962年)でのカジノからの現金強盗でのシークエンスは、ここからの模写だったのかもしれません。

 ユリスとお爺ちゃんの屋根裏部屋での学習会はたいへん微笑ましいものでした。
 ここで、わたしが特に着目したところは、お爺ちゃんのユニークな無神論の説諭です。
 聖職によった育児施設で育ったユリスは、もちろん神様を信じていますが、お爺ちゃんは老社会主義者であるので、神が存在しないことを力説します。
 その微笑ましいシークエンスでは、「平和の象徴」である鳩が彼らの学習している屋根裏部屋を舞うのでした。

 ルネ・クレマン監督は、『若者のすべて』で宗教から解放されずに悲劇の招聘者となっていた聖人ロッコ・パロンディの悲劇的要素、その封建性を、その対局に位置付くコメディックでハッピーな主題として『生きる歓び』のユリスの現代性に脱皮させて、この作品を創作したようにわたしには感じるのです。

 そのような意味からアラン・ドロンについては、確かに『太陽がいっぱい』とは異なる明朗なアイドル路線で登場させていますが、前作のトム・リプリー=フィリップ・グリーンリーフと同様に、ユリス=カンポサントの分裂した二重構造の人格として描かれています。ルネ・クレマンからすれば、封建時代とは異なる現代青年の人格は、どのような形態であれ分裂させざるを得ないのでしょう。

 また、これはルネ・クレマン監督がアラン・ドロンに向けて、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』で演じた封建的青年ロッコから、無産階級として現代社会で生きざるを得ないときの現代青年ユリスへと改造しながら、彼の将来的な人格成長の目標、その指標を示したと考えることもできます。
 なぜなら、1965年『パリは燃えているか』でのレジスタンスの闘士ジャック・ジャバン・デルマスを演じることができる俳優として見事に成長していったこと、現在ではフランス国内で右翼として位置づけられている彼個人の思想・信条が、ドゴール主義への信奉から共和党支持へと変遷していったものとして一般的に解釈されていることなど、から理解できることなのです。

 印刷工場の主人フォサッティが「聖人」という概念を否定していることや「自由」という言葉が頻発されることからも、斜陽の貴族の末裔であったルキノ・ヴィスコンティと第二次世界大戦でファシズムに勝利した統一戦線レジスタンスを信奉していたルネ・クレマンのアラン・ドロンの使い方の違いが鮮明にわかります。

 『若者のすべて』のロッコは、自分の労働力を売ることも自由であり、生産手段である土地、自らが縛り付けられていた土地からも自由だったかもしれませんが、更に、家族や故郷のしがらみからも解放するとユリスのような明るい青年になるのかもしれません。まさに失うものなど何も無く、得るものが全世界であるというコミュニズムの原点が、ここに描かれているようにも思えます。

 いずれにしても、アラン・ドロンは、『生きる歓び』によって「政治的」レベルの信条を見出して社会的に活躍する術を得る契機にできたとも考えられるでしょう。

【(-略)役者を始めた頃は、私は「ハンサムな間抜け」だった。その後は何かを見出さなくてはならなかったんだ・・・(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」


 更に、1990年にジャン・リュック・ゴダール監督が『ヌーヴェルヴァーグ』でアラン・ドロンに演じさせたロジェ・レノックスからリシャール・レノックスへの変身プロセスの解釈に、このお爺ちゃんとユリスが触れ合った学習会を位置づけてみると、実にすんなりと納得できるものになります。

 お爺ちゃんの特訓を受けて、虚偽ではあったものの見事に革命の社会主義者の英雄カンポサントに変身したそのユリスの姿に、

圧政から民衆を救う黒いチューリップや怪傑ゾロ
アウシュビッツ収容所へ自らを葬ることで、憧憬してしまった謎のユダヤ人と同一化する異常な願望を果たすことが叶ったロベール・クライン
そして、いよいよ
愛を再生させるため、実業家に変身して、最愛のエレナの前に姿を現したリシャール・レノックス

などをを想起してしまうのです。

すべては、このお爺ちゃんからの教示によって、アラン・ドロンは二つ目の人格を持てるようになったとは考えられないでしょうか?

 この作品にはアートとしても印象的なショットが多数ありましたが、特にユリスが地下の印刷現場の天井と路上にある天井窓の格子蓋から、自転車を駐輪するときのバルバラ・ラスが演じたフランカの脚が覗くショットは実に美しく、セクシュアルな想像も併せて掻き立てられてしまうところです。
 格子窓から覗く女性の脚を格子の影とのストライプのコントラストで表現する技法は映像表現上の前衛すら感じさせます。

 それにしても、『居酒屋』のジェルヴェーズ、『太陽がいっぱい』のマルジュ、『禁じられた遊び』のポーレットでさえ、女性としての悲惨を描くことの多かったルネ・クレマン監督は、この作品のフランカには例外的に幸福な結末を付与しました。
 フォサッティ一家の一人娘フランカの名前はフランスで最も早く独立を勝ち取ったフランカ・コステロから命名したと、父フォサッティはユリスに説明します(ただしフランカ・コステロという自治国家が実在したのか否か疑問ですが?)。
 わたしはルネ・クレマン監督が、しっかりとした考え方に裏付けられた自立心の強い女性は必ず幸福になれるということをこの作品で主張したのだと考えているのです。
禁じられた遊び/居酒屋
/ アイ・ヴィー・シー


 初めにユリスを拒否していたことも地下の作業所からの覗き行為があったからかもしれませんし、ユリスを認めた初めの動機は彼が左翼の英雄カンポサントだったからでしょう。
 このように彼女は、確かに表層的な部分のみで男性を判断する軽率はあるものの、決して女性特有のセクシュアルな魅力で男性を惹きつけようとする小悪魔的な行為などは採りませんし、若いけれど男性に依存せずに自分のアイデンティティをしっかり持っている現代的な女性なのです。

 そして、最終的には英雄カンポサントであることの虚偽が露わになることも厭わず、勇気をもってローマ市民をテロルから救うために行動したユリスを心から愛してしまいます。フランカとユリスは、美しく愛し合う男女の未来における理想の姿のように思います。
 もしかしたら、ルネ・クレマン監督は退廃した現代の多くの若者たちに対して、この複雑な現代においてでも、活き活きと愛し合う恋人たちの美しい在り方を指標・目標として持てることを示したかったのかもしれません。

 そのような意味から、わたしは、この作品はライト・コメディという様式・スタイルで制作されていながらも、ルキノ・ヴィスコンティが目標としていた

「人民の力を確認させるような、勝利の物語」

と規定できる範疇の作品なのかもしれないと確信してしまったのです。

 つまり、ルネ・クレマンの描きたかった人民の理想の姿が、映画作家としてルキノ・ヴィスコンティをライバル視したことから生み出されたものだったのかもしれないという考えにまで、わたしは至ってしまったのです。

【『禁じられた遊び』(51)は、その物悲しいナルシソ・イェープスの主題メロディと共に、クレマンの名を世界に高からしめた名作だが、あの作品には戦災孤児の幼い娘の悲劇を通してクレマンの反戦の主張が痛切にこめられていた。ヌーヴェル・ヴァーグの若手連中に対抗してつくられたサスペンス劇『太陽がいっぱい』(59)は、やはりあの甘悲しいニーノ・ロータのメロディによって印象に強いが、あそこにも貧困者の金持ちに対する反感を通して、資本主義社会への矛盾への問いかけがあった。だから彼がコミュニストではなくとも、進歩的な思想の持ち主であることは間違いなかったわけだが、彼は思想をナマで表現するような監督ではなく、それは常に斬新な映画表現を通して語られた。】
【引用 『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年】

海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)

田山 力哉 / ダヴィッド社


[PR]

by Tom5k | 2010-11-07 01:56 | 生きる歓び(2) | Trackback(1) | Comments(7)

『ヌーヴェルヴァーグ』⑧~アラン・ドロンの二重自我 その3 想起する「詩(心理)的レアリスム」~

 アラン・ドロンは、1957年『quand la femme s'en mele(女が事件にからむとき)』(日本未公開、後年TV放映)の端役でデビューしています。監督はイヴ・アレグレ、主演はエドウィジェ・フィエール、そして何とシナリオは、あの「詩的レアリスム」の巨匠ジャック・フェデール監督の脚本を書き続けたシャルル・スパークなのです。
 タイトルのキャスト表示が13番目の端役とは言え、すでにデビュー作品から彼の映画人生は定まっていた、とさえ言えるのではないでしょうか?
 
 また、代表作『太陽がいっぱい』のルネ・クレマン監督が多くの作品で組み、新世代「ヌーヴェル・ヴァーグ」のカイエ派に徹底的に批判された旧世代「詩(心理)的レアリスム」を受け継ぐピエール・ボストとジャン・オーランシュの脚本家コンビは、『学生たちの道』のシナリオを担当しており、マルセル・カルネ監督とともに「詩(心理)的レアリスム」を完成させた脚本家ジャック・プレヴェールは、『素晴らしき恋人たち』の第三話「アグネス」で脚本を担当しているのです。

 『地下室のメロディー』で共演したジャン・ギャバンやヴィヴィアンヌ・ロマンスたちも、「ヌーヴェルヴァーグ」の世代より以前の「詩(心理)的レアリスム」の時代の映画人たちでした。
 「アラン・ドロン」というキャラクターが、まだ完成する前段のデビュー間もない頃に、すでに「詩(心理)的レアリスム」の典型的な旧世代スタッフの中で育てられたアラン・ドロンだったのです。


 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、言わずとも知られているアラン・ドロンの尊敬するジャン・ギャバンとのコンビも有名で、数え切れないほど多くの傑作を生み出した戦前のフランス映画の大監督、「詩(心理)的レアリスム」の代表的な巨匠です。
 そして、2作品だけとはいえ、アラン・ドロンをハリウッド進出以前、フランス映画復帰後を通して使ったのはアンリ・ヴェルヌイユ監督と、このジュリアン・デュヴィヴィエ監督くらいなものです。
 さすがに彼は、すでにこの1作目のオムニバス作品『フランス式十戒』の第五話(日本公開版では第六話)「汝、父母をうやまうべし、汝偽証するなかれ」(やはりシナリオは、旧世代アンリ・ジャンソン!)で、主人公とその両親が血縁ではないというストーリー・プロットを通して、アラン・ドロンの内部矛盾による不確かさを、ピエールという医学生のキャラクターで描き出しました。

 このオムニバス作品は、悪魔の代弁者である蛇の狂言回しで繋がれていきます。

「この男の人生はうその上に築かれた」

冒頭から、アンリ・ジャンソンのこのショッキングなヴォイス・オーヴァー!

 主人公ピエールが、やはり旧世代の大女優ダニエル・ダリューの扮する実母クラリスに、自分の父親が実父ではないと告げられたときのショットには、恐ろしいまでのアラン・ドロンの本質が写し撮られており、最も注視すべきシークエンスとなっています。

 完膚無きまでに自己を否定されたピエールが、苦渋の表情で無神経な実母との会話をやり取りする様子がカメラに収められており、彼のその不確実で不安定な存在を、すべて「鏡」に映し出したシーンで表現しているのです。
 まさに古典芸術の映像テクニックといえましょう。

 『ヌーヴェルヴァーグ』での、詩人ジャック・シャルドンヌの詩の一節
「草はわたしにおいてあり、わたしなくしてないのか」

 この言葉に「詩(心理)的レアリスム」の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の、この「鏡」のショットを思い浮かべたのは、わたしだけでしょうか?
 「鏡」のなかの自分、虚構としての本当は実在しない自分・・・主人公ピエールの不安定な心象風景が、この「鏡」のシークエンスに浮かび上がってくるのです。

 絶対に確かなはずの自分という存在が、実はこの世の中で最も不確かな存在であったことに愕然とし、自分とは一体何者なのか?とあらためて自問するとき、人間というものは、もう一度自身の姿を確認したいと思ってしまうものなのでしょう。

「そしてアランもまた、彼は否定するかもしれないが、私の意見では、やはり自滅型であって、しかも自己のアイデンティティを探し求めるタイプだと言える。アランの人生はあらゆる面において極めて複雑で、多くの場合は矛盾をはらんでいる。(ジョセフ・ロージー)」
【引用 『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年】
追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー
ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢 / 日本テレビ放送網






 ジョセフ・ロージー監督が演出した後の代表作『パリの灯は遠く』では、主人公のロベール・クラインが「鏡」に映った自分の姿を放心した表情で見つめるシークエンスが何度もあります。
 ジョン・ブーイ演ずるユダヤ人のセールスマンの男性から、ロベール・クラインがヴァン・オスターダの絵画とした「ある紳士の肖像」を安く買いたたいた後の別れしなの「鏡」を見つめて佇むショット、ラ・クポル・レストランでのユダヤ人クラインを呼ぶウェイターの声に、彼を探して「鏡」に映る自分に呆然と自失して佇んでしまうショット、シュザンヌ・フロン演ずるユダヤ人クラインの愛人が経営するアパートを訪れたときの「鏡」を覗き込むシークエンス・・・。

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、アラン・ドロンのデビュー間もない段階での、このオムニバス作品の挿話である『フランス式十戒』の一編の第六話「汝、父母をうやまうべし、汝偽証するなかれ」で、すでにアラン・ドロンの本質をえぐり出していたと言えましょう。

 しかしラスト・シークエンスではデュヴィヴィエ監督らしく、本当の自分の存在が愛情豊かに育ててくれた両親の元にあったことを確認して納得する、心が温まる倫理的なテーマで結論しているのです。

 ただ、最後のアンリ・ジャンソンの蛇の狂言回しは、皮肉とエスプリに富んだものとなっています。

「うそを食べうそを飲みこんで
 万事めでたいと
 この青年
 女を泣かすぞ」

 このように、自分たち旧世代に属する若いアラン・ドロンに対してさえも、シニックで厳しい予言で結んでいるのです。

「若い世代は将来有望だね
 ヌーヴェルヴァーグ万歳」

 更に新世代「ヌーヴェル・ヴァーグ」を皮肉り、その若手俳優ジャン・クロード・ブリアリ主演の第六話(日本公開版では第七話)「なんじ盗むなかれ」に繋げているのです。

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の恐ろしいまでの先見と反骨を感じます!
 28年後のジャン・リュック・ゴダールとアラン・ドロンは、この『フランス式十戒』を、どのように総括して『ヌーヴェルヴァーグ』を撮ったのでしょう?

 33年後、アニエス・ヴァルダ監督が映画百年記念作品『百一夜』で、アラン・ドロンとジャン・リュック・ゴダールの挿話の後に、同様にジャン・クロード・ブリアリの挿話を繋いでいる意味は・・・?


 そして、アラン・ドロンはハリウッドでの不成功の後、自国フランスの新世代の演出家であるルイ・マルやジャン・ピエール・メルヴィルの作品に出演し、ようやく当時の時流に乗ることができるようになります。

 しかし不思議なことに、何故かそのすぐ後、わざわざ旧世代の老巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『悪魔のようなあなた』に出演するのです。

 すでにアラン・ドロンは、メルヴィルやマルの作品に出演した後ですから、最も敬愛していたジャン・ギャバンの師とも言えるジュリアン・デュヴィヴィエ監督とは言え、全盛期を過ぎてしまっていた当時の彼の作品に出演することが、それほど大きなキャリアになるとは思えません。
 当然のことながら、それは映画興業のメリットを超越するものだったことは、容易に理解できることです。

 アラン・ドロンは、デビュー間もない頃にお世話になった巨匠への恩義を果たすと同時に、まるで「ヌーヴェル・ヴァーグ」以後のフランス映画に埋没しそうになっている自分自身と闘っているようでもあります。

 ストーリー・プロットは、大富豪ジョルジュ・カンポだと思い込まされたチンピラ、ピエール・ラグランジュが、喪失した自分の記憶を取り戻していく物語です。やはり、自分とは何者なのかに苦悩する《自己の分身や分裂》をテーマに扱った作品でした。

 最後に自分を取り戻したときの主人公ピエールの居直りは、大富豪ジョルジュ・カンポになりすまそうとするものでした。しかし強いカトリックの倫理に貫かれたデュヴィヴィエ監督の演出には、それを許すキャパシティは皆無です。
 最後に真実は暴露されてしまうのです。

 デュヴィヴィエ監督は、不確かなピエール・ラグランジュのアイデンティティを無産階級の象徴のように描き、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の象徴ジャン・リュック・ゴダールへのマオイズムの欺瞞と若さ、短絡を皮肉っていたようにも思えます。
 わたしには、彼が最後の力を振り絞って、愛弟子ジャン・ギャバンの後継者である若き伝統的俳優アラン・ドロンを使って、勇敢にも「新しい波」に対して、まだ何かを伝えようと誠実に向き合っているように映りました。

 もしかしたらゴダール監督は、やはりこの作品にも密かに感動してしまっていたのではないでしょうか?
 わたしにとっては、『ヌーヴェルヴァーグ』が、この作品をモチーフにしているように思えてしようがないのです。

 また、このジョルジュ・カンポという大富豪の名前は、後輩のルネ・クレマン監督がアラン・ドロンを起用した『生きる歓び』の「カンポサント」、記憶喪失の青年「ピエール・ラグランジュ」も、自身の演出で初めてアラン・ドロンを起用したときの優しい好青年の医学生「ピエール」へのオマージュだったとも思えます。


 次は、『黒いチューリップ』、「詩(心理)的レアリスム」第二世代のクリスチャン・ジャック監督の作品です。
 そして、こちらの脚本も、やはりアンリ・ジャンソンなのです!

 この作品でのアラン・ドロンの分裂は素晴らしい。最も典型的で魅力的なアラン・ドロンが開花しています。彼の演ずる主人公たち・・・兄ギヨーム、弟ジュリアンの二役、それぞれが扮する義賊「黒いチューリップ」を、彼が演じて展開していくのです。

 わたしには、この作品が痛快な娯楽大作であることはもちろんなのですが、「欲得にまみれた盗賊」である兄ギヨームが、「黒いチューリップ」というブラック・ボックスを通過することによって、弟ジュリアンの「共和の志士」としてのアイデンティティを確立する物語であるとも解釈しています。
 主人公たちをフランス革命による人民の成長に比喩しながら、かつアラン・ドロンの資質をすべて盛り込んだ作品であるような気がしているのです。

 そういった意味では、クリスチャン・ジャック監督は「黒いチューリップ」という素晴らしいキャラクターによって、ルネ・クレマンが、『太陽がいっぱい』のトム・リプリーから『パリは燃えているか』のジャック・シャバン・デルマスまで架かった6年間、そして4作品を経なければならなかった成長を、たった1作品で果たしてしまったとも考えられます。

 それにしても旧世代の監督たちは、このような商業娯楽の作品においてさえも、共和国の精神すなわち、恐らくは戦中のレジスタンス運動の闘いの誇りのもとで作品を撮っていたことに、わたしは驚きを禁じ得ず、フランス国民のプライドの高さと強さを痛感してしまいます。
 当然のことながら、アラン・ドロンもその多くの影響を直接に受けた経験から、ドゴール主義を信条としている現在に至っているわけなのでしょう。

 『ヌーヴェルヴァーグ』作品中でエレナが、ロジェ・レノックスに向けて言い放ったセリフ
「ニューヨークに連れて行くなんて良くないわ。フランス語でいうと?つまり彼女にはこの国がお似合いよ。あなたもね。」
から、このことを想起してしまったのです。


 戦前のフランス映画で活躍した巨匠ジャン・ルノワール監督は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちからは「詩(心理)的レアリスム」の枠に収まりきらない巨匠として、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先駆者、「映画の父」とまで崇められていた存在です。
 しかし、映画史家ジョルジュ・サドゥールが定義づけた「詩(心理)的レアリスム」を最も意識していたのもジャン・ルノワールだったと言います。
 彼のジャン・ギャバンを主演にした作品(『大いなる幻影』、『獣人』、『どん底』)などは、それを最も意識していた作品だったのではないでしょうか?
大いなる幻影
/ ジェネオン エンタテインメント





獣人
/ ジェネオン エンタテインメント





どん底
/ ジュネス企画





 また、ジャン・ルノワール監督は、『ゲームの規則』について、こう語ったそうです。
「ある種のレアリスム-外見からはそう見えなくても、まぎれもなく本物のレアリスム-と、ある種の詩的感覚の、両者に立脚したスタイルをめざしたんだ。(ジャン・ルノワール)」
【引用 『フランス映画史の誘惑』(中条省平著、集英社(集英社新書)、2003年)】
ゲームの規則
/ 紀伊國屋書店





フランス映画史の誘惑

中条 省平集英社



 「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家ジャン・リュック・ゴダールが、このジャン・ルノワールの思想を意識していないはずはありません。
 彼が映画においてのポエジーを表現、実践し始めたのは『勝手に逃げろ/人生』からだと言われています。
勝手に逃げろ/人生
/ ハピネット・ピクチャーズ





 そして、いよいよ、ジャン・ルノワール監督がジャン・ギャバンを主演にして独自のリアリズムと、ポエジックを表現したように、「詩(心理)的レアリスム」の伝統を受け継ぐスター俳優、アラン・ドロンを主演させ、彼が体現できるぎりぎりのリアリズムを通した詩的感覚で、ルノワール作品を再現、そして超越させようとしていたような気がするのです。

 詩人であり、女流作家、映画批評家でもあるドロシー・パーカーをロール・キリングに演じさせ、イタリア文学の最大の古典であるダンテの『神曲』、アルチュール・ランボーやジャック・シャルドンヌの詩も溢れんばかりにどのショットにも散りばめられています。

 『ヌーヴェル・ヴァーグ』でのゴダール監督の能弁は、アラン・ドロンの二面性というリアリズムとともに、これらのポエジーにおいて、最も意識的に表現されていると感じます。

「この『ヌーヴェル・ヴァーグ』というフランス映画史の総括的な作品は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を、更に過去の「詩(心理)的レアリスム」に止揚させて、いよいよ「超・詩(心理)的レアリスム」に体現させる域に辿り着くことができた。
 それは、ジャン・リュック・ゴダール監督が、「ジュリアン・デュヴィヴィエになってしまった」と批判したかつての同志、フランソワ・トリュフォーやクロード・シャブロルたちの「旧世代へ向かってしまった回帰」を、ジャン・ルノワールの思想のうえに発展的に超越しようとしたものだったのかもしれない。」

と未来における映画史に総括される作品なのではないか?とわたしは思ってしまうのです。
[PR]

by Tom5k | 2007-08-05 04:17 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Trackback | Comments(15)

『ヌーヴェルヴァーグ』⑦~アラン・ドロンの二重自我 その2 伝統的キャラクター・アクター その2~

 アラン・ドロンの二重(面)性に眼をつけたのは旧世代だけではありません。新世代「ヌーヴェル・ヴァ-グ」の作家のひとりであったルイ・マル監督も、彼の二重(面)性を描きました。
 また、実はわたしとしては、アラン・ドロンが最もアラン・ドロンらしいと思うのが、『世にも怪奇な物語』の第二話「影を殺した男」のドッペルゲンガー、ウィリアム・ウィルソンなのです。

 何故、ルイ・マルがアラン・ドロンとの仕事を引き受けたのか、というたいへん興味深い疑問も湧き上がって来るところではありますが、あらゆる意味から、結果的にはこの第二話「影を殺した男」は素晴らしい成功を収めたといえましょう。
 ルイ・マル自身もこの《分身》というストーリーの核となっているテーマに非常に興味をもって臨んだとのことです。
 それだけヨーロッパ映画においては、自身の内面を統一しきれないときのもう一人の自分自身の存在の必要性、つまり《分身》というテ-マが多くの観客を惹きつける妖しい魅力を放っていたのかもしれません。

 このウィリアム・ウィルソンという主人公のキャラクターについては、ジャン・リュック・ゴダール監督も常に引用・言及しています。

【たとえば、『気狂いピエロ』について語る際に、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」と題された短編小説に言及し、この名前ないし偽名をめぐる小説としても興味深いテクストが示す、生身の人物とその双生児的な分身としての影像との関係から、ウィルソン=映画作家という視点を提出するとき(「わがピエロ」、一九六五年)にも明瞭に示される。】

 ゴダール監督が映画を語るとき、映画が現実世界を視覚に置換させるものとして、現実世界の翻訳によって成り立つこと、つまり映画の世界が観衆側の世界であることに最もこだわっているように思います。その言及は、作家の側の生気をフィルムに吸収させてでも、それを現実世界に還元させるものとして定義しているのです。

【『気狂いピエロ』において、「人生を撮影したとわたしが確信した瞬間、まさにそのためにわたしは人生を取り逃してしまったのです。」(「わがピエロ」)】

(【 】内、引用は『現代思想 総特集 ゴダールの神話 不在の神秘/神秘の不在 松浦寿夫』青土社、1995年10月臨時増刊)
ゴダールの神話
/ 青土社






 ゴダール監督の映画作家たることの意義にまで例えているこのウィリアム・ウィルソンの例示から考えても、アラン・ドロンがゴダールの同志ルイ・マルの演出において、『影を殺した男』でウィリアム・ウィルソンに扮した実績が、『ヌーヴェルヴァーグ』制作にあたってのこだわりのひとつとなっていたことは想像に難くありません。

 それに加えて思い出されるのは、『気狂いピエロ』でジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公フェルディナンと、アンナ・カリーナが演ずるマリアンヌの逃亡中の会話に、エドガー・アラン・ポー原作の小説「ウィリアム・ウィルソン」に触れる印象深いセリフです。

「彼は幽霊を見て殺そうと追いかけた 目的を果たしたら 死んだのは彼自身で 残ったのは幽霊だった」
気狂いピエロ
/ ハピネット・ピクチャーズ





William Wilson
Edgar Allan Poe / Amazon Press






 『世にも怪奇な物語』については、どのブログ記事を読んでもフェデリコ・フェリーニの第三話「悪魔の首飾り」を絶賛しており、それは現在、一般的な評価となっているように思います。
 しかしながら、映画のテーマにしても、アラン・ドロンの名演にしても、成熟したアラン・ドロンのファン、もしくは映画ファンなら、間違いなくこの第二話「影を殺した男」を客観的な意味において最も高く評価するはずです。

 ウィリアム・ウィルソンは、フランケンシュタイン、ドラキュラ、ジキルとハイド、ターザン、ゾロ、オペラ座の怪人、怪盗ルパン、カシモド・・・などと肩を並べるほど魅力的で典型的なキャラクターであるように思います。特に現代においては、それは益々意味深いテーマとなってきていることは、現実世界の生活実感においても感じることが可能なほどです。
フランケンシュタイン (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
/ ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





吸血鬼ドラキュラ
/ ワーナー・ホーム・ビデオ





世界名作映画全集98 狂へる悪魔
/ GPミュージアムソフト





類猿人ターザン
/ ファーストトレーディング




快傑ゾロ
/ 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン





オペラの怪人 (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
/ ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





ルパン
ロマン・デュリス / / 角川エンタテインメント





ノートルダムのせむし男
/ GPミュージアムソフト





 その魅力ある、そして現代的テーマの典型であるような主人公ウィリアム・ウィルソンをアラン・ドロンが演じたのです。しかもこれ以上のはまり役がないほど、彼はこの主人公と同化していたように思います。
 この作品に限っては、エドガー・アラン・ポー原作の古典でありながらも、アラン・ドロン以上のウィリアム・ウィルソンを演じることのできる俳優は、今後、もう現れないのではないだろうか、とまで思ってしまいます。

 フランケン・シュタイン=ボリス・カーロフ、ターザン=ジョニー・ワイズミュラー、ドラキュラ=ベラ・ルゴシもしくはクリスト・ファー・リー、ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー・・・等々。
 それ以上のはまり役はないとまで言えるスター俳優のキャラクターへの同化と同様に、わたしとしては、アラン・ドロンが演じた強烈な個性の主人公たち、トム・リプリー、ロッコ・パロンディ、そして、私見でしかありませんが、ジェフ・コステロをも凌駕するキャラクターであったようにまで思うわけです。

 しかも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」体系の手法を持つルイ・マル監督が、エドガー・アラン・ポーの原作を演出したものです。フランソワ・トリュフォーの古典への回帰(この回帰主義に関わっては賛否の両論がありますが)を先駆けていたようにも思います。


 そして、わたしのなかに、さらに浮かび上がってくる作品がアラン・ジェシュア監督の『ショック療法』なのです。
 どうみてもこれは現代版ドラキュラもしくはヴァンパイアであり、いわゆるB級ホラー作品なわけですが、わたしとしては、できれば著作権など買い取って、ブラム・ストーカーの原作、カール・テオドア・ドライヤー監督の『吸血鬼(ヴァンパイヤ)』やF・W・ムルナウ監督の『吸血鬼ノスフェラトゥ』、トッド・ブラウニング監督の『魔人ドラキュラ』などを新古典としてリメイクして欲しかったように思っています。
吸血鬼
/ パイオニアLDC





吸血鬼ノスフェラトゥ
/ アイ・ヴィ・シー





魔人ドラキュラ (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
ベラ・ルゴシ / / ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





 ひとり古城に住み、美女の生き血を求め深夜の街を徘徊する美男の伯爵、耽美的で魅力的なアラン・ドロンのドラキュラ伯爵を観たかったファンは、わたしだけではないはずです。
 ジャン・ギャバンがヘルシング教授となって、ドロンのドラキュラを退治するなど、わたしの勝手な想像力は留まるところを知りません。
 監督としては、ドロンの渡米前ならば、ジュリアン・デュヴィヴィエに演出してもらいたかったです。強い倫理観で勧善懲悪のテーマとなりながらも、神と悪魔の矛盾や民衆の賢さや愚かさなどに、詩情をあふれさせながらの大作となったように思います。

 アラン・ドロンの人気が全盛期の70年代なら、フランシス・フォード・コッポラ監督、もしくはスティーブン・スピルヴァーグ監督に演出してもらいたかった。
 まだ、商業娯楽に埋没する以前の「アメリカン・ニューシネマ」時代の精神で撮って欲しい。《疎外される緊張感》や《追われる恐怖》などを主題に新しい発想において、クラシック作品を復活させて欲しかったです。

 ジョセフ・ロージー監督のコスチュ-ム・プレイも観てみたいように思います。たいへん恐い作品になったのではないでしょうか?ブルジョア家庭の令嬢の血を求め、その一族が虐げられていた貧困な農民たちに八つ裂きにされていく、というようなサディスティックで恐ろしい前衛作品になったでしょう。

 80~90年代なら、フォルカー・シュレンドルフの演出で、ドイツ表現主義で描いていた吸血鬼(ヴァンパイア)を、ニュージャーマン・シネマのリアリズムで復活させてほしかった。ヴェルナー・ヘルツォークよりも風刺の効いたエレガントなドラキュラもドロンに似合うように思います。
 また、パトリス・ルコント監督なんか、どうでしょう。詩情豊かでロマンティック、かつシュールな作品となったかもしれません。
吸血鬼ドラキュラ
ブラム ストーカー / / 東京創元社





 さて、この『ショック療法』でも、いつも通りにアラン・ドロンの二重(面)性は、最大級のうさんくささを発露させています。しかも、それはやはり魅力的なわけです。
 ブルジョアジーたちの若さや美しさへのこだわりこそ醜悪で、しかもその底辺には貧しき若者たちの犠牲があるという現代社会の縮図のようなエステ・サロンの院内を舞台としており、ブルジョアジーの欲求を最大限に利用し、弱者を犠牲にして成り立つビジネス社会、現代の引き裂かれた社会でのアラン・ドロンの二重(面)性が、それらを暗喩するように描かれています。

 そして、アニー・ジラルド演ずるエレ-ヌを乗せたセスナ機での遊覧飛行で、アラン・ドロンが演じた二重人格の主人公ドクター・デヴィレが本音を漏らすシークエンスに、わたしにとっての非常に印象深いセリフがありました。

「この国は何もかも中途半端で嫌いだ 文明と文化のゆりかご 一度は逃げた アマゾンの奥地へね だけどなじめなかった いやでも同国人ばかり固まるのさ 堕落のかぎりだ」

 当時の現実のアラン・ドロンのやりきれない想いが言葉になっているような気がしてならないのです。アイデンティティを引き裂かざるを得なかった哀しい男の居直りが垣間見える瞬間であったように思われ、わたしとしては実にリアルな説得力を感じ、アラン・ドロンが自身の内部に何故、二重(面)性を持つに至ってしまったかのヒントが隠されているようにも考えてしまいます。

 さらには、『ヌーヴェルヴァーグ』でアラン・ドロンの演じた主人公の超越、ロジェ・レノックスからリシャール・レノックスに超越した理由が、このドクター・デヴィレのセリフにあるようにも感じ取れるのです。


 そして、古典・クラシックの王道であるジョンストン・マッカレー原作「怪傑ゾロ」を映画化した『アラン・ドロンのゾロ』です。
快傑ゾロ 【新版】
ジョンストン・マッカレー / / 東京創元社





 この企画も意外なように見えながら、アラン・ドロンという個性としては典型的な作品であったようにも思います。
 この作品も、やはりキャラクターの二重(面)性、すなわち「主人公の《分身》」というテーマを扱っていることから、アラン・ドロンにおいての特に重要な作品として位置づけられると考えます。

 正義の義賊を演じていてもやはり、常に謎を秘めた魅力を発散させており、しかもこの怪傑ゾロというキャラクターには、存在しないはずのもの、すなわち民衆の願望ともいえる存在が、そこに実在しうるという、極めて魅力的な「不在性の神秘」が露呈されていると感じるわけです。

 『ヌーヴェルヴァーグ』で主人公リシャール・レノックス登場のシーンに、このゾロの初見参のシークエンスをオーバー・ラップさせたのはわたしだけでしょうか?

 「この人を見よ」という、このニーチェの言葉とともに登場するリシャール・レノックス。

 現代において神は死に絶え、力への意志のみしか生存(実存)しえない、そうまさに超人化することだけが現代人の生き方となるというニーチェの思想を象徴させているシークエンスには、怪傑ゾロが開拓宣教師フランシスコを救済することで民衆を解放するという実践を、現代社会に置換させたものだったとしか、わたしには思えませんでした。


「伝統的なキャラクター・アクターとして、かつ二面性に魅力を発露させていたアラン・ドロンは、あらゆるジャンルの映画においても、どんな監督から起用されても、特に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家、ジャン・リュック・ゴダール監督の演出においてさえも、その一貫性を貫いた。」

と未来における俳優史に評価されることは想像に難くないことです。
[PR]

by Tom5k | 2007-07-21 02:09 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Trackback(7) | Comments(15)

『アラン・ドロンについて』⑤~伝統的キャラクター・アクター、二重自我の魅力 オカピーさんとの対話~

映画の良心というキャッチ・フレーズがピタリとはまる、わたしのブロ友のプロフェッサー・オカピーさんをお招きして?アラン・ドロンの本質的な魅力をさぐってみました。

実は、過去に何度もわたしの話題にお付き合いしていただいたこと、これが何とも有意義なコメント集になっていましたので、オカピーさんのご了承も得られ今回の更新記事としました。


2005年12月29日
オカピーさん
ルネ・クレマンは素晴らしいですね。基本的にタイトな作風で無駄がない。それは初期のドキュメンタリー・タッチの作風が晩年まで続いたということなのでしょう。彼のベスト5は、「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」「居酒屋」「海の牙」「しのび逢い」辺りと思います。
 アラン・ドロンもお好きなようですね。実は私も大好きで、演技者としてもっと評価されるべきと思っています。かつてアルセーヌ・ルパンに夢中になった私としては若い頃「黒いチューリップ」で颯爽としたところを披露した彼にルパンを演じてもらいたかったところです。「太陽がいっぱい」「冒険者たち」「若者のすべて」「サムライ」「山猫」あたりが贔屓作品です。


トム(Tom5k)
オカピーさんの嗜好は、クレマンにしても、ドロンにしても王道ですね。
アラン・ドロンは『世にも怪奇な物語』のウィリアム・ウィルソン、勧善懲悪の『怪傑ゾロ』、『黒いチューリップ』、多くの「フィルム・ノワール」作品のギャングや殺し屋などの伝統的なキャラクターがよく似合います。
戦前のクラッシック映画を70年代に復活させた俳優なのではないでしょうか?

2006年4月2~4日
>『山猫』のドロンこそ私のアルセーヌ・ルパンのイメージ
とのこと。
わたくしも以前から、ドロンがアルセーヌ・ルパンを演じたらピッタリだと以前から思っていました。
彼はクラシック、つまり古典がよく似合う俳優だと思いますので、『ルパン』以外にも『ドラキュラ』や『ジキルとハイド』などの古典の名作に、もっと出演して欲しかったと思っています。
最も演じて欲しかったのは『吸血鬼ドラキュラ』です。

ところで、最近、色々なブログでオカピーさんのコメントに出会います。わたくしの映画の嗜好と似ているのでしょうか?
非常に愉快です。
魔人ドラキュラ (ベスト・ヒット・コレクション 第9弾) 【初回生産限定】
ベラ・ルゴシ / / ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン





ジキル博士とハイド氏 コレクターズ・エディション
フレデリック・マーチ / / ワーナー・ホーム・ビデオ





奇傑ゾロ
ダグラス・フェアバンクス / / アイ・ヴィー・シー






オカピーさん
トムさん、こんにちは。
用心棒さんジューベさんのところでお会いしましたね。基本的に古い映画をとても大切にしている方たちばかり。映画に対する愛情と探究心が深く、文章も大変うまい。おかげで自分が<井の中の蛙>であったことを思い知らされました。

ルパンを演ずるにはやや陰もある貴族の末裔的な雰囲気が重要だと思うのですが、ロマン・デュリス(先般の「ルパン」でのルパン役)では散文的でお話になりません。尤も未見ですけど。
『ゾロ』は展開は荒かったですが、ドロンは良かったなあ。『黒いチューリップ』は最近観ていませんが、結構好きですね。
ルパン
ロマン・デュリス / / 角川エンタテインメント







トム(Tom5k)
>オカピーさん、夜中に失礼します。
うかつだったのですが、ジャック・ベッケル監督の『怪盗ルパン(LES AVENTURES D'ARSENE LUPIN)』があったのを忘れておりました。未見ですが、いつか観たいと思っております。残念ながらDVDもビデオも販売されていないようです。
しかし、かのベッケル監督ですから、期待できそうな気がしており、DVD化を強く期待しています。
Les Aventures D Arsene Lupin
Maurice Leblanc / / Hachette





かつて『ベルモンドの怪盗二十面相』というルパンのパロディ作品が公開されたときのことを思い出しました。わたしは、オカピーさんと同様にドロンにルパンを演じて欲しかったので、ライバルのベルモンドに先をこされたような気がして(作品は、本来のルパンのイメージとは全く異なるドジな泥棒のコメディでしたけれど)、くやしい気持ちになっていたことを思い出します。
オカピーさんはドロンのルパンが実現していたら、監督は誰が理想ですか?
わたしは、なんと言ってもジュリアン・デュヴィヴィエ監督に演出して欲しかったです。


オカピーさん
トムさん、こんばんは。
ベッケルの『怪盗ルパン』は私も観ていません。ベッケルはタッチの良い監督ですので、確かに期待できますね。ルパンはイメージが出来ているので、怖い感じもしますが。
『ベルモンドの怪盗二十面相』・・・そんな映画もありましたね。ベルモンドとは古い付き合いのフィリップ・ド・ブロカが監督でしたが、全く記憶に残っていないところを見ると、大したことはなかったのでしょうか。

古典的なムードを出せ、洒落っ気があり、流れるような文体を誇るデュヴィヴィエで文句なし。スリラーにも実績がありますし。


2006年5月31日~6月2日
トム(Tom5k)
オカピーさん、TB・コメントどうもでした。
(『仁義』について)キャスティングが豪華すぎて、焦点がぼやけたのかもしれませんね。わたしはブールヴィルの警視を単純に主役にすべきだったのかなとも思っています。まあ、それはメルヴィル監督も気がついていて、次作『リスボン特急』での刑事の孤独にテーマを絞った理由なのだろうと感じています。
それから、『仁義』の後、メルヴィル監督はドロンでルパンを撮る企画を立てていたそうです。実現していれば、独特のルパンものになったでしょうね。


オカピーさん
トムさん、こちらこそコメント有難うございました。
なるほど、ブールヴィルを主人公に据えてもっと短くすれば、純文学的な方向で上手く作れたかもしれませんね。トムさんのご意見を借りれば、性善説・性悪説の対比が主題として。
そうですか。ドロンのルパンは夢ですから実現して欲しかったなあ。でも、演出がメルヴィルでは相当重くなったでしょうね。あれから考えましたが、演出者として、『黒いチューリップ』を撮ったクリスチャン=ジャック辺りでも上手く作れたかもしれませんね。


トム(Tom5k)
オカピーさん、あんまり、うれしいことを言ってくれるので、連続の書き込みをしてしまいます。
もうまさにクリスチャン・ジャック監督のドロンのルパン、今すぐに見たくなってしまいましたよ。実現したら最高でしたでしょうね。
日仏合作『黄金仮面(明智小五郎VSルパン)』で三船の明智と再共演や、英(もしくは米)仏合作『ルパンVSホームズ』でテレンス・ヤング監督のブロンソンのホームズとの一騎打ちとかなんていうのも面白いかもしれませんね。
ブロンソンは『雨の訪問者』の印象で、ホームズが浮かびました。
考えただけでワクワクしてきますよ。
では、また。
雨の訪問者(字幕スーパー)
チャールズ・ブロンソン / / コロムビアミュージックエンタテインメント







オカピーさん
トムさん、返事が送れてすみません。
三船の明智は良さそうですね。多分天地茂より良い(笑)。
ブロンソンはちょっと英国臭がないかなあ(※注)、という印象です。テレンス・ヤングは良いかもですね。
今となっては全てが夢の夢。
「雨の訪問者」ですか。懐かしいですね。当時絶好調だったフランシス・レイの音楽が耳にこびりついていますよ。「パリのめぐり逢い」「個人教授」「ある愛の詩」・・・良い仕事をしました。レイのサントラ主題曲集なんてないかしら。
フランシス・レイ作品集
オムニバス / / ビクターエンタテインメント
※ オカピーさん、ここにありましたよ。でも、これサントラかな?トム(Tom5k)



※注
その後、ブロンソンのホームズ役を何人かの友人に話してみましたが、揃ってホームズ役は合わないとのブーイング意見でした(笑)。トム(Tom5k)



2007年4月21~27日
トム(Tom5k)
(『復讐のビッグガン』について)こっこれは、珍しい作品を取り上げましたね。
わたしとしても、ほとんど無関心な作品だったんですが・・・。
17・8年前に一度観たきりです。ファンとして失格ですけど、ただ注視すべきは、おっしゃるとおり
>ピエロ姿のドロン
このシークエンスには、確かに感じるものがありますよ。いずれ整理して記事にはしたいと思っています。やっぱオカピーさん、鋭いですなあ。
最近、何十回目でしょうか、豆酢さんも好きなロージー監督の『パリの灯は遠く』を観ました。何十回観ても素晴らしいものは素晴らしいです。
ではでは。


オカピーさん
トムさん
>ピエロ姿のドロン
深く検討すれば、『黒いチューリップ』とは同じであり逆でもある、人間の仮面性といったところに行き着くところではありますよね。
『パリの灯は遠く』は不条理な悲劇でしたね。色々複雑な思いを抱いた作品ですが、実は30年前に一度しか観ていないです。すみません。


トム(Tom5k)
(『黒いチューリップ』について)待ってました、オカピーさん!(笑)
二重人格や一人二役はアラン・ドロンの右に出る者はいないとまで思っていますよ。恐らくですが、ドロン自身もそういった役柄にかなりの陶酔感を持っていたのではないかな?
>冒険ものの三大設定
やっぱり、クリスチャン・ジャック監督なんかは、フランス映画の最後のクラシック作品の作り手だけあって、セオリー・基本が見事ですよね。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品も好きですけど(本当に大好きです)、戦前から戦後60年代始めくらいまでのフランス映画は最高です。
吉永小百合さんもリアル・タイムで見ていたらしく、絶賛されていた記憶があります。アニエス・ヴァルダ監督も『百一夜』で強調していたように思いますし、女性ファンが多い作品だと思います。
こころの日記 (1969年)
吉永 小百合 / / 講談社





>彼のアルセーヌ・ルパン
最近、ジョニー・トー監督のノワール作品にドロンが出演するらしいとの情報がありますが、老ルパンの役なら、まだ期待できるかも。わたしとしては、ルコントかベッソンあたりで制作してほしいですね。
ああ、またなんかカルネやクレール、デュヴィヴィエ、フェデールなんか見たくなってきちゃった。


オカピーさん
トムさん、こんばんは。
本当にドロンの二役には痺れますよねえ。
また大物はこういう役を一度はやりたがりますね、プロデューサーや監督に求められるまでもなく。

ヌーヴェルヴァーグ以降の作家が小手先というわけではないですが、それ以前の作家は、フランスに限らず、小手先ではなく本当に基本を大事に作っていますね。

>老ルパン
そう言えば『ハーフ・ア・チャンス』では、初老の怪盗紳士役を楽しそうにやっていました。
ベッソンは劇画的になりすぎる傾向があるので、私は文芸色のあるルコントで観たいです(笑)。


最近なかなかお邪魔できずにすみません。
今ピークで、へーへー言っております。

私の読書の幅も益々広がって文学では物足りず、思想・哲学も守備範囲にしようかと思っております。「社会契約論」も読んでみたいですねえ。昔の記憶を辿ると、「民約論」とも言いましたね。ルソーは興味深い著書が多いですよね。「エミール」「告白録」「新エロイーズ」など。
人間不平等起原論 社会契約論
ルソー 小林 善彦 井上 幸治 / 中央公論新社






エミール
ルソー / / 岩波書店





それはさておき、(『黒いチューリップ』について)ドロンの二役が最高でした。結局はドロンのために作られた作品ということに尽きますよね。
この時代の彼で、ルパン・シリーズの傑作「カリオストロ伯爵夫人」をクリスチャン・ジャックで作ったら永久保存版になっただろうなあ。さあ伯爵夫人は誰にさせましょうか?稀代の悪女です。同時代の女優なら、ジャンヌ・モロー? 80年代に入って貫禄の出てきたカトリーヌ・ドヌーヴでも良いかなあ。
済みません。妄想の世界に入ってしまいました。


トム(Tom5k)
>オカピーさん
おおっ!ジャン・ジャック・ルソーを、ですかっ!日本人は、民主国家になった段階でここが不足しているがために、本来の意味での近代国家に成りきれていないのだと思いますよ。多くの人が、江戸末期から明治初期にかけてルソーを読むべきだったはずです。わたしは今からでも遅くないと思いますよ。本当に素晴らしいですね。
『エミール』は、この八方ふさがりの時代に益々の必読書とも思います。日本の教育が、今行き詰まっているのも『エミール』を読まないからだっ!

すみません、取り乱してしまいました。
さて、
>ドロンの二役・・・
ふ~む。いやまったく、絶品ですよ。彼の分裂人間はっ!
むしろ、分裂してないドロンなんて、クリープを入れないコーヒーのようなもんです(例えが少し古かったでしょうか?)。

クリスチャン・ジャックのドロン=ルパンは、以前、オカピーさんの企画で最も優れたルパン企画であると興奮させていただいた記憶がありますが、カリオストロ伯爵夫人ですか?
こっこれは、また興奮しそうだ!
>ジャンヌ・モロー、カトリーヌ・ドヌーヴ
おおっ魅惑のジョセフィーヌ!
素晴らしいっ!
しかし、わたしからすると新しすぎます。あえて「ヌーヴェル・ヴァーグ」の女優は無視しましょう。
クラシックの正統で考えればジーナ・ロロブリジダ、もしくはフランソワーズ・アルヌール、世代を考えなければ、マルチーヌ・キャロル、ヴィヴィアンヌ・ロマンスあたりかなあ。マリー・ベルでも素敵な伯爵夫人になりそうっ!
やばっ、美輪明宏が浮かんできちゃった。

ガニマール警部は難しいですよ。トランティニャンやギャバンだとルパンを撃ち殺してしまいそうだ(笑)。
では、また。


オカピーさん
おおっ、お付き合い戴き有難うございます。

>カリオストロ伯爵夫人
マルチーヌ・キャロルは私も考えましたが、やや色気過多? フランソワーズ・アルヌールは全盛期では若すぎる?
ロロブリジダは大変イメージに近いですが、惜しむらくはイタリア人。まあこの際譲っちまいますか(笑)。

美輪明宏・・・却下(当たり前)。「黒とかげ」ではないんですから(爆)。

>ガニマール警部
イメージとは違いますが、ドロンと縁のあるリノ・ヴァンチュラ。この人を考えたら他の人が全く思い浮かばなくなってしまった(笑)。ルイ・ジューヴェも刑事役の実績ありますが、老けすぎ?

幻想映画館・・・楽しいですね。クラリスや乳母も考えないと(笑)。


トム(Tom5k)
オカピーさん、ようやく仕事も一段落と思いきや、今までの数倍の量の業務に襲いかかられましたよ。愚痴ですが参りましたよ。
さて、幻想映画館ですが、考えて観ることが出来ないというのが、残念ですが、いろんな企画を立てられそうですね。考えついた監督や俳優の違った個性にも気付かされます。
用心棒さんが、G×G対決のシナリオを記事にしていましたが、あれも面白かったです。
こういう企画も、たまにはいいかもしれません。
ではでは



いつも、アラン・ドロンが伝統的な俳優、そしてスターであること、彼の二面性が魅力的であることなどを基本に楽しくお話しさせていただいています。
オカピーさん、いつもドロン談義にお付き合いいただき、ありがとう。
トム(Tom5k)
[PR]

by Tom5k | 2007-07-14 18:28 | アラン・ドロンについて(10) | Trackback(2) | Comments(2)

『ヌーヴェルヴァーグ』⑥~アラン・ドロンの二重自我 その1 想起するルネ・クレマンとの師弟関係~

 いまさら言うまでもないことかもしれませんが、この『ヌーヴェルヴァーグ』ではアラン・ドロンの人格の二重構造を描いています。

 そして、彼の出演している多くの傑作の中でも、その引き裂かれた人格を演じている作品が、特に魅力的であるようにも思います。
 また、ジャン・リュック・ゴダール監督にしても、それがこの作品を手がけていった動機のひとつでもあったようにも思います。

【長い間私はドロンと一緒に映画を作ることを望んでいた。そしてこの『ヌーヴェルヴァーグ』で、彼の役 -私には彼以外の俳優はあり得なかった- を見付けたのだった。例えば、彼には彼自身に対して、また他人との関係に於いて、《アラン・ドロン》であると同時にかつての《アラン・ドロン》でありえるのだ。それ故、彼はこの二重の役柄を演じることが出来たのである。(ジャン・リュック・ゴダール)】
【引用 『newFLIX vol.4 SEP.1990(小特集『ヌーヴェルヴァーグ』)】

 このことは、『ヌーヴェルヴァーグ』という作品を、さらにはアラン・ドロンを主演させた作品を突きつめていくうえで、特に重要な懸案の事項であるといえましょう。

 映画作品でのアラン・ドロンの分裂、すなわち二重性は、どの作品から、誰の演出作品から始まっていったのでしょうか?


 最後の「詩(心理)的レアリスム」の巨匠と呼ばれているルネ・クレマン監督は、アラン・ドロンのその二重性を最初に見抜き、その人格の分裂を統一させ成長させました。わたしとしては、彼らの師弟関係には、そんな側面もあったように思うわけです。

 では、アラン・ドロンはルネ・クレマンの下(もと)で、一体どのように成長を遂げていったのでしょうか?

 ルネ・クレマン監督はアラン・ドロンを、まず彼の出世作ともなった『太陽がいっぱい』で、モーリス・ロネが演じた大金持ちの友人フィリップ・グリンリーフに対して、短絡的な同一視から殺人犯人となってしまう主人公トム・リプリー役で起用します。
 貧困で惨めな主人公トムが、この現代ブルジョア青年フィリップに憧憬してしまったことを犯罪動機としたのです。「女」や「自由」、「品位」や「知性」さえも、金があれば全部手に入る、真面目に働かなくたって、あらゆる欲望がすべて手に入る。
 主人公トム・リプリーは、彼のその所有をすべて自分の手に入れたかった、いや彼はフィリップ自身になりたかったのでしょう。
 実に屈折して、歪んだ在り方であっても、映画評論家の淀川長治氏が言っていたとおり、トムはフィリップを愛してしまっていたのではないでしょうか?!

「ああ、おれはフィリップになりたい。金も女も自由も全てが欲しい!」

 しかし、あの衝撃的なラスト・シークエンスでもわかるように、クレマン監督はドロンに、

「どんなに苦しい思いをしていたとしても、ひとの命を奪って野心を果たすこと、すなわち犯罪に手をそめて自分を確立しても、それは偽物にすぎない、いつかは見破られてしまい、結局は最も悲惨な眼に会うだろう。」

と厳しく戒めているように、わたしには見えるのです。


 次にルネ・クレマン監督は、『生きる歓び』で、やはり貧困ではあるけれど、今度は、素直に淋しさを認め、お金よりも家族の愛情や純粋な恋を求める好青年ユリスを彼に演じさせます。しかし明るくて健康的なキャラクターであるとはいえ彼をまだ、自分に確信を持てずに何か他の物差しで自分を測り、他人への変身願望を主軸にしてしまう主人公として演じさせています。
 やはりまだ、彼は分裂せざるを得ないのです。

 つい背伸びをしてアナーキストの英雄カンポサントになろうとしてしまった主人公ユリス、このことがテロリズムという現代的なテーマを先取りして、大騒動を呼び起こしてしまうコメディ作品でした。

 ことが重大事になるに従って、カンポサントという人格を保とうとしながら、必死にテロリズムをくい止めようと奔走するユリスでしたが、最後には背伸びをしていた彼よりも素性の知れてしまった本当のユリスのほうが、暖かくバルバラ・ラス演ずるフランカに恋の対象として受け入れられる結果となります。

 このような結末でもわかるように、クレマン監督はドロンに、

「本当の自分を素直に表現することが、本当の愛情を手に入れることの必要条件なのだ。」

と彼を諭しているように、わたしには見えるのでした。


 次の『危険がいっぱい』では、ようやくアラン・ドロンの人格を統一させました。
 しかし彼に演じさせたマルクという主人公は、いかさまカード師で若い詐欺師の役です。マルクはいつも、いい加減に好きなことばかりやっている奔放な青年です。
 いくら正直な自分で生きていていたとしても、そして好青年のキャラクターではあっても、これでは正常な日常を地道に営めるわけがありません。
 そして、最後にはジェーン・フォンダ演ずる小悪魔メリンダに自由を奪われ、彼女の手元に囲い込まれてしまいます。素直にそして自分を偽ることなく正直に生きた結果、確かにメリンダに愛されたマークではありましたが、このような恐ろしい結末が用意されていたのです。

 この恐ろしいラスト・シークエンスを用意した師匠のクレマン監督の真意は?

 わたしは、何の裏付けもないチンピラのままでいながら、調子に乗って必要以上の野心、ハリウッド作品での成功願望を持ってしまった愛弟子アラン・ドロンに、すでにそこでの失敗を、はっきりとした裏付けをもって厳しく批判していたように思っています。

 実際にはどうだったのでしょうか?


 そして、いよいよ二人にとっての最後の作品になったハリウッド作品『パリは燃えているか』です。ここでは遂に、アラン・ドロンの人格の統一を完成させ、自国フランス共和国の祖国を守るレジスタンスの闘士、社会的に非常に重要な人物としての役割(柄)を与えています。
 また、ルネ・クレマン監督自身にとっても久しぶりの彼の原点、リアリズム作品の集大成であるレジスタンス映画です。『鉄路の闘い』や『海の牙』以来の熱い想いで撮った作品だったのではないでしょうか?
鉄路の闘い
/ ビデオメーカー





海の牙
マルセル・ダリオ / / アイ・ヴィー・シー





 彼にとっては、この作品はフランス国内のみでナチス・ドイツとの闘いを描いていた過去の実績から、同盟国、連合軍アメリカ合衆国との友情により、ハリウッド作品として飛躍させようとした大胆な野心作であったようにも思います。
 ナチス・ドイツの占領下、自由フランス軍を扇動した共和党のドゴール、彼の信奉者である現実のアラン・ドロンを投影しているようなレジスタンス運動の幕僚デルマス。このデルマスは、後の実生活のリアルなアラン・ドロンそのもののような錯覚すら想起させます。

 もし、この作品を撮っていたときにヨーロッパで大戦が起こったとしたら、アラン・ドロンはデルマスと同じ行動や言動を執ったのではのではないでしょうか!?

 とうとうアラン・ドロンは人格の統一、それも確たる思想・信条までを持つまでの立派なアイデンティティを確立するに至ることができました。


 『パリは燃えているか』では、フランス人のナチス抵抗運動の統一戦線は、握手を求めるナチス・ドイツのコルティッツ将軍に向け、それを拒否し
「レジスタンスは寄り合い所帯で確執も多い、しかし、今のフランスの敵は唯一ナチスのみだ。」
と言い放ちます。
 そして内部に矛盾を抱えながらも自由フランス軍・統一労働戦線レジスタンスは、フランス人にとってのただひとつの敵、ファシズムの象徴ナチス・ドイツに勝利するのです。


 ここでのルネ・クレマン監督は、アラン・ドロンに

「いくら自分の内部に多くの矛盾を抱えていても、決して自分を分裂させてはいけない。しっかりとした自分を持って勇敢に生きて行きなさい。もう、わたしが君に伝えることは何もない。さあ、自分で自分の道を歩んで行きなさい。」

と優しく語りかけているように思うのです。


 ハリウッド作品で大成することができなかったアラン・ドロンですが、帰仏後に『冒険者たち』や『サムライ』から会心作を生み出し続け、マルコヴィッチ殺害事件を乗り切って全盛期を迎えていった契機は、師匠ルネ・クレマンのこれらの素晴らしい教えの数々があったからではないかと、わたしは勝手な想像をしてしまい、感動で涙さえ流してしまうことを厭いません。


「『ヌーヴェルヴァーグ』ですごいと思うのは、ゴダールのような左翼とドロンのような右翼とが、互いに衝突しあうこともなく、一緒に仕事をすることができたということです。」
フィリップ・ガレルの言葉が思い出されます。


 わたしには、ゴダールとドロンが『ヌーヴェルヴァーグ』での共作に至った本質的な根拠が、クレマンとドロンの師弟関係の最後の作品であるこの『パリは燃えているか』に隠されているような気がしてならないのです。
 この素晴らしい師弟関係にゴダール監督は、密かに感動していたのではないでしょうか?

 クレマン&ドロンの作品は、映画史に燦然と輝くべきなのです。
[PR]

by Tom5k | 2007-07-08 20:28 | ヌーヴェルヴァーグ(8) | Trackback | Comments(8)

『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』①~もう一人の自分 ドッペルゲンガー~

 好むと好まざるに関わらず、自分がもうひとりの自分を必要な場合とはいかなる場合でしょうか?
 二重身=ドッペルゲンガーとは自分自身がもう一人の自分を見たり、存在すると確信したりしてしまうことで、分身体験などともいわれ、多重人格とは区別されているようです。
 そして、これらの現象事例の多くには劣等感コンプレックスの問題があるのではないかといわれているそうです。
 コンプレックスの結果には現時点の自己自身に満足できずに、別の高次の人間になりたいという願望を生み出す要素があります。元来はその願望は人間の成長にとって必要なエネルギーであり、健康で正常な場合においては自己の内奥での葛藤が統一されて成長・発達の段階を経ていきます。
 しかし、コンプレックスが極端に増大していたり、何らかの理由、例えば、現時点の自分でいることの苦痛に耐えられないのに、本人のナルシシズムの性行において、現在の自らを否定しきれない場合、自分を制御しきれず、極端な自己嫌悪などに陥っている場合、耐えることのできない生活のなかで新しい生活を創り出せない場合、多くの異常体験や極度な苦痛が伴う経験を多くしてしまった場合等々から健康な発達が正常化できず、自身の内面を統一しきれないとき、もう一人の自分自身の存在が必要となるのかもしれません。
 
【二重人格の事例が現代では殆ど生じないのに対して、二重身の例は今も存在する。(~中略~)
 先ず、この現象は多くの文学作品の主題となっていることを述べねばならない。これらの作品を見てみると、大別して「分身を失うことの恐ろしさ」を主題としたものと、「分身の出現あるいはその出会いの恐ろしさ」を主題としたものに分けることができそうである。(~中略~)もう一人の自分を見た驚き、恐れなどを描き出したものとしては、エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン」、ドストエフスキー「二重人格」があげられる。】

『コンプレックス』(河合隼雄 著 1971年 岩波新書より)
コンプレックス
河合 隼雄 / 岩波書店






 『世にも怪奇な物語 第2話 影を殺した男(William Wilson)』はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーの原作を「ヌーヴェル・ヴァーグ」の先駆者の一人である映画作家ルイ・マルの演出により、アラン・ドロンとブリジット・バルドーが主演し、前述した通常であればひとりの人間の中にある自分自身、それが完全に分離し、別に存在してしまった現象である「二重身=ドッペルゲンガー」をテーマとした非常にセンセーショナルな作品です。
William Wilson
Edgar Allan Poe / Amazon Press






 「二重身=ドッペルゲンガー」のウィリアム・ウィルソン2役を見事な演技でこなしているのは名優アラン・ドロンですが、この作品での彼は本当に素晴らしく、特筆に値します。未来において、彼の代表作の中でも際立つ1本として、映画史に残っていく作品として、記憶に留めるべきでしょう。

 ジクムント・フロイトは精神分析学を創始し、われわれが自分の心だと思っている部分つまり意識の他に、自分を自分でわかっていない部分の無意識があるらしいことに初めに気が付いた学者といわれています。
 今、われわれの生活でも無意識のうちにある願望等が、日常生活そのものを支配していることは特記するほどのことではないでしょう。
 そして、良心的自我・行動を行うパーソナリティの一側面である「超自我」といわれるものにおいては、いわゆる「自我」と異なり、普段は無意識に追いやられています。しかし、「自我」の欲求行動を「超自我(良心)」の制御によってコントロールしている場合は日常的にも多いようです。そういった意味から考えれば、この作品に登場するもうひとりのウィリアム・ウィルソンは、人間の「超自我」を表現するために「二重身=ドッペルゲンガー」として取り扱かわれた存在であることがわかります。

 現代社会においては、時代の病根は益々拡がり、生きる目的そのものの喪失感にまで拡がってしまっています。人間本来の発達目標がコンプレックスと結びつくことすら困難な様相です。
 しかも、種々の日常的な外的刺激によって、自身の欲求が必要以上に刺激され、ウィリアム・ウィルソンのように快楽・快感を追求しようとばかりしてしまう環境を誰もが身の周りに持ってしまった時代といえます。
 そして、それらの欲求は、社会規範の強化、道徳教育の奨励、法令改正等による規制事項の増大、労働賃金の低下・・・等々により、もうひとりのウィリアム・ウィルソンのように欲求の禁止事項となりつつあり、人間の行動エネルギーの否定として一般化されてきていることも多くなってきている状況です。
 これらのことは極端に考えれば、外的な刺激を多く創り出しながら、常識や規範、法令等で禁止事項を増やそうとする社会の二重身化ともいえそうです。

 更にわたしは、自分自身でありながら、常に自分自身が自分自身の外にあるという現代人の人間疎外の状況が、誰もが抱えなければならない問題になってしまったことに危機を感じます。
 この世界のなかでわれわれは常にアウトサイダーであり、どこまでもその運命は免れません。そして、自分の個性が破壊されつくしてしまう恐怖は生活の条件であり、常に自分を自分の外側に置かなければ安心できないほどです。
 恐ろしいことかもしれませんが、もはや、2人のウィリアム・ウィルソンは、日常生活の前提条件かもしれないのです。
[PR]

by Tom5k | 2005-07-02 16:10 | 世にも怪奇な物語(3) | Trackback(3) | Comments(11)