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映画作品から喚起されたこと そして 想い起こされること

by Tom5k
 CIA(アメリカ中央情報局=Central Intelligence Agency=)は、アメリカ合衆国大統領の直轄の諜報機関であり、本部はワシントンD.C.郊外に設置され、国家の安全保障を目的にした情報活動のために世界各国に配置された諜報員によって、軍事・外交等における情報収集・分析を実施しています。
 基本的な業務範囲には、国家安全保障の法令等に基づき、各情報活動として、各関係部局への助言・調整や政府内部への情報提供業務があります。また、公開情報だけでなく、非公開の情報の収集・分析なども多く、ニュースソースの非公開判断も多くあり、アメリカ国内の国家安全保障会議における指示による特別の業務遂行も多いそうです。
 反アメリカ政権が発生しそうな場合にクーデター、指導者暗殺等で政権交代を支援する目的で外交政策・国防政策で不可能な非公式的な各施策を実施することもあり、時にその活動は謀略活動の場合もあるとまでいわれています。

 第二次世界大戦でのアメリカ合衆国の情報活動は、他国の例に漏れず、全世界的な規模における戦術・戦略情報を主にしていました。1945年、大戦終結とともに海外派遣の軍隊を帰還し情報活動も縮小させました。
 しかし、ソビエト社会主義共和国連邦は軍を帰還させず、東ヨーロッパ7カ国を衛星国とし、中東への軍の駐留、各国の共産主義政権樹立の援助等によりヨーロッパやアジアに勢力を拡大させ、日本においては北海道の分割まで要求しました。
 これらのことから、アメリカ合衆国政府は国家安全保障の対外施策としてCIAの設置法令等を整備したわけです。
 1950年、朝鮮戦争での中華人民共和国の介入が予測不充分であったことから批判のやり玉にもあがりましたが、1962年のキューバ危機の回避では一定の評価を受けました。ベトナム政策においては、北爆が無意味であるという冷静な報告をしていたにも関わらず、ホワイトハウスはこれを無視して、北爆を決定し政府当局は国民世論からの激しい批判を受けていきました。

 内政においてはFBI(連邦捜査局)との共通目的で、国内のベトナム政策批判者の監視行動として尾行や盗聴、郵便の盗読等の恥ずべき行為を繰り返し、映画俳優のマーロン・ブランド、ジェーン・フォンダもその被害者であったそうです。そして、ニカラグア政府転覆マニュアルの『CIA手引書』の暴露などからCIAは巨大なダーティ体質をもった諜報官僚組織というイメージに変質していきました。
 いずれにしても、設置当時からCIAは安全保障=反共政策として国内行政機構の最重要ポストに位置付けられていたわけです。

 しかし、CIAの活動、特に海外勤務の際のソ連のKGB(国家保安委員会)工作員との接触においては、複雑な人間関係もあり、双方、顔見知りで相手の仕事もよくわかっていたり、ときには仲良く食事をともにする場合もあったいいます。双方がそれをきっかけに抱き込み工作合戦を繰り返していたことも珍しくはなかったようです。このような日常で最も危険なことはCIA工作員がKGBのスパイに寝返り、CIA本部において以前より重要なポストに就くことが不可能ではなかったまで言われています。
CIA―変貌する影の帝国
斎藤 彰 / 講談社






(以下抜粋)
『1982年6月15日、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港で逮捕された元CIA工作員エドウィン・P・ウィルソンの場合が、まさにいい例だ。
 ウィルソンはCIAを退職したあと、アメリカが最も忌み嫌うリビアを本拠地にテロリスト訓練所を設立、中東・アフリカ地域を対象として手広く武器売買やテロ要請員派遣をおこなった。またウィルソンは海外に亡命したカダフィ政権のリビア人を暗殺する仕事を請け負っていた。
 ウィルソンにとっては「理想郷」のアメリカにいるより、冒険心、大胆さ、仕事のやりがい、報酬のすべてを満たしてくれるリビアの仕事の方がはるかに魅力的だったのだ。
 現職者の中にはウィルソンと同じ心境でいる人間がいないという保証はない。』
(「CIA~変貌する影の帝国~」斎藤 彰 著 昭和60年 講談社現代新書より)


 映画『スコルピオ Scorpio』はウォルター・ミリッシュ・プロダクションがマイケル・ウィナーの演出により、アラン・ドロンとバート・ランカスターを主役にして製作した1973年の作品です。CIAというアメリカ合衆国の巨大機密組織の暗部を暴露したアクション映画ですが、当局への批判に挑んだ側面も持っており、映画製作に当たって恐らくは、勇気ある決断も多々必要であったと思われます。
 CIA諜報部員クロスは自らの思想・信条からソ連側に寝返った諜報員として人物設定されています。まるで前述したウィルソンがモデルであるかのようですが、作品製作が事件より9年も前のものであることに驚きます。
 そして、アラン・ドロンが演ずる蠍座の殺し屋ローリエは、バート・ランカスター演ずる東側に通じているスパイのクロスを暗殺する任務を命ぜられますが、彼は長年の信頼関係の強いパートナー同士であり、それを躊躇します。ところが、ゲイル・ハニカット演ずる恋人スーザンまで東側に通じており、2人に裏切られていたことを知ったことで遂にCIAの指示どおり、ローリエはクロスとスーザンに拳銃を向けるのです。

 更に非道であるのは、ローリエが忠実に業務遂行したにも関わらず、口封じのために、CIAが彼に銃口を向けたことです。この作品のテーマには、似て非である「ハードボイルド」とか「非情」などという人間的な感性に結びつくものは、実は皆無なのです。あるのは国家の無機質な官僚主義と組織運営上の機能的側面のみです。

 冷戦終結後、慢性的な赤字財政に苦しむホワイトハウス・合衆国政府はCIA組織の規模縮小を実施していきましたが、近年においても、9.11同時多発テロやイラク攻撃に係る業務などに関わっていたといわれているようです。

『イラク戦争前の米政府の情報活動を調べていた米上院情報特別委員会は9日、中央情報局(CIA)が「イラクの大量破壊兵器の脅威」を誇張したと批判する報告書を発表した。
 また同委員長は「これは地球的規模での、情報活動の失敗である」として、CIAを厳しく批判した。
 一方、CIA自体が、イラク攻撃を主張する政権幹部から圧力を受けたか否かの点では、報告書は「(そうした)証拠を見いだせなかった」とし、ブッシュ政権がCIAなどに圧力をかけて、「イラクの脅威」を誇張させたとの見方を否定した。』
(2004年7月10日 読売新聞より)

 アメリカ合衆国政府としては、将来的にはCIAに代わる『国家情報局』を設置することでCIAの発展的解散を予定しているといいます。
# by Tom5k | 2005-06-06 18:38 | スコルピオ(2) | Trackback(3) | Comments(5)
 1854年3月7隻の軍艦によるアメリカ東インド鑑長官ペリーが再航して、アメリカ船の来航による食糧・燃料の補給、難破船の保護、領事の駐在(箱館・下田の開港)、アメリカ合衆国の日本における最恵国待遇、などの内容による日米和親条約が批准されました。
 江戸幕府による鎖国政策を200年以上続けてきた日本でしたが、この出来事により、鎖国体制を終焉させました。

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 下田駐在のハリスはこの条約批准後、合衆国側の領事裁判権を認め、日本側が関税の自主改正をできないこと、などの日本史史上でも最も不平等な内容であった日米修好通商条約の調印を迫ります。
 1858年6月、大老に就任間もない井伊直弼は、国内での激しい攘夷運動により、この条約の勅許を許可されませんでした。しかし、清国とイギリスのアヘン戦争の結果やアロー号事件など欧米列強のアジア侵略の外圧から、井伊大老は独断でこの条約に調印し、日米貿易は不平等な形態で始まっていったのです。

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 1860年2~3月、条約の批准書を交換するために新見正興ら一行は、合衆国政府より派遣されていた軍艦ポーハタンに乗り込み、勝海舟を船長とし、福沢諭吉、ジョン万次郎らが同乗した咸臨丸を警護船として浦賀を出向しました。一行はサンフランシスコへの渡航を成功させ、日本人として初めて正式にアメリカの土を踏んだのです。

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 非公式的には、1863年に、井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)が長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学した史実もあります。

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 1867年、日米間に初めて郵便船が開通しました。このころはまだ、大陸横断鉄道の開通2年前であり、南下によりパナマ地峡を渡り、北上してニューヨーク・ワシントンまでの路程でした。
 同年10月、徳川幕府は260年あまり続いた政権を朝廷に返還する決断を下し、大政奉還を実施しました。これは幕府が倒幕勢力と戦争状態となった場合には欧米列強の侵略政策に対応できないことを懸念した徳川慶喜が、幕府の安泰よりも日本の安泰を思慮した結果でした。
 多くのアメリカ人にとって西部の開拓はまさにアメリカン・ドリームの実現ともいえることだったのでしょう。広大な土地と天然資源から、経済的な向上と豊かな生活を想い描いたアメリカ人は多かったはずです。1848年の金鉱発見に端を発して、カリフオルニアにおける「ゴールドラッシュ」により西部開拓が本格化していきました。

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 そのなか、アメリカの西部開拓や領土発展の目的を結実させた大陸横断鉄道の建設法案は1862年、南北戦争の最中に大統領エイブラハム・リンカーンよって認可され、西側のセントラルパシフィック鉄道、東側のユニオンパシフィック鉄道が1869年5月、ユタ州グレートソルトレイク北方の砂漠フロモントリーポイントで歴史的な接合を果たしました。

 しかし、これら開拓史には多くの矛盾、そして不運な不安要素も多く存在していました。先住の原住民であるネイティブ・アメリカンと白人とが対立し、武力で勝る白人がネイティブ・アメリカンを迫害していったのは西部開拓史の暗部のひとつでしたし、1860年以降の南北戦争後の荒廃や西部開拓、特に大陸横断鉄道の敷設工事による労働者への過酷な搾取などは、西部を荒らし回る強盗団などを生み出していった原因であったと思われます。

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 映画『レッド・サン』の舞台は1870年、前述した日本の武士と合衆国西部の強盗団の間でドラマが展開し、先住民族ネイティブ・アメリカンのコマンチ族がクライマックスの戦闘場面で重要な役割を果たします。

 わたしがこの作品に対して驚くことは、作品の設定条件に係る歴史検証が以外に正確であることです。

 1870年という設定は、大政奉還後であり、中村哲扮する坂口備前守が「我々は、日本の皇帝であるミカドの使節である」と言うセリフから、この一行が1867年の大政奉還後の使節団であり、将軍ではなく天皇(ミカド)の命で宝刀を献上するためにワシントンまで行こうとしていることがわかりますし、坂口備前守が、10年間サンフランシスコに滞在していたことも解説されています。
 また、使節団一行の紋付・袴、さらに帯刀という出で立ちも外交上の礼装であったのでしょう。
 そして、日本新政府の組織・権限に係る政体書の制定は1868年に施行されていますが、アメリカ合衆国の制度にならって作成されています。つまり、合衆国政府が日本新政府からみて、不平等条約における通商の相手国というのみでなく、行政組織における先進国として、今後の友好関係を派遣の目的としていたとしても不思議ではないわけです。

 それから2年後、1872年に派遣された岩倉使節団は、諸外国の見聞による調査・研究を目的とし、新時代を感じさせる前向きで明るい外遊でした。それは刀剣など帯刀せず、献上物も天皇の国書であり、本当の目的は友好よりも条約改正の予備交渉でした。つまり、『レッド・サン』の舞台設定の1870年から2年後の1872年の岩倉使節団には、三船敏郎が演じた黒田重兵衛のような武士道に遵守した侍は既に存在していなかったと思われます。

 更に前述したとおり、アメリカ合衆国においても大陸横断鉄道が開設した1869年の翌年であることや荒廃した西部で兵士・労働者たちが野合して、リンク(チャールズ・ブロンソン)やゴーシュ(アラン・ドロン)たちのような強盗団となっていた史実等々。

 もちろん、娯楽作品として徹底したこと、当時の西部劇の創作パターン等により、細部においてのリアリティの追求は目的には無かったのでしょうが、ストーリーと舞台設定において、1870年のアメリカ西部を舞台としたことが、この作品のストーリー成立の一要素であったと思われます。
 このことは、この作品の発想が奇抜ではあったとしても、スタッフ・キャストの生真面目な作品創作の意欲と熱意が強かったことの結果のひとつではないでしょうか。
 わたしは、そういった意味から、未来において日本とアメリカの関係やEUとの国際関係を考えたときに、こういった娯楽大作を民間の映画人達の製作・立案とはいえ、国際的な相互協力の関係を構築して創作実現できたことが奇跡的な国際文化交流であったと、後世に伝えられていくことを切に願ってしまいます。


 また、この作品には、日本の歴史の転換期が、恐らくですが日本人以外にとってもわかりやすく表現されている場面と台詞が多くあります。ロケ地に黒澤組の脚本家である橋本忍が同行していたからかもしれません。
 黒田重兵衛は1869年に版籍奉還により領地、人民を天皇に返還する施策を実施したことなどの日本国内の情勢を踏まえていたのでしょう。

>武士は百姓や漁師となって生きていくしかない。武士は滅んでいくから、この使節が武士の最後の仕事だ。」「日本もいつか、この国のようになるだろう。

と苦渋の表情で述懐するいくつかのセリフは、この作品の悲しく苦しいテーマのひとつとなっています。
 その後、黒田の言っていたとおり、1871年、日本新政府は武士に対しての廃刀許可を実施、1876年、廃刀令の公布により、正式に帯刀が禁止され、武士は物心両面からその誇りを奪われたのでした。
# by Tom5k | 2005-05-21 15:16 | レッド・サン(2) | Trackback(1) | Comments(7)
 映画『ル・ジタン』では、アラン・ドロン演ずるジプシーの主人公ユーゴ・セナールが、逃走中の滞在地ニニホテルで警察に包囲され、バイクを使ってその包囲網を強行突破する場面があります。
 このシーンは、アラン・ドロンがバイクでウィリーしながらの走行で、手に汗握る緊迫した逃走場面でした。よくあるデモンストレーションでのウィリー走行と異なり、前輪を浮かせたというより、浮いてしまったという描写で、これがまた、逃走場面をよりリアルに表現していたと思います。ここは凄い場面でした。
 ハードなアクションシーンであるにも関わらず、スタントなしの撮影だったそうです。

 使用したバイクは日本が世界に誇るカワサキ500SSマッハⅢです。1969年にカワサキがバイク市場の世界戦略で、最高速を目指して開発し登場させ、伝説のバイクといわれるようになりました。

 主な仕様は、
 全長×全幅×全高 2,095×840×1,080mm
 軸間距離 1,400mm
 車両重量 174kg
 エンジン形式 空冷2サイクル3気筒
 総排気量 498cc
 最高出力 60ps 7,700rpm
 最大トルク 5.485kg-m 7,000rpm
 高時速200km/h
 スピードメーター目盛表示 240Km/

 2サイクル3気筒エンジンならではの加速力の凄さにより、車両重量170kg以上という高重量でありながらチェンジ3速目でも、まだ、ウィリーしてしまうといいます。エンジンをフロントからできるだけ後ろに離した点も前輪を更に浮きやすくした要因のひとつだそうです。

「曲がらない、止まらない、まっすぐ走らない」「スピードが猛烈でコーナーリングは必ず転倒する」「白煙が凄くて、後ろから前を走っているマッハの視界は閉ざされる」「ブレーキがまったく利かない後家づくりバイク」「クレイジーマッハ」「ジャジャ馬マッハ」等々。
 このマッハを比喩したキャッチフレーズはどれもこのバイクの特徴をよく表現していますが、当時のアラン・ドロンがこれを気に入って、使用した気持ちがよくわかります。
『ル・ジタン』②~カワサキ500SSマッハⅢ~_e0059691_19283425.jpg

 ちなみに、わたしは若き日にスティーブ・マックイーンの『大脱走』でのオフロードバイクの鉄条網内での逃走場面に憧れて、ホンダのオフロードバイク「XLR250cc」を愛車としていました。今はもう壊れて動かないわが愛車...。しかし、わたしはオフロードバイクに乗りながらウィリーが怖くて出来ず、山道ではなく、ただ道路を普通に走っていただけでした。考えれば何のためにわざわざオフロードバイクに乗っていたのでしょうか?。
 情けない自分の経験から、あらためてアラン・ドロンという俳優の素晴らしさを実感してしまうのです。

【訂正】
ジタンのバイクはH2Bの、おそらくはドイツに輸出されたものだそうです。
500SSについての説明は初期のものではないかとのことです。
H1D以降のモデルで意識せずに前輪が浮くことはないそうです。
# by Tom5k | 2005-05-07 23:51 | ル・ジタン(3) | Trackback(9) | Comments(1)