『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカ映画への野心① ~

 アラン・ドロンの初期の主演作品『お嬢さん、お手やわらかに!』(1958年)、『学生たちの道』(1959年)は、明らかにアイドル映画のジャンルにある作品でしたから、この段階では、まだ、いわゆる「アラン・ドロン」キャラクターは、ほとんど確立されていません。そして、監督を務めたのは両作品ともミッシェル・ボワロンでした。
 彼は、その後、ルネ・クレマンやルキノ・ヴィスコンティなど、巨匠たちの作品に主演した後、ミッシェル・ボワロン監督の三作品目、『素晴らしき恋人たち 第4話「アニュス」』(1961年)に主演します。ロジェ・ヴァデム監督に見出され脚光を浴びていたブリジット・バルドーと共演した若い恋人同士の悲恋のコスチューム・プレイでしたが、やはり同監督の得意な前二作のジャンルの作品でした。

 ロミー・シュナイダーと婚約まで果たすことになった『恋ひとすじに』(1958年)は、西ドイツの作品であり、アラン・ドロンが国際的スターになるきっかけとなった作品でしたが、戦前のドイツで映画芸術の先端であった「ドイツ表現主義」の体系にあったマックス・オフュルス監督、マグダ・シュナイデル主演のオリジナル作品『恋愛三昧』のリメイクです。この作品は、アラン・ドロンが主演というよりも、、どちらかと言えば、『プリンセス・シシー』シリーズで人気絶頂期にあったマグダ・シュナイデルの愛娘、ロミー・シュナイダーが主演のアイドル映画でした。

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 彼がその持ち前の陰影の濃い犯罪者としての人物像を初めて演じた作品は、『太陽がいっぱい』(1959年)でしたが、この作品を監督したルネ・クレマンへの当時の批評は、新たに台頭していた「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸派の旧世代の伝統的作風への批判はもちろんあったでしょうし、それに加えて、『生きる歓び』(1961年)を含めた彼自身の力の限界を指摘されたものも存在していました。

【「クレマンが『太陽がいっぱい』で見せてくれたのは、地中海のすばらしい陽の光と、エレガントな色彩撮影と、見当ちがいのディテールと、ショッキングなラスト・シーンだった。」
 ロイ・アームズが、『海の壁』の後に作られた『太陽がいっぱい』(59)について、こんな批評をしている。
 『太陽がいっぱい』、その後の『生きる歓び』(61)とともに、押しよせる“ヌーヴェル・ヴァーグ”に対抗してクレマンが作ったスタイリッシュな作品であった。二本とも、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の作品から出てきたアンリ・ドカエに撮影をまかせたのだが、ドカエのカメラは、若い世代の心理をうつしとり得ず、ドラマの構造だけを美しく捉え得たにとどまった。クレマンは、現代の若い世代の心理を活写できるような作家ではなかったのである。彼は、巧みなストーリー・テラーとして、その後の作家活動を続けるようになった。】
【映画評論 1974年3月号(「ルネ・クレマン研究 クレマンの作品系譜をたどる」高沢瑛一)】

 更に、当時のイタリア社会に現れた社会問題をリアリズム描写で創出し続けた「ネオ・レアリズモ」の作品群も第二次世界大戦後から1950年代の隆盛から変遷をたどりながら、その全盛期を終焉させていきます。そこから様々な試行錯誤が行われていくのですが、その傾向はアラン・ドロンの国際的スターとしての出発点であったイタリア映画の『若者のすべて』(1960年)、『太陽はひとりぼっち』(1961年)、『山猫』(1962年)に顕著に現われています。

 そして、ミケランジェロ・アントニオーニについて、アラン・ドロンは次のように後述しています。
【>ブリエの現場は本当に素晴らしかったね。ロージー以来、私はブリエのような人を待っていたんだ。他の監督たちに侮蔑的に聞こえて欲しくはないけどね。でも私にはヴィスコンティ、クレマンがいて、アントニオーニは偶然だがね・・・】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18「回想するアラン・ドロン:その6」(インタヴュー和訳)」

 ミケランジェロ・アントニオーニは、それまでの映画制作での決まりごとを全て否定し、反ドラマ(反ストーリー)の構成により映画のテーマを提示する斬新な手法を取っていた映画作家でした。彼は自らの作品を「内的ネオ・レアリズモ」と定義づけ、映画史的にも「ネオ・リアリズモ」以降の流れを組む映画作家として体系づけられています。
 しかし残念なことに、彼との出会いを「偶然」としているアラン・ドロンのこのような発言には、当時の自身のキャリアを「内的ネオ・レアリズモ」に投入していこうとしていた意欲は感じられません。

 また、ルキノ・ヴィスコンティにおいては、彼自身の「ネオ・レアリズモ」作品の集大成として、アラン・ドロンを主演にした『若者のすべて』(1960年)を演出しました。この作品は1960年度ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞を受賞しましたが、イタリア国内の南北地域格差へのあまりにリアルな描写に、撮影中から公開後まで当局とのトラブルが絶えなかったそうです。特に、主人公ナディアへの暴行や刺殺のシークエンスは、公序良俗に反するといった理由から音声のみのシークエンスとして公開するようイタリア政府からの検閲を受けました。ちなみに、日本で公開されたときの上映時間も大幅に短縮された1時間58分でした。
 そして、第16回カンヌ国際映画祭グランプリ(パルム・ドール)を受賞した『山猫』は、彼のそのキャリアの新時代として、貴族社会の崩壊をリアリズムによって描いた新しい試みであったにも関わらず、その世界配給は20世紀フォックスによる40分に及ぶ短縮版を基軸としてしまいました。
 このようなことから、ルキノ・ヴィスコンティ監督による二本のアラン・ドロン主演作品は、公開当時には、その真価を世評に正確に反映させることが難しかったと考えられます。

 これらの事情を鑑みれば、アラン・ドロンが、その後のイタリア映画界で活躍していくためのモチベーションを高めることは難しかったと察することができます。

 次に、自国フランス映画での「アラン・ドロン」はどうだったでしょうか?
 彼は、ルネ・クレマン監督の演出作品の外に、1962年に戦前のフランス映画の黄金時代を体系付けていた「詩(心理)的レアリスム」の代表格だったジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒第6話「汝、父母をいやまうべし、汝、偽証するなかれ」』への出演を果たします。
 しかし、ジュリアン・デュヴィヴィエは、1950年代中盤から、フランソワ・トリュフォーを初めとした映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」によって、徹底的に批判されていった映画作家でもありました。

 1950年代終盤からの自国フランス映画界は、ロジェ・ヴァデム、ルイ・マル、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダール、エリック・ロメール、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ジャック・ドゥミなどの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちが席巻する時代を迎えていたのです。

【>アラン・ドロン
(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-)】 
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 1960年代の初め、若手の映画人気俳優として大反響を惹起していった新世代の国際スター「アラン・ドロン」には、このような状況もあったわけです。自国フランスのみならず、西ドイツやイタリアでの作品に主演し、国際的に人気の絶頂を迎えていたとは言え、アラン・ドロンに焦燥があったことは否めません。
 そして、そんな先行きの不安を想定し得る状況にあって、彼がようやく巡り会うことができた作品が、アンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディー』(1962年)だったのです。共演者は言わずもがな、「フレンチ・フィルム・ノワール」の大御所、ジャン・ギャバンです。

【 戦前から戦後を通して、フランス映画界でのナンバー・ワンはいつもジャン・ギャバンであった。今もである。水草稼業にもにて、人気のうつりかわりの激しい俳優世界で、これは稀有のことだといわなくちゃなるまい。もっともフランス人の性へきの中には、大変保守的なもの-伝統を愛するというか、古いものをなつかしむといった傾向があるからかもしれないが、大げさにいえばシネマがトーキーになってからはまずはジャン・ギャバンというのが、彼らの固定観念になってしまった。フランス映画の危機が叫ばれる昨今においても、ナンバー・ワンはギャバンである。ナンバー・ワンというより、別格なのである。(略-)】

【(-略)人間だれしも、お世辞にはよわいとみえて、いつも無愛想なギャバンが、いたれりつくせりのドロンの奉仕ぶりに、うん、仲々いいところのある青年だといったとか。ドロンのほしかったのは、正に、ギャバンのこのお墨附きだったのである。(略-)】
【スクリーン1963年11月号「ギャバン対ドロン」秦早穂子】

 『地下室のメロディー』が公開された1963年当時の日本の映画雑誌には、このようなジャン・ギャバンに対するアラン・ドロン評が掲載されていました。ファンとしては、あまり愉快な内容とは思いませんが、残念ながら的を得た評価であったかもしれません。

 ところで、ジャン・ギャバンが、どんなに別格の存在だったとしても、彼が映画俳優として若い頃から一貫して、それを維持し続けることができていたわけではありません。『現金に手を出すな』(1953年)により、戦後に第二全盛期を迎えるジャン・ギャバンに至るまでには、かなり長期間に渉ってのスランプの期間もあったのです。

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 これは、1941年にナチス・ドイツのフランス占領時によって彼が渡米した頃から始まったものだったと考えられますが、それを克服するまでには10年もの長い年数を要しました。これには、様々な要因があったと思いますが、私は主に次のことが大きかったと考えています。

◯ 40代という彼の年齢とそれまでの「ジャン・ギャバン」キャラクターとの間のギャップが大きくなってしまったこと。
 脱走兵や前科者が官憲に追い詰められ、最期に非業の死を迎える悲劇のヒーローとしてのスタイルによった行きずりの美しいロマンスは、40代の彼には既にそぐわないものになっていました。
 この傾向は、戦前からの名コンビ、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督との『逃亡者』(1943年)、当時の新進気鋭のルネ・クレマン監督との『鉄格子の彼方』(1948年)などの作品において顕著になっていました。

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◯ アメリカへの亡命時代、ハリウッドでの映画制作の手法が彼のキャリアとは合わなかったこと。
 『夜霧の港』(1942年)への出演ではアーチ・メイヨ監督とのトラブルが絶えず、当時、同様にアメリカに亡命していたドイツの名匠フリッツ・ラングが最後に演出に関わり、ようやく完成させた作品だったそうです。

◯ まだ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の批判にさらされる前時代ではあったものの、戦前から彼の作品を最も多く演出していた「詩(心理)的リアリスム」世代のジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネには、全盛期と比較して既にその演出力に衰えが現れていたこと。
 『地の果てを行く』(1935年)、『望郷』(1936年)や『霧の波止場』(1938年)に愛着のあるファンにとって、亡命時代の『逃亡者』や帰仏後の『港のマリー』(1949年)は、時代の節目を感じてしまう作品だったと思います。

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◯ ジャン・ギャバンの盟友のひとりであり、フランス映画界においては、別格の映画作家であったジャン・ルノワールはアメリカで市民権を得たことによりハリウッドから帰仏しなかったこと、その後も、インドやイタリアで映画を制作していたこと。
 ようやくジャン・ギャバンと久しぶりに組んだ『フレンチ・カンカン』でのフランス映画界への復帰は1954年、戦後9年も経ていました。

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 ジャン・ギャバンが、ジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』(1953年)にたどり着くまでには、このような困難な時代が存在していました。

 それにしても、彼が後期の第二全盛期に至ることができたこの代表作品に、突然、唐突に巡り会ったとは、私には信じられません。スランプの時代を単なる不調期と考えることは短絡だと思いますし、むしろそういった時期だからこそ、次のステップへと飛躍するため、映画スターとして熟成していく過程で、その素晴らしい端緒が現れているはずだと考えます。つまり、「ダイヤモンドの原石」のような作品がどこかに埋もれているはずなのです。

 そのような意味で、私の関心を強く喚起する作品は、その4年前に製作されたレーモン・ラミ監督の『面の皮をはげ』(1949年)でした。私には、この作品が『現金に手を出すな』以降の仮想作品のように思え、ジャン・ギャバン第二全盛期の諸要素の多くが凝縮されているように感じられるのです。

【<『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカ映画への野心② ~>に続く】
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# by Tom5k | 2017-01-14 17:27 | 地下室のメロディー(5) | Trackback | Comments(0)

『泥棒を消せ』②~アメリカ映画での「ギャング映画」を優先した「アラン・ドロン」②~

【<『泥棒を消せ』②~アメリカ映画での「ギャング映画」を優先した「アラン・ドロン」①~>から続く】

 アラン・ドロンは、この作品の大きなテーマである移民の生活苦、家族の崩壊などと同様のテーマで、後期「ネオ・レアリズモ」のイタリア映画界の巨匠ルキノ・ヴィスコンティの演出による『若者のすべて』(1960年)に主演した経験がありました。
 彼は、この作品で、故郷を奪われたイタリア南部の農民一家が、都市生活に疲弊しきってしまう無産階級の若い労働者、移民一家の三男ロッコ・パロンディを一世一代の名演技で演じ、映画史的な高い評価を残しています。

「この映画以後ドロンは一躍、国際的なスターとなって、劇場側が歓迎するぺてん師やギャング役を演じる映画に次々と出演した。したがってロッコを演ずる彼を見ていない人には、ヴィスコンティの厳しい指導に耐えて彼がこの役で演じ切った、ほとんど輝くばかりの愚直さと、悲哀と、しんの強さを想像するのはむずかしいかもしれない。」
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

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 『泥棒を消せ』のエディやその兄ウォルターの設定は、「劇場側が歓迎するぺてん師やギャング」だったかもしれませんが、生活苦から犯罪に手を染めざるを得なくなり、その結果、家族関係が崩壊していく過程を描いた社会派の作品でもあったのです。

 また、彼は「フレンチ・フィルム・ノワール」作品である『Quand la Femme s'en Mele』(1957年)で銀幕デビューを果たし、既に敵の凶弾に倒れる若いボディガードを演じており、初めてのプロデュース作品『さすらいの狼』(1964年)は、旧時代の「詩(心理)的レアリスム」のノワール傾向の作品系譜を継ぎ、フランス映画史的テーマである「死の美学」を彼が初めて完成させた作品であったと私は考えています。【<『さすらいの狼』~「フレンチ・フィルム・ノワール」の「アラン・ドロン」の原型~>】
 『泥棒を消せ』のアラン・ドロンも、このクライマックスで、誤解した警察官が発砲した銃弾に倒れる、家族から離反した孤独な主人公の死を演じました。

 そして、なにより、「フレンチ・フィルム・ノワール」の大スター、ジャン・ギャバンと共演した『地下室のメロディー』(1962年)のカラーバージョンは、アメリカで公開された際のものだそうで、この作品はアメリカ映画界からは一定の評価を受けることに成功しました。なお、その作品テーマは、『泥棒を消せ』のプロットと同様の、カジノの現金強奪を扱った「押し込み強盗」のエンターテインメントだったのです。

 アラン・ドロンは、『Quand la Femme s'en Mele』や『さすらいの狼』での「死の美学」、『若者のすべて』での移民の生活苦や家族の崩壊のテーマ、アメリカでも評価された『地下室のメロディー』での現金強盗の設定など、その経験値から、『泥棒を消せ』のオファーには自信を持って出演を受けたことは間違いないでしょうし、ある意味では、現在までヨーロッパで出演した同傾向の作品の集大成になり得るとの判断からの出演だったかもしれません。

 そして、恐らく、アラン・ドロンのキャリアにとっても、それまでのルネ・クレマン、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジュリアン・デュヴィヴィエ、クリスチャン・ジャックなど、ヨーロッパ映画作品での巨匠たちの演技指導、同世代のアイドル・スター女優たち(ロミー・シュナイダー、ミレーヌ・ドモンジョ、パスカル・プティ、ジャクリーヌ・ササール、フランソワーズ・アルヌール、ブリジット・バルドー、モニカ・ヴィッティ、クラウディア・カルディナーレ、ジェーン・フォンダ)や往年の大スター(ダニエル・ダリュー、ジャン・ギャバン)との共演・・・その次のステップアップに果たすべく非常に重要な企画だったと思います。

 何故なら、『泥棒を消せ』を演出する監督は、アメリカ社会の映画への反映が顕著であったことも手伝っていたとはいえ、黒人俳優のシドニー・ポワチエがアカデミー主演男優賞を受賞した『野のユリ』(1963年)、そして、『泥棒を消せ』より後の作品ですが、アメリカの西部劇の転換点を作った『ソルジャー・ブルー』(1970年)を生み出していく、当時、気鋭のラルフ・ネルソンだったからです。

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 また、共演者のアン・マーグレットは、『バイ・バイ・バーディー』(1963年)や当時の恋人だったエルヴィス・プレスリーと共演したミュージカル『ラスベガス万才』(1964年)などで、当時のティーンエイジャーから支持され、歌手としても人気を博していました。
 1962年にマリリン・モンローが謎の死を遂げたばかりのハリウッドにおいて、次の世代のセックス・シンボルとして期待することができる女優としてラクウェル・ウェルチが注目されることになるのは、1966年の『ミクロの決死圏』からです。この当時はアン・マーグレットくらいしかその大役を期待できる女優はいなかったでしょうから、彼女は、今までヨーロッパでアラン・ドロンと共演したどの女優にも引けを取ることはなかったと思います。

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 そして、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、『サムライ』のモデルのひとつとしたグレアム・グリーン原作の『This gun for hire』(1941年)で非情な殺し屋を演じた「B級フィルム・ノワール」のスター、アラン・ラッドと『シェーン』(1953年)で共演したヴァン・へフリン、ジャック・パランスも『泥棒を消せ』の共演者でした。

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 アラン・ドロンが、自らの次の本舞台とするための「・・・アメリカ合衆国で一連のもっと重要な企画・・・」、つまり、今後のスタートアップのための作品の一本とした『泥棒を消せ』への出演は、当時の自分の状況や国際市場としてのアメリカ映画の現状などから考えて十分過ぎるほど魅力的なものだったのでしょう。

 更に、この企画は、大女優の大器を備えたロミー・シュナイダーとの婚約解消、ヴィスコンティ一家としてのスター俳優としての業績からの遁走までも代償し、自国で席巻している「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品を凌駕することをも可能であると、彼は考えたのではないでしょうか!?

 アラン・ドロンがナタリーとの電撃的な結婚を果たし、妊娠中の彼女ーを同行させ、映画の国際市場アメリカ合衆国という大海原に出帆していった状況やその背景をこのように考えれば、ジャン・ピエール・メルヴィル監督からのオファーのあったピエール・ルスー原作の『フルハウス(ラッキー・ジョー)』に興味を示すことができなかったことは無理の無いことだったかもしれません。

 そして、アメリカ映画界でのアラン・ドロンのこの行動については、成功、失敗の結果よりも、この生き方そのものこそが重要だったのだと私は考えます。

 また、彼は世界中の映画ファンから、どのようなスターになることを期待されていたのか?・・・敗戦国家から朝鮮特需景気を経た神武景気、岩戸景気による所得倍増計画から、東京オリンピック景気を経験し、戦後復興を成功させていた極東の国、日本での爆発的なアラン・ドロンの人気・・・その高度成長の後半期、1970年代初頭のいざなぎ景気を経て、ニクソン・ショックから、第四次中東戦争をきっかけにした第一次オイルショックを経験し、高度経済成長時代の終焉を迎え、日本列島改造論の景気拡張も、現役首相の金脈問題による辞任で大揺れとなっていた頃、北海道に在る人口30万人あまりの地方都市での一家庭で、次のような会話があったことを忘れてはなりません。

 実はこれ、今回初めて公開するものを含むのですが、アラン・ドロンの国際スターとしての枯渇に関わる在り方についての貴重な会話ですから、恥を偲んで公開することにしましょう!

>トム(Tom5k)
「アラン・ドロンが出ている『外人部隊』なんて映画ないぞ!」
>父親
「ん~?まあ・・・だけど、そんな感じの映画、アラン・ドロンらしいべ。あっはっはっはっ!」
【<『名誉と栄光のためでなく』~幻想映画館『外人部隊』~>】より

 そして、この会話は、その後も引き続き、次のとおり、粘り強く行われていたのです。
>トム(Tom5k)
何だよ、それっ、何か観た映画無いのかあ?
>父親
いや!ある。ホントだ。

 この記事を読まれている方に言っておきますけれど、もうこの時点で、この後のブログ記事、あんまり真剣に読まないほうがいいと思います。手の平を返すのが早くて申し訳ありません。

 当時、愚かな私はこのような質問を、このような父親に何故、何度もしてしまったのでしょうか?
 当然のことながら、昭和50年(1970年代半ば)頃には、インターネットなどはありませんし、雑誌やレコードの解説、各種の映画に関連した著作本、テレビでの映画紹介などが情報源でした。
 アラン・ドロンと同世代の父親が何か彼の作品をリアル・タイムで観ているのではないかと思っていましたし、雑誌や本などの情報とは異なるその映画公開のときのリアルな感覚を少しでも父親から引き出したかったのだと思います。

>父親
確か・・・ジャン・ギャバンとのコンビものだ。『ギャ~ァ~ング!』・・・。
>トム(Tom5k)
はっ、なに?「ギャング」???
>父親
なんか、そんなやつだ。あいつの映画、似たようなヤクザものばっかりだから。確か母さんと一緒に行ったな。
母さん、途中で寝ちゃってよ。あれ?『スリ』だっけなあ?
いやっ!あれは観に行った!『やまねこ』・・・フランソワーズ・アルヌールがきれいだったなあ。

 『ギャング』(1966年)は、ジャン・ピエール・メルヴィル監督、『スリ』(1959年)は、ロベール・ブレッソン監督の作品で、どちらにもアラン・ドロンは出演していません。『友よ静かに死ね』の原題も『Le Gang』ですが、この時点では、ロジェ・ボルニッシュの原作本はフランスでもまだ出版されていません。
 そして、フランソワーズ・アルヌールが出演しているのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1960年)ではなく、アンリ・ドコアン監督の『女猫』(1958年)です。もちろん、アラン・ドロンは出演していません。

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 自分で記事を掲載して無責任かもしれませんが、既に説明することがもう面倒くさくなってきています。

 私は1964年3月生まれです。この時代は、母親が子供をどこかに預けてまで旦那と映画を観に行くような呑気な時代でもなかったと思いますから、1967年日本公開の『ギャング』は行ってはいないと思いますし、この地方都市では公開されていたかどうかも疑わしい・・・たぶん、ジャン・ギャバンの名前が出ているので、1963年8月日本公開の『地下室のメロディー』を観に行ったのだと思います。それも本当かどうかはわかりませんが・・・。

 後日、母親に聞いたところ、『道』(1957年日本公開)、『刑事』(1960年日本公開)は、父親と行ったそうですが、『地下室のメロディー』は観ているが、テレビで観たのか、映画館で観たのかは、憶えていないとのことでした。

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>母親
『刑事』だけどね。いつの間にかね。後ろ側からカバン盗ってね、あんた!それから新聞紙、脇にはさめてさ、その人ね、全然、盗まれたことに気がつかないの。いやあ、すごかったわあ・・・だけど、アラン・ドロン出てたかい?
(おふくろ、それね『スリ』だよ。ドロン?出てねぇし・・・。)
(※『スリ』は1960年日本公開)
>母親
歌も流行ったんだよ。「アモーレ、アモーレ、アモ~レミ~オ~」
(いやあ、歌わなくていいから・・・まあ、その歌、確かに『スリ』でなくて、『刑事』の『死ぬほど愛して』だわ・・・。)

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 なんか、だんだん、どうでもよくなってきたんですが・・・
 ようするに、父親の言っていた『ギャング』というアラン・ドロンの作品は、

ジャン・ギャバンと共演した 『地下室のメロディー』 や 『シシリアン』
失敗作であったかもしれませんが、彼のその後のキャリアにおいて重要な作品となったアメリカ映画 『泥棒を消せ』
フランス映画の復帰後の人気を「フレンチ・フィルム・ノワール」作品によって確実にできた 『さらば友よ』
アデル・プロダクション設立初めての作品 『ジェフ』
ライバル、ジャン・ポール・ベルモンドとの互角の共演作品 『ボルサリーノ』
ジャン・ピエール・メルヴィル監督の「フレンチ・フィルム・ノワール」代表作品 『仁義』

 これらの作品を一本にまとめた「アラン・ドロン」主演作品だったのだと思います。あながち間違ってもいないアラン・ドロンの幻の作品 『ギャング』・・・

 このギャングのイメージで、アラン・ドロンが映画大国アメリカに渡って果敢にチャレンジして撮った『泥棒を消せ』が、ジャン・ギャバンと共演した『地下室のメロディー』とともに、彼のその後の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の原型のひとつとなったことは間違いの無いことだと思います。


>ギャング役は好き?
>アラン・ドロン
ぼくが一ばん好きなのがギャング役ではない 観客が一ばん好きなのがギャング役なのだと思う(略-)」
【アラン・ドロン 孤独と背徳のバラード 芳賀書店(1972年)】
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# by Tom5k | 2016-12-31 00:05 | 泥棒を消せ(2) | Trackback | Comments(0)

『泥棒を消せ』②~アメリカ映画での「ギャング映画」を優先した「アラン・ドロン」①~

>『ギャング』の成功のあと、なぜ『サムライ』という新規の、しかもリスクのある企画に乗りだされたのですか?
>メルヴィル
 ドロンに連絡をとって、ルスー原作の『フルハウス』にでてくれないかと提案したんだ。ドヴィルがそれを撮る前にね。するとドロンは「IBMプレジデント」タイプライターで打ったまったく愚劣な手紙をよこしたのさ。それには、近々、アメリカ合衆国で一連のもっと重要な企画が控えているので、私の提案には興味が持てないと書かれていた。
 ところが、『ギャング』が当たると、今度は彼のほうから、私と一緒に映画が撮れたらうれしいと言ってきたので、私はルスーのその本を彼に送ったんだ。『ラッキー・ジョー』のタイトルで既に映画化されたことを知らせずに、「三年前、君が断ったものを撮ろう」と彼に言ってね。
 原作を読んだあと、彼は承諾したよ。だが、映画化権を取り直すことができなかったので、私はドロンに『影の軍隊』のジェルビエ役を提案した。しかし彼はその役を断り、他のシナリオで私の関心を引くものはないかどうか尋ねたんだ。
 一九六三年に、国際舞台での活動に打ち込むつもりだと知らされる前、私は彼に当ててオリジナル脚本を一本書いていたので、そのことを彼に告げた。すると直ちに、彼は私にそれを読んで聞かせるよう要望したよ。(略-)
【引用:『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年】

 なお、ルイ・ノゲイラ著『サムライ-ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』での注釈では、「IBMプレジデント」ではなく、「エグゼクティヴ」のタイプライターだそうです。
 それから、『ラッキー・ジョー』(1964年)は、『いぬ』の原作者ピエール・ルスーによる著作であり、ミシェル・ドヴィル監督、ピーター・チェイニー原作のノワール小説のシリーズや『アルファヴィル』で、私立探偵レミー・コーションを演じたエディ・コンスタンティーヌ、『愛人関係』に出演していたピエール・ブラッスール主演で映画化されました。

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 「一九六三年に、国際舞台での活動に打ち込むつもりだと知らされる前、私は彼に当ててオリジナル脚本」とは、もちろん、アラン・ドロンの代表作となる「フレンチ・フィルム・ノワール」の映画史的傑作である『サムライ』(1967年)のことです。

 『影の軍隊』(1969年)は、ジャン・ピエール・メルヴィル監督にとっては、自らのライフ・ワークとしていたほど想い入れの強い作品でした。
 驚かされたことは、アラン・ドロンが、その『影の軍隊』の主人公ジェルビエを演じる可能性があったこと、それをアラン・ドロンに断られたために、1967年に『サムライ』をそれより優先して制作している、つまり『サムライ』の制作は1969年に『影の軍隊』を制作する2年前ですから、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が自分の大切なライフ・ワークに取り組むことよりも、アラン・ドロンを自分の作品に出演させることを優先していたことです。

>メルヴィル
 一九四三年にロンドンで『影の軍隊』を見つけたんだ。そしてそれ以来、ずっと映画化したいと思っていた。一九六八年、その昔からの夢をついに実現させるつもりだとケッセルに言った時、彼は二十五年間もそれほど粘り強くひとつのアイディアを追求するなどということがあり得るとは思っていなかったね。
【引用:『サムライ ジャン・ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳、晶文社、2003年】

サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生

ルイ ノゲイラ Rui Nogueira 井上 真希晶文社



 いずれにしても、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の『フルハウス』の企画を1963年に断っているアラン・ドロンにとっての「・・・アメリカ合衆国で一連のもっと重要な企画・・・」とはどのような企画だったのかを考えるには、アメリカ映画において、1940年代に隆盛を極めた「フィルム・ノワール」の体系が、その後どのような変遷を辿っていったかをある程度知っておくことが必要です。

 まず、1950年代の「フィルム・ノワール」のひとつの傾向に、「悪徳警官」を扱う作品が増えたことが挙げられます。ロイ・ローランド監督、ロバート・テイラー、ジョージ・ラフト、ジャネット・リー、ヴィンセント・エドワーズ出演『悪徳警官』、リチャード・クワイン監督、フレッド・マクマレイ、キム・ノヴァク出演『殺人者はバッヂをつけていた』(いずれも1954年)、オーソン・ウェルズ監督、オーソン・ウェルズ、チャールトン・ヘストン出演『黒い罠』(1958年)などがその代表作品です。

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 1950年代のアメリカ社会は、テレビの普及・定着によって、テレビ・ドラマが番組として量産されていく時代を迎えます。逆に、ハリウッドでの映画製作はテレビが提供できないアダルト・テーマを主軸にする作品を増やしていきます。
 それは、映画の都ハリウッドの内幕を露わにしながら、サイレント映画時代のスター女優の狂気を描写したビリー・ワイルダー監督、グロリア・スワンソン、ウィリアム・ホールデン主演『サンセット大通り』(1950年)、労働組合と暴力組織の癒着をテーマにしたエリア・カザン監督、マーロン・ブランド主演『波止場』(1954年)などの作品でテーマとなっていました。

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 なお、1960年代になって、イギリス映画『007は殺しの番号(007/ドクター・ノオ)』(1962年)の影響からテレビ映画作品での『0011ナポレオン・ソロ』、『スパイ大作戦』やアクション・スパイ・コメディの『電撃フリント』なども含めて、スパイ映画のブームが到来します。
 後年、ここからスティーブ・マックイーンやクリント・イーストウッドの活躍する「アクション映画」、特に、ポリス・アクションを主体にする傾向がアメリカ映画での主要なポジションに位置づいていくようになっていきます。

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 これらと平行して、現金や宝石の強奪をストーリー・プロットとして扱った作品も盛んに量産されていました。
 ジャン・ピエール・メルヴィル監督も絶賛していたジョン・ヒューストン監督、マリリン・モンロー出演『アスファルト・ジャングル』(1950年)、スタンリー・キューブリック監督のハリウッド映画第一作目の『現金に体を張れ』(1956年)、1970年代に全盛期を迎える「ブラックス・エクスプロイテーション・フィルム」の原点とも言える作品、ハリー・べラフォンテ主演の『拳銃の報酬』(1959年)、ルイス・マイルストン監督、フランク・シナトラ、ディーン・マーティン、ピーター・ローフォード、サミー・デイヴィス・Jr、ジョーイ・ビショップ、シャーリー・マクレーンなど、シナトラ一家総出演の『オーシャンと十一人の仲間』(1960年)などがあります。やはり、シナトラ一家はイタリア系移民が多いようですが、黒人歌手のサミー・デイヴィス・Jrもその一員でした。
 また、ジャン・ピエール・メルヴィル監督も、1955年、現金強奪のテーマでの作品『賭博師ボブ』を既に制作していました。

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 これらの映画の作風から考えたとき、1950年代から1960年代初期のアメリカ映画は、公民権運動、ベトナム戦争への批判などからヒッピーなど若者の既成価値観への抵抗などの影響を受けていくようになり、『俺たちに明日はない』(1967年)から始まっていった「アメリカン・ニューシネマ」の到来が予感できる時代として振り返ることができると私は思っています。

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 この時代には、『手錠のままの脱獄』(1958年)で、手錠に繋がれたトニ・カーチス演ずる白人とともに脱走する逃亡犯を演じたシドニー・ポワチエは、前述したハリー・ベラフォンテ、サミー・デイヴィス・Jrとともに主役級の立場で正当な評価を受けるようになっていきました。
 このことは、映画の制作自体が社会的課題を改善していった結果として注目すべきことですし、それが「アメリカン・ニューシネマ」の時代になって、『夜の大捜査線』シリーズ(1967年~)を皮切りに、『黒いジャガー』(1971年)、『スーパーフライ』(1972年)などを代表にした黒人パワーが全開する「ブラックス・エクスプロイテーション・フィルム」が隆盛を極めていくことになるわけです。

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【参考 アメリカ映画100年帝国 なぜアメリカ映画が世界を席巻したのか? 北島明弘著 近代映画社(SCREEN新書) 2008年】

アメリカ映画100年帝国―なぜアメリカ映画が世界を席巻したのか? (SCREEN新書)

北島 明弘 / 近代映画社



 1950年代以降、1960年代後期のこのようなアメリカ映画の変遷を振り返ると、1940年代の「フィルム・ノワール」は、1960年代後期から1970年代にかけて低予算の社会派の作品にアクションを取り入れていく「ニューシネマ」の傾向に総括されていったように感じられるのです。

 『泥棒を消せ』は1964年の作品です。まさにテーマもこれらの例から漏れることなく、他国からの移民の問題、犯罪者の更生などの社会問題に、宝石強奪などのアクションをプロットに取り入れた構成になっています。

 ここで、アラン・ドロンが演じる主人公エディ・ペダック、ジャック・パランスが演じたエディの兄ウォルターは、イタリア共和国北東部にあるトリエステ出身のアメリカ合衆国への移民です。
 主人公エディは、過去の犯罪経歴から執拗に警察に付きまとわれ失業を繰り返します。
 あてにしていた失業保険の給付金でさえ、受給要件を満たしていないからと給付されませんでした。愛する妻クリスティーヌはエディに隠してナイトクラブでホステスをすることを決心します。そのことを知ったエディは、とうとうその生活環境に耐えきれなくなり、兄ウォルターの計画した宝飾プラチナ強盗に着手することになってしまうのです。
 妻クリスティーヌには、犯罪に手を染めた夫を、到底、理解することはできませんし、強盗仲間の裏切りで一人娘のカティが誘拐されてしまったことから動揺し、その結果、夫への気持ちも離れてしまう展開になってしまいます。


【<『泥棒を消せ』②~アメリカ映画での「ギャング映画」を優先した「アラン・ドロン」②~>に続く】
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# by Tom5k | 2016-12-30 23:57 | 泥棒を消せ(2) | Trackback | Comments(0)