『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-①~

 アラン・ドロンは、最近(本年5月7日付けで)、パトリス・ルコント監督の作品(2018年公開予定)への映画と舞台作品にそれぞれ出演してから引退する意向を公的に発表しました。

 そんな折、アラン・ドロンの生涯の盟友でありライバルであったジャン・ポール・ベルモンドとの共演作品『黙って抱いて』(1957年)が、いよいよDVD化され、8月に発売されたので、早速購入しました。アラン・ドロンのデビュー作品『Quandla Femme s'en Mele』(1957年)を監督したイヴ・アレグレの兄マルク・アレグレが監督です。残念ながら、主演はアランとジャン・ポールではなく、ミレーヌ・ドモンジョ、アンリ・ヴィダル主演の作品ですが、私としてはアラン・ドロンが出演している作品であるにも関わらず、未見の作品でしたから今回、記念すべき初観賞となりました。

 アランは、デビュー作品『Quandla Femme s'en Mele』に引き続き2本目の映画出演、ジャン・ポールも端役数本に映画出演した後この作品に出演しました。アランもジャン・ポールも20代前半です。予想していたよりは二人とも出番が多くて驚きましたし、何より、二人とも本当に初々しく、作品中の活躍ぶりには眩しいくらいの存在感がありました。
 それにしても、1957年に製作された『Quand la Femme s'en Mele』や『黙って抱いて』は、もう60年も前の作品になるんですね。本当に感慨深いものがあります。

 さて、アランとジャン・ポール、この二人が『黙って抱いて』に出演した後の1960年代、その活躍ぶりには本当に凄まじいものがあります。少なくても1970年代中盤まではスターとしての全盛期を国際的に担っていたのではないでしょうか。更に、1970年代後半にジェラール・ドパルデューが出現するまでは、ヨーロッパの映画体系をこの二人で食い尽くしてしまったようにまで思います。

 そして、私がこの二人の存在を凄いと感じるのは、単に映画スターとして人気があったのみならず、全く異なる映画体系においての各々の映画史的な活躍ぶりなのです。

 まずは、ジャン・ポールなのですが、彼は『黙って抱いて』に出演した後、マルセル・カルネ監督の『危険な曲がり角』(1958年)に端役で出演した後、「ヌーヴェル・ヴァーグ」気鋭の映画作家となっていったジャン・リュック・ゴダール監督の『シャルロットと彼女のジュール』(1958年)、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』(1959年)で本格的な映画出演を果たします。いよいよ、世界の映画潮流を変革していった「ヌーヴェル・ヴァーグ」に邂逅したのです。
 そして、1959年、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』により、とうとう映画史上に名前を残す大スターとなりました。

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 なお、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』には、当初、ジャン・クロード・ブリアリが出演する予定であったようなのですが、彼が脊椎カリエスを患っていて代役が見つからずにいたときに、クロード・シャブロル監督がプロデューサーのアキム兄弟に「まだ無名のひとりの若い俳優」を思いきって起用したいと提案しました。それがジャン・ポール・ベルモンドだったのです。

 ジャン・ポールが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の大スターになったきっかけは、もちろん、『勝手にしやがれ』への出演によるものでしたが、初めはジャン・リュック・ゴダール監督のほうから映画出演のアプローチをしていったようです。

【(-略)たまたまサンジェルマン・デ・プレで俺はゴダールと知り合った。もっとも、カフェ・ド・フロールのテラスで黒いサングラスの男に、俺のうちに来ていっしょに映画を撮らないか、と声をかけてきたときには、こいつはホモだと思ったもんだよ。その前に『黙って抱いて』で共演した女優のアンヌ・コレットから、あんたと知り合いになりたがっている男の子がいるわよって言われて、チラッと紹介されたことがあったんだが、うさんくさい男だと思った。いつも無精ひげでサンジェルマン・デ・プレをうろつきまわって、俺のことをジロジロながめていたヤツだった。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (ちくま文庫)(1992年)

山田 宏一 / 筑摩書房



 当初のこのようなジャン・リュック・ゴダールへの悪印象はともあれ、ジャン・ポールは『勝手にしやがれ』の主役に抜擢されました。もちろん、ジャン・ポール自身が「生涯の一本」と述懐している『気狂いピエロ』(1965年)はもちろん、初期のゴダール作品である『シャルロットと彼女のジュール』、『女は女である』(1961年)もジャン・ポールが出演している作品です。
 なお、エリック・ロメール監督が1950~51年に制作した短編映画作品で、その後ジャン・リュック・ゴダール監督が続編として制作していった『シャルロット』シリーズでシャルロットを演じたのが、『黙って抱いて』で、彼の恋人役で共演していたアンヌ・コレットでした。このことにも不思議な因縁めいたものを感じてしまいます。

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【(-略)彼は本当に長編映画を撮ることになり、約束どおり俺を主役に起用してくれたんだ。それが『勝手にしやがれ』だったわけだけれども、俺は感激した。当時、俺みたいなかけだしの俳優にこんなすばらしいチャンスをあたえてくれる監督はほかにいなかっただろうからね。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 また、カイエ・デュ・シネマ誌で最も先鋭的で、いわゆる※フランス映画の良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」への攻撃的な映画批評を常時発表し続け、後に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表的映画作家となるフランソワ・トリュフォーは『勝手にしやがれ』の制作中、ジャン・ポール・ベルモンドについて、次のような印象を持っていたそうです。(※フランソワ・トリュフォーの皮肉った「シネマ・ドゥ・パパ」の映画作品)

【トリュフォーは『勝手にしやがれ』の撮影現場をのぞいたり、ラッシュ試写を見に行ったりしたが、なんだか「すべてがうまくいっていないような」印象をうけた-「ジーン・セバーグは全然ゴダールを信用しておらず、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールも、ゴダールのやりかたがさっぱりわからん、と言った。ただ、ジャン・ポール・ベルモンドだけがゴダールを信頼していた。彼だけがゴダールのやりかたを理解していた」 トリュフォーは『勝手にしやがれ』のベルモンドを見た瞬間に、「間違いなく彼こそフランス映画の最も優れた俳優になるだろう」と確信した。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 ジャン・ポールにしても、『勝手にしやがれ』を撮影したときの印象を次のように振り返っています。

【これまでいっしょに仕事をした監督のなかでは、文句なしに、ゴダールといちばん気が合った。ふだんはそんなにつきあっているわけじゃないんだが、撮影に入ったとたんに、ピッタリと呼吸があうんだ。『勝手にしやがれ』は俺にとって最初の映画的冒険だった。それまで俺が出た映画といえば『危険な曲がり角』や『黙って抱いて』とか、ほんのチョイ役ばかりだった。俺は映画というものを知らなかったんだ。あたりまえの、古くさい映画の見かたをしていた。そんなときに、突然、すばらしい自由を発見したんだ。その後も、あれほどすばらしい自由な撮影をしたことはない。『勝手にしやがれ』は全篇隠しキャメラで撮影された。録音機もなし、なにもなしだ。俺たちはブールヴァール・デ・ジタリアンにいた。キャメラマンのラウール・クタールは小さな郵便車のなかに隠れて、小さな穴から撮影していた。すばらしかったね。これこそ、ほんとうのシネマ・ヴェリテだった。(略-)】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 このようにして、ジャン・ポールは、盟友であり、ライバルであったアラン・ドロンとは全く異なる最先鋭の映画芸術「ヌーヴェル・ヴァーグ」の騎手として国民的かつ世界的な大スターとなっていったのでした。

 一方、アラン・ドロンのこれから歩んでいく映画体系は、ジャン・ポールとは全く逆のベクトルに向いていたことは周知の事実です。アラン・ドロンは、盟友、そしてライバルとなるジャン・ポール・ベルモンドが脚光を浴びていく、新しい映画芸術の潮流であった「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」作品とは、全く異なる在り方で国際スターとしての地位を確立していきました。

【>アラン・ドロン(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 ただ、この時期に旧世代のフランス映画の良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」、いわゆるシネマ・ドゥ・パパは、どのように変わって存在していったのか?ここに焦点を当てなければ、アラン・ドロンの原点は理解できないと私は考えているのです。


【ヌーヴェル・ヴァーグは、「シネマ・ド・パパ」とトリュフォーが呼んだ古いフランス映画に対するたたかいでもあったが、『勝手にしやがれ』の無手勝流のスタイルは、ヌーヴェル・ヴァーグの敵陣ある「シネマ・ド・パパ」に対して決定的な打撃をあたえることになった。マルセル・カルネは『広場』で(もっとも、カルネは『勝手にしやがれ』のまえに『危険な曲がり角』を撮ってフランスの「青春群像」を描いていたが)、ルネ・クレマンはポール・ジェコーフの脚本とアンリ・ドカエのキャメラによる『太陽がいっぱい』で、ジュリアン・デュヴィヴィエはジャン・ピエール・レオー主演の『並木道』で、アンリ・ドコワンは『やさしく激しく』で、それぞれ、「無軌道な若者の行動を描いた」彼らの『勝手にしやがれ』を作ってヌーヴェル・ヴァーグのスタイルを気取ってみせたのだった。】

【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

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 そうなのです!現在においてさえ、アラン・ドロンの出演した代表作品『太陽がいっぱい』(1959年)の映画史的評価では、この程度の総括しかされていないのです。

所詮、『太陽がいっぱい』は、

【彼ら(シネマ・ドゥ・パパ)の『勝手にしやがれ』】
であり、

【ヌーヴェル・ヴァーグのスタイルを気取ってみせた】
だけの作品だと言うのです。

 ですから、私はくやしくて、くやしくて、その「アンチ・ヌーヴェル・ヴァーグ」の視点からこのブログ【時代の情景】を立ち上げ(それだけのためでもありませんけれど)、延々と
<「詩(心理)的レアリスム」(シネマ・ドゥ・パパ)作品=フランスにおけるアラン・ドロン関連作品>
を擁護する記事をアップし続けているわけです。もう12年にもなりましょうか・・・!

 さて、話は少し逸れてしまいましたが、フランス映画の革新・刷新の時代に、アラン・ドロンがシネマ・ドゥ・パパの作品に入っていく前、まずは国際的なアイドル女優たちとの共演路線で売り出していく時期があります。

【<『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-②~>に続く】
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# by Tom5k | 2017-09-07 23:31 | 黙って抱いて | Trackback | Comments(0)

『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカ映画への野心② ~

【<『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカ映画への野心① ~>から続く】

 『面の皮をはげ』でのジャン・ギャバンには、過去にジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネが演出した逃亡する脱走兵や前科者など、逃亡者の典型的なキャラクターからの脱皮が試みられています。
 犯罪者である過去があり、それをひた隠しにしている主人公の設定までは同様なのですが、彼は現在でもギャング組織のボスとして君臨し、キャバレー、カジノ、映画館の経営者など、実業家としての地位を築くことにも成功しています。更に、資産家の妻を持ち、過去に決別した仲間の息子を引き取り弁護士として立派に育てあげています。
 彼がこのような分裂した人格の主人公を演じていることは珍しいのではないでしょうか?

 しかし、敵方のギャングとの抗争がメディアの恰好の的となって、隠していた自分の過去が世間に明るみになり、これが原因となって、現在の地位・名誉に加え、大切な家族すら失い、そして、最期には警察の銃弾を受け非業の死を迎えてしまうのです。

 ここでのジャン・ギャバンは、世間から身を隠している犯罪者ではあるものの、過去の作品の逃亡者とは異なり、第二全盛期を迎える『現金に手を出すな』以降の「フレンチ・フィルム・ノワール」で演じ続けたギャング組織のボスの貫禄を十分に備えることに成功しています。

 彼は、自分自身の戦前・戦後の各全盛期の橋渡しをするとともに、犯罪者と実業家の二面性を持った主人公のキャラクターを演じたことをもって、戦後世代のアラン・ドロンへの映画史的バトン・タッチのきっかけとなる非常に重要な作品を生み出したように思います。
 この主人公の設定及びそのプロットは、ジョゼ・ジョヴァンニ監督の『ブーメランのように』(1976年)に、あまりにも似通っているような気がします。ジョゼ・ジョヴァンニは、この作品からかなり大きな影響を受けているのではないでしょうか?

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 そして、1953年の『現金に手を出すな』から、1962年の『地下室のメロディー』までの10年間にジャン・ギャバンは、多くの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品、例えば、『その顔をかせ』(1954年)、『筋金を入れろ』(同年)、『赤い灯をつけるな』(1957年)、『Le cave se rebiffe(親分は反抗する)』(1961年)などでギャング組織のボスを演じ続け、そのキャラクターは大スターの風格とともに定着していきました。

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【>当時の作品を何本か再見したんですね、そこで『地下室のメロディー』の話をしたいのですが、ギャバンと共演しています。彼はあなたの共演者であり、同時に師匠でもあった:役者と演じる人物の間である種伝わるものを感じます。
>『地下室のメロディー』の頃は、ギャバンは元気一杯だったよ。彼は常にボスで素晴らしい役者だった。彼とは共通点があった。彼同様、私も昔軍人で、船員だったんだ。私同様、ギャバンは最初は役者じゃなかった。ミュージック・ホールやカフェ・コンセール以外は、同じ道を歩んで来てた。ギャバンはフォリー・ベルジェールの階段を(キャバレー)でミスタンゲットの後ろで降りていた、するとある日役者をやってみないかと勧められた。ちょっと修理工をしてたアラン・ラッドやサーカス出身のランカスターみたいなものだね。これが正に役者ってものだ。】
【引用 takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事  2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2」(インタヴュー和訳)」カイエ・ドュ・シネマ501号掲載

 このような「フレンチ・フィルム・ノワール」の大スター、ジャン・ギャバンと共演したことによって、「アラン・ドロン」キャラクターの基礎工事が実践され、『地下室のメロディー』が、彼の将来への飛躍のための作品になったのだと考えることができます。


 そして、アラン・ドロンは、この後、戦前のフランス映画の黄金時代を体系づけていた「詩(心理)的レアリスム」、その第二世代の代表であったクリスチャン・ジャック監督の「剣戟映画」の体系にある『黒いチューリップ』(1963年)に主演します。

 フランスにおける「剣戟映画」の全盛期は1950年代から1960年代初頭でしたが、ジェラール・フィリップ主演、クリスチャン・ジャック監督『花咲ける騎士道』(1952年)、ジョルジュ・マルシャル主演、アンドレ・ユヌベル監督『三銃士』(1953年)などから、

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ジャン・マレーの時代にその全盛期を担っていきます。ジョルジュ・ランパン監督『城が落ちない』(1957年)、アンドレ・ユヌベル監督『城塞の決闘』(1959年)、『快傑キャピタン』(1960年)、ピエール・ガスパール=ユイ監督『キャプテン・フラカスの華麗な冒険』(1961年)、アンリ・ドコワン監督『鉄仮面』(1962年)などがありました。

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 しかし、その後の「剣戟映画」が、映画史的な意味での位置づけにさして重要なポジションを占めることができなかった結果を鑑みれば、当時からこの映画体系に映画ファンの安定した需要があったものとも思えません。目先の効くアラン・ドロンには、そんなことを敏感に感じ取ることができていたのかもしれません。

 また、1962年に製作を開始したクリスチャン・ジャック監督、アンソニー・クイン共演の「冒険活劇」の超大作『マルコ・ポーロ』の企画も、ドニス・ド・ラ・パテリエール監督、ホルスト・ブッフホルツ主演に交代してしまいました。
 この作品の製作者は、ブリジット・バルドー主演『素直な悪女』(1956年)を初め、ロジェ・ヴァデム監督の作品やマルグリット・デュラス原作、ピーター・ブルック監督の『雨のしのび逢い』などをプロデュースしたラウール・レヴィでしたが、彼はアメリカ・ナイズされた「ヌーヴェル・ヴァーグ」のプローデューサーとして活躍していた人物でした。

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 当時のアラン・ドロンは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派に批判されていた映画作家だったクリスチャン・ジャックとともに、『太陽がいっぱい』で、ルネ・クレマン監督がポール・ジェコブの脚本やアンリ・ドカエのカメラ、共演のモーリス・ロネを取り込んだように、ラウール・レヴィの作品に出演することによって新時代を席巻していた「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品に対する勝算にも野心を持っていたのかもしれません。

 アラン・ドロンは、このような実績を持つラウール・レヴィとの企画を果たすことができず、大きなショックを受けたのではないでしょうか?

 彼が、「剣戟」や「冒険活劇」の映画スターとして活路を見出せなかったことは、やむを得ないことだったかもしれません?

 また、『危険がいっぱい』(1963年)で、三本目となるルネ・クレマン監督も同じく旧世代の映画作家でしたし、ルイ・マルの助監督として育成された若手のアラン・カヴァリエ監督による『さすらいの狼』(1964年)も戦前の「詩(心理)的リアリスム」の作風による作品でした。この公開に関わっても、アルジェリア問題による検閲等が厳しく財政的な大きな痛手もこうむってしまいます。

 ここでもう一度この時期の作品の中で、ハリウッドでも通用する要素を持ち、「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品に勝算を持つ企画を再考したとき、やはり、ジャン・ギャバンと共演した『地下室のメロディー』が浮かび上がってくるのです。
 この作品は、カラーバージョンがアメリカ公開用として制作され評価も高く世界中で大ヒットしまた。
 それもそのはず、1950年代以降のアメリカ映画では、現金や宝石の強奪をストーリー・プロットとして扱った作品が盛んに量産されていました。
 ジョン・ヒューストン監督、マリリン・モンロー出演『アスファルト・ジャングル』(1950年)から始まり、スタンリー・キューブリック監督『現金に体を張れ』(1956年)、ハリー・べラフォンテ主演『拳銃の報酬』(1959年)、ルイス・マイルストン監督、フランク・シナトラ一家総出演『オーシャンと十一人の仲間』(1960年)などが有名です。

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 アラン・ドロンが当時の現状を打破するために、『地下室のメロディー』を跳躍台にして、アメリカ映画への野心を現実的なものにしようと考えたことも無理はありません。まして、『地下室のメロディー』は、初めて彼が世界市場(ロシア、ブラジル、日本)への配給権を取得した作品でした。

【>当時、神話は全てアメリカからやって来ていた。
>その通り。僕らにはバルドーしかいなかった。あちらさんにはエヴァ・ガードナー、リタ・ヘイワース、それからマリリン・モンローが少し遅れてやって来た・・・そう、スターたちは大西洋の向こう側だった。】
【引用 takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事  2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2」(インタヴュー和訳)」カイエ・ドュ・シネマ501号掲載

 残念ながら、アラン・ドロンのアメリカでの人気は、結果的に芳しいものにはならず、キャリアのうえで充分な成功を収めることは出来ませんでしたが、後年のジョゼ・ジョヴァンニ監督との三部作の原点とも考えられる作風の『泥棒を消せ』(1964年)に主演することができました。

 いずれにしても、アラン・ドロンが代表作『サムライ』以降の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品での人気全盛期を迎える序章として大きな影響力を持った作品が、次の四作品だったと思います。
 ・ 彼の銀幕デビュー作品、『Quand la Femme s'en Mele』
 ・ ジャン・ギャバンとの共演作品、『地下室のメロディー』
 ・ 念願だった自社プロダクションによる製作作品、『さすらいの狼』
 ・ アメリカでの野心作、『泥棒を消せ』

 そして、この中でも、最も成功し未来への展望を持てた作品が『地下室のメロディー』だったわけです。

 『地下室のメロディー』では、ジャン・ギャバン演ずるシャルルの妻ジネット(ヴィヴィアンヌ・ロマンス)やアラン・ドロンが演ずるフランシスの恋人ブリジット(カルラ・マルリエ)などの女性は重要な登場人物としておらず、また、カジノの現金強奪は、シャルルとフランシス、その兄モーリス・ビローが扮するルイが協力し合って計画し実行しますが、ルイが現金強盗に嫌気が差し現金強奪後は彼らの元から離れていきます。
 これらの人物構成のプロットは、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の伝統的特徴である「男同士の友情と裏切り」が緩和され、「男同士の協力と離反」となっていますが、この体系を充分に準用した設定だったと思います。
 加えて、シャルルとフランシスが落ち合うビリヤード場、カジノの夜の情景、ナイトクラブ、ダンスホールの舞台裏、エレベーター昇降路・送風ダクト内・車のヘッドライト、煙草・酒・鏡・サングラスなど、オリジナル・バージョンではモノクロームを基調として光と影のコントラストで描写した舞台や小道具も、この作品のノワール的特徴でした。

 ここでのジャン・ギャバンとの邂逅からは、『シシリアン』(1969年)、『暗黒街のふたり』(1973年)が生み出され大きなヒットを記録していくことになりますし、1967年の『サムライ』以降の多くの「フレンチ・フィルム・ノワール」作品、例えばジャン・ピエール・メルヴィル、ジョゼ・ジョヴァンニやジャック・ドレーが演出した作品など、いわゆる多くの「アラン・ドロン」キャラクターへの確立には、上記四作品への主演の経験が大きかったでしょうし、取り分け、この『地下室のメロディー』でのジャン・ギャバンとの共演が不可欠であったと私は考えています。

【(-略)全く異質な人間が、ある一作の中で、すれちがった。栄光のバトンを手渡し、ひとりはそのバトンをもって、夢中でかけ出す。明日という日へ向って-。】
【スクリーン1963年11月号「ギャバン対ドロン」秦早穂子】
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# by Tom5k | 2017-01-14 17:39 | 地下室のメロディー(5) | Trackback | Comments(0)

『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカ映画への野心① ~

 アラン・ドロンの初期の主演作品『お嬢さん、お手やわらかに!』(1958年)、『学生たちの道』(1959年)は、明らかにアイドル映画のジャンルにある作品でしたから、この段階では、まだ、いわゆる「アラン・ドロン」キャラクターは、ほとんど確立されていません。そして、監督を務めたのは両作品ともミッシェル・ボワロンでした。
 彼は、その後、ルネ・クレマンやルキノ・ヴィスコンティなど、巨匠たちの作品に主演した後、ミッシェル・ボワロン監督の三作品目、『素晴らしき恋人たち 第4話「アニュス」』(1961年)に主演します。ロジェ・ヴァデム監督に見出され脚光を浴びていたブリジット・バルドーと共演した若い恋人同士の悲恋のコスチューム・プレイでしたが、やはり同監督の得意な前二作のジャンルの作品でした。

 ロミー・シュナイダーと婚約まで果たすことになった『恋ひとすじに』(1958年)は、西ドイツの作品であり、アラン・ドロンが国際的スターになるきっかけとなった作品でしたが、戦前のドイツで映画芸術の先端であった「ドイツ表現主義」の体系にあったマックス・オフュルス監督、マグダ・シュナイデル主演のオリジナル作品『恋愛三昧』のリメイクです。この作品は、アラン・ドロンが主演というよりも、、どちらかと言えば、『プリンセス・シシー』シリーズで人気絶頂期にあったマグダ・シュナイデルの愛娘、ロミー・シュナイダーが主演のアイドル映画でした。

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 彼がその持ち前の陰影の濃い犯罪者としての人物像を初めて演じた作品は、『太陽がいっぱい』(1959年)でしたが、この作品を監督したルネ・クレマンへの当時の批評は、新たに台頭していた「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸派の旧世代の伝統的作風への批判はもちろんあったでしょうし、それに加えて、『生きる歓び』(1961年)を含めた彼自身の力の限界を指摘されたものも存在していました。

【「クレマンが『太陽がいっぱい』で見せてくれたのは、地中海のすばらしい陽の光と、エレガントな色彩撮影と、見当ちがいのディテールと、ショッキングなラスト・シーンだった。」
 ロイ・アームズが、『海の壁』の後に作られた『太陽がいっぱい』(59)について、こんな批評をしている。
 『太陽がいっぱい』、その後の『生きる歓び』(61)とともに、押しよせる“ヌーヴェル・ヴァーグ”に対抗してクレマンが作ったスタイリッシュな作品であった。二本とも、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の作品から出てきたアンリ・ドカエに撮影をまかせたのだが、ドカエのカメラは、若い世代の心理をうつしとり得ず、ドラマの構造だけを美しく捉え得たにとどまった。クレマンは、現代の若い世代の心理を活写できるような作家ではなかったのである。彼は、巧みなストーリー・テラーとして、その後の作家活動を続けるようになった。】
【映画評論 1974年3月号(「ルネ・クレマン研究 クレマンの作品系譜をたどる」高沢瑛一)】

 更に、当時のイタリア社会に現れた社会問題をリアリズム描写で創出し続けた「ネオ・レアリズモ」の作品群も第二次世界大戦後から1950年代の隆盛から変遷をたどりながら、その全盛期を終焉させていきます。そこから様々な試行錯誤が行われていくのですが、その傾向はアラン・ドロンの国際的スターとしての出発点であったイタリア映画の『若者のすべて』(1960年)、『太陽はひとりぼっち』(1961年)、『山猫』(1962年)に顕著に現われています。

 そして、ミケランジェロ・アントニオーニについて、アラン・ドロンは次のように後述しています。
【>ブリエの現場は本当に素晴らしかったね。ロージー以来、私はブリエのような人を待っていたんだ。他の監督たちに侮蔑的に聞こえて欲しくはないけどね。でも私にはヴィスコンティ、クレマンがいて、アントニオーニは偶然だがね・・・】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18「回想するアラン・ドロン:その6」(インタヴュー和訳)」

 ミケランジェロ・アントニオーニは、それまでの映画制作での決まりごとを全て否定し、反ドラマ(反ストーリー)の構成により映画のテーマを提示する斬新な手法を取っていた映画作家でした。彼は自らの作品を「内的ネオ・レアリズモ」と定義づけ、映画史的にも「ネオ・リアリズモ」以降の流れを組む映画作家として体系づけられています。
 しかし残念なことに、彼との出会いを「偶然」としているアラン・ドロンのこのような発言には、当時の自身のキャリアを「内的ネオ・レアリズモ」に投入していこうとしていた意欲は感じられません。

 また、ルキノ・ヴィスコンティにおいては、彼自身の「ネオ・レアリズモ」作品の集大成として、アラン・ドロンを主演にした『若者のすべて』(1960年)を演出しました。この作品は1960年度ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞を受賞しましたが、イタリア国内の南北地域格差へのあまりにリアルな描写に、撮影中から公開後まで当局とのトラブルが絶えなかったそうです。特に、主人公ナディアへの暴行や刺殺のシークエンスは、公序良俗に反するといった理由から音声のみのシークエンスとして公開するようイタリア政府からの検閲を受けました。ちなみに、日本で公開されたときの上映時間も大幅に短縮された1時間58分でした。
 そして、第16回カンヌ国際映画祭グランプリ(パルム・ドール)を受賞した『山猫』は、彼のそのキャリアの新時代として、貴族社会の崩壊をリアリズムによって描いた新しい試みであったにも関わらず、その世界配給は20世紀フォックスによる40分に及ぶ短縮版を基軸としてしまいました。
 このようなことから、ルキノ・ヴィスコンティ監督による二本のアラン・ドロン主演作品は、公開当時には、その真価を世評に正確に反映させることが難しかったと考えられます。

 これらの事情を鑑みれば、アラン・ドロンが、その後のイタリア映画界で活躍していくためのモチベーションを高めることは難しかったと察することができます。

 次に、自国フランス映画での「アラン・ドロン」はどうだったでしょうか?
 彼は、ルネ・クレマン監督の演出作品の外に、1962年に戦前のフランス映画の黄金時代を体系付けていた「詩(心理)的レアリスム」の代表格だったジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒第6話「汝、父母をいやまうべし、汝、偽証するなかれ」』への出演を果たします。
 しかし、ジュリアン・デュヴィヴィエは、1950年代中盤から、フランソワ・トリュフォーを初めとした映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」によって、徹底的に批判されていった映画作家でもありました。

 1950年代終盤からの自国フランス映画界は、ロジェ・ヴァデム、ルイ・マル、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダール、エリック・ロメール、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ジャック・ドゥミなどの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちが席巻する時代を迎えていたのです。

【>アラン・ドロン
(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-)】 
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 1960年代の初め、若手の映画人気俳優として大反響を惹起していった新世代の国際スター「アラン・ドロン」には、このような状況もあったわけです。自国フランスのみならず、西ドイツやイタリアでの作品に主演し、国際的に人気の絶頂を迎えていたとは言え、アラン・ドロンに焦燥があったことは否めません。
 そして、そんな先行きの不安を想定し得る状況にあって、彼がようやく巡り会うことができた作品が、アンリ・ヴェルヌイユ監督の『地下室のメロディー』(1962年)だったのです。共演者は言わずもがな、「フレンチ・フィルム・ノワール」の大御所、ジャン・ギャバンです。

【 戦前から戦後を通して、フランス映画界でのナンバー・ワンはいつもジャン・ギャバンであった。今もである。水草稼業にもにて、人気のうつりかわりの激しい俳優世界で、これは稀有のことだといわなくちゃなるまい。もっともフランス人の性へきの中には、大変保守的なもの-伝統を愛するというか、古いものをなつかしむといった傾向があるからかもしれないが、大げさにいえばシネマがトーキーになってからはまずはジャン・ギャバンというのが、彼らの固定観念になってしまった。フランス映画の危機が叫ばれる昨今においても、ナンバー・ワンはギャバンである。ナンバー・ワンというより、別格なのである。(略-)】

【(-略)人間だれしも、お世辞にはよわいとみえて、いつも無愛想なギャバンが、いたれりつくせりのドロンの奉仕ぶりに、うん、仲々いいところのある青年だといったとか。ドロンのほしかったのは、正に、ギャバンのこのお墨附きだったのである。(略-)】
【スクリーン1963年11月号「ギャバン対ドロン」秦早穂子】

 『地下室のメロディー』が公開された1963年当時の日本の映画雑誌には、このようなジャン・ギャバンに対するアラン・ドロン評が掲載されていました。ファンとしては、あまり愉快な内容とは思いませんが、残念ながら的を得た評価であったかもしれません。

 ところで、ジャン・ギャバンが、どんなに別格の存在だったとしても、彼が映画俳優として若い頃から一貫して、それを維持し続けることができていたわけではありません。『現金に手を出すな』(1953年)により、戦後に第二全盛期を迎えるジャン・ギャバンに至るまでには、かなり長期間に渉ってのスランプの期間もあったのです。

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 これは、1941年にナチス・ドイツのフランス占領時によって彼が渡米した頃から始まったものだったと考えられますが、それを克服するまでには10年もの長い年数を要しました。これには、様々な要因があったと思いますが、私は主に次のことが大きかったと考えています。

◯ 40代という彼の年齢とそれまでの「ジャン・ギャバン」キャラクターとの間のギャップが大きくなってしまったこと。
 脱走兵や前科者が官憲に追い詰められ、最期に非業の死を迎える悲劇のヒーローとしてのスタイルによった行きずりの美しいロマンスは、40代の彼には既にそぐわないものになっていました。
 この傾向は、戦前からの名コンビ、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督との『逃亡者』(1943年)、当時の新進気鋭のルネ・クレマン監督との『鉄格子の彼方』(1948年)などの作品において顕著になっていました。

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◯ アメリカへの亡命時代、ハリウッドでの映画制作の手法が彼のキャリアとは合わなかったこと。
 『夜霧の港』(1942年)への出演ではアーチ・メイヨ監督とのトラブルが絶えず、当時、同様にアメリカに亡命していたドイツの名匠フリッツ・ラングが最後に演出に関わり、ようやく完成させた作品だったそうです。

◯ まだ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派の批判にさらされる前時代ではあったものの、戦前から彼の作品を最も多く演出していた「詩(心理)的リアリスム」世代のジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネには、全盛期と比較して既にその演出力に衰えが現れていたこと。
 『地の果てを行く』(1935年)、『望郷』(1936年)や『霧の波止場』(1938年)に愛着のあるファンにとって、亡命時代の『逃亡者』や帰仏後の『港のマリー』(1949年)は、時代の節目を感じてしまう作品だったと思います。

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◯ ジャン・ギャバンの盟友のひとりであり、フランス映画界においては、別格の映画作家であったジャン・ルノワールはアメリカで市民権を得たことによりハリウッドから帰仏しなかったこと、その後も、インドやイタリアで映画を制作していたこと。
 ようやくジャン・ギャバンと久しぶりに組んだ『フレンチ・カンカン』でのフランス映画界への復帰は1954年、戦後9年も経ていました。

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 ジャン・ギャバンが、ジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』(1953年)にたどり着くまでには、このような困難な時代が存在していました。

 それにしても、彼が後期の第二全盛期に至ることができたこの代表作品に、突然、唐突に巡り会ったとは、私には信じられません。スランプの時代を単なる不調期と考えることは短絡だと思いますし、むしろそういった時期だからこそ、次のステップへと飛躍するため、映画スターとして熟成していく過程で、その素晴らしい端緒が現れているはずだと考えます。つまり、「ダイヤモンドの原石」のような作品がどこかに埋もれているはずなのです。

 そのような意味で、私の関心を強く喚起する作品は、その4年前に製作されたレーモン・ラミ監督の『面の皮をはげ』(1949年)でした。私には、この作品が『現金に手を出すな』以降の仮想作品のように思え、ジャン・ギャバン第二全盛期の諸要素の多くが凝縮されているように感じられるのです。

【<『地下室のメロディー』⑤~「アラン・ドロン」の原型、ギャバンとの邂逅とアメリカ映画への野心② ~>に続く】
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# by Tom5k | 2017-01-14 17:27 | 地下室のメロディー(5) | Trackback | Comments(0)