『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-②~

【<『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-①~>から続く】

【>ミシェル・ボワロン監督の『お嬢さん、お手やわらかに!』を若い頃、見た記憶があります。
>アラン・ドロン
商業的には大ヒットした作品だ。この映画で顔を覚えてもらったんだね。ミレーヌ・ドモンジョと共演した。ブリジット・バルドー、ジャクリーヌ・ササールやパスカル・プティと共にもう一人のフランス映画のスターだった。それからピエール・ガスパール・ユイの『恋ひとすじに』に出た。『若者のすべて』に起用してもらう前、撮影現場にヴィスコンティが私を見に来たんだ。『お嬢さん、お手やわらかに!』を見たルネ・クレマンも私を覚えてくれた。全くもって凄い年月だった・・・】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/4 「回想するアラン・ドロン:その2(インタヴュー和訳)」


 自国フランスで当時のトップアイドルだった三人の女優パスカル・プティ、ジャクリーヌ・ササール、ミレーヌ・ドモンジョとの共演作品『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)、西ドイツの超人気アイドルであったロミー・シュナイダーとの共演作品『恋ひとすじに』(1958年)、国際的にもアイドルとして人気のあったフランソワーズ・アルヌールとの共演作品『学生たちの道』(1959年)、当時売り出し中のブリジット・バルドーとの共演作品『素晴らしき恋人たち(第4話「アニェス」)』(1961年)など・・・。
 その後、フランス国内においては、いわゆる「「ヌーヴェル・ヴァーグ」の敵陣」であったルネ・クレマン監督、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、クリスチャン・ジャック監督・・・そう!正に「シネマ・ドゥ・パパ」の作品群・・・『太陽がいっぱい』、『生きる歓び』(1961年)、『危険がいっぱい』(1963年)、『フランス式十戒』(1962年)、『黒いチューリップ』(1963年)への出演で脚光を浴びていくことになるのです。

 この時期の旧世代、フランス映画の良質の伝統・・・シネマ・ドゥ・パパ・・・「詩(心理)的レアリスム」の映画作家たちは、前述したように少なからず「ヌーヴェル・ヴァーグ」を意識した映画制作を行っていたわけですが、これは山田宏一氏のような侮蔑的な総括ではなく、逆にその手法が功を奏して、新しい「詩(心理)的レアリスム」の体系を再編し、高度化させていった各映画ジャンルにおける発展的時代だったとは考えられないでしょうか!?
 剣戟映画『黒いチューリップ』にしても、ジェラール・フィリップやジャン・マレエの時代の作品より、一段とスケールが大きくなったように思いますし、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『殺意の瞬間』(1956年)や『悪魔のようなあなた』(1967年)、ルネ・クレマンの『雨の訪問者』(1969年)『狼は天使の匂い』(1972年)などを観ても、多くの旧世代の映画作家たちのリアルでサスペンスフルな展開は、クールで現代的なノワールの源流を新たに作り出したように思うのです。これらのエンターテイメントは、決して「ヌーヴェル・ヴァーグ」には創り出せなかった映画潮流であると考えています。

 そんななか、『太陽がいっぱい』を撮影したルネ・クレマンは、監督としてのアラン・ドロンへの評価で「ありえないような行動を引き受ける集中力と理解力の才能があった」と絶賛しています。

【>当初、アラン・ドロンはグリーンリーフを演じるハズだったのですか?
>ルネ・クレマン(-略)ドロンはまだスターではなかったし、プロデューサーの気をひけるほどの仕事をした訳でもなかったんだ。グリーンリーフを誰が演じるかで騒いでいた時、ドロンのエージェントだったジョルジュ・ボームが私に連絡をして来たんだ。(訳注:英語版翻訳には、これはクレマンの記憶違いで、当時のエージェントはオルガ・オルスティグ)ミシェル・ボワロンの「お嬢さん、お手やわらかに!」を見に行った。ドロンは特別光っていたとも、目立ったとも思わなかったが、ある意味、関心を魅かれた何かがあった。ジョルジュ・ボームがアランを連れて私に会いに来たんだ。彼がアランとロネの役を交換するというアイデアを考えたんだ、二人の俳優に合わせてね。ロネがグリーンリーフで、ドロンがリプリーの方がいいと言うのが私たちにも明らかになったね。それからアランはどんどんリプリーになっていった、言われた事を文字通り試していったんだ。彼には驚くような集中力と聞くことが上手い。こちらの言う事をあれほど受け入れる事が出来る俳優は、監督には本当に好都合だ。既に知っていることを理解するだけでも、何人の俳優にできるか?この感受性のお陰で、さきほど話をした事柄が可能になったわけだ。自分が求めていた真実を目の当たりにして。私にはいつもドロンがいてくれ、ありえないような行動を引き受けてくれた、そんな風にあり得ないと思えることがドラマを前進させていけるんだ。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2015/10/23 「ルネ・クレマンが語る「太陽がいっぱい」その6(インタヴュー和訳)」

 さすが、このようなルネ・クレマンの言動には、巨匠の巨匠たる所以が感じられます。

「ある意味、関心を魅かれた何かがあった」

 このとき恐らく、ルネ・クレマンは「アラン・ドロン」という大スターを発見したのだと思います。

 そして、後期「ネオ・リアリズモ」のイタリア映画の作品群『若者のすべて』(1960年)、『山猫』(1962年)、『太陽はひとりぼっち』(1961年)など、ルキノ・ヴィスコンティ監督やミケランジェロ・アントニオーニ監督などの作品に出演し、俳優としての資質がいよいよ磨かれていったのです。
 イタリア映画界での彼の活躍も映画史的なレベルで非常に高いものとして評価されています。

【この映画以後ドロンは一躍、国際的なスターとなって、劇場側が歓迎するぺてん師やギャング役を演じる映画に次々と出演した。したがってロッコを演ずる彼を見ていない人には、ヴィスコンティの厳しい指導に耐えて彼がこの役で演じ切った、ほとんど輝くばかりの愚直さと、悲哀と、しんの強さを想像するのはむずかしいかもしれない。】
【引用~『ルキーノ・ヴィスコンティある貴族の生涯』モニカ・スターリング著、上村達雄訳、平凡社、1982年】

ルキーノ・ヴィスコンティ―ある貴族の生涯 (1982年)

平凡社



 アイドル女優との共演作品から、フランスやイタリアのヨーロッパ映画界の全盛期に活躍した巨匠たちの作品への出演・・・このことを異なる視点によって彼のキャリアを総括すると、それはアイドル路線からの脱皮、そして、衰退する時代の「シネマ・ドゥ・パパ(「詩(心理)的レアリスム」)」の作品群への出演、「ネオ・リアリズモ」終焉期における活躍・・・だったのです。
 それは、つまり「ヌーヴェル・ヴァーグ」の新しいスター俳優としてセンセーショナルな活躍をしていったジャン・ポール・ベルモンドの革新性と全く相反する保守・伝統・・・旧時代の映画スターの在り方から、その資質を磨かれていったプロセスだったのです。

 そして、その後に人気全盛期を迎えた頃、彼はデビュー当時の自分自身を次のように語っています。

【正直にいって、ぼくは最初のころ、いい監督が俳優を創りあげる、とは信じていなかった。傲慢にもぼくは自分の個性と才能とを混同していた。つまりぼくには才能があると思いこんでいたのだが、それは実は個性にすぎなかった。優れた監督、たとえばクレマンやヴィスコンティに使われて、ぼくは自分が何者でもないことを思い知らされた。が、同時に、もしかしたらぼくは、彼らによって“俳優”になれるんじゃないか、とも思いはじめたんだ。】
【シネアルバム⑥ アラン・ドロン 孤独と背徳のバラード「アラン・ドロン バイオグラフィー 南俊子」 芳賀書店(1972年)】

 これは、ゴダールと出会ったときのジャン・ポールの言葉とは対照的です。元来、舞台俳優としての基本的なメソッドを身に着けていたジャン・ポールと異なり、アランはそもそも好き放題、自由に奔放に生きてきた不良、チンピラだったわけですが、映画界に入って旧世代の映画の文法に忠実な巨匠である多くの映画作家たちに巡り会うことができて、初めて映画俳優としての自覚に目覚めたのでしょう。そのとき、自分の未来への大きな希望と感動が生まれたことがわかります。
 一方、舞台でデビューし、映画では端役で数本をこなしていただけのジャン・ポールの魅力を見出したジャン・リュック・ゴダールは、ただひたすら映画への情熱だけで無軌道で自由な表現を求めていった映画作家だったわけです。そして、やはり、その彼に巡り会ったときのジャン・ポールの言葉も彼の大きな感動を伝えるものでした。再掲して旧世代の映画作家たちと巡り会ったときのアラン・ドロンの発言と比較してみましょう。

【これまでいっしょに仕事をした監督のなかでは、文句なしに、ゴダールといちばん気が合った。(-中略-)『勝手にしやがれ』は俺にとって最初の映画的冒険だった。(-中略-)俺は映画というものを知らなかったんだ。あたりまえの、古くさい映画の見かたをしていた。そんなときに、突然、すばらしい自由を発見したんだ。その後も、あれほどすばらしい自由な撮影をしたことはない。『勝手にしやがれ』は全篇隠しキャメラで撮影された。録音機もなし、なにもなしだ。俺たちはブールヴァール・デ・ジタリアンにいた。キャメラマンのラウール・クタールは小さな郵便車のなかに隠れて、小さな穴から撮影していた。すばらしかったね。これこそ、ほんとうのシネマ・ヴェリテだった。(略-)】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 この二人、この先どんな素晴らしいスター俳優になるのか本当に楽しみです(笑)。

 そして、彼らはその後、『黙って抱いて』以来13年ぶり※に共演した『ボルサリーノ』(1970年)によって世界的な大ブレイクを起こすわけですが、この『ボルサリーノ』に辿り着くまでの経緯は、【『ボルサリーノ』②~「詩(心理)的レアリスム」の伝統をジャン・ポールとともに①~】の記事として、私なりの見解を掲載してあります。
※その間に同作品でともに出演しているものは二本ありますが、『素晴らしき恋人たち』(1961年)はオムニバスの別挿話の作品、『パリは燃えているか』(1965年)はオールスター・キャストの作品です。

 ジャン・ポールとアランが世界に向けて大活躍する人気スターに成長していったことに想いを馳せ、その歩んだ軌跡を辿り、ようやくデビュー間もない頃の若くて貧しい無名の彼らに巡り会うことができました。『黙って抱いて』に登場するのは、幼く心細い、おぼつかない足取りの誰にもある青銅の時代・・・青春まっ只中にいたジャン・ポールとアランだったのです。映し出されている二人の未来への無限の可能性によって、この作品は珠玉の輝きを放っています。ここで活き活きと活躍している若い二人を観ていると、全身から湧き上がってくる彼らのエネルギーも映し出されているような気がします。歩み出そうとする方向に何が待ちかまえているかなんて考えもせず、みなぎる若さにまかせて力強くその道程を切り開いていったジャン・ポールとアラン。

 ゴダール、クレマン、ヴィスコンティに出会う前の彼らの青春の彷徨が映し出されている『黙って抱いて』は、これから険しくても輝かしいジャン・ポールとアランの成功への道程にスタートアップした記念碑的作品として、何度でも鑑賞したくなる青春の可能性がいっぱいの作品なのです。



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by Tom5k | 2017-09-12 22:25 | 黙って抱いて | Trackback | Comments(1)

『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-①~

 アラン・ドロンは、最近(本年5月7日付けで)、パトリス・ルコント監督の作品(2018年公開予定)への映画と舞台作品にそれぞれ出演してから引退する意向を公的に発表しました。

 そんな折、アラン・ドロンの生涯の盟友でありライバルであったジャン・ポール・ベルモンドとの共演作品『黙って抱いて』(1957年)が、いよいよDVD化され、8月に発売されたので、早速購入しました。アラン・ドロンのデビュー作品『Quandla Femme s'en Mele』(1957年)を監督したイヴ・アレグレの兄マルク・アレグレが監督です。残念ながら、主演はアランとジャン・ポールではなく、ミレーヌ・ドモンジョ、アンリ・ヴィダル主演の作品ですが、私としてはアラン・ドロンが出演している作品であるにも関わらず、未見の作品でしたから今回、記念すべき初観賞となりました。

 アランは、デビュー作品『Quandla Femme s'en Mele』に引き続き2本目の映画出演、ジャン・ポールも端役数本に映画出演した後この作品に出演しました。アランもジャン・ポールも20代前半です。予想していたよりは二人とも出番が多くて驚きましたし、何より、二人とも本当に初々しく、作品中の活躍ぶりには眩しいくらいの存在感がありました。
 それにしても、1957年に製作された『Quand la Femme s'en Mele』や『黙って抱いて』は、もう60年も前の作品になるんですね。本当に感慨深いものがあります。

 さて、アランとジャン・ポール、この二人が『黙って抱いて』に出演した後の1960年代、その活躍ぶりには本当に凄まじいものがあります。少なくても1970年代中盤まではスターとしての全盛期を国際的に担っていたのではないでしょうか。更に、1970年代後半にジェラール・ドパルデューが出現するまでは、ヨーロッパの映画体系をこの二人で食い尽くしてしまったようにまで思います。

 そして、私がこの二人の存在を凄いと感じるのは、単に映画スターとして人気があったのみならず、全く異なる映画体系においての各々の映画史的な活躍ぶりなのです。

 まずは、ジャン・ポールなのですが、彼は『黙って抱いて』に出演した後、マルセル・カルネ監督の『危険な曲がり角』(1958年)に端役で出演した後、「ヌーヴェル・ヴァーグ」気鋭の映画作家となっていったジャン・リュック・ゴダール監督の『シャルロットと彼女のジュール』(1958年)、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』(1959年)で本格的な映画出演を果たします。いよいよ、世界の映画潮流を変革していった「ヌーヴェル・ヴァーグ」に邂逅したのです。
 そして、1959年、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』により、とうとう映画史上に名前を残す大スターとなりました。

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 なお、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』には、当初、ジャン・クロード・ブリアリが出演する予定であったようなのですが、彼が脊椎カリエスを患っていて代役が見つからずにいたときに、クロード・シャブロル監督がプロデューサーのアキム兄弟に「まだ無名のひとりの若い俳優」を思いきって起用したいと提案しました。それがジャン・ポール・ベルモンドだったのです。

 ジャン・ポールが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の大スターになったきっかけは、もちろん、『勝手にしやがれ』への出演によるものでしたが、初めはジャン・リュック・ゴダール監督のほうから映画出演のアプローチをしていったようです。

【(-略)たまたまサンジェルマン・デ・プレで俺はゴダールと知り合った。もっとも、カフェ・ド・フロールのテラスで黒いサングラスの男に、俺のうちに来ていっしょに映画を撮らないか、と声をかけてきたときには、こいつはホモだと思ったもんだよ。その前に『黙って抱いて』で共演した女優のアンヌ・コレットから、あんたと知り合いになりたがっている男の子がいるわよって言われて、チラッと紹介されたことがあったんだが、うさんくさい男だと思った。いつも無精ひげでサンジェルマン・デ・プレをうろつきまわって、俺のことをジロジロながめていたヤツだった。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (ちくま文庫)(1992年)

山田 宏一 / 筑摩書房



 当初のこのようなジャン・リュック・ゴダールへの悪印象はともあれ、ジャン・ポールは『勝手にしやがれ』の主役に抜擢されました。もちろん、ジャン・ポール自身が「生涯の一本」と述懐している『気狂いピエロ』(1965年)はもちろん、初期のゴダール作品である『シャルロットと彼女のジュール』、『女は女である』(1961年)もジャン・ポールが出演している作品です。
 なお、エリック・ロメール監督が1950~51年に制作した短編映画作品で、その後ジャン・リュック・ゴダール監督が続編として制作していった『シャルロット』シリーズでシャルロットを演じたのが、『黙って抱いて』で、彼の恋人役で共演していたアンヌ・コレットでした。このことにも不思議な因縁めいたものを感じてしまいます。

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【(-略)彼は本当に長編映画を撮ることになり、約束どおり俺を主役に起用してくれたんだ。それが『勝手にしやがれ』だったわけだけれども、俺は感激した。当時、俺みたいなかけだしの俳優にこんなすばらしいチャンスをあたえてくれる監督はほかにいなかっただろうからね。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 また、カイエ・デュ・シネマ誌で最も先鋭的で、いわゆる※フランス映画の良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」への攻撃的な映画批評を常時発表し続け、後に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表的映画作家となるフランソワ・トリュフォーは『勝手にしやがれ』の制作中、ジャン・ポール・ベルモンドについて、次のような印象を持っていたそうです。(※フランソワ・トリュフォーの皮肉った「シネマ・ドゥ・パパ」の映画作品)

【トリュフォーは『勝手にしやがれ』の撮影現場をのぞいたり、ラッシュ試写を見に行ったりしたが、なんだか「すべてがうまくいっていないような」印象をうけた-「ジーン・セバーグは全然ゴダールを信用しておらず、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールも、ゴダールのやりかたがさっぱりわからん、と言った。ただ、ジャン・ポール・ベルモンドだけがゴダールを信頼していた。彼だけがゴダールのやりかたを理解していた」 トリュフォーは『勝手にしやがれ』のベルモンドを見た瞬間に、「間違いなく彼こそフランス映画の最も優れた俳優になるだろう」と確信した。】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 ジャン・ポールにしても、『勝手にしやがれ』を撮影したときの印象を次のように振り返っています。

【これまでいっしょに仕事をした監督のなかでは、文句なしに、ゴダールといちばん気が合った。ふだんはそんなにつきあっているわけじゃないんだが、撮影に入ったとたんに、ピッタリと呼吸があうんだ。『勝手にしやがれ』は俺にとって最初の映画的冒険だった。それまで俺が出た映画といえば『危険な曲がり角』や『黙って抱いて』とか、ほんのチョイ役ばかりだった。俺は映画というものを知らなかったんだ。あたりまえの、古くさい映画の見かたをしていた。そんなときに、突然、すばらしい自由を発見したんだ。その後も、あれほどすばらしい自由な撮影をしたことはない。『勝手にしやがれ』は全篇隠しキャメラで撮影された。録音機もなし、なにもなしだ。俺たちはブールヴァール・デ・ジタリアンにいた。キャメラマンのラウール・クタールは小さな郵便車のなかに隠れて、小さな穴から撮影していた。すばらしかったね。これこそ、ほんとうのシネマ・ヴェリテだった。(略-)】
【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

 このようにして、ジャン・ポールは、盟友であり、ライバルであったアラン・ドロンとは全く異なる最先鋭の映画芸術「ヌーヴェル・ヴァーグ」の騎手として国民的かつ世界的な大スターとなっていったのでした。

 一方、アラン・ドロンのこれから歩んでいく映画体系は、ジャン・ポールとは全く逆のベクトルに向いていたことは周知の事実です。アラン・ドロンは、盟友、そしてライバルとなるジャン・ポール・ベルモンドが脚光を浴びていく、新しい映画芸術の潮流であった「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」作品とは、全く異なる在り方で国際スターとしての地位を確立していきました。

【>アラン・ドロン(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 ただ、この時期に旧世代のフランス映画の良質の伝統「詩(心理)的レアリスム」、いわゆるシネマ・ドゥ・パパは、どのように変わって存在していったのか?ここに焦点を当てなければ、アラン・ドロンの原点は理解できないと私は考えているのです。


【ヌーヴェル・ヴァーグは、「シネマ・ド・パパ」とトリュフォーが呼んだ古いフランス映画に対するたたかいでもあったが、『勝手にしやがれ』の無手勝流のスタイルは、ヌーヴェル・ヴァーグの敵陣ある「シネマ・ド・パパ」に対して決定的な打撃をあたえることになった。マルセル・カルネは『広場』で(もっとも、カルネは『勝手にしやがれ』のまえに『危険な曲がり角』を撮ってフランスの「青春群像」を描いていたが)、ルネ・クレマンはポール・ジェコーフの脚本とアンリ・ドカエのキャメラによる『太陽がいっぱい』で、ジュリアン・デュヴィヴィエはジャン・ピエール・レオー主演の『並木道』で、アンリ・ドコワンは『やさしく激しく』で、それぞれ、「無軌道な若者の行動を描いた」彼らの『勝手にしやがれ』を作ってヌーヴェル・ヴァーグのスタイルを気取ってみせたのだった。】

【引用~『友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)、1992年】

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 そうなのです!現在においてさえ、アラン・ドロンの出演した代表作品『太陽がいっぱい』(1959年)の映画史的評価では、この程度の総括しかされていないのです。

所詮、『太陽がいっぱい』は、

【彼ら(シネマ・ドゥ・パパ)の『勝手にしやがれ』】
であり、

【ヌーヴェル・ヴァーグのスタイルを気取ってみせた】
だけの作品だと言うのです。

 ですから、私はくやしくて、くやしくて、その「アンチ・ヌーヴェル・ヴァーグ」の視点からこのブログ【時代の情景】を立ち上げ(それだけのためでもありませんけれど)、延々と
<「詩(心理)的レアリスム」(シネマ・ドゥ・パパ)作品=フランスにおけるアラン・ドロン関連作品>
を擁護する記事をアップし続けているわけです。もう12年にもなりましょうか・・・!

 さて、話は少し逸れてしまいましたが、フランス映画の革新・刷新の時代に、アラン・ドロンがシネマ・ドゥ・パパの作品に入っていく前、まずは国際的なアイドル女優たちとの共演路線で売り出していく時期があります。

【<『黙って抱いて』~ジャン・ポールとともに②-②~>に続く】
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by Tom5k | 2017-09-07 23:31 | 黙って抱いて | Trackback | Comments(0)