『学生たちの道』~「アラン・ドロン」の原型 家族と職業を失う「フレンチ・フィルム・ノワール」前時代~

 ミッシェル・ボワロン監督は、アラン・ドロンの主演第1作品『お嬢さんお手やわらかに』(1958年)に引き続き、1959年、再度、この『学生たちの道』で彼を起用しました。
 『お嬢さんお手やわらかに』は、アラン・ドロンをミレーヌ・ドモンジョ、パスカル・プティ、ジャクリーヌ・ササールなどのアイドル女優と共演させ、監督自らのシナリオによる華やかな演出により世界中でヒットし話題となった作品でした。
 さすが、ミッシェル・ボワロン監督は、この2作品によって、その共演者と共にアラン・ドロンをしっかりとアイドル路線で売り出すことに成功しました。

 そして、アラン・ドロンとしては、主演第3作品目。
 ロミー・シュナイダーと共演したピエール・ガスパール・ユイ監督の『恋ひとすじに』(1958年)で共演していたジャン・クロード・ブリアリと再びコンビを組み、当時のフランス映画界で、絶大な人気を誇っていたフランソワ・アルヌールと共演したのが、この『学生たちの道』なのです。
 この作品は、アラン・ドロンにとっても非常に重要な位置を占める作品だと、わたしは思っています。

 実際のところ、彼が1960年代後半から70年代の人気絶頂期を迎えていった作品の土台となっているのは、渡米して撮った『黄色いロールスロイス』(1964年)から『テキサス』(1966年)などの前に、フランスやイタリアなどのヨーロッパで撮った作品です。
 それらは、『太陽がいっぱい』(1959年)をはじめ、『太陽はひとりぼっち』(1961年)、『山猫』(1962年)、『地下室のメロディー』(1962年)、『黒いチューリップ』(1963年)などであり、そこには大スターとしての「アラン・ドロン」の必須要素が確かに存在していると思うのですが、『恋ひとすじに』やこの『学生たちの道』など、『太陽がいっぱい』を撮るより前の駆け出しの時代のアラン・ドロンが出演した作品に、それらの土台における原型とも言えるものが隠れていると、わたしは思っているのです。


 ところで、ハリウッド作品、フランス作品に限らず、「フィルム・ノワール」の登場人物たちにおいては、常に屈折した父性の在り方などを主軸に展開していく手法を採った作品が多く、その典型的な作品として、ビリー・ワイルダーが監督し、彼とレイモンド・チャンドラーが脚色した『深夜の告白』(1944年)があります。
 次の引用は『深夜の告白』に関する書評の一部です。

【この映画の構図を決めている象徴領域と想像領域の間の亀裂は、キイズという人物において体現され、したがって、キイズは権威的な父親と、寛容な理想化された父親との、両方の役割を演じなければならない。映画の物語を解決と終結へと導いていくのは、キイズのような人間なのだ。権威的な父親として、キイズは法を代表しなければならず、ネフを警察に引き渡さねばならない。だが、理想化された父親としては、ナルシステイックにネフと互いに同化するという、抑圧されたホモセクシャリティの側面も残される。】
【引用~『フィルム・ノワールの女たち~性的支配をめぐる争闘』E・アン・カプラン著、水田宗子訳、田畑書店】

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 このような父性をテーマとして描いた作品は、「アラン・ドロン」の人気全盛期を形成した「フレンチ・フィルム・ノワール」作品へも影響を与えていると考えられますが、
ジャン・クロード・ブリアリが演ずるアントワーヌの友人ポールと闇取引の元締めを商売にしているリノ・ヴァンチュラが演ずる父チェルスラン、
アラン・ドロンが演ずる主人公の高校生アントワーヌとブールヴィルが演ずる善良で真面目な小市民の父ミショー
のそれぞれ2組の父と息子の関係が、既にこの『学生たちの道』で大きなテーマとされています。
 ここは非常に重要です。後年の「アラン・ドロン」のアクターとしてのオリジナルが、既にここで確実に存在しているからです。

 すなわち、『地下室のメロディー』や『暗黒街のふたり』(1973年)で共演したジャン・ギャバン、『山猫』や『スコルピオ』(1973年)で共演したバート・ランカスターに父性を求め、そして更に、『ビッグ・ガン』(1972年)、『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)、『ル・ジタン』(1975年)、『ブーメランのように』(1976年)など、自らがその父性を表現していくことになった生々しい原型製法が、この『学生たちの道』で、ミッシェル・ボワロン監督の演出によって行われたように思うからです。

 つまり、主人公アントワーヌとポールとの友情、ポールと父チェルスランとの確執、ポールの影響を受け、シャンパンの闇取引に手を出し、父ミショーの期待を裏切ってしまうアントワーヌの父子関係などは、「フレンチ・フィルム・ノワール」での「男同士の友情と裏切り」などのテーマとなる潜在的要素の源流となっていると、わたしは考えているのです。

 アラン・ドロンにとって、ピエール・モンディが演ずる偽のゲシュタボを使ったプロットなども含めたそれらの要素は、『地下室のメロディー』や『泥棒を消せ』(1964年)でその端緒が発現し、『さらば友よ』(1968年)から開花していくのですが、その後、『ジェフ』(1968年)、『シシリアン』(1969年)、『ボルサリーノ』(1969年)、『仁義』(1970年)、『リスボン特急』(1972年)、『ル・ジタン』、『友よ静かに死ね』(1977年)などで中心的役割を担っていくギャング集団の生態、その彼らの大仕事と男同士の友情を作品の主軸、テーマとしていくことへと拡がっていったと考えています。

 思えば、この『学生たちの道』には、「フレンチ・フィルム・ノワール」に潜在されている父性と男同士の友情が健康的に描写されている古き良き時代を描いた作品であり、無垢で純情な好青年を演じるアラン・ドロンが、その可能性を開花するための多くの要素を学んだ作品だったのかもしれません。


 また、彼が得意としていった悲恋の「メロドラマ」の原型も現れており、ここでのフランソワーズ・アルヌールとの恋愛関係においては、後年『帰らざる夜明け』(1971年)や『燃えつきた納屋』(1973年)のシモーヌ・シニョレ、そして、『個人生活』(1974年)のジャンヌ・モローとの共演の下地になるものだったとも考えられます。

 『恋ひとすじに』での男爵夫人レナを演じたミシェル・プレールとの関係は、「メロドラマ」のクラシック作品として不倫関係を描いており、その映画的表現は標準的な形式・スタイルを超えるものではなかったように思っています。
 しかし、この『学生たちの道』でのポールの恋人フランソワーズ・アルヌールが演じた恋人のイベットには既に子どもが存在しています。高校生が付き合う相手の設定としては、かなり矛盾をはらんだ恋愛関係をプロットとし、その現代女性を演じさせているのは当時人気全盛期のフランソワーズ・アルヌールでした。
 年上の美しいイヴェットとティーン・エージのアントワーヌとの純粋な恋愛関係は、現代社会の複雑な感性へと更に一歩進めた形態で描写されているものとなっています。

 これは、ミシェル・ボワロン監督にとっても、思春期を終えたばかりのティーンエイジャーと年上の美しい女性の恋愛を描き、ナタリー・ドロンとルノ・ヴェルレーが共演して大ヒットした『個人教授』(1968年)に繋がる原型だったとも考えられます。

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 この『学生たちの道』は、アラン・ドロンのアイドル時代の総括的作品であり、彼はその後、ルネ・クレマン監督のリアリズム描写に邂逅し、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督やクリスチャン・ジャック監督のフランス映画の伝統的「詩(心理)的レアリスム」に巡り会い、単なるアイドルではなく、ヨーロッパを代表するトップ・スターへと成長していくのです。

 この辺りで、アラン・ドロンは、ルキノ・ヴィスコンティ監督やミケランジェロ・アントニオーニ監督の「ネオ・リアリズモ」の後期作品を経て、『生きる歓び』(1961年)や『危険がいっぱい』(1962年)、『地下室のメロディー』など、ルネ・クレマン監督の演出やジャン・ギャバンとの共演などによって、リアルな「アラン・ドロン」キャラクターを本質まで掘り下げられ、アイドル路線を脱皮していくのですが、それに甘んじることなく、失敗作が多かったとはいえ、渡米したハリウッドでの「スターシステム」を貪欲に吸収して、後年の「フレンチ・フィルム・ノワール」での「アラン・ドロン」に接近しくわけです。

 それにしても、後年、リノ・ヴァンチュラは『シシリアン』、ブールヴィルは『仁義』で、アラン・ドロンを追う刑事になり、典型的な「フレンチ・フィルム・ノワール」作品で共演することになろうとは、この作品を撮った頃には誰も想像していなかったでしょう。不思議な因縁を感じてしまいます。

【キイズは権威的な父親と、寛容な理想化された父親との、両方の役割を演じなければならない。映画の物語を解決と終結へと導いていくのは、キイズのような人間なのだ。権威的な父親として、キイズは法を代表しなければならず、ネフを警察に引き渡さねばならない。だが、理想化された父親としては、ナルシステイックにネフと互いに同化するという、抑圧されたホモセクシャリティの側面も残される。】
【引用~『フィルム・ノワールの女たち~性的支配をめぐる争闘』E・アン・カプラン著、水田宗子訳、田畑書店】

 わたしには、この作品の二人の父親が、アラン・ドロンにとって、先に引用したE・アン・カプランの言う「理想化された父親」と「権威的な父親」を、ともに演じていくことになったと思えてならないのです。

 アラン・ドロンは、『学生たちの道』で演じた主人公アントワーヌから、暖かい小市民的な家庭が少しずつ奪われていった結果、悲恋の主人公となることも含めて、ギャングや殺し屋、社会から逸脱した犯罪者、アウトローとしてのヒーローとなり、二人の父親に追われる悲劇を背負ってしまったように見えてしまいます。


 多くの大衆に受け入れられる「フレンチ・フィルム・ノワール」の大スター「アラン・ドロン」のキャラクターは、この朴訥なアントワーヌから、全てを奪い去ったときに形成されていったと考えることができるのではないでしょうか?
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by Tom5k | 2011-12-30 03:00 | 学生たちの道 | Trackback(3) | Comments(6)

『愛人関係』①~愛し合う男女の超悲劇、ミレーユ・ダルクの素晴らしい代表作品~

 アラン・ドロンの得意としていたジャンルである「フレンチ・フィルム・ノワール」の特徴によるものかもしれませんが、彼は、往々にして女性に対しては、デリカシーのない役柄が多く、それは恋愛を主題とする「メロドラマ」の代表作品である『高校教師』(1972年)や『個人生活』(1974年)においてさえ同様だったと思います。
 その出発点を思い返したとき、もしかしたら、「内的ネオ・リアリズモ」の巨匠であったミケランジェロ・アントニオー二が監督した『太陽はひとりぼっち』(1961年)で、彼が演じた主人公ピエロのキャラクターにまで、遡らなければならないかもしれません。

 ところが、この1974年に製作された『愛人関係』は、アラン・ドロンの演ずる主人公の弁護士マルク・リルソンが、珍しく、ミレーユ・ダルク演ずるペギー・リスターを本気で愛し、そして、そのデリケートな関係を描写し続ける作品となっています。
 そういう意味では、彼の主演作品としては非常に希有な傾向のものだと思います。

 しかし、このことを広い意味で捉えてしまうと、いよいよ自らのファンにまで、女性への無神経さが及んでしまったともいえるのかもしれませんが・・・?

【「愛人関係」ではミレーユ・ダルクを本気で愛しちゃう役をやっているんですけど、そういう意味でつまらなかったですね。(南俊子)】
【(『デラックスカラーシネアルバム5 アラン・ドロン 凄艶のかげり、男の魅力 斎藤耕一+南俊子《ドロンを語る》現代的な感性を表現できる不思議な人』南俊子責任編集 芳賀書店)】

 
 ところで、映画の主人公のキャラクターに、その俳優がはまり過ぎると、そのスター俳優はそれ以降、どの映画作品に出演しても、その当時の役名で呼ばれることが多くなることがあります。

 わたしが学生時代、映画好きの伯父の家に遊びに行ったとき、
「今日は、テレビで「ダーティハリー」が出ている映画をやるぞ。一緒に観ないか?」
と誘われたのですが、実際にテレビで放映されていたのは、『荒野のストレンジャー』というクリント・イーストウッド主演の西部劇でした。

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 また、わたしの父親も、増村保造監督、勝新太郎、大谷直子出演の『やくざ絶唱』がテレビ放映されたとき、
「今日は、「座頭市」のやくざものかあ?」
とか、

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 オードリー・ヘップバーンが、ショーン・コネリーとの共演で映画に復帰した『ロビンとマリアン』が上映されていた頃、
「ほう、ヘップバーンが「ゼロ・ゼロ・ナナ(ジェームズ・ボンドのコード・ネーム「007」のこと)」と共演するんだ?」
などと、ぼけた一人ごとを良く言っていたものです。

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『男はつらいよ』シリーズの渥美清なども、その典型かもしれません。

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 また、その逆の在り方として、スターの条件のひとつなのかもしれませんが、主演俳優が映画のプロットに合わせて演ずるのではなく、出演している彼らのイメージで作品が創作されたり、アレンジ・脚色されていることも多々挙げられます。
 つまり、その俳優がどのような映画に出演していても、主人公の名前は印象に残らず、スター俳優のみで映画の主人公が成立してしまうわけです。
 美空ひばり、石原裕次郎、吉永小百合、高倉健、チャ-ルズ・ブロンソン、オードリー・ヘップバーン、ブリジッド・バルドー、マリリン・モンロー・・・などの出演作品は、その主人公の名前を覚えているファンのほうが少ないのではないでしょうか?あくまで、その作品の主人公は、出演しているスター俳優自身となってしまっているケースです。

 もちろん、アラン・ドロンも、その例外ではありませんでした。つまり「アラン・ドロン」という映画スターのキャラクターが確立されている以上、彼の出演作品は、まず彼のイメージや個性によって規定されたうえで制作され、彼の演技そのものも、その私生活からのキャラクターや過去の経験値によって表現された作品が多くなっていたと思います。
 主演俳優の人気を利用した、つまりスターの人気に依存して商業的な成功を目的にした映画の「スターシステム」に依る彼の出演作品が多いことは現実です。

 彼が出演した映画作品の主人公は、マニュ(『冒険者たち』)、ジェフ・コステロ(『サムライ』)、ディノ・バラン(『さらば友よ』)、ロジャー・サルテ(『シシリアン』)、ロッコ・シフレディ(『ボルサリーノ』)ではなく、「アラン・ドロン」という映画スターであるわけなのです。
 ゾロを演じたときでさえ、邦題は『アラン・ドロンのゾロ』でした。

 しかしながら、わたしとしては、単純に商業的な意味での「アラン・ドロン映画」という体系で、彼の映画作品が時代に埋没していくことへの焦燥があることもまた正直な気持ちです。

 何故ならば、彼のスターとしての位置づけに関わっても、そういった商業的なものを超えて、多くの人々の範例となるヒーロー像としての価値、そして男性でありながらも、その時代的な美しさの特質など、大げさに解釈すれば、アラン・ドロンは映画文化史において、その時代のシンボリックな型として存在できるスター俳優であり、その彼の存在と平行して、出演作品の多くがヨーロッパ映画史における普遍的価値を伴って現代に存在し続けていることを無視できないからなのです。

 だからこそ、彼のファンとして、彼の作品や彼自身のスターとしての位置付けを模索し続けることに意味があるように思えてならないのです。


 さて、今回取り上げたこの『愛人関係』は、アラン・ドロンの記事を31本もアップしている映画批評ブロガーのオカピーさんでさえ、現在(2011-12-19 01:47)まで取り上げていないほど、埋もれた地味な作品です。【プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]テーマ「アラン・ドロン」のブログ記事

 さりとて映画ファンの関心にもならず、話題性も無く、ファンの大半が女性層であった当時、彼のファン代表でもあった映画批評家の南俊子氏にさえ、「つまらない」と酷評され、女性ファンに見限られ、『さらば友よ』や『ボルサリーノ』でつかんだ若い男性ファンにも関心を持たれないこの『愛人関係』という作品は、昨今の映画ファンには、どのように捉えられる作品なのか?それは、わたしの大きな関心事のひとつでありました。

 そこで、わたしは映画の達人、わたしのブログの盟友のひとりである「良い映画を褒める会。」の用心棒さんに、この『愛人関係』の記事をアップしてもらうことにしたのです。
 用心棒さんは、嫌な顔ひとつせず、わたしの無理なわがままなお願いを引き受けてくれました。
以下、【   】内は【用心棒さんのブログ「良い映画を褒める会。」ブログ記事『『愛人関係』(1973)フランス産、悲恋のサイコ・スリラー。脚本に難があるものの光る部分あり。』からの引用】

 わたしは、アラン・ドロンのファンではあっても、男性ですから、彼と彼の私生活上の愛人であったミレーユ・ダルクの関係が、この作品に表れていたとしても、さほど驚くには当たりませんでした。いやむしろ、アラン・ドロンのアクターとしての魅力は、彼の経験や彼の内面の暗部が露わになったときにこそ最大限に発揮されている側面があると考えています。
 ですから、この作品の魅力も、当時、愛人関係にあった彼とミレーユ・ダルクの共演に、その魅力が隠されていると考え、そこに着目できていることが彼の作品を理解している自負でもあったのです。

 しかし、そのわたしの、所詮、脆弱な自負心は、用心棒さんの優れた記事内容によって、粉々に打ち砕かれました。さすが用心棒さんは、当時の世評と、現在における映画作品としての純粋な価値とに、まずは明確な線引きを設けているのです。

【 ただし、当時のアラン・ドロンとミレーユ・ダルクの関係をワイド・ショー的に利用した、下世話な邦題『愛人関係』が作品理解への妨げになっている。余計な先入観を見る前から与えてしまっているので、この映画に限らず、邦題に良くありがちではありますが、配給元のタイトル決定者は映画は後々まで残っていくのを理解し、将来の映画ファンにバカにされないように猛省すべきでしょう。

 ただしこの映画にはドロンも製作に携わっているようですので、ごり押しでミレーユ・ダルクを使い、彼女を売り出しているのも事実(-略-)
 40年近く前の映画ですので、かえって今になってこの作品にまっさらな頭で向き合う方がより深く作品の本質に迫れるのかもしれません。じっさい、映画の外の醜聞など何十年も経ってしまえば誰も覚えていないし、関係もない。】

 アラン・ドロンのファンとしての狭義の認識を捨て、このような視点で『愛人関係』を鑑賞し直してみると、わたしでも、この作品の本質的な魅力を理解できるように思えてきました。

【ストーリー展開と独特の時間をなぜていくようなリズムに気をとられてしまい、冷静に見ていられない作品でもあります。最近のハリウッド映画にどっぷりと浸かっている人がこれを見れば、かなり退屈でしょうし、30分くらいで見切ってしまい席を立ってしまった方もいたかもしれません。
 また最後までついて行った方もハッピーエンドとは程遠い結末には違和感を覚えるかもしれません。そもそも、ほとんどの大人がこの世の中は嫌なことばかりであると理解しています。大人にしか分からない映画、つまり見る人を選ぶ作品でした。
(-中略-)
ドロンは悲劇の人と理解されるのでしょうが、一緒に死を選び、あの世でともにあろうという行動を見ると、一概に不幸であるとは言えないのではないか。
 弾丸が愛情表現だというのは悲劇的ではありますが、映画として受け入れられないような結末ではない。バカげた思い違いかもしれませんが、悲しく衝撃的な幕切れではあります。

 これも物語の終わらせ方のひとつでしょう。なんだか後ろ髪を引かれるような気まずい余韻を残す作品で、見た日よりも次の日にじわじわきました。】

 すなわち、用心棒さんの記事にあるように「大人の映画」、「観る者を選ぶ作品」であること、ラスト・シークエンスにおける悲劇的なふたりの深い愛情描写を、男女の不幸な関係や、その悲劇性そのものをも超越した「超悲劇」として捉えることで、この作品の魅力が浮かび上がってくるように思えてきたのです。

 主人公ペギーを演ずるミレーユ・ダルクのイノセントでありながらセクシュアルな魅力、これは女性の持つ処女性を犯したい男性特有の傲慢で横暴な特性から感じ取れる魅力でもあるかもしれません。そして、それが故にその凶暴な異常性を内面に沈潜させてしまっている病巣こそ、現代女性における内面的な闇や魔性を象徴していると言えるのではないでしょうか?

 「ファム・ファタル」の定義として、それは「運命の女」のことを指すわけですが、これは男を破滅させる魔性の女性、妖婦という意味合いで使われることが一般的です。
 1940年代ハリウッドのB級「フィルム・ノワール」での彼女たちの定義の特徴には、そのヒロインの性格描写がしばしばあいまいであることや表現主義的な映像による女性のセクシュアリティの強調などが挙げられています。この『愛人関係』でミレーユ・ダルクが演じた、美しくも隠された異常な凶暴性を持つ未亡人ペギーにも、その定義が当てはまるようにも思うわけです。


 彼女が、脚光を浴びた作品は『恋するガリア』でした。監督は『愛人関係』の元夫のジョルジュ・ロートネルです。彼はミレーユ・ダルクの魅力を最大限に引き出せる演出家であると思います。

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 余談ではありますが、わたしはこの作品で、ミレーユ・ダルクが演じたガリアとフランソワーズ・プレヴォーが演じたニコールの関係に、久我美子、高峰三枝子、森雅之が主演し、五所平之助が監督、また、秋吉久美子、草笛光子、仲代達也が主演し、河崎義祐が監督した北海道が誇る原田康子の原作『挽歌』(1957年、1976年)での主人公の怜子と兵藤あき子の関係を想起してしまいました。
 親友の夫を善悪の判断無しに寝取ってしまうイノセントで残酷な女性を演じたミレーユ・ダルクと、この文学作品『挽歌』の主人公の玲子には現代女性の闇が同様に投影され、その現代的な主題が明確にされていたと思います。

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 『愛人関係』は、そのような奔放な女性の病んでしまったとも解釈できる心理描写を、更に一歩危険な状況に推し進め、秀逸な「サイコ・スリラー」へと進化させています。女性の奔放な行動や欲望は影を潜め、それは逆に異常な凶暴性に昇華され、極端な女性の潔癖性の奥深くに潜伏させてしまったわけです。
 当然のことながら、その結末の悲劇性は必然となってしまいます。

【感情をあまり表さなかったミレーユの最後の笑顔は意味深長でしたので、リボルバーの弾丸による唐突な結末がより印象を強くする。】

 もしかしたら、この作品は、彼女を最も良く理解しているアラン・ドロンがプロデュース・共演し、若い頃からの彼女の成長を目の当たりにしてきたジョルジュ・ロートネルが演出したその結果によって、現代女性の闇を象徴的に表現したミレーユ・ダルク一世一代の代表作品であったのではないのかと、わたしは思ってしまうのです?

【フィリップ・サルドによるサントラが秀逸で、作品を盛り上げ、ワン・ランク上に導いています。】

 フィリップ・サルドのテーマ曲は、主人公ペギーの悲しみを歌ったエレジーとも解釈できます。そして、わたしは、またもやこの作品にフランス映画旧世代の「詩(心理)的レアリスム」の復活を想起してしまうのでした。
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by Tom5k | 2011-12-19 01:47 | 愛人関係(2) | Trackback(1) | Comments(7)