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『太陽はひとりぼっち』⑤~アキム・コレクションより、映画芸術の傑作を映画館で鑑賞して~

 今日(平成21年2月28日(土))は、札幌にあるミニシアター映画館蠍座(北区北9条3丁目タカノビルB1)で上映されている『肉体の冠』と『太陽はひとりぼっち』を観に行ってきました。
肉体の冠
/ ジェネオン エンタテインメント





 『望郷』と『太陽がいっぱい』を観に行ったときにも感じましたが、やはり、映画鑑賞だけが目的の片道1時間20分をかけての行程は、田舎者のわたしにとっては、少々きつかったです。
 最近のわたしは、「スクリーンに投影されてこそ「映画」なのだ」という極端な固定観念を意識しています。実際は、そこまでの想いでは無いのですが、自己啓発も含めて敢えてそう思うようにしているのです。
 それが無ければ、自宅でDVDを観ていた方が余程(金銭的・経済的な)ロスが少ないのですから、わざわざ札幌の映画館まで行く必要もないわけです。
 もちろん、あのジャン・リュック・ゴダール監督ですら、大きく評価している映画芸術史的傑作、しかもアラン・ドロンの主演している『太陽はひとりぼっち』の鑑賞から得られるはずの至福と充実感があるからこそ、映画館に足が向いてしまうことは今さら省みる必要もないことです。

 今日の映画鑑賞では、映画館で隣り合わせた年配のご婦人の方の様子が、特に強く印象に残りました。
モニカ・ヴィッティ扮するヴィットリアの友人宅で、「象の足を台にしたテーブル」を映すショット、セスナ機でのローマ上空からの空撮のシーンなどでは、座席の前方に身をのりだし感嘆し、
アラン・ドロン扮する証券マンのピエロが、自動車の盗難に遭うショットでは、思わず驚きの声を上げ、
ヴィットリアがケニアの原住民の格好で踊ったり、ピエロとヴィットリアが仲良くふざけ合うシーンなどでは、一緒になって笑い、
ラスト・シークエンスでの彼らが待ち合わせた場所で、双方とも来ておらずに誰もいない風景のショットが映されると、深く溜息をついたり、
それらの各プロットごとに反応され、心底から映画に共感して、楽しまれていることがわかるご様子だったのです。

 このような体験も、映画鑑賞を効果的に、かつ有意義なものとする要素のひとつなのかもしれません。
 わたしは今更ながら、見ず知らずの人たちと一緒に同じ映画の観賞体験を共有し、その内容に共感することなども、映画館ならではの鑑賞価値なのだと、あらためて深く感じ入りました。自身の映画鑑賞が他の人と同一の体験であることを確認し、より強い映画への愛着を生み出す契機とすることができるからです。
 せっかく、高い入場券を購入し、貴重な時間を割くわけですから、あらゆる観点から映画鑑賞の価値を見出したいものです。


 一般にいわれているように、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画作品が、芸術に定義できる分野のものであるのならば、冒頭のタイトルバックでのイタリアの歌手ミーナが歌う主題曲は、彼の作品にはそぐわない選曲である印象を受けるように思います。
 このテーマ曲と作品との違和感は今回、特に強く感じましたが、恐らくは、意図的に「現代」というものを彼独特の表現で象徴させたものであるのでしょう。
  このツイストの主題歌は、日常の何不自由のない生活から生まれる怠惰や倦怠、そして、原因の分からない不安感を忘れ去るために、あえてエネルギッシュな曲調のリズムを好んでしまう一般大衆の嗜好を感じ取って使ったのではないかとの所感を、何かで読んだ記憶があります。
 歌が途中で不自然に途切れ、不気味で不安感を煽るような管楽器での曲調に変わるタイトル・バックの意味の怖さは、映画での映像体験の前段階にすでに脳裏に刻まれてしまいます。


「きのこ型のモニュメンタル・タワー」
「主人公たちの住むアパルトマンの外観、室内装飾」
「立ち並ぶポールが風に揺れる様子」
「証券取引所の喧騒」
「ヴィットリアの実家の窓から見えるバチカンのサン・ピエトロ寺院」
「セスナ機での上空から見るローマの街並みや、ヴェロナの飛行場」
「人影の少ない住宅街」
「住宅街での馬車、歩く労働者、乳母車、サラリーマン、住人たち」
「芝生用のスプリンクラー」
「風になびく街路樹」
「建設中の建物、その積み上げられた建材」
「高圧線鉄塔、送電線の西日のシルエット」
「ドラム缶に滞留し、その腐穴から流れ出る水の流れ」・・・・
そして、
「アラン・ドロンやモニカ・ヴィッティの美しさ」さえも・・・

 アントニオーニ監督の風景描写としてのとらえ方には、それをオブジェとして表現する天才的なものを感じるのですが、極端にいえばカットごとのすべての映像からそれを感じることが可能であり、そのことからも彼が真の芸術家に足ることが明らかです。また、彼のシンプルでモダンな映像美は、映画館でのスクリーン投影ならではの美しさとして鑑賞体験できるようにまで思えるのです。

 技術的にはワン・ショットでのワン・シークエンスや、遠近ともに鮮明にそれぞれの対象にフォーカスを合わせるスプリットなどの多用が特徴です。
 人物も無生物も静的なリズムでの描写を全般に渉り一貫させ、マスター、フル、ミドルの各ショット、クローズ・アップなどフレーミングの豊かさも秀逸です。
 特に今回、印象的に感じたのは、ラスト・シーンでの初老の男性の静物描写でした。それは、エクストリーム(超)のクローズ・アップで顔表層面を撮り、男性のクローズ・アップからロー・アングルのミディアム・ショットを繋いで映し出しているものです。人物描写としての構成要素をこれほどまでに解体して、更に再構築する連続ショットの説得力は、観る側の想像力への喚起にまで帰結させる力を持っているような気がしました。

 自宅でのTV放映、ビデオ、DVDでの観賞でも、もちろん、このような体感は可能なのですが、映画館でのスクリーン観賞であるからこそ大きく受益することが可能であり、すでに現在では映画館鑑賞での特典となっているとまでもいえましょう。

 今日のわたしの感想としても、映画を観てきたと言うよりも美術館に行って美術鑑賞をしてきたような錯覚さえ覚えているところなのです。


 そして、今回の観賞で、わたしが最も深く感動したシーンがあります。
 「愛の不毛」が代名詞になっているヴィットリアの恋愛感情の飽和状態と、ピエロのひたむきで純粋な恋愛感情の若さとの落差が最も大きく発出された後、何とかふたりの恋愛感情が高められていく端緒となったシークエンスでの会話です。

ヴィットリア 「深く愛しているなら理解し合えるものよ」
ピエロ    「じゃ僕たち 理解し合えるかな」
ヴィットリア 「分からないわ」
ピエロ    「分からないばかりだ なら どうして 僕と会うんだ?」
ヴィットリア 「・・・」
ピエロ    「分からないというな」
ヴィットリア 「あなたのことを もっと愛したくて」

 もちろん、この映画の結論としては、これらの美しい愛も結局は不毛と化してしまい、主人公ピエロが人間性を喪失している人格破綻キャラクターであるとはいうものの、アラン・ドロンのファンであるわたしには、若く直情的で恋愛に一途なものを垣間見せた彼のこのシーンでの演技が強く印象に残りました。
 ですから、なおさらのこと、この作品のラスト・シークエンスは考えさせられてしまいましたし、当時のアラン・ドロンについて想起することも多く生まれてしまうのです。


【『若者のすべて』と『山猫』のあいだに、もう一人のイタリアの巨匠、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』に出演した。(注1)
男と女の結びつきのむなしさ、人間の意識の奥にある埋めることのできない孤独感を描き続けているアントニオーニ監督は、私生活の上でも仕事の上でもいつもパートナーであるモニカ・ヴィッティの相手役にアラン・ドロンを選んだ。
(-中略-)
年上の女との恋や情事を知らなかったわけじゃないといっても、アランはまだ二十五歳になったばかり(注2)の青年だった。ロミー・シュナイダーとの大恋愛に心を燃やしたり、大喧嘩になったりという激しい時代だった。まだ、若かった。
モニカ・ヴィッティは四歳年上の女というだけでなく、『情事』『夜』(注3)などの映画を経て、そして長いアントニオーニとのつきあいから、人生をわかってしまうくらいに成長しきってしまった女である。
アラン・ドロンは、この映画を通じて、人間の、人生の、男の生き方の、いろいろなことを感じとったのだろう。男の孤独、人間関係のはかなさ、つれなさ、人と交わることの限界など人生の深い問題を学んだであろう。】

(注1)~同時期にフランスの巨匠、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒』、ルネ・クレマン監督の『生きる歓び』にも出演しています
(注2)~実際は26~27才
(注3)~『夜』では助演
【引用 『孤独がぼくの友だち アラン・ドロン』 ユミ・ゴヴァース著 新書館(1975年)】


 わたしは、生まれて初めて、映画館で47年前の映画芸術の歴史的傑作『太陽はひとりぼっち』を観終え、その充足感を噛締めながら、当時の若いアラン・ドロンの可能性などに想いを馳せて自宅への帰路に着いていたのでした。
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by Tom5k | 2009-02-28 22:14 | 太陽はひとりぼっち(5) | Comments(4)

『太陽はひとりぼっち』④~アントニオーニ作品について にじばぶさん と語る~

2007年6月17日付けで、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品について、わたしのブログ仲間のおひとりにじばぶさんと、たいへん有意義なお話ができましたので、ご紹介いたします。


トム(Tom5k)
にじばぶさん、ご丁寧なコメントありがとうございました。
>アントニオーニ関連のブログ
世紀の巨匠を語っているにじばぶんの記事は特別扱いしないと(笑)。

わたしも仕事が忙しくて記事更新もDVD鑑賞もたいへんですよ。最近はつい愚痴りたくなってしまいます。

それから、ぶーすかさんオカピーさん用心棒さんも、みなさん面白い方たちですよね。お知り合いになれてよかったと思っています。

アントニオーニ関連の記事はお気になさらないでください。ご丁寧にありがとうございました。
返って申しわけなく思っているところです。是非是非マイペースで。

>『欲望』
欲望
ヴァネッサ・レッドグレーヴ / / ワーナー・ホーム・ビデオ





おおっ。素晴らしい作品ですよね。わたしもこの作品はいろいろ考えさせられました。

最近『夜』と『女ともだち』をレンタルしてきました。これらも素晴らしい作品でしたよ。いずれ、みなさんと議論したいなあ、などと思ってしまいました。
さすらい/夜
/ アイ・ヴィー・シー





女ともだち
エレオノラ・ロッシ=ドラゴ / / ジェネオン エンタテインメント





では、お互いマイペースで頑張りましょう。


にじばぶさん
>Tom5kさん
コメントありがとうございます。

おっしゃるように、ぶーすかさんもオカピーさんも用心棒さんも、私とは比べようもない程の沢山の作品をご覧になられている方々なので、いつもあの方たちのブログやサイトを楽しみに観ているんです。
そして何より勉強になりますね。

『欲望』は大好きな作品で、観てから時間が経っても頭の中で色んなシーンがどんどん浮かび上がってくきますし、とにかく不思議でとてつもない魔力がこめられた作品ですよね。

とても魅力的で不思議な風の吹きすさぶ公園での撮影。
その後のゾクゾクするような現像シーン(ブロー・アップ・シーン)。
写真をどんどん引き伸ばしていって、いきなり人の手らしきモノが現れた時の、あの驚き!すごいですねー^^
そして更に引き伸ばしたら、見やすくなるどころか逆に見えなくなってしまったという顛末。
一定距離でしか見えないものは、そこに存在すると言えるのだろうか?言い切れるのだろうか?
存在の不確かさ。逆に不存在の曖昧さ。
どちらが存在するもので、どちらが存在しないものなのか?
それすらも終盤には分からなくなる。非常に哲学的な作品。
考えさせられます。

『夜』は、実は実質的にアントニオーニ作品の中では、『太陽はひとりぼっち』の次くらいに好きな作品になるかもしれません。
でも点数は7点をつけました。
何故かって言いますと、冒頭の末期ガンの友人が出てくるシーンがとても怖くて苦手だからです。
怖いから点数を低くするというのも幼稚かもしれませんが、あまりに怖すぎて不快感が出てしまったのです。
それだけ人の死に際って怖いですね。

でもその冒頭のシーンを除けば、上でも書いたように『太陽はひとりぼっち』の次くらいに好きなシーンの数々が続きます。
特にジャンヌ・モローがふらふらと街中を歩くシーンが大好きです。
理由は分からないのですが、とにかく惹かれるシーンです。
理屈ぬきの感覚的な好みです。

『女ともだち』は、私が始めて観たアントニオーニ作品で、全くああいった映画を見慣れていない頃に観た作品でした。
なので、もう一度見直すべき作品なのかもしれません。

長々と失礼しました。
これで一つの記事が書けてしまいそうな分量のレスをしてしまいましたね。(苦笑)

これをコピーして一つの記事にしようかしら?(爆)


トム(Tom5k)
にじばぶさん、わあ、すばらしいご意見ですね。

こちらにも素敵な記事がありました。覗いてみてください。わたしのコメントもあります(笑)。
(ヘンリーさんのブログ『マジック・映画について思うこと』 「太陽はひとりぼっち/L’ECLIPSE」)
(ヘンリーさんのブログ『マジック・映画について思うこと』 「欲望/BLOW-UP」)

>『夜』
いやあ、何とも言えずジャンヌ・モローの魅力はヌーヴェル・ヴァーグ諸作品の彼女に勝るとも劣らなく素晴らしい。彼女とは思わず不倫したくなりますよ(笑)。もちろん向こうが相手にしてくれないと思いますが(爆)。

>ジャンヌ・モローがふらふらと街中を歩くシーン
わたしもあのシーンに魅力を感じます。ブルジョアの虚無、不毛の愛の心象風景なのでしょうね。

ラスト・シーンの夫婦の抱擁もセクシュアルでありながらも、もう決して取り返しのつかない虚無的な夫婦愛でしたね。お互いの愛の確認はもう無理なんですよね。
あれならば、むかしからよく言う「貧乏人の子だくさん」のほうが、ずっと自然で美しく本質的な意味でのエクスタシーを得られるように思います。
ここ数年セックスレスなどという新語もできてますけれど、そういう意味でも時代を先取りしたアントニオーニの先見はさすがです。

>これで一つの記事が書けてしまいそうな分量のレス・・・これをコピーして一つの記事に・・・
是非是非、にじ&トムの対談記事で記事更新してくださいよ。にじばぶさんが無理なら当ブログで記事にしちゃってもいいですか?

今日は、『さすらいの二人』をレンタルしてきちゃった。久々にアントニオーニにはまっています(笑)。
さすらいの二人
ジャック・ニコルソン / / ソニー・ピクチャーズエンタテインメント





では、また。


にじばぶさん
>Tom5kさん

ご紹介のリンク先の記事拝見しました。
以前に両方とも拝見したことのある記事だったように思います。

<ラスト・シーンの夫婦の抱擁もセクシュアルでありながらも、もう決して取り返しのつかない虚無的な夫婦愛でしたね。お互いの愛の確認はもう無理なんですよね。(中略)ここ数年セックスレスなどという新語もできてますけれど、そういう意味でも時代を先取りしたアントニオーニの先見はさすがです。

おおぉ。
鋭いですねー!
おっしゃる通りです。
近年急増したセックスレスのまさに雛形といえるでしょう。
都会人の虚無感を描いた部分といい、その先見の目には脱帽です。

<にじばぶさんが無理なら当ブログで記事にしちゃってもいいですか?

是非是非、記事にしちゃって下さい。
とても嬉しいですね。

『さすらいの二人』は、ラストシーンが物凄く印象に残っています。
カメラが不思議な動き(部屋の中から外に出る動き)をするラストシーンです。
ジャック・ニコルソンが全編に渡って、気だるくウロウロするロードー・ムーヴィなテイストも大好きな作品です。


というわけで、にじばぶさんのご了承もあり、記事更新としました。
トム(Tom5k)
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by Tom5k | 2007-06-19 00:10 | 太陽はひとりぼっち(5) | Comments(21)

『太陽はひとりぼっち』③~「アラン・ドロン」の原型 ホワイト・カラー層として~

 アラン・ドロンを世に送り出した巨匠たちは、作品のうえで彼のキャラクターを次のように表現していきました。

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、血縁の両親でないにも関わらず、暖かい家庭に恵まれた幸せな青年や、外人部隊上がりの俗物のチンピラとして、
ルネ・クレマン監督は、コンプレックスと暗い欲望から犯罪者になってしまう青年や、不幸な育ち故、幸せな家庭に入り込んで背伸びをしてしまった明るい好青年、悪女たちにしてやられてしまうチンピラカード師、ファシズムを共通の敵にしているレジスタンスの闘志、第三共和政の中心的政治家として、
クリチャン・ジャック監督は、アラン・ドロン特有の二面性を明るい活劇に活かし、
アンリ・ヴェルヌイユ監督は、新旧ギャング・スターの対比で描き、
ルキノ・ヴィスコンティ監督は、封建時代のイノセントな青年が現代社会の毒にまみれる悲劇の労働者階級、そして時代を担う若手貴族として、
ジャン・ピエール・メルヴィル監督、ジョゼ・ジョヴァンニ監督は、映画のスター・システムの中での現代人のアウトサイダーへの共感を「フィルム・ノワール」で表現し、
ジョゼフ・ロージー監督は、完成されていたスター・キャラクターの奥にある彼の暗い異常性を引き出し、
自ら経営する映画会社アデル・プロダクションでは、古き良き時代のフランス映画の古典への懐古を徹底していきました。

 どの巨匠たちもアラン・ドロンの本質を種々の視点から見抜いて、彼の新境地の開拓に一役買っていったわけです。
 しかも、それら各々の主人公は、アラン・ドロンのキャラクターの本質と同一であり、巨匠として描きたかったテーマに沿った主人公そのものでもあったわけです。

 しかし、これらの素晴らしい巨匠たちのなかでも、特にミケランジェロ・アントニオーニ監督ほど、アラン・ドロンの未来を正確に予見した映画作家はいなかったと思います。
 彼はアラン・ドロンのビジネスマンや実業家、すなわちホワイト・カラー層としての素養をいち早く見抜き、それを現代青年の退廃に象徴しているかのような空虚で虚無的なキャラクターとして描き出していきました。

「証券取引所の喧噪のなかで泡のように実態のない儲けを求めて走り回る、株式仲買人たちや彼らを見守る株主たち。彼らもまた、広大な証券取引所の建物いっぱいに群がり押しあう凄まじい力のかたまりでありつつ、そのゆきつく果ての空虚さが、私たちを慄然とさせるだろう。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】


 1920年代ソ連の「社会主義リアリズム」の映画作家セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』を代表とした作品群では、ほとんど素人の一般市民たちを「生きたモデル」すなわち「型・典型」として、俳優に使用していきました。
 これは「ティパージュ」という手法として体系づけられており、職業俳優の演技力やスター・システムによるネーム・バリューに依存するのではなく、その主題に最もふさわしいキャラクターを重視して、あえて素人を登場人物に配置し、モンタージュ技術を駆使することなどによって、俳優を素材の一部として取り扱い、テーマに合致させるという映画特有の理論に基づいたものでした。
戦艦ポチョムキン
/ アイ・ヴィー・シー





 1940年代から50年代のイタリアでの「ネオ・リアリズモ」運動も、この俳優論から多くの影響を受けていたようです。
 当時のヨーロッパの多くの優れた映画作家たちに気に入られ、演技指導を受けていったアラン・ドロンも、職業俳優及び映画スターであったわけですが、種々の視点によって、映画の主題に合致した要素、あるいは素材としての素人俳優であったとも解釈できるように思います。


 ミケランジェロ・アントニオーニ監督と同様に、近代社会の疎外をテーマにして音楽活動をしていたピンク・フロイドは、彼のアメリカでの作品『砂丘』で音楽を担当しました。
 ピンク・フロイドのアルバム『A NICE PAIA』での立川直樹氏の解説によれば、彼らは相性が余り良くなく、ピンク・フロイドはアントニオーニ監督に対して、かなりの過激な発言をしていたようです。

 “アントニオーニの音楽の使い方はイモだった。何もわかっていない。”
                                 (ピンク・フロイド)
 “アントニオーニはクレージーな奴だ。僕達は映画で何にも完結しなかった。
  何故か彼は経験豊かな俳優と仕事をしなかった。
  『砂丘』の俳優は全てを注文通りにした。彼等には自由がなかった・・・。
                                 (ニック・メイスン)
【引用~『A NICE PAIA』ライナー・ノーツ(立川直樹・解説)】
砂丘
サントラ ピンク・フロイド カレイドスコープ グレイトフル・デッド パティ・ペイジ ヤング・ブラッズ / 東芝EMI





 そして、監督自身は映画俳優の使い方を次のように語っています。
「映画俳優は理解しないで、生きなければなりません。俳優が知的である場合には、よい俳優であろうとする彼の努力は三倍にもなります。(-中略-)自分で障害を作り出してしまうのです。(-中略-)
 映画俳優は心理的水準ではなく、想像の水準で働かなくてはなりません。そして想像は自ら発光するのであって、指で押すようなスウッィチはありません。(-中略-)俳優と監督は否応なく敵同士のようなものになります。監督が妥協せず、適切な意図を明らかにすることがよいことです。俳優は監督という城塞に入り込んだトロイの木馬なのです。
 私の好む方法とは、隠れた仕事を通して、確実な結果をもたらすものです。俳優を彼自身も気付かない心の琴線で刺激することです。彼の頭脳ではなく、彼の本能を促すこと。正当化ではなく、啓示を与えること。(-中略-)監督は何を求めるか、自らわきまえていなければなりません。俳優が出してくるものの中で、悪いものと良いものを、無意味なものと役に立つものを選び分けられることです。(-中略-)
 即興的な俳優、いわゆる〈市井の(素人の)〉俳優から好ましい結果を引き出すことを監督に許す唯一の方法なのです。ネオレアリズモは私たちをこうしたことへと導きました。
 この話しは職業俳優についても言えることです。(-略-)」

 そして、『太陽はひとりぼっち』でのアラン・ドロンへの演技指導では、
「・・・アラン・ドロン本人には、後で誘拐に巻き込まれたパオロ・ヴァッサロという手本を与えました。彼は自分の父親の助手として証券取引所で働いていました。ドロンは証券取引所で、このパオロ・ヴァッサロを観察しました。彼が何をして、どのように動くのかを。」
【引用~『アントニオーニ存在の証明―映画作家が自身を語る』カルロ ディ・カルロ、ジョルジョ ティナッツィ編、西村安弘訳、フィルム・アート社、1999年】


 ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』の主人公ロッコ・パロンディ役も、アラン・ドロンは無産階級の典型的なモデルとして、選定・配置されたとも解釈できます。
 しかし、このキャラクター、ロッコ・パロンディは現代には存在し得ない前時代(封建時代)のものとして文学的なドラマトゥルギーをプロットとしていた側面も持っていました。
 現代(金融資本主義社会)に適応させた「生きたモデル」としては、『太陽はひとりぼっち』の主人公ピエロが典型的な登場人物だったとも言えるかもしれません。
 しかも、アントニオーニ監督の表現においては、「その当時のアラン・ドロン」ではなく、彼の未来への資質を見抜いており、その先見は恐ろしいまでに正確なものであったといえましょう。



 リアリズム作品の巨匠二人が、アラン・ドロンの過去と未来を同時期に描いていたこと。そして、その対比ほど、不思議な魅力を放つ視点はないように思います。

 後年、『百一夜』でアラン・ドロンの挿話を入れたアニエス・ヴァルダ監督もルキノ・ヴィスコンティ監督の過去の「ネオ・リアリズモ」作品に出演していた時代と現在の実業家時代のアラン・ドロンとを対比させたドキュメントを撮っていますし、『ヌーヴェルヴァーグ』に、アラン・ドロンを起用したジャン・リュック・ゴダール監督はロッコとピエロのキャラクターにより、二重性行の同一人物として描き出ました。

 愛する恋人を最愛の兄に強姦され、愛憎絡み合う兄の借金のために最も忌み嫌っていた職業を選ばざるを得ず、決して壊してはならない家族の絆さえ守りきれずに、現代社会の華やかな欲望溢れる都会に放り出されたロッコ・パロンディ。彼が、もしその社会に適応してしまった場合には、現代青年ピエロのこの退廃と空虚のキャラクターと同一のものになってしまうのかもしれません。


 アニエス・ヴァルダ監督の『百一夜』でのアラン・ドロン挿話として、極貧の生活からはい上がり、今や実業家・映画スターの座を勝ち取ってブルジョアジーとなった彼が、自家用ヘリコプターでジュリー・ガイエ演ずる若くて美しい女性主人公カミーユをパリ15区までエスコートするシークエンスがあります。その直後のショットに、「ネオ・リアリズモ」の巨匠の一人ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』のパロディがインサートされていました。

 彼女のモンタージュには、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ネオ・リアリズモ」作品から出発したにも関わらず、実業家、そして大スターになってしまったアラン・ドロンへの厳しい問いかけが表現されていたように思います。
自転車泥棒
/ アイ・ヴィー・シー






 彼女が象徴させたルキノ・ヴィスコンティ監督とアラン・ドロンの確執には、彼の「貧困への裏切りと決別」が暗喩されていたというわけです。

 そういう意味での解釈をもってすれば、『太陽はひとりぼっち』での主人公ピエロの退廃ぶりはひどく、わたしが以前の記事で書いたピエロの記載は訂正を余儀なくされてしまいます。
【この作品でのアラン・ドロンの演ずるピエロは、有能な証券マンで、育ちの良いホワイトカラーのエリートであり、ごく普通の明るい好青年です。彼にしては珍しく個性の弱い役柄】(2005-08-27 16:52『太陽はひとりぼっち』①~「愛の不毛」と「ネオ・リアリズモ」~)
 ピエロをこのように見ること自体、今日(こんにち)の時代の退廃と空虚に鈍感になっており、そういう自分に愕然としています。この青年の没落は、考えれば尋常ではなく、人間の孤独や苦悩を全く自覚することすらできなくなってしまった欠陥キャラクターなわけですから・・・。


 株式の大暴落のときの同僚の女性へのパワー・ハラスメントとも言える言動や、常連客の個人投資家達への答弁には眼を覆いたくなるものがあります。
「話す気はないですよ。何だと言うんです?今日の損失は僕のせいだ。でも今までさんざん儲けさせてあげた。あとは自分で何とかなさい」
「そんな・・・」

>顧客
「財産を処分しろなんて。」
>ピエロ
「だって当然でしょう。株が上がれば金を取り、下がれば払う。」
>顧客
「そうだが、でもどうすりゃいい。」
>ピエロ
「最初あなたの資金は50万リラだけだった。」
>顧客
「君のいう通りだが。」
>ピエロ
「2年で800万リラ儲けさせ やめろといのに聞かなかった あの金はいったいどこへ消えてしまった。あなたのせいだ。払うものは払ってもらう。」

 やけになって知り合いの女性とデートするときの言動もひどいものです。
 じろじろと無神経に彼女の髪を観て
>ピエロ
「染めたのか?前はブロンドだった。」
>女性
「これが本当よ。」
>ピエロ
「行けよ。僕は残る。」

 モニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアが、心配して会いに来てくれたときの、盗難に遭った自家用車の交通事故に関わる会話でも
>ピエロ
「ゆっくり落ちたんだ。車体は傷が少ない。」
>ヴィットリア
「心配なのは車体のこと。」
>ピエロ
「エンジンも心配だよ。修理に金がかかる。」
 このシークエンスのピエロの鈍感さには、思わず苦笑してしまいました。

「盗まれた車は泥棒ごと川に落ちていたのだが、その引き上げに立ちあいにいくドロンは、車から腕をなまなましく突き出している死人のことはいっこう気に留めず、車の損害のこと仕事時間のロスばかり気にしている。それらはいずれも、いかにもマネー・ゲームによる人間性の喪失を描いた深刻なシーンなのだが、しかしその傍らにヴィッティの茫漠とあまり表情を動かさない顔が並ぶと、どこかに一瞬はずれた、そしてそのはずれた一瞬のなかに真白な空虚が広がっているのがかいま見えるような、不思議なおかしさを漂わせる。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】

 このように考えれば、アニエス・ヴァルダ監督のアラン・ドロン観は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の描いたアラン・ドロン観を継承したものであるとも言えましょう。

 しかし不思議なことに、アラン・ドロンのスターとしての人気の絶頂は、実業家として活躍していた、このようなホワイト・カラー層としてのイメージにも比例していたような気がするのです。

 何故なのでしょうか?

 アラン・ドロンの人気の絶頂は、『あの胸にもういちど』(1967年)あたりから始まって、『個人生活』(1974年)、三船プロダクションでの『レナウンの紳士服ダーバンのCM』の時期だったのではないかと思います。

 特に、ホワイト・カラー層を演じた彼の作品の経緯をたどれば、

『あの胸にもういちど』はアラン・ドロン主演というより、当時の若者の矛盾を体現していたマリアンヌ・フェイスフルに主演を譲り、インテリゲンチャを演じたものの、それは実に品位の欠落したエロティックな大学教授の役でした。
『栗色のマッドレー』(1970年)では、恋愛に肌の色を持ち込む必要のないことを、プライベートでの最愛の恋人ミレーユ・ダルクとの対比にまで高めて表現し、
『燃えつきた納屋』(1973年)でも、逞しい農民の女性に謙譲してしまう検察官、
ブランド商品で固めたような『個人生活』でさえ、左翼中道の労働者政党の政治家であり、
『愛人関係』(1974年)ではミレーユ・ダルクを誠実に心底、愛してしまっている弁護士を演じて、女性ファンを失望させています。
(その後は『アラン・ドロンのゾロ』(1974年)や『フリック・ストーリー』(1975年)などから、正義を貫く反骨のキャラクターへと変貌を遂げ、映画スターとしては、自己の内部矛盾を社会への矛盾に解消してしまい、暗いアウトローとしてのスターとしての魅力を半減させ、人気の凋落傾向を辿っていくわけですが・・・)

 いずれにしても、人気の絶頂期に彼が演じたキャラクターは、ブルジョアジーやホワイトカラー層の役柄を演じてはいても、まっとうで純粋な意味でのそれは少なく、常にアウトサイダーとしての誠実さや、時に下層階級の品の無さを垣間見せるものであったと言えましょう。
 むしろ、それが現代のダンディズムやヒーロー観に象徴されていたことが、スターとしての人気を沸騰させていった要因のようにまで思うわけです。

 要するに彼は、どんなに上品ぶったホワイト・カラー層のキャラクターを演じていても、常に下層の人々や被差別者、社会のアウトローに対する親近を忘れたことは無かったのです。

「ドロンはギャバンとはちがいさまざまな異質なヒーローを演じながら、ドロン=ヒーローとして一貫性をもっている。彼は舞台経験がほとんどないだけに、かえってそういう芸当もできるのである。またそういう自信には一時代まえのギャバンの自信とはちがった近代性がある。TVコマーシャルにでても一向平気なのもそのためだ。」
【引用~「ユリイカ詩と批評1976年6月号~特集映画ヒーローの条件」(映画におけるヒーローと俳優 主としてフランス映画の場合 飯島正)】


 『太陽はひとりぼっち』は、アラン・ドロン主演の作品というよりもモニカ・ヴィッティの主演作品という印象が一般的ですが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のジャン・リュック・ゴダール監督は、アラン・ドロンを主演に据えて『ヌーヴェルヴァーグ』を撮ったときのインタビューで、彼の過去の出演作品について、次のように評しています。

「アラン・ドロンの出た『ヌーヴェルヴァーグ』を撮った時、本当にドロンと一緒に仕事をしたいと思ったのですか?」
「そうだ。それはまた、彼の年齢と物腰を思えば、彼が『パリの灯は遠く』や『若者のすべて』や『太陽はひとりぼっち』で見せた何かを再び見たいという欲望でもあったんだ。彼は3本の優れた映画を生みだした。それほど多い数ではないが、それだけあれば充分だ・・・・。」
【『現代思想 総特集 ゴダールの神話』(「映画はその役割を果たす術を知らなかった/リュミエール100年にあたってのインタビュー」ジャン・ピエール・ラヴォワニャ、細川晋 訳)青土社、1995年10月臨時増刊】
ゴダールの神話
/ 青土社




 その言説のとおりに、ゴダール監督は、アントニオーニ監督が未来のアラン・ドロンに見て取った退廃した空虚なホワイト・カラー・ビジネスマンの「愛の不毛」を、「愛の再生」にまで高めました。

「ドロンは電話の受話器をはずしてデートに邪魔が入らないようにしており、受話器を戻したあとも、電話が鳴っても出ずにじっとしている。それは、仕事に忙殺されてきた男の初めての人間性の芽生えのようであるが、同時にそれまでもっていた唯一のコミュニケーション手段ももはや信じられなくなった、孤独の確認、と言っていいのかもかもしれない。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】



 アラン・ドロンは『ヌーヴェルヴァーグ』で、愛憎絡み合う恋人の女性の手をしっかりと握りしめ、ラスト・シーンで楽しそうにジャンプするリシャール・レノックスを演じています。
 彼はヴィットリアのニヒリズムに巻き込まれた「孤独の確認」、すなわち虚無的な無気力に到達してしまったキャラクターを、未来に展望を持った「超・ピエロ」へと進化させているのです。

 もしかしたら、それは、アントニオーニ監督に予言された虚無的な未来を、自らの力で超越したアラン・ドロンに対する、ゴダール監督の絶大なる賛辞であったのかもしれません。
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by Tom5k | 2007-04-08 21:33 | 太陽はひとりぼっち(5) | Comments(11)

『太陽はひとりぼっち』②~現代社会のディスコミュニケーション「内的ネオ・リアリズモ」~

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品主題は今更言わずとも、「愛の不毛」であり、それは男女間のみならず、人間同士の「コミュニケーションの不可能性」を表現し続けていった演出でした。
【参考~koukinobaabaさんのブログ『Audio-Visual Trivia for Movie & Music』の記事「太陽はひとりぼっち L'Eclisse」

 その時代、その主題そのものが、ヨーロッパで初めてとも言われたワンショット・ワンシークエンスなどの映画技巧とともに実にセンセーショナルなものであったことは想像に難くないことです。

「『情事』のラスト・シーン。中心で真二つに分割された構図で、アントニオーニは、この二人の間の永遠の断絶を描いた。」
「『情事』の後に、彼は『夜』(1961)『太陽はひとりぼっち』(1961)『赤い砂漠』(1964)などの一連の作品で結局ただひとつのことを言っている。(-中略-)世間的に成功した作家夫妻、株式取引所をめぐる若い男女の短い出会い、また神経症的素質のために軽い狂気に陥った人妻など主としてブルジョワ階級を中心にして設定して彼らの間で人間と人間との連体や交流が、利害関係や習俗によってはもちろん、愛情やいわんやセックスによっても成りたちえなくなった、断絶と絶望の現代の一側面を描いた。」
【引用~『現代映画芸術』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1971年】
現代映画芸術 (1971年)
岩崎 昶 / / 岩波書店





マルチェロ・マストロヤンニ / / アイ・ヴィー・シー





赤い砂漠
モニカ・ビッティ / / ジェネオン エンタテインメント





 『太陽はひとりぼっち』にも、アラン・ドロン演ずるピエロとモニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアが初めて出会う証券取引所で、彼らがその施設内の支柱を挟んで左右に映るショットがあります。そこには彼らが出会ったときから、すでに深い溝、すなわち「断絶」のあることが表現されているのです。

 初めて二人が出会ってのデートのとき、キスを拒否したヴィットリアを見送るピエロに対して、ひとり彼女は振り向かずに歩き出します。
 振り返ってピエロを探すヴィットリアの後ろに既にピエロはいません。そこには閑散とした住宅街の風景があるのみでした。結ばれる前からの断絶、空疎な現代社会での「ディスコミュニケーション」という俗語がピタリと当てはまるショットが、このようにいくつもあるのです。

 ヴィットリアの虚無感と憂鬱については、あの有名な冒頭からワンショット・ワンシークエンスの恋人との破局のシーンから、充分に理解することができます。

 しかし、彼女が自分の生活に不足を感じ、常に無意識に何かを求めていることも間違いのないことなのだと思います。
「ヴィッティが友人の夫の操縦する小型飛行機ではしゃいだり、深夜友人のアパートで歓談したり、逃げた犬をみんなで追いかけたり、といった、それ以前の作品にはあってもきわめて弱々しかった、躍動する開放感に満ちたいくつかのシーンがある。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】
アントニオーニの誘惑―事物と女たち
石原 郁子 / / 筑摩書房





 深夜に友人宅での逃げた愛犬を追ったり、アフリカのケニアの魅力に踊りふざける様子、セスナ機での雲の中への飛行などのシークエンスには、常に暗鬱な彼女の、実は求めてやまないものの断片が垣間見えるように思うのです。
 それらは、無垢で単純な自然なものの姿なのかもしれません・・・そして、それと同様にピエロとの逢い引きに表れる彼女の表情に開放的な歓びが表現されているように感じるのです。
 若くエネルギッシュなホワイト・カラーのビジネスマン、ピエロ。彼への魅力の感じ方もこのような意味から理解できるような気がします。



 「太陽」は人類にとって最高・絶対の存在、その存在さえ蝕まれる日蝕、すなわち擬人化して表現すれば、このように孤立した太陽を『太陽はひとりぼっち(原題L' ECLISSE(日蝕))』とした邦題は面白いと感じます。
 その「太陽」とは、現代資本主義の象徴と役割を持った「証券取引所」を指しているのでしょう。その証券取引所での黙祷の後の大暴落のシークエンスでは、証券取引所の不必要性を表現しているようにも思われます(「証券取引所はひとりぼっち」???)。

「証券取引所は無くてはならないものかしら?」
ヴィットリアは醒めた表情でピエロに問いかけます。

【参考~サーチカさんのブログ『サーチカの映画日記』の記事「太陽はひとりぼっち/ミケランジェロ・アントニオーニ」

 当時のイタリアの「ネオ・リアリズモ」なるものは、戦後民主主義による左派系の影響を受けていたことは間違いないことで、ルキノ・ヴィスコンティ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルイジ・ザンパ、ピトロ・ジェルミ、ジュゼッペ・デ・サンティス、アルベルト・ラットゥアーダ、そして、ロベルト・ロッセリーニなどの演出は、無産階級である未熟練労働者の疎外された姿、ファシズムへの痛烈な批判を描いたものや反戦映画などの作品体系によるもので、ミケランジェロ・アントニオーニの出発点もそこにありました。

「『ポー河の人々』と『NU(都市の清掃)』のドキュメンタリー映画で、私は既に民衆に向かっていました。私は幾分自分自身のために、ネオレアリズモを創り上げなければなりませんでした。誰も私には教えてくれませんでした。私は民衆の世界を本能的に愛していました。思春期の頃、私は夜明けに起きて、田舎の方へと出発する馬車に乗り、御者と話しをしました。居酒屋の人々や女性の間で幾晩も過ごしました。私は彼らがとても好きでした。(-中略-)けれども、感情についての物語の中で、民衆について語るのは、私には難しいことに思えました。私が内面をよく知っていたのは、裕福なブルジョアという自分の環境でした。・・・」
【引用~『アントニオーニ存在の証明―映画作家が自身を語る』カルロ ディ・カルロ、ジョルジョ ティナッツィ編、西村安弘訳、フィルム・アート社、1999年】
アントニオーニ 存在の証明―映画作家が自身を語る
/ フィルムアート社





 「ネオ・リアリズモ」の継承者アントニオーニが、自身においても「内的ネオ・リアリスト」と呼ばれるようになっていった経緯については、このように、すでに各種の彼についての名著やインタビューでも十分に明らかにされています。

「(-略-)いうところの「近代化」社会、大衆社会に住む人間の当面するのっぴきならなぬ苦境は、ひと口にいえば、人間喪失、疎外状況というに尽きる。したがって現代の真剣また敏感な芸術家がこの主題をとりあげずにすまないことは当然であるが、映画作家としてのミケランジェロ・アントニオーニの特徴、そしてほとんど唯一の関心はこの一点に集中している。彼はかつてムッソリーニ時代には反ファシズムの地下運動者であり、戦後はネオリアリズムの創作人の一人であったが、さきに明らかにしたように中途で自ら名づける「内的ネオリアリズモ」に転換し、人間の心内にある「形而上的リアリティー」(フェリーニ)を目ざすことになった。」
【引用~『現代映画芸術』岩崎 昶著、岩波書店(岩波新書)、1971年】

「ネオ・リアリズモを救うためには、それを内面化する必要がある」(ミケランジェロ・アントニオーニ)
「(-略-)今、あなたは現代のブルジョワジーをどのように表現しますか?(-略-)
現代のブルジョワジーと比較すると、当時のブルジョワジーは白百合のようなものだったと言えるでしょう。(-中略-)ある種の特権の擁護のためと、彼らを絶滅へと導いている(ように思える)内的な堕落のために、ブルジョワジーは数多くの事件の糸を引いているように思います。(-中略-)今日『太陽はひとりぼっち』を作らなければならないとすれば、もっと非情で暴力的なものになるでしょう。」
【引用~『アントニオーニ存在の証明―映画作家が自身を語る』カルロ ディ・カルロ、ジョルジョ ティナッツィ編、西村安弘訳、フィルム・アート社、1999年】


 飛行機内ではしゃぐ有閑のマダムたち、飛行場でのレストランでは、店外のベンチに腰掛けている労働者たちの姿、店内でビールを飲むホワイト・カラー労働者の姿。
 わたしは、このワンシークエンスに、現代社会の現実、特に平和な社会であっても、それが実に空疎なものであることがシンボライズされていたように思うのです。
 その各々は、彼らのが映画という同一のフレーム内に表現されているにも関わらず、各々が遠く点在しているがために、「コミュニケーション」においての絶対的な不可能性が表現されているように思ったのです。


「現在を繊細に見つめて未来へと先鋭に向かうアントニオーニのまなざしは、当然つねに予言的な力を孕み、彼は『さすらい』で飛行場の建設が農民から土地を奪うことについて、『太陽はひとりぼっち』でマネー・ゲームの陥穽とアフリカの白人支配の終焉と核の恐怖とについて、『赤い砂漠』で工場の排水による公害問題について、『砂丘』で砂漠地帯への人為的な環境汚染について、そして16ミリの記録映画『中国』でたぶん文化大革命の限界について、他の映画作家たちにも観客たちにもはるかにさきがけて言及している。そして、それでいながらなお彼は進歩を信じ、人間は誤謬を正して前進すると考えるのだ。(-中略-)その等身大の個人が日常で否応なく出会うものとしてごく自然に政治的な場面を含み、そのとき人びとは決して現状に満足していないのだが、未来はもっとよくなると考え、そのために行動し、未来への希望を口にする。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】

さすらい
スティーヴ・コクラン / / アイ・ヴィー・シー





砂丘
/ ビクターエンタテインメント
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by Tom5k | 2007-04-08 13:56 | 太陽はひとりぼっち(5) | Comments(2)

『太陽はひとりぼっち』①~「内的ネオ・リアリズモ」の根拠~

 旧ソ連の革命映画の作家エイゼンシュテインは、カール・マルクスの『資本論』の映像化を目指していたといわれています。そのための創作ノートは、すでに発見されており(日本版「エイゼンシュタイン全集第4巻」所収)、いくつかの断片的な作品へのイメージが残されていたそうです。

 『資本論』は、世界中の映画人に多くの影響を与えました。ハリウッド映画でも、チャーリー・チャップリンが『モダン・タイムス』(1936年)で、「剰余価値」が生み出されいく過程でのプロレタリアートの搾取形態と、プロレタリアートが精神疾患を患う様子などをスラップスティックのコメディで創作しました。
モダン・タイムス
/ ジェネオン エンタテインメント





 また、ソ連のロシア・アヴァンギャルドを象徴する映画監督のフセボロド・プドフキンは『聖ペテルブルグの最後』(1927年)で戦場での兵士たちが倒れるたびに証券取引所の株価の数字が上がっていくというモンタージュ表現を用いました。

 戦後イタリアの「ネオ・リアリズモ」の体系は、1930年代のソ連の「社会主義リアリズム」の作品群の影響を受けた演出家たちが、創り出していったわけですが、1935年イタリアでは国立映画学校「チェントロ・スペリメンターレ・ディ・チネマトグラフィア」という映画実験センターが設立され、多くの左翼学生がここで学びました。
 ここでは一般公開を禁止されていた多くのソビエト革命映画を教材とし、自由に上映されていて、ミケランジェロ・アントニオーニも、ここの学生であったそうです。また、当時、すでに現役の映画監督であったロベルト・ロッセリーニや若きルキノ・ヴィスコンティもここで、多くのソビエト革命映画を夢中になって学習したそうです。

 何故、当時イタリアを旋風していたファシズムが社会主義を黙認したのでしょうか?
 それは、後のファシズムの代表であるムッソリーニの映画好きが幸いしていたためで、この「チェントロ」が治外法権ともいえた場所になっていたことによるそうです。
(参考~『エイゼンシュテイン 映像世紀への飛翔』 山田和夫 著 1998年新日本新書)
エイゼンシュテイン―映像世紀への飛翔
山田 和夫 / 新日本出版社






 さかのぼれば、ここにイタリア映画の基盤があったからこそ、敗戦後のイタリア映画の黄金期を築くことが可能だったのかもしれません。そして、アラン・ドロンが「ネオ・リアリズモ」後期に俳優としての幸運なスタートを切ることができた遠い要因のひとつとして、この「チェントロ」の存在は特筆すべきかもしれません。

 映画『太陽はひとりぼっち』の舞台は証券取引所です。そこは、活気に満ちていて、現代のエネルギーの源泉のようです。

 ルドルフ・ヒルファディングという経済学者は『金融資本論』という名著によって、現代の金融構造を徹底して分析したマルクス主義者ですが、アントニオーニ監督のこの『太陽はひとりぼっち』に関連する多くのものを感じる取ることができます。
金融資本論 1 新訳 (1)
ルドルフ・ヒルファディング 林 要 / 大月書店





 この作品でのアラン・ドロンの演ずるピエロは、有能な証券マンで、育ちの良いホワイトカラーのエリートであり、ごく普通の明るい好青年です。彼にしては珍しく個性の弱い役柄ですが、前半のエネルギッシュなキャラクターから、後半の悲しげな淋しい表情へと、若者が多くのことを知って大人になっていく様子をさりげなく好演しています。
※ピエロのキャラクターについては、後日(2007-04-08 21:33)、『太陽はひとりぼっち』③~ホワイト・カラー層としてのアラン・ドロンの本質~の記事内容で訂正しています。

 ルドルフ・ヒルファディングは『金融資本論』第二編第八章「証券取引所」で、証券取引所を考察しています。

 株式市場においての投機が行われる理由は、利子を請求できるからです。しかし、証券取引で発行される「有価証券」は、何の裏付けもないまま、貨幣がどんどん手放されていて、基本的には信用できるものではないのです。 
 また、投機をする場合、働く人々の働いた分の未支給賃金がどのくらいその企業に存在するのか、そして、今後それがどのくらい高くなっていくかが判断基準となります。そして、利子を請求するときの「有価証券」の売りと買いの金額差が、投機者同士での損得を発生させていきます。
 証券取引所は、このような各産業界、各企業の利潤がどのくらいになるのかを見込むことで、投資のやり方やその強さを把握し、必ず当たる博打ということで、投機を勧めていくのです。

 この『太陽はひとりぼっち』では株価の大暴落が描かれています。そこでは、ヴィットリアの母親も大損害を受けます。そして、一夜にして5000万リラを損失し、カフェで精神安定剤を服用する男の姿も描かれています。バブル経済が破綻して異常な犯罪や自殺、心の病が増え続ける今の日本が予見されていたようにわたしには見えてしまいました。

 そして、モニカ・ヴィッティ演ずるヴィットリアは、ピエロに出会ったときに疑問を投げかけます。
 「株で消えたお金はどこへいくの?儲かればお金が入るの?それは損した人のお金?」
 「そんなに単純じゃない」とピエロは答えます。

 投機業者にとっての関心は、請求されるときの利子の価格です。しかし、利潤の率は市場価格の変動や景気の状況などの多くの偶然性が要因です。つまり、投機に予想が不可能なことばかりで確実なものは何もなく、単純に利潤率の高い部門に投資が集中してしまうのです。
 大きな投機をする者が、小さな投機をする者に与える影響は大きく、大がかりな「買い」が発生すると相場の水準が高まります。そして、儲けてしまった大きな投機者は、もう投機を引き払ってもかまわなくなります。そのとき、小さな投機者である多くの一般大衆は、まだ、その場所に止まり、損失を背負ってしまうということも珍しくなくなります。株価の暴落はこのようにしてパニックを起こします。
 そして、小さな投機者には資本を喪失する不安が常につきまとっています。しかし、本人は複雑な金融システムの実情が全くわからず、株式市場の相場、つまり、証券取引所の判断を信頼するしかありません。
 しかも、信用取引では信用が低くなることで、有価証券を「売り」とすることができます。そして、それを別の者に安い価格で買わせます。信用を与えたり、無くしたりすることで相場をくずし、弱い小さな債務者を犠牲にしていきます。

 「証券取引所は無くてはならないものかしら?」ヴィットリアは醒めた表情でピエロに問いかけます。
 「みんな病みつきさ」苦しい表情でピエロは言います。
 「何に病みつきなの?」とヴィットリア。

 人間の欲望は商品を使用することで充足しますが、金融資本のシステムは、商品の生産とは全く別のものです。景気や証券取引の動向によってしか生まれない差額が投機にとっての「生産的活動」なのです。つまり、投機は何の商品も生産せずに、富の分配方法のみをシステム化したもです。証券取引所は単純に巨額の貨幣の集中・積み上げを行なうだけで、世の中全体に富を増やす直接の役割を持ってはいないのです。

 損失を背負わされた利子生活者であるヴィットリアの母親は
 「社会主義者が混乱を招くのよ」と言い放ちます。

 しかし、証券取引の役割は、銀行も含めて産業界全体の資本にのみ貨幣の裏付けを行い、富を積み上げていくことです。つまり、社会の価値を全てブルジョアジーの資本に集中しているのです。

 現代人の象徴である主人公のヴィットリアの日常生活での倦怠や退屈は現代の精神疾患の特徴と言っては言い過ぎでしょうか?それは、どこからきているのでしょう。この搾取形態の複雑さと、そこから生産される無機質な文明社会に存在している虚無感からではないでしょうか?
 ヴィットリアは、憧れのアフリカを想像し、自らの恋愛の破局を思ったのか
 「ここでは、愛さえも複雑だわ」と力無く呟く場面があります。

 しかし、虚無感だけなら、まだいいのです。
 わたしは、この『太陽はひとりぼっち』のラストシークエンスで、バスから降車したサラリーマンの読んでいた新聞の見出し

 「各国核の競い合い かりそめの平和」

のクローズアップのこのワン・ショットにより、この物語すべてが恐ろしさと絶望感で語られていたことがわかり、目の前が真っ暗になりました。
 そして、カメラは遠くで遊ぶ子ども達の姿から、無表情な人々の姿、廃墟のような住宅街が映し出され、危機感をあおるような効果音響、そして、突然、街灯に灯りがともり、不自然な灯りのアップからフェード・アウトするラストシークエンス。

 ヒルファディングは、商品取引や銀行の利得の分析を行ったうえで、金融資本の独占・集中から自由競争が激しくなり、それが不況を生みだして恐慌の原因となっていくとしています。しかも、その経済政策は働く者の職業を奪いながら、国内市場で拡大を継続し、国際的な自由貿易にまで影響を与えるようになっていきます。つまり、力のある企業が資本を独占していき、国際関係にまで影響を及ぼし、最悪の場合には、国際間での暴力的衝突に帰結してしまうと警戒しています。

 アントニオーニ監督は、ヒルファディングと同様の見解で、最悪の事態をラストシーンに表現したのではないでしょうか?

 アントニオーニ監督は、日常の何不自由のない生活から生まれる怠惰や倦怠、そして、原因の分からない不安感などを忘れ去るために、あえてエネルギッシュな曲調のリズムを好んでしまう一般大衆の嗜好を感じ取って、ミーナが唄うツイストの主題歌を使ったのではないか、との所感が何かの書籍に書かれていた記憶があります。
 そして、映画のファースト・シークエンスで使用されているその曲は不自然に途切れ、不気味で不安な不協和音に変わります。これもアントニオーニ監督の演出の方法なのかもしれません。
太陽はひとりぼっち ベスト・オ
ミーナ / キングレコード





 この作品のテーマは「愛の不毛」であるといわれていますが、恋愛が単なる男女間の個人的な問題ではなく、社会と全く同じものであるということが描かれているのだと思いました。つまり、恋愛をファクターとした社会派の作品であると解釈できるが故、「内的ネオ・リアリズモ」の呼称で体系付けられているのでしょう。

 そして、今更ながら、ミケランジェロ・アントニオーニがイタリア映画全盛期の「ネオ・リアリズモ」の体系のなかで活躍した巨匠であり、アラン・ドロンは、そういった一連の作品のなかで、俳優としてのキャリアを積むことの多くの機会に恵まれていたことを思い返しました。
 アラン・ドロンは、本国では極端な共和主義者(フランス国内では右翼)であることが定着しているのですが、若い頃の彼にこのような基盤があることが、わたしとしてのアラン・ドロンのファンであることの誇りに結びつく理由のひとつとなっているのです。
 このようなアラン・ドロンのことを考えたとき、本物の右翼と似非の右翼の違いは歴然としてくるのではないでしょうか?
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by Tom5k | 2005-08-27 16:52 | 太陽はひとりぼっち(5) | Comments(20)