『プレステージ』~愛の再生・復活その5 『太陽はひとりぼっち』のピエロ再登場!~

 『プレステージ』の公開は1979年5月19日(土)ですから、今から36年前の私が高校1年生のときでした。
 私の住んでいた街でこの作品が公開された頃、当時にしては珍しくロードショーではなく、1週間程度の短期間での公開でした。初日は土曜日か日曜日で、その週末の金曜日までの公開期日となっており、しかも他の作品との併映だったため夜間の上映はありませんでした。
 「これでは、午後早い上映の鑑賞に間に合わなければ、一生、映画館で鑑賞する機会が無くなってしまうっ!」
 学校での授業中にそんなことが頭を駆け巡り、私はあせりました。
 当然、私は全く躊躇せず学校をサボることを決心し、帰宅して私服に着替える時間を惜しんで学生服姿のまま映画館に向かいました。
 しかし、平日の街中といえば生徒指導の巡回指導をしている教師たちも多い時代だったので、いつ補導されてもおかしくありません。補導されて『プレレステージ』を観ることができなくなることを考えると、映画館までの道中や映画館内、私は周囲を伺いながら常にビクビクしていました。
 今想い返せば、若い頃のとても想い出深い映画鑑賞のひとつとなっています。
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 併映の作品はアメリカのラジオDJであったウルフマン・ジャックが出演していた『ハンギング・オン・スター』で、内容はほとんど忘れてしまったのですが、とにかくウルフマン・ジャックが格好良かった記憶があります。彼の映画作品では『アメリカン・グラフィティ』(1973年)の日本公開が1976年で、こちらも小学校6年生のときに映画館で観ています。





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 さて、『プレステージ』ですが、アラン・ドロンの演じた主人公がとても忙しい古美術商で、ラスト・シーンで古美術のオークションで狙っていた壺を競り落としたとたんに心臓発作のため死んでしまうことや非常に無神経で相手の気持ちが理解できない人物を演じていたことなどが記憶にあり、特にミレーユ・ダルクが演じていた妊娠中の妻に出産日を早めるよう酷いアドバイスをしていたシーンが強烈に印象に残っていました。

 この作品は今から7年ほど前、2008年にようやくユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパンからDVD化されたので、発売と同時に早速購入し、29年ぶりに『プレステージ』のアラン・ドロン、ミレーユ・ダルクと邂逅することができました。その後は、何度も自宅で鑑賞し続けています。

 私はその再鑑賞の中で、アラン・ドロンが演じた主人公ピエール・ニオックスのキャラクターが、彼の過去のどの作品にその原型があるのかを考えてきました。
 その辿り着いた作品の主人公は、彼がデビュー間もない1961年に制作された『太陽はひとりぼっち』の証券マン、ピエロです。26歳の若いアラン・ドロンが出演していたこの作品が常に頭に浮かび、現在では双方の主人公の共通項が頭から離れなくなってしまいました。彼はどちらの作品でも有能な実業家やビジネス・マンを演じており、かつ実生活においても多くのビジネスに精通している実業家であることと重ね併せてしまうからかもしれません。
【参考 『太陽はひとりぼっち』③~「アラン・ドロン」の原型 ホワイト・カラー層として~

 『プレステージ』の制作が1977年ですから、『太陽はひとりぼっち』のPiero(ピエロ)は、16年の歳月を経て再登場したと私は考えています。主人公の役名がPierre(ピエール)であることも偶然とは思えません。 
 Piero(ピエロ)は、『太陽はひとりぼっち』で証券取引所でエネルギッシュに活躍していた頃と同様に、相変わらず無神経な言動を繰り返しながら、家屋・土地など不動産や古美術を転売するPierre(ピエール)へと年齢を重ねていったように見えるのです。
 
 ところで、少し話が逸れてしまうのですが、わたしは今まで、アラン・ドロンのファンではない人達からの何気ない感想に、彼の本質を見抜くような鋭い内容が含まれていて、物凄く驚かされたことが何度もありました。

 そのなかに、

「アラン・ドロンが出演している作品を観ていると疲れる。」

と言っていた女性がいました。

 彼女が今まで鑑賞したアラン・ドロンの出演作品では、彼の落ち着きの無い仕草、行動が神経に触り気持ちがたいへん疲れたそうなのです。もちろん、そんな感想を持つくらいですから、彼女はアラン・ドロンのファンではありません。

 そして彼女は、『太陽はひとりぼっち』や『プレステージ』はもちろんなのですが、何とっ!アラン・ドロンが極限的に「静」の美学を表現したともいえるジャン・ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』においてさえ、その行動への嫌悪感が例外ではなかったと言うのです。

「こせこせ、走り廻ったり、急に電車から飛び出たり、ああ、ホント観ていて疲れるわ。」

と、彼女は『サムライ』を観た後、うんざりしたと言うのです。もちろん、地下鉄構内で警察の尾行から逃げまわるあの映画史的にも有名なシークエンスのことです。
 ファンであるならば、このようにアラン・ドロンの批判を直接聞けば不愉快になると思うのですが、私はその意見の不思議な説得力によって、あらためて「アラン・ドロン」の特徴を確認できたことに大きな歓びを感じてしまいました。
 そう、これはその作品の主人公のそれではなく、紛れも無い「アラン・ドロン」という映画俳優の特徴のひとつなのです。そして、『太陽はひとりぼっち』の主人公Piero(ピエロ)と『プレステージ』の主人公Pierre(ピエール)には、そのせわしない仕草、落ち着きのない行動が最も顕著に表れているのです。

 確かに『太陽はひとりぼっち』については、アラン・ドロン自身も次のように語っています。

【>『太陽はひとりぼっち』では全く違いますね:証券取引所のシーンでは動くのを止めません。カメラがあなたをフレームに収めきれず、あなたはどんどん横へ行ってしまうのです。
>アラン・ドロン
私はよくカメラマンとは問題を起こしていたんだ、頻繁にフレームの外へ行ってしまうんだね。私の動き方を知らないカメラマンは追い切れない(笑)あの作品はとても注意深いカメラマン(訳注:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ)で私をフレーム内に収めている。でなければ私は先へ行ってしまうんだ:追っても、もう他へ行ってしまっている・・・動くのが私の性格なんだろう。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その3(インタヴュー和訳)」

 また、『プレステージ』でも、彼のその典型的な動作が十分に写しとられています。
 特に、Pierre(ピエール)がミレーユ・ダルクの演ずる恋人のエドヴィージュが購入したアパルトマンの改装に立ち会うシークエンスでは、驚くことに、フレーム内で被写体(アラン・ドロン)の動き自体が振れてしまっており、そのショットをそのまま使用しているのです。一瞬でしたが意図的なカメラ操作ではなく、動きまわるアラン・ドロンにカメラ・ポジションを確定できず手振れを起こしたものではないかと思います。
 ドキュメンタリー映像に良くありがちな何ともリアルなシーンとなっており、私は強く印象に残りました。

 これらのことからも、この2作品の主人公には多くの共通点があることがわかります。

 さて、本題に戻りましょう。
 各作品での主人公には人間性の重大な欠陥が露わに表現されています。特にそれは主人公の典型的なハラスメント的言動において顕著であり、これもまた、2作品の更なる共通点でもあります。

 『太陽はひとりぼっち』では、主人公Piero(ピエロ)が、同僚の女性職員が退勤するシーンで、

>残業が嫌になったのか、135センチのデブとデートか。
とか、

 女性とデートするときも、じろじろと無神経に彼女の髪を観ながら、

>ピエロ
「染めたのか?前はブロンドだった。」
>女性
「これが本当よ。」
>ピエロ
「行けよ。僕は残る。」

など、酷い言動をしています。

 また、『プレステージ』でのPierre(ピエール)の無神経な言動も尋常ではありません。彼は妻となったエドヴィージュの妊娠に対して、何と出産の予定月日を早めることを促すのです。

 これらのハラスメント的な言動は、その落ち着きのない行動とともに両作品のアラン・ドロンが演じた主人公の強烈な個性であり共通点ですから、やはり、ここでもPiero(ピエロ)とPierre(ピエール)が、私には同一人物だとしか思えないのです。

 そんな主人公の辿っていった顛末はどのようなものだったでしょうか?
 まず、『太陽はひとりぼっち』では、ラスト・シークエンスでの主人公Piero(ピエロ)の様子に、それが集約されています。

【ドロンは電話の受話器をはずしてデートに邪魔が入らないようにしており、受話器を戻したあとも、電話が鳴っても出ずにじっとしている。それは、仕事に忙殺されてきた男の初めての人間性の芽生えのようであるが、同時にそれまでもっていた唯一のコミュニケーション手段ももはや信じられなくなった、孤独の確認、と言っていいのかもかもしれない。】
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】

アントニオーニの誘惑―事物と女たち

石原 郁子 / 筑摩書房



 更に、『プレステージ』では、主人公Pierre(ピエール)の人間性の欠如の顛末として、結局はその末路を死によって表現せざるを得なかったのではないか、と私は考えました。この作品での死の表現は、彼が出演してきた多くの「フレンチ・フィルム・ノワール」での「死の美学」とは全く異なるものとなっています。つまり、アラン・ドロンは、死を美学としてきた過去の作品のテーマを否定的に総括し、彼の実生活とも重ねることができるそのビジネス・ライクが、虚無(ニヒリズム)であることを表現せざるを得なかったと私は考えてしまったのです。
 これは、この時期のアラン・ドロンのプライヴェート生活の中で、彼自身が実業家であることの矛盾にまで斬りこまれる深刻なテーマだったかもしれません。

 そして、この作品の7年後、アラン・ドロンは、『太陽はひとりぼっち』から23年後の1984年に、『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』で、妻の不貞に苦悩する夫、夫としての許容を超えた実業家を演じます(【『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』③~愛の再生・復活その3 セザール賞主演男優賞受賞~】の記事参照)
 ここでは、デビュー当時は「シネマ・ヴェリテ(映画=真実)」作品の騎手としてセンセーショナルな活躍をしてきた巨匠、ベルトラン・ブリエ監督のもと、実業家・ビジネスマンの立場で、夫としての限界状況を超越し夫婦愛を再生させる主人公のロベール・アヴロンシュを演じて新たな境地を拓くのです。

【>ベルトラン・ブリエの『真夜中のミラージュ』では笑わそうとする意志が感じられましたね、それが一番の狙いではないにしろ。
>アラン・ドロン
ブリエの現場は本当に素晴らしかったね。ロージー以来、私はブリエのような人を待っていたんだ。他の監督たちに侮蔑的に聞こえて欲しくはないけどね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その6(インタヴュー和訳)」

 更に6年後、『プレステージ』から13年後、『太陽はひとりぼっち』から29年後の1990年に、彼は、とうとう「ヌーヴェル・ヴァーグ」の巨匠、ジャン・リュック・ゴダール監督のもと、『ヌーヴェルヴァーグ』に辿り着くことになります。この作品でのアラン・ドロンは、愛憎絡み合う恋人の手をしっかりと握りしめ、やはり愛を再生させる実業家リシャール・レノックスを演じました(【『ヌーヴェルヴァーグ』④~愛の再生・復活その1 現代思想の実践~】の記事参照)
 しかも、この作品でのジャン・リュック・ゴダール監督は、明らかにアラン・ドロンの過去の作品『太陽はひとりぼっち』を意識してアラン・ドロンに主人公を演じさせているのです。これは凄いことです。

【>アラン・ドロンの出た『ヌーヴェルヴァーグ』を撮った時、本当にドロンと一緒に仕事をしたいと思ったのですか?
>ジャン・リュック・ゴダール
そうだ。それはまた、彼の年齢と物腰を思えば、彼が『パリの灯は遠く』や『若者のすべて』や『太陽はひとりぼっち』で見せた何かを再び見たいという欲望でもあったんだ。彼は3本の優れた映画を生みだした。それほど多い数ではないが、それだけあれば充分だ・・・・。】
【『現代思想 総特集 ゴダールの神話』(「映画はその役割を果たす術を知らなかった/リュミエール100年にあたってのインタビュー」ジャン・ピエール・ラヴォワニャ、細川晋 訳)青土社、1995年10月臨時増刊】

ゴダールの神話

青土社



 アラン・ドロンが、この2作品で演じた主人公は、『太陽はひとりぼっち』や『プレステージ』と同様にビジネスマンや実業家なのですが、描かれているテーマや結末は全く異なったものとなりました。
 1961年に『太陽はひとりぼっち』のラスト・シークエンスで、孤独である自分に気がつくことができたPiero(ピエロ)は、1977年に『プレステージ』でのPierre(ピエール)の死による結末を経たからこそ、『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』(1984年)でのロベール・アヴロンシュと『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)のリシャール・レノックスによる「愛の再生・復活」のテーマに結実することができたのでしょう。

 彼は、「フレンチ・フィルム・ノワール」の傑作『殺られる』(1959年)やハリウッドでも評価が高かった『Mr.レディMr.マダム』(1978年)などの傑作を撮った名匠エドゥアール・モリナロの演出のもとで、現代人の人間性の欠陥、特に女性への蔑視を死滅させ、人間性の価値を再生・復活させるための人間表現の新たな一歩を踏み出すことができるようになったとも考えられます。
 『プレステージ』での死の結末は、『太陽はひとりぼっち』から出発した現代ビジネスの虚無(ニヒリズム)との闘いの結末として、それを死滅に至らしめるための人間表現であり、アラン・ドロンにとっては絶対に必要なものだったのではないでしょうか?

※ エドゥアール・モリナロ監督については、こちらに素晴らしい記事があります。koukinobaabaさんの「Audio-Visual Trivia」の記事「エドゥアール・モリナロ Edouard Molinaro」です。

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 彼は、このような死を表現することができたことによって、ようやく新たな生、すなわち、ホワイトカラー層としての充実や展望、現代のビジネス・マンや実業家の辿り着くべく理想像の確立に立ち向うことができるようになったのだとすると、この『プレステージ』は、その出演作品の中でも、たいへん重要な位置に存在する決して忘れてはならない貴重な作品であると私には思えてくるのです。
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by Tom5k | 2015-02-01 17:38 | プレステージ | Trackback | Comments(0)