「ほっ」と。キャンペーン

『Le toubib(未知の戦場/ヨーロッパ198X)』~1983年、6度目の来日その1~

 最近、You Tubeの動画で「アラン・ドロン」を検索してみたのですが、何と!1983年、47才のときに6度目の来日を果たした時のアラン・ドロンを特集したワイドショー番組の映像が4本もアップされており、興味深く拝見していたところです。本当に驚きました。

 まずは、1983年10月27日(木)放送に放映された「3時のあなた」。この番組は、1968年4月1日から1988年4月1日までの20年間、フジテレビ系列で平日の15時から15時55分に生放送されたワイドショー・情報番組でした。
 この日は、芸能レポーターであり、映画評論家の福岡翼と東映の任侠ヤクザ『緋牡丹のお竜』などのお竜シリーズに主演していた藤純子さんの司会と解説で始まり、フジテレビアナウンサーの野間脩平さんがアシストする映像から、アラン・ドロンの記者会見での現場を特集レポートしたものでした。

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 アラン・ドロンの日本での滞在前半(10月27日(木)から10月31日(月))は、「アラン・ドロン」商標登録商品の日本での市場展開の視察、共同事業としてプロダクトしていた博報堂と、そのプロモーション、そのアンダーライセンスの招聘による来日だったことが紹介され、また、そのインタビューでは、「日本のファンの声が無かったこと、ここ数年、製作スタッフが変わり、映画の内容も変わってきたことなどから日本のファンのお気に召すものが無かった・・・。」など、久しぶりの来日に関するアラン・ドロンの回答が中継されていました。

 アラン・ドロンの日本滞在は、その後、11月2日(水)から11月6日(日)の間で、日本・香港を往復し、11月6日(日)から、『危険なささやき』のためのキャンペーンで再来日するスケジュールだったそうです。この放映はその初日の記者会見の模様を取材し放映したものだったそうです。

 次に、1983年10月29日(土)に放映された『ミエと良子のおしゃべり泥棒』ですが、この番組は、1980年4月18日から1987年3月27日までテレビ東京(東京12チャンネル)で放送されたトーク番組です。(元)アイドル歌手の中尾ミエさんと(元)黒澤プロダクション所属のフォークシンガーの森山良子さんが司会を務めていた番組でしたが、私はリアルタイムでこの放映を観ていた記憶があり、たいへん懐かしく鑑賞できました。
 この番組の趣旨のとおり、プライヴェートの友人としての会話を楽しむような構成・内容でした。

 1983年11月8日放送『モーニングジャンボ奥さま8時半です』は、毎日放送のワイドショー番組で、1972年から1984年まで、毎週月曜日から金曜日の朝に放送されていました。これは、鈴木治彦アナウンサーが司会を務め、宮崎総子さんが「総子がせまる!いい男コーナー たまらなく男ざかり!アラン・ドロン」のコーナーで採り挙げられていたものです。

 その前日の7日(月)に放送された『朝のホットライン』は、1981年9月28日から1990年3月30日まで毎日放送で放送されていた朝の情報番組で、この日は、フリーアナウンサー荻島正己さんとテレビキャスター・リポーター宇江佐りえさんが司会を務めていました。
 ここでは、アラン・ドロンのスケジュールが紹介され、断片的ではありましたが、彼の行く先々の様子がカメラに収められていました。

10月27日(木) 成田到着
10月28日(金) マツダ モーターショー視察
10月30日(日) 高島屋(日本橋) 三越デパート(銀座)
10月31日(月) 広島到着 マツダ(東洋工業本社)訪問
11月 1日(火) 広島市を訪問、原爆慰霊碑に献花
11月 2日(水) 香港
11月 6日(日) 再来日
11月 7日(月) 「危険なささやき」キャンペーン記者会見
11月 8日(火) 帰仏

 私が印象に残ったのは、マツダ本社の招聘で訪れていた広島市内での広島平和記念資料館の視察でのアラン・ドロンでした。彼は険しい表情で被爆者の写真に見入り、非常に動揺した様子がカメラに収められており、これは私に強烈な印象を残しました。
 彼は極力、動揺を隠そうとしていたようにも思いますが、微かに涙を拭っていた瞬間があったように私には見えました。メディアを通して、このような素顔の「アラン・ドロン」の映像が存在していたことは、本当に貴重なアーカイブであると思います。
 それにしても、大日本帝国の広島へのアメリカ合衆国からの原爆投下を、彼はどのように捉えたのでしょう?

 そう考えたとき、わたしは、主に外国映画の輸入の仕事に携わっていた映画評論家の秦早穂子氏に「スクリーン」誌上(1960年3月号)でインタビューされていた25才のアラン・ドロンを想い出しました。

 その秦早穂子氏との会談(インタビュー)では、アラン・ドロンの尊敬できる監督、好きな監督の話題になり、当時の彼は当然のことながらルキノ・ヴィスコンティやルネ・クレマンを挙げ、更にはクロード・オータン・ララの名前までを挙げていました。まだルキノ・ヴィスコンティやルネ・クレマンの作品に出演する前のインタビューであるとはいえ、アラン・ドロンの映画のファンであるなら、これは当然の回答であると察するでしょう。

しかし、何とっ!その後に、
信じられないことなのですが、彼は、「ヌーヴェルヴァーグ」左岸派のアラン・レネを挙げているのです・・・。

>アラン・ドロン
「あっ、それからアラン・レネ!」
またしてもアラン・レネである。それにしても日本映画界はレネに対して冷たかった。
>秦早穂子
「ヒロシマ・モンムナールでしょ。」
>アラン・ドロン
「そう、あんな美しい映画はないな。単なる恋愛映画じゃなくて、大きな問題を含みながら、につめてしまった演出法!」】
【「てんやわんや会見記」秦早穂子(月刊スクリーン 1960年3月号より)】
※ 『ヒロシマ・モンムナール』の日本公開時の邦題は『二十四時間の情事』

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 この当時のアラン・ドロンが、どこまで広島を理解していたのか、しようとしていたのかは知ることはできませんが、「・・・大きな問題を含みながら、・・・」と、彼なりにこの作品の魅力を語っていたのです。

 そして後年、彼は次のように述懐しています。

【(-略)・・・役者を始めた頃は、私は「ハンサムな間抜け」だった。その後は何かを見出さなくてはならなかったんだ・・・(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」カイエ・ドュ・シネマ501号掲載

 そう、まさに彼は「何かを見出」そうとしていたに違いありません!

 インドシナ戦線は、アラン・ドロンが主演したコロンビア映画の『名誉と栄光のためでなく』(1965年)のストーリー前半でも舞台となっていますが、1952年、彼は実際に17才という若さで、ベトナム民主共和国などがフランス共和国からの独立を巡ってインドシナ地域で紛争となったこの戦線に志願兵として入隊しています。

 幼少期から家庭環境が荒んでいたアラン・ドロンは、若さゆえ戦場というもののイメージが貧困であったからだと思うのですが、フランス外人部隊に自らの居場所があると信じてしまったのでしょう。
 しかし、彼は危険な戦場での悲惨な生活を実体験したことによって、実母と義父が、17才の未成年であった彼の志願・従軍に対して積極的に承諾した理由を知ることになります。それは自分が両親に全く大切にされずに厄介払いされた事実を認識することだったのでしょう。悲しいかな、彼が帰還した後には、彼らの親子間の確執は更に大きく拡がってしまったそうなのです。

【>あなたは一人っ子でしたね?
>アラン・ドロン
一人っ子で私生児だよ、両親になるべきカップルのね。すぐに別れてしまったがね。二人とも人生をやり直したわけだ。父には別に2人の息子が出来て、母には娘ができた。早い時期から私は寄宿舎と学校を渡り歩いていたんだ。14才の時、アメリカへ行った。17才で、軍隊に入隊した。21になるまで軍隊生活。様々な仕事をやっていて、映画が来たんだ。でも私は生涯孤独だったね。・・・(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/8「回想するアラン・ドロン:その4」  インタヴュー和訳)」カイエ・ドュ・シネマ501号掲載

 意外なことなのですが、彼が出演している作品で直接戦場を舞台にしたものはそれほど多くはありません。インドシナ及びアルジェリア戦線を扱った『名誉と栄光のためでなく』、そして、フランス本土ナチス・ドイツ占領下の時代のレジスタンス運動や連合軍のナチスとの戦いなどを描いた『パリは燃えているか』(1965年)ぐらいなものです。『パリは燃えているか』はレジスタンス運動の指導者のひとりであった第三共和政の幕僚ジャック・シャバン・デルマスを演じたので、実際の兵士役は、『名誉と栄光のためでなく』のエスクラビエ大尉のみです。

 しかし、自らインドシナ戦線に従軍した経験を持ったからこそ、なのでしょう。『名誉と栄光のためでなく』での大尉役はもちろん、『さすらいの狼』(1964年)での逃亡兵の悲劇、『悪魔のようなあなた』(1967年)、『さらば友よ』(1968年)などで演じた兵役から帰還した主人公が事件に巻き込まれていく「サスペンス」作品や「フィルム・ノワール」作品は、彼にとって演技する努力すら必要の無いほど自然でリアルな役回りだったと思うのです。

 特に、

『名誉と栄光のためでなく』でのアルジェリアの独立運動、特に元同僚が率いるパルチザンへの非人間的な攻撃、に対する自国の軍隊に絶望する大尉、

『さらば友よ』での戦場で誤って親友を銃撃してしまった軍医、

などは、彼の直接の戦争体験を活かして素晴らしく魅力的なキャラクターを演じた作品でした。
 しかし、これらは、あくまで「アクション」や「サスペンス」などのプロットを主軸に主人公個人の美しい心情や友情をテーマとして描いており、社会的な問題を描き切った作品までには至っていません。

 やがて、これらの作品以後に彼がプロデーュース及び出演したものの中に、東西冷戦時代の国家間の謀略や第二次世界大戦中のファシズムの恐怖など、リアルな社会問題をテーマとして扱った作品が出現し始めます。
 エンターテインメントの殿堂であるアメリカ映画でありながら、社会的な問題を深く掘り下げた作品に最も「アラン・ドロン」らしいキャラクターで出演し、自らの俳優人生に最も大きな影響を与えた巨匠の一人、ジョセフ・ロージー監督との邂逅によって、映画史的傑作である社会派の作品に出演、製作するなど、俳優並びにスター、プロデューサーとして非常に高いスキルで社会的に価値ある作品に自らの意志で関わっていくようになるのです。

『暗殺者のメロディ』(1972年)では、ユダヤ系のロシア革命の指導者レオン・トロツキーの暗殺を描いた前衛作品での暗殺者、

『スコルピオ』(1973年)では、東西冷戦時代に暗躍していた国際情報組織CIAに利用され犠牲になる雇われテロリスト、

『パリの灯は遠く』(1977年)では、第二次世界大戦中にユダヤ人と間違われ、誤ってアウシュビッツ収容所に護送されてしまう人格破綻者、

 このような深いテーマの作品にも、自らの経験を社会的な問題にまで掘り下げて投影できるスター俳優に成熟していったのです。

 そして、これらの作品を経て1979年に、いよいよ、自らのアデル・プロダクションの作品で、盟友でもあったピエール・グラニエ・ドフェール監督の演出により、『Le toubib(未知の戦場/ヨーロッパ198×)』を撮ることになります。
 この作品は、近未来の第3次ヨーロッパ大戦を背景に設定し、『名誉と栄光のためでなく』、『パリは燃えているか』以来、15年ぶりに直接の戦場を舞台としたフィクションでした。

 私がこの作品を観たのは、2012-09-12 00:01にアップした『3 hommes à abattre(ポーカー・フェイス)』~アラン・ドロン・ウィズ・ジャック・ドレー~の記事での内容の通り、VHSがビデオ規格の標準となって、レンタル・ビデオが専門店化し、定められたレンタル料金とレンタル期間によって、自宅のテレビで映画を鑑賞する時代が、いよいよ到来した昭和60年代頃から、レンタル・ビデオ店でむさぼるようにアラン・ドロンの日本未公開作品を探しまわっていた時期でした。

『Attention, les enfants regardent(ナイト・ヒート)』(1978年)
『Le toubib(未知の戦場/ヨーロッパ198×)』(1979年)
『Tegeran-43(テヘラン)』(1981年)
『Le choc(最後の標的)』(1982年)
『Le battant(鷹)』(1983年)
『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』(1984年)
『Parole de flic(凶悪の街 刑事の勲章)』(1985年)
『Le passage(デーモン・ワールド)』(1986年)
など、など・・・。

 平成元~3年頃になって、やっと私はこの作品に巡り会うことができたのです。
 もう20年以上も前の鑑賞で、その後は再見していないので、ストーリーの詳細は忘れてしまっているのですが、アラン・ドロンはヴェロニク・ジャノット演ずる看護士ハーモニーを恋人とする『さらば友よ』以来の野戦病院の軍医ジャン・マリーを演じました。恋人のハーモニーは事故か病気によって余命宣告を受けていた主人公で、ラスト・シーンでは、彼女が戦場で敵方の銃撃によって戦死してしまう内容でした。

 彼女が銃撃されるシーンは、ストップ・モーションかスロー・モーションで、ジャンの叫び声でエンディングだったと記憶しています。何せ、見終わった後は「ああ、戦争って嫌だなあ。」と強く感じたことを覚えています。
 さすがアデル・プロダクションでのピエール・グラニエ・ドフェール監督の演出には説得力がありました。20年以上、再見していないにも関わらず、そのとき観た印象が強烈なまま生々しく私の記憶に残っているのです。

 それにしても、

何も知らずに、自らの居場所をインドシナ戦線に従軍することに求め、両親との確執を深めてしまった17才のアラン・ドロン、

「大きな問題を含みながら、につめてしまった演出法」などと、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表作品を挙げて抽象的な感覚で映画への興味を語っていた世間知らずでありながらも大器を予感させる25才のアラン・ドロン、

インドシナ戦線への従軍の経験を活かして代表作品に出演していった人気全盛期の30代のアラン・ドロン、

国際的スターとして、俳優としての資質を高めながら、アメリカ映画やジョセフ・ロージー監督の社会派作品に出演していた30代後半から40代を迎えたアラン・ドロン、

自ら経営するアデル・プロダクションで反戦のメッセージを映画化した44才のアラン・ドロン、

6度目の来日時に広島を来県し広島平和記念資料館を訪れ、深い人間性を垣間見せた47才のアラン・ドロン、

 このように、若い頃の戦争体験から、年齢を経ることで様々な経験を加えて人生の本質に近づいていったアラン・ドロン、その人間性の向上には、ファンとしては本当に感慨深いものがあるのです。

『ヒロシマ・モンムナール(二十四時間の情事)』について
「そう、あんな美しい映画はないな。単なる恋愛映画じゃなくて、大きな問題を含みながら、につめてしまった演出法!」(アラン・ドロン 25才)
【1960年3月号月刊スクリーンより「てんやわんや会見記」秦早穂子】

「欧米人にとって原爆地のヒロシマは特殊な響きを持っているところだ。人類は二度とこのようなあやまちをくりかえしてはいけないと思う。」(アラン・ドロン 47才)
【1983年11月7日(月)に放送された『朝のホットライン』】

【>インドシナ戦争を経験したことは、あなたに何か残しましたか?
>アラン・ドロン
全てさ、全てを学んだと言ってもいい・・・

>トラウマはないのでしょうか?
>アラン・ドロン
自分の選んだことだったからね:家族的な雰囲気、肉屋、郊外の生活・・・そうしたことから逃げたかったんだろう。・・・(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その6」  インタヴュー和訳)」カイエ・ドュ・シネマ501号掲載

 このような彼の言動、そして実績から、アラン・ドロンが揺るぎない一貫した信条を持つに至った原因は、ファンであるならばたやすく理解することができます。

 それは、フランスでは現在でも右翼と言われているアラン・ドロンが、共産主義者であったルキノ・ヴィスコンティ監督やジョセフ・ロージー監督を師匠と仰ぎ、フランス共産党員であったイブ・モンタン、シモーヌ・シニョレ夫妻を尊敬し、左翼であるジャン・リュック・ゴダール監督と『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)を撮ったこと、そして、被爆地である広島に対して、20年の間に辿った変遷、更には、若いころの荒んだ志願兵時代を、「自分が選んだこと」と述懐し、自分の全ての学習の場であったとプラスに総括していったこと、など。

 「ハンサムな間抜け」から脱皮し、人生を肯定的にとらえることが出来るようになった老成円熟したアラン・ドロン、このように「何かを見出」していった彼の人生を理解するならば、ファンとして惜しみない拍手を送りたくなってしまうのは、私だけではないと思うのです。
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by Tom5k | 2014-10-19 13:03 | Le toubib | Comments(2)