『愛人関係』②~北海道が誇る釧路出身の直木賞作家「桜木紫乃を作った映画」の1本~

 北海道釧路出身の桜木紫乃は、自らの出身地である釧路を舞台にして男女の悲哀をテーマにした作風で活躍している売れっ子の作家であり、2014年直木賞作家でもあります。
 2014年(平成26年)2月発刊の月刊誌「ダ・ヴィンチ」2月号に彼女の特集が組まれていました。それは、「50万部突破のベストセラー『ホテルローヤル』著書の劇的半生 桜木紫乃という女」の標題による特集記事で、特に私の眼が引きつけられたのが、その記事での「桜木紫乃を作った映画」という項目でした。

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 彼女は、洋画や邦画を問わず、暗黒街を舞台にした「ギャングスター映画」や「フィルム・ノワール」が好きなようです。特集記事での彼女の挙げている映画作品は、『さらば愛しのやくざ』、『ゴッドファーザー』、『狼たちの挽歌』、『極道の妻たち』、『その男、凶暴につき』と続いていました。

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 そして、その「桜木紫乃を作った映画」の最後に挙げられていた映画作品に私の眼は釘付けになってしまったのです。

 何と!そこには、アラン・ドロンとミレーユ・ダルクが共演したジョルジュ・ロートネル監督の『愛人関係』が挙げられていたのです。これは、驚くべきことでした。そして、そこに掲載されている彼女自身の一文は、次のようなものでした。

【この映画を初めて観たのは、14歳のとき。ラストシーン、展望台の向こうから聴こえてくる一発の銃声、そのとき、これこそが物語の結末なんだ!と、たいへん影響を受けました。それは今も変わりません。また、中年になったアラン・ドロンも、やはりいい。いい男とは、年をとるほどセクシーになるのだな。】

 彼女は1965年4月生まれ、わたしは1964年3月生まれですから、2学年下になるわけです。この作品が公開されたのは、1976年ですから、わたしが小学校6年生、彼女は小学校4年生か5年生です。ですから、彼女がこの作品を観たのはその4年後なわけです。リバイバルされていた事も無いでしょうし、現在のようにDVDはもちろん、レンタル・ビデオなども無い時代ですから、恐らく、TV放映されたときに鑑賞したものだったのでしょう。
 私が初めてこの作品をTV放映で観たときのことは、もうあまり記憶には無いのですが、多分、彼女は同じ放映を観ていたのだと思います。私が観たテレビ放映は、高校1年生か2年生の頃ですから、間違いありません。

 14歳と言えば、中学2年生か3年生です。随分とませた中学生だったのかとも思いますが、文学少女というのは、このような感性を思春期の自己形成期に磨くものなのかもしれません。フランス映画としても、アラン・ドロン主演の映画としてもあまり評価の高くないこの作品が、我々の住む北海道、まして私も過去に仕事で6年間も赴任していたことのある釧路出身の桜木紫乃氏によって、このような素晴らしい評価を得ていることは、本当に嬉しいことだったのです。

 ラスト・シークエンスを「これこそが物語の結末なんだ!」とセンセーションな受け止め方を、こんなに素直に感性に取り込んでいる・・・驚くべきは、そのときの感動を「今も変わりません」と言い切っていることです。つまり、彼女の作品には間違いなくこの作品の影響が見て取れるはずであり、その彼女の小説が今、これほど世間で話題となっていることを考えれば、『愛人関係』も、また、今の時代に受け入れられる余地、つまり再評価される可能性の一端がここから読みとれるような気もしてくるのです。


【「愛人関係」ではミレーユ・ダルクを本気で愛しちゃう役をやっているんですけど、そういう意味でつまらなかったですね。(南俊子)】
【(『デラックスカラーシネアルバム5 アラン・ドロン 凄艶のかげり、男の魅力 斎藤耕一+南俊子《ドロンを語る》現代的な感性を表現できる不思議な人』南俊子責任編集 芳賀書店)】

 この作品の公開時のアラン・ドロンのファンの多くは『愛人関係』をアラン・ドロンのその時代のカリスマ的なスター性、すなわち女性から観て、ヨーロッパを体現できる憧れの二枚目フランス男優として鑑賞したのでしょうし、純粋に映画作品として鑑賞する前に、アラン・ドロンの私生活におけるミレーユ・ダルクとの関係がその在り方を歪めてしまっていたことも無理の無いことだったのかもしれません。
 ですから、南俊子氏のこの映画作品の評価も当時は一般的であり、時代の象徴的なものであったと察することはできるわけです。

 だた、桜木紫乃氏も、「中年になったアラン・ドロンも、やはりいい。いい男とは、年をとるほどセクシーになるのだな。」とアラン・ドロンの良い男ぶりを素直に評価してはいても、決してミレーユ・ダルクとアラン・ドロンの私生活によって映画作品まで悪印象になってしまうような歪んだ鑑賞はしていません。
 このことからも、この南俊子氏の所感こそが、プロの映画評論家としては最悪のものだと、私には感じられてしまうのです。

 若い頃のアラン・ドロンと婚約者ロミー・シュナイダーとの確執は、彼女が良き妻の立場より映画スターの立場を優先したことに起因していたとも考えられますし、前妻のナタリー・ドロンの映画出演にもアラン・ドロンは大きく反対していたそうですし、それが破局の大きな原因であったことは今更言わずもがなでしょう。

 しかし、ミレーユ・ダルクは、1969年に『ジェフ』で初めて共演してからは、この『愛人関係』(1974年)の外にも、『栗色のマッドレー』(1970年)、『プレステージ』(1976年)、『チェイサー』(1978年)など、何度もアラン・ドロンと共演しています。
 ミレーユ・ダルクは、ミラボーやモリエールなどの正当派のクラシカルな演劇を学んだ舞台出身の女優だったそうですし、1960年のデビュー作品も、オノレ・ド・バルザック原作のテレビ映画だったそうです。
 そして、アラン・ドロンは若いころからジュリアン・デュヴィヴィエやクリスチャン・ジャック、ルネ・クレマンなどの演出の下で古典的な作風の映画に出演し続けた映画スターでした。そういった意味でも彼女はアラン・ドロンの共演者として素晴らしいパートナーだったのではないでしょうか?


【>アラン・ドロン
(略~)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(~略)】 
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」



【>しかし、『ウィークエンド』は衝撃的な、すばらしい作品でした。もうゴダールの映画に出る気はありませんか?
>ミレーユ・ダルク
ありません。二度といっしょに仕事はしたくないですね】
【「映画とは何か 山田宏一映画インタビュー集」(草思社・1988年)】

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映画とは何か―山田宏一映画インタビュー集

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 美しい北フランス連峰の景観の中で、最も愛している女性の絶望的な状況を鑑みたとき、自らの手のよって殺害、無理心中するほどのイノセンスな愛情・・・このような純粋で美しい大人のロマンスなど、現代の社会ではファンタジーとまで云えるかもしれません。
 しかし、このような悲劇がテーマになっているからこそ、桜木紫乃氏が「これこそが物語の結末なんだ!」といまだに絶賛しているようにも思うのです。つまり『愛人関係』は、「人間の滅びゆく運命」をテーマにして暗鬱な文学的情緒を美学として描いており、フランス映画の演劇的伝統、すなわち、1930年代のシナリオ重視の「詩(心理)的レアリスム」の作品群が待っていた特徴を兼ね備えているのです。

 ですから、『愛人関係』は、ペシミスティックな作風を詩的情緒にまで高めてメロドラマ化していた1930年代のフランス映画体系「詩(心理)的レアリスム」へのオマージュとして制作された映画史的にも意義のある作品だと私は考えてしまうのです。
 そして、アラン・ドロンのファンである私にとっては、現在、大活躍している有名作家の感性が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」に否定されていったフランス映画の伝統を、現代においてようやく肯定してくれたような気がして、本当に嬉しかったのです。

【桜木紫乃「創作への芽生え・分岐点」
14歳(1979年)
この1年間で、決定的な出会いが立て続けに起こる。
① 両親が営む理髪店の2階に下宿していた大学生が残していった、段ボールいっぱいの本を読みふける。そこで原田泰子の『挽歌』に出会い、小説を志す。

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②  同じ頃、アラン・ドロンとミレーユ・ダルクの映画『愛人関係』を観て、「物語の最後はこれしかない」と衝撃を受ける。(略-)】
【2014年(平成26年)「ダ・ヴィンチ」2月号 -50万部のベストセラー『ホテルローヤル』著者の劇的半生 桜木紫乃という女-】 

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by Tom5k | 2014-04-10 21:13 | 愛人関係(2) | Trackback(1) | Comments(2)

『愛人関係』①~愛し合う男女の超悲劇、ミレーユ・ダルクの素晴らしい代表作品~

 アラン・ドロンの得意としていたジャンルである「フレンチ・フィルム・ノワール」の特徴によるものかもしれませんが、彼は、往々にして女性に対しては、デリカシーのない役柄が多く、それは恋愛を主題とする「メロドラマ」の代表作品である『高校教師』(1972年)や『個人生活』(1974年)においてさえ同様だったと思います。
 その出発点を思い返したとき、もしかしたら、「内的ネオ・リアリズモ」の巨匠であったミケランジェロ・アントニオー二が監督した『太陽はひとりぼっち』(1961年)で、彼が演じた主人公ピエロのキャラクターにまで、遡らなければならないかもしれません。

 ところが、この1974年に製作された『愛人関係』は、アラン・ドロンの演ずる主人公の弁護士マルク・リルソンが、珍しく、ミレーユ・ダルク演ずるペギー・リスターを本気で愛し、そして、そのデリケートな関係を描写し続ける作品となっています。
 そういう意味では、彼の主演作品としては非常に希有な傾向のものだと思います。

 しかし、このことを広い意味で捉えてしまうと、いよいよ自らのファンにまで、女性への無神経さが及んでしまったともいえるのかもしれませんが・・・?

【「愛人関係」ではミレーユ・ダルクを本気で愛しちゃう役をやっているんですけど、そういう意味でつまらなかったですね。(南俊子)】
【(『デラックスカラーシネアルバム5 アラン・ドロン 凄艶のかげり、男の魅力 斎藤耕一+南俊子《ドロンを語る》現代的な感性を表現できる不思議な人』南俊子責任編集 芳賀書店)】

 
 ところで、映画の主人公のキャラクターに、その俳優がはまり過ぎると、そのスター俳優はそれ以降、どの映画作品に出演しても、その当時の役名で呼ばれることが多くなることがあります。

 わたしが学生時代、映画好きの伯父の家に遊びに行ったとき、
「今日は、テレビで「ダーティハリー」が出ている映画をやるぞ。一緒に観ないか?」
と誘われたのですが、実際にテレビで放映されていたのは、『荒野のストレンジャー』というクリント・イーストウッド主演の西部劇でした。

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 また、わたしの父親も、増村保造監督、勝新太郎、大谷直子出演の『やくざ絶唱』がテレビ放映されたとき、
「今日は、「座頭市」のやくざものかあ?」
とか、

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 オードリー・ヘップバーンが、ショーン・コネリーとの共演で映画に復帰した『ロビンとマリアン』が上映されていた頃、
「ほう、ヘップバーンが「ゼロ・ゼロ・ナナ(ジェームズ・ボンドのコード・ネーム「007」のこと)」と共演するんだ?」
などと、ぼけた一人ごとを良く言っていたものです。

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『男はつらいよ』シリーズの渥美清なども、その典型かもしれません。

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 また、その逆の在り方として、スターの条件のひとつなのかもしれませんが、主演俳優が映画のプロットに合わせて演ずるのではなく、出演している彼らのイメージで作品が創作されたり、アレンジ・脚色されていることも多々挙げられます。
 つまり、その俳優がどのような映画に出演していても、主人公の名前は印象に残らず、スター俳優のみで映画の主人公が成立してしまうわけです。
 美空ひばり、石原裕次郎、吉永小百合、高倉健、チャ-ルズ・ブロンソン、オードリー・ヘップバーン、ブリジッド・バルドー、マリリン・モンロー・・・などの出演作品は、その主人公の名前を覚えているファンのほうが少ないのではないでしょうか?あくまで、その作品の主人公は、出演しているスター俳優自身となってしまっているケースです。

 もちろん、アラン・ドロンも、その例外ではありませんでした。つまり「アラン・ドロン」という映画スターのキャラクターが確立されている以上、彼の出演作品は、まず彼のイメージや個性によって規定されたうえで制作され、彼の演技そのものも、その私生活からのキャラクターや過去の経験値によって表現された作品が多くなっていたと思います。
 主演俳優の人気を利用した、つまりスターの人気に依存して商業的な成功を目的にした映画の「スターシステム」に依る彼の出演作品が多いことは現実です。

 彼が出演した映画作品の主人公は、マニュ(『冒険者たち』)、ジェフ・コステロ(『サムライ』)、ディノ・バラン(『さらば友よ』)、ロジャー・サルテ(『シシリアン』)、ロッコ・シフレディ(『ボルサリーノ』)ではなく、「アラン・ドロン」という映画スターであるわけなのです。
 ゾロを演じたときでさえ、邦題は『アラン・ドロンのゾロ』でした。

 しかしながら、わたしとしては、単純に商業的な意味での「アラン・ドロン映画」という体系で、彼の映画作品が時代に埋没していくことへの焦燥があることもまた正直な気持ちです。

 何故ならば、彼のスターとしての位置づけに関わっても、そういった商業的なものを超えて、多くの人々の範例となるヒーロー像としての価値、そして男性でありながらも、その時代的な美しさの特質など、大げさに解釈すれば、アラン・ドロンは映画文化史において、その時代のシンボリックな型として存在できるスター俳優であり、その彼の存在と平行して、出演作品の多くがヨーロッパ映画史における普遍的価値を伴って現代に存在し続けていることを無視できないからなのです。

 だからこそ、彼のファンとして、彼の作品や彼自身のスターとしての位置付けを模索し続けることに意味があるように思えてならないのです。


 さて、今回取り上げたこの『愛人関係』は、アラン・ドロンの記事を31本もアップしている映画批評ブロガーのオカピーさんでさえ、現在(2011-12-19 01:47)まで取り上げていないほど、埋もれた地味な作品です。【プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]テーマ「アラン・ドロン」のブログ記事

 さりとて映画ファンの関心にもならず、話題性も無く、ファンの大半が女性層であった当時、彼のファン代表でもあった映画批評家の南俊子氏にさえ、「つまらない」と酷評され、女性ファンに見限られ、『さらば友よ』や『ボルサリーノ』でつかんだ若い男性ファンにも関心を持たれないこの『愛人関係』という作品は、昨今の映画ファンには、どのように捉えられる作品なのか?それは、わたしの大きな関心事のひとつでありました。

 そこで、わたしは映画の達人、わたしのブログの盟友のひとりである「良い映画を褒める会。」の用心棒さんに、この『愛人関係』の記事をアップしてもらうことにしたのです。
 用心棒さんは、嫌な顔ひとつせず、わたしの無理なわがままなお願いを引き受けてくれました。
以下、【   】内は【用心棒さんのブログ「良い映画を褒める会。」ブログ記事『『愛人関係』(1973)フランス産、悲恋のサイコ・スリラー。脚本に難があるものの光る部分あり。』からの引用】

 わたしは、アラン・ドロンのファンではあっても、男性ですから、彼と彼の私生活上の愛人であったミレーユ・ダルクの関係が、この作品に表れていたとしても、さほど驚くには当たりませんでした。いやむしろ、アラン・ドロンのアクターとしての魅力は、彼の経験や彼の内面の暗部が露わになったときにこそ最大限に発揮されている側面があると考えています。
 ですから、この作品の魅力も、当時、愛人関係にあった彼とミレーユ・ダルクの共演に、その魅力が隠されていると考え、そこに着目できていることが彼の作品を理解している自負でもあったのです。

 しかし、そのわたしの、所詮、脆弱な自負心は、用心棒さんの優れた記事内容によって、粉々に打ち砕かれました。さすが用心棒さんは、当時の世評と、現在における映画作品としての純粋な価値とに、まずは明確な線引きを設けているのです。

【 ただし、当時のアラン・ドロンとミレーユ・ダルクの関係をワイド・ショー的に利用した、下世話な邦題『愛人関係』が作品理解への妨げになっている。余計な先入観を見る前から与えてしまっているので、この映画に限らず、邦題に良くありがちではありますが、配給元のタイトル決定者は映画は後々まで残っていくのを理解し、将来の映画ファンにバカにされないように猛省すべきでしょう。

 ただしこの映画にはドロンも製作に携わっているようですので、ごり押しでミレーユ・ダルクを使い、彼女を売り出しているのも事実(-略-)
 40年近く前の映画ですので、かえって今になってこの作品にまっさらな頭で向き合う方がより深く作品の本質に迫れるのかもしれません。じっさい、映画の外の醜聞など何十年も経ってしまえば誰も覚えていないし、関係もない。】

 アラン・ドロンのファンとしての狭義の認識を捨て、このような視点で『愛人関係』を鑑賞し直してみると、わたしでも、この作品の本質的な魅力を理解できるように思えてきました。

【ストーリー展開と独特の時間をなぜていくようなリズムに気をとられてしまい、冷静に見ていられない作品でもあります。最近のハリウッド映画にどっぷりと浸かっている人がこれを見れば、かなり退屈でしょうし、30分くらいで見切ってしまい席を立ってしまった方もいたかもしれません。
 また最後までついて行った方もハッピーエンドとは程遠い結末には違和感を覚えるかもしれません。そもそも、ほとんどの大人がこの世の中は嫌なことばかりであると理解しています。大人にしか分からない映画、つまり見る人を選ぶ作品でした。
(-中略-)
ドロンは悲劇の人と理解されるのでしょうが、一緒に死を選び、あの世でともにあろうという行動を見ると、一概に不幸であるとは言えないのではないか。
 弾丸が愛情表現だというのは悲劇的ではありますが、映画として受け入れられないような結末ではない。バカげた思い違いかもしれませんが、悲しく衝撃的な幕切れではあります。

 これも物語の終わらせ方のひとつでしょう。なんだか後ろ髪を引かれるような気まずい余韻を残す作品で、見た日よりも次の日にじわじわきました。】

 すなわち、用心棒さんの記事にあるように「大人の映画」、「観る者を選ぶ作品」であること、ラスト・シークエンスにおける悲劇的なふたりの深い愛情描写を、男女の不幸な関係や、その悲劇性そのものをも超越した「超悲劇」として捉えることで、この作品の魅力が浮かび上がってくるように思えてきたのです。

 主人公ペギーを演ずるミレーユ・ダルクのイノセントでありながらセクシュアルな魅力、これは女性の持つ処女性を犯したい男性特有の傲慢で横暴な特性から感じ取れる魅力でもあるかもしれません。そして、それが故にその凶暴な異常性を内面に沈潜させてしまっている病巣こそ、現代女性における内面的な闇や魔性を象徴していると言えるのではないでしょうか?

 「ファム・ファタル」の定義として、それは「運命の女」のことを指すわけですが、これは男を破滅させる魔性の女性、妖婦という意味合いで使われることが一般的です。
 1940年代ハリウッドのB級「フィルム・ノワール」での彼女たちの定義の特徴には、そのヒロインの性格描写がしばしばあいまいであることや表現主義的な映像による女性のセクシュアリティの強調などが挙げられています。この『愛人関係』でミレーユ・ダルクが演じた、美しくも隠された異常な凶暴性を持つ未亡人ペギーにも、その定義が当てはまるようにも思うわけです。


 彼女が、脚光を浴びた作品は『恋するガリア』でした。監督は『愛人関係』の元夫のジョルジュ・ロートネルです。彼はミレーユ・ダルクの魅力を最大限に引き出せる演出家であると思います。

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 余談ではありますが、わたしはこの作品で、ミレーユ・ダルクが演じたガリアとフランソワーズ・プレヴォーが演じたニコールの関係に、久我美子、高峰三枝子、森雅之が主演し、五所平之助が監督、また、秋吉久美子、草笛光子、仲代達也が主演し、河崎義祐が監督した北海道が誇る原田康子の原作『挽歌』(1957年、1976年)での主人公の怜子と兵藤あき子の関係を想起してしまいました。
 親友の夫を善悪の判断無しに寝取ってしまうイノセントで残酷な女性を演じたミレーユ・ダルクと、この文学作品『挽歌』の主人公の玲子には現代女性の闇が同様に投影され、その現代的な主題が明確にされていたと思います。

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 『愛人関係』は、そのような奔放な女性の病んでしまったとも解釈できる心理描写を、更に一歩危険な状況に推し進め、秀逸な「サイコ・スリラー」へと進化させています。女性の奔放な行動や欲望は影を潜め、それは逆に異常な凶暴性に昇華され、極端な女性の潔癖性の奥深くに潜伏させてしまったわけです。
 当然のことながら、その結末の悲劇性は必然となってしまいます。

【感情をあまり表さなかったミレーユの最後の笑顔は意味深長でしたので、リボルバーの弾丸による唐突な結末がより印象を強くする。】

 もしかしたら、この作品は、彼女を最も良く理解しているアラン・ドロンがプロデュース・共演し、若い頃からの彼女の成長を目の当たりにしてきたジョルジュ・ロートネルが演出したその結果によって、現代女性の闇を象徴的に表現したミレーユ・ダルク一世一代の代表作品であったのではないのかと、わたしは思ってしまうのです?

【フィリップ・サルドによるサントラが秀逸で、作品を盛り上げ、ワン・ランク上に導いています。】

 フィリップ・サルドのテーマ曲は、主人公ペギーの悲しみを歌ったエレジーとも解釈できます。そして、わたしは、またもやこの作品にフランス映画旧世代の「詩(心理)的レアリスム」の復活を想起してしまうのでした。
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by Tom5k | 2011-12-19 01:47 | 愛人関係(2) | Trackback(1) | Comments(7)