『黄色いロールスロイス』~愛さないよりは愛して失うほうがまし~

 アラン・ドロンが出演している作品には、「スターシステム」によるオールスター・キャスティングの作品が意外に多くあるので驚いてしまいます。もちろん、このことは、彼が「時のスター」であったことの証でもあります。

 例えば、短い数編の独立した作品を一作品にまとめた「オムニバス形式」のものとして、テーマやコンセプト、あるいは原作者を同一としてはいるものの、各作品が完全に独立しており、キャストはもちろん、スタッフも含めて、それぞれ別の内容の作品として制作された『世にも怪奇な物語』(1967年)や、同一の監督、スタッフであっても、やはり異なるストーリー、キャスティングによって独立した作品となっている『素晴らしき恋人たち』(1961年)、『フランス式十戒』(1962年)などがあります。

 また、ひとつの作品のなかで、ストーリー・プロットの進行ごと、時制ごとに各登場人物の異なる逸話を重ね、ひとつのストーリーやテーマが浮き上がってくる手法を採った作品として、『チェイサー』(1977年)、『百一夜』(1994年)など、「オムニバス形式」を準用した組立となっている作品なども挙げられます。
 特に『チェイサー』は、アラン・ドロンが自社アデル・プロダクションの総力を挙げて、「スターシステム」によって企画し、自らが「フィルム・ノワール」の典型的な特徴である男性的規範をシンボライズさせたヒーローを演じ、そのモニュメンタリティを機軸にしてオールスターのキャスティングを組んでいった作品だったように思っています。

 その他、オールスター・キャストの群像劇である「グランドホテル方式」のものとしては、『パリは燃えているか』(1965年)、『名誉と栄光のためでなく』(1965年)、『エアポート’80』(1979年)などが典型的な作品ですが、『シシリアン』(1969年)、『仁義』(1970年)、『レッド・サン』(1971年)なども、幾人かの主役級のスター俳優がそれぞれ対等な関係の配置・配役である設定などの特徴から、それに準じた作品であるように思います。

 そして、オールスター・キャストとまではいえませんが、『フリック・ストーリー』(1975年)でのアラン・ドロンとジャン・ルイ・トランティニャン、あるいは『ル・ジタン』(1975年)でのアラン・ドロンとポール・ムーリスなども、同一時間の二人の登場人物の行動などを、同時進行的に一度に描く手法を採っています。
 『フリック・ストーリー』では、ロジェ・ボルニッシュ(アラン・ドロン)と凶悪犯人エミール・ビュイッソン(ジャン・ルイ・トランティニャン)の追跡・逃亡のシチュエーションが、パリの裏町であったこと、『ル・ジタン』でのユーゴ・セナール(アラン・ドロン)とヤン・キュック(ポール・ムーリス)の出没場所などが同一時期、同一場所であり、そこでの各逸話を成立させていることから、「グランドホテル方式」の基本原則である「時間の単一」、「場所の単一」、「事件の単一」を原則とした「三一致の法則」が該当する作品であったように思います。

 『黄色いロールスロイス』は、独立した各短編作品を全体でひとつのテーマに絞っていく構成をとっており、登場する黄色いロールスロイスは、作品全体のモニュメンタリティ、すなわち各挿話間を繋ぐシンボリックで記念碑的役割を与えられた存在となっています。
 つまり、様々な男女の群像劇での「成就し得ないロマンス」のアンサンブル・プレイを強調するため、映画でも使われている「愛さないよりは愛して失うほうがまし」のメッセージを焦点化していく役割を黄色いロールスロイスに担わせているのです。

 『黄色いロールスロイス』は、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが、自社の作品、エドマンド・グールディング監督の『グランド・ホテル』(1933年)で開発した伝統的なスターシステム「グランドホテル方式」で製作した『予期せぬ出来事』(1963年)の姉妹編です。

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 『予期せぬ出来事』は、アンソニー・アスキスの演出とテレンス・ラディガンの脚本のコンビで、エリザベス・テイラー、リチャード・バートン、オーソン・ウェルズ、ロッド・テイラーなどのオールスター・キャストで製作されました。
 これらは、多くの映画ファンに良く知られた有名な作品で、商業的にも成功しました。

 わたしの父親も
「う~ん、『黄色いロールスロイス』なあ。有名だな。でも、アラン・ドロンは出てない。おまえ、何か別の映画と勘違いしてるわ。」

 ・・・ この段階で、わたしは父親とのこの話題を打ち切りました。

 しかし、このように有名な映画ではあるのですが、残念ながら当時のマスコミの映画批評においては、完全に失敗作として位置づけられている作品でもあります。

 第一話目の主演ジャンヌ・モローや第三話目の主演イングリット・バーグマンの伝記などでも全く以て酷い扱いとなっています。
【ジャンヌ・モローが出演しなかったほうがよかったと思われる映画が何本かある。一つは『黄色いロールスロイス』だ。
(-中略-)『黄色いロールスロイス』は、スターが総出演して良識に挑むという最悪の作品だった。(-中略-)
 こんなひどい作品に出てキャリアに汚点をつけたのは残念だ、とファンたちは想った。『小間使いの日記』から『黄色いロールスロイス』への一気の転落は彼らを恐怖させた。(略-)】
【『女優ジャンヌ・モロー型破りの聖像(イコン)』マリアンヌ・グレイ著、小沢瑞穂訳、日之出出版、1999年】

女優ジャンヌ・モロー―型破りの聖像(イコン)

マリアンヌ グレイ / 日之出出版



 出演している女性スターの名前の並べ方を、アルファベット順にする案に積極的だったイングリット・バーグマンの伝記においても、
【『ロンドン・サンデー・テレグラフ』の批評家が書いたように、『黄色いロールスロイス』は「金で買えるすべてがたっぷり積みこまれているので、映画というよりは投資の対象物のように見えた」。(-中略-)彼女は、自分の名は伏せておくように頼んだほうがよかったかもしれない。というのは、映画は完全な失敗作であり、『ニューヨーカー』によると「まったくひどい」作品だったからだ。(略-)】
【『イングリット・バーグマン時の過ぎゆくまま』ローレンス・リーマー著、大社淑子訳、朝日新聞社、1989年】

イングリッド・バーグマン―時の過ぎゆくまま

ローレンス リーマー / 朝日新聞社



 久しぶりに、この作品を観たのですが、わたしは、それほど酷い作品だとは思っていません。実をいうとアラン・ドロンが出演している好きな作品のベスト10には入れても良いとまで思っているのです(好きな作品と優れた作品とは別ですが・・・)。

 マフィアのボス、パオロ・マルティーズを演じたジョージ・C・スコットも、パオロの運転手ジョーイ・フリードランダーを演じたアート・カーニーも悪くはなかったと思いますし、何より、アラン・ドロンとシャーリー・マックレーンの魅力的なロマンスは卓越した逸話となっているように思います。

 また、第二話全編に渉って使用されているカンツォーネの主題曲「明日を忘れて」は素晴らしいテーマ曲です。
 映画のストーリーと相俟って、わたしは大好きな作品です。
 この「明日を忘れて」は、フランク・シナトラなどの多くの有名アーティストに歌われて有名になり、1960(昭和40)年には、日本でも、コニー・フランシス版がヒット・チャートの上位に位置していたそうです。

 なお、『黄色いロールス・ロイス』のサウンドトラックについては、映画音楽の達人であるジュリアンさんのブログ記事 『黄色いロールス・ロイス』に詳細に紹介されています。
 また、ジュリアンさんによると、この曲は、この作品のために書き下ろされたものであると解釈できるようで、他のカバーは作曲したリズ・オルトラーニの夫人、カティナ・ラニエリの歌のヒットを受けてリリースされていたようですので、これが、本家・本元のオリジナル版です。

 アラン・ドロンの主演しているこの第二話の挿入歌が、このような影響力を持っていたことは、ファンにとっては、なんとも嬉しく素晴らしいことだと思っています。

 「明日を忘れて」は第二話の全編に流れ、南国の明るさと恋のせつなさを表現することに、実に効果的に使用されています。このように明るい歌なのに、とてもせつない気持ちにさせられてしまうことも、このジャンルの曲調の特徴かもしれません。
 そして、珍しくアラン・ドロンがこの歌を口ずさむシーンも、情熱的ではあっても、ある意味において、いい加減なイタリア青年のラテン的特徴を象徴して表現されており、そんなイタリア青年を演ずるアラン・ドロンも観ていて魅力的であると感じました。

 このテーマ曲は、私の好きなアラン・ドロンの出演作品の使用音楽ベスト5には必ず入ります。

 この歌に合わせて、アラン・ドロンが演ずるイタリア青年ステファノとシャーリー・マックレーンが演ずるパオロの情婦メイ・ジェンキンスが、ダンスを踊るシークエンスでは、情熱的なステファノに戸惑いながらも、うれしさを隠しきれないメイの微妙な心の動き、表情や仕草を、シャーリー・マックレーンがとても可愛く演じていました。

 最後のデートでメイを待つステファノは、まだ来ないメイの写真を何度も見つめています。このように素直に女性を好きになって、失恋してしまう純情なアラン・ドロンも非常に魅力的です。いつの時代も純粋に恋をする若者は、デートに遅れてくる大好きな女の子をこのように待っているものなのです。

 また、大好きな男性を守るために、彼にわざと嫌われるように接するメイは、本当にせつなくて可哀想でした。

 それにしても、好きになってしまった男性が、あんなに素敵で優しい笑顔で、脇目も振らず真っ先に自分に駆け寄ってきてくれたとき、どんな理由があるにせよ、自分を押し殺して、あのような冷たい態度を取れるものなのでしょうか?
 相手に自分の真意を悟られずに、敢えて嫌われる態度で接することができるものなのでしょうか?

 メイが悲しいのは、このやり方以外の選択肢が他に無かったことです。マフィアのボスが自分の恋を許してくれるはずがない。まして大好きなステファノまで巻き込んでしまう。

 世間の恋愛においては、いくら好きな男性との事情であっても、多くの場合、相手をおもんぱかる前に自分だけが可愛いことのほうが多いことも一般には多いようにも思います。しかし、メイは自分の恋を犠牲にしてまで、自分と大好きなステファノの命を守ったのです。

「ステファノは生きて 幸せになれる  私は - 生きてるだけで幸せ」

 これほど悲しい女性の言葉はありません。

 最も悲しいのは、その事情をステファノが知らないこと、彼は失恋の痛手に納得できない怒りと悲しみに身を任せるしかない、メイはそうなることに耐えようと決心したのです。
 本当に胸が締め付けらます。
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by Tom5k | 2011-08-19 00:50 | 黄色いロールスロイス | Trackback | Comments(0)