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『個人生活』~ドフェール&ドロン「詩(心理)的レアリスム」の復活~

 『個人生活』は、わたしにとっては非常に興味深い作品です。
 この作品の音楽やカメラワークや照明、音楽、扱っている題材やテーマ、構成・プロットに典型的な旧時代のフランス映画「詩(心理)的レアリスム」の特徴を感じるからです。

 原作の『クリージー』は日本でも新潮社から刊行されています。著作者のフェリシアン・マルソーは、この著作でゴングール賞(1969年)を受賞、他の作品でもアンテラリエ賞の受賞など、フランス文学界では最も権威ある文学賞を二度授与されています。

クリージー (1970年)

フェリシャン・マルソー / 新潮社



 冒頭のタイトル・バックから使用されているフィリップ・サルドの主題音楽も非常にクラシカルで、現代が舞台でありながらも懐かしい古き良き時代の雰囲気を漂わせた作風が伝わってきます。

 ピエール・グラニエ・ドフェール監督は、短編映画の編集助手からマルセル・カルネ監督などの助監督を経て映画監督になったその履歴においても、『メグレ警視』(TVシリーズ)やその他ジョルジュ・シムノン原作の映画化など、その演出作品の特徴においても、「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは異なる旧時代の特質を備えた映画作家です。

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 そして、彼は、ジョルジュ・シムノン原作の『帰らざる夜明け』(1971年)でのアラン・ドロンとシモーヌ・シニョレ、この『個人生活』でジャンヌ・モローとの共演作品を演出しましたが、これは、当時のフランス映画界においてはもの凄い実績です。
 もちろん、アラン・ドロンとは、ぴったりと息の合っている監督です。

 シモーヌ・シニョレとアラン・ドロンは、兄マルク、弟イヴのアレグレ門下の姉弟俳優の関係であるといえますし、『影の軍隊』でも主演を務めたことを鑑みれば、ジャン・ピエール・メルヴィル門下の関係でもあります。
 彼女は旧世代の女優であり、かつ、ジャック・ベッケル監督やアンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督などの作品履歴から「ヌーヴェル・ヴァーグ」にも一目置かれる硬派の女優だったといえましょう。
 また、アラン・ドロンとのコンビネーションは、実に息の合った共演でした。

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 ジャンヌ・モローも、シモーヌ・シニョレと同様に当時のフランス映画界での大御所スター女優でした。
 若い頃の作品『現金に手を出すな』(1953年)や『地獄の高速道路』(1955年)などで、ジャン・ギャバンとの共演を果たしたりもしていますが、彼女が女優としての開花し完成したのは、ルイ・マル監督やフランソワ・トリュフォー監督の作品、すなわち「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品に位置するスター女優としてであり、そういった意味で、アラン・ドロンとは、水と油ほどの違和感をキャラクターに感じさせている女優です。

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 ですから、この共演は、驚くべきことだったといえます。
 アラン・ドロンは、国際的な大スターでありながら、共演者に花を持たせてしまった作品が多く、一般的には共演者に食われてしまうという世評の目立つ俳優です。
 しかし、「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品で活躍した俳優との共演では、演技の面でも、プロットでの役割の面でも、その共演者の魅力を全開させないケースが目立ちます。

 無意識の嫌悪や口惜しさなどの彼の苦悶からなのか・・・何が原因なのかはわかりませんが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」系統の作品に多く出演している俳優と共演した作品は、結果的にそうなっているものが多いような気がします。

 『太陽は知っている』(1968年)、『チェイサー』(1977年)のモーリス・ロネ
 『世にも怪奇な物語 第二話「影を殺した男」』(1967年)のブリジット・バルドー
 『リスボン特急』(1972年)のカトリーヌ・ドヌーヴ
 『愛人関係』(1974年)のクロ-ド・ブラッスール
 『ボルサリーノ2』(1974年)のジャン・ポール・ベルモンドの葬儀の写真
 『チェイサー』のステファーヌ・オードラン
・・・等々。

 彼らが「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸作品で魅せた絶大な魅力は、アラン・ドロンとの共演では、ほとんど惹き出されておらず、「詩(心理)的レアリスム」のスター、アラン・ドロンとしては、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の俳優たちを意図的に無視しているかのように扱い、配役の面でも丁寧に扱っているとはいいかねます。

 この作品『個人生活』でのジャンヌ・モローも例外ではなく、彼が最も尊敬する女優であると評していながら、その演技の応酬には残酷すぎるショットがあまりにも多く、それは恐ろしいほどなのです。

 アラン・ドロン扮する左翼政党の若手党首ジュリアン・ダンデューが党利党略の整理を依頼するために訪れるジャンヌ・モロー演ずる共和党総裁の未亡人ルネ・ビベール宅から帰宅するとき、彼が投げキッスして未亡人宅を去った直後、ルネ夫人が自らを写し出す「鏡」を乱暴に下に向けるショットがありますが、さすがに、わたしはこのショットを正視することはできませんでした。

>ルネ・ビベール未亡人
「ジュリアン あなたって罪な男よ」

 カメラは、笑顔でジュリアンを送り出した後に、「鏡」に向かって歩くジャンヌ・モローを静かにパンしていくのですが、そのときの彼女の横顔のクローズ・アップをローキー、逆光のシルエットで撮り、「鏡」の前に立ち、そこに映ったその老いた表情を突然、照度を上げてくっきりと、しかもクロ-ズ・アップで浮かび上げらせるのです。
 このショットは、「メロドラマ」ではなく、「フィルム・ノワール」です。
 ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーによって抹殺された「詩(心理)的レアリスム」の根深い怨念が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の聖像(イコン)に襲いかかっているように感じてしまうのは、わたしだけでしょうか?
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 また、わたしは、この作品の原作『クリージー』を未読であり、映画化に際しての設定が原作通りか否かは、わからないのですが、主人公のジュリアン・ダンデューの所属する政党が、左翼中道の労働者政党であること、そして、この主人公のオファーを受け、それを承諾したアラン・ドロンの判断が、以前から不思議でならないのです。

 彼が演じたルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1962年)でのタンクレディ、クリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』(1963年)でのジュリアン、ルネ・クレマン監督の『パリは燃えているか』(1965年)でのジャック・シャバン・デルマスなど、すべて共和政治を目指す政治信条の主人公であり、アラン・ドロンが政治的役割を担う主人公を演ずるとき、それらの作品では決して左翼政党に帰属している人物に扮することはなかったのです。
 それらは常に一貫した配役でした。

 そして、アラン・ドロンの尊敬する人物は、フランス第五共和政初代大統領シャルル・ドゴールであり、永遠の男性像として挙げているのは、第一帝政における皇帝ナポレオンではなく、フランス革命期の共和派ナポレオン・ポナパルトです。そして、自らの政治信条としてもフランス第五共和政の支持者でもあります。

 想い起こせば、ただ唯一、アナーキスト一家の尊敬を勝ち取ろうと、その一家の経営する印刷工場の印刷工として居候した孤児の青年ユリスを演じたとき、その家の屋根裏部屋に住んでいるお爺ちゃんを味方に付けて、共産主義思想の一体系であるアナーキズムの思想教育を受け、革命家の英雄カンポサントになりすますルネ・クレマン監督の『生きる歓び』(1961年)だけは例外でした。
 この『個人生活』の主人公ジュリアン・ダンデューは、『パリは燃えているか』のジャック・シャバン・デルマスではなく、孤児ユリス青年の後年の姿であったのかもしれません。

【(-略)アラン・ドロンはクリスチャン・ディオールのブティック“ムッシュー”、シドニー・ロームは、ブティック・クリスチャン・ディオール(毛皮はディオールの“高級毛皮部”で帽子はロマン・シェ・パトリック・アル)、ジャンヌ・モローはエマニュエル・ウンガロ。宝石類は3人ともカルチエである。】
【『個人生活』(アイ・ヴィーシーDVD)「参考資料」「政治はファッション?」映画評論家 三木宮彦氏の解説】

 恐らく、アラン・ドロンがクリスチャン・ディオールにこだわっているのは、師の一人であったジャン・ピエール・メルヴィルが監督し、やはりこれも師の一人であったルネ・クレマンの助監督時代の師匠で、アラン・ドロン本人も最も影響を受けた人物だと後述している芸術家ジャン・コクトー原作の映画作品『恐るべき子供たち』(1950年)の衣裳担当が、彼だったからだと思われます。

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 その他にバーバリのコートも目に留まりましたが、それにしても左翼中道の政治家というものは、これほど商標登録商品を身にまとっているものなのでしょうか?
 『個人生活』は、アラン・ドロンがメロドラマの主人公として、エレガンスな主人公の在り方に徹し、そのダンディズムを表現するためのファッション・ショーマンシップによって、多くの女性ファンに迎合した商業目的のみの作品だったのでしょうか?

 いや、それは、むしろ、左翼中道の労働者政党での同志であったサラバンの身にまとっていたノーネクタイのポロシャツにブレザーを羽織った綿パンを着衣している姿など、とてもブランド商品とは思えない出立ちとの対比で、彼らの確執や政治家ジュリアンの変節をシンボライズして描写するためのツールであったように、わたしには思えるのです。
 本来の労働者政党としての政治目的から、単なる政治的野心に堕してしまったプティ・ブルジョアジーを描写するために必要な衣装デザインだったとは考えられないでしょうか?

>ジュリアン
政権についてはじめて 政策の実行および変革も可能だ 社会保障大臣の座を得られれば-20年来の党の主張を国会に通せる
(-(中略)-)
時代は変わったんだ

>サバラン
変わったのは君だ

 わたしは、この応酬から、アニエス・ヴァルダが演出した映画生誕100年の記念映画『百一夜』の「アラン・ドロンの逸話」での彼への辛辣な批判を想い出してしまいました。

 余談ですが、ジャンヌ・モローにおいては、ジョセフ・ロージー監督の『エヴァの匂い』(1962年)で、彼女自らが申し出た衣装デザインは、私生活でも婚約関係にあったピエール・カルダンであり、それ以降の彼女の作品は、そのほとんどが彼の担当だったはずなのです。

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 しかし、この作品で、彼女はエマニュエル・ウンガロを使っています。
 このことは、この婚約が破局に至った後、公私ともにジャンヌ・モローの中から彼が消えてしまったことの表れであったのかもしれません。わたしは、ますます、この作品でのジャンヌ・モローの悲哀を感じ取ってしまいました。

 この作品のシドニー・ローム演ずるファッション・モデルの愛人クリージーとジュリアンとの逢引きのシークエンスは、すべてフラッシュ・バックで構成され、現在進行においての彼は、私設秘書とともに移動中の車中で会話しているか、ルネ夫人始め有力政治家などと政治折衝しているものばかりでしたが、それ以外のショットで驚いたことがあります。
 それは、「鏡」の投影と「電話」での会話のショットを必要以上に多用していることなのです。

 想えば、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』では、ブルジョア青年フィリップの衣装を身にまとい、彼を真似る貧困の青年トム・リプリーを、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒』では、実母によって完膚無きまでに自己を否定された主人公ピエールが、苦渋の表情で無神経な彼女と会話をやり取りする不確実で不安定な存在を、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』では、兄シモーネの借金を返済するため、最も忌み嫌っていたプロボクサーになる決心をするときのロッコの絶望の瞬間を、ジョセフ・ロージー監督の『パリの灯は遠く』では、ナチスのパリ占領下、ユダヤ人と間違われた美術商の自己喪失者ロベール・クラインが自分の姿を放心した表情で何度も見つめるときを・・・「鏡」に捉えて表現していました。

 「鏡」のなかの自分、虚構としての本当は実在しない自分・・・彼の演じた主人公たちの不安定な心象風景が、これらの「鏡」のシークエンスに浮かび上がっていました。
 絶対に確かなはずの自分という存在が、実はこの世の中で最も不確かな存在であり、自分とは一体何者なのか?と、もう一度自身の姿を確認する人格破綻者の佇まいを演じるときの古典手法です。

 また、この自己喪失感の映画的表現と相まって、わたしが、ここで思い浮かべるのは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』(1961年)やジャン・ピエール・メルヴィル監督が撮った『リスボン特急』で、孤独であることをすら自覚することの出来なくなった主人公が、その唯一のコミュニケーション手段として「電話」を扱っていた手法です。

「ドロンは電話の受話器をはずしてデートに邪魔が入らないようにしており、受話器を戻したあとも、電話が鳴っても出ずにじっとしている。それは、仕事に忙殺されてきた男の初めての人間性の芽生えのようであるが、同時にそれまでもっていた唯一のコミュニケーション手段ももはや信じられなくなった、孤独の確認、と言っていいのかもかもしれない。」
【引用~『アントニオーニの誘惑―事物と女たち』石原郁子著、筑摩書房、1992年】

アントニオーニの誘惑―事物と女たち

石原 郁子 / 筑摩書房



 『個人生活』での主人公ジュリアンの孤独も、この作品での「電話」の使用により、最も強く表現されていたと考えます。「愛の不毛」は、とうとう「愛の喪失」の段階に入ってしまったのかもしれません。

 そして、ピエール・グラニエ・ドフェール監督の素晴らしいアラン・ドロンへの演技指導、彼が涙するラスト・シークエンスは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』やジャン・ピエール・メルヴィル監督の『リスボン特急』で描写されていた「主人公の孤独の再確認」を、更に直接的に再現したものであったようにも感じるのです。

 主人公の自我のぶれ、その政治的野心の変節や愛人との愛情の喪失を、「鏡」や「電話」の使用に象徴させ、男女の逢引きをフラッシュ・バックで構成したスリリングな展開で、当時の時流であったマルグリット・デュラスやアラン・ロブ・グリエなどのアンチ・ロマンティズムとした新しいロマンティズムに迎合することなく、元来のロマンティズム「メロドラマ」として、復活させた作品『個人生活』。

 わたしとしては、1970年代には、「ヌーヴェル・ヴァーグ」諸派によって、すでに完全に死滅させられていたはずの「詩(心理的)的レアリスム」の体系が、その正当な後継の映画作家ピエール・グラニエ・ドフェールと俳優アラン・ドロンを通じて、いよいよ巻き返しを図り、「内的ネオ・リアリズモ」にも接近することのできた野心ある作品であったと再評価されることを願うばかりなのです。
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by Tom5k | 2011-08-08 15:01 | 個人生活 | Comments(6)