『もういちど愛して』~愛の再生・復活その4~

 『もういちど愛して』は、好きな作品です。
 アラン・ドロンの演技や作品のテーマ、特にブルターニュ地方の寂しく美しい情景の映像描写、それに照応した美しい音楽などが大好きなのです。

 原野に立ち込める霧から浮かび上がってくるファースト・ショットの古い教会の映像は実にファンタジックです。逆にタイトル・バックでは、ミサのために教会に向かう年老いた土俗の聖女たちが原野を歩行していく様子がリアルに写実されています。

 わたしは、まず、教会での神父のパイプオルガンで迎えられる彼女たちの様子を描いたこれらのファースト・シークエンスで、この作品に惹きつけられてしまいました。

 妻の死を境に閑村の古びた教会で神に仕える聖職の身としてパイプ・オルガンを弾き続け、朴訥な尼僧たちへの説諭を生き甲斐とするアラン・ドロン演ずるシモン・メデュー神父。

 しかし、ナタリー・ドロン扮する死んだはずの妻リタが生きていたことから、その禁欲的な生活は一変してしまいます。
 このときのシモン神父の心情表現には、彼の狼狽と教会の扉の開閉、そのときの効果音楽の組み合わせなどにより、この教会とシモン神父が一体化している技法が駆使されています。これらは、素晴らしい映像表現です。

 その後、乱された心から必死に平静を取り戻そうとするシモン神父の様子が描かれ続けていくのですが、特に彼が海岸の砂浜でスクーターを走らせるショットと音楽の美しさは秀逸でした。

 ポール・ムーリスが演じる司教とのやりとりでの朴訥で能弁なシモン神父を演ずるときのユニークで品格のある演技は、他のアラン・ドロンの作品では滅多に見ることができないものですが、意外に彼らしい雰囲気であるとも思います。

 凄いと思ったのは、苦悩する彼がスクーターごとに川に転落するショット、空中に浮かぶ瞬間をフリーズさせての彼のセリフの使用です。
「主よ主よ・・・何故私を闇の中にお捨てになる?」
 このフリーズ・ショットは、『にっぽん昆虫記』などでの今村昌平監督の編集と実によく似た手法です。

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 そして、シモンが自分の元に戻ってくれることを信じて待ち続ける妻のリタ、彼を愛するがために手段を選ばない彼女の、一途ではあるものの女性特有の屈折した愛情表現なども魅力的に描かれています。
>リタ
「あんたが私を迎えに来るまでは 港にいる船乗り全部に体をくれてやるからね!」
>シモン神父
「主よ・・・ 汚らわしい」

 教会の集会で集まった聴衆に説諭している真最中に、リタの姿を見付けて慌てふためくシモン神父の様子も思わず感情移入してしまうシークエンスでした。

 シモン神父に彼女の想いが伝わり、彼が聖職の道を退く決心をしたときの素晴らしい愛の告白も印象に強いものです。
>シモン神父
「天使だ わたしの天使」
>リタ
「私を選ぶの」
>シモン神父
「もちろんだ」

 彼は司教に自らの心情を吐露します。
「もうだめです 何か甘美な快感があるのです 嘘じゃありません」
 愛が静かに成就したときの男女の決意は、周囲の誰もが祝福せざるを得ないものとなります。

 自分を師事してくれていた年老いた尼僧たちに別れを告げる聖職者シモン、礼節を守り淡々とひとりひとりの名前を呼ぶ様子は、彼と聖女たちとの信頼関係が垣間見える瞬間でした。

 修道院からリタを連れ出して走っていくラスト・シークエンスも、美しい二人の未来を想像させる躍動感あふれるものです。

 このように、わたしにとっては、この作品全編が素晴らしく感動的なものでした。


 ところで、主人公シモン神父がアラン・ドロンのはまり役だと感じているのは、わたしだけなのでしょうか?
 彼の代表作品のひとつであるルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(1960年)の主人公ロッコ・パロンディが、知性と教養を身につけ、自信を回復して年齢を重ねたなら、このような生き方をしていたようにも思います。
 そして、もし、クリスチャン・ジャック監督の『黒いチューリップ』(1963年)の主人公ジュリアンが、双子の兄ギヨームの後継者となる自覚を持たずに、そして、新しい革新の時代に頓挫し隠遁する生活をおくったならば、後年、やはり、このような姿になっていたかもしれません。

 アラン・ドロン本人も幼少期から苦労が多く、恐らく順応力を身につけて器用に生きていかねばならなかったのでしょう、デビュー当時は合理性に富んだ近代的な若手スターとして売り出した俳優でした。しかし、本来は案外に古風で純情なタイプのキャラクターを持ち合わせた人物だったような気もします。
 ですから、そんな彼が俗世間と交わらず、苦労知らずで封建的な個性のままの人生をおくったとしたなら、この主人公シモン神父のように生真面目過ぎるが故、ある種滑稽で憎めない人物になっていたとも思うのです。


 ところで、彼が自社アデル・プロダクションにて製作し、盟友ジャック・ドレー監督の演出で主演した作品は他にも多くあります。
 『ボルサリーノ』(1969年)、『ボルサリーノ2』(1974年)、『フリック・ストーリー』(1975年)、『友よ静かに死ね』(1977年)などの「フレンチ・フィルム・ノワール」が多いのですが、その作品傾向は、古き良き過去の時代に対する思慕、郷愁を誘うノスタルジーを漂わせた作風のものばかりです。

 この恋愛劇『もういちど愛して』も、それらの例に漏れず、フランス映画のクラシックに回帰しているように感じます。
 アラン・ドロンが主演した作品を振り返れば、前述した『黒いチューリップ』もその体系ですし、特に1962年に出演したカトリック教徒ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『フランス式十戒』の一挿話として編纂したとしても全く違和感のない作風だと思います。

 考えてみれば、3年前の1967年には、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の遺作となってしまった『悪魔のようなあなた』での主演、前年1969年、アンリ・ヴェルヌイユ監督の『シシリアン』では、ジャン・ギャバンと共演、フランス映画の伝統的な演出家や共演者と組み、アデル・プロダクションを立ち上げて『ボルサリーノ』で懐古主義ともいえる作品を制作したことなども、この作品までの必然の経緯であったようにまで感じてしまいます。


「ギャング役は好き?
 = ぼくが一ばん好きなのがギャング役ではない 観客が一ばん好きなのがギャング役なのだと思う ギャングでも神父でもぼくは演りがいのある役が好きだ」
【アラン・ドロン孤独と背徳のバラード 芳賀書店(1972年)】

 アラン・ドロン自身が言説している「演りがいのある役」のひとつに「神父」の役が例示されていることからも、このシモン神父役は、世評がどうあれ、アラン・ドロンにとっては「演りがいのある役」であったに違いありません。


>『もういちど愛して』以外、あなたはコメディに出演したことはありませんね。
>アラン・ドロン
『もういちど愛して』以外はやったことがない、あの作品は悪くなかったんじゃないか?(コメディは)私には似合わない、感じないんだ。状況がおかしいという以外はね・・・うまく出来たためしがない、自分には無理なんだろう。笑わすと言うのは難しいよ、一番難しいことだ。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/18 「回想するアラン・ドロン:その6(インタヴュー和訳)」

 このように、後年、コメディ作品での役作りの困難さに言及しながらも、『もういちど愛して』における作品としての評価は低くない旨のコメントをしています。


 この作品で、主人公シモン神父を演じているアラン・ドロンは、あまりに朴訥な故に、死んだはずの最愛の妻リタの出現に常にナーヴァスになってしまうという表現に徹し、その様子は実に微笑ましい限りなのですが、この作品の製作された1970年の2年後、1972年に巡り会ったジョセフ・ロージー監督の『暗殺者のメロディ』で新境地を引き出されて演じた暗殺者フランク・ジャクソンや1977年に制作された世紀の大傑作『パリの灯は遠く』のムッシュー・クラインなどのキャラクターの片鱗を伺い知ることもできるように思うのです。

 リタが現れてからの彼の苦悩の表現は、トロツキーを暗殺するときのフランク・ジャクソン、もう一人のユダヤ人クラインに間違われたときに見せたクラインの動揺などの演技に繋がっているように感じるのです。

【(-略)私とやった二本の映画での役柄にぴったりだった。その二人、トロツキー暗殺者とムッシュー・クラインは、どちらも非常に頭の切れる男で、自分の行動にはしっかりとした自覚を持っている。ところがある限界点を一歩踏み越えてしまうと、もう判断力を失い、放心したようになってしまう。(ジョセフ・ロージー)】
【引用 『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年】

追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー

ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢日本テレビ放送網



 この恋愛コメディでも、主人公シモン神父は、しっかりとした聖職者の自覚を持っていますが、死んだはずの妻の出現によって、限界点を一歩踏み越えてしまい、判断力を失ってしまっているのです。ジョセフ・ロージー監督に巡り会う前に、アラン・ドロンが自らの限界点を超えた状態を表現した素晴らしい演技であったと評価しても良いのではないでしょうか?


 そして、ジョセフ・ロージー監督との作品に加えて、他にも彼の様々な未来の可能性を孕んだ役だったとも、わたしは思っています。

 1984年、フォルカー・シュレンドルフ監督がマルセル・プルースト原作の『失われた時を求めて』の一編を映画化した『スワンの恋』、ここでアラン・ドロンが演じた時代遅れのダンディズムに浸っているホモ・セクシュアルのシャルリュス男爵は、わたしにはシモン神父を再現したようにも見えます。

 そして、1984年、セザール賞男優賞を受賞したベルトラン・ブリエ監督の『Notre histoire(真夜中のミラージュ)』や1990年にジャン・リュック・ゴダール監督と撮った『ヌーヴェルヴァーグ』のテーマは、この『もういちど愛して』と同じように、愛の再生、そして復活でした。

 更に、人格の二重性を象徴的に描く手法で、死してなお復活・再生していくテーマや主人公のキャラクターは、元来アラン・ドロンの主演作品での彼の十八番なのですが、この作品では、兄妹のように似ているといわれ、過去に妻として最も愛していたナタリーを共演者に選定して、そのキャラクターの特徴を彼女と共有しています。
 
【この人を見よ!】
 『ヌーヴェルヴァーグ』は、神を乗り越え力への意志によって、現代を力強く生き抜いていく思想として体系付けたニーチェのこの言葉も主題のひとつでした。
 現代社会に押しつぶされてしまう弱者として登場するアラン・ドロン扮するロジェ・レノックスは、超ロジェであるリシャールとして再生・復活し、ドミツィアーナ・ジョルダーノ演ずる主人公エレナとの愛を再生させ、彼女とともに未来に旅立つシークエンスで結末を迎えます。

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ニーチェ / 岩波書店



 すでに、この『もういちど愛して』でもアラン・ドロンと元妻ナタリー・ドロンは、そのニーチェの思想を体現し映像化していたようにも見えてしまうのです。
 主人公のシモンとリタが封建の修道から脱皮して、力強く未来に向かって生きようとするラスト・シークエンスで締めくくられているからです。

 そう、まさにニーチェの言葉のとおり
【神は死んだ】のです!

 この『もういちど愛して』は、自分の分身である最愛の息子アンソニーの母でもあるナタリーに対し、元夫として今の自身の想いをもう一度、精一杯に伝えるための最良のプレゼントにしたかった作品だったのかもしれません。


 そして、もしかしたら、アランはナタリーと・・・・もういちど、寄りを戻したかった????のではないしょうか????
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by Tom5k | 2011-06-05 03:55 | もういちど愛して | Trackback | Comments(8)