『暗黒街のふたり』~イントレランス=不寛容、そして、レ・ミゼラブル=悲惨(哀れ)な人々~

【被虐的な役なんて、わがドロン様には似合わない。ただそれだけの理由です。映画そのものの出来が悪いとは、決して思いませんけれど。
 同じような理由で『ブーメランのように』、『ル・ジタン』というところでしょうか。
人間の弱き愚かしさの追求、いわれなき差別に対する怒りをテーマに取り上げているという意味においては、立派な映画だと思うけど、そこには弱者が弱さを売り物にして居直った傲慢さが感じられてあまり気持ちのいいものではない。(略-)】
【南俊子氏】

 正直に記せば、わたしは、映画評論家の南俊子氏がアラン・ドロンを、どの程度理解して批評していたのか?と、大きく疑問視しているところなのですが、当時のアラン・ドロンのファンの代弁、人気の要因を最も象徴したところで批評していたことは間違いのないことであるように思っています。
 また、『パリの灯は遠く』を大きく評価していたことを鑑みれば、もしかしたら、氏はアラン・ドロンの本質に気づきながらも、あえて一側面のみの批評に徹していたのかもしれません。

 そして、アラン・ドロンの人気の全盛期、1960年代後半から1970年代にかけて、アラン・ドロン批評のほとんどを担われていた氏は、ジョゼ・ジョヴァンニ監督の演出したアラン・ドロン主演作品の3本をすべてワースト10に選定しています。

 現在は、それらの作品の批評について、あくまでも《私的見解として限定的》にですが、珍しくわたしも氏と同様の気持ちです。
 しかしながら、過去、わたしがアラン・ドロンのファンになったばかりの頃には、逆にこれらの作品が最も気に入っていました。ですから現在でも強くこだわりのある3作品でもあるのです。

 いずれにしても、わたしにとって、当時の各種映画誌での氏の批評には全く興味が喚起されず、むしろ、そのアラン・ドロン評が、彼の本質を一般に拡大できずに硬直させてしまったとまで、批判的に考えています。
 そんなことからも、また、フランス映画史的にジョゼ・ジョヴァンニ監督が、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の「フレンチ・フィルム・ノワール」の後継者として、すでに高く評価されている映画監督であるにも関わらず、彼の映画作品のテーマや背景などの意味合いからも、

わたしは、生意気にも本来はどのようなところに位置づけられるべき映画人なのかと、以前から考え続けてしまっているのでした。


【>池波
正直いってもう話は何べんも、日本でも外国でもやったようなものなんだけれども。ジョゼ・ジョバンニの脚本と演出は堂に入っていますね。彼は非常にうまくなった。(略-)】
【キネマ旬報1974年4月下旬号No.629 「暗黒街のふたり」の魅力を形作る三人<巻頭ディスカッション>ギャバン/ドロン/ジョバンニ 池波正太郎/早乙女貢/田山力哉/南俊子 白井佳夫】

 映画公開当時の池波正太郎氏の『暗黒街のふたり』に対する何気ない一言は、わたしには大きく印象的であり、また全くの同意見なのです。

 例えば、まずわたしが最初に思い出すのが、映画の父とも呼ばれるD・W・グリフィスが監督・脚本を担当した文化芸術史的大作『イントレランス』(1916年)の現代篇です。
 この作品は、10人の人間が観れば、その10人のほとんどが、古代篇の空中庭園や戦乱のスペクタクル、ラスト・シークエンスでの時代と場所を狂ったように往来する映像史上における類い希な凄まじいクロス・カッティング、などに驚嘆するだろうと思うのですが、わたしに限っては、それ以外にも、この現代篇のストーリー・プロットが後年の「ギャングスター映画」「フィルム・ノワール」「マフィア映画」などの原点となっていると考え、そのことに驚いてしまいました。

 そして特に、アラン・ドロンが主演した「フレンチ(ハリウッド・イタリア資本作品も含めて)・フィルム・ノワール」作品の多くに、その特徴が見られているように感じたのです。

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 この現代篇のストーリーのプロットなのですが、
 まず、慈善事業家(社会改良家)の偽善行為の傲慢さを描写し、彼らが依頼した資金のスポンサーとなる企業からの資金繰りが、工場労働者の賃金カットによるものであったことから、必然的に大規模ストライキ(暴動)が発生し、その鎮圧による警官隊の発砲から命を失う者まで発生させてしまうことなどが前半で描かれています。
 失職と父親の死から、主人公の労働者は都市部に移住し、とうとう犯罪組織の一員となってしまうのですが、このように犯罪が創り出される経緯にまで辿っていることは、実に本質的な構成・プロットです。

 その後の主人公の青年は、同じ工場で働いていた労働者の娘と所帯を持ち、子供まで授かり幸福な時代を迎えていくのですが、それもつかの間、彼は暴力団組織から脱退することが許されず、組織の策略によって逮捕され、更に慈善事業家(社会改良家)たちの偽善行為によって、子供まで育児施設に強制保護されてしまいます。
 青年が刑期を終えて出獄したときには、組織のボスの殺害容疑により裁判に図られ、殺人罪で絞首刑を宣告されます。映画の最後では、主人公は無罪放免にはなるのですが、この現代篇後半での社会の「イントレランス=不寛容」のプロットを要約すると次のように整理できると思います。

○ 愛する夫(主人公)の刑務所への入出獄
○ 家族のために堅気になりたくてもマフィア組織の脱退を許してもらえない主人公
○ 主人公が堅気になっても、それを理解してくれない冷たい社会
○ 弱みに付け込んで妻にせまる暴力組織のボス、その行為に激昂する主人公
○ 不条理な裁判制度
○ 人命を奪う死刑制度

 『泥棒を消せ』(1964年)や『ビッグ・ガン』(1973年)では、家族のために堅気になりたくても、仲間の強盗団やマフィア組織のしがらみから、それが許されない悲劇的な主人公が描かれていました。特に『泥棒を消せ』では、真面目に働いて更正しようとしている前科者に執拗に嫌疑をかけ、悪しき環境のなかで犯罪者に仕立てられていく様子、堅気になってもそれを理解してくれない冷たい社会の描写まで掘り下げられており、『シシリアン』(1969年)では、犯罪者に成らざるを得なかった青年の生育歴にも触れられていました。

 そして、この『暗黒街のふたり』では、アラン・ドロン演ずる主人公のジーノが刑期を終えて出獄し、堅気になろうと更正に努めるのですが、やはり、それを理解してくれない冷たい社会、仲間の強盗団のしがらみなどが描かれ、最後には弱みに付け込んで妻にせまるゴワトロ警部の横暴から、その行為に激昂し、とうとう殺害事件を起こしてしまう悲惨な状況が描写され、ある意味においては不条理な裁判制度、そして残酷な死刑制度により、その努力を認められずに生命を奪われてしまうのです。

 『暗黒街のふたり』の原作【ジョゼ・ジョバンニ著、山崎龍訳、二見書房、1974年】では、一貫してジーノの更正に尽力するジャン・ギャバン演ずる保護司ジョエルマン・カズヌーヴが、

「悪しき環境こそ犯罪者をつくる」

と、この作品のテーマを主張しています。

暗黒街のふたり (1974年)

ジョゼ・ジョバンニ / 二見書房



 『暗黒街のふたり』で描かれているプロットやテーマは、主人公の最後の描き方の違いを除けば、まるで映画『イントレランス』現代篇後半部分のリメイクであるかのような印象を持つことができます。

 この作品で強く印象的なのは、主人公ジーノに執拗につきまとうミッシェル・ブーケが扮したゴワトロ警部です。彼は犯罪者の更正を全く信じていない冷血漢であり、その任意調査の方法は、「イントレランス=不寛容」を徹底しており、その潔癖性による猜疑はとても正常な感覚とは思えません。

 なお、この作品が非常にリアリティを伴っている理由のひとつに、主人公ジーノを演じたアラン・ドロンが、実際に起こったマルコヴィッチ殺害事件で嫌疑の対象とされ、警察当局の任意の調査による囮捜査などで、不合理で執拗な嫌がらせを多く受けた経験からの演技によるものがあったと考えられます。
 彼もまた社会の「イントレランス=不寛容」に深く傷つけられた「レ・ミゼラブル=悲惨(哀れ)な人々」であったのかもしれません。

 そこから思い出されるのが、フランスが生んだ大文豪家ヴィクトル・ユーゴー原作の大作『レ・ミゼラブル』です。

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ヴィクトル ユーゴー / 岩波書店



 たった一切れのパンを盗んだだけで19年間も投獄され、官憲の典型であるジャヴェール警視に執拗につきまとわれるジャン・ヴァルジャンの物語です。

 この名作は何度も映画化されており、自国フランスでは、『暗黒街のふたり』に出演しているジャン・ギャバン(ジャン=ポール・ル・シャノワ監督、1957年)、ジェラール・トパルデュー(TVシリーズ、ジョゼ・ダヤン監督、2000年)、また、アラン・ドロンのライバルであるジャン・ポール・ベルモンド(クロード・ルルーシュ監督、1996年)、良き先輩スターのリノ・ヴァンチュラ(TVシリーズ、ロベール・オッセン監督、1983年)が、主人公のジャン・ヴァルジャンを演じています。

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 アラン・ドロンにゆかりのあるスターたちは、ほとんどがジャン・ヴァルジャンに扮しているとまでいえるでしょう。

 この作品でも、映画『イントラレンス』と同様に、真面目に働いて更正しようとしている前科者の主人公に執拗に嫌疑をかけ、主人公が悪しき環境のなかで犯罪者に仕立てられようとする様子、堅気になってもそれを理解しようとしない冷たい社会環境などが描写されています。
 また、最も強烈なキャラクターとして、人としての良心を喪失してしまったようなジャベール警視という王党派の冷徹な警察官が登場します。
 このキャラクターは、まさに『暗黒街のふたり』のゴワトロ警部そのものでした。

 そして、驚くことに、リノ・ヴァンチュラがジャン・ヴァルジャンを演じた1983年版のロベール・オッセン監督のTVシリーズでジャベール警視を演じたのは、なんと!『暗黒街のふたり』でゴワトロ警部を演じたミッシェル・ブーケなのです。

 この配役とジャン・ヴァルジャンを演じたことのあるジャン・ギャバンの出演によって、『暗黒街のふたり』が、現代の『レ・ミゼラブル』であると、わたしは解釈せざるを得なくなっています。



 ところで、ノーベル賞作家の大江健三郎氏は、エッセイ集である『「伝える言葉」プラス』(朝日新聞社、2006年)で、「不寛容」すなわち「イントレランス」について、次のように語っています。

【人間は、思い込みと自分らの作り出したものの機械となって突進する。その勢いを、人間は誤りやすいと自覚して、ゆるめようと努めるのが寛容。渡辺さんはいつの世にもある不寛容に嘆息しながら、歴史を見れば寛容こそ有効だ、と言い続けました。】
 渡辺さんとは、大江氏が東京大学フランス文学部在籍中のフランス文学史専攻の歴史学者であった渡辺一夫氏のことです。彼は生涯に渉ってヒューマニズム(ユマニズム)について主張し続けていった素晴らしい知識人でした。

 また、大江氏は21世紀の社会の想定を、
【渡辺一夫の鎮められない魂が現れることがあるなら、あなたの暗い予見よりさらに暗く、二十一世紀は不寛容の全面対決に向かいつつあり、この日本も戦列に加わっている、と訴えたい思いです。】
と絶望的に総括しています。

 しかし、最後に氏は、
【しかし、その国に、先生は知らないメールを盛んに使って、寛容を世界に発信する、新しい市民たちが出て来ている、とも付け加えねばなりません。】
と前向きな展望も示しています。

「伝える言葉」プラス

大江 健三郎 / 朝日新聞社



 現在の日本では、非常に困難な賛否の両論があり、安易な判断を下すことは避けるべき懸案ではあると思いますが、死刑制度の廃止論も避けては通れない問題かもしれません。
 フランス共和国では、この『暗黒街のふたり』が制作された1973年の3年後の1976年に最後の死刑執行が施行されて以降、1981年のフランス社会党のミッテラン政権の誕生により、死刑制度が廃止されました。
 現在では、死刑廃止国であることが欧州連合(EU)への加盟条件にまで拡大されているそうなのです。


 わたしは、今後の社会の展望において、ジョゼ・ジョヴァンニ監督のアラン・ドロン製作・主演作品が、何らかの社会貢献に役立つ作品となるような気がしてならないのですが、現在及び未来の日本での極めて困難なヒューマニズムの実行を熟考していくうえで、この『暗黒街のふたり』が、その「トレランス=寛容」の実現において、今後どのような役割を果たしていくのかを深く考え込んでしまうところでもあるのです。
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by Tom5k | 2011-01-23 00:30 | 暗黒街のふたり | Trackback(2) | Comments(6)