『ショック療法』~『続・若者のすべて』ナディアとシモーネの亡霊~

 ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ネオ・リアリズモ」後期の大作『若者のすべて』の登場人物は、それぞれが不幸で悲惨な想いのまま挫折してしまいます。そのなかでも、特に納得できずに悲惨な結末を迎えた主人公の一人として、わたしがまず思い浮かぶのは、アニー・ジラルドが演じたナディアです。
 彼女はレナート・サルバドーリが演じたシモーネとアラン・ドロンが演じたロッコを恋人にしてしまったがために、とうとう命まで落とすことになってしまったからです。
 もし、シモーネが真面目に働いていたなら、もしロッコが一生の伴侶として自分を選んでくれたなら、いや自分を選ばずともシモーネと寄りを戻すようなことを願わなければ、あのような最期は迎えずに済んだのかもしれないのです。

 ただ、自らの非業の最期のときではありましたが、シモーネに対しては彼本人に対して、その恨み辛みを直接ぶつける機会もありました。

「憎んでいるのよ 人間じゃない ケモノよ あんたが触ると 皆 汚くなる 最低野郎! 二度と会いたくないわ まっぴらごめんよ 私の大事な物を 汚した奴 人間のクズよ」

 確かに、ここまで直接的に言いたいことを言ってしまえば、それまでのシモーネに対する怨恨のすべてを彼に帰せたとも思います。
 そういった意味では、ここで彼女はシモーネに対するこだわりを払拭することができて、無意識にではあっても死を覚悟できたのかもしれません。

 しかし、ロッコに対する想いについては、どうだったでしょうか?
 シモーネを罵倒した際の「私の大事な物」彼女にとって最愛の人間、それはロッコの全人格と彼から与えられたもののすべてであり、彼女の純粋な魂そのものの再生だったと思います。

 しかも、シモーネに強姦された傷心の自分に対して、その最悪の人物シモーネの元に戻るように懇願されたうえで別れを切り出されたのです。
 ロッコにとっては、シモーネとの確執が聖人としての自身の罪悪感に結びついていたこともあっての判断だったのかもしれませんが、ナディアにとっては、これほどまでの残酷を強いられ、地獄のような苦しみを背負わせられた相手が、外ならぬ最愛の恋人、許してはならないことまで許してしまう聖人君子ロッコによるものだったことは悲惨の極みでした。
 その後、元通りの娼婦のキャラクターにまで回帰してしまったナディアは

「みんなの中で 一番の貧乏くじは私よ」

と居直ってはいるものの

「ロッコにも話してよ 誰が私を犠牲にしたか」

と号泣してしまうのでした。

 更には、シモーネに刺殺されたとき、ロッコが流した絶望の涙は、彼女にとっては「ケモノ・最低野郎・大事な物を汚した奴・人間のクズ」である兄シモーネの人生の破滅に対する涙であったわけです。つまり、そのときの彼には、すでにナディアは忘却の存在であったとしか解釈できないのです。

 ロッコが、何故自分を受け入れてくれなかったのかを、彼女は死してなお理解することはできなかったのではないでしょうか?
 そういった意味で彼女の最大の恨みと悲しみの根源は、シモーネではなく、もしかしたら、ロッコに対してのものだったかもしれません。彼女は死してなお死にきれない想いを抱きそれを迎えたのではないでしょうか?


 逆に、シモーネ、そしてパロンディ家全員にとっては、ナディアは疫病神以外の何者でもありません。
 もしかしたら、それはロッコにおいてさえ、同様だったかもしれません。シモーネとナディアの関係に関わっても、もしロッコが自らの宗教倫理やイタリア南部の家族制度の道徳意識から解放され、聖人ではなく現代青年として成長できていたならば、彼女に対しても大きく非難を持つことが可能だったはずです。
 彼も心の深層では、彼女にさえ出会わなければ最愛の兄シモーネがボクサーから転落し、大きな借金を抱え、殺人犯人になるような悲惨な結末を迎えることは無かったと思っていたのではないでしょうか?

 これはナディアにとっては、逆恨みも良いところなのかもしれません。しかし、パロンディ家にとっては、ただでさえ、ミラノという大都会での孤独な生活で疲弊するところを、彼女との出会いによって家族そのものがばらばらにされてしまったわけですし、特にカティナ・パクシノウ演ずるパロンディ家の母親ロザリアからすれば、ナディアは可愛いシモーネを堕落させ、犯罪者にまでしてしまった憎むべき元凶だったのです。

「街の人がわたしのことを“奥さん”て呼んでくれた“奥さん”てね こんな大きな街でだよ 息子たちが立派だから ところが何もかも変わってしまった ロッコは家を出て顔つきまで変わった シモーネは変な女にひっかかってる 」

と彼女は号泣するのです。

 そして、ナディアとの大喧嘩では

「ふしだらな女め!みんなお前が悪いんだ あんないい子を お前と手が切れさえすればね 立ち直ってくれるさ 出ていきな!」

と怒りに身震いするのでした。


 さて、『ショック療法』を制作したアラン・ジェシュア監督ですが、彼はブルジョアジーの生態を実にリアルに描き、その醜悪な有体はフェデリコ・フェリーニやルイス・ブニュエルの演出の特徴を自然な写実体に移し換え、ミケランジェロ・アントニオーニが演出する強烈なワン・ショットを映画全体に拡大したような描写であると、わたしには感じられます。
 女流映画評論家のクレール・クルーゾは彼を、「写実的な傾向」に優れた職人監督としての伝統派スタイルの映画作家と体系づけているようです。

フランス映画 1943~現代

マルセル マルタン / 合同出版



 彼が監督・脚本・音楽を手がけたこの『ショック療法』では、『若者のすべて』でナディアを演じたアニー・ジラルドとロッコを演じたアラン・ドロンが久しぶりに再共演しています。しかし、わたしにとっては、単に二人の映画スターが再度共演したサスペンス・スリラーのみとしての解釈はできず、現代に適応したナディアとロッコが再会した新しい『若者のすべて』のリメイク物語を確認してしまう結果となっているのです?

 ナディア=アニー・ジラルドが扮しているエレーヌは婦人服工場の支配人、ロッコ=アラン・ドロンが扮するドクター・デヴィレはブルターニュ地方でのリゾート型医療エスニック・サロンの院長です。
 つまり、この作品『ショック療法』は、『若者のすべて』の主役が現代社会に最良に適応できた状態に舞台設定された作品であるようにわたしには感じられるのです?

 まずは冒頭からですが、ボサノバのリズムに乗せて、クローズ・アップされるトラックの荷台に乗せられた外国人労働者の若者たちの朴訥な表情が、わたしには『若者のすべて』でミラノに出てきたばかりのパロンディ家のシモーネやロッコたちの表情と同じものにしか見えません?

 今回の「ナディア=エレーヌ」は、ロッコやシモーネと接していたときとは異なり、誠心誠意、「ポルトガルやスペインの貧困な外国人労働者の若者たち=ロッコやシモーネ」を救おうと行動します。ごく普通の現代の市民倫理からそれが描かれているようですが、わたしには、ロッコとシモーネを破滅させた「ナディア=エレーヌ」が、その罪悪感を払拭しようと躍起になっている姿にしか見えないのです?

 逆に「ロッコ=デヴィレ」は、現代に適応してしまった今、すでに憎悪の対象となってしまった「兄シモーネ=外国人労働者の若者たち」を最も残虐な方法で次から次と虐殺し続けながら、シモーネの借金を永久に返済し続けているように見えてしまいます?

 そして、やはり「ナディア=エレーヌ」は今回も「ロッコ=デヴィレ」を恋の対象とします。
 しかし、彼女はもう「ロッコ=デヴィレ」を心底信用はしていません。いや信用出来なくなっているといった方が良いのかもしれません。「自分=ナディア」や「シモーネ=外国人労働者の若者たち」を結果的に破滅させる要因となったのが、実は「ロッコ=デヴィレ」の生き方によりもたらされたものであることを直感的に見抜いているからでしょう?

 『若者のすべて』での経験をもって生まれ変わった「ナディア=エレーヌ」は、「ロッコ=デヴィレ」が、実はシモーネやロッコ自らをも虐殺し続けていたことを無意識に察知しているのです。ロッコの聖人性は、現代社会ではデヴィレの悪魔性の様相と表裏一体であったことが、この『ショック療法』で、ついに暴かれてしまったとも解釈できるでしょう?

 また、「ナディア=エレーヌ」は、その昔年の怨恨を晴らすために自らが刺殺された方法と全く同じ方法で「ナイフ=メス」で何度も「ロッコ=デヴィレ」を刺し続けたのです。そのシークエンスには、まるでシモーネの亡霊が二人に取り憑いているかのような様相を呈していました?

 逆に、ロッコやシモーネにとっても、彼らの絶望感、殺人犯人として警察に連行されたあの絶望の瞬間を、今度は「ナディア=エレーヌ」に対して同様の形で突きつけていかねばならなかったのかもしれません?
 彼女に対して、ようやくシモーネと同様に殺人犯人として生きていくことの苦悩を背負わせることに成功したのです。彼らからすれば、その痛恨の極みをようやく晴らすことが叶ったとも解釈できるでしょう?

 『ショック療法』制作当時のアラン・ドロンとアニー・ジラルドが、『若者のすべて』以来の再共演した意味において、ロッコ、シモーネ、ナディアの亡霊に取り憑かれた主人公たちを再現することだったのか否かの確証はありませんが、パロンディ家とナディアの昔年の関係が、その現代的プロットによって、その顛末を再整理するために繰り返されたように、わたしには感じられたのでした。

 アラン・ドロンが演じたロッコやデヴィレ、彼が演じた聖人や悪魔のキャラクターは、その「善」の行為や「悪」の行為に何も見出せず、そして社会に何の影響をおよぼす事も出来ず、単に人間を不幸に陥れ自らも同様に不幸を背負い込む結果しか得られていませんでした。

 わたしは、絶望的で退廃的な雰囲気を漂わせている『ショック療法』のドクター・デヴィレを演じているアラン・ドロンを観ていると、過去に演じた『若者のすべて』での主人公ロッコ・パロンディの聖人像との兼ね合いから、1951年、パリのアントワーヌ座で初演されたジャン・ポール・サルトルの戯曲をルイ・ジューベが演出した『悪魔と神』の絶望的な主人公ゲッツ・フォン・ベルリッヒフォンの役を、彼に演じてさせてみたかったと強く祈念してしまうのでした。

悪魔と神 (新潮文庫 赤 120D)

サルトル / 新潮社


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by Tom5k | 2010-11-22 02:21 | ショック療法 | Trackback(1) | Comments(0)