『テキサス』~優先したのはキャリアの選択ではなく、人生の選択~

 わたしの親の世代でのハリウッド作品の人気コメディ・コンビとして有名なのが、ディーン・マーティンとジェリー・ルイスとのコメディ・チーム「底抜けコンビ」です。わたしが小学生のころには、父や母がこのコンビのテレビ放映などがあると懐かしがって観ていました。

 ディーン・マーティンは、このコンビの解消後もサミー・デーヴィス・ジュニアらとともに、フランク・シナトラ一家の歌手として、また、ハリウッド映画第一線の主演級のスター俳優として活躍し、日本でも人気の高いスターでした。

 なお、一世を風靡した日本のコメディ・バンド、ザ・ドリフターズの志村けんも、このコンビの作品を観ていたそうです。恐らく、彼のコメディ・スタイルのどこかにジェリー・ルイスやディーン・マーティンのキャラクターが隠されているのでしょう。

 彼らは1946年から舞台レビューやテレビのバラエティなどで活躍し、1949年のパラマウント映画『My Friend Irma』から「底抜けコンビ」の名称で、いよいよ銀幕の世界でも親しまれるようになりました。このコンビの作品は、興行的にも大成功を修め、7年間の長期に渉って17本も製作された人気シリーズになっていきました。

 1956年『底抜けコンビのるかそるか』がコンビの最終作品ですが、わたしは小学生時代にテレビで放映されたものを観た記憶があります。それ以外にも『画家とモデル』や『底抜け西部へ行く』など、内容のほとんどは記憶に残っていないのですが、観たことだけは間違いなく記憶があります。

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 ユニバーサル映画『テキサス』は、マーティン&ルイスが、1956年に解散し、その10年後の1966年に製作された作品です。これは、パラマウント映画の作品ではないのですが、わたしはこの作品に「底抜けコンビ」の再生を見て取ってしまいました。

 また、ジェリー・ルイスはコンビ解消後も単独主演で「底抜け」シリーズを継承し、『テキサス』の製作年と同年の1966年に『底抜け替え玉戦術』を完成させています。

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 ジェリー・ルイスは、かつての相棒だったディーン・マーティンと新コンビを組んだアラン・ドロンをどのように観ていたでしょう。わたしは『底抜け替え玉戦術』を観たことはないのですが、恐らくこの『テキサス』を意識しての撮影だったと察しています。

 アラン・ドロンは、この次に撮った『冒険者たち』でフランス映画界に復帰し、いよいよ映画スターとしての絶頂期を迎えていくことになりますが、ハリウッドでの最終作品がこの『テキサス』だったのです。
 もし、この『テキサス』が興行的な成功を納めていれば、もしかしたら『冒険者たち』も『サムライ』も『さらば友よ』も生み出されることはなかったかもしれません。
 その代わり、もしかしたら、ディーン・マーティンとのコンビ「マーティン&ドロン」が結成され、人気コメディ・コンビとして「新・底抜け」シリーズが生み出されていた可能性は否定できません。

 わたしは、この作品がアラン・ドロンとしても最後のハリウッドでの挑戦でありチャンスであったように思うのですが、興行的に不成功に終わってしまったことが、まず残念でなりません。

 しかし、アラン・ドロンは後年、自らのハリウッドでの生活を次のように語っています。

【>アメリカでキャリアを築こうとは思わなかったのですか?
>アラン・ドロン
それはキャリアの選択じゃなく、人生の選択だ。アメリカでは生活できない。死ぬほど退屈してしまったよ!パラマウントのお偉いさんのボブ・エヴァンスに住んでみろと言われたんだがね。
>契約を交わしてですか?
>アラン・ドロン
(-略)私はフランス語訛りが強い英語だし、ここは私の国じゃないし、自分はパリっ子で、あまりにラテン、イタリア的過ぎると・・・無理だよ。初めて渡米したのは64年で、息子が生まれたばかり、ラルフ・ネルソン監督の『泥棒を消せ』に出た。忘れっぽいMGMにラルフ・ネルソンとサム・ペキンパーの事を見つけさせてやったんだ・・・アメリカで仕事をした時は毎回、そこでもスターであることは沽券に関わることだと思っていた、ジャック・パランス、アン・マーグレット、ヴァン・ヘフリン共演の『泥棒を消せ』にせよ、シャリー・マクレーンと共演したアンソニー・アスキィス監督の『黄色いロールス・ロイス』にせよ、ディーン・マーチン、ジョー・ビショプ共演の『テキサス』にせよね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/26 「回想するアラン・ドロン:その9(インタヴュー和訳)」

【>アラン・ドロン
(-略)『泥棒を消せ』では妊娠してた妻が出産するまで(撮影を)待っていてくれた、連中が言うように私が”クール”であるためにね。素晴らしい家も用意してくれていたんだ、でも3週間もすると、私はパリへ電話して、半べそかいて、鬱状態だった・・・その後すぐさまフランスへ戻って来てしまった。だからアメリカは私にとってキャリアの選択じゃなく人生の選択なんだ。行きつけのビストロや自分のパンが必要なんだ、世界一のスターにならないかと言われるよりも重要なことだよ。それでもスターとしてアメリカで6,7本の映画に出演した。成功したとは思わないよ。アメリカで成功を収めた欧州の人間は少ないよね。シュワルツェネッガー?彼は別だな・・・アメリカで成功したのは監督たちだ:ビリー・ワイルダー、ヒッチコック、ウィリアム・ワイラーやデイビット・リーン・・・】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/27 「回想するアラン・ドロン:最終回(インタヴュー和訳)」


 彼は本国フランスは基より、イタリア映画への出演やアメリカ市場からの世界配給、日本、後に中国などアジア圏での人気が沸騰した国際的な人気スターであったのかもしれませんが、実は生粋のフランス人であり、キャリアにこだわることよりも、郷土にこだわって成功していったナショナリストであったのです。

 想えば、彼が若いころに主演した『若者のすべて』は、イタリア南部の農村地方ルカニアから大都会ミラノに移住してきた主人公の青年ロッコ・パロンディとその家族たちの悲しい物語でした。 
 そこでは、ルキノ・ヴィスコンティ監督が主人公の青年ロッコをアラン・ドロンに演じさせ、

「いつかは、今すぐにでないにしても、俺は故郷(くに)へ帰りたいんだ・・・でも帰れるかどうかはわからないが・・・。とても無理だろう。俺には・・・でも俺たちのうちのひとりは、故郷(くに)へ帰らなくちゃいけない・・・ルーカ、おまえかもしれない。
忘れるなよルーカ、あれが俺たちの故郷(くに)だ・・・オリーブの樹が繁り、月が明るすぎて気が変になるくらいの土地だ・・・虹の故郷(くに)だ。」

と話させています。
 実際のアラン・ドロンもハリウッドでの生活よりも自分の生まれ育った「故郷(くに)」フランスで多くの大傑作を量産していくキャリアと人生を選択しました。ですから、このセリフにわたしが感じ入ってしまうことは、アラン・ドロンの師でもあった名匠ルキノ・ヴィスコンティが彼の特性を、すでに見抜いていたこと、その先見性の見事さなのです。

 このことから考えれば、残念なことかもしれませんが、作品の成功・不成功という結果より以前に「マーティン&ドロン」シリーズが世に生まれ出る必然は、すでに無かったというのが正確なところなのかもしれません。
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by Tom5k | 2010-09-19 02:09 | テキサス | Trackback(3) | Comments(6)