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『太陽がいっぱい』③~アキム・コレクションより、映画館での鑑賞で特に印象の強かったもの~

 『太陽がいっぱい』は、TV放映、DVD、ビデオによって、何度も鑑賞してきましたが、今まであまり気にとめていなかったショットやシーンだったにもかかわらず、今回の映画館での鑑賞(2月7日(土))によって、印象が強烈になったものが思ったよりも多くあり、驚いているところです。
 なかには、何故、そのような強いショックを受けたのか、自分でも理由のわからないものもあり、「映画」の奥の深さをあらためて感じています。


 まず、ローマのカフェテリアでアラン・ドロン扮するトム・リプリーとモーリス・ロネ扮するフィリップ・グリーンリーフが談笑している映画の冒頭でのシークエンスでは、彼らのクローズ・アップを中心にして、後方に続くオープン・テラスの歩行者をデプス・ドリーで映し出していた瞬間のあることや、その雑踏をフォーカスの調整で合わせていたことなどに、今更ながら驚きました。
 もちろん、DVD、ビデオでの観賞でも、同様のフレーム内で観賞していたのでしょうが、このような奥行きのあるシーンとして、それを自然に感じたことは初めてでした。
 この冒頭での二人のやり取りから、彼らの関係を察することができるわけですが、次のビル・カールンス扮するフレディとロミー・シュナイダーが登場するまでの連続ショットにおいて、今、自分がそのテラスでコーヒーなどを飲みながら彼らの様子を見ているようなリアルな映像を体感することができたのです。

 トムとフィリップが悪酔いして、ローマからモンジベロに帰宅するときのボートから降りる遠景のショットでは、トムがフィリップの足の裏を、悪ふざけしてくすぐっていたことも、初めて気がついたところです。
 彼らのホモ・セクシュアルな雰囲気が最も強く漂っているワン・ショットであるとの所感を聞いたことがあるような記憶があります(淀川長治氏のものだったでしょうか?)。トムのこの動作のことを指摘していたか否かは記憶に定かではありませんが、彼らの仲の良さが表現されているこのショットから、確かに、それは説得力のある意見だったように思います。

 トムが、フィリップの靴を履き、縞のジャケットを身につけて、鏡の前で彼の仕草を真似るあの有名なシークエンスでは、そのときに、すでに鏡の上方にフィリップの足が映っていたことに、情けないことに、今回、初めて気がつき、これでも自分は、今まで数十年に渉って『太陽がいっぱい』を愛好してきたのだろうかと、自己嫌悪に陥るほど驚いてしまったところです。
 それにしても、あのトムの様子を後ろでじっとフィリップが覗っていたことがわかると、今更ながら冷や汗が出る思いです。

 タオルミナに向かうヨットの船室での食事のシークエンスで、トムがフィリップにナイフとフォークの使い方を侮蔑するように指摘されて船室から追い出され、憮然とした表情で舵取り台に座ったときの一瞬のショットに、海上を跳ねる魚の群れのモンタージュが挿入されています。
 これも恥ずかしながら、今までさほど意識したことのないインサートだったのですが、今回、このショットによって、わたしはトムの屈辱や憤慨、劣等感、嫉妬などの感情に強く移入してしまったのです。この説得力の増幅を体感したことで、あらためて、ルネ・クレマン監督のインサート・ショットが、いかに映画館におけるスクリーン投影の視覚効果として強力であるのかを理解することができました。
 これは驚くべき体験でした。
 日本では、このようなルネ・クレマン監督の技巧を「間のうまさ」として解釈していたそうですが、彼の映画作家としての主観が垣間見える独自の名人芸だとの見方もあるようです。

 トムがマリー・ラフォレ扮するマルジュを訪れ、ナポリを案内してもらう前に、彼女が銀行で小切手を換金している間の彼の様子を映し出すのですが、落ち着きなく旅行代理店のショーウィンドーを覗き込み、その前を行ったり来たりする様子から、観ているこちらのほうまで情緒的に不安定になってくるのです。
 ここも今までは、ほとんど意識することのなかったシーンだったのですが、強く印象に残りました。

 ローマに引越したトムに、部屋のカーテンの取り付けなどをしてくれる面倒見の良いアパートの管理人の小母さんが登場するシーンでは、彼女に備付けの燭台の位置を変えることを許可してもらい、それが針金で固定されていたために移動させることができず、トムが照れ笑いをして、彼女が微笑む様子を正面からミディアム・ショットでとらえてカットしています。
 二人は、まるで仲の良い母子のように、愉快そうで微笑ましく、トム・リプリーの不幸な生い立ちからの犯罪歴の間に垣間見える彼の人間らしくてあどけない側面が、珍しく挿入されていたように思いました。
 このシーンに、ルネ・クレマンとアラン・ドロンが再度コンビを組んだ次の作品、『生きる歓び』への端緒が開かれているようにも感じます。

 トムがフレディを殺したあと、彼の車を移動するときに、駐車禁止場所であるとの注意を道路巡視員から受けるズームのショットも、何故か強烈で緊張感のあるインパクトを受けました。ここも初めて受けた印象です。

 マルジュがモンジベロのフィリップの自宅に戻るときのショットにも驚かされました。
 スクリーン・フレームの構図として、その上部に映っている物陰から、彼女を尾行して後方で動き回っている刑事がシルエットで映されており、そのズームの高所撮影によるロング・ショットによって、緊迫感が増幅されてくるのです。
 今までは、この前段での酔ったオブライエンと、フィリップに成りすましたトムとのやり取りが、わたしにとって、このシークエンスの差し迫った情勢としての中心場面でした。ですから今までの鑑賞で、このショットにこれほど緊張したことはなかったのです。

 トムがモンジベロのマルジュを訪れる港でのカトリックのリトル・イタリア祭での青空いっぱいに打ち上げられている花火のショットには、私自身が今、空を見上げているような錯覚を受けました。
 そして、彼はフィリップの自宅にいるマルジュに会うために、その群衆のなかを早歩きで歩行するのですが、ここもルネ・クレマンらしいドキュメンタリー・タッチのリアルなショットで、今回ばかりは、ナポリの魚市場で、トムが海鮮の陳列を歩きながら眺める、あの有名なシークエンスよりも強く印象に残ってしまいました。

 フィリップの死体が引き揚げられた直後と、トムが警察に呼びつけられる直前との狭間のショットに、遠景でのヨットのズーミング映像がインサートされています。
 その船上で仲良く(わたしにはそう見えました)マストの帆をあげる3人の若者が映っており、わたしは、『冒険者たち』へのオマージュではないかと錯覚してしまうほどでした。もちろん、『冒険者たち』は、これより7年も後に制作された作品ですから、それはありえません。
 ここで、わたしはフィリップ、マルジュ、トムの3人の若者たちが、このような陰惨な関係にならずに済む方法は他になかったのだろうか、と深く考えて込んでしまいました。

 やはり、ルネ・クレマン監督特有のインサート・ショットのひとつであろうかと思いますが、TV画面、パソコンのディスプレイでは、この3人のシルエットはあまりに小さくて、ほとんど見えませんので、これも映画館鑑賞ならではの初体験となったわけです。
 

 上記に列挙したものは、今までも気がついていなかったとは言えずとも、今回の映画館での観賞で初めて、驚くような大きな刺激を受けたものばかりです。
 なかには、何故、今頃気づいたのか、『太陽がいっぱい』の愛好者として失格ではなかろうかと、自分が情けなくなったりもするのですが、わたしなりに正直に列挙してみました。

 もちろん、これら以外の有名なショットやシークエンスで、今回もいつも同様にショッキングで印象深いものも数え切れないほど多くありましたし、逆に、あまりにも何度も鑑賞してきたため、大画面とはいえ衝撃度が低くなってしまったものも、残念ながら少なくは無かったようにも思います。

 それにしても、何十回も観賞しているにもかかわらず、こんなにも興味深いショットを、これほど多く発見できたことに驚いてしまいす。
 何故、どうして、このような体験をすることが、映画館では可能なのでしょう?本当に貴重な映画鑑賞でした。


 ようやく、アラン・ドロンの代表作『太陽がいっぱい』を映画館で観ることができた至福を噛み締め、充実感に包まれながら、わたしは列車での帰路に着いたのでした。

 そして、独りごちたのです。

 『太陽がいっぱい』だ 今までで最高の気分だよ 最高だ
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by Tom5k | 2009-02-21 01:29 | 太陽がいっぱい(3) | Comments(3)

『太陽がいっぱい』②~アキム・コレクションより、ルネ・クレマン批判への反批判~

 10時40分から始まった『望郷』の上映が終了し、休憩時間を経て12時25分から、いよいよ『太陽がいっぱい』です。
望郷
/ ジェネオン エンタテインメント





 映画館での初めての鑑賞だったこともあり、わたしの映画人生にとっては、特筆すべき大きな歓びでした。
 何せ、最も敬愛するアラン・ドロンの最も優れた作品であり、彼らしい個性と才能が最も明らかにされている作品だからです。

 アンリ・ドカエの撮影技術とカラー映像、ポール・ジェコブの斬新なシナリオ、ニーノ・ロータの音楽効果、素晴らしい演技者モーリス・ロネの助演、しかも、すでに多くの実績を積んで巨匠として活躍していたルネ・クレマン監督の演出です。
 なかでも、このような最高の環境で、この作品に主演することのできたアラン・ドロンは、最も幸福な俳優だったのではないでしょうか。

 そして、ルネ・クレマン監督にとってさえも、新しい時代へと脱皮、飛躍できた契機となった作品であるようにも思えるのです。
 ただ、非常に残念なことなのですが、彼の実績については、否定的な批評も多く存在しています。

【「クレマンが『太陽がいっぱい』で見せてくれたのは、地中海のすばらしい陽の光と、エレガントな色彩撮影と、見当ちがいのディテールと、ショッキングなラスト・シーンだった。」
 ロイ・アームズが、『海の壁』の後に作られた『太陽がいっぱい』(59)について、こんな批評をしている。
 『太陽がいっぱい』、その後の『生きる歓び』(61)とともに、押しよせる“ヌーヴェル・ヴァーグ”に対抗してクレマンが作ったスタイリッシュな作品であった。二本とも、“ヌーヴェル・ヴァーグ”の作品から出てきたアンリ・ドカエに撮影をまかせたのだが、ドカエのカメラは、若い世代の心理をうつしとり得ず、ドラマの構造だけを美しく捉え得たにとどまった。クレマンは、現代の若い世代の心理を活写できるような作家ではなかったのである。彼は、巧みなストーリー・テラーとして、その後の作家活動を続けるようになった。】
【映画評論 1974年3月号(「ルネ・クレマン研究 クレマンの作品系譜をたどる」高沢瑛一)】


 例えば、「ヌーヴェルヴァーグ」の作家としての代表格であるクロード・シャブロルの『いとこ同志』が、この2年前の1958年に制作されています。
 『太陽がいっぱい』と同時代の若者たちの生態を描き、『太陽がいっぱい』のアンリ・ドカエが撮影し、脚本と台詞は、やはり『太陽がいっぱい』のポール・ジェコブが協力していることにおいて、その作品から感じる時代的な感性に触れたとき、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』の作品評価が高いものにならなかったことは、理解できないわけではないのです。

 『いとこ同志』は、田舎からパリに出てきた主人公シャルル(ジェラール・ブラン)が愚鈍なまでの努力のすえ、恋愛にも学業成績においても芳しい成果を上げることができず、ブルジョアの従兄である放埓な遊び人であるポール(ジャン・クロード・ブリアリ)が、女性関係にしても、受験勉強にしても、難なく良い結果を出してしまう皮肉でやりきれない内容の物語でした。

 わたしは、この作品のシャルルとポールの関係に、『太陽がいっぱい』のトムとフィリップを重ね合わせてしまうのですが、ここでの主人公たちのキャラクターは、さすがに「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品らしく、確かに柔軟で、かつリアルに描かれています。
いとこ同志
/ アイ・ヴィー・シー





 すなわち、ロイ・アームズの批評を踏まえた高沢瑛一氏の
「クレマンは、現代の若い世代の心理を活写できるような作家ではなかったのである。」
との批判も、あながち誤ったものではないかもしれない、とは感じてしまうのです。
 つまり、『太陽がいっぱい』では、ルネ・クレマンの演技指導によるマリー・ラフォレ、モーリス・ロネ、アラン・ドロンたちの演技と個性の発出など、素晴らしい人物設定になっているとはいえ、彼らのキャラクター、そしてストーリー・プロットの必然性においても、それは確かに類型的で硬直化しているとの解釈は、成り立つのかもしれないのです。

 まず、マルジュ(マリー・ラフォレ)においては、
 彼女を15世紀のルネッサンス期フィレンツェの宗教画家、清らかで深い精神性に満ちた多くの「天使の絵」を書き続けたフラ・アンジェリコに傾倒しているイノセントな女性として描いています。
 しかし、それは実に前時代的なキャラクターです。戦後社会には、すでに存在しなかったとまでは言えないにしても、少なくても当時の若い女性を象徴するキャラクターではなかったのかもしれません。

 また、フィリップ(モーリス・ロネ)にしても、
 多くの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちがそうであったように、プチ・ブルジョアの青年なわけですが、傲慢で放埓、弱い者いじめが生きがいであるような印象を伴う描写が多かったように思います。
 ですから、彼を現代の格差社会の批判材料とするために、あえて観る側の「嫌悪感の喚起」を促すことを目的とし、ブルジョア青年の一面的で硬直したキャラクターを意図的に設定したような印象も受けるのです。

 そして、トム・リプリー(アラン・ドロン)のキャラクターにおいては、
 貧困層の青年の内面心理は、演技者アラン・ドロンとは一体化しているものの、この作品の制作当時のフランスの映画ファンの多くであったブルジョア青年層の生活実感からは遠く、想像しにくいキャラクターであったかもしれません。
 もしかしたら、すさんだ現代アメリカ青年のボーダーライン人格障害者のような特異なものとして理解されてしまったのでしょうか?

 そもそも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちにブルジョア出身の若者が多かったことからも、彼らに戦前・戦中の苦渋をなめた自国の映画監督(ここではルネ・クレマン)を理解するキャパシティが不足していたことは否めない事実だったはずです。
 このようなところに、戦前・戦中の世代と新しい戦後世代の断絶の要素も垣間見えるような気がするのです。

 しかしながら、本質的に多くの所得格差の存在する現代において、「女性として男性を愛していく純情」、「所有するものの傲慢」、「所有しないもののコンプレックスや人格崩壊」など、その人間としての特質に、時代性における違いはあっても、本質的な違いがそれほど多く存在するとは、わたしには思えません。

 現代における社会矛盾は意外とわかり易い構図であり、誤った価値観に対する批判やメッセージを突き詰めていけば、『太陽がいっぱい』の主人公たちのキャラクターは、時代そのものを象徴せずとも、人間社会の本質を充分に、それもリアルに表現していたのではないかとも思えるのです。
 でなければ、『太陽がいっぱい』が、現在においてまで、これほど支持され続け、再評価の機運が、これほど高まるわけがありません。

 また逆に、戦後世代の若者たちに「貧困層の劣等意識」への想像力があったなら、あえてルネ・クレマンは、このような作品を制作しなかったかもしれません。


「(~略)電子頭脳の巧妙な計算に支配された形式上の完璧さのために、クレマンは、ある種アカデミズムへ導かれる危険性があった。この完璧さが、合作映画『海の壁』を失敗させたのである。この作品では、熱烈な官能が、慎重な冷静さのもとであちこちに顔をのぞかせてはいた。『太陽がいっぱい』とそれに続く『生きる歓び』は或る種の衰えを段階づけていた」
【世界映画史 ジョルジュ・サドゥール著 丸尾定訳】
世界映画全史
ジョルジュ・サドゥール / / 国書刊行会





 フランスでは1950年代の中期から、「ヌーヴォ・ロマン」と体系付けられる観念的な文学が勃興していきました。
 その代表的な作家として、アラン・ロブ=グリエやミシェル・ビュトール、ジャン・ケーロールらがおり、マルグリット・デュラスもその体系に位置づけられる女流作家です。彼女の作品の映像化されたもので評価が高い作品を挙げれば、アラン・レネの『二十四時間の情事』とアンリ・コルピの『かくも長き不在』だといわれています。
二十四時間の情事
/ アイ・ヴィー・シー





 映画においても小説においても、戦後派の作家は、その商業性や物語のプロットを軽んじるようになりました。
 そして、「ヌーヴォ・ロマン」の作家は自らの主観を重んじ、その描写においてはリアリズム(客観性)を貫くように努めていたそうです。また、それはシナリオや原作においても視覚的な特徴を持つものが多く、つまり映像的なものに即した作品でもあったわけです。
 更に、人物の心理描写などは、あえて欠如させている点なども特徴のようでした。

 このような特徴から、「ヌーヴォ・ロマン」の作品傾向は、作家主義の映画体系である「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品との共通点が非常に多く、そのことからも戦中派のルネ・クレマンにとっては、これらの戦後派の若い世代と接点を持つことは極めて困難な実践であったのだと考えられます。

 ですから、マルグリット・デュラス原作の『海の壁』の映画化が、失敗作であったことは必然の結果であったとまでいえるかもしれないのです。
マルグリット・デュラス
/ 国文社






 しかしながら、彼の失敗を誰が非難することができるでしょうか?

 そのような抽象的で文学的な映像のみを映画であるとする新時代の価値観を単純に絶賛することだけでは、広い意味での映画の振興を無意味なものにする恐れも発生します。

 むしろ、戦中派でアカデミックで優れた心理描写を得意とするリアリストであったルネ・クレマンが、果敢に戦後の新しい価値観に与しようと、非アカデミズムの抽象的な文学作品の映像化に挑んだその意気込みに、わたしは拍手を送りたくなってしまうのです。


「クレマンとは何者か?『居酒屋』はクレマンの他の映画との関係においてなにを意味するのか?映画の人物について、ゾラについて、生活について、アルコール中毒について、また子供たちについて、クレマンはなにを考えるのか?私たちはなにも知ることはないだろう。というのはクレマンは映画の〈作家〉ではなくて、用語のハリウッド的意味での〈監督者〉であり、自分に申込まれた物語をうまく利用するヴェテラン技術者だからである。」
【フランソワ・トリュフォー】
禁じられた遊び/居酒屋
/ アイ・ヴィー・シー





 確かに、ルネ・クレマンは「用語のハリウッド的意味での〈監督者〉=物語をうまく利用するヴェテラン技術者」ではあったかもしれません。
 しかしながら、この要件と作家性との間にそれほどの矛盾があるとも思えません。
 もし、そのようなものがあるとするならば、それはむしろ「ヌーヴェル・ヴァーグ」作家主義の理論が不十分なものだったのではないかとまで考えます。

 むしろ、それは批判されるものではなく、映画監督にとっては必須の要件を備えていたとして、評価されるべき特徴だったのではないかとも思えるのです。

 わたしは、フランソワ・トリュフォーが人間的にも、映画評論家としても、映画監督としても、優れた人物であったと思っています。彼の評論も映画も素晴らしいものばかりです。

 しかし、彼の映画に関わる批評がすべて正しかったとは思いません。
 
 わたしが、このフランソワ・トリュフォーのルネ・クレマンへの批判で思い当たることは、日本の巨匠である小津安二郎の作品に対しての彼の批評です。ここでも彼の若さゆえなのか、概ね同様の安易な批判をしています。

「(~略)私にはどこがいいのかわからない。いつもテーブルを囲んで無気力な人間たちがすわりこんでいるのを、これも無気力なカメラが、無気力にとらえている。映画的な生命の躍動感が全く感じられない。」
【フランソワ・トリュフォー】

 これは、カイエ派の最も悪質な、極論としての映画作家批判の典型だと考えられます。
 もちろん、トリュフォーは、後年、小津に対する評価を修正しているのですが、ルネ・クレマンへの批判も、彼のこのような短絡の批評のひとつではないか?との疑問が、わたしの頭をよぎってしまうのです。


 また、ルネ・クレマンの作品には、リアリズムを追求したうえで、映画のテーマとしての倫理感・道徳感が常に貫徹しています。
 優れた作家性を論じるならば、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の諸作品のように、むやみに「不倫理」や「善意の無意味」などを描くことでニヒリズムに陥りがちになる必要はなく、常に前向きに現代の矛盾点と向き合っていくべきだとわたしは思うのです。

 そういった意味では、『太陽がいっぱい』での主人公トム・リプリーの悲劇の結末など、当然であるといえば当然の帰結であり、観る側に多くの教訓を与える効果も絶大です。
 しかも、ここではトム・リプリーに対しての観る側からの感情移入が可能な作風であるので、社会のひづみや矛盾を、視覚において充分に体験でき、その結果から「映画の説得力」を強く感じることが可能なのです。


 映画が映画の役割をまっとうしていた時代の作品、その時代の映画を映画館で体感することができた満足感を感受しながら、わたしは列車での帰路についていたのでした。
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by Tom5k | 2009-02-12 00:36 | 太陽がいっぱい(3) | Comments(7)

『太陽がいっぱい』①~犯罪動機「貧困とコンプレックス」~

 この作品でもルネ・クレマン監督のスタッフ・キャストの編成においては、非常に特徴があるようです。
 まず、シナリオですが、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』『いとこ同志』やエリック・ロメール監督の『獅子座』のシナリオを担当していたポール・ジェゴフです。そして、カメラのアンリ・ドカエも、当時、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ルイ・マルなどの監督達とよく組んでいました。彼は、初期のジャン・ピエール・メルヴィル監督に見出されたカメラマンです。「ヌーヴェル・ヴァーグ」の監督たちは、彼の『海の沈黙』や『恐るべき子供たち』を絶賛し、彼が、そのカメラマンだったわけです。
二重の鍵
/ ジェネオン エンタテインメント





いとこ同志
/ アイ・ヴィー・シー





エリック・ロメール Collection DVD-BOX 1 (獅子座 / 六つの教訓物語)
/ 紀伊國屋書店





恐るべき子供たち【字幕版】
/ ビデオメーカー





 そして、共演者のモーリス・ロネですが、彼もまた、前作ではルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』に主演しています。しかも、『太陽がいっぱい』は、彼が主演する予定であった作品です。
死刑台のエレベーター
/ ポニーキャニオン





 これらのメンバーとルネ・クレマン監督が組んだことから、この作品は「ヌーヴェル・ヴァーグ」に対抗して作った作品といわれているようです。しかし、それはむしろ、『フランス式十戒』でジャン・クロード・ブリアリを使って「ヌーヴェル・ヴァーグ」を小者扱いした旧時代の代表監督ジュリアン・デュヴィヴィエの方だったような気がします。
 むしろ、彼独特のリアリズム作品を創作してきたルネ・クレマン監督は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を作風に取り入れ、新境地を開拓しようとしたのではないかと思います。そして、今、自分は「新しい波」を受け入れ、1930年代以降、ジュリアン・デュヴィヴィエやジャック・フェデール、マルセル・カルネ達から引き継がれてきたフランス映画界において、戦後1940年代後半からのクリスチャン・ジャックやクロード・オータン・ララ、そして、ジャン・ドラノワらの「詩(心理)的レアリスム」第二世代とともに、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手たちへの歴史の橋渡しになろうとの思いがあったのではないでしょうか?

 作品の題材を文学作品ではなく、アメリカの作家であるパトリシア・ハイスミス原作の推理サスペンスとしたことは、クロード・シャブロル監督の『二重の鍵』と似ていますし、シナリオも、『居酒屋』と同テーマであるにも関わらず、ジャン・ギャバンを主演にした『鉄格子の彼方』以来、一緒に仕事をしてきたジャン・オーランシュとピエール・ボストのシナリオコンビ(ドロン作品では『学生たちの道』のシナリオを担当)を使わず、ポール・ジェゴフを起用したことなどは、まるで自らが「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家のようです(ジャン・オーランシュとピエール・ボストのコンビは、当時のフランス映画の文学的傾向、いわゆる「良質の伝統」を創り出していた時代の代表でしたが、「カイエ・デュ・シネマ」誌(1954年1月号)上での掲載論文「フランス映画のある種の傾向」により、フランソワ・トリュフォーによって徹底的に批判されました)。

 これらのことから、ルネ・クレマン監督の本来の目的やフランス映画史的意義からいえば、この作品は、モーリス・ロネが主演トム・リプリーを務めるべき作品であったのだといえそうです。これは、彼が多くの映画人を育ててきた教育的側面を持っていた映画人であったことからも考えられることであり、より広い意味からの考察です。つまり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」とそれ以前の映画は、断絶すべきではなかったと思うわけです。

 しかし、残念なことに「カイエ・デュ・シネマ」誌を主宰していたアンドレ・バザンや「カイエ派」の集いの場シネマテーク・フランセーズを率いていたアンリ・ラングロワらのパリのインテリ層は「新しい波」と「フランス映画の良質の伝統」との確執を埋めようとはせずに、「新しい波」の作家主義を育てていったわけです。文学界においても、実存主義の文学者ジャン・ポール・サルトルが、モーリアックを例にとり、旧来のフランス文学を批判していった時代であったことなどは、ルネ・クレマン監督のかつての師である『美女と野獣』の監督、そして詩人、画家でもあったジャン・コクトーにも直接・間接の影響を与えていたからだとも言われています。
文学とは何か
J‐P・ サルトル Jean‐Paul Sartre 加藤 周一 海老坂 武 白井 健三郎 / 人文書院





美女と野獣
/ アイ・ヴィー・シー





 更に、フランスの映画ファンにしても、アラン・ドロンは、例えば、ジャン・ギャバンのように愛すべきパリジャンではなく、成り上がりの警戒すべき危険な印象をもった俳優であったことも、これらのことに輪をかけていった原因のひとつであったのかもしれません。

 もちろん、アラン・ドロンのこの作品で名演は、今更わざわざ、説明するまでもないことでしょう。主人公のトム・リプリーの卑屈なコンプレックスとトップ願望がアラン・ドロンその人、そのものであった配役の成功であったと、周囲も語り継ぎ、本人もそう語っています。結果的に彼がこの主人公を演じたことで、単体としての作品の結晶度からみれば、完璧な作品となりました。特に日本では、リアルな犯罪心理劇のストーリーに、ニーノ・ロータの甘美で悲しい感情表現がうまくマッチングしたあの有名な主題曲とともに、歴史的な大ヒットとなったのです。

 そして、彼らにとってのこの成功体験は、以降3作品も続く映画史的名コンビネーションとなっていったわけです。
 ただ、ここでも残念なことに、ルネ・クレマン監督のアラン・ドロンへのこだわりが、演出家としての本来の目的と異なってしまい、自らの映画監督としてのスランプ、悪循環に繋がってしまったことにも着目すべきなのです。しかも、アラン・ドロンにはルネ・クレマンだけではなく、もうひとりの師匠ルキノ・ヴィスコンティというイタリアの「ネオ・リアリズモ」の巨匠がいたわけです。

 この作品も、そろそろ再評価されてくる時代ではあるとは思いますが、フランス国内でのトップ・クラスの他の映画作品のなかでは、まだまだ、評価が高いとまではいえないようです。
 また、同時期の「ヌーヴェル・ヴァーグ」の諸作品より低い評価であるのはもちろんですが、ルネ・クレマンの作品としても『鉄路の闘い』『居酒屋』『禁じられた遊び』などの「リアリズム」作品の方が着目されがちですし、アラン・ドロンの作品としてもジョセフ・ロージー、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジャン・ピエール・メルヴィル、ベルトラン・ブリエの作品のほうが評価が高いようです。
 しかし、そういった客観的な現実があっても、なお、『太陽がいっぱい』という作品の素晴らしさは普遍であり、現在の映画ファンに必要なテキストであるとも、わたしには思われるのです。

 そのようなことから、わたしは、次のことを常に意識しながら、何度も観賞しています。

1、現代社会の歪み「犯罪行為」を扱っている作品であること。

2、トム・リプリーの「犯罪動機」が貧困と劣等感にあること。

3、作品構成がリアルな描写とストーリーに徹底しており、現実社会から遊離していないこと。

4、トム・リプリーの「犯罪心理」の描写が正確であり、特に、その比喩表現がインサートカットの挿入等により、成功していること。

5、作品のテーマが人間倫理を全うしていること。

6、正常者と異常(犯罪)者の境界が自然に理解できる表現に徹しており、トム・リプリーの犯罪と破滅に対して感情移入してしまう構成であること。

7、アラン・ドロンというアイドル・スターを本物の俳優に育てたこと。また、彼の資質が役柄において、俳優として適任であったこと。

 特に有名なインサートとしては、主人公トム・リプリーが、市場を散歩する場合の魚と彼のモンタージュです。他にも、フィリップを殺す際のトムのナイフを握る手、フィリップの落としたトランプを拾おうとする手、ヨットの遠景ショット、フィリップがナイフを刺されたまま「マルジュ」と叫ぶ下からのショットの連続のなかでのヨットという全く殺人と関係のないカットの挿入、つまり、トムの潜在意識の「誰かに見られている」という恐怖感の表現などが有名なインサートです。

 また、フィリップの友人の死体を運ぶときの車のクラクションの効果も自分が死体を運んでいるような気持ちになりますし、殺人のあとのトムの食欲も、本当の殺人事件と同じだそうです。殺人犯人は、人を殺害した後に急激に食欲や性欲が襲ってくるそうです。日本の警察も、現場での死体の検死は、自殺と他殺の区別が困難な場合に、その現場の冷蔵庫の食べ物を確認するそうです。
 このように、この作品には、この他にも数え切れないほどの多くの殺人犯人の潜在意識が表現されています。


 ルネ・クレマン監督は、「人の道から外れた生き方」には非常に厳しいひとではないでしょうか?彼の作品では、「人の道から外れた生き方」をしている人間は、辛い思いが、更に強くなるという構造になっているような気がします。つまり、「転落」や「破滅」の本質的な原因が何なのかを観る側は考えていかざるを得ないように思うのです。
 作品の主人公の生き方では「駄目」なのです。彼のその倫理観は、代表作品『居酒屋』や、この『太陽がいっぱい』でも一貫したテーマです。そういう生き方をしている主人公のキャラクターに感情移入することができて、しかも、それが愛すべき人物であったとしてもです。
 悲惨な環境の者が、益々悲惨になってしまうストーリーは、ヒューマニティの社会還元を目的にした彼の作品特有の警告であったとはいえないでしょうか?

 『太陽がいっぱい』のトム・リプリーの殺人動機は非常に分かり易く、そういう意味で極端に言えば、彼は非常に健康的な人間であるともいえます。当時の日本でこの作品が受け入れられたことを考えると、日本はまだ、あらゆる面で健康を保っていたのかもしれません。
 現在、日本での刑事事件における犯罪動機は、全く理解できない意味不明のものが増加しており、実に危険な時代を迎えてしまっているように思います。この時代にルネ・クレマン監督のヒューマニズムをどのように生かしていけばいいのか、我々、現代人の苦悩は益々深く沈潜していかざるを得ないような気がします。

(参考~『巨匠たちの映画術』西村雄一郎著、キネマ旬報社、1999年 / 『フランス映画史の誘惑』中条省平著、集英社(集英社新書)、2003年)
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by Tom5k | 2005-11-12 15:47 | 太陽がいっぱい(3) | Comments(28)