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『チェイサー』③~実業家「アラン・ドロン」、そのヒーロー像~

 『プレステージ』(1977年)を観た後、実業家・ビジネスマンである主人公を演じた当時のアラン・ドロンをもっと深く掘り下げたくなって、『ブーメランのように』(1976年)にこだわってしまったのですが、私には、以前から、『ブーメランのように』を鑑賞するたびに、この作品と必ず比較してしまう作品があります。
 それは、1978年11月、私が高校生の頃に公開された『チェイサー』です。

 その習慣は現在でも続いており、先般、『ブーメランのように』を観た後にも、やはり『チェイサー』を観てしまいました。私は、どうしてもこの2作品を無意識に、いや意識的に?比較してしまうのです。

 この2作品の「アラン・ドロン」の演ずる主人公の設定は言うまでもなく異なったものなのですが、実は非常によく似ており、その外観、特にその表情が似ているように思うのです。
 私は、『ブーメランのように』のジャック・バトキンと『チェイサー』のグザヴィエ・マーシャルを同一主人公にした実業家「アラン・ドロン」シリーズにしたら面白かっただろうと考えてしまいます。

 想えば、『ブーメランのように』が公開されるまでの彼の出演作品での「アラン・ドロン」キャラクターは、あまりにも強烈な個性によって表現されていた作品ばかりだったような気がします。
 だからこそ、『ブーメランのように』と『チェイサー』のような普段通リの素顔で演技している様相の2作品が、私にとっては際立ってしまう印象になったのかもしれません。

 残念ながら、日本でのアラン・ドロンの人気が低迷してしまったのもこの頃でした。作品としては素晴らしいものばかりですから、本当に悔しく思います。

 1975年2月に公開された『ボルサリーノ2』ですが、これは確かに「アラン・ドロン」らしく、クールで友情に篤い主人公でしたが、人気全盛期の最も彼らしい孤独なアウトサイダーの役柄からは、遠ざかっていた作品だったように感じます。信頼できる部下に囲まれ、素晴らしい恋人を背景に設定した物語ですが、マフィアのボスとして彼らを同行させてアメリカに渡航するラスト・シークエンスは、従来から彼が得意としていた孤独なアンチ・ヒーロー的な在り方ではありませんでした。

 1975年4月に公開された『愛人関係』は、恋人ミレーユ・ダルクを主演にして、自らは助演に徹した作品でしたし、ナルシストのアラン・ドロンが本気で恋人を愛してしまいます。少なくても、「アラン・ドロン」に夢中だった女性ファンを失望させてしまう設定でした。私は好きな作品ですが・・・。

 1975年7月に公開された『アラン・ドロンのゾロ』は、彼が原点に回帰し時代劇のコスチュームで仮面の騎士を演じました。たいへん素晴らしく、若い頃の「アラン・ドロン」であるならば、これこそ新たな剣戟のヒーロー誕生とまで言いたくなるような作品だったと思いますが、1970年代当時の映画のトレンドからも、40歳に差し掛かったダンディーなヨーロピアン・スタイルのいわゆる「アラン・ドロン」キャラクターからも、かなりかけ離れた作品になってしまいました。

 1975年11月に公開された『フリック・ストーリー』は、彼がそれまでほとんど演じたことのなかった刑事役でした。非常に魅力的な役柄ではあったのですが、やはり従来の「アラン・ドロン」らしからぬ主人公でした。
 この作品の実在の主人公ロジェ・ボル二ッシュ刑事は、アラン・ドロンが過去に演じた『リスボン特急』でのアウトサイダーの刑事とは異なり、スーパー・デカの異名を持ちながらも警察組織の仕事に埋没し日常的な業務遂行の状況を上司に点検され、その叱責や指導を受けている国家公務員としての警察官だったのです。

 1976年4月に公開された『ル・ジタン』ですが、何と彼が演じた主人公は、ロマ族出身の犯罪者です。甘いマスクで多くの女性を魅了したダンディズムの極致としての「アラン・ドロン」の面影は存在しませんでした。
 しかし、ここでの「アラン・ドロン」は髭を生やし痩せこけ、髪の毛は乱れたままの姿で出演し、新しく素晴らしいアンチ・ヒーローのキャラクターを創造できたように思います。
 ですから、人気の持続する安定した「アラン・ドロン」像の確立まで至れなかったことが、悔しくてならないのです。

 もしかしたら、1970年台半ばから、このように器用貧乏とまで言えるような多種多様な役柄を演じていた彼は、新しい「アラン・ドロン」像を創出することにかなり焦っていたのかもしれません?
 どの作品も、まぎれもなく「アラン・ドロン」でありながら、「アラン・ドロン」ではないように感じる作品ばかりです。それぞれ、素晴らしく新境地を拓くような野心作ばかりでしたが、どれも「アラン・ドロン」新時代を築く決定打には、もう一歩足りていなかったように思います。

 また、1976年12月に『ブーメランのように』が公開された後の1978年11月に『チェイサー』が公開されるまでの間の2作品も、「アラン・ドロン」が演じた主人公としては、あまりにも強烈な個性で、かつ「アラン・ドロン」らしからぬ役柄でした。

 1977年4月公開の『友よ静かに死ね』は、私にとっては本当に面白い作品でしたし、映画作品としても素敵な逸品だと思っていますが、実在したギャング団のボスであった主人公のロベール・ルートレルは、これはもう、いわゆる「アラン・ドロン」ではありません。キャラクターも髪型も言わずもがなでしょう。

 1977年9月公開の『パリの灯は遠く』は、当時の観客動員数、商業性は別として、映画としての歴史的傑作であり、『太陽がいっぱい』、『若者のすべて』、『サムライ』などと同様に、「アラン・ドロン」の代表的作品であることは今更言うまでもないことです。
 しかし、ジョセフ・ロージー監督の演出での陰鬱な設定に加えて、「アラン・ドロン」もいわゆるスター性のあるヒーローからは程遠く、「もう、アラン・ドロンは、二枚目をやめた」とまで評された作品でした。

 このように、この時期の彼の作品は、残念ながら、『太陽がいっぱい』や『サムライ』を創作したときのように映画スター「アラン・ドロン」として、多くのファンに受け入れられる新時代のスター・キャラクターを創出することはできませんでした。
 ジョセフ・ロージー監督との大傑作『パリの灯は遠く』でさえも、その後の彼のスター性には大きく影響を与えるまでには至らなかったのです。

 そのように考えたとき、彼が『サムライ』でのジェフ・コステロの役づくりについて、カイエ・デュ・シネマ誌のインタビューを受け非常に興味深い回答をしています。
【>詳細一つ一つ、監督とあなたが話し合われたのでしょうか?
>アラン・ドロン
話もしたが、私はすぐに理解していた。才能と言うのは、カメレオン役者でもあることだ、自分が依頼されたことなら、(役柄の)色合い、調子を変えられることだと思う。それは当然のことじゃないかな。努力する訳じゃない、それは感じるものだからね。そうした事を理解して、自分に取り込めるのは職業的知性なんだ。でも賞賛して欲しいわけじゃない、独りでに湧いてくるものだからだ。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/11
「回想するアラン・ドロン:その5」(インタヴュー和訳)」


 また、彼の「アラン・ドロン」としての代表作品のひとつである『高校教師』については、次のように語っています。
【>『高校教師』では、いつも同じコート、丸首のセーターを着ていて、無精ひげ姿です。スターのあなたがこうした壊れたような人物を演じるのは賭けではないのでしょうか?
>アラン・ドロン
毎回、私がこうした賭けをやると、大抵理解されないんだ。別の役者なら違うのだろうが、私はダメなんだね。批評家たちは年がら年中こうだ:ドロンはいつも同じ事をやってる、軽機関銃を持った映画だけだ・・・あらゆる観客たちのために私くらい多種多様な映画をやってきた者はいないと思うんだがね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/26
「回想するアラン・ドロン:その9」(インタヴュー和訳)」


「才能と言うのは、カメレオン役者でもあることだ、自分が依頼されたことなら、(役柄の)色合い、調子を変えられることだと思う。・・・そうした事を理解して、自分に取り込めるのは職業的知性なんだ。」
「あらゆる観客たちのために私くらい多種多様な映画をやってきた者はいない・・・」

 この言動は、この時期の彼の作品にも非常に良く当てはまるような気がします。『サムライ』と『高校教師』の成功が、1970年代半ば、このような極端な役づくりに彼を走らせてしまった遠因のひとつだったのでしょうか?
 もちろん、それが間違いだったとは全く思いませんし、私はむしろ、それこそ素晴らしい職業的気質だと思ってしまうのですが、あまりにも器用な役づくりは、劇中人物の個性をうまく表現できる性格俳優としての資質に必要な要件ではあるものの、華やかな銀幕のスターとして必要とされる資質ではありません。

 オールバックの戦前のマフィアのボス、愛する女性へ献身を捧げる弁護士、仮面を付けた正義の剣士、国家公務員の刑事、髭を生やしたロマ族の放浪の犯罪者、カーリーヘアの戦前のギャング団のボス、ユダヤ人の魅力に取り憑かれた美術商人の異常性・・・。 

 もしかしたら、これらの一貫性の無い「アラン・ドロン」キャラクターの混乱が、日本での人気を低迷させていく原因のひとつになったのかもしれません。

 さて、このように考えると、1970年台半ばに演じていた強烈な個性の主人公のなかでも、取り分け『ブーメランのように』と『チェイサー』、そして1979年5月公開の『プレステージ』の3作品で演じた主人公は、自らの私生活を背景にして素顔の「アラン・ドロン」に最も接近したものだったように思えます。
 特に、『ブーメランのように』と『チェイサー』は、いわゆる「フレンチ・フィルム・ノワール」という同じ体系に在るのですから、、安定した「アラン・ドロン」らしいヒーロー像を復活させるに足りますし、そうなり得る作品だったはずだと考えてしまいます。どうしても、私は、この2作品が彼のスターとしての起死回生の作品になって欲しかったと今だに強く思っており、こだわり続けているのです。

 当時の「アラン・ドロン」は、もう既にその生き方自体が、十分にドラマティックだったわけですから、俳優としての職業的知性によってあらゆる観客たちのために多種多様な映画を撮り続けるよりも、等身大で自然な生活感覚からヒーロー像を創出することを選択する方が、銀幕スターとしての魅力を最大限に発揮することが可能だったような気がします。

 そして、この2作品には、共通の「アラン・ドロン」らしい素晴らしさも数多く盛り込まれています。
 「アラン・ドロン」の私生活と同様に、主人公が事業の成功者、実業家であって、最も得意とする「フレンチ・フィルム・ノワール」体系の作品でもあります。主人公が愛する者、大切にしている者のために戦う孤独で格好良い「ヒーロー」であり、作品のテーマも社会の矛盾が鮮明に主張されていることから、男性的規範や価値観を基軸に構成されています。
 『ブーメランのように』のカルラ・グラヴィーナ扮する再婚相手とミレーユ・ダルクが扮する恋人のキャラクターが、日本的な表現をすれば「内助の功」の役割のみで担われていることなども男性的価値観の共通点でしょう。

 さて、話は少し逸れてしまうのですが、このように比較すると、この「アラン・ドロン」の実生活を反映させた2作品の根幹にあるテーマは、家族愛や友情です。
 自分の大切にしている者を守ろうと必死に戦う愚直なまでに芯の強い主人公グザヴィエ・マーシャルの姿は、直接的には、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』のトム・リプリーよりも、1960年に製作されたルキノ・ヴィスコンティ監督の「アラン・ドロン」、そう『若者のすべて』での封建の青年、聖者ロッコ・パロンディが現代社会のヒーローとして再生・復活した姿であるような気がしてくるのです。
 そう考えると、『チェイサー』の配役については、私としては友人のモーリス・ロネ演じるフィリップではなく、実の兄シモーネの設定にして、レナート・サルバートリに演じて欲しかったと思っています。

 このように、若い頃の代表作品のキャラクターを活かした更に深みのある「フレンチ・フィルム・ノワール」作品が、この2作品だと私は考えるのです。

 両作品は、どちらの主人公も現代的で勇敢なヒーロー像を造詣しており、それぞれに魅力が満載ですが、当然のことながら異なる部分がたくさんあり、特に「アラン・ドロン」の過去と未来がそれぞれ交錯している2作品でもあります。
 『ブーメランのように』は、運命に抗いながらも敗北してしまう悲劇の物語です。主人公は(元)犯罪者ですが、更生して実業家になり、今では父親として立派に生活しています。ところが、大切にしている息子が犯罪を犯し、愛しているがゆえにその息子を守ろうとして、過去の犯罪歴を暴露されて社会的立場を失い、何より最期には息子と自分の命まで喪失してしまうのです。ここでの「アラン・ドロン」は、父性愛を表現した悲劇のヒーローでした。そして、わたしがこの作品を、現在までの「アラン・ドロン」を総括した作品であるように思っていることには既に触れたところです。【『ブーメランのように』④~過去に演じた主人公たち、そして、限界点を一歩踏み越えてしまった男たち~
 『チェイサー』の主人公は兵役義務を果たした国家への貢献者であり、現在は事業の成功者であり、旧友との友情から巨悪の政治腐敗に戦いを挑み決して権力に屈しないヒーローでした。
 ここでの「アラン・ドロン」は、古くからの友人を大切にする友情に篤い一匹狼です。今だからわかることなのかもしれませんが、このキャラクターは、これからの「アラン・ドロン」を予見して創り上げていった作品でもあるのです。

 いずれにしても、この両作品は、最も彼の実生活に接近した「フレンチ・フィルム・ノワール」であり、どちらもアラン・ドロンが役づくりに腐心せずに、経験的に自然な素顔のままで個性を発揮できる主人公の在り方だったと思います。

 これほど「アラン・ドロン」の魅力が満載であるにも関わらず、そして、彼らしい会心の作品であったにも関わらず、残念なことに当時の日本の彼のファンは、両作品に感情移入し切れませんでした。観客動員数と、その後の彼の作品の未公開がそれを物語ってしまったのです。

 何故なのでしょうか?

 彼の精神と肉体が全盛期の1960年代から1970年代初頭のように、ファンにとって憧憬とする美しさや理想のモデル足り得ず、私生活が透けて見えてしまうことは、逆に映画を観るその時代の人々の求める象徴的な理想像ではなく、スターの側から提供された「アラン・ドロン」像でしかなかったから?なのでしょうか?
 そして、彼の私生活の断片は、もはや日本人の好奇心や欲求を満たすものではなかったから?なのでしょうか?

 特に『チェイサー』は、彼が新しい「フレンチ・フィルム・ノワール」として表現した作品であり、力強く格好良い不屈の英雄譚でしたから、ようやく「アラン・ドロン」としての新しいヒーロー像を生み出すことができた作品だっただけに、日本のファンが受け入れ切れなかったことは本当に残念でなりません。

 そして、前述したとおり、『チェイサー』の「アラン・ドロン」に、映画史上に燦然と位置付いているルキノ・ヴィスコンティ監督との『若者のすべて』で演じた聖者ロッコ・パロンディ(=グザヴィエ)が、幾多の困難を乗り越え今だに兄シモーネ(=友人フリップ)を寛容に許し、そして守り続けていることを見て取ってしまうのです。

 聖者ロッコが英雄グザヴィエに成長した姿、それは、自分たちを苦しめていた根本原因に気づくことから、すなわち政治腐敗や極端な右翼ファッショへの積極的な闘いに転換していったこととして・・・。
 更に、ロッコ(=グザヴィエ)が学んだその最大の教訓は、シモーネ(=友人フリップ)が大切にしている恋人ナディア(=ヴァレリー)と初めから恋をしないことだったのでしょう。

 一貫した「アラン・ドロン」の信条は、更なる進歩を経たのでしょう。その理知と勇気に深く刻まれた彼の美しき姿から、身近な友人のみならず多くの民衆の敵を凝視し始めたことがわかるのです。
 ラスト・シークエンスで遠景のパリを俯瞰する「アラン・ドロン」は、まるで、トスカーナの州都、自由都市フィレンツェの中央広場に、民衆の敵、怪物ゴリアテを倒し立っている旧約聖書のユダヤの英雄ダヴィデの像のように勇敢で、力強く美しいと感じてしまうのです。

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by Tom5k | 2015-05-25 23:06 | チェイサー(3) | Comments(2)

『チェイサー』②~「ニュー・ジャーマン・シネマ」の怪優クラウス・キンスキーとの共演~

 わたしは、この作品の最大の見所が、旧西ドイツの怪優クラウス・キンスキーとアラン・ドロンとの共演に尽きると言っても言い過ぎではないと、以前から思っていました。

 ドイツ映画は、戦前の芸術至上主義ともいえる「ドイツ表現主義」の体系で映画の隆盛を極めた時代があるのですが、戦後の西ドイツ映画は芸術的にも経済的にも停滞の一途を辿っていました。
 1960年代初頭、若い映画作家グループが、フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」運動とほぼ同時代に、やはり志向においても同傾向の指標を示していきます。
 彼らの「オーバーハウゼン・マニュフェスト」という西ドイツ映画に対する宣言
「古い映画は死んだ。われわれは新しい映画を信じる」
という新しい映画制作の指標から、既存の西ドイツ映画を拒絶し、「ニュー・ジャーマン・シネマ」という映画作家としての新世代の潮流を誕生させたのでした。
 彼らは、フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の影響も受けた映画作家たちでした。

 この『チェイサー』で主演しているアラン・ドロンとオルネラ・ムーティが共演した『スワンの恋』のフォルカー・シュレンドルフ。
 「アメリカン・ニューシネマ」の俳優デニス・ホッパーに「トム・リプリー」を演じさせた『アメリカの友人』のヴィム・ヴェンダース。

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 ジャン・リュック・ゴダールの影響を強く受け、メロドラマを基調とした「フィルム・ノワール」でデビューしたライナー・ヴェルナー・ファスビンダー。
 そして、『チェイサー』に助演したクラウス・キンスキーを主演に映画を撮り続けたヴェルナー・ヘルツォーク。

 1960年代後半から1980年代まで、現在でも現役の映画監督として活躍している作家も多く存在しています。彼らは、ハリウッドの映画スタジオによる支援も受け、国際市場でも通用する良質の映画を制作できるようになっていきました。

 わたしにとっては、ヴェルナー・ヘルツォーク監督とクラウス・キンスキーが、この「ニュー・ジャーマン・シネマ」の体系でとりわけ着目すべき存在です。
 特に、クラウス・キンスキーは舞台の出演中に観客を挑発したり、ロケ先でのエキストラの原住民とトラブルを発生させたり、プロデューサーも含めたスタッフや共演者を罵倒したり、ときには殴りかかることなど、異常行動は日常茶飯事だったらしく、5本もの映画で組んだヴェルナー・ヘルツォーク監督は殺意さえ抱いたこともあったそうで、そういった意味でも非常に興味深い存在なのです。

 クラウス・キンスキーは1948年の映画デビューからヨーロッパを中心に活躍し、1965年の『夕陽のガンマン』以来、イタリア製西部劇の悪役、それも西部の強盗団の手下の一人などの脇役が多かった俳優でした。

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 1972年に『アギーレ/神の怒り』でヴェルナー・ヘルツォーク監督と出会ってからの西ドイツでの「ニュー・ジャーマン・シネマ」の俳優としては、その強烈な個性で圧倒的な存在感を誇示していくことになります。

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 1999年のドキュメンタリー作品『キンスキー、我が最愛の敵』では、彼らの関係が実に如実に表現されています。

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 『アギーレ/神の怒り』では、16世紀のスペイン王政に招集された伝説の黄金郷エル・ドラド発見のためのアマゾンの奥地への派遣軍の副官ドン・ロペ・デ・アギーレを演じました。
 周辺調査のための本隊から離れた分隊では、アギーレは狂気の沙汰ともいえる好き放題の行動をとることの連続でしたが、その横暴な行動にそぐわないのが、まだ、15歳の娘フロレス(セシリア・リヴェーラ)をそこに随行させたことでした。
 事故や熱病、原住民の襲撃で、結局は最後に一人のみの生存者になってしまったラスト・シークエンスでのアギーレの独白は、
「何と大きな裏切りであることよ 新生スペイン全てを手中にするのだ・・・私は神の怒り わが娘と結婚してかつて人類が知るなかで最も純粋な-王朝を築き上げる 娘とともに支配するのだ この全大陸を・・・」
というものでした。

 この作品でのヴェルナー・ヘルツォークとトラブルですが、
彼は公演や映画出演での契約違反の常習者であり、この撮影中にも出演中にセリフがうまくいかなかったと周囲に八つ当たりし、本気で降板するつもりで荷物をまとめ始めたそうですが、ヴェルナー・ヘルツォークは
「個人的な感情より映画が大事だ 勝手は許さない 銃がある 君の頭に8発撃ち込む 9発目は自分を撃つ(君を殺して自分も死ぬ)」
と、彼を脅して引き留めたそうです。

 『チェイサー』と同年製作の1978年の『ノスフェラトゥ』は、1922年にフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウが発表したブラム・ストーカー原作の怪奇小説の映画化のリメイク作品です。中世絶対主義の暗黒時代、ヨーロッパで流行したペストとともに大陸に上陸したドラキュラは、愛する女性へのこだわりから、最後には永遠の命を失ってしまいます。

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 また、わたしは1979年の『ヴォイツェック』は未見なのですが、この作品も過去に、舞台監督ゲオルク・クラーゲンが、実話を元にした有名な未完成の戯曲を映画化し、「ドイツ表現主義」の作品としては評価が高かったものだそうです。
 ここでは、愛人の姦通に嫉妬し、彼女を殺害してしまうドイツ人の将校を演じています。

 ヴェルナー・ヘルツォークは、自身の作品が戦前の「ドイツ表現主義」と、現在の西ドイツでの「ニュー・ジャーマン・シネマ」との橋渡しをする作品を制作していると述懐していたそうですが、この『ノスフェラトゥ』や『ヴォイツェック』は確かにその題材から、その最も典型的な作品と言えるでしょう。「ドイツ表現主義」のペシミスティックで暗鬱なノワール的ムードが、「ニュー・ジャーマン・シネマ」の耽美的でロマンティズムを伴う作品となっていることは時代的な映画の変遷によるものなのでしょう。

 『ヴォイツェック』で共演したエーファ・マッテスのカンヌ映画祭での女優賞の受賞には、クラウス・キンスキーもたいへん喜んでいたそうなのですが、自分が受賞できなかったことに対してはさすがに不機嫌で、ヴェルナー・ヘルツォークは
「君には賞など必要ない 賞は君をおとしめる 俗悪なマスコミと同レベルになってしまう」
と慰め、この言葉で彼は随分と上機嫌となったそうです。

 1982年の『フィツカラルド』は、オペラを主題にした作品全編に渉る男性的なロマンティズムを描き、ヨーロッパの人気スター、クラウディア・カルディナーレの出演、航行中のアマゾン河急流でのスペクタクル・シークエンス、なども含めて古典的な劇的ドラマトゥルギーの要素を多く盛り込んでいます。商業的な成功も十分に意識して制作していった作品とも察せらます。
 ここでは、19世紀末のペルーのイクイトスにオペラ・ハウスを建てる夢を実現しようと、その資金繰りにアマゾンの未開の奥地でのゴム栽培事業に乗り出す主人公フィツカラルドを演じました。

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 この『フィツカラルド』でも多くのトラブルがあったそうです。撮影現場ではプロデューサーを何時間も罵り続けたフィルムが残っており、このときは、ヴェルナー・ヘルツォークは、自分は珍しく傍観者であったとコメントしています。
 また、地元原住民のエキストラであるインディオたちは、クラウス・キンスキーの奇行が目に余り、ヴェルナー・ヘルツォークに、望むならクラウス・キンスキーを殺しても構わないと相談したそうですが、彼は撮影に必要だから残しておいてくれと断ったそうです。

 ヴェルナー・ヘルツォークにおいては、自分ではノーマルであるとか、クラウス・キンスキーを制御していたのは自分だとか、自分は決して常軌を逸したことはなかった、との言い訳のような答弁も多いのですが、クラウス・キンスキーの自宅を襲撃する計画を立て、それは断念したが、その後も殺したいと思っていたと述懐していることや、『フィツカラルド』撮影時の地元原住民のエキストラであるインディオたちのキンスキーの殺害計画を断ったことを本気で後悔したなどという言葉を聞いていると、クラウス・キンスキーも言っているように彼が正常な人物だとは、わたしにも到底思えません。

 そして1978年、クラウス・キンスキーとアラン・ドロンが邂逅するシークエンスが、映画『チェイサー』で実現していたのです。
 アラン・ドロンは、このような不快極まりないオーラを発する醜悪な狂人クラウス・キンスキーから何を感じ取ったのでしょう?

>トムスキー(クラウス・キンスキー)
狩りが中止になって-建設的なお話に時間がたっぷり取れました
セラノ文書を返していただきたい もちろん私の名前は載っていませんが私が援助している人物が大勢います 現在の政治情勢を考えると-文書の公表は国益に反します

>グザヴィエ(アラン・ドロン)
余計なお世話だ

>トムスキー
私に利害関係はありません 労働者の革命が起こる前に金が世界を支配しました これは本当の話です 戦争や同盟という言葉にもはや意味はない もはや敵も味方もなく あるのは顧客とパートナーです 金に国境はありません

※ ここで、わたしはアラン・ドロンが演ずる『若者のすべて』で演じた労働者階級出身のロッコ、『太陽はひとりぼっち』のローマの証券市場でのピエロを想起してしまいました。

>グザヴィエ
汚職にもね

>トムスキー
汚職を告発しても何も変わりません 何人かが職を失い あなたは逮捕されるが 根本は何も変わらない

>グザヴィエ
世論の力を忘れている

>トムスキー
世論に何ができます

>グザヴィエ
ニクソンは?

>トムスキー
あれは道徳の問題です

>グザヴィエ
認めますね

※ スリラー作品とも体系付けて良いようなこのやり取りのシークエンスでは、クラウス・キンスキーの異常性が映画のフレームから滲み出ています。
 アラン・ドロンは共演者に食われてしまう俳優だと酷評されることも多い俳優です。
 例えば、『太陽はひとりぼっち』のモニカ・ヴィッティ、『地下室のメロディー』のジャン・ギャバン、『山猫』のバート・ランカスター、『さらば友よ』のチャールズ・ブロンソン、『仁義』のイブ・モンタン、『ボルサリーノ』のジャン・ポール・ベルモンド、『フリック・ストーリー』のジャン・ルイ・トランティニャン・・・等々。
 もちろん、これらはアラン・ドロンを表層的にしか見ていない一般的な評価です。私は、それは彼が共演者を尊ぶわきまえた独自の存在感の表現であると解釈しており、共演者に食われてしまっているとは全く思っていないのですが、この対話のシークエンスにおいては、確かに彼はクラウス・キンスキーに完全に圧倒されてしまっているかもしれません。

 アラン・ドロンは、1970年代の中盤から『ゾロ』や『フリック・ストーリー』以降、従来からのアウトロー的、いわゆるアンチ・ヒーロー的ヒーローから脱皮して、いよいよこの『チェイサー』で、勇敢で、頭も良く、友情に厚い、そして、何ものにも屈しない最も典型的なヒーローとしての理想像を体現することができました。
 ところが、このシークエンスにおいては、現代の政財界の腐臭を放っているようなトムスキーを演ずるクラウス・キンスキーの負のオーラに、そのキャラクターの存在のほとんどが黙殺されているのです。


>トムスキー
話を戻しましょう あなたは非常に正直なお方だ だが やや時代遅れだ ドゴールは大衆を信じていませんでした 大衆は何も分かってない 政治家や高官が私腹を肥やしたとしても 経済の大勢には影響がありません だから-大衆には望みのものを与えておけばいいのです 食事 酒 セックス 週末の旅行などです それで彼らは満足します

 これは、明らかにアラン・ドロンに対する挑発です。
 邪推するとすれば、もしかしたら、この台詞はクラウス・キンスキーのアドリブではないかとまで考えてしまいます?
 彼は師であるルネ・クレマンの影響もあったのでしょうが、フランス第三共和政の支持者であり、最近では第五共和政における共和党選出のサルコジ大統領の後援者でもありました。
【>私の尊敬する人
そうですね。一人だけあげるとすれば、ドゥゴールでしょう。過去の栄光については、今更言うまでもない。ドゥゴールこそ私が最も尊敬し続ける人物です。(略-)】
【「ジタンの香り/アラン・ドロン」(訳 園山千晶)ライナー・ノーツより】

 また彼は、若い頃の自らを振り返り
【(-略)役者を始めた頃は、私は「ハンサムな間抜け」だった。その後は何かを見出さなくてはならなかったんだ・・・(略-)】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」
と内省もしています。
 食事 酒 セックス・・・・

 そこで、このショットから、わたしが最も強く想起するのは、アラン・ドロンの敬愛するジョセフ・ロージー監督の言葉だったのです。

【(-略)私とやった二本の映画での役柄にぴったりだった。その二人、トロツキー暗殺者とムッシュー・クラインは、どちらも非常に頭の切れる男で、自分の行動にはしっかりとした自覚を持っている。ところがある限界点を一歩踏み越えてしまうと、もう判断力を失い、放心したようになってしまう。(ジョセフ・ロージー)】
【引用 『追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー』ミシェル シマン著、中田秀夫・志水 賢訳、日本テレビ放送網、1996年】

追放された魂の物語―映画監督ジョセフ・ロージー

ミシェル シマン Michel Ciment 中田 秀夫 志水 賢日本テレビ放送網



 この限界点に達する直前で自分を制御しているアラン・ドロンの表情が、この後のショットに現れているのです。
 これは注意深く観ないとわからない微妙な彼の表情の変化なのですが、それは間違いなく、ジョセフ・ロージーが監督した『暗殺者のメロディ』のフランク・ジャクソン、『パリの灯は遠く』のロベール・クラインを演じたときの「ある限界点を一歩踏み越えてしまう」異常者アラン・ドロンになる直前のぎりぎりの瞬間であったようにわたしは想起したのです。


 また、『パリ・テキサス』でナスターシャ・キンスキーを起用したヴィム・ヴェンダースを始め、誰もが言うように、クラウス・キンスキーと最初の妻との間に生まれた娘がナスターシャ・キンスキーであることの意外性、つまりこの美しいスター女優の父親がこのクラウス・キンスキーであることの意外性は一般化してしまっています。
 これほど深遠で高邁な精神性を表現できる美しい女優に、これほど醜悪で人格的に異常性を持った父親の遺伝子が、どのように存在しているのでしょうか?

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 しかしながら、『キンスキー、我が最愛の敵』での、『ヴォイツェック』でヒロインを演じたエーファ・マッテスへのインタビューでは、クラウス・キンスキーは、たいへん自分を優しく大切に扱ってくれて非常に波長のあう共演者だったと回顧しています。
 不思議なことに、『フィツカラルド』で共演したクラウディア・カルディナーレも同様にクラウス・キンスキーが俳優としてのプロ意識の高かったこと、上品で温かく優しかったことなどを述懐し、エーファ・マッテス同様に彼を絶賛しているのです。

 また、作品で演じた主人公のキャラクターにもそれは感じられます。
 19世紀初頭のブラジルで山賊コブラ・ヴェルデと異名され、奴隷商人となったフランシスコ・マヌエルを演じた『コブラ・ヴェルデ』」(1987年)での女性革命戦士たちを指導するコブラ・ヴェルデや『アギーレ/神の怒り』でのアギーレの娘フロレスへの接し方などから、彼の女性への激しくとも限りない優しさ、デリカシーが理解できるような気もするのです。

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 ヴェルナー・ヘルツォークは、その脚本での映像化は不可能であると演出を拒否していますが、クラウス・キンスキーは、長年の念願であった『パガニーニ』(1989年)を、彼の演出での制作を切望していたようです。恐らく、悪魔に魂を売ってヴァイオリンの技術を手に入れたとまで噂され、外見的にも醜悪だったこの天才ヴァイオリニスト、パガニーニに自らを投影していたのでしょう。
 そして、『アギーレ/神の怒り』のアギーレのように、自らがそれを監督、主演し、二人目の妻との間に生まれた娘のニコライ・キンスキーと共演したのです。そして、その3年後の1991年、彼はサンフランシスコの自宅で逝去したのです。

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「彼は自分を使い果たしたのだ 燃焼し尽くしたのだ」

 ヴェルナー・ヘルツォークはエーファ・マッテスに『コブラ・ヴェルデ』のラスト・シークエンスでの海辺で波に打たれながら悶死するシーンが二人の最後の撮影であったことから、そう説明しています。

 『キンスキー、我が最愛の敵』のラスト・シークエンスでは、クラウス・キンスキーの周りを舞う一羽の蝶と彼とのクローズ・アップが挿入されています。
 彼のこの蝶への扱いは非常にデリケートで、表情も満面の笑みを讃えた優しいものでした。この美しい蝶は彼のそばから離れようとせず彼の周りを、いつまでも舞い続けるのです。
 わたしは、この美しく感動的なシークエンスから、ヴェルナー・ヘルツォークのクラウス・キンスキーへの想いが、彼の人間的な魅力も含めて、すべて伝わってくるような気がしました。

 そして、ようやく理解できたのです。彼の娘が、あの美しく哀しいヒロイン、ナスターシャ・キンスキーであることも・・・。


 更には、このようなクラウス・キンスキーと共演したアラン・ドロンを考えたとき、わたしには、女性に対するデリカシーに欠ける硬質なキャラクターを生涯に渉って貫き続けた彼も、この『チェイサー』では、ステファーヌ・オードラン、ミレーユ・ダルク、オルネラ・ムーティを、彼なりにデリケートに扱っていたようにも見えてしまっていたのでした。
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by Tom5k | 2009-12-31 01:54 | チェイサー(3) | Comments(22)

『チェイサー』①~戦後フランス映画へのオマージュ~

 『チェイサー』では、アラン・ドロンの多くの作品で音楽を担当したフィリップ・サルドを起用しています。この作品の音楽はジャンルとしてのシネ・ジャズを特徴としており、テナー・サックスのジャズ奏者として有名なスタン・ゲッツの演奏が全編を通して演奏されます。
 元来、スタン・ゲッツは「ヌーヴェル・ヴァーグ」の時代のシネ・ジャズ、つまりモダン・ジャズ体系のジャズ・マンではなく、ボサノヴァ調の軽快なテンポのリズムの演奏が特徴のサックス奏者でしたが、フィリップ・サルドの映画音楽らしいムードのこの企画に熟練のテクニックを披露して、成功を収めることができているように思います。

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 わたしが、彼のそれらの演奏から、特に印象に残ったいくつかのシークエンスがあります。

・ アラン・ドロン演ずるグザヴィエと友人フィリップ(モーリス・ロネ)の愛人ヴァレリー(オルネラ・ムーティ)とが、モンパルナス駅で待ち合わせたときの追手の尾行をかわしていくシークエンス。
・ クラウス・キンスキー演ずる政財界の黒幕トムスキー邸に向かう途中の田園風景を背景にグザヴィエの自動車が走り、大型の貨物トラック2台と直列して走行するシークエンス。
・ 映画のクライマックスでのグザヴィエとモロ警部(ミッシェル・オーモン)がデファンス駅に向かうシークエンス。

 映画のプロットとしては、最も緊迫化するいくつかのシークエンスで使用されているのです。
 従来から、わたしには、このジャジーなサキソフォンの音色が、これらの映像と照応する曲調・リズムだとは思えずにいました。何度鑑賞しても、映像の印象と音楽とのバランスに違和感が伴ってしまうものだったのです。

 使用された箇所によっては、例えば、

・ 事件の起こる夜明けの高層マンション上階、高所からとらえたのパリの街並み。
・ 古い写真から友人との過去を懐古するときの主人公グザヴィエのクローズ・アップ。
・ 都会の夜のビルをローアングルからとらえた景観。
・ 車が行き交う夜の高速道路。
・ 友人の死を目の辺りにしても、その悲嘆を覆い隠すハードでノワールな主人公グザヴィエの心情表現。
・ 事件が解決しても根本的な問題は何ら変わらず、逝去した友人たちの弔いにも虚しさを感じている主人公グザヴィエの佇まい。
などのノワール的映像とは、素晴らしく一致、照応する曲調のような気がするのですが、前述したスピード感と緊迫感の溢れる映像へのこの情緒的な曲調は、違和感を引き起こしてしまうような気がしていたのです。

 しかし、ここでわたしは、旧ソ連邦の「社会主義リアリズム」作品を制作していったセルゲイ・エイゼンシュテイン監督が、音楽と映像におけるコントラクンプト(対位法)として体系付けて発展してきた映像と音楽における技術的な手法を想起してしまうのです。
 このようないくつかの違和感は、映像と音響との非同時性を意図したシネ・ジャズの工夫・応用を試みた結果だったのかもしれません。

 極端に言えば、フィリップ・サルドが担当したスタン・ゲッツが演奏するテナー・サックスの音色を眼で聴き、緊迫感溢れるこれらの映像を、耳で観ること、あるいは音楽を観ながら、映像を聴くことが可能となっているようにまで思ったのです。


 そして、思い起こしてみれば、この作品より以前に、アラン・ドロンが出演していた「フレンチ・フィルム・ノワール」作品では、このような典型的なシネ・ジャズを使用したことは無かったようにも記憶しています。

 久しぶりに映画の制作スタッフとして出会った助演のモーリス・ロネと、撮影したアンリ・ドカエのコンビネーションで、わたしが思い浮かべてしまう作品は、ルイ・マルが演出した『死刑台のエレベーター』でした。そして、『チェイサー』でのシネ・ジャズを使用した意味が、『死刑台のエレベーター』でのマイルス・デイヴィスのトランペットの即興演奏からの応用だったのではないかというところにまで至ってしまうのです。
 あるいは、都会のビジネス街での高層オフィス・ビル内で起こった深夜から早朝にかけての殺人事件のシークエンスなどから、同設定の『死刑台のエレベーター』へのオマージュであったのかもしれない、などとも想像してしまいました。

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 更にわたしは、グザヴィエが、ヴァレリーの証言によってトムスキー邸から救い出された後、走行中の自動車が銃撃を受けるシークエンスには、ジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』のラスト・シークエンスを想起します。
 『現金に手を出すな』でのヴィレンヌ街のギャング同士の銃撃戦で、転倒し炎上する自動車を背景に、最愛の手下であったリトンを亡くしたボスのマックスを演じたジャン・ギャバンへのオマージュだったようにも感じたのです。
 BGMで流れていた「グリスビーのブルース」のブルース・ハープの音色は、スタン・ゲッツのサキソフォンに変遷して現在に甦ったような気がしています。

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 当時は、私生活でも愛し合っていたアラン・ドロンとミレーユ・ダルクですが、この作品のファースト・シークエンスでも、スタン・ゲッツのテナー・サックスを背景に深夜早朝のパリの街並みから、主人公グザヴィエのアパルトマンでの二人のベッド・シーンにカットされます。
 事件の起きる前の数十万のパリ市民の中から、どこにでも存在するこの二人の愛人関係を選び出すトラック・ショットでした。

フランソワーズ(ミレーユ・ダルク)から、グザヴィエに
「答えて」
「なぜ 愛してると言ってくれないの?
 一緒に住んで
 私が嫌い?」
「私を愛してる?
 それとも嫌い?」
と、何度もしつこく、愛を確認するのです。

 フレーム内には室内の照度と露出によって、輝度の薄い採光にアラン・ドロンとミレーユ・ダルクが、被写体として浮かび上がっていますが、ここは、ジャン・リュック・ゴダール監督の『軽蔑』でのミッシェル・ピコリとブリジット・バルドーの冒頭のベッド・シーンのアングルと照度、二人の会話を想起させるものでした。

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 この『チェイサー』のジョルジュ・ロートネル監督は、『恋するガリア』でミレーユ・ダルクをスターに育て上げた監督です。
 『チェイサー』と同様に、彼が監督しアラン・ドロンも出演している『愛人関係』でのサイコでミステリアスなファム・ファタルを演じた彼女を絶賛してしまうわたしとしては、アラン・ドロンの私生活上での最愛の女性としてのみのキャラクターでしか描写されていないことや

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ジャン・ルイ・トランティニャンの妻でもあり、エリック・ロメールやクロード・シャブロルなどの多くの傑作で活躍していた「ヌーヴェル・ヴァーグ」の名女優ステファーヌ・オードランの助演としての出演も無視できないこととはいえ、彼女には、あまりに俗物的なブルジョアジーとしての一側面でのキャラクターしか与えられていないことなどが、たいへん残念なことだったと思っています。

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 アンリ・ドカエの散光フィルターによるソフト・フォーカスでのクローズ・アップを多用して撮った美しいオルネラ・ムーティを見ていると、もしかしたら、アラン・ドロンは過去に活躍したの女優たちではなく、若い彼女にこれからのフランス映画の未来を見定めていたのかもしれないなどと、わたしは、また勝手な想いにとらわれてしまうのでした。

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チェイサー フォノグラム・オリジナル・サウンドトラック(映画「チェイサー」より)音楽:フィリップ・サルド、演奏:スタン・ゲッツ、カルロ・サビーナ指揮ロンドン交響楽団
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by Tom5k | 2009-12-31 00:12 | チェイサー(3) | Comments(10)