『私刑警察』④~燃えるように輝くアラン・ドロンの青い瞳、ラウール・クタールのカメラその2~

 以前、購入した『映画芸術』No.441(2012Autumn)を久しぶりに読み返してみました。
 当時、久しぶりにこの月刊誌を購入する気になった理由は、本屋に立ち寄って雑誌の立ち読みをしていたときに、偶然、映画雑誌コーナーに置いてあった『映画芸術』の表紙の「ロングインタビュー ラウール・クタール」の文字が眼に入ったからです。
 しかも、それがアラン・ドロンのことに触れている内容ではないですか?わたしは迷わずその『映画芸術』を購入し、久しぶりに、わくわくした気分で帰宅し早速その記事を読んでみました。

 ラウール・レヴィが製作し、クリスチャン・ジャックが監督、アラン・ドロンが主演する予定で制作が進められていたにも関わらず、完成まで至ることができなかった超大作「マルコ・ポーロ」の撮影中に現在の妻と知り合った逸話や『私刑警察』で、アラン・ドロンが自ら共演者に選んだセルジュ・レジアニに対しての友情についての記載があり、それも実に彼らしい逸話であることはもちろんでしたし、非常に興味深い内容でしたが、とりわけ、わたしが興味深く感じたのは、やはり『私刑警察』でのアラン・ドロンを撮るに当っての製作サイドからのラウール・クタールに対する撮影への注文についての内容でした。

【>-自伝では、アラン・ドロンの思い出も回想していらっしゃいます。
>クタール
アランとはジョセ・ピネイロの『アラン・ドロン 私刑警察』(1988)で出会った。いつも周囲はアランの機嫌にビクビクしていたが、撮影中は真のプロになります。この作品では、ドロンの青い瞳を、燃えるように輝かせる注文がありました。プロジェクターに裂け目を置き、光が通るようにしたのです。】

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 ジャン・リュック・ゴダール監督などの「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の撮影を担い、映画史に名前を刻んだラウール・クタールのカメラで、「ドロンの青い瞳を、燃えるように輝かせる」なんて・・・。
 わたしは、この記事で『私刑警察』の素晴らしいコンティニュイティ―(撮影台本)のテーマのひとつを初めて知って、久しぶりに『私刑警察』を観たくなりました。

 そもそも人間精神を表現してきた各種の芸術に、機械工学やサイエンス技術などが入り込む余地などあるはずがない、それが一般的な見解ではないでしょうか。
 それにも関わらず、フィルムに焼き付けるカメラ・ワークのみならず、投影するためのディスプレイ装置によって俳優の瞳を輝やかせるために光源を調整するなんて・・・人間の感性そのものを近代技術のセオリーによって創作する撮影監督とはなんと現代的で斬新な芸術家なのでしょうか!

 ラウール・クタールは、一貫して「ヌーヴェル・ヴァーグ」系のドキュメンタリズムのカメラの特徴を売りものにしていた割には随分と多くのスター俳優を撮っています。
 長年ジャン・リュック・ゴダール監督の作品に出演し続けたジャン・ポール・ベルモンドや、恋人であったアンナ・カリーナ、そして、フランソワ・トリュフォー監督の作品のジャン=ピエール・レオやジャンヌ・モロー、やはり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の多かったブリジット・バルドーやミッシェル・ピコリ、ジーン・セバーグなど・・・。
 しかし、それだけでなく、ハリウッドでのモンゴメリー・クリフトから始まり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のスターとは異なる旧世代のミシュリーヌ・プレール、ジャン・リュック・ゴダール監督の作品ではありましたが、アラン・ドロンの愛人であったミレーユ・ダルク、そして、アヌーク・エーメ、ミア・ファーロー、ダニエル・オトゥイユ・・・等々。
 そんなことから冷静に考えれば、彼はアンリ・ドカエのように商業映画に転向したわけではないにしても、大スターであるアラン・ドロンを撮る基盤や資質を持っていたカメラマンではあったわけです。

 映画において、その収められている映像価値は、その演出や音楽、美術、脚本、そして俳優などに劣らず絶対に不可欠なものです。思いつくままにそれを挙げてみれば・・・・
 
 まず、『夏の嵐』(1954年)でのアリダ・ヴァリの中年女の醜い写実です。これをG・R・アルドとロバート・クラスカーのカメラにくっきりと収めさせてしまったルキノ・ヴィスコンティ監督は本当に残酷です。彼女は、これ以降の作品でも醜女としてしか写ることしか出来なくなってしまったのではないでしょうか?
 アラン・ドロンと共演した作品に『高校教師』(1972年)がありますが、ソニア・ペトローバが演ずる女子高生バニーナ・アバーティの母親役は悲惨なほどの醜さでした。ここには、美しい自分の娘の肢体を売りものにして生活している物凄く醜悪な精神環境を持つ母親の形相がカメラに収められています。

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 それとは対照的に、アンリ・ドカエは非常に優しいカメラマンだと思います。彼はアラン・ドロンの出演作品を多く手がけていますが、『危険がいっぱい』(1964年)でのローラ・オルブライトや『シシリアン』(1969年)でのイリナ・デミックのような女優たちへの彼のソフトフォーカスの常用は、全盛期の美しさを過ぎてしまった女優への限りない彼の優しさだったのではないでしょうか?
 また、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品でも、元来、それほどの美人女優でも無かったジャンヌ・モローをあれほど美しく撮ったカメラマンは彼以外にはいないでしょう?
 彼の女優への優しさは、デビュー当初から常に一貫しているように思います。

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 また、エリック・ロメールの秘蔵っ子カメラマンでもあり、フランソワ・トリュフォーやジャン・ユスターシュとコンビが多く、黒澤明や溝口健二の影響を大きく受けていたネストール・アルメンドロスのような芸術的で格調の高いカメラ技術も、わたしは素晴らしいと感じています。
 彼のカメラは、人物と自然のコントラストで描写することにかけては秀逸だと思います。考えられないような美しい景観がフレーム一杯に拡がります。フランソワ・トリュフォー監督の『野生の少年』(1970年)やハリウッド作品の『青い珊瑚礁』(1980年)は本当に素晴らしい映像の連続です。特にわたしにとっては、『青い珊瑚礁』の海原を漂流する救命艇の夜の情景が一生涯忘れられないものとなっています。

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 偏った見方かもしれませんが、彼は成長期の少年や少女を大自然を背景に描写することにかけて、その天才から神業のようなカメラワークを実践できる撮影監督だとわたしは思っています。

 さて、『私刑警察』なのですが、わたしが眼を見張ってしまったのは、捜査班室の窓を破って自殺した正義警察の若手刑事サヴィエ・ドリュック演ずるルッツへの警察庁舎内に飾られた献花のシーンです。
 正義警察が警察庁舎にてルッツを英雄視し、そこを霊柩の葬場化とする目的によって、当然のことながら使用承認されていない庁舎の中庭を薔薇の花で飾り立てることなど、明らかに当局への挑発行為でしょう。
 このシーンをネオ・ヴィジュアル系とも言える美しさに昇華させて映像化することは、ラウール・クタールでなければ出来なかったように思います。
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 そして、もう一人の正義警察のメンバーが、フランス国旗をまとって国歌マルセエーズを口ずさみながらナイフを首に刺して自殺するシーンですが、そのカラー映像の美しさも秀逸でした。
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 これらのシーンは、ひとつ間違えれば、例えばルキノ・ヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)やジョセフ・ロージー監督が『パリの灯は遠く』(1976年)で描いたフランツ・サリエリ楽団のグスタフ・マーラーのオペラ劇のように妖艶でエキゾティックな魅力を携えてはいるものの、あまりに毒々しく表現されてしまい、観る者が嫌悪感に襲われるような描写に陥ってしまうところですが、ラウール・クラールのカメラは映像美そのものに徹することに見事に成功しています。
 ラウール・クタールの映像からは、ファシズムの自己抹殺を「葬送」としての美として描写していること、すなわちファシズム内部からの「死」の欲求こそが、そのイデオロギーが「生」と無縁であること、埋葬されることのみにしか美しさを実践できない死すべき思想の証しであること、などが訴えられているように感じます。

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 『私刑警察』の映像クオリティの高さは、ラウール・クタールが、かつて高感度フィルムイルフォードHPSの使用により、屋外ロケーションを敢行して映像技術の最先端を誇っていった「ヌーヴェル・ヴァーグ」時代の瑞々しい写実を更に高度に発展させていった賜物ではないかとまで思います。

 彼のこれらファシズム表現の美しさから、わたしは『意志の勝利』(1934年)や『オリンピア~民族の祭典』(1938年)など、ナチス・ドイツのプロパガンダ映画を撮り続けた天才女流監督レニ・リーフェンシュタール監督を想起しました。そして彼は、彼女の「ファシズムへの賛美」を「ファシズムの埋葬」にまで昇華させたようにまで思うのです。
 このことは、美の追求の歴史的進化ではないでしょうか!?

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 言わずとも知られているように、アラン・ドロンはフランス国内では右翼(極端な共和主義者)と称されています。それにも関わらず、彼がプロデュースしたこの『私刑警察』では、決してコミュニズムを否定していません。むしろ、フランス国家主義者を悪の権化として完全に否定して描いていますが、このことに違和感を感じる者は少なくないかもしれません。

 しかし、彼の過去の作品を辿っていけば、それを理解することは容易です。
 敗戦を認めざるを得ずに握手を求めるナチス・ドイツのコルティッツ将軍に向けて、
「レジスタンスは寄り合い所帯で確執も多い、しかし、今のフランスの敵は唯一ナチスのみだ。」
と言い放ち、その握手を拒否したフランス人のナチス抵抗運動の統一戦線レジスタンスのパリ解放を描いた『パリは燃えているか』(1966年)を想い起こせばいいのです。

 フランス人にとっての唯一の敵、ファシズムの象徴ナチス・ドイツに勝利したリアリズム作品で、フランス国家にとって最も重要な役割を担うレジスタンス運動の指導者、第三共和政の幕僚ジャック・シャバン・デルマスを演じた経験がアラン・ドロンにはあるのです。

 このことから、『私刑警察』の主題を鑑みれば、それは=ジャン・ギャバンに捧げる=作品としてのみではなく、ルネ・クレマン監督の統一戦線レジスタンスの精神と同じものだとわたしは感じてしまうのです。

【コミュニストだろうと、ド・ゴール派だろうと。私にはすべてレジスタンスの同志であった。私の会ったこの時代の責任者の人たちはすべて、彼ら同士お互いによく理解しあっていた。どちらが主導権を握るかで若干のアツレキがあったにせよ・・・・
(ルネ・クレマン 談)】
【『海外の映画作家たち 創作の秘密(フランス編 ルネ・クレマン)』田山力哉著、ダヴィッド社、1971年」】

海外の映画作家たち・創作の秘密 (1971年)

田山 力哉 / ダヴィッド社



 だから、私は、『私刑警察』のすぐ後にジャン・リュック・ゴダール監督と撮った『ヌーヴェルヴァーグ』の制作が、そういった意味で必然であったことを、あらためて再確認したように思っているのです。

【『ヌーヴェルヴァーグ』ですごいと思うのは、ゴダールのような左翼とドロンのような右翼とが、互いに衝突しあうこともなく、一緒に仕事をすることができたということです。
(フィリップ・ガレル 談)】
【『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン1 30年前から、ゴダール!』 フィルム・アート社、1991年】

カイエ・デュ・シネマ・ジャポン (1)

カイエデュシネマジャポン編集委員会フィルムアート社



 そして、そう確かにこの作品でのアラン・ドロンの青い瞳は、第二次世界大戦ナチス・ドイツ占領下において、命を賭けてファシズムと闘ったレジスタンス運動の闘士と同じように燃えるように輝いています。
 そう考えると、わたしはこの『私刑警察』のラウール・クタールのカメラワークに身震いしてしまうのです。なんて素晴らしいのでしょうか!

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by Tom5k | 2014-04-29 16:02 | 私刑警察(4) | Trackback(1) | Comments(0)

『私刑警察』③~「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映像、ラウール・クタールのカメラ~

 「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品においては、手持ちカメラを使った撮影、照明ではなく自然光での屋外でのロケーション撮影などの映像創作における技術・スタイルなどが、現在でさえ特筆すべきものとして紹介されることがあります。
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品を撮り続けたその代表的カメラマン、ラウール・クタールは、写真機用フィルム(英国製のイルフォード・フィルム)を繋ぎ合わせて使用したり、写真用現像液を使って感光乳剤の感度を倍増させるなどの工夫に努め、当時の映像技術の革命とまでいわれる成果を上げました。

【アンリ・ドカエやラウール・クタールといったヌーヴェル・ヴァーグの映像を想像していく冒険心にあふれたキャメラマンは照明や色温度や高感度フィルムについての研究を徹底的にやっていた。ルイ・マルによれば「ヌーヴェル・ヴァーグとはトライXの発明だ」ということになる。「トライXは夜間でも照明なしに撮れる高感度フィルム」であり、それを使ったのはヌーヴェル・ヴァーグが初めてではないが、「それを真に使いこなしたのが、ヌーヴェル・ヴァーグだった」のである。
ゴダールの『勝手にしやがれ』も、ゴダール自身が語っているように(「映画史Ⅰ」、奥村昭夫訳)、「映画の草創期におけるとおなじように、照明をつかわないで」「現実の光のなかで」撮ることをめざして「まだ写真用のフィルムとしてしか存在していない、感度の高いフィルム」、イルフォードHPSを使用したことはよく知られている。キャメラマンのラウール・クタールは、こうしたゴダールの注文に応じて、写真用のイルフォードHPSのフィルムをつないで映画用のロールをつくり、フィルム送りのためのパーフォレーションがなんとか合うカメフレックス・キャメラで撮影したとのことである。】
【引用『友よ映画よ わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田 宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)1992年】

 また、『勝手にしやがれ』では、ジャン・リュック・ゴダール監督が、カメラを持ったラウール・クタールの乗った移動車を押し、台本を練習しているジーン・セバーグを撮影したフィルムを完成した映画にそのまま使用したという逸話もあります。

【『勝手にしやがれ』は、俺にとって最初の映画的冒険だった。(-中略-)『勝手にしやがれ』は全篇隠しキャメラで撮影された。録音機もなし、なにもなしだ。俺たちはブールヴァール・デ・ジタリアンにいた。キャメラマンのラウール・クタールは小さな郵便車のなかに隠れて、小さな穴から撮影していた。すばらしかったね。これこそ、ほんとうのシネマ・ヴェリテだった。(ル・フィルム・フランセ誌1977年9月23日号(ジャン・ポール・ベルモンド))】
【引用『友よ映画よ わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』山田 宏一著、筑摩書房(ちくま文庫)1992年】

友よ映画よ―わがヌーヴェル・ヴァーグ誌 (ちくま文庫)(1992年)

山田 宏一 / 筑摩書房



 映画における作家主義の特徴に、写実主義、すなわちドキュメンタリズムやリアリズムなどの記録的手法の復権を主張するものが多かったことを忘れてはなりません。そして、そのような映像のカメラ・ワークを確立した初期の「ヌーヴェル・ヴァーグ」の撮影スタイル・技法・技術の貢献・確立者で最も大きく存在していたカメラマンが、アンリ・ドカエであり、そして、このラウール・クタールであったことは、現在では映画史的常識とまでいえるかもしれません。

 しかしながら、アンリ・ドカエにおいては、既に1960年代中に「ヌーヴェル・ヴァーグ」を早々と抜け出し、商業映画のカメラマンになることを厭わなくなっていきました。

【>ルイ・マル
(-略)『賭博師ボブ』の冒頭のピガール界隈の夜の名残りの薄明の風景を絶妙なモノクロのトーンでとらえたアンリ・ドカのキャメラには、みんな驚嘆し、自分たちが映画をつくるときにはぜひアンリ・ドカのキャメラでやろうと話し合ったことをよく覚えています。
結局、わたしが最初に映画を撮ることになり、『死刑台のエレベーター』のキャメラマンにはアンリ・ドカを使ったのです。
そう、『賭博師ボブ』のあのすばらしい映像に魅せられて、アンリ・ドカに撮影をたのんだのです。そのあと、ヌーヴェル・ヴァーグの最初の作品のキャメラはほとんどアンリ・ドカがひきうけることになった。(-中略-)
その後、彼はフランス最高のキャメラマンになった。「あんたとはもういっしょに仕事ができないね。高すぎて!」などとわたしたちは冗談半分に言ったものですが、本当に最高額のキャメラマンになってしまった。ジャン=ピエール・メルヴィルもその後、大監督になり、アラン・ドロン主演の『サムライ』とか『仁義』といった大作にはアンリ・ドカを使ったけれども、ヌーヴェル・ヴァーグの低予算映画では使いきれなくなってしまった。(-中略-)たしかに大キャメラマンになったのですが、しかし何かが失われてしまったような気もします。『死刑台のエレベーター』のころの彼はすばらしかった。どんなことでもやってみようという実験精神を持っていた。】
【引用「わがフランス映画誌」山田宏一著、平凡社、1990年】

わがフランス映画誌(1990年)

山田 宏一 / 平凡社



 アンリ・ドカエとは異なり、ラウール・クタールは、こういった流れとは無縁であり、1980年代に入っても相変わらずジャン・リュック・ゴダール監督の作品を撮り続けていました。
 『勝手にしやがれ』、『小さな兵隊』(1960年)、『女は女である』(1961年)、『女と男のいる舗道』(1962年)、『カラビニエ』、『軽蔑』(1963年)、『立派な詐欺師』『はなればなれに』、『恋人のいる時間』(1964年)、『アルファヴィル』、『気狂いピエロ』(1965年)、『彼女について私が知っている二、三の事柄』、『メイド・イン・USA』(1966年)、『中国女』、『ウイークエンド』(1967年)、『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981年)、『パッション』(1982年)、『カルメンという名の女』(1983年)、まさに、ゴダール=クタールとまでいえましょう。

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 もちろん、カイエ派の同志フランソワ・トリュフォー監督の作品でも、『ピアニストを撃て』(1960年)から始まり、『アントワーヌとコレット/二十歳の恋』『突然炎のごとく』(1962年)、『柔らかい肌』(1964年)、『黒衣の花嫁』(1968年)、
【koukinobaabaさんが運営するわたしのお気に入りブログ『Audio-Visual Trivia フランソワ・トリュフォー Francois Truffaut』の記事を参照しましょう。】
【そして、盟友オカピーさんの『プロフェッサー・オカピーの部屋[別館] テーマ「トリュフォー」のブログ記事』は、こちらです。】
などで活躍し、

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友人としてのゴダールからの紹介で撮ったジャック・ドゥミ監督の『ローラ』(1960年)、
【シュエットさんの『寄り道カフェ』のブログ記事「ローラ」

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ジャン・ルーシュとエドガール・モランが共同監督したシネマ・ヴェリテ派の代表作品『ある夏の記録』(1960年)、

「ヌーヴェル・ヴァーグ」のプロデューサーとして有名だったラウール・レヴィが監督し、脚本を執筆した『二人の殺し屋』『ザ・スパイ』(1965年)、及び製作、出演した『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1966年)、

彼女について私が知っている二、三の事柄

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社会派作品で有名なコスタ・ガヴラス監督の『Z』(1969年)、『告白』(1970年)、
【シュエットさんの『寄り道カフェ』のブログ記事「Z」

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等々、一貫して商業映画と一線を画すような革新的な意図を持った作品に携わっていたカメラマンだったのです。

 なかでも、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と謳われ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派にも絶賛されていた大島渚監督の『マックス、モン・アムール』(1986年)で、彼が撮影を担当したときには、そのカメラマンとしての生き方の一貫した節操に、本当に驚かされました。

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 「ヌーヴェル・ヴァーグ」に縁が深くとも、商業映画の傾向の作品制作に抵抗のない映画人たち・・・カメラマンのアンリ・ドカエ、そして、俳優ではジャン・クロード・ブリアリ、モーリス・ロネ、ジャン・ポール・ベルモンド、ジャンヌ・モロー、監督やプロデューサーではジャン・ピエール・メルヴィル、ラウール・レヴィなど・・・に限っては、アラン・ドロンの関わっている作品との接点が実際にあったわけです。そして、その柔軟性のある革新者たちに対して、ファンであるわたしとしては、安心感を憶えていたものでした。

 話は逸れますが、アラン・ドロンは、映画で演ずるアンチ・ヒーロー的ヒーローであることと同様に、実際の映画人としても映画業界のアウトローとして孤独に耐えていかなければならいことも多かったと察します。
 もしそうならば、そのことは、わたしのようなファンにとっては、たいへん辛いことです。

【(-略)アラン・ドロンの場合、彼がどうしてもフランスの俳優でなくちゃならないものをもっているわけではない。むしろ世界一般の現代青年たるべき条件をもっているから、成功したともいえる。(-中略-)彼はいきなり、国際スターにはなったが、フランスのスターとしては、弱体であったわけだ。】
【引用 「男優界の2大対決 ギャバン対ドロン」秦早穂子(月刊スクリーン 1963年 11月号より)】

【>アラン・ドロン
(-略)イライラしたジャーナリストがこんな事を言ったこともある:「フランス映画界にドロンは存在しない」私はフランス映画界に自分の居場所があると思っていたのにね。】
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/1 「回想するアラン・ドロン:その1(インタヴュー和訳)」
【>アラン・ドロン
(-略)・・・私はヌーベルバーグの監督たちとは撮らなかった唯一の役者だよ、私は所謂「パパの映画 cinéma de papa※」の役者だからね。ヴィスコンティとクレマンなら断れないからねえ!ゴダールと撮るのには1990年まで待たなくてはならなかったんだ。(略-)】 
※cinéma de papaとは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」カイエ派のフランソワ・トリュフォーが付けた古いフランス映画への侮蔑的な呼称のこと。
【引用(参考) takagiさんのブログ「Virginie Ledoyen et le cinema francais」の記事 2007/6/21 「回想するアラン・ドロン:その7(インタヴュー和訳)」

 そういう意味で逆説的に考えると、彼の心強い助っ人としての存在は、実はその対極に位置する「ヌーヴェル・ヴァーグ」と関係の深かった者たちのなかに存在しているのかもしれないなどと、確かにわたしは思ってはいました・・・が、

まさか、それにしても、この『私刑警察』の撮影で、あのラウール・クタールがアラン・ドロンと映画を撮るななんて、いくら何でも、そんなことあるわけないだろう!!!???
・・・それまでも(今でも)、ずっとそう思っていたというより、そんなことすら考えも着かなかったといった方が正確かもしれません。
 ですから、この刑事アクションを主体とした「フレンチ・フィルム・ノワール」作品としての『私刑警察』(1988年)で、思いもかけず実現してしまったラウール・クタールの撮影担当、それは奇跡ではなかったかと今でも考え込んでしまうのです。

 ルキノ・ヴィスコンティ時代やジョセフ・ロージー時代など、映画史的レベルでも質の高いアラン・ドロン主演の作品と比較してしまえば、この『私刑警察』(1988年)が、そこまで達している作品とは到底思えず、「フレンチ・フィルム・ノワール」作品としても、ジャン・ピエール・メルヴィル時代とは比較にならない作品であることは否めないというのが、わたしの正直な本音でした。

 60代も半ばとなった彼は、何故、何故、何故に・・・この企画を引き受けたのでしょうか?????
 実を言うと、わたしは、以前からその答えを察することができず、そして今、現在においてもそれを考え続けていました。


 そして今、「カイエ・デュ・シネマ」誌を率いていたアンドレ・バザンが、ワン・ショット、ワン・シークエンスを基本に据えたアンチ・モンタージュ理論をもってハリウッドの娯楽作品を否定し、カイエ派の青年批評家たちに絶賛されていたロベルト・ロッセリーニ監督においても同様にアメリカ映画を嫌悪していたこと、などを想起してしまったのです。
 それにも関わらず、カイエ派の青年批評家たちが、ハリウッドで娯楽作品を撮り続けていたハワード・ホークス監督やアルフレッド・ヒッチコック監督に心酔し、1940年代の「フィルム・ノワール」を絶賛していたことも有名な映画史実です。
 ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手しやがれ』で、ジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公ミシェルが、くわえ煙草で「ボギー・・・」と、ハンフリー・ボガードのポスターに呟いたショットも思い浮かんできます。

 最近、わたしはようやく、そこに彼が『私刑警察』の撮影を引き受けた答えがあるように思えてきたのです。

 もしかしたら、ラウール・クタールは、かつて自分たちカイエ派の大師匠でもあるアンドレ・バザンやロベルト・ロッセリーニにすら迎合せず、心からハリウッドの娯楽作品に心酔していたことや、二流・三流といわれていたラオール・ウォルシュやテイ・ガーネット、ジャック・ターナーなどの娯楽作品の職人監督たちの映像技術を心底、敬愛していたかつての自分たちのことを想い起こしたのではないだろうかと・・・そして、そのとき、この『私刑警察』に、自らの青春を投影しようとしたのではないのだろうかと・・・。

 また、アラン・ドロンにおいても、ラウール・クタールの鍛え抜かれた含蓄の深い映像技術をもって、自ら演ずる警察本部長グランデルが、部下のペレ刑事の殉職から発端となった男の規範を全うして全力を挙げる犯罪捜査の姿から、カイエ派も絶賛していたジャック・ベッケル監督の『現金に手を出すな』(1954年)でのジャン・ギャバンが演じたギャング団のボス、マックスの弟分リトンの死に対する男の哀愁やダンディズムへの回帰を試みようとしたのではないのかと・・・。

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 わたしは、そんな想いに至ったのです。

 そう考えると、アラン・ドロンが、この『私刑警察』をジャン・ギャバンに捧げる作品としたことも・・・わたし自身が、この作品に惹かれ続けていたことも含めて、ようやく自分なりに理解できたような気がしてきたのです。

 そして、これから先の時代に、再び、映画における新しい「新しい波(ヌーヴェル・ヴァーグ)」が発生することがあったとしたなら、もしかしたら、『私刑警察』が、未知の映画革新者たちにも強く愛される作品になるのではないかと・・・わたしはまた、あらぬ想いにとらわれ、ラウール・クタールのカメラで撮ったこのアラン・ドロン主演の「フレンチ・フィルム・ノワール」作品の素晴らしい魅力を発見し、深い感動を憶えてしまうです。


「ドロンを撮るということは一本の樹を撮るのと同じようなことだ。」
(ジャン・リュック・ゴダール)
「『ヌーヴェルヴァーグ』は私を驚愕させました。そして今、彼(ゴダール監督)は樹々を映画に撮っています。ドロンもまるで一本の樹のようです。」
(ミシェル・ピコリ)
【引用『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン 30年前から、ゴダール!』 カイエデュシネマジャポン編集委員会、フィルムアート社、1991年】

カイエ・デュ・シネマ・ジャポン (1)30年前から、ゴダール!(1991年)

カイエデュシネマジャポン編集委員会 / フィルムアート社


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by Tom5k | 2010-05-02 02:17 | 私刑警察(4) | Trackback(6) | Comments(11)

『私刑警察』②~ペール・ラシェーズの無名戦士たち~

 わたしは『私刑警察』の舞台にペール・ラシェーズ墓地が設定されていることがとても印象に残っています。

 極左のテロリストだったスタドラーが、ペール・ラシェーズ墓地で正義警察に捕らえられるシークエンスでは、レジスタンスの革命詩人ポール・エリュアールの墓に行く想定で尾行を付けられていますが、実際に捕らえられた場所は19世紀の詩人で当時のモンマルトルの市長であったジャン・バティスト・クレマン(J・B・Clement)の墓石の前でした。

 クレマンの生きた時代のフランスは、ナポレオン3世による「フランス第二帝政」の時代でした。
 エトワール広場の凱旋門、郊外地区の合併による12区から20区への増加、ヴァンドーム広場などから放射状にのびる現在のパリは、この時代の都市近代化計画事業「オスマニザシオン」による遺産です。

 1870年7月に勃発した普仏戦争の結果、フランス軍はセダンでプロイセンの軍門にくだり、ナポレオン3世は捕虜となります。このセダンの降伏により第二帝政が廃止され、「仮国防政府」が成立します。それに抗して、パリの愛国的市民により「パリ20区共和主義中央委員会」が設置されました。

 1871年1月、ドイツ帝国軍に首都パリを包囲されてフランスは敗戦します。「仮国防政府」すなわち国民議会はドイツと講和し、パリ国民軍に武装の解除を命じたのですが、国民軍・労働者・市民は「パリ20区共和主義中央委員会」を中心に自治政府であるパリ・コミューンを設置しました。彼らは国民議会からの独立を宣言し、社会主義政策を実施し始めます。
 このパリ・コミューンは種々様々な革命派の寄り合い所帯だったために内部での対立も激しく、ヴェルサイユを本拠地とする国民議会に有利な展開を作ってしまいました。
 そして、ドイツと国民議会の連合軍がパリ包囲網を形成、パリ・コミューンと激しい市街戦を繰り広げていくことになるのです。

 ペール・ラシェーズ墓地はその攻防の終局までコミューン兵士が死守した最後の砦でしたが、ドイツと国民議会の連合軍は墓地の正門扉を撃破し、147名のコミューン兵士と市民が墓地の敷地内で全員銃殺され、とうとうその5月、パリ・コミューンは連合軍によって鎮圧されてしまいます。
 その兵士たちの処刑の現場である壁面は「連盟兵の壁」と呼ばれ、今でも文化財として大切に保存されています。

 そしてジャン・バティスト・クレマンの墓は、この「連盟兵の壁」の真正面の丘にあるそうなのです。彼もこの自治政府のメンバーで、パリ市民とともにバリケードを作って闘った人だったからです。

 映画でもテロリストだったスタドラーの死体の発見場所が、「無名戦士の墓前」となっていましたが、これはパリ・コミューン戦士の記念碑「連盟兵の壁」のことだと思われます。

【毎年5月27日、「連盟兵の壁」として知られているペール・ラシェーズ墓地の弾痕の残る石塀には、世界各国の労働者と労働者党の代表が、花輪を捧げに訪れる。花輪はナチスの軍隊の野蕃な占領時代にも、たえることはなかった。】
(引用 『パリ・コミューン』桂 圭男著、岩波書店(岩波新書)、1971年)

パリ・コミューン (1971年)
桂 圭男 / / 岩波書店




 映画で正義警察が言っていた彼の詩『さくらんぼの実る頃(Le Temps des cerises)』は、ジャン・バティスト・クレマンが1866年に作り、1968年に発表されたものです。
 それ以降、この『さくらんぼの実る頃』は、コミューンを壊滅させて打ち立てた国民議会、後の第三共和政の政府に不満を持つ市民たちによって、コミューン崩壊への批判を訴える意味から歌われ続けていった歌でもありました。
 5月のさくらんぼの実る頃、失恋した悲しみの内容をパリ・コミューン弾圧の悲しみに比喩した内容なのだそうです。

 フランスでは第二次大戦前からイブ・モンタンやジュリエット・グレコなどの有名シャンソン歌手によって歌われ、日本でもポピュラーなものとなりました。
 最近ではスタジオジブリのアニメーション映画『紅の豚』で、加藤登紀子が声を担当したホテル・アドリアーノの経営者、クラブ歌手マダム・ジーナが歌っていました。
 また、この作品の冒頭では、主人公ポルコ・ロッソの住んでいた浜辺で、彼が映画雑誌を日差しよけにしてまどろんでいるシーンでも、男性歌手のバージョンでラジオから流れています。
(下記、「良い映画を褒める会」の用心棒さんのコメント 「Commented by 用心棒 at 2007-01-20 23:59」参照)
 
紅の豚
/ ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント





さくらんぼの実る頃
加藤登紀子 / / ソニーミュージックエンタテインメント




 パリ・コミューン崩壊の前日、5月26日にクレマンはパリ20区フォンテーヌ・オ・ロワ通りのバリケードで、野戦病院の救急看護士ルイーズと出会います。彼女は手にさくらんぼの入った籠を携えていました。彼女はコミューンの兵士や市民の役に立ちたいと願って、このバリケードを訪れてきたそうなのです。兵士たちは危険な場所なので帰るように諭しましたが、彼女は頑なにそれを拒んで自ら負傷兵の手当てをしていったそうです。しかし残念なことに、最後には彼女もその攻防での犠牲者となってしまったのでした。
 そして、詩人であったクレマンは、この美しい同志ルイーズの姿を『さくらんぼの実る頃』の第4フレーズに書き加え、それを彼女に捧げたのでした。


J'aimerai toujours le temps des cerises
私はいつまでもさくらんぼの季節を愛するでしょう

C'est de ce temps-là que je garde au cœur
それはあのときから心にいつまでも持ち続けているのです

Une plaie ouverte
ひらいた傷口

Et Dame Fortune en m'étant offerte
そしてわたしに運命を与えた女神

Ne pourra jamais fermer ma douleur
私の痛みは癒せないでしょう

J'aimerai toujours le temps des cerises
私はいつまでもさくらんぼの季節を愛するでしょう

Et le souvenir que je garde au cœur.
そしてその記憶をわたしは心にいつまでも持ち続けるのです


A la vaillannte cityenne Louise, l'ambulanciere de la rue Fontaine-au-Roi le dimanche 28 mai 1871.
勇敢なる市民ルイーズ、フォンテーヌ・オ・ロワ通りの救急看護士
1871年5月28日 日曜日
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by Tom5k | 2007-01-20 16:56 | 私刑警察(4) | Trackback(2) | Comments(4)

『私刑警察』①~守るべき自由~

わたしの学習ノートに 教室のわたしの机や樹々に 砂のうえ 雪のうえに
わたしは書く きみの名を

読んだすべての白いページのうえに 石や血や紙 また灰のうえにも
わたしは書く きみの名を

金色の画像に 戦士たちの武器に 王たちの冠のうえに
わたしは書く きみの名を

ジャングルや砂漠のうえに 鳥の巣やエニシダのうえに わたしの幼い日々のこだまのうえに
わたしは書く きみの名を

夜ごとの不思議に 日々の白いパンに 婚約した季節季節のうえに
わたしは書く きみの名を

すべてのわたしの空色のぼろきれに かびのはえた太陽を映す池のうえに 息づく月を映す湖のうえに
わたしは書く きみの名を

野のうえ 地平線に 鳥たちの翼のうえに 影たちの粉ひき小屋のうえに
わたしは書く きみの名を

暁の一息ごとに 海のうえに 錯乱した山のうえに
わたしは書く きみの名を

雲の泡に 嵐の汗に 味気なく降りしきる雨のうえに
わたしは書く きみの名を

ものの形のきらめくそのうえに 色とりどりの鐘のうえに 物理学の真理のうえに
わたしは書く きみの名を

めざめた小径のうえに 拡がる街道のうえに あふれ出す広場のうえに
わたしは書く きみの名を

ともるランプに 消えるランプに 寄り集まるわたしの家々に
わたしは書く きみの名を

ふたつに切り分けた果実 鏡とそしてわたしの部屋に 空っぽの貝殻 わたしのベッドのうえに
わたしは書く きみの名を

食いしん坊で優しいわたしの犬に ぴんと立ったその耳に ぶきっちょなその足に
わたしは書く きみの名を

踏切台のように弾むわたしの扉に 慣れ親しんだ数々のものに 祝福された焔の流れに
わたしは書く きみの名を

許し与えられた全身に わたしの友人たちの額に さしのべられた手のおのおのに
わたしは書く きみの名を

驚いて見る窓のガラスに 待ち受ける唇のうえに 沈黙をはるか下に見おろして
わたしは書く きみの名を

破壊されたわたしの隠れ家に 崩れおちたわたしの灯台に わたしの退屈という壁のうえにも
わたしは書く きみの名を

欲望を失った不正のうえ むきだしの孤独のうえ そして死の行進に
わたしは書く きみの名を

もどって来た健康に 消え去った危険に 思い出のない希望に
わたしは書く きみの名を

そしてただひとつのことばの力を借りて わたしは人生をもう一度始める
わたしは生まれたのだ
きみを知るために
きみを名づけるために

自由と


ポール・エリュアール『自由 Liberte 』(1942年)
(宇佐美斉 編・訳1994年 小沢書店刊「エリュアール詩集」より)


 『私刑警察』では、正義警察と呼ばれる警察内部の極右組織が共産主義者・自由主義者たちを標的にして、テロ行為を繰り返していきます。ファシズム期のゲシュタポを思い起こさせる緊張感がうまく表現されていて、過去すでにアラン・ドロンとジョセフ・ロージーによって、ファシズムの本質的な恐怖が描かれていた名作『パリの灯は遠く』があったことを思い出しました。
 この『私刑警察』ではペール・ラシェーズ墓地が舞台のひとつに選ばれています。これは印象に残る舞台設定であり、作品の主題が明確になる要素であったように思います。

 フランスの革命詩人ポール・エリュアールの『自由』は、彼が第二次世界大戦時下においてレジスタンス運動中に発表した詩です。
 この詩は彼の最愛の妻ヌーシュに捧げられ、詩中の「きみ」は彼女のことだと言われていますが、レジスタンスの闘士であったエリュアールは解放されていない多くの市民たち、共に闘う同志たちに希望と勇気の源泉を与えるために、自身の妻に対する愛情を「自由」という言葉に置き換えたのだそうです。

 自由と平和を取り戻すために闘う多くの市民や抵抗運動の同志とともに、詩の創作によってナチスの圧制に対峙し、生き抜いていったポール・エリュアール。

 彼は1952年に56歳で命を燃やしつくし、ペール・ラシェーズ墓地(Cimetieredu Pere Lachaise)にて埋葬されました。

自由―愛と平和を謳う
Claude Goiran こやま 峰子 ポール エリュアール クロード ゴワラン / 朔北社
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by Tom5k | 2005-03-06 19:35 | 私刑警察(4) | Trackback(1) | Comments(0)